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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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カップルの心中

が,時代はまだまだ多くの同性愛者を死に追いやっていました。それは西洋だけのことでも,男性同性愛だけのことでもありません。たとえば日本においても,1873年(明治六年)〜1926年(大正十五年)の記録に残る限り,女性同士のカップルが28組も心中しています。互いが恋愛関係にあったとはっきりしているのは28組のみですが,はっきりしないケースも含めれば,実に121組・242名もの女性たちが,女性ふたりで手に手をとって心中しているのです。

牧村朝子 (2016). 同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル 星海社 pp.83
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生まれつきと考えるかどうか

けれども,こうして「同性愛者は生まれつき体の一部が違う」っていうことにしてしまうと,「じゃあそこを手術して治せばいいじゃん?」という話になってしまうんですよね。「それならば犯罪者扱いをやめましょう」じゃなくて。シュタイナッハのきんたま移植手術に始まり,後世には,同性愛者とされた人を無理矢理去勢したり,脳を手術して廃人状態に追いやったりと,「同性愛治療」と称した恐ろしい手術が続いていってしまうことになりました。
 このような事態は,同性愛者を「生まれつき他とは違う種類の人々」と考えることの危険性として,すでにケルトベニが指摘していたことです。けれども,「人間はみんな異性愛者として生まれつく」という前提にある限り,同性愛が「やめさせるべき犯罪行為」とか「正常な状態にあれば異性を愛せるはずの人間の逸脱行為」だと言われてしまうことは避けがたいことでした。

牧村朝子 (2016). 同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル 星海社 pp.65-66

homosexual

1868年5月6日,ケルトベニはウルリヒスに宛てて手紙を書きます。ウルリヒスが「ウルニング」だなんてちょっとカッコよすぎる名前で同性愛者を呼んでいたのに対し,ケルトベニはもうちょっとシンプルな言葉づかいをしてみせました。ギリシャ語で「同じ」を意味する「ホモ(Homo)」と,ラテン語で「性」を意味する「セクスス(Sexus)」を組み合わせ,「Homosexual(同性愛者)」という言葉をつくり出したのです。さすが,語学に長けた言葉のプロのやることです。同じ要領で,ケルトベニは「Heterosexual(異性愛者)」という言葉もつくりだしてみせました。
 続いてケルトベニは,この「同性愛者」という言葉を使い,1869年に刑法143条反対を表明する文書を発表しました。匿名での発表でしたが,その中には,自殺した友達を想い「刑法143条は恐喝や自殺を誘発する」と書くことを忘れませんでした。これが,文献に残っている限りでは,人類史上はじめて「Homosexual(同性愛者)」という言葉が公式に使われた瞬間です。

牧村朝子 (2016). 同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル 星海社 pp.45-46

利己性と合理性

しかしながら人間のバイアスは,もっと深いところを見れば,機能面で関連した非常に重要な動機の影響を反映したものなのだ。さらに,人々が単純な意味での「利己的」な選択ができないのは,もっと深いところにある合理性の強い影響を受けているからだ。どうやら私たちが行う選択の多くは,すぐ目の前にある個人的な報酬を最大化するのではなく,長期的に見た遺伝的な成功を最大化しようとしているようなのだ。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 245

生活史理論

生物学の理論家たちは生活史理論と呼ばれる有力な概念を発展させてきたが,人間の動機の発達について考えるとき,この概念は大きな意味をもつ。そしてまた,この生活史という考え方によって,マズローのピラミッドの最下層に発達上の優先事項が置かれた理由ばかりでなく,なぜ私たちがピラミッドの頂点を入れ替えたのかも説明できる。
 生活史を研究している人たちは,以下のような問いに答えようとしている。繁殖が可能な身体に成長するまでに必要な時間が,生物によって長かったり短かったりするのはなぜか(たとえば,マダガスカルの小型哺乳類であるテンレックの仲間は生まれて5週間で繁殖をはじめるが,ゾウは性的に成熟するまでに十数年かかる)。そうして成熟した動物は,サケのように繁殖のための資源を奔流のごとく1度限りですべて使い果たすのか,それともカメのように,数ヶ月,数年のあいだに何回かに分けて繁殖の試みを行うのか?その動物は子育てに資源を振り分けるのか?振り分けるとしたら,子が自立するまでに養育にどのくらい投資をするのか(たとえば,魚のなかには卵を川床に放出した時点で家族としてのつながりが失われるものもあるが,人間の場合は数十年にわたって子供を援助するだけでなく,しばしば孫の養育を助けることさえある)。
 生活史とは,本質的に「生物学的経済」に関する理論であり,あらゆる動物は有限の資源しか割り当てられていないという前提が中心に据えられている。だから,動物の成長過程には,その希少な資源をいつ,どのように割り振るかについて常にトレードオフ[一方を優先すれば他方が犠牲になる問題]が存在することになる。
 また,生活史は大きく2つの局面に分けられる。ひとつは身体的努力に着目したものだ。身体的努力とは,動物が自らの肉体をつくるために消費するエネルギーに関することだ(経済学的な言い方をすれば,この局面は,身体という銀行口座に入金をする時期にあたる)。もうひとつは繁殖努力だが,人間をはじめとするいくつかの種では,さらに交配と子育てに分けられる(これは,先ほどの口座の金を個体の遺伝子複製のために使う時期だ)。これら2つの局面には,それぞれ異なるトレードオフが存在する。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 155-157

近親者と友人

進化論者は,血のつながりのある近親者と血のつながりのない友人とを,理論の上でしっかりと区別している。近親者たちは同じ遺伝子を高い比率で共有しているので,近親者の繁殖の成功に繋がる行動はすべて,間接的に自分自身の適応度を高めることになる。進化生物学者は,これを包括適応度という専門用語で説明している——簡単に言えば,個体が自分の遺伝子を残すことに成功する度合いのことだ。要するに,私が息子の繁殖成功に対して貢献をすれば,それは自分自身のためにもなるわけだ。この包括適応度という考え方によって,ヨーロッパ旅行中,どうして私が元妻(息子の母親ではない)に比べて,息子のティーンエイジャー特有の不満に対してずっと寛容だったかを説明できるだろう。
 一方,友人同士の助け合いは,一般的には互恵的利他行動という言葉で説明される。これは相手が自分のために何かしてくれる限り続く助け合いのことだ。互恵的利他行動は大きな効力をもつルールである——集団のメンバーに1人では不可能なことを成し遂げさせ,状況が厳しいときには,それがあるかないかで生死が分かれることもある。だが,これには包括適応度とは少しばかり違った計算方法が適用される。包括適応度の考え方によれば,私が息子に何かを与えるたびに,自分自身の遺伝子にも何かを与えていることになり,しかも,このつながりは常に存在する。でも,血のつながりのない友人のリッチの場合,これは当てはまらない。だからもし彼と私が,不運なヨーロッパ旅行のときのように,相互の関係から利益が得られなくなってしまうと,結びつきが脅かされることもある。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 133-134

信用と欲情

心理学者のリサ・デブラインは,この問題に違った手法でアプローチしている。彼女はコンピュータのモーフィング・ソフトを使って,見知らぬ人の顔を親族らしく変えてみた(見知らぬ異性の顔と,被験者自身の顔をブレンドしたのだ)。すると被験者たちは,人工的に親族関係を思い起こさせる顔に対して,「信用に値するが,欲情には値しない」と判断した。つまり顔を自分と似せると,信頼できる相手だと思う可能性は高まるが,ゆきずりの性的関係をもつ相手としては見なくなるのである。
 ある水準で考えれば,私たちは近親者にことのほか惹かれてもいいはずだ。なぜなら近親者は,自分とよく似ていたり,自分がよく知っていたりというような,好ましい仲間としての基準の多くを満たしているからだ。だとしたら,なぜ私たちは近親者とのセックスを考えただけで胸くそが悪くなるのか?遺伝的に見れば,その行為は自分のクローンを作ることに限りなく近い。ちょっと考えただけだと,クローニングに近いということは,遺伝子の利益にかなっているように思える。親と子のあいだの遺伝子の重複が最大化するからだ。でも,あまりに同じすぎると失われるものもある。有性生殖の主な利点のひとつは,遺伝子を別の遺伝子とシャッフルできることだ。これをやるからこそ,すごい速度で進化し続けるウイルスやバクテリアなどの寄生者を出し抜ける。だが一親等の血縁者との交配は,シャッフルが不十分なのに加えて,ブリーダーが「近交弱勢」と呼ぶ結果までもたらしてしまう(近交弱勢とは,有害な遺伝病の原因となる劣性遺伝子が結びつく機会が増えることを意味する生物学用語だ)。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 131-132

細分化された心

食物嫌悪の研究には,機能的な面でもうひとつ意外な発見があった——吐き気の条件づけは,どんなきっかけでも起こるというわけではない。どんな関連づけを学習するかは,その動物がもつ固有の進化史に左右されるのだ。たとえば,ネズミは視力が弱く,夜に餌をさがすときには味覚や嗅覚に頼っている。だから変な味の食物にはすぐに嫌悪を生じさせても,見た目がおかしな食物には嫌悪を発達させない。また別の研究チームは,うずらの学習パターンがまったく違うことを実証している。この鳥は,食物を味ではなく,鋭敏な視覚を頼りにさがす。よってウズラの嫌悪は,新しい食物の味よりも色に関連づけられやすい。つまり動物は,1つか2つの領域一般生の規則で働く脳をもっているのではなく,細分化された心をもっているのだ。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 123

心はぬりえ帳

私はこれまで,空白の石版のかわりに,心をぬりえ帳として考えてみてはどうかと提案してきた。ジュークボックスと同様,ぬりえ帳もインタラクティブなもので,内部にある構造(キリンやシマウマやロケットを区別するべく前もって引かれている輪郭線)と,外部からの入力(クレヨンで巧みに色を塗り分ける若きアーティスト)との相互作用で色が塗られる。しかも,この喩えには他にもちょっとした利点がある。まず第1に,ぬりえ帳のほうが柔軟性が残る余地があるし,予測していなかった結果も出やすい——キリンを塗るのに黄色と茶色ではなく,紫色と緑色を選ぶ子供もいるかもしれないのだ。またこれに加えて,(矛盾しているようだが)柔軟性を残しておける一方で,制約を増やすこともできる。ぬりえ帳にあらかじめ引かれた輪郭線は,外部に対して,ジュークボックスのボタン以上に強力に,特定の入力を要求するからだ(キリンに色を塗る子どもの多くは紫色,青色,緑色ではなく,黄色,茶色,黄褐色をさがすよう促される)。要するに,ぬりえ帳の塗り方は無限だが,実際には各ページごとに輪郭線によって特定の色を使うように強く促されるため,完全に受動とは言えないのだ。
 ぬりえ帳の喩えは,実際の人間の脳をありのまま表現しようとするものではないが,空白の石版というイメージに対する,わかりやすい対比にはなっているはずだ。この対比で,空白の石版というお馴染みの強力な喩えを概念的に拡張して,心と文化の相互作用をもっと鮮明に視覚化できるだろう。実のところ,この喩えは空白の石版に立脚するものだが,心が外部からの入力によって満たされる巨大な空白ばかりでなく,あらかじめ書き込まれた輪郭線ももっていることを想起させるのである。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 109-110

身長と成功

身長と職業上の成功の度合いや地位の高さの間に強い関連があることは,多くのデータによって裏づけられている。背の高い人は,平均して高い給料を受け取っているし,地位の高い職業に就いている人を調べると,長身の人が占める割合が大きい(これは,ある職に就くために必要な学歴や身体的能力の影響を考慮に入れても言えることだ)。CEOや管理職は,背の低い人より高い人のほうが多く,アメリカの歴代大統領も,ほとんどがアメリカ人男性の平均より長身だ(第四代大統領のジェームズ・マディソンは,身長163センチと小柄だったが)。いくつかの研究によれば,身長の高い人ほど,主観的な幸福感が強いという相関関係があることもわかっている。
 背の高い人が成功しやすい理由は,いろいろ考えられる。たとえば,思春期の子どもの間では長身の子が人気者になるので,そういう人は対人関係をうまくやっていく技能が身につきやすく,自己評価も高まり,人生を有利に運べるようになると考える研究者もいる。しかし,高さが力を連想させることも理由の1つだ。その連想がはたらくため,ほかの条件がおおむね同じなら,背の高い人ほど力があるとみなされ,多くの権力と権威を手にする。そして,背の高い人が高い給料と地位を得る結果,高さが力を連想させる関係がますます強まる。

タルマ・ローベル 池村千秋(訳) (2015). 赤を身につけるとなぜもてるのか? 文藝春秋 pp.159

好みの年齢

この考えを検証するには,年齢についての好みを違う角度から見る必要があった。それまでの研究は,恋人募集の広告を出した人たちを年齢を問わず一緒くたに扱って,男女の平均年齢の違いを報告しただけのものだった。そこでキーフと私は広告を年齢別に分類し,その結果,男は少し年下の女を,女は少し年上の男を求めるというだけではない,もっと複雑なパターンを明らかにした。驚くべきことに,そのパターンは,男女のそうした行動について社会科学が行っていた標準的な説明とは,根本的に違うものだった。
 女性の好みの年齢については問題がなかった。女性は,いくらか年上の男性を求め,その一般的な傾向は生涯を通じて変わらない。これは研究者たちがそれまで説明してきたとおりだ。この傾向は,意外なことに,対象となる年上の男性が少ない60代の女性でも変わらなかった。
 でも男性の好みは年齢によって劇的に変化していた。たとえば,とくに若い男性たちは,優位に立つために自分より若い女性を求めると社会的には考えられていたが,実際にはそれに反して,幅広い年齢層の女性に興味を抱いていた。標準的な25歳の男性は,年下の20歳と年上の30歳の女性の両方に関心をもっていた。その後の研究で,10代の少年の多くは,自分よりも少しだけ年上——大学生くらいの年齢——の女性に惹かれていることがわかった(同時に彼らは,自分が相手にされないだろうとも考えていた)。しかし年をとるにつれ,好みのパートナーは自分よりも5歳から15歳年下の女性へと移る。55歳ともなると,若い女性に対する欲望はさらに極端になる。この1980年代末の分析では,エルヴィス・プレスリーを聞いて育った世代の男性たちが,U2のライブに向かう少女たちに色目を使っている一方で,同じロカビリー世代の女性たちは,フランク・シナトラ世代から求婚されることを望んでいた。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 97-98

偏見の意義

このような偏見にはかつては実用的な意義があった。よそ者は地元の住民に比べて,自分が免疫をもっていない病気を運んでくる可能性が高かったので,見知らぬ人を避けるようにすれば,最新版の天然痘,ペスト,あるいは豚インフルエンザも避けやすいからだ。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を読んだ人は,ヨーロッパ人の持ってきた銃よりも,ヨーロッパ人の運んできた病気によって殺されたネイティブ・アメリカンのほうが多いことを知っているだろう。もちろん,進化の末に身についた傾向には常に長所と短所がある。たとえば,私たちの祖先は他の集団と物品を交換し,地元の外に目を向けることで配偶者を見つけることも多かったので,完全な孤立は,危険を避けるばかりでなく機会も失うことになる。そこでマークたちは,病気を忌避するメカニズムは柔軟なものだったはずだと考えた。
 一見して病気にかかっているとわかる人や,疫病が流行っているという知らせは,見知らぬ人を避ける理由としては十分なものだろう。それと同様に,各個人の病気に対する脆弱性もまた,見知らぬ人を避ける理由になるのではないか?そうでなければ,外国人恐怖症は割にあわないとマークたちは考えた。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 79-80

外集団均質化

リーネル・ジーターは,外集団均質化と呼ばれる,よく知られた心理バイアスの犠牲になったのだ。この心理バイアスは,長年の研究によって明らかになったもので,私たちの大多数は他集団のメンバーの識別よりも,自分が所属する集団のメンバーの識別にずっと長けていることを示す。外集団均質化の根底には,私たちの身に染みついている認知バイアスの多くがそうであるように,機能的な論理(実際的な理由)が存在している。例を挙げれば,一般的に私たちは自集団のメンバーの識別に関してより豊富な経験をもっているし,日常生活で付き合いのある人たちを識別するほうが重要だ。また,他集団のメンバーと付き合うときは,個人レベルよりも集団レベルでの交流が多くなる(アムステルダムのサッカーチームがフィレンツェからナポリに電車で移動するのであれば,各人の区別はできなくとも,イタリア人とオランダ人を区別できれば事足りるだろう)。たとえて言うなら,鳥類学者でもない限り,アメリカコガラとカナダコガラ,そしてシロガオエボシコガラの違いなどわかるはずもないし,たとえ誰かが鳥の名前を教えてくれたとしても,どちらもただのさえずっている鳥にしか見えないのと同じだ。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 70-71

地位・市場・投資

男性の地位と交配市場における男性の価値とのつながりは,進化生物学がもっている非常に強力な2つの原理,すなわち親の差別的投資と性淘汰に関係がある。親の差別的投資という原理によると,一方の性(通常はメス)のほうが子供に対する投資が多ければ,その性は交配に慎重になる。その結果として,もう一方の性(通常はオス)は,相手に選ばれるために競争をしなければならない。この原理が指摘しているとおりのことが人間でも見られる。つまり,女性は妊娠という大きな投資をするので,配偶者をせっかちに判断してしまうと多くを失う。だから,女性は配偶者である男性を選ぶのにより慎重になりがちなのだ。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 54

殺人妄想

アリゾナ州の学生がとくに暴力的ということでは?たぶんそれはない。デヴィッド・バスとジョッシュ・ダントリーがのちにテキサス大学で学生のサンプルを調べたところ,同じくらい多数の男性(79パーセント)と女性(58パーセント)が殺人妄想を抱いたことがあると認めていた。こうした数字は一見高そうだが,おそらく実際はその反対で,普通の人が殺人妄想を抱いている比率を過小に示していると思う。社会心理学者たちは,人々が発言をするときは,自分が最も社会的に望ましいと思っていることを言おうとするのを何度も確認してきた。また人々が,自分が文句なしのよい子ではないという証拠を選択的に忘れがちだということも示している。自慰に関するキンゼイの有名なレポートでもそうだったが,殺人妄想が実際に行われている比率は,人々が公式に認める水準よりもっと高いと想定しても構わないはずだ。
 私たちの多くが人を殺したいと思っているのはわかったが,ではいったい誰を殺したいと妄想しているのだろうか?男女ともに,殺したい相手は男が多い。事実,男性の殺人妄想の85パーセント,女性の65パーセントは男を殺すものだった。とはいえ,この部分はそんなに驚くものではない。実際の殺人統計を見ても,男性のほうがずっと殺人の被害者になりやすいからだ。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 48

生物次元への還元の危険性

ヒトラー出現以降の世界に住むわれわれは,人間の価値や反社会的行動の原因を生物学の次元へ還元してしまうことの危険をよく知っており,事実そのような警句は繰り返し発せられてきた。ここでもう一度整理しておくと,その危険とは,IQの遺伝子や,犯罪傾向の遺伝因子や,反社会的あるいは暴力的な遺伝子などという,生物学のレベルとは対応関係のない,その意味でありもしない遺伝因子を想定したり,人間の社会的行動を説明づけしようとする生物学概念へ人間解釈を還元してしまったりすることである。それは,人間解釈の浅薄さ以外の何ものでもなく,このような言説に対しては感度を鋭くして,ていねいに批判しつづけていかなくてはならない。
 同時にわれわれは,飛躍的に研究が進むであろう脳神経系の生物学の研究成果を常時モニターし,ここから引き出されてくる脳神経系の疾患のしくみを正確に理解するようにすべきである。科学的にも倫理的にも妥当と思われる治療や予防の手段については,これを受け入れていくだけの洞察力と理解力をあわせもたなければならない。しかし,それ以前に,正確な医学的意味が理解されないまま,また科学的意味が未解明のまま,遺伝子診断がサービス産業として拡大していくことの非合理と無責任さは,何より科学および医学の立場からもっと問題視されてよいだろう。
 ただし,医学史研究・医療人類学などが明らかにしているように,何を「疾患」や「障害」とみなすのか,また「疾患」や「障害」にいかに対応すべきなのかについては,文化や価値観,あるいは「疾患」や「障害」をもつ当事者であるか否かなど,さまざまな要因が関わってくる。科学や医学の研究成果を正確に理解するとともに,その成果が人間社会に発信される場面でいかに意味づけられ機能するかという面も,監視しなくてはならない。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 269-270

直視したくない難題に直面する

このなかで彼らはこう主張している。過去に起こったことと未来に起こるであろうことは決定的に違う。ある集団の遺伝的改善を構想すれば,必ず個人とは別の権威が存在し強制力が伴うことになる。しかし個々人の生殖の自決権として考えれば,事態はまったく違ってくる。親は,それぞれの宗教的信念や職業や習慣に従って,教育を介して,子供を自身の理想に合致させてきた。また,これまでアメリカ社会では,美容外科や心理分析やスポーツ医学の専門家がさまざまに肉体に手を加えてきた。ならば,なぜ親が自身の理想像に従って子どもの遺伝的質を求めることをしてはならないのか。個人的な優生学的追求を非難する倫理原則は見当たらないようにみえる……。
 優生学の悪を強制的であるか否かで区分するのは,歴史的にも意味がない。むしろここでは,アメリカ流の個人主義や自由主義が技術使用の場で貫徹されれば,必然的にこのような結論になってしまうという,単純な事実を認めるべきであろう。
 この点をはっきりさせるためには,欧州社会の対応をみるとよい。個人の自己決定権とプライバシー権を至上とするアメリカの人権概念と違って,ヨーロッパの人権概念は,個人の自己決定に重きをおきながらも,人権や人間の尊厳そのものを維持するため,それに一定の制限を加えてもいる。例えば,アメリカのいくつかの州では商業的な代理母が認められているが,フランスやドイツでは,公共の秩序や,生まれてくる子どもの幸福という観点から,商業的か否かにかかわらず代理母を禁止している。遺伝情報の扱いに直結する技術の使用についても,これを個人の自己決定にのみ委ねることには大きな抵抗があり,その使用を規制している。また,これらの理念を国際的に確認するため,ヨーロッパ規模で「人権と生物医学条約」を発効させている。この条約では,例えば,遺伝病の発症前の遺伝子診断は,保健もしくは保健研究の目的以外では行わない(第11条)として,技術の使用をあらかじめ限定している。
 しかし,これらの優生学の是非はなお,問題の核心を直視していないきらいがある。それは,かつて優生政策として断種の対象にされた大半が精神疾患の患者であったという事実である。精神疾患は子育てや通常の社会生活が不可能という「社会的・優生的」理由から精神病院の退院の条件として断種が行われる例が実際には多く,この場合,個々のケースが本当に遺伝性であるかどうかは重要ではなかったのである。今後ヒトゲノム研究が進めば,中枢神経系の分子生物学的な解明が進むことが確実で,われわれは早晩,いちばん直視したくない難題に直面することになる。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 265-267

キプロスの成功例

また,日本ではあまり知られていないが,出生前診断を予防手段として積極的に導入した例としてキプロスがある。
 この国では,βサラセミアというメンデル劣性の遺伝性貧血の遺伝子頻度がきわめて高く,人口70万人のうち17パーセントがこの病気の原因遺伝子をもっていると計算されていた。そこで,医学者が中心となってキプロス・サラセミア・プログラムが組織され,まず大規模な啓蒙教育が行われた。そのうえで1977年以降は出生前診断と中絶が推奨され,80年代に入ると,キプロス教会がヘテロの保因者(父母の片方だけから遺伝子を受け継いでいるため本人は発病しない)同士の結婚を思いとどまらせる目的で,結婚許可証の採用に踏み切った。理論的には毎年60人前後のホモの因子をもつ(父母双方から病気の遺伝子を受けついだために発病する)新生児が生まれてくる計算だったのが,これによって,88年以降は発生をゼロに抑えてきている。このキプロスの例は「遺伝病の発生予防の成功例」として,しばしばあげられてきている(詳細は,Ethics and human genetics; Council of Europe Press, 1994)。
 また,ほとんど同時期にアメリカでも,東欧系のアシュケナージ・ユダヤ人に多いテイ・ザックス病という遺伝病に対して,出生前診断と中絶によって劇的に発生を抑えこんだ例がある。
 今日からすれば,このような遺伝病対策は優生学的熱狂ともみえるが,当時の関係者はみな善良な人たちであり,これらのプロジェクトも,まったくの善意で行われてきたのである。
 このようにある社会において,遺伝病の病態,技術の水準,遺伝病に対する態度,宗教的伝統,経済水準などの要因が重なれば,ある時期には,集団スクリーニング,宗教指導者による結婚の誘導,選択的中絶などが,合理的な疾病対策として受け入れられることもありうるのである。言い替えれば,国の近代化過程のある段階では,一種の必然として,あるタイプの優生政策に急接近する時期があることを,善悪の判断とは別に心に留めておく必要がある。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 246-247

「中絶を失敗」という眼差し

しかし,選択的中絶が個別に行われた結果,出生前診断が可能な特定の病気や障害をもつ子どもの出生が激減する現象が,実際に起こっている。そのために,こうした病気や障害をもって生まれてきた子どもたちは,「中絶を失敗した子ども」,「中絶を怠ったために生まれた子ども」という否定的なまなざしにさらされるとともに,専門医の減少などによって社会的支援が受けにくくなる恐れがある。イギリスの二分脊椎症患者のケースがこれにあたる。また,生殖細胞系列の遺伝子操作を容認すれば,病気の治療にとどまらず,親にとって望ましい性質を増進するように遺伝子を操作する可能性も出てくる。このように,自己決定の結果の集積が優生学的効果をもたらしうることを,われわれは認識しておかなくてはならない。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 235

非難を避ける

「優生思想を正当化する法律の撤廃」は,障害者団体や女性団体が長年めざしてきたことであるが,一方,厚生省にとってみれば,80年代からの懸案であった優生保護法の優生条項の見直しがようやく片づいたことになる。また,医療側からみると,「優生」という名目が省かれたことで,形式的には選択的中絶が優生目的のものだとして非難される恐れが減り,胎児条項導入の途が開けてきたともいえる。こうして日本は96年になってようやく,選択的中絶の合法化について,形式的には他の先進諸国とおなじスタートラインに立ったといえよう。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 231

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