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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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優生保護法から母体保護法へ

1995年12月に,自民党社会部会は突如として優生条項を検討する勉強会をはじめ,その後半年ほどで優生保護法は母体保護法に改正された。このとき,女性運動が主張してきた中絶の自己決定や,産婦人科医たちが要望してきた胎児条項の導入などは,論争的で早期決着が見込めない問題群として棚上げにされ,条文からの優生条項の削除と改正案の通過が最優先とされた。衆議院への法案提出から参議院本会議可決までわずか5日間であり,改正案提出の仕掛人となった自民党社会部長自ら「スピード違反」を認めるほどの早業であった。
 スピード決着が優先されたため,強制的不妊手術をはじめとする優生保護法下での人権侵害や,反人権的な優生条項を放置してきた国の責任が,国会の場で問われることはなかった。つまり,優生政策の批判的総括を欠いたまま,優生的文言だけが忽然と姿を消したのである。なぜ,このようにあわただしい改正が行われたのだろうか。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 229
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「優生」のイメージ

戦後,遺伝性疾患の子供を含む障害児の出生を防ごうとする専門家たちが,もっとも懸念し,回避しようと努力してきたのが,ナチスやヒトラーの記憶と障害児の発生予防が結びつけられることであった。「青い芝の会」が出生前診断や胎児条項はナチスやヒトラーが行ってきたことと同根である,と批判してきたのに対して,そうした非人道的な所業とは違うのだと,彼らは繰り返し反論してきたのである。渡部氏のエッセイは,「青い芝の会」に批判されてきたような専門家たちにとっても,到底容認できるものではなかった。
 1972年以降の優生保護法改正問題は,「優生」という概念の差別性が認識される大きな契機となったが,当時の優生保護法問題に対するマスコミの関心のありかは主として経済条項削除の是非にあり,産む・産まないの自由をめぐる「女の問題」という側面がクローズアップされていた。しかし,80年の渡部発言問題は,「優生」を,人権侵害や差別一般の問題として読者に広く知らしめ,日本において優生学とナチスやヒトラーのイメージの結合を決定的なものにしたといえよう。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 224-225

「優生」という表現と概念

「最近みられる世界的な傾向の1つとして,人類遺伝学は人間を差別するものであるという思想の流行がある」,「この思想の流行の1つの根源は,かつてのナチスによる人類遺伝学の悪用にあるとされているが,ナチス自身が平等と同一を混同したところに悲劇の萌芽があったといえよう」と「人類遺伝学将来計画」は苦言を呈している。60年代末からアメリカやイギリスを中心に,当時相次いで発表されていたIQや性差,攻撃性に関する遺伝決定論に対する激しい批判運動が展開されていた。遺伝決定論は疑似科学としての過去の優生学ないしはナチスの非人道的行為の延長線上に位置づけられ,人類の遺伝学的理解全般に対する警戒感が高まるなかで,批判の矛先は遺伝医療や人類遺伝学にも及んだ。その頃からアメリカやイギリスの科学者や医者たちは,一般に流布した否定的なeugenicsとは違うものとして自分たちの仕事を語るべく,60年代までは気楽に使っていたeugenicsという表現を控えるようになっていった。「人類遺伝学将来計画」の作成に関わった人類遺伝学者たちは,こうした海外の動向を敏感に察知して「優生」という表現を避けたものと思われる。
 ただし彼らは「優生」という概念自体を否定していたわけではない。例えば人類遺伝学を衛生行政に反映するための方策として「優生・公害・人口に関する問題に対処する態勢」を挙げ,「優生問題はもとより」,公害・人口問題に遺伝学を反映すべく国および地方自治体の関係諮問委員会への人類遺伝学者の参加を提唱している。また,前述の人口問題審議会最終答申(1971年)で言及された「優生対策」に特にふれ,「人口資質の向上のための方策が提言されたことの意義はきわめて大きい」と評価している。優生保護法については「遺伝性疾患の予防に関するわが国唯一の法律」と形容されていた。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 203-204

「優秀素質者」

これにともない,戦後の「人口資質問題」も新たな段階を迎えた。人口資質向上の目的が経済成長に絞り込まれたのである。1960年12月に国民所得倍増計画を決定した池田内閣は,経済成長の推進力として人的能力の開発と人口資質向上を重視し,62年5月には「人づくり」政策を発表した。「国民の遺伝素質の向上」を唱えた厚生省人口問題審議会「人口資質向上対策に関する決議」(62年7月)はこの流れで出てきたものである。
 「人口資質向上対策に関する決議」では,経済成長の前提として技術革新に即応できる心身ともに「優秀な人間」が必要であり,「人口構成において,欠陥者の比率を減らし,優秀者の比率を増すように配慮することは,国民の総合的能力向上のための基本的要請である」とした。「対策」として「幼少人口の健全育成」など8項目が列挙されているが,その1つに「国民の遺伝素質の向上」も含まれていた。それによると「長期計画として劣悪素質が子孫に伝わるのを排除し,優秀素質が民族中に繁栄する方途を講じなければならない」として,遺伝相談の全国的整備や「優秀素質者」の育英制度の活用を求めた。これはまさに優生政策の提案といえる。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 191

優生学と「逆淘汰」

一般に優生学では,「劣悪者」が人口に占める比率が増加し,「優秀者」の比率が減少すると人口の質が低下して「民族の変質」を招くと考えられてきた。この現象は「逆淘汰」と呼ばれ,文明化にともないあらゆる民族が経験する本質的問題として深刻に受けとめられていた。生活にゆとりのある「優良健全」な階層における子どもの産み控え,「劣悪者」の高出生率と医療・福祉の発達による死亡率低下,戦争によって壮健な青年の多くが命を落とす結果「優良健全」な者の子孫が減ることなどが,「逆淘汰」の原因とみなされた。
 当時の厚生省が重視したのは,「優良健全」な階層の出生率の向上と「劣悪者」の出生防止であり,戦争の「優生学的弊害」には目をつぶっていた。「民族優生とは何か」では,具体的な優生政策として以下の5項目の「民族優生方策」が挙げられている。

一,民族優生思想の啓発——優生思想の啓発,優生政策の実践指導の継続により,国民のすみずみにまで民族優生を徹底する。
二,民族優生に関する調査研究——遺伝家系図や双子の記録などの収集をはじめとする,国家的研究調査機関の充実。
三,民族毒予防——梅毒,アルコール,麻薬などの「民族毒」による子孫への悪影響の防止。
四,民族優生的多産奨励——健全者の多産奨励。
五,遺伝健康方策——「悪質遺伝質」の根絶(隔離,優生結婚,妊娠中絶,去勢,断種)。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 177-178

優生保護法と断種

公式統計によれば,優生保護法が施行されていた約半世紀の間に,手続き上本人の同意を必要としない強制的な不妊手術(第四条,第十二条適用)は,約1万6500件実施された。この種の手術は,80年代にも140件報告されている。また,形式的には当事者の同意に基づいていても,施設に収容されていたハンセン病患者に象徴されるように,事実上強いられた状況下で不妊手術や中絶が行われていたケースもある。さらに,優生保護法とその関連法では卵管や精管の結紮・切断しか認めていなかったにもかかわらず,月経中の介護負担の軽減を名目に,女性障害者に対して子宮摘出手術が行われてきたことも,忘れてはならない。
 ちなみにスウェーデンでは,断種法のもとで1934年から75年までに,本人の同意に基づくものや医学的理由によるものも含めて,合計で約6万3000件の不妊手術が実施されたという。スウェーデン政府の不妊手術問題調査委員会は1999年1月の中間報告(最終報告は2000年3月)で,「医学的理由」として届けられていても実質的には優生学的理由で手術されたケースや,任意といえども施設を出る際の条件とされるなど半ば強制的に実施されたケースが存在していたことを指摘し,任意か強制かにかかわらず,すべての被害者を補償の対象とみなすよう提言した。この中間報告を受けて,スウェーデンでは99年7月から補償が始まった。日本では,優生保護法のもとで,総計約84万5000件(1949-96年)の不妊手術が公式統計上報告されている。中絶の件数と任意あるいは強制による不妊手術の件数は,いずれも1950年代半ばから60年頃までがピークであった。この数字の意味を日本の戦後史の中で検証する本格的作業は,まだ行われていない。
 優生保護法が優生政策を背景とする「断種法」であったことは明白である。そして,この法律を根拠に不妊手術や中絶手術を強いられた人々が確かに存在する。つまり,少なくともこの事実において,日本の戦後世代はすでにある種の優生政策を経験してきているのである。現在の遺伝子技術・生殖技術に向き合うとき,われわれはまずこのことを念頭に置く必要があろう。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 171-172

自民族の変質という意識

優生学は,まず基本認識として自民族が変質(退化,dégénérescence)していると考える。その先駆けとなったのはフランスの医学者ベネディクト・モレルの『人の種の肉体的,知的,道徳的変質論』(1857年)だった。彼はこの書物の中で,キリスト教の創造説を信奉しつつ,毒物や栄養不良,気候・土壌などが原因で代を追うごとに人は退化し創造の頂点からすべりおちると警鐘を鳴らしたのである。このモレルの論は,その後大きな影響力を持った。19世紀末から20世紀初めにかけて,すべての病理的発現が,遺伝性のものだろうとそうでなかろうと,世代から世代へ伝わる「変質」の兆候とされた。そこには,小頭症やくる病などの身体的障害,知的障害,アルコール依存症やてんかんなどの精神医学的症状に加えて,甲状腺腫やさらには結核,性病,マラリアなどの感染症まで入れられた。結核や梅毒と,知的発達障害・脊髄異常・犯罪の増加などが結びつけて考えられた。また精神医学者のV.マニャンは変質概念をダーウィン進化論と結びつけ,それを生存競争における敗北とみなした。こうしてフランスの医師は個人の診断と集団の分析を混同していったとキャロルは断じる。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 150-151

選択的中絶と優生学

出生前診断にもとづく選択的中絶は優生学ではない,なぜなら,それはかつての優生学と違って,個人の自己決定にもとづくものであり,強制ではないからだ,という主張がある。しかし,出生前に淘汰を完了するというプレッツの夢は,妊娠女性の自己決定による出生前診断と選択的中絶を通じて,結果的に十分,達成されうるものなのである。今世紀初頭の優生学者たちからしてすでに,啓蒙や教育を通じて「低価値者」とされた人びとがその自己決定によって結婚や子づくりを断念するよう積極的に働きかけたし,またスウェーデンのケースのように,本人同意(自己決定)の原則は,優生政策の射程を広げる(狭める,ではない)方向で機能した。さらに今日,イギリスでは,すべての妊婦に対して各種の出生前診断について情報を与え,希望者には無料(公費負担)で検査を実施することになっているが,それは圧倒的に多くの場合,選択的中絶に結びつくことで,障害者のケアにかかる福祉コストを削減するという行政側の意図を,見事なまでに実現する結果となっている(坂井律子『ルポタージュ出生前診断』)。
 確かに,出生前診断は現在,ドイツや北欧諸国ばかりでなく,日本を含め多くの国々ですでに実施されており,また,こうした診断技術を切実に望む人々がいることも事実だ。しかし,「自己決定だから優生学ではない」の一言によって,人びとが出生前診断と選択的中絶に対して同時に抱く戸惑いや逡巡,あるいは疑問や批判といったものを,杞憂として一蹴することは,それ自体,歴史的に見れば何の根拠も,裏付けもない主張であり,また,この一世紀あまりの優生学の歴史を手前勝手に歪曲するものでしかない。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 139-140

スウェーデンの不妊手術合法化

スウェーデンでは1915年に婚姻法が改正され,知的障害者,精神病患者,そしててんかん患者の婚姻が禁止された。しかし,20年代に入って,議論はさらに断種法の制定へと拡大する。国会での約10年にわたる議論を経た後,スウェーデンの断種法(正式名「特定の精神病患者,精神薄弱者,その他の精神的無能力者の不妊化に関する法律」)は,「国家の家」(folkhem)を標語に,福祉国家の確立を訴えたハンソン社民党政権下で,1934年5月に制定された。
 この法律によって,精神病患者,知的障害者に対する不妊手術が合法化された。その第一条は「精神疾患,精神薄弱,その他の精神機能の障害によって,子どもを養育する能力がない場合,もしくはその遺伝的資質によって精神疾患ないし精神薄弱が次世代に伝達されると判断される場合,その者に対し不妊手術を実施できる」と定めている。その際,重要なのは,手術は,保健局の審査ないし医師の鑑定にもとづいてなされ,本人の同意は不要とされたことである。その理由は,この法律がそもそも不妊手術の対象としている人びとは,その障害ゆえに自己決定能力を期待できないとされたことにある。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 118-119

ナチスの優生政策

1933年の断種法は始まりにすぎず,ナチス政府は優生政策の射程を次々と広げていった。
 同年11月には「常習犯罪者取締法」が可決される。ここでターゲットにされたのは,いわゆる「精神病質者」(Psychopath)だった。この「疾患」を遺伝病として断種法に組み込むことは,当時としてもさすがにはばかられ,不妊手術の対象にはならなかった。一方,当時のドイツ刑法第51条は,犯罪者とされた者が心神喪失にある場合,例えば「精神病質者」と認定された場合には,その免責を規定していた。当時の少なからぬ精神科医や司法関係者は「精神病質者」を野放しにするなと政府に迫った。常習犯罪者取締法は,刑法第51条で免責される者を各施設で拘禁し,性犯罪者については去勢手術も認めるというものだったが,この法律によって拘禁された人びとに対しては,出所と引き換えに不妊手術を実施するケースもあった。
 1935年6月には「遺伝病子孫予防法」が改正される。ワイマール期に社民党の一部,急進派フェミニスト,そしてドイツ共産党(1918年に[独立]社民党より分岐)は,経済的理由を含めた妊娠中絶の合法化を強く求めたが,この時期には,妊婦の健康と生命が危ぶまれる場合の中絶が「緊急避難権」として認められるようになっただけだった。35年の「遺伝病子孫予防法」改正を通じて,ナチス政府は,こうした母体保護の中絶と同時に,さらに優生学的理由による中絶を合法化し,33年の断種法で列挙された疾患のいずれかに該当する女性が妊娠している場合,その中絶を認めるようにした。その際の条件は,本人の同意を得ること,妊娠6ヵ月以内であること,妊娠女性の生命および健康を危険にさらす場合には禁止,の3つである。しかし,その実施に関する政令は,断種法と同様,本人に同意能力がない場合,「法定代理人もしくは保護者」の代理同意でよいとしていたため,必ずしも本人の同意が必要とされたわけではなかった。実施件数は約3万件と推定されている。
 1935年10月には「婚姻健康法」(正式名「ドイツ民族の遺伝的健康を守るための法律」)が制定される。この法律によって,結核や疾病,断種法に規定された「遺伝病」,あるいは精神障害などをもつ人々の婚姻が禁止され,また,婚姻に際しては,これらの病気や障害のないことを証明する「婚姻適性証明書」を前述の保健局からもらうことが,すべての者に義務化された。しかし,保健局はすでに手一杯の業務を抱え込んでいたため,すべてのカップルに検診のうえ証明証を発行することなど不可能だった。検診は当初「疑わしい」場合にのみ限定されたが,それも第二次大戦勃発後は実施されなくなった。
 その一方で,健康なドイツ人については,婚姻や出産に際する特別の貸付金制度や,多産の女性を讃える「母親十字勲章」制度を創設しながら,「産めよ,殖やせよ」の政策が推し進められ,避妊や中絶は以前よりもいっそう厳しく取り締まられるようになった。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 95-96

優生学と戦争反対

今日,少なからぬ人が,優生学は,戦争に向けた富国強兵政策の1つであると考え,またその視座から優生学を批判する。そういう事実がまったくなかったわけではないが,しかし,この見方は今世紀の優生学のかなりの部分を逆に見えなくさせる。前述のシャルマイヤーをはじめ,多くの優生学者たちは,戦争を「逆淘汰」(生物学的に「優秀」な者が減り,「劣等」な者が逆に増えること)の1つとして真っ向から批判したのである。
 プレッツは,優生政策を実現するうえで,ヒトラーに大きな期待をよせ,ナチスに接近していったが,同時に,戦争回避と平和の維持をもヒトラーに懇願していたのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 75-76

優生学の説得力

優生学が医学的にも説得力をもつようになった1つの歴史的道筋は,おおよそ次のようなものだ。まず,細菌学の発達によって多くの伝染病が克服可能なものとなる。外科手術の進歩,新薬の開発なども,さまざまな病気の克服に大きく貢献した。さらに社会環境の整備を通じて,罹病率や死亡率を引き下げる努力がなされた。しかし,それでもいくつかの病や障害は克服できないものとして残った。少なくとも今世紀初頭において,「遺伝」という概念は,厳密な科学的概念としてよりも,克服できないこれらの病や障害を説明する1つのマジック・ワードとして多分に機能した。肺結核の発症を遺伝に結びつける,グロートヤーンの先のような主張が,特効薬のペニシリンによって肺結核が十分治療可能なものとなる30年代以降,影をひそめるようになるという事実は,かつて遺伝概念が担っていたそうした機能をよく物語っている。
 そして,優生学の課題は,遺伝として説明された不治の病や障害をもつ人々がその生命を再生産する回路を,何らかの方法で遮断することによって,彼らの病や障害そのものを将来,社会から根絶することに,求められたのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 61-62

ナチスとアメリカ

ナチスはアメリカの断種法や絶対移民制限法を,自らの政治主張の正しさを世界も認め採用した具体例として,さかんに喧伝した。ナチスの人種制作に確信犯的に賛同する人間もいた。1935年にベルリンで開かれた国際人口学会議は,当然ナチス色の強いものとなったが,アメリカ代表C.G.キャンベルは「人口学の生物学的状況」という講演でこう述べた。「ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーが,内務大臣フリック博士の協力,ドイツの人類学者,優生学者,社会哲学者らの支援の下,人種の歴史の時代を画する人口増大と改良という包括的人種政策の構築ができたのも,ドイツ人全員の研究の総合とみてよい。もし,人種の質や民族的達成や生存への展望の面で落伍したくないのなら他の国家や民族が追随すべき,手本をもたらした」。当然,ナチスはこの発言を引用した。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 44

2つの優生学

理論上,優生学には,よい遺伝形質を積極的に増やそうとする積極的優生学と,悪い遺伝形質を抑えようとする消極的優生学がありうる。しかし,よい遺伝形質を増やすための手段を考えてみても,人間の場合は難しいため,現実に行われたほとんどは消極的優生学であり,その代表例が断種法の制定であった。断種は男性では輸精管,女性では輸卵管を,縛ったり切除する手術を行って生殖を阻止する方法である。アメリカにおける断種手術は,1897年の,シカゴの聖マリー病院の外科医A.J.オクスナーによる報告が,公式には最初のものである。
 1902年,インディアナ州の少年院付き外科医H.C.シャープは,メンデルの法則を知らないまま,1890年の国勢調査の数字からアメリカで犯罪者や精神障害者が急増している事実を引きだして,これをたいへん憂慮した。そしてその解決策として,断種の効用を説いた。彼は収容されている犯罪者42人に断種を行ったが,これが実質上の優生学的断種の出発点とみてよい。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 34

絶対移民制限法

1921年には,1910年国勢調査の人口構成比の3パーセント以下に移民を抑える移民法が成立していたが,ローリン報告はその成立後であった。そこで彼は,その基準年を,イタリアやポーランド移民が急増する以前の,まだノルディック系やチュートン系白人が優勢であった1890年国勢調査に戻すよう,議員を説得してまわった。このロビー活動は両院で成功し,クーリッジ大統領もこれにサインした。こうしてローリンは,断種法と移民制限法の双方の優生政策に,多大な影響を残したのである。
 このような事情で成立した1924年の絶対移民制限法によって,以後のアメリカへの移民は1890年国勢調査の出身国の人口構成比の2パーセント以内に制限されることになった。この国勢調査は定義上のフロンティア消滅が確認された(1平方マイルあたり人口1人以下の土地はなくなった)ことで有名だが,絶対移民制限法によって東欧・南欧からの移民は,事実上不可能になった。これよりはるか以前に中国移民は禁止されており,日本からの移民も,日本側が送りださないということで政治的決着がついていた。この移民制限法は,アメリカは建国以来,WASP(白人,アングロサクソン,清教徒)が築き上げてきた国であり,これ以外の移民は拒否すると言っているのと同じであった。1965年の移民国籍法に変わるまで,アメリカの移民政策には,人種差別的な性格がつきまとい続けたのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 43-44

優生学への誤解

ところで,優生学に対する最大の誤解は,優生学は,極右の学問であるというものである。歴史の現実はこれとは逆で,本書でもしばしばふれるように,この時代,多くの社会主義者や自由主義者が,優生学は社会改革に合理的基盤を与えてくれるものと期待した。イギリスでは,フェビアン協会のウェッブ夫妻や,H.G.ウェルズ,青年時代のラスキ,経済学者J.ケインズなどがいた。新生ソ連にとって科学主義的な優生学は親和性のあるものであり,20年代には強力な優生運動があった。メンデル主義的な優生学は支配階級に奉仕し,帝国主義的拡大を正当化するブルジョワ科学であるとする,よく知られたかたちの批判が現れるのは,20年代末になってのことである。
 1920年秋,モスクワに,生物学者,医師などの専門家からなるモスクワ優生学会が,翌21年,ペトログラードにロシア科学アカデミー優生学局が設けられた。これらの組織の研究者たちは,アンケート調査による家系データの収集,疾病の遺伝の研究,優生学の啓蒙などに従事した。その中心はメンデル派の優生学者たちであったが,これに対して,25年にはラマルク主義的な優生学の提唱者たちから非難の声があがった。彼らは,獲得形質の遺伝を否定するメンデル主義的優生学がマルクス主義と相容れないとし,ラマルク主義の立場から環境改善による人類の遺伝的改良を主張したのである。その後スターリン主義の発動によって,30年にはロシア優生学会は解散させられ,メンデル主義的優生学を推進していた有力学者の一部は,ブルジョワ専門家とみなされ教職を解任された。こうしてメンデル主義とほぼ同一視されていた「優生学」という言葉はソ連では完全に失墜し,さらに30年代末以降ルイセンコ理論の席巻によりメンデル主義遺伝学は大打撃を受けた。30年代のソ連とドイツでは,まったく正反対の遺伝理論が,強力な政治的圧力の下で浸透していったのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 29-30

初等教育の義務化から

19世紀後半は,精神病・精神障害者の問題が,社会的に急に重みを増しはじめた時代であった。そのきっかけの1つは,初等教育の義務化であった。1870年,イギリスでは教育法が成立し,大量の極貧層の子供たちが初等教育を受けることになった。ところが多くの子供たちが授業についていけず,肉体的・精神的な欠陥があることが問題となった。1885年に王立障害者学級委員会が設置され,ここが5万人の小学生を対象に教師から報告を集めたところ,9186人の精神・神経系の障害児がいることがわかった。これによって特殊学級の設置が勧告され,貧困家庭の子供には無償の補習授業と住宅費補助が支払われることになった。98年からはイギリス各地で特殊学級が開始され,翌年には特殊学級法が成立した。
 19世紀のロンドンは,おびただしい数の極貧層をかかえており,別の人種とみえるほど肉体的にも精神的にも衰弱した集団を形成しているようにみえた。世紀末になると,これらの極貧層の一部の人びとは,精神障害(当時の表現では精神薄弱)という医学的な課題として把握しなおされることになった。1904年に,「王立精神遅滞保護抑制委員会」が設置され,1908年には報告書がまとめられた。この委員会がまず行ったのは,精神障害の区分と定義であり,そのうえでイギリスの精神障害者の全体像を把握することであった。そこで浮かび上がってきたのが,精神障害の女性の出産・育児の問題である。この時代,精神障害は遺伝によると漠然と考えられており,しかも一般の女性より多産であると信じられていた。このことは非摘出子と精神障害の子供が増えることを暗示しているとされ,社会に倫理的危機をもたらす恐れすらあるとされた。調査を行ったA.F.トレドゴルドは,一般の女性は平均4人子供をもつのに,「劣悪家族の女性は平均7.3人の子供をつくる」と結論づけた。この論法こそ典型的な優生学的主張である。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 26-27

ピアソンの怒り

ピアソンは,ゴルトンの死後(1911年死去),優生教育協会が彼を賞賛しながら,その統計学的な研究方法を無視して優生学の内容を変質させたことに怒りを隠さなかった。1914年2月,優生教育協会がゴルトンの名を冠して行っていた定期講演会,ゴルトン・レクチャーで,フランシス・ダーウィン(ダーウィンのもう一人の息子で植物学者)は,「ゴルトンは,現代的なメンデル学説からみると中世の錬金術士のように映る。今日の進歩的な遺伝研究は,絶対にメンデル学説に立脚しなくてはならない」と述べた。ゴルトンの名を掲げたレクチャーで,その本人を標榜する優生教育協会の関係者の言動は,ピアソンにとって理解不可能なことであった。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 25

人体測定学

この時代の実証主義は,人類学の一領域として,人体測定学(anthropometry)と呼ばれる新しい型の研究をうながした。
 19世紀後半は,ヨーロッパの研究者が自国植民地のさまざまな人種の身体を次々と測定してまわった時代であった。広義の人類学は,国民国家成立による徴兵制実施に伴う身体検査,植民地再分配後の「原住民調査」,義務教育の実施に伴う学校保健など,歴史的要求に応えるかたちでデータを収集し,これを整備することで近代科学としての体裁を急速に整えていった。
 そのなかで一群の人類学者が注目したのは,毛髪,皮膚の色,気性とならんで頭蓋容量(脳の大きさ)と,ほぼこれを併行関係にある顔面角であった。『種の起源』の出版以前にもすでに,顔面角を比較して,黒人は白人よりオランウータンに近いと論じる人類学者がいたが,ダーウィン以降になると,顔面角の立ち上がりが進化の基準であるとする考えが当然のものと受けとられ,それぞれの人種の知能発達の程度を示す科学的根拠とみなされるようになった。それは「新しい骨相学」とも呼ばれた。そしてこのような頭蓋容量に着目して人種間の優劣を「科学的に実証」しようという態度は,後のナチスの思考様式のなかに流れ込んでいく。ナチス親衛隊長官ヒムラーは,膨大なユダヤ人の頭蓋を集めさせ,是が非でもその劣等性を確認しようとしたのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 21-22

単純化された因果論的解釈の偏愛

こうして,遺伝単位による遺伝現象の理解という態度は,飛躍的に広がっていった。ただし人間の場合,血液のABO型の遺伝を除けば,はっきりメンデル型の遺伝をするのはごく一部の病気にかぎられていた。1902年にイギリスの医師A・ギャロッドは,アルカプトン尿症がメンデル劣性の遺伝形式に従う遺伝病であることを報告し,6年後に,生得的代謝異常は特定の酵素の欠陥によるのではないか,という一遺伝子一酵素説に近い考え方を提示した。
 しかし,純生物学的な遺伝理論の発展は,この新理論を例外的な病気だけに適用するのとはまったく逆の態度を鼓舞する時代的雰囲気のなかにあった。自然科学主義の底にあるのは,単純化された因果論的解釈の偏愛である。こうして世紀交代期には,すべての形質は生殖細胞に由来するはずだという,純「生殖質的」人間観が漠然と広がっていった。それは,生活環境の改善や教育の効果を否定する主張でもあった。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 20-21

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