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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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表情から情動へ

写真の撮影で,人を笑顔にさせたい場合に「チーズ」と言わせるのにならい,ミシガン大学の研究者は笑顔を作らせるときは被験者に「イー」と言ってもらい,嫌な顔をしてもらうときは「ユー」と言ってもらった。
 ワシントン大学の心理学者は,左右の眉頭にゴルフティーを取り付け,2つのグループにそれぞれちがう表情をしてもらった。片方のグループには,ゴルフティー同士が触れ合うように両眉を寄せて不機嫌顔を作らせた。もう片方のグループには,眉頭のゴルフティーをたがいに引き離すようにして,穏やかな表情を作らせたのである。
 同じ主旨の実験でおそらく一番有名なのが,首から下が麻痺した人に筆記を可能にする方法を開発するためという名目で,ドイツの研究者たちがおこなったものだろう。集められた被験者の半数は,鉛筆を横にして上下の歯のあいだでくわえるように頼まれ(表情は笑っているようになる),もう半数は鉛筆を上下の唇のあいだにはさむように頼まれた(表情は不満げになる)。
 「イー」と言い続けた被験者,眉頭のゴルフティーを左右に引き離すようにした被験者,上下の歯で鉛筆をくわえた被験者は,それまでより気分が明るくなった。さまざまな実験が繰り返し何度もレアードの実験結果を裏書きし,ジェームズの理論の正しさを証明した。人の行動はたしかに感情に影響する。言い換えれば,アズイフの法則が暗示しているとおり,行動しだいで思うがままに感情を生み出すことも可能なのだ。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2013). その科学があなたを変える 文藝春秋 pp.31
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ジェームズvs.ヴント

そしてジェームズとヴントは,実験のやり方もまったくちがっていた。ヴントはみずからが綿密に準備した実験を,大人数の学生を集めておこなった。そして実験に先立って,集めた学生たちを整列させ,列に沿って歩きながら1人1人にこれからおこなう実験の注意書きを手渡した。実験が終了するとまるで審判員か陪審員のように振る舞い,彼の理論を裏づけない結果を報告した学生は,落第の憂き目に遭いかねない雰囲気があった。かたやジェームズは自分の考えを押しつけるのを嫌い,学生たちに自由に考えることを奨励し,同僚の教授から「学生にまでいい顔をしたがる」と,非難されたこともあった。
 この2人の偉大な学者は,たがいに敵意を隠そうとしなかった。論文に詩的な表現を取り入れたジェームズは「心理学の論文を小説家のように書く」と評され,かたや彼の弟ヘンリーが「小説を心理学者のように書く」と評されることもあった。だがヴントは彼を認めようとせず,ジェームズの論文について「文章はきれいだが,あれは心理学ではない」と語っている。そしてジェームズのほうも,ヴントが論文を書くたびに自説を変える点を,こう嘆いている。「残念ながら,彼に負け戦はない……ミミズのようなもので,切っても切っても切れ端がそれぞれ動き出す……息の根を止めることはできないのだ」

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2013). その科学があなたを変える 文藝春秋 pp.17

微妙な二重性

ですから,大学教授間に成り立つのは,独立した主体相互の平等な関係で,両者に命令や指示,あるいは「お仕えする」関係は不可能ということになります。しかし,それでは現実の組織としての大学は成り立ちません。大学が組織として運営されるには,入試,カリキュラム設計,成績評価といった教育上の実務はもとより,研究プロジェクトの遂行,そして大学運営そのものにかかわる多くの実務や事業が不可欠ですし,それらの実施には一般企業と同じように責任者の下での指揮命令が不可欠です。そのため,大学教師は「教授」「准教授」といった独立の立場と共に,学部長や学科長,委員長,室長,室員等々といった組織運営上の職務を兼ねることになります。そして,これらの職務上の立場で大学教師がすることは,企業組織の実務と本質的な差はないのです。事業の成果はもちろん求められるし,効率性や利益も必要で,トップダウン式の意思決定が必須です。
 産業界の人々が見誤りがちなのは,大学のダイナミズムを支えるのがこの微妙な二重性にあることです。もしも,大学を後者の企業的な原理だけで動くものにしてしまったら,大学の根底をなす教授たちの創造性は失われ,そのような大学は徐々に活力を失っていきます。どうやっても,企業のようには大学は動かないのです。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.137-138

文系の知とは

価値の尺度が劇的に変化する現代,前提としていたはずの目的が,一瞬でひっくり返ってしまうことは珍しくありません。そうしたなかで,いかに新たな価値の軸をつくり出していくことができるか。あるいは新しい価値が生まれてきたとき,どう評価していくのか。それを考えるには,目的遂行的な知だけでは駄目です。価値の軸を多元的に捉える視座を持った知でないといけない。そしてこれが,主として文系の知なのだと思います。
 なぜならば,新しい価値の軸を生んでいくためには,現存の価値の軸,つまり皆が自明だと思っているものを疑い,反省し,批判を行い,違う価値の軸の可能性を見つける必要があるからです。経済成長や新成長戦略といった自明化している目的と価値を疑い,そういった自明性から飛び出す視点がなければ,新しい創造性は出てきません。ここには文系的な知が絶対に必要ですから,理系的な知は役に立ち,文系的なそれは役に立たないけれども価値があるという議論は間違っていると,私は思います。主に理系的な知は短く役に立つことが多く,文系的な知はむしろ長く役に立つことが多いのです。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.75

誰に「役に立つ」のか

ここで重要なのは,そもそも「役に立つ」とは,単に国家や産業界のためだけに「役に立つ」ことだとは限らないことです。国民国家や近代的企業よりもはるかに古い歴史を持つ大学は,国や産業に奉仕するために生まれた機関ではありません。その一方で,大学はその成立当初から自己目的的に,学問そのものを目的とする機関であったわけでもないのです。大学が,何かのために「役に立つ」ことは,この機関の成立の要件の1つでした。当初,それは神のために「役に立つ」(神学)ことや,人々の健康のために「役に立つ」(医学)ことであったでしょう。しかし,もう少し一般化すれば,大学は,人類や地球社会の普遍的な価値のために奉仕する知の制度として発達してきたのです。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.67

大学は国家に奉仕すべきか

この主張は,何重にも間違っています。なぜならまず,国の税金はそもそも国民に由来するもので,税金への義務ということならば,国民への説明責任になります。つまり,国立大学は,それぞれどのような方針に基づいて学生を選抜し,教育し,社会に送り出しているのかを国民に対して説明する責任を負っている——これが,そもそもの税金の拠出者である国民に対して国立大学が背負っている義務になります。どう考えても,「税金によって賄われているのだから,国家に奉仕すべきだ」という話にはなりません。
 しかも,ここでの問題はそれだけではありません。というのも,私が今,あえて「説明責任」という言葉を使ったように,国立大学は,国民からの税金によって賄われているとしても,国民の願望や要請の実現のために奉仕する組織ではないのです。たとえば,多くの日本国民が,日本人学者にノーベル賞を取ってほしいと願望している。だから国立大学が,1人でも多く日本人がノーベル賞が得られるようにその大学の研究体制を組み替えるとなったら,これは本末転倒も甚だしいことになります。大学にとって,たとえばノーベル賞は結果であって目的ではあり得ません。大学は,オリンピック選手養成機関のような組織とは根本的に異なるのです。様々な世界的な賞を得,名声を博するような人が大学から出てくるとしても,そうしたことを目的に大学があるのでは絶対にありません。
 同様のことは,私立大学にも当てはまります。私立大学にとって,学生からの授業収入は大学予算の重要な部分を占めますが,だからといって私立大学が授業料を払っている学生やその保護者の願望や要請だけを聞いて教育し,成績をつけていたら,その大学の教育研究はだんだん劣化していくでしょう。もちろん,いずれの場合でも学生や保護者への説明責任が大学にはあるのですが,説明責任を負うことと奉仕することは違います。
 つまり,大学は一般企業や商店とそこが根本的に異なるのであって,大学の目的,価値は国に従順な学生を育てることでも,学生を,その父母の期待をそのまま具現したような若者に仕立てあげることでもありません。大学は,保護者や国民に対して学生たちを立派に育てる義務を負っていますが,その「立派さ」の基準は,保護者や一般の国民が通念として考えているものと一致するとは限らないし,通念に従うべきものでもないのです。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.65-66

競争的資金の有利不利

このように法人化後,国立大学の基盤となる予算の重心が,運営交付金から競争的資金に移っていったことが,文系の弱体化と非常に関係があります。つまり,競争的資金の獲得には,文系よりも理系のほうが次の3つの面ではるかに適しているのです。
 第1は,一般に理系の研究は文系よりも期待される成果を見せやすく,しかも比較的短期間で結果を出しやすいことです。理系の研究の多くは,「こういう計画でこれだけの成果を挙げます。この期間でこのレベルの目標を達成します」ということを明確に提示することが可能です。他方,文系の研究ではそうした明確な目標や成果の提示が困難な場合が多く,成果よりも学問的意義の主張に終始してしまうことが少なくありません。第2に,理系の研究予算は,多くの場合,文系よりもずっと大規模です。同じ件数の研究予算でも,理系と文系では大学における「経済効果」に大きな差が生じます。第3に,概して理系はチームワーク,文系は個人作業であり,競争的資金の獲得のようにチームワークが要求される作業では,理系の人たちのほうが文系よりも優秀さを発揮します。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.45

一貫した文系軽視

日本の大学政策における文系軽視は,最近に始まったことではありません。むしろ戦後一貫して,日本政府は理工系振興に力を注いできましたから,遅くとも高度経済成長期までに,国立大学は理系中心の組織になっていました。そして今日,旧帝大と呼ばれる大規模国立大学の教員の約七割が理系であるのに対し,法学部,経済学部,文学部といった狭い意味での文系教員は約一割にすぎません。国立大学教員のほぼ四人に三人が理系で,国立大学の教育学・教員養成系を除いた文系の教員比率はたった10分の1程度にすぎないのです。つまり,「文系学部廃止」が云々されるずっと以前から,日本の国立大学では理系が圧倒的有意を占め,実質的に国立理工医科大学となっていたとも言えましょう。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.28

儲かる・儲からない

しかし第三に,より根本的な問題があります。遅くとも2004年の国立大学法人化の前後から進められてきた産業競争力重視の大学政策を背景に,「儲かる理系」と「儲からない文系」という構図が当たり前のように成立し,大学も経済成長に教育で貢献しなくてはいけないという前提を皆が受け入れてきた点です。文系学部で学んだことは就職に有利ではないしお金にならないから役に立たないのだという「常識」が形成され,それを皆はっきりとは言わないまでも潜在的に信じ込んでしまっている状況が,広く国民一般に成立してしまった。実はこれが最大の問題です。

吉見俊哉 (2016). 「文系学部廃止」の衝撃 集英社 pp.27

オキシトシン

オキシトシンは「愛情のホルモン」として知られている。このホルモンは,たとえば母親が幼児に授乳すると分泌される。また,オルガスムによっても分泌される。この化学物質は,脳内で分泌されてからわずか数分で分解されるが,深く,永続的な絆の感覚を生じさせる。ハグをするだけでも,微量のオキシトシンが分泌される。だが最新の科学によって,このハグ・ホルモンが,競争においても重要な役割を担っていることが明らかになり始めている。
 オキシトシンは,敵を見分けたり,視線から相手の意図を読み取ったりするのに役立つのだ。
 それまでオキシトシンは,他者を信頼しやすくなる効果があると考えられていた。だが,その効果を期待して,境界性パーソナリティ障害の患者にオキシトシンを与えたところ,意外にも逆の効果が観察された。オキシトシンは,患者をさらに疑い深くしていたのだ。オキシトシンは,授乳する母親と乳児の絆を強めるのに役立つ。しかし同時にこのホルモンによって,母親は子供を守る母親熊のようになる。母乳で子供を育てる母親は,哺乳瓶で乳児を育てる女性より,2倍も攻撃的であることがわかっている。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.266

特性・状況怒り

怒りについて話をするときは,”特性としての怒り”と”状況としての怒り”を区別しなければならない。前者は,絶えず怒りを感じているような傾向を指している。これは明らかに不健康な状態だと言える。だが状況的な怒りは,それとは大きく異なる。怒りの感情で問題に立ち向かう人は,人生満足度や幸福感などの尺度で測定する「心の知能指数」が高いことがわかっている。
 状況的な怒りは,起きるべきことと起きたことの間のギャップによって誘発される。これは,目的が誰かによって不当に妨害されたと感じるときに生じる怒りである。この怒りの成分には,不公平の感覚が含まれている。また,自分にはこの不公平を是正するために何かができるという感覚も,怒りを引き起こす重要な要因だ。不正を正すために状況を変えられるという見込みと,自分が行動すればそれは可能だという自信がなければ,怒りはブロックされる。それは怒りではなく,絶望につながるのである。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.244

ニアミスバイアス

「ニアミスバイアス」とは,幸運によって良い結果が得られた後に,さらにリスクをとろうとするようになる傾向をいう。当然ながら,運はどちらに転ぶかわからず,悪い結果を招くことも少なくない。にもかかわらず,ニアミスは過度の楽観主義を引き起こしてしまう。人々は,結果が幸運だったのではなく,自分たちが幸運なのだと見なすようになる。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.216

快楽と苦痛

科学者は長い間,人間行動の根源には,快楽を求めることと,苦痛を避けることがあると考えてきた。この2つはたいてい,どちらかがわずかに優位になっている。苦痛を避けることより快楽を求めることの方が少しだけ強い,あるいはその逆といった具合だ。競争のプレッシャーにさらされると,このバランスがさらにどちらか一方に傾くことがある。競争の開始前や,競争中の決定的瞬間に近づくまでは,快楽を求めることが多い。だが決定的瞬間が近づくと,得ることよりも失わないことに意識が向き始める。
 この快楽と苦痛についての学術的探求には長い歴史がある。多くの研究者が,さまざまな用語を使ってこの心理的状態を表そうとしてきた。1935年,心理学者のクルト・レヴィンは人間の動機づけには接近と回避の感情が関連していると主張した。1950年代中ごろには,ジョン・W・アトキンソンが動機づけの傾向を「成功志向」と「失敗回避」に分類し,成功の動機を持つ人は成功のチャンスを高めるためにリスクを選択する傾向が,失敗回避の動機を持つ人はこれらのリスクを選択しない傾向があるとした。1990年代後半には,ニューヨークの2人の研究者がこの概念を展開させた。そのうちの1人,ロチェスター大学のアンドリュー・エリオットは,接近・回避の概念をパフォーマンスや競争に適用した。一方コロンビア大学のE・トーリー・ヒギンズは「獲得型志向」と「防御型志向」という用語を使った。また,この2つの心理的衝動は根本的に異なるため,脳がそれを扱うには,2つの神経系が必要だと結論づけた。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.192-193

環境効果と競争効果

ジャクソンは自らの研究データをもう一度詳しく精査した。そして,エリート校に行った子供のパフォーマンスに影響を及ぼす主な要因が2つあることに気づいた。1つ目は「環境効果」だ。エリート校には,優れた教師と組織的なカリキュラム,毎年のように学校の設備を増強する学校経営者がいる。2つ目は「競争効果」だ。トップクラスの生徒に囲まれていることで,互いに切磋琢磨しようとする作用だ。
 女子生徒の場合,この2つの要因が学習と成績に良い効果をもたらす。しかし,男子生徒の場合,2つの要因が対立し,互いの良さを消し合ってしまう。環境効果は,パフォーマンスを向上させる。だが競争効果によって,成績が良くない男子生徒は落ちこぼれの危機にさらされてしまうのだ。「大きな池の小さな魚であることは,男子には良くない影響をもたらす」とジャクソンは述べている。
 「結論として,女の子はできるだけ良い学校に行かせ,できるだけ優秀な子に囲まれるようにするのが望ましい。男の子は,できるだけ優秀な教師がいる学校に行かせるべきだが,競争が厳しすぎる環境に置くべきではない」ジャクソンはこうまとめている。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.144-145

自分にあった場所

現実世界はストレスに満ちている。大一番の重要なテストがストレスにうまく対処できない子供たちをふるいにかけるのであれば,テストの結果を見れば,世の中で成功する人とそうでない人を正確に予測できるのではないかと考える人もいるかもしれない。
 だがこうした主張は,自分にふりかかるプレッシャーの量はある程度コントロールできるという点を見逃している。プリンストン大学の実験が示したように,多くの状況で,ストレスレベルは調整できる。また,人は自らのストレス対処能力に適した分野に身を置くこともできる。法廷弁護士になるには争いの準備をしなければならないが,事務弁護士になるのであればその必要はない。コンピュータプログラマーの職種にも,納期という制約のなかで能力を発揮することが求められるタイプと,稼働中のシステムの保守をして支障なく動させることが求められるタイプがあるはずだ。緊急治療室で良い仕事をする医者もいれば,家庭医療で良い仕事をする医者もいる。それぞれの特性を活かしながら,弁護士やプログラマー,医者になることはできるのである。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.110

真の実力とは

普段は極めて頭の良い心配症型の子供たちは,一発勝負の試験環境でテストされるという理由だけで,志望する学校に入れないのである。この子供たちには,問題を解く力があったはずだ。試験がこれほど競争的なものではなかったら,正解を導くことができただろう。唯一の問題は,これらの子供は,生まれつきの遺伝子の型によって,試験で力を発揮しにくいということだった。「私はプレッシャーがもたらす効果を否定はしない。実際に,プレッシャーによってメリットを得る人もいる」とチャンは述べている。「ただし台湾のこの試験のプレッシャーは,あまりにも強い」
 私たちの社会は,これほど強いプレッシャーを与えずに,子供の学力を評価する他の方法を見いだすべきではないのだろうか?

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.108

戦士型と心配症型

人間はすべて,戦士型(warrior)と心配症型(worrier)のどちらかであるという科学的な主張がある。ドーパミンを素早く除去する酵素を持つ人は戦士型で,恐怖や苦痛などの脅威に直面しつつも最大限のパフォーマンスが求められる環境にすぐに対処できる。ドーパミンの除去に時間がかかる酵素を持つ人は心配症型で,起こりうる事態について,事前に複雑な計画や思考をする能力がある。戦士型と心配症型のアプローチはどちらも,人類が生き残るために必要なものであった。
 一見,戦士型の方が攻撃的だと思われるが,実際にはそうとも言えない。心配症型は平常時のドーパミンのレベルが高く,攻撃的反応の閾値の近くにいる。こうした人は神経質であり,感情を爆発させやすい。簡単に腹を立てるし,感情を表に出す。だがその攻撃性が効果的なものだとは限らない。「適切な攻撃性」とは,他者の攻撃的意図を正確に読み取り,解釈し,それに対処することである。心配症型は,相手にその意図がないときに攻撃性を見いだし,相手にその意図があるときに攻撃性を見逃してしまう傾向がある。一方の戦士型は,現実への備えができている。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.103-104

1対1対応ではない

人間の形質には1対1で対応する遺伝子があるというこの概念は,遺伝子が全てを決定するという俗説の基となっている。だがこの概念は,まったく見当違いのものである。1つの遺伝子がそれ自体で何かを司っていることは極めてまれだ。人間の形質のほとんどは,複数の遺伝子(ポリジーン)によって決定されるのである。
 ケープタウン大学講師のロス・タッカー博士によれば,身長のような基本的な形質も,実際には極めて複雑な仕組みで成り立っている。身長は20%の環境的要因(食生活など)と80%の遺伝的要因で決定される。だが,身長に対応する唯一の遺伝子は存在しない。その数は,10でも50でもない。
 約4000人のゲノムを解析して身長との関係を調べた研究によれば,29万4831個の遺伝子が,人間の身長に関与している。これらの遺伝子のすべてが,人がどれくらいの背の高さになるかに関連しているのだ。つまり,1つの遺伝子を取り替えても,身長を変えることはできない。
 繰り返すが,29万4831個の遺伝子である。
 にもかかわらず,オズの魔法使いがすべてをコントロールしているとドロシーが信じたのと同じように,世の中には1つの遺伝子が人間の形質をコントロールしているという考え方が蔓延している。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.94-95

ホームアドバンテージ

学校行事を催すかどうかを投票で決める場合,当該の学校の校舎で投票をすると,賛成票の割合が高まる。その場にいるだけで,学校に対してノーと言いにくくなるのである。同じく,大学生同士が議論をするとき,寮の自室を使った学生の方が,相手を言い負かしやすくなる。
 こうした研究結果から,近年では,ホームアドバンテージは人間が進化の過程で生得的に獲得した縄張り意識——自らが所有する空間を支配したいという強い欲求——に根ざすものであるという見解が主流になっている。縄張り意識が活性化すると,侵入者に果敢に立ち向かおうとすることで,競争心が高まる。縄張りを脅かす存在を感知したとき,人は自信と意欲を高め,攻撃的になる。最適な方法で状況をコントロールしているという,自己効力感も高まる。ホームアドバンテージを神経科学の観点から解明しようとする研究も進んでいる。現時点の研究成果は,ホームでの勝利によって,脳の報酬系が,強力かつ独特の方法で活性化されることを示唆している。人はホームでの勝利を想像することで興奮し,実際に達成することで大きな満足感を得るのである。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.74-75

マタイ効果

1968年,社会学者のロバート・マートンは「マタイ効果」という概念を提唱した。これは,競争において早い段階で優位に立った者は,それによってさらに有利な環境に身に置けるために,弱者との差をますます広げていくというものだ。たとえば,最も優秀な子供は,一流校に行き一流の教師の指導を受ける。最も優秀なスポーツ選手も,強豪チームに行き最高のコーチの指導を受ける。この語の由来は,『マタイによる福音書』に記された「持つ者はさらに与えられて豊かになり,持たざる者は持っている物まで奪われる」という一節にある。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.63-64

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