忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

競争の程度

教育改革の議論ではよく,少人数制には,1クラスあたりの生徒数を減らすことで,教師とのコミュニケーションが促されるというメリットがあると主張される。だがガルシアは,少人数のクラスで生徒の成績が上がるのは,他の生徒とのライバル関係が濃密になり,多くの競争が起きやすいためや,自分の能力を測る基準がより身近に感じられるためではないかと考察している。実際には,教師は大きな要因ではないのではないか,と。
 ノーマン・トリプレットは1898年に,誰とも競争しないより,1対1で競争した方が,全般的にパフォーマンスが向上することを発見した。
 そしてガルシアとトーは,競争相手が多すぎても,逆効果——すなわち,努力レベルの低下——が生じることを見いだしたのだ。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.56-57
PR

競争のメリット

競争で得られる真のメリットは,勝利ではない。それは,パフォーマンスの向上なのである。競争は,最後の一押しの努力を引き出す。競争者は,トップギアのさらに1つ上にあるギアを発見する。さらに,適切な環境下では,この現象は競争に勝たない場合にも起きる。競争は,パフォーマンスの向上を促すのである。
 だが,そこにはトレードオフもある。すなわち,競争は全員にメリットをもたらすわけではない。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.45

適応・不適応競争力

競争力は「適応競争力」と「不適応競争力」に区別する必要がある。適応競争力を持つ人は,忍耐力と決意を持って問題に立ち向かうが,いかなるときもルールを尊重することを忘れない。たとえ負けたとしても,価値ある努力をしたことに満足する。また,あらゆる点でベストである必要はないと自覚し,自らが訓練をしている領域でベストになることを目指して努力する。自分の仕事においては完璧主義者であるかもしれないが,テニスやシャフルボードが下手であっても気にしない。さらに,成長には長い時間が必要だと知っているために,喜びを先送りできる。この健全な競争力の真髄は,現時点の地位やランクを過度に気にせず,優れた存在になることを求めて絶えず努力することにある。人々に感銘を与える,偉大で英雄的なパフォーマンスを導くのは,適応競争力である。
 一方,競争力という言葉に悪い印象を与えているのは,さまざまな形の不適応競争力だ。この競争能力を持つ人には,不安感や歪んだ衝動などの特徴がある。敗北も勝負のうちだと受け入れられず,周りが競争していないときでさえ競争しようとする。何事も自分が一番でなくては気がすまず,競争が終わった後も,他者と自分を比較するのをやめられない。笛が吹かれても,止まろうとしない。相手を挑発し,望んでいない競争に引きずり込む。勝てないときには不正な手段を使おうとする。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.24-25

王道

完全に私の独断と偏見に基づいての話だが,「王道」を歩んできた人たちの多くに共通する特性をまとめると以下の4つになる。これらは彼らの強さであり,同時に弱点でもある。

 ・「答え」を見つけるのが得意
 ・「そういうもんだ」と自分を納得させられる
 ・何でも「いちばん」を目指す
 ・謙虚

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.164

できる子できない子

こう言っては身も蓋もないが,できる子は,鉄緑会に通おうが,インターネットで映像授業を受講しようが,山に籠もって1人で問題集を解こうが,できる。できない子は鉄緑会に行ってもできない。そのことをさらに強調してしまう結果になりかねない。
 平等を追い求めるほど,「前提」の違いが露呈するのである。いかんともしがたいこの「前提」には,遺伝のほか,どんな家庭文化や学校文化に属しているかが強く影響していると教育学の世界では言われている。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.153

国民的競争教育

中卒,高卒,大卒と,通行手形のランクが上がれば世界も広がる。当然人々は1つでも上のランクの通行手形を手に入れようとする。親は子に,できるだけ上等な通行手形を持たせて送り出したいと願う。そこに競争が生まれる。
 同世代全員が同じレールの上を行くのである。たった1歩でも人よりも先に行きたいと誰かが早歩きを始めれば,まわりの歩幅も大きくなる。受験競争の始まりだ。気づけばみんなが全力疾走をしていた。
 途中で気分を悪くする者もいる。怪我をしてしまう者も出る。それでも競争は止まらない。何でもありの受験狂騒曲である。
 皮肉である。全国津々浦々の子供たちに平等な教育を行き渡らせることを実現した結果,国民的競争教育が始まってしまったのだ。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.143

何を測るか

しかし考えてみてほしい。塾や家庭教師の力を借りず,独力で受験勉強ができること自体,才能である。問題集の解説を読めばたいていのことは理解できる学力が備わっていたからこそできた作戦である。山に篭もれば誰もが京大理学部に合格できるわけではない。
 逆に,都会の塾の教室でひと夏を過ごしたとしたら,三木さんの場合,志望校に合格できていたかどうかはわからない。それは明らかに三木さんのスタイルではないからだ。早々にスランプに陥っていたかもしれない。
 某大手塾グループの広報担当の50代の男性は次のように指摘する。「昔は,どんな参考書や問題集を使って,どんな風に志望校対策をするのかを自分で考えたもの。どう段取りを組むのかというところまでを含めて受験勉強だった。結果的に総合的な人間力を試すことになっていた。コツコツやるタイプもいる。先行逃げ切りタイプもいる。最終コーナーを回ってからラストスパートで勝負をするタイプもいる。入試の結果には,単なる知識量や学力だけでなく,作戦力や実行力,そして執念までもが反映されていた。しかし今,子供たちは大人に与えられたものをやるだけになっている。それが中学受験ならまだわかる。しかし大学受験までもがそうなってきている。入試で測れるものが,『疑いのなさ』や『処理能力』やせいぜい『忍耐力』くらいになっている」

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.139-140

参考材料

前提として,首都圏の中高一貫校は1990年代の大学進学実績を争う横並びの競争を乗り越えて,2000年代以降は受験・進学指導とは異なる側面で学校の個性を競う時代に入っている。つまり,大学進学実績はもはや一貫校を選択するうえでの絶対的な決め手ではなく,あくまで学校選択の参考材料の1つに過ぎないと認識されるようになった。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.129

入試問題

ここで中学受験に関するよくある誤解を解いておきたい。中学受験をよく知らない人たちの間には,中学受験は無味乾燥な知識の詰め込みであって,そんなことをしても何の意味もないという思い込みがあるらしい。しかしそれは違う。
 自分が私立中学校の校長であると想像してみてほしい。機械的に知識ばかりを詰め込んだ頭でっかちな生徒をわざわざ集めたいと思うだろうか。知識量よりも,思考力や好奇心やポテンシャルを持っている生徒を集めたいと思うはずだ。しかも学校の教育理念に合う生徒を見極めたい。そのために各校は毎年趣向を凝らした入試問題を作るのである。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.55-56

正解じゃないストレス

世の中のほとんどの問題には「正解」なんてものはない。しかし,人よりも早く「正解」にたどり着くことに長けていて,そこに自負すらある人たちにとっては,「正解」が見つからない状態に居続けること自体がものすごくストレスに感じられるのかもしれない。だから手っ取り早く「正解」を得ようとしたがる。でもそもそもそんなものはないから,「正解らしきもの」をねつ造する。あるいは誰かが掲げた「正解らしきもの」に飛びつくことで,安心して思考停止に陥る。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.47

塾依存

小学生のうちは,目標の学校に入るためにどれだけの学力が必要で,そのためにどれだけの努力をしなければいけないのかなど,子供本人がわかるはずもない。塾の指導に右向け右になることはやむを得ない。しかし,それが強烈な成功体験として刻まれ,中学・高校生になっても塾に頼り切りになってしまうと,主体的な学習習慣を身につける機会が奪われてしまうのかもしれない。
 ある有名中高一貫校の教員は,「最近は塾依存のようになっている生徒あるいは保護者が多い」と嘆く。また別の学校の教員は,「ときどきサプリメントを飲むように,塾を上手に利用してくれるのなら問題はありません。でもサプリメントに頼り切りになってしまうようでは心配です」と漏らす。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.46

学歴よりも塾歴

有名進学校の実績の裏には少なからず鉄緑会の影響がある。最難関大学受験のことだけを考えるのなら,開成にするのか,筑駒にするのかということよりも,鉄緑会に入るのか入らないのかが,重要なのかもしれないのだ。
 つまり,「学歴」よりも「塾歴」。この国では塾が受験エリートを育てているのだ。
 そして鉄緑会に通う最難関中高一貫校の生徒の大半がサピックス出身者であるというのもこれまた事実だ。あまたある公立小学校から多様な中高一貫校へ,そして東大をはじめとする最難関大学へと,「学歴」においては多様な「道」が存在するように見えるが,「塾歴」に目を向ければ,多様性は極めて乏しい。

おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.26-27

非陳述的学習

自分ではそれと気付かずに学習がなされることもあるという発見は,ヒトの記憶研究におけるもっとも重要な進展の一つと言えよう。20世紀には,健忘症にかかわる科学研究の多くが陳述的学習と記憶に焦点を当てていたとはいえ,もう一方の非陳述的学習と記憶にも光が当てられるようになり,このタイプの学習と記憶によって,健忘症の患者は学習経験を明確に示すことは無理でも,以前にはできなかった作業が実際にできるようになるということがわかってきた。非陳述的学習は手続き学習,または潜在学習とも言われる。非陳述的学習と一口に言っても,その実態は,運動スキル学習,古典的条件づけ,知覚学習,反復プライミングといった,障害によって失われずに残った実に多様な学習能力をとりまとめたものにほかならない。これらの「手続き」は,課題達成に要する試行回数,必要とされる脳基盤,知識の持続性などいくつかの点において相互に異なる。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.212

三段階

学習と記憶を情報処理と見なす発想が重要な進展となり,研究者は記憶をコンピュータプロセスになぞらえて3つの処理段階に分割できるようになった。第一段階は情報の符号化(記銘)であり,外界からの感覚入力を脳内表象に変換する。第二段階は,これらの表象をあとで取り出せるように貯蔵(保持)する。第三段階は,貯蔵された情報を必要に応じて検索(想起)する。現在の研究者は,これらの三段階を個別に調べ,相互作用を見きわめられるように実験をデザインする。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.166

作動記憶

私たちが日常生活で記憶をどう使うかを研究するにつれ,短期記憶の理解もまたその複雑さの度合いを増していった。外界からの情報を取り入れるとき,私たちは多数の複雑な過程を脳内で行なっている。68×73を暗算するとき,私たちは計算し,答えを保存し,数字を組み合わせ,正確さを確認している。この作業は短期記憶に保存されている項目をただ反復するより労力を要する。つまり,それは頭脳労働なのである。「数字」や「掛け算」という抽象概念を利用し,その知識にもとづいて目前の問題に挑む。この種の過程は作動記憶(ワーキング・メモリー)と呼ばれる—短期記憶の作業拡張版,いわば認知行動が起きる脳内作業領域である。
 作動記憶は短期記憶あるいは即時記憶とどう違うのだろうか。短期記憶は単純で,作動記憶は複雑だと考えるといい。作動記憶とは作業が活発に進行中の短期記憶なのだ。いずれも一時的であるが,短期の即時記憶は,短い遅延時間か遅延時間なしで少数の項目を再現する能力(たとえば,3,6,9と言う)であるのに対し,作動記憶は少量の情報を保存する一方でその情報を用いて複雑な作業をする(たとえば3×6×9の暗算をする)。私たちは短期記憶を使うときにはただ一定量の情報を反復しているだけだが,作動記憶を使うときにはその情報を確認しつつ必要な操作を行なうことができる。作動記憶は短期目標—長文解釈,問題解決,映画のあらすじを追う,会話を交わす,野球の試合運びを覚える—を果たすために必要な認知過程や神経過程を組織化する。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.100

短期記憶と長期記憶

私や同僚たちがヘンリーを研究した数十年にわたって,ヘンリーは数唱課題では正常範囲の成績を維持した。結果として明らかになったのは,ヘンリーは重い記憶喪失に見舞われながらも,短いあいだなら数個の数字を記憶として復唱できるという,くっきりとした対比だ。このことからは,ヘンリーの短期記憶は損なわれておらず,彼の障害は短期記憶を長期記憶に変換する過程にあるらしく思われた。15分間の会話でモレゾン家の出自について同じ話を三度しても,彼は自分が何度も同じ話を繰り返していることには気づかない。ヘンリーの脳内では,情報をホテルのロビーに導くことはできるが,部屋にチェックインすることができないのである。
 この二種の記憶をはじめて区別したのは,有能な心理学者にして哲学者のウィリアム・ジェイムズだった。1890年,彼は頻繁に引用される二巻の傑作『心理学の諸原理』を著わし,その中で一次記憶と二次記憶について述べた。ジェイムズによれば,一次記憶は私たちに「いま起きたばかりのこと」を思い起こさせる。一次記憶の内容はまだ意識の中にあり,「いま現在」と考えられる時間範囲に入る。この文章を読んでいるとき,私たちは頭の中ですべての言葉をその瞬間瞬間に取り入れているだけで,積極的に過去から掘り起こしているわけではない。
 これに対して,ジェイムズが唱える二次記憶は,「そのとき考えてはいなかった出来事や事実の知識であり,過去にそれについて考えるか体験したという意識が付随している」という。こちらの記憶は「貯蔵庫に保存された無数の他の項目に埋もれて視界に入らない状態から,蘇生され,想起され,掘り出される」。二次記憶では,情報はすでにホテルのロビーをうろつかずに客室で休んでいるため,発見して取り出さねばならない。
 驚くことに,ジェイムズの記憶分類は彼自身の内観によって生まれたらしい。彼は実験を行なった心理学者と話をしたかもしれないが,彼自身は自分や他人に実験を行なってはいない。ところが彼がこの記憶分類を提唱すると,科学者たちはこれらの記憶過程を区別しようと研究室で行動実験を実施した。その結果,現在は短期記憶——ジェイムズの一次記憶——と,長期記憶——ジェイムズの二次記憶——と呼ばれる概念が生まれた。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.85-86

10分の手術

モニスが成果を上げると,精神外科は人気を博すようになった。彼の施術は前頭葉切截術(ロボトミー)という新しい名称を与えられ,1930年代末から40年代にかけて広く行なわれた。この手技がこれほど歓迎されたのは,おもにモニスの弟子で,若くて野心に満ちたアメリカの神経学者ウォルター・フリーマンのおかげだった。有能な神経外科のジェイムズ・W・ワッツと共同で,フリーマンはモニスが開発した手法を1936年9月にはじめて実施した。不安とうつに苦しんでいたある中年の女性患者は,手術後には症状が和らぎ,世話が楽になった。それからの3年というもの,フリーマンとワッツはますますその数を増していく症例を各種の科学会議で発表し,この術法はメイヨー・クリニック,マサチューセッツ総合病院,ラヘイ・クリニックなど権威ある医療機関でもしだいに定着していった。
 フリーマンとワッツは施術の微調整を重ね,脳を持ち上げて目的の箇所にうまく到達するための新しい器具を作り,これをモニスのロイトコームに代えて使用した。このロイトコームの柄には彼らの名前が刻まれていたという。患者の症状次第では,前頭葉の対象領域に処置を行なうため,彼らはこめかみから器具を入れたりした。手術にはより過激なものもあった。経眼窩式ロボトミーと呼ばれる術式は,脳に入ってくる情報を伝える主要な部位である視床を破壊することによって,前頭葉の損傷を最小限にとどめようとするものだった。こちらの術式では,フリーマンは台所で見つけたアイスピックを目とその上の骨のあいだから脳まで差し入れた。この手法は10分もあればすみ,患者は歯医者の椅子に座ったままでいい。この手術の結果として,眼の周囲の黒あざ,頭痛,てんかん,出血,死亡といった合併症が生じた。ワッツはこの「アイスピック」を使う手技に術法としては賛同しなかったため,長きにわたったフリーマンとワッツの協力関係は終わりを告げ,この手技を採用するのはフリーマンのみになった。
 フリーマンが医師であった期間に行った手術数はすさまじい。彼は23州で3000人以上にロボトミーを施し,そのなかには成人の精神病患者のみならず,重罪人や統合失調症の児童もおり,うち1人はまだ4歳だった。フリーマンの患者の大半は女性で,なかでももっとも有名なのがローズマリー・ケネディである。ウェストヴァージニア州スペンサーで,彼が1日に25人の女性にこの手術を施したという記録があるが,真否は疑わしい。ヒポクラテスの誓いを立てたはずのフリーマンだったが,彼の関心は自身の手技にあり患者にはなかった。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.50-51

チンパンジーから

1930年代になると,精神外科手術が広く行なわれるようになった。この分野の先駆者であるポルトガルの神経学者アントニオ・エガス・モニスは,精神疾患の生物学的治療法を確立しようと試み,のちにノーベル賞を受賞した。モニスが着想を得たのは,意外なことにイェール大学医学部の比較心理学研究室で行なわれた実験だった。ここの研究員たちは脳の前頭葉——額のすぐ後ろにある大脳皮質部位——の機能を調べるためチンパンジー対象に各種の実験を行なった。
 ある実験では,研究員たちは正常な前頭葉をもつ,ベッキーとルーシーという名のチンパンジーを対象に記憶実験をした。実験者は二個のカップのどちらかに食べ物を隠す。次に,チンパンジーとカップのあいだにスクリーンを下ろし,秒または分単位で時間を変えてその状態を維持する。スクリーンを上げたあと,チンパンジーはどちらかのカップを選び,選択が正しければ食べ物をもらえる。正しい選択をするなら,チンパンジーは食べ物がどこに隠されているかを覚えておく能力があることになる。ただ,ヒトと同じく,チンパンジーは個性や情動に個体差がある。ルーシーとは違って,ベッキーは実験そのものを毛嫌いし,協力しようとしなかった。彼女はかんしゃくを起こしたり,床に寝転がって糞尿をまき散らしたり,記憶課題がうまくいかないと不機嫌になったりした。研究員たちは,ベッキーは実験神経症—実験室で動物にきわめて難しい認知課題をさせると起きる異常行動—であると結論づけた。つまるところ,ベッキーは神経衰弱だったのだ。ところが,ルーシーはそのような極端な反応は見せなかった。
 複雑な行動に前頭葉が果たす役割を調べる実験では,研究員たちはベッキーとルーシーの前頭葉を除去した。術後は,どちらのチンパンジーも待ち時間が数秒を過ぎると記憶実験で失敗し,食べ物のありかを記憶するには前頭葉が必要であることを示した。他の認知行動には変化がなかったため,研究員たちはチンパンジーたちの失敗がいわゆる認知能力の破綻のせいではないことを承知していた。ルーシーは手術前と同じく実験に協力的だったが,ベッキーの行動はすっかり変わった。まったく予想に反して,ベッキーは課題に手早く熱心に取り組み,以前のような不機嫌な態度は鳴りをひそめた。そこで研究員たちは,彼女のノイローゼは前頭葉除去によって「平癒した」と結論づけた。
 この偶然の発見がモニスの目にとまった。ベッキーの例,および他の動物実験や数例の臨床報告は,ヒトの前頭葉組織破壊によって情動および行動異常を治療できるという十分な証拠になると彼は確信した。精神疾患患者が見せる異常な思考や行動は,前頭葉と他の脳領域を結ぶ配線の異常に端を発すると彼は考えた。そこで,これらの誤配線を切断すれば,ニューロンどうしが健全な連絡回路を形成し,患者は正常な状態に戻ると主張した。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.47-48

ロボトミー

現在,前頭葉ロボトミーは一部の国で禁止されており,有効ではなく時代遅れと見なされている。この手術の無残な結果を知れば,そもそもどのような経緯でそれが行なわれるようになったのか理解に苦しむほどだ。しかし1938年から54年にかけて,ロボトミーを支持する人びとは,難治性患者の多くが施設に閉じ込められ悲惨な人生を送っており,この手技にともなうリスクはそうした患者が救済される可能性によって正当化されると主張した。この手術によって家族の元へ戻り,手術前より人間らしい生活を送れるようになる患者もなかにはいたのである。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.44-46

てんかんの歴史

十六世紀から十七世紀になると,学者たちはてんかん発作に先立つ突然の恐怖,興奮,ストレス,頭部損傷などの要因に目を向けるようになり,てんかんの医学的な理解が進んだ。てんかんを科学的に解釈する傾向は啓蒙時代に受け継がれ,学者はてんかん患者を観察する重要性を強調し,動物やヒトを対象にした実験によって,てんかん発作の生物学的要因を解明しようとした。
 十九世期には,医師がてんかん患者と「狂人」を区別しはじめ,てんかんの研究に大きな進展が見られた。フランスでは,臨床医が grand mal (大発作),petit mal (小発作),absence de saisie (アブサンス発作)といった用語を導入し,それぞれに詳細な臨床的記述を与える一方で,精神科医は患者の記憶障害をはじめとする行動異常に興味を示した。
 十九世期末,イギリス神経学の父祖ジョン・ヒューリングス・ジャクソンの尽力で,てんかん研究は大きな転換期を迎えた。ジャクソンは多数の患者の治療歴を記録し,それらの患者には自身の患者,他の医師の患者,医学文献で触れられた患者の例も含まれた。彼はこうした医学的記録の詳細を調べ上げ,てんかん発作が脳内の一領域に始まり,他の領域に秩序正しく広がっていくという新説を豊富な情報にもとづいて提唱した。こうした驚嘆すべき発作パターンはジャクソン型てんかんとして知られるようになり,初期の外科治療は以上が一つの孤立した脳領域である患者に限られた。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.27-28

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]