忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

立川談志の言葉

「君の今の,落語家になりたいという気持ち,それはまさに情熱と呼んでいいもんだ。だがな,情熱はいつか冷めるんだ。考え直せ,やめなさい。期間をおいて冷静に考える,というのもひとつの手だ。大学を目指す,家業を継ぐというのも方法だろう。
 しかし,こうも言えるだろう。青春にあって,一途にこれになりたいという職業があるにもかかわらず,他の職業,他の道を選択してしまう,もしくはそうせざるを得ないということは,生涯において後悔する,悔やみきれないという結果になる。ま,こういうことは世間によくあるこったがな。また,それをひきずりながら生きてゆくというのも,ひとつの人生であるがだ。さらに難しいことに,僕には弟子を育てる義務があるのですよ。現に僕は,そうやって小さんに育てられた。芸の伝承とひと口に言うが,これは伝えていかにゃならんのだ。落語家ならみんなそうだ。そして,いきなりの落語家なんていやしないという事実だ。最初は君のように学生であり,またはサラリーマンであり,いわゆる素人なんだ。だから正直に言うと,なれとも言えんし,なるなとも言えんのですよ。ま,後進の才能を見極める力もあるつもりだし,その資格はあるつもりだが,他人の人生を左右する権利は持っとらんのだ。渡ろうか」

立川談四楼 (2008). シャレのち曇り(文庫版) ランダムハウス講談社 pp.50
PR

道具の使用

第二工学部の蔑称が「戦犯学部」であることはすでに述べた。しかし第二工学部を「戦犯学部」と呼ぶならば,東大の第一工学部をはじめ戦争に協力した大学の学部すべてを「戦犯学部」と呼ばなければならない。
 そもそも,殺人兵器を率先して作れば「戦犯」の汚名を着せられてもしかたがない。しかし,それが人を守るための道具だったとしたら———。
 この問題が微妙で難しいのは,道具にはローマ神ヤヌスのような二面性があるからだ。たとえば,包丁は食材を切る道具だが,人を殺める道具にもなり得る。ノーベル賞を非難する人はいないだろう。しかし,アルフレッド・ノーベルが発明したダイナマイトは人類の発展に貢献する反面,多くの人命を奪ってきた。
 また,インターネット通販サイトのアマゾンは現在,「ドローン」を使った宅配事業を施行している。しかし,ドローンを利用して,爆弾をピンポイントで敵の施設に投下することができるかもしれない。
 このように二面性をもつ道具をいずれの面で利用するかは,それを利用する人間の倫理にかかわっている。この問題は,研究者や大学人である以前に,ひとりの人間として問われる。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.199-200

白線浪人

1942年に開学し,1951年に閉学した第二工学部は,わずか9年間存続したに過ぎない。しかし,その間に一期生から八期生まで総勢2562人の卒業生を送り出した。
 ちなみに,国立大学は1950年度で旧制での募集を打ち切った。そのため,旧制高校出身者は1950年度までに大学に進学できなかった。
 このことを,白い線が入った旧制高校の制帽にちなみ,「白線浪人」と呼んだ。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.168-169

B29の迎撃兵器

当時の日本は高度1万m以上を悠々と飛行するB29の空爆に悩まされていた。B29の迎撃に従来機を用いると,1万mに達するまで40分から50分もかかり,また1万mという高空では満足な戦闘もできなかったからだ。そのため,迎撃用に新型ターボチャージャーを積んだ戦闘機の開発が進み,B29を撃墜するケースも出てきた。しかしターボエンジンを搭載する戦闘機の数が少なく,撃墜率も1.5〜2%に過ぎなかった。
 いっぽう,ロケットエンジン戦闘機ならば,計画時点で最高速度900km時,わずか3分半で1万m以上の上空に到達できる。ただし,全重量の半分以上を占める満タンの液体燃料すべてを消費したとしても,上空での戦闘時間はわずか数分に過ぎない。それでもB29の迎撃兵器としては期待の星だったのである。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.135

電波報国隊

学徒動員の一形態に「電波報国隊」があった。東京所在の4大学(東京大,東京工業大,早稲田大,藤原工業大)の電気工学科の学生は,特に陸海軍の電波兵器工場に派遣された。彼らのことを電波報国隊と呼んだのである。
 学校により派遣工場は異なり,東大第一工学部は海軍管理下で東京芝浦電気(現・東芝),残るは陸軍管理下で第二工学部および東京工業大,早稲田大は住友通信工業(現・日本電気),藤原工業大は日本無線であった。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.121

造兵学科

数ある学科のなかで,特に戦時色が強いのが造兵学科だろう。700番台のこの学科では,兵器の製造について学ぶ。講義には「701 実用計算学」「720 火砲構造及理論」「721 弾道学」「722 砲架構造及理論」「723 移動砲架」「724 戦車及射爆兵器」「725 魚雷」などの講義科目がある。
 造兵学を研究し講義する大学は,世界で日本とドイツにしか存在しなかった。そのため,東洋各国からの留学生も多かった。また海軍から毎年1〜2名の軍人が派遣され,普通の学生とともに机を並べ,工学士の学位を得て軍に戻っていった。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.101

当時の学費

つまり,第二工学部合格者は初年度に125円が必要で,授業料は前期と後期の分納制になっていた。では,この125円は現在の貨幣価値に換算すると,いかほどになるのか。精確な試算は難しいが,ここでは「かけそば」の値段にもとづいて算出してみたい。
 週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史』によれば,1941(昭和16)年当時のかけそばの値段は1杯16銭だった。これを基準にすると,入学料および授業料の合計である125円があれば,781杯のかけそばを食べられる。
 いっぽう,現代のかけそばを1杯200円と見積もったとしよう(少々安めかもしれないが,著者の事務所の近くにはこの値段で営業している店がある)。781杯分は15万620円になる。かけそば1杯を少々高めの300円と見積もると,781杯分は23万4300円だ。このように15万〜23万円が125円の現在価値に相当すると考えてよい。学費については,現在のほうがかなり高いようである。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.95-96

くじ引きによる配分

入学者の選抜方法も重要な検討課題だった。というのも,第一工学部および第二工学部の学生の質をできるだけ均等にするのが基本方針だからだ。東大ではこの基本方針にしたがい,次のような基準を取り決めた。
 まず,入学試験については両学部とも同時に行ない,そのうえで両学部の定員数を満たす学生を上位から選抜し,両学部に分配する。もちろん,学生はいずれかの学部を選ぶことはできない。
 また,これはのちに決まることなのだが,学生の素質がなるべく均等になるような振り分け方法を2種類考案して,クジで選んだいっぽうを用いて配分する方法を採用した。残念ながら,具体的な配分方法はつまびらかではない。一説によると,高等な方程式を用いて配分を決定したという。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.59-60

第一工学部と第二工学部

ちなみに,東大工学部(のちに第一工学部に呼称変更)は,「土木工学科」「機械工学科」「船舶工学科」「航空工学科(機体専修,原動機専修)」「造兵学科」「電気工学科」「建築工学科」「応用化学科」「火薬学科」「鉱山及び冶金学科(鉱山専修,冶金専修)」で,第二工学部と同じ10学科である。
 第二工学部には火薬学科および鉱山専修がなく,代わりに航空工学科が2学科に分かれて10学科となった。したがって,第一工学部と第二工学部の学科構成はまったく同じわけではなかった。
 第二工学部の定員は各学科40人とするが,機械工学科のみ60人とし,合計420人を入学予定数とする。既存の東大工学部の定員が378人(1942年4月時点)だから,第二工学部はそれよりも42人多い計算になる。これは日本で最大の学生を収容する工学部が誕生することを意味した。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.35-36

工学部の推進

そもそも,「重要産業五ヶ年計画要綱」は,30年以上あとに発生する決戦戦争を念頭に生産力の拡充を目指していた。そのためには,少なくとも平時が10年は必要である。ところが,その前提が崩れ,日中戦争という当面の課題に対して,国家の資源を活用せざるを得なくなる。
 このような動きのなか,「満州国産業開発五ヶ年計画」および「重要産業五ヶ年計画要綱」は換骨奪胎される。平次の生産力拡充という統制経済の理念は棚上げとなり,非常時における党制手段として利用されることになる。これは工学技術者の養成も同様だった。というのも,以後国が推進する施策が,基本理念や細部の内容こそ異なるものの,宮崎らのプランと同様の方向に沿って進められるからである。
 そのひとつに,1939年の名古屋帝国大学の新設がある。同校は,名古屋医科大学を前身とする内地では7番目の帝国大学であり,設立時に機械,応用科学,電気,航空,金属の5学科からなる理工学部を設けた。名称こそ理工学部ながら,学科構成は明らかに工学部そのものだ。というのも,のちに名古屋帝国大学理工学部は,理学部と工学部に分離されるが,工学部の学科は理工学部当時のままだからだ。
 また,名古屋帝大が成立した同1939年には,藤原工業大学予科の創設がなる。同校は王子製紙社長で「製紙王」と呼ばれた藤原銀次郎が,同社社長引退を機に私財を投げ打って設立した大学である。機械工学,電気工学,応用科学の3科でスタートした。そして,1942年に学部となり,1943年に藤原工業大学は藤原の母校である慶應義塾大学に寄付の合意がなされて,その翌年に慶應義塾大学工学部となった。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.29-30

グラムロック

このグラム・ロックの美学というものを改めて考察するに,それはブリティッシュ・ロック,というかロック・ミュージックそのもののエッセンスを体現したものではないだろうか。ロック自体がそもそも官能性を刺激する音楽である。ロックビートであるエイトビートは,身体の芯そうに働きかけ,官能の世界へと聴くものを向かわせる。またロックサウンドがもたらす陶酔感や崇高感は,いわばナルシシズムを刺激し,さらに日常意識からの超出を企図して異相へと導いてゆく。つまり派手な化粧を施すことをためらわせないのである。ロック界きっての知性のひとりであるブライアン・イーノが,ロキシー・ミュージック時代には強烈な化粧をしていたのが象徴的である。70年代になってグラム・ロックが登場したのは,ロックの展開過程の必然だったと言えるのではないだろうか。

林 浩平 (2013). ブリティッシュ・ロック:思想・魂・哲学 講談社 pp.196-197

神秘主義

まずジミー・ペイジが,鑽仰するあまりにそのひとがかつて住んだことがある館を購入した,というエピソードも残るのが,アレイスター・クロウリー(1875〜1947)である。クロウリーはイギリス人の神秘主義者だが,魔術師を自称しドラッグやセックスをとりいれた秘密儀式を行ったりするなど,その人物像にはややいかがわしいところがある。そのために現在ではコミックやアニメ,ゲームなどの世界で人気のあるキャラクターともなっている。またクロウリーには,ヨーロッパの儀式魔術の古典的文献とされる代表作の『法の書』をはじめ『神秘主義と魔術』など何冊かの著作があって,日本語にも訳され図書刊行会から出版されている。ただし『法の書』は,たとえば「わが預言者に従うがよい!私を知るという試練を最後までくぐり抜けんことを!われのみを探求せよ!されば私の愛が授ける歓びが,汝らをあらゆる苦痛から救い出してくれよう」とか,「私に向かって狂気を呼ぶ愛の唄を歌いかけてくれ!私に向けて香料を燃やしてくれ!私のために宝石で身を飾ってくれ!私に乾杯するがよい」とかいった激越な調子のマニフェストとも言えるが,そこには体系だった教義や宗教思想が述べられているわけではない。

林 浩平 (2013). ブリティッシュ・ロック:思想・魂・哲学 講談社 pp.97-98

ロックの細分化

ロックの巨大産業化と,それに伴うロックジャーナリズムの隆盛は,必然的にロックのジャンル分けという細分化をもたらした。とりわけ1980年代からオルタナティヴ・ロックすなわち「型にはまらない」という意味でのオルタナティヴなロックという言葉が登場してきて以来,ロックのサブジャンル化はさらに加速したようでもある。そもそもこのオルタナティヴ・ロック自体どんな音楽を指すのか不明確でもあったが,現在ロックファンの間でひとまずの共通理解とされているのは,1980年代の中心を占めるMTV的なヘヴィ・メタル系ではないロックのこと,というあたりだろうか。具体的には,ニルヴァーナに代表されるグランジ系のものと,レッド・ホット・チリ・ペッパーズに代表されるロックとヒップホップの融合したサウンドを指していよう。ともあれ1990年代以降,グランジやガレージ・ロック,パワー・ポップ,ブリット・ポップ,トリップ・ホップ,インダストリアル,ノイズなど様々なサブジャンルを表す言葉があたかも雨後のタケノコのように誕生し,いっぽうのヘヴィ・メタル系でも,スラッシュ・メタル,パワー・メタル,デス・メタル,ゴシック・メタル,インダストリアル・メタル,ジャーマン・メタルなどの呼称が林立する。

林 浩平 (2013). ブリティッシュ・ロック:思想・魂・哲学 講談社 pp.57-58

パンクロック

巷間よく言われることだが,イギリスで勃興したパンク・ロックは,経済政策の不振によって景気がどん底だった70年台のイギリスの社会状況が生んだものとされる。失業して未来に希望を持てない若者のフラストレーションがパンク・ロックに共鳴した,というわけである。確かに,79年に「鉄の女」マーガレット・サッチャーが保守党内閣の首相に就任して新自由主義の経済政策を打ち出すことになったのは,イギリスの当時の時代背景が招いたもので,パンク・ロックの勃興という現象と表裏の関係をなすと言えるのかもしれない。ただし,経済問題への不満や現実社会への絶望感がそのままストレートに過激な音楽を要求した,というだけでは,パンク・ロックの発生を考究したことにはならないだろう。70年代に理念型が形成されてその姿を見せたロックが,いわば価値概念として生命を保つには,内部からの浄化作用としてロック・スピリットを先鋭化させる必要があったのだ。

林 浩平 (2013). ブリティッシュ・ロック:思想・魂・哲学 講談社 pp.49-50

British Invasion

ロックの歴史のなかで見逃せないのは,1960年代半ば以降の「ブリティッシュ・インヴェイジョン British Invasion」と呼ばれる出来事である。「イギリスの侵略」という意味の通り,巨大な音楽市場であるアメリカにおいてイギリスのバンドの音楽が次々にヒットチャートを独占したのである。皮切りは1964年のビートルズだった。続いてローリング・ストーンズ,キンクス,アニマルズ,ザ・フーなどがヒット曲を送り込む。彼らイギリスのバンドの楽曲が,アメリカのヒットチャートを席捲した時,ロック・サウンドがポピュラー音楽の世界に確実に市民権を得た,と言えるのではないだろうか。
 エレキギター,エレキベース,ドラムスの使用を不可欠の要素としたバンドスタイルで,バンドの主体性が尊重され,バンドメンバーがオリジナル曲を自作する。これがそれまでのいわゆるポップスとは違う,ロック音楽固有の性格となった。そして右に挙げたバンドにほぼ共通するが,ヴォーカルは黒人のソウルフルな歌いぶりに倣い,テンポの速い楽曲はどこか攻撃的な匂いをまき散らす。電気信号を通して増幅された楽器音は,当然大きな音量だ。こうしてロックは誕生したのである。

林 浩平 (2013). ブリティッシュ・ロック:思想・魂・哲学 講談社 pp.14-15

仕事を楽しむには

今まで私が経営コンサルタントとして会ってきた人の中で,仕事を楽しくやっている人には,大きく分けて2種類あります。1つは自分が一番好きなことを仕事にした人。もう1つは自分が一番好きなことは絶対に仕事にしないようにして,2番目,3番目ぐらいに自分が得意なことを仕事にした人です。
 わかりやすい例ですと,音楽を愛しているのでレコード会社で働いている人がいる一方,「音楽が大好きだから音楽は仕事にしません。公務員として働いて趣味の音楽を心ゆくまで楽しみます」という人がいます。

塩野 誠 (2013). 20代のための「キャリア」と「仕事」入門 講談社 pp.158-159

幸せに

一生,同じ会社で働こうと思っているような人の場合は,「もう君は村の中では上には行けないんだよ」と村長に言われてしまっても,どうにか村にしがみついて趣味に生きるという道もあります。それがあまりに耐えられない場合は,早期退職金が多く積まれるうちに次の仕事人生に移りましょう。
 不幸にも出世がかなわず,リストラの候補に挙げられ,望まない退職となった時ですが,それだけで死ぬわけではありません。世の中には生きたくても生きられない人はたくさんいます。後であの時,退職になってよかったと思えるくらい,次の場所で幸せになりましょう。幸せになることだけが前職での不遇への復讐となるのです。

塩野 誠 (2013). 20代のための「キャリア」と「仕事」入門 講談社 pp.148-149

仕事とは

仕事と趣味を両立する人は,趣味と仕事にギャップがあればあるほど,気分転換になると言います。一方で,仕事自体を仕事だと考えていない人もいて,仕事を自分の知的欲求とか,好奇心を満たすためにやっているので,別に他のことはやらなくていいと思っている人もいます。そういう人は趣味と仕事の境界が曖昧です。そうなると,普通の人が長くても1日に7〜8時間しか仕事について考えていないのに,その人は,20時間近く仕事について考えていることになります。こういう人は,職人や技術者のような「プロ」にも多く,「プロ」の定義は,「その仕事についてずっと考えている人」だといえるでしょう。また,職人や技術者以外でも,一部の死ぬほど働いている企業経営者にとって,「仕事」とは「資本主義下における自己表現」という趣味なのかもしれません。

塩野 誠 (2013). 20代のための「キャリア」と「仕事」入門 講談社 pp.130

自分の魅力

ここで忘れてならないのは,歳を取ってくると自分にかなりの魅力がないと人は会ってくれなくなるという点です。これまでお話ししてきたように,学生時代と同様,あなたがまだ若いとしたら,自分に実力や魅力がさほどなくてもたいていの人はおもしろがって会って話を聞かせてくれるかもしれません。しかし,みなさんが40代以降になった時,見ず知らずの人に突然「会ってくれませんか」とお願いしても,せいぜい「宗教の勧誘か?」とか「生命保険の契約や不動産の購入をすすめられるのでは?」と警戒されるのがオチです。よほどみなさんの実績やその業界内での評判が高くないと会ってくれなくなり,自分の魅力なくして人脈だけ得るということは難しくなるのです。

塩野 誠 (2013). 20代のための「キャリア」と「仕事」入門 講談社 pp.103-104

時代で変わる

就職先については,その時代によって旬な企業というのは変わっていきます。毎年雑誌に掲載される学生による人気企業ランキングは,ビジネスの真ん中にいる人間からすれば,結構ズレを感じるネタです。
 20年前にはグーグルはなかったわけで,出てきた当時はみんな「グルグル」とか間違えて呼んでいて,まさかこんなに日常生活に不可欠なものになるとは思っていませんでした。もっと過去に遡ったら,日本の高度経済成長期の花形産業は石炭やセメントで,その頃はまだ半導体もありませんでした。そして半導体が出てきた時代にはスマホやアプリなんかはまだ影もかたちもなかったわけです。繊維が花型だった時代があって,その後は斜陽産業となりましたが,現代にハイテク素材メーカーとして生き残った企業もあります。

塩野 誠 (2013). 20代のための「キャリア」と「仕事」入門 講談社 pp.78

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]