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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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理由を考えるほど

私たちが,サンダース氏の例のように他者を不利な立場に追いやるような判断の誤りについてあまり修正しようとしない理由は簡単に推測できるが,自分自身に大きく影響するような判断についてはどうだろうか。私たちは,自分自身の利益が危険にさらされるような状況では,マインド・バグを避けるようにより気をつけるだろうか?一例として,6名の友人と読者が実験に参加していると想像してほしい。6名からランダムに選んだ3名の友人に,それぞれの恋愛相手を好きな理由を3つあげるよう尋ねてみる。また別の3名には,おなじことに着いてつの理由をあげるよう尋ねてみる。その後,両方の友人にこの1つの質問をする。「あなたは,あなたの恋愛関係についてどの程度満足していますか?」。驚くことに,3つの理由のみを書いたグループは,9つの理由を書くよう言われたグループよりも,彼らの恋愛相手について,またその相手との関係についてより幸福感を報告したのだ。
 このバイアスの説明は,直感に反したものではあるが単純である。自分の恋愛相手の良いところについて「9つも」挙げることができる人はいるだろうか。カトリックの列聖でさえ,奇跡は2つでよいのだ!9つも良いところをあげるよう言われた人たちは,3つと言われた人たちよりも苦労するため,「やれやれ,良いところをあげるのはかなり難しかった。もしかして,自分の相手は思っていたほどにはすばらしい相手ではないのかもしれない」という考えに行き着くのだ。これは利用可能性バイアスと呼ぶが,ミシガン大学のノーバート・シュワルツは,このように重要で親しい間柄の愛情でさえも,このバイアスの現象が起こることを示した。

M.R.バナージ・A.G.グリーンワルド 北村英哉・小林知博(訳) (2015). 心の中のブラインド・スポット:善良な人々に潜む非意識のバイアス 北大路書房 pp.40-41
(Banaji, M. R., & Greenwald, A. G. (2013). Blindspot: Hidden biases of good people. )
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現代の無意識概念

その概念に代わり,現代的な無意識の概念は,フロイトの概念に比べて知名度ははるかに低いものの,新たな歴史的重要事項として功績があると考えられている。19世紀のドイツ人の物理学者であり生理学者のヘルマン・フォン・ヘルムホルツは,「unbewußter Schluß」または「無意識的推論」という語を提出し,シェパードのテーブル天板のような錯覚がどのようにして起こるのかを説明した。つまりヘルムホルツは,心が,物理的データをもとに意識的な知覚をつくり出す方法を説明しようとしたのだ。意識的な知覚とは,「見る」という私たちの日常的で主観的な経験を説明するものである。私たちの視覚システムが単純な2次元画像にだまされ得るのは,網膜に映った2次元の形のイメージを,それが示唆する形へと意識的に知覚する3次元のイメージへ,無意識的な心的活動が入れ替えるからである。

M.R.バナージ・A.G.グリーンワルド 北村英哉・小林知博(訳) (2015). 心の中のブラインド・スポット:善良な人々に潜む非意識のバイアス 北大路書房 pp.27
(Banaji, M. R., & Greenwald, A. G. (2013). Blindspot: Hidden biases of good people. )

確率を小さくコントロールする

しかし,実際に一億分の一あるいは百億分の一という確率を検証することは不可能である。そこで重要なのは,

  互いに無関係な二つの因果関係によって起こる二つの事象が同時に起こったときにのみ起こる事象の確率は,最初の二つの事象が起こる確率の積である。

という法則(乗法法則)である。このことは「互いに無関係な因果関係によって生じる事象は,確率的に独立である」ということを意味している。もちろんこのことが正しいという論理的保証はないが,しかし二つ以上の因果連鎖を別々に考えることができるということは,実はその生み出す結果が独立であるという仮定を含んでいると考えられるので,現実的な行動原理としては妥当というよりも,むしろ必要である。
 そこである事象が起こる確率がきわめて小さくなるようにするには,いくつかの事象が同時に起こらなければその事象が起こりえないようにした上で,それぞれの個別事象の起こる確率を検証可能な小さい水準に抑えるようにすればよい。それは多重安全システムの基本的な考え方である。そうして一つの安全システムが失敗する確率が千分の一互いに独立はシステムを四重に設けておけば,全部が失敗して大災害が現実化する確率は一兆分の一となって,これは十分小さくて事実上ゼロといえるだろう。
 現実にきわめて高度の安全性を保障されていたシステムが大事故を起こしてしまった場合には,実は何重にも設けられていた安全システムが実際には互いに独立でなく,共通の一つの要因によって同時に機能しなくなってしまった場合が多い(その最も明白な例は,そこで働いている人々が安全ルールを守らなかった場合である)。
 稀な,しかし起こってしまったらきわめて重大な結果をもたらすような事故を防ぐために最も重要なことは,「確率の乗法原理」が成り立つ条件を確保することである。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.207-209

ケトレーのドグマ

個人の特性の分布は正規分布になるはずであるという,いわば「ケトレーのドグマ」というべきものは,その後多くの分野における統計的分析において用いられている。すでに19世紀において,「統計学者は特性値の分布が正規分布になることを数学者が証明したと思い,数学者は統計学者がそのことを経験的に実証したと信じている」と批判されたにもかかわらず,現在でも「ケトレーのドグマ」の影響はなくなってはいない。知能指数IQの分布は正規分布になるということが仮定されることが多いのはその例である。
 ただし,偶然変動する量について正規分布を仮定するのは,それを分析の出発点におけるモデルとして設定する限り,十分な合理性があるのだが,ここでは深入りしない。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.193

不運をわかちあう

事故については,それが起こる確率がなるべく小さくなるように,すべての関係者が事前に努力すべきことは当然であるが,しかし小さい確率のことでも「偶然」起こってしまうことはある。その場合には事後処理として「不運」を適切に分かち合うことが必要である。損害賠償の問題はそのような観点から考えるべきである。またその場合,保険によって保険会社が損害を補償する(もちろんその場合には当事者の少なくとも一人があらかじめ保険に入っていなければならないが)こともありうる。
 事故の事後処理において,当事者の一方が故意または過失によって事故の起こる確率を大きくするようなこと(例えば酔っ払い運転)をしているのでなければ,道徳的なあるいは法律的な「責任問題」をあまり論じ合うことは不毛であろう。「不運な事故」は「不運」なのであって,それは本来不条理なものである。それについてすべての当事者が満足する解決などはありえないのであって,可能なことはその「不運」の適切な分配によってその作り出す「不幸」,つまり不運な事故の被害から生じる人々の惨めさをなるたけ少なくすることでしかないのである。
 そのためには人々の間の同情心と適切な社会ルールが必要である。そのようなルールの中では,当事者のそれぞれの「不運」を負担しうる能力と,事故が起こる確率を小さくしえた可能性とを考慮に入れる必要がある。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.172-173

regression=回帰?

現在では,統計学上のregressionという用語は「回帰」と訳される。そしてこの訳語にも含まれている「もとにもどる」という意味は,まったく失われている。ゴールトンのもともとの意味では,regressはprogressの反対語であり,むしろ一時使われたこともある「退行」という訳語のほうが正確な意味を伝えていると思う。
 もし遺伝の基本原則が「退行」であるならば,突然変異によってある変異が生じたとしても,それは子孫の間では消えてしまうはずであり,新しい変異が固定するためには,同じ方向への突然変異が繰り返し起こらねばならないことになる。そのようなことが起こる確率はいちじるしく小さいと思われても当然であろう。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.136

別の考え方

もしそれが発生すれば莫大な損失を発生するような,絶対起こってはならない現象に対しては,大数の法則や期待値にもとづく管理とは別の考え方が必要である。
 例えば,「百万人に及ぶ死者を出すような原子力発電所のメルト・ダウン事故の発生する確率は一年間に百万分の一程度であり,したがって「一年あたり期待死者数」は1であるから,他のいろいろなリスク(自動車事故など)と比べてはるかに小さい」というような議論がさなれることがあるが,それはナンセンスである。
 そのような事故がもし起こったら,いわば「おしまい」である。こんなことが起こる確率は小さかったはずだなどといっても,何の慰めにもならない。また,もしそのことが起こらなかったら,何の変化もないので,毎年平均一人はそれで死んだはずだなどというのはまったく架空の話でしかない。このような事故に対して,料率が百万分の1の保険をかける,あるいはその他の対策によって「万一に備える」というのは無意味である。なすべきことはこのような事故が「絶対起こらないようにする」ことであり,そのうえでこのようなことが起こる可能性は無視することである。
 このようにいうと,小さい確率であってもまったくゼロではない限り,それを無視するのは正しくない,したがって,巨大事故の確率がゼロであるといいきれない限り,原子力発電所は建設すべきではないという議論が出されるかもしれない。
 しかし,個人でも人々の集団でも,あるいは一つの社会,国,さらに人類全体でも,その生存を脅かすような危険性はいろいろ存在するのであって,それらの確率は決してゼロではない。それらが人間の行動によって起こされる場合,あるいは逆に人間の行動によって防止できる場合,その確率をできるだけ小さくするように努力しなければならないことはいうまでもない。しかし,その確率を完全にゼロにすることは不可能であるかもしれない。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.201-203

信頼係数

実際には,信頼係数99%ということは,特定のデータから計算した信頼区間がmの値を含むことは「ほぼ確実である」ということを意味すると解釈されるであろうし,またそう解釈することができないのでは,統計的方法を現実に応用できなくなってしまう。
 より詳しくいえば,
  信頼区間がmの値を含む確率は99%である
   ↓
  標本を何回も取ってそのたびに計算すると,百回のうち99回は信頼区間がmの値を含む。
   ↓
  したがって,特定の標本に対して,そこから計算される信頼区間はほぼ確実にmを含む(その確率は99%である)。
   ↓
  標本を観測してxbarの値を得,それから信頼区間を計算すると,それはほぼ確実にmの値を含んでいる。その確からしさは99%である。ここでmは確率的に変動する量ではないということにこだわるならば,確率ということばは避けて信頼係数99%といってもよいが,それはこの特定の区間がmを含んでいることの確からしさの尺度と考えるべきであって,多数回の繰り返しの中の比率ではない。
ということになるのである。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.114-115

確率とは

確率の解釈について,いろいろな考え方があることを述べたが,それらは互いに背反するものではない。むしろ,それらは確率の概念を適用する範囲の違いと考えるべきである。両端の極端な考え方,つまり「確率は頻度そのものであり,一回限りの事象には適用すべきではない」とする確率=頻度説と,逆に「確率とは個人が感じる心理的な確からしさの尺度である」という主観確率=心理説を除けば,「確率とはある事象が起こること(あるいはすでに起こったがまだその結果が知られていないこと)の確からしさの合理的な尺度である」という定義には異論はないはずである。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.82

エントロピーとランダム

エントロピーは見方を変えればランダム性の尺度であり,エントロピーが大きいということは,系の中の区別がなくなって,秩序が破壊され,無秩序になっていることを意味するのである。
 「エントロピー増大の法則」は,熱力学において「エネルギー保存の法則」と並ぶ基本法則とされている。ニュートン力学の法則がすべて時間に関して対称的であるのに対して,この法則は時間的に1つの方向にしか向かわず,不可逆的である。分子の運動が可逆的なニュートン法則に従うのに,なぜそこから不可逆的なエントロピー増大の法則が導かれるかは1つのパラドックスであるが,それが個々の分子の運動がランダムであることから起こることに注意しよう。
 最初に多数の分子(でも何でもよい)が規則正しく並んでいたとして,それらが個々にばらばらに動き出せば,規則性がしだいに壊れてやがて一様にランダムな状態になってしまうであろうということなのである。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.72-73

ランダムになるもの

客観確率が想定するようなランダムな系列を表す現象は現実に存在するであろうか。実際に発見され,経験的に検証されたものには次のようなものがある。
 (1)測定の誤差。ものを測定するとき,測定値と真の値との間にはどうしても誤差が生じる。測定を注意深く行えば,誤差はランダムになると思われる。そうして誤差の分布は正規分布になる。このことから測定をN回繰り返してその平均値(算術平均)をとれば,誤差は1/root(N)になることが導かれる。また,誤差の分布が正規分布であるという仮定から,ガウスは最小二乗法を導いた。
 (2)サイコロ,カード遊び,ルーレットなど,多くの賭けの道具のもたらす結果。昔から,賭けにおいては,結果がランダムでなく,したがって結果をある程度知ることができるようなメカニズムは「インチキ」として厳しく咎められた。そこで「公正な賭け」を行うために,ランダムな系列が得られるようなものが選ばれ,あるいは作られたのである。
 (3)事故のような偶然事件。大きな集団の中で比較的まれに発生するような事件が,一定期間内に発生する回数は,簡単な確率モデルを仮定すればポアソン分布になるが,現実にそのような分布が発生することを確かめたのはドイツの統計学者ポルトキエウィッツである。彼はプロイセンの軍団で,一軍当たり一年間に馬に蹴られて死んだ兵士の数を調べて,その分布がポアソン分布になっていることを示し,このことを「少数の法則」と名づけた。その後,一定期間に一定地域内で発生する事故の件数などの分布が,かなりよくポアソン分布で近似できることは多くの事例で確かめられている。
 (4)遺伝法則。メンデルは両親からの遺伝子が子に伝えられる場合,その組み合わせが確率的になると考えられることを示した。例えば,両親のもっている遺伝子がともにAaで表わされる場合,伝えられた遺伝子が
  AA Aa aa
となる比率が1対2対1になることを,有名なエンドウマメの実験で確かめた。
 (5)時間の中でランダムに起こる事象。この場合,簡単な確率の議論から,ある時点から次に事象が起こるまでの時間をTとすると,Tが指数分布に従うことが導かれるが,実際に多くの事象についてこのことが観測される。特に放射性元素について,1つの原子が放射線を出して崩壊するまでの時間は確率的に変動することが知られている。このような現象がポアソン過程といわれている。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.66-68

ランダム

現実にランダムな現象が存在するか否かは,検証してみなければならない。もちろん実際には無限回の実験を行うことは不可能であるから,十分多数回の実験の結果がほぼランダムな系列になっていることを確かめれば,それはランダムと見なすことができるであろう。そうしてまた,ある種の実験の結果がランダムな系列になることが経験的に知られていれば,同じ条件で行われる他の実験の結果もランダムになると考えてよいであろう。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.66

どちらを買う

例えば宝くじを買う場合,2枚のくじがあって,それぞれの番号が
  1,000,000番
  4,194,304番
であったとしたら,最初のくじを買う人はいないであろう。しかし,客観的に考えれば(わざわざ頻度をもち出さなくても)この2枚のくじが当たることは「同じ程度に確からしい」ことは明らかである。しかし,そのことを理解している人でも(筆者自身を含めて)最初のくじのような「不自然な番号が当たるはずはない」という心理が働くことは避けられない。しかし,そこでさらに,実は
  4,194,304 = 2^22
であって,したがってこれを2進法で書くと
  10000000000000000000000
となることがわかったら,今度はこの番号を買おうとする人はずっと少なくなるであろう。
 

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.48-49

偶然の3種類

どのような場合に,本来必然的な因果関係に支配されていながら,偶然とみえるものが発生するかについては,もう少し具体的に考えなければならない。偶然現象を発生させるメカニズムとして,昔から3種類の場合が考えられてきた。
 1つは,初期条件のわずかな違いが結果に大きな,あるいは明確な違いをもたらす場合である。

 偶然現象の第2は,2つあるいはそれ以上の互いに無関係な因果関係が,同時に働くことによって生じるものである。

 偶然現象の第3は,微細な多数の原因の結果として生じる連続的変動である。古くから物理量の計測誤差は,その大きさを予測することは不可能であり,また計測や計算の間違いなどがない限り,事後にも説明不能であるから,偶然的に変動するものとされていた。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.33-36

因果関係の単純化

ニュートンの宇宙観には,完全な決定論というほかに,もう1つの面がある。それは因果関係というものを単純化したことである。アリストテレスは,ものごとの原因には4種類があるとした。それは質料因,動力因,目的因,形相因である。
 質料因とは,あるものが本来もっている本質によって,その性質や現象が決められることをいう。つまり,いろいろなものが示す性質や振る舞いの違いは,それらが本来もっている質の違いによって生ずるということである。
 動力因とは,あるものが他から加えられた力によって,現象が引き起こされることをいう。あるもの,あるいは,あることが原因となって次のことが起こるという場合である。
 目的因とは,ある目的を達成するために,あることが引き起こされることをいう。
 形相因とは,もののあるべき形のことをいう。例えば,プトレマイオスの天文学では,天体は地球の周りを円運動するものと考えられたが,それは円というものが完全な形であるからだとされた。
 近代科学は,動力因以外のすべてを否定した。つまり,質料因,目的因,形相因をものごとの説明原理として認めないことにしたのである。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.24

必然性の条件

『偶然性の問題』という著書(1935年刊)を著した哲学者九鬼周造は,偶然性を必然性の否定と定義した上で,必然性とは何かということから議論を始めている。
 九鬼は必然という規定を,(1)概念性,(2)理由性,(3)全体性の3つに分け,それぞれ,(1)概念と徴表との関係,(2)理由と帰結の関係,(3)全体と部分との関係において把握されるとしている。そうして,この3つの必然を,(1)定言的必然,(2)仮説的必然,(3)離接的必然,と名づけている。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.4

必然とは何か

「偶然」とは「必然」の反対である。つまり必然でないものが偶然である。したがって「偶然とは何か」という問いは,「必然とは何か」と表裏の関係にあり,一方の答えは必然的に他方の答えを導くことになる。
 ところがよく考えてみると,「必然とは何か」という問いに対する答えは決して簡単ではない。それは,この宇宙に秩序を与えているものは何かという問いを含み,哲学の根本問題にかかわってくる。すべての宗教においても,それは根源的な問題である。近代哲学の宇宙観はそれに対して機械的因果論という1つの立場をとっているが,そのような立場自体は科学によって検証されるものではない。つまり科学は「原則的に検証可能な科学的法則によって説明される事象だけが必然的である」と主張するが,このこと自体は科学的に証明できることではない。さらにニュートン力学的宇宙観によれば,「すべての事象は数学的に表現できるような力学的法則に従い,したがって必然的である。この宇宙に偶然なものは本来存在しない」と考える。そうして,人間にとって「偶然」と見えるものは,対象についての知識が不十分なためにそのように思われるだけであり,したがって「偶然」とは「無知」の結果であるにすぎない,とラプラスは主張した。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.iii-iv

やり甲斐は幻想

そういう意味では,小説家以外の職業,あらゆる職業でも,まったく同じことがいえるだろう。近頃は,仕事に「やり甲斐」を求めたり,「憧れの職業」などといった幻想を持ったりする若者が多い。それは,そういったイメージを植え付けようとする勢力があるからだが,実社会にそんなものは存在しない。幻想なのである。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.197-198

感情が動機ではできなくなる

「好きだから」という理由で書いている人は,好きでなくなったときにスランプになる。「自慢できる」仕事だと思っている人は,批判を受けるとやる気がなくなる。つまり,そういった感情的な動機だけに支えられていると,感情によって書けなくなることがある,ということのようだ。
 それに比べれば,仕事で書いているかぎり,スランプはない。書けば書いただけ稼ぐことができる。人の心は人を裏切るが,金は裏切らない,ということか。守銭奴のような物言いになるけれど,これは正直なところである。仕事という行為は,例外なく守銭奴になることだ。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.197

ベストセラー

絶対数でいうベストセラは,とにかく出にくくなっている。ベストセラにランクインするものの部数自体が,かつてよりも一桁低い。ミリオンセラなど奇跡的な現象となってしまった。これは,書籍だけではない。あらゆる商品,あらゆるメディアで観察される現象だ。
 この傾向はさらに進むだろう。したがって,今はまだヒット作があっても,これからはもっと出にくくなる。平均的にはその方向へ進む。エントロピィが増大する自然現象と同じ理屈と理解する以外にない。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.177-178

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