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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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利己的な生き物

人間の行動は,その「快」を志向し「不快」を回避することで生じる。(理性でなく)感情や感覚によって行動が決まるこの過程は,われわれに,自分の利益に向けた行動を自然に起こさせる仕組みになっている。こうした仕組みを通じて,人間は,自分ではいちいち利害損得を考えていなくても,意識しないまま自分の利益に向けた行動をとる。言ってみれば,われわれは,自分の利益に向けて働くように「できている」のであり,自らが意識している以上に「利己的」な生き物である。

内藤 淳 (2009). 進化倫理学入門:「利己的」なのが結局,正しい 光文社 pp.46-47
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進化と進歩は違う

進化というのは,環境に適応的な性質を持った者が,そうでない者よりもたくさん生き残って子孫を増やすことで起こる現象だから,そこに競争的要素があるのは確かである。しかし,先にも述べたように,「適応」というのは,生物の遺伝子にどういう突然変異が起こるかとか,そのときの環境条件がどうなっているかといった偶然に左右されるもので,そうした偶然によって生物の体のつくりや行動パターンが,あっちに変化したりこっちに変化したりするのが進化の過程である。強い弱いで言うなら,今までの生物で最も強いのはおそらくティラノサウルスあたりではないかと思うが,彼らは進化の中でずいぶん以前に敗れて絶滅してしまっている。大きくて強い恐竜が気候の変化に適応できずに絶滅し,それまで恐竜の目を逃れてひっそりと暮らしていた哺乳類が繁栄したことからも分かるように,生物をとりまく環境は可変的で,その中で何が「適」で何が「不適」かも常に変動する。あえて競争にたとえるなら,昨日までは相撲で競争していた者同士が今日からは将棋で競争することになったというような状況が進化では常に起こりうるわけで,そこに強弱や優劣を持ち込むのはおかしいし,そもそも持ちこみようがない。進化と進歩は違うのであり,劣った者が淘汰されることで世界が良くなるとか発展するといった話は,人間行動進化学からは出てこない。

内藤 淳 (2009). 進化倫理学入門:「利己的」なのが結局,正しい 光文社 pp.29

進化は弱肉強食ではない

他方,進化についてこうした説明をすると,今度は,それを「弱肉強食」「優勝劣敗」の競争と結びつけて,弱い者や劣った者が淘汰されて,強い者,優れた者が残っていくのが進化だと考える人がいる。そういう人は,自然の世界はこうした競争によって強者が残って進化・発展するようになっている,だからそれは「善いこと」なのだと主張して,自由競争に賛成しそれを促進しようとするのが「進化倫理」だと思うかもしれない。実際,悪名高い社会進化論はそういう主張をした。しかし,ここにも誤解が蟻,進化は別に「弱肉強食」でも「優勝劣敗」でもないし,進化倫理学は,競争を擁護する思想とは違う。社会進化論というのは,単なる競争主義の価値観を,進化に関する誤った知識に当てはめて提示したもので,人間行動進化学や本書で論じる進化倫理学とは別物である。

内藤 淳 (2009). 進化倫理学入門:「利己的」なのが結局,正しい 光文社 pp.28-29

ノミのサーカス

演技するノミの歴史は古い。コーワンは1745年にロンドンでビングリー氏なる人物によって書かれた文章を紹介している。「ストランド街の発想豊かな時計師が陳列したるは……装飾をすべて備え,御者台に人形を座らせ,これすべてを一匹のノミだけで引いている象牙の四輪馬車」。1830年のイングランドはケント州の縁日で,三匹で軽々と荷車を引くノミ,二匹で荷馬車を引くノミ,真鍮の大砲を引っ張るノミを見世物にしていた男性がいたという。「興行師はまず見世物すべてを拡大鏡で見せ,その後肉眼で見せた。そうすると見物客もみんな,だまされていないと納得したものだ」とコーワンは記している。
 1877年,W.H.ドールはニューヨーク東16丁目付近のブロードウェイの門口に,「訓練を積んだノミの見世物」という表示が出ているのに目を留めた。ドールは少年時代,訓練を積んだというノミの驚くべき演技に,「不信の念の混じった特別な関心」を寄せたことを思い出した。そこで彼は中に入って見世物を見物した。ノミの演技をつぶさに観察したドールは,ノミはいかなる意味でも訓練されているわけではなく,演技はすべて,虫がなんとかして逃れようと試みている結果であると結論づけた。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.246

ウジの特徴

では,ウジはどうやって細菌におかされた傷を癒すのだろうか。外科医が傷口を消毒しようとするときにやることを,もっと手際よく,手数をかけずにやるだけのことだ。Debridementをウェブスターの辞書(Webster’s New College Dictionary)で引いてみると「傷つき,挫折し,あるいは感染した組織を外科的に取り除くこと」とある。外科医が死んだ組織をメスで切り離そうとすると,一緒に生きている組織まで損なってしまうのは避けられない。ところがウジは死んだ組織を文字通り細胞単位で取り除き,そのうえ好みがまことにうるさいので,死んだ細胞しか食べようとしない——生きている細胞には見向きもしないのだ。ウジは,最大限まで成長すると傷口を離れるので,傷を覆っている包材から取り除かれる。自然界では,動物の死骸や生きた動物の化膿創にとりついてせっせと腹を満たしていたウジはその段階になると——ほとんどすべての蝿の幼虫の例に漏れず——その場を離れて地面に落ち,浅い穴を掘って蛹になる。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.215

ウジ療法

ベアの発見は特に目新しいものではなかった。ロナルド・シャーマンとエドワード・ペクターは,メキシコとグァテマラの古代マヤ人やオーストラリア,ニューサウスウェールズ州のゲンバ族,そしてビルマ(現ミャンマー)の丘陵民族がウジ療法を行っていたとしている。1829年,ナポレオン軍の軍医が,戦闘で被った傷のウジは感染を防ぎ,治りを早くすることを発見している。しかし,この軍医が新たな知見を実用に供してウジ療法を行ったかどうかはわからない。ベアによれば,西洋の医師としてはじめてウジ療法を実行したのは,南北戦争時の南軍の軍医であろうという。ベアはウジはたったの1日で,ほかに手に入るいかなるいかなる薬剤,いかなる手段を用いるよりもきれいに傷口を掃除すると述べた。そして,ウジを使ったことで,そうしなければ失われていたに違いない多くの手足,のみならず傷ついた多くの兵士の命を救えたのだと確信していた。
 ベアの時代には,ウジ療法は医療技術として容認されるようになっていたと,シャーマンとその共同執筆者は記している。アメリカでおよそ1000人の外科医がこの療法を用い,レダーレ社では無菌化したウジを1000匹あたり5ドルで売っていた(現代の価格にすると100ドルに相当)。ウィリアム・ロビンソンによれば,1933年以前,アメリカ合衆国とカナダでは300におよぶ病院がこの療法を行っていたし,無菌ウジを培養する独自設備を備えた病院もあった。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.212-213

傷を塞ぐ蟻

1921年,イギリス領ガイアナ(現ガイアナ)でウィリアム・ビーブが地中のハキリアリの巣を掘り出していると,彼は怒り狂った防衛蟻の一群に攻撃された。攻撃してきたのは小さな働き蟻と中くらいの蟻,そして強力な顎のある体長2,3センチはあろうかという兵隊蟻で,兵隊蟻はその顎でビーブのブーツの革にがっちり食らいついた。翌年ビーブがブーツを取り出してみると,そこには「2匹の(兵隊蟻の)頭と顎が,過ぎた年の忘れられた襲撃の形見のように,まだしっかりと食いついていた」という。ビーブはさらに,「この万力のごとき顎の力は,蟻が生きていようが死んでいようが構わずに働くため,ガイアナの先住民は傷口を縫い合わせるのに利用している。針と糸を使うのではなく,大型の(ハキリアリの兵隊)蟻を集めてきて顎を皮膚に近づけるとがっちりと噛み合わさる。蟻が離れなくなったところで体を切り離し,傷が癒えるまで顎をいくつも噛ませておくのだ」
 海を渡って東半球では,蟻を傷口の縫合に使う画期的な方法は,紀元前2000年以前のインドではじまっていたとE.W.ガジャーは言う。この用法が最初に文献に現れるのは,ヴェーダの第四部だ。ヴェーダは古代サンスクリットの知恵を集めた書物であり,インド医学の最古の文献といってもいい。「腸閉塞の手術中,腸壁の」切開部を閉じるのに,生きたクロアリが使われた。なんと3000年以上前のことである!この知識は後にアラブ人に伝わった。イスラムの名のもとに,8世紀,アラビア半島を飛び出してアフリカ北部とスペイン,そしてフランス南部へと席捲した人々に,である。
 12世紀のスペインで医療に携わっていたアラビア人医師アルブカシスは,切り口を縫合するのに蟻を使った。中世紀末からルネサンス期には,ヨーロッパで傷口の縫合に広く蟻が用いられていた。当時,外科医の中には,そうした蟻の使い方を冷笑する者もあったという。とっくに廃れた手法だというわけだ。そして17世紀以後,ヨーロッパの外科医は縫合に蟻を使わなくなった。だが,地中海東部と南部では,少なくとも19世紀の終わりまで,この手法が生き続けていたようだ。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.204-205

長期保存可能

ハチミツは,糖が結晶化することはあっても,何週間も何カ月も,発酵することも腐敗することもなく貯蔵できる。それは,イーストやバクテリアといった微生物が,ハチミツの中では生きられないからだ。ジェイソン・デメーラとエスター・アンガートは,セイヨウミツバチの蜜にも,この後に紹介するハリナシバチの蜜にも,イーストやバクテリアを殺す化合物が含まれていることを突き止めた。ハチミツに含まれる水分は約20パーセントで,水分量がおおよそ70パーセントの微生物に比べてはるかに少ないため,ハチミツの中では微生物が枯死してしまうのだ。水分のような液体も気体も,濃度が高いほう(この場合微生物)から低いほう(この場合ハチミツ)へと吸収されてしまう性質があるからだ。つまり微生物の水分は浸透圧で吸い取られ,からからに乾いたぬけがらだけが残るわけだ。だがビショップは,バクテリアのスポレス(活動しない休眠状態)ならハチミツにとどまることができて,これが有毒なボツリヌス毒素を作ると警告している。スポレスは成人には害はないが,一歳未満の乳児では命にかかわることもある。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.180

ハチミツができる

蜜からハチミツへの転化には,蜜に含まれる大量の水分とさまざまな酵素が必要だ(酵素は生物化学反応を促進したり統制したりするたんぱく質)。蜂は蜜にたくさんの酵素を加えるが,そのひとつが蔗糖(スクロース)——一般的な家庭用の砂糖であり,蜜にもっとも多く含まれる糖分——の複雑な分子構造を切断して,フラクトースとグルコースのふたつに分解する。このふたつも構造の単純な糖で,ハチミツの成分中70パーセントを占める(ほかの酵素には別の働きがある)。この2種類の糖分に加えて,ハチミツには別種の糖分やたんぱく質,酸,ミネラル,さらにはごく少量のビタミンなどが含まれていて,おいしそうな色や匂い,味のもとになっている。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.178

昆虫を食べる

西洋人の中にも,わずかながら昆虫食への偏見を捨てる例外はある。1999年に発表した長い評論文において,デフォリアートは「西洋人であっても,先住民の伝統食文化に触れると往々にして熱烈な愛好家になる」と書いている。その例として彼は,近年のオーストラリアで「奥地の食べ物」,すなわちオーストラリア先住民の食への関心が爆発的に高まっていて,その中には昆虫食も含まれることを紹介している。「奥地の食べ物は,観光客がよく訪れるホテルやレストランで日増しに人気を集めるようになってきている」うえ,シドニーの洒落たレストランでもメニューに加えられるようになっている。中でも人気のある虫は,オオボクトウの幼虫だとロン・チェリーはいう。これはキクイムシの一種で,ボクトウガの仲間だ。ノーマン・ティンデールによれば,「熱した灰に包んで軽く焼くと,グルメもうならせる美味」だという。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.155

情報の消失

いまから2600年ほど前,ユカタン半島と中米にいたマヤ人は紙にかなり近いものにヒエログリフを記していた。マヤの本は古写本(コーディス)と呼ばれ,チャールズ・ガレンカンプによれば,植物の繊維を叩きつぶしたものを天然ゴムで固め,両面を白い石灰で覆った1枚の長い「紙」でできたものだったという。植物や鉱物の顔料で複雑なヒエログリフを記すと,その「紙」を折りたたみ,木か革の表装で挟んだ。ガレンカンプは,16世紀半ば,スペインの侵略者たちがマヤの図書館を気まぐれに破壊しつくし,後世の学者たちにとって宝物ともなったであろう貴重な情報源が理不尽に失われてしまったと指摘し,フランシスコ会修道僧ディエコ・デ・ランダに「異端審問の精神は赤々と燃えあがった」と皮肉な調子で記している。マヤの人々が頑として改宗を拒むのに激怒したデ・ランダは,マニの町にあった図書館の「異端の」コーディスを,町の広場で公開焚書するよう命じたのだった。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.132

残酷なドレス

フランク・コーワンは,1865年に発表した『昆虫史の愉快な事実(Curious Facts in the history of Insects)』で,カリブ諸島では「ククジュ(蛍)を装飾とすることが女性たちの間で最新の流行となっている」と記している。
 「舞踏会のドレス一着に,50から100匹の蛍が使われる。スチュアート大尉は,ご婦人の白い襟元に,少し離れたところからはまるで英国王室の王冠にきらめく100カラット以上のコヒノール・ダイヤモンドかと見まがうほど,見事なまでの美しさで輝く蛍が留まっているのを見たことがあると語ってくれた。蛍は体をピンで刺し貫かれてドレスに留めつけてあり,生きている間だけ飾られる。死ぬと光を発しなくなるからだ」
 こんな残酷な流行はすぐに廃れたことを祈るばかりだ。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.93

オーストラリアのウチワサボテン

18世紀の後半,ウチワサボテンとコチニールカイガラムシがオーストラリアに持ち込まれた。一大コチニール生産地を作ろうという目論見だった。その構想は実現しないままついえたが,ウチワサボテンは根付いた。園芸種として庭に植えられたものが,人の手を借りなくてもどんどん繁殖し,広がっていった。1900年には1万6000平方マイル(約4万960平方キロ),つまりニュージャージー州の面積の2倍ほどの牧草地がウチワサボテンに侵食され,さらに1925年までにはニュージャージー州の実に12倍にあたる面積の土地を覆いつくして,さらに広がる勢いだった。侵食された土地は事実上使いものにならなくなり,しかもその半分は,棘だらけの植物が密生して,人間も牛も羊もカンガルーも,文字通り足を踏み入れることさえできなくなっていた。ウチワサボテンの原産国,西半球では,これほどの異常繁殖はつとに見られなかった。最終的にオーストラリアの昆虫学者たちは,ポール・デバックが指摘しているように,ウチワサボテンの異常繁殖は,西半球でサボテンにつく虫がオーストラリアにはいないからだと結論づけた。そこで,サボテンを餌とする昆虫が新世界の各地から移入された。中にはコチニールカイガラムシの仲間も含まれていたが,効果絶大だったのは南米から移入されたサボテンガ(メイガの一種)なるうってつけの名前のついた蛾の幼虫だった。1937年には,サボテンの最後の密生地もサボテンガの幼虫が,ほんの小さな群落にまで食い滅ぼしてしまった。今もオーストラリアのウチワサボテンは,主にサボテンガが手綱をしめ続けているおかげで,ところどころに点在するだけになっている。そして牛も羊もカンガルーも,かつては荒れ野でしかなかった土地で,いまはのんびり草を食んでいる。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.83

染料の国家機密

コチニールカイガラムシには野生種もいくつかあるが,商業的に飼育される養殖種のほうが,いい染料になる。チャールズ・ホーグによると,コチニールカイガラムシの飼育と採取の技術は中央メキシコのアステカでもっとも発展し,スペインによる征服の後も長らく彼らの手で続けられたという。スペインはほぼ250年間——18世紀の終わり近くまで,コチニールを独占した。この時期コチニールはメキシコとグァテマラを中心に,新世界だけでしか生産されていなかった。スペインはコチニール染料の出所を「国家機密」とし,それが植物由来だという噂を否定する努力もしなかった。むしろそうした噂を率先して流した節もある。カナダの年ケベックの礎を築いたフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランが,1602年にコチニール染料の原料なるものを報告している。シャンプランの記述は徹頭徹尾彼の想像の産物だった。ドンキンの引用でシャンプランの描いたコチニールの絵とその解説を見てみると,コチニールは「胡桃大の実をつけるよく茂った低木で,実の中には種がいっぱいに詰まっている。この実を,種が乾燥するまで放置し,割って叩いて種を取り出し,さらなる収穫を得るためにこれを植える」ということになっていた。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.78

トンボの人気

何千年も昔から,日本人はトンボやイトトンボ(トンボ目)といった昆虫を愛でてきたが,世界中のどこででも,トンボが人気者だったわけではない。イギリスや北米では——ごく最近まで——一般には黙殺され,何の害もなさないのに,恐れられることさえあった。フランク・ルッツによれば,トンボは「悪魔のかがり針と呼ばれ,いけないことをした子どもの耳を縫いつけてしまうといわれていた。そのほかには,蛇の医者や蛇の飼育者という呼び名があり,これはトンボ類が爬虫類の生理的欲求に供するとされたためである。馬刺し虫という呼び名は,トンボが刺すというこれもまた誤謬に基づくものだ」という。

ギルバート・ワルドバウアー 屋代通子(訳) (2012). 虫と文明:蛍のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード 築地書館 pp.23-24

吊り橋へと案内

心理学者のドナルド・Ḡ・ダットンは,日本人研究者が訪れると,必ずカピラノ吊り橋へと案内させられた。この吊り橋はバンクーバーの近くにある観光スポットで,ロープとがたがたする板でできた幅1.5メートル,長さ150メートルの橋の下は,深さ70メートルの渓谷である。しかし日本からの心理学者たちが橋を見たがるのはそのためではなく,ここでダットンとその同僚のアーサー・P・アロンが「恋のややこしい生まれ方」を調べる有名な実験を行ったからなのである。

レト・∪・シュナイダー 石浦章一・宮下悦子(訳) (2015). 狂気の科学:真面目な科学者たちの奇態な実験 東京化学同人 pp.227

急いでいる人

さて結果は驚くべきものだった。ある人が進んで人を助けるかどうかに影響する唯一の要因は,どれほど急いでいるかだったのである。ゆっくり時間がある被験者が助けの手を差し伸べる確率は,急いでいる被験者に比べ,6倍にもなった。人々の個人的な信条はそれほどはっきり結果に影響しなかったが,「助けようとしすぎる人」には独断的な神学生が目立って多いのは確かだった。しかし,最も驚くべき結果はもう一つの問題についてだった。人々が他者を助けるかどうかは,そのときに彼らがあの良きサマリア人のたとえについて考えていたか(それともいなかったか)には,全く何の関係もなかったのである。実際に被験者の何人かは,被害者のそばを平然と通り過ぎていった先で,祭司とレビ人の非人間的なふるまいについて話をしたのだった。

レト・∪・シュナイダー 石浦章一・宮下悦子(訳) (2015). 狂気の科学:真面目な科学者たちの奇態な実験 東京化学同人 pp.204

都市伝説

それはともかく,エスキモーの雪を表わす言葉は,すっかり都市伝説になってしまった。1911年に最初にこの話に言及した言語学者フランツ・ボアズは,エスキモーには雪を表わす4つの異なった言葉があることがわかったとしている。ウォーフがこの数を7つに増やし,報道関係者たちがこれをさらに膨らませ,オハイオ州クリーブランドの天気予報では,雪を表す100種類の言葉と語るまでになった。現在では専門家は,より真実に近い数字として,10種類程度と考えている。

レト・∪・シュナイダー 石浦章一・宮下悦子(訳) (2015). 狂気の科学:真面目な科学者たちの奇態な実験 東京化学同人 pp.198

疑問

そのため,ミルグラムの得た仲介数5.5という数字が正しいかどうかは,今でもはっきりしない。彼はこの実験結果を,ふつうの方法,つまり学術雑誌ではなくて,大衆科学雑誌『現代心理学(Psychology Today)』で発表した。この記事のデータは大ざっぱで,検証可能な確実なものとはいいがたい。たとえばミルグラムは,わずか2人を介してケンブリッジの女性まで手紙が到達したカンサスの農場主の成功例をあげているが,この実験のもっと詳しい情報は,未発表の保存資料の形でしか見当たらない。カンサスの参加者へと依頼した書類入れ60通のうち,ゴールへと届いたのはわずか3通だけで,しかもその例では平均して8人を介していたことが判明している。ミルグラム(1984年に亡くなった)はのちの実験で5.5という数字を出しているが,これらの実験では,社会的ネットワークを広くもつ参加者を意図的に選ぶことが多かった。

レト・∪・シュナイダー 石浦章一・宮下悦子(訳) (2015). 狂気の科学:真面目な科学者たちの奇態な実験 東京化学同人 pp.179

スタンレーという名の重荷

数少ない証人の一人が,ミルグラムの研究助手で,現在はカリフォルニア大学の心理学教授をしているアラン・エルムスである。彼があの実験にかかわったということを知ると,未だに多くの人たちが,強い興味と強い嫌悪感の入り混じった複雑な反応を示すと,彼は語っている。
 人間自体にまつわる不都合な真実を暴いてしまったことで,ミルグラムは高い代償を払う羽目になった。ハーバード大学で彼はその後助教になったが,長くとどまることはできなかった。1967年にはかるかに格下のニューヨーク市立大学へと移り,そのまま1984年に心不全のため51歳で亡くなった。死の直前,孫が生まれた。孫のセカンドネームはスタンレーだと語った彼の妻に,記者がなぜファーストネームにしなかったのかを尋ねると,彼女はこう答えた。「スタンレー・ミルグラムという名前は,人生を送るのに重荷になるだろうと思いますから」

レト・∪・シュナイダー 石浦章一・宮下悦子(訳) (2015). 狂気の科学:真面目な科学者たちの奇態な実験 東京化学同人 pp.160-161

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