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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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最初の衝動

アメリカの政治で,真に強力で大がかりな反知性主義への最初の衝動となったのは,ジャクソン派の選挙運動であった。その専門知識層への不信,中央集権化への嫌悪,固定した階級の枠を根絶したいという欲求,重要な仕事はだれもが遂行できるという説などが重なった結果,この国で18世紀以来受け継がれてきたジェントルマンによる統治体系は否定され,公的な生活における知識階級の特別な価値も否定されるにいたった。それにもかかわらず,多くの知識人や文人,とくに若い人びとはジャクソンの主義主張を支持した。これは知識階級によく向けられる非難,知識階級が一般庶民の利益になるような運動に共鳴しないという非難が名ばかりであることをよく表している。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.136
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知識人階層への攻撃

すでに草創期から,アメリカの平等主義的衝動には政治の専門家の萌芽への,のちに専門職化と呼ばれるものへの警戒の念があった。自由人の政治能力にかなり誇りをもっていた多くのポピュリストの作家は,教養人や富裕層が政府のなかで特別の,あるいは非常に支配的な役割を占めることに当然ながら猜疑心をいだいていた。この猜疑心はそこにとどまらず,あらゆる学問に対する敵意へと変わっていった。反知性主義の潮流は,初期に発表されたポピュリズム的政治思想の一部に見出すことができる。革命期,ポピュリズムの文筆家の一部は富裕な名門層の権力を押さえるには,その盟友である知識人階層も攻撃の対象にすべきであると考えた。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.132

絶対的正義

ところが根本主義者の精神はまるで異質な存在だ。本質的にマニ教的思想をもつ彼らは,世界を絶対善と絶対悪の戦場と見なし,妥協を軽蔑し(彼らの見方に立てば,たしかにサタンとの妥協はありえない),いかなるあいまいさも許さない。また,たいした違いがないと思うことには重要性を見出すこともない。たとえば,リベラリストは現実的な目標をもった社会主義的政策を支持する。だが社会主義も彼らにすれば,無神論であることが明白な共産主義の変種にすぎないのである。すぐれた政治的知性なら,まず政治の現実を考える。そして敵対する勢力間の均衡にもとづいて,当初定めた目標が実際どの程度まで達成できるかをつかもうとする。ところが世俗化した根本主義者の精神は,まずなにが絶対的な正義なのかを決めてしまう。彼らにすれば政治の世界は,この正義を実現しなければならない戦いの場なのだ。たとえば,彼らは冷戦を現実世界の政治問題——ふたつの権力システム間の闘争であり,生き残るためにはある程度の妥協もやむをえない——とは考えず,たんに信仰間の衝突だと考える。また勢力バランス上の現実——たとえばソ連の核保有など——にではなく,共産主義者との精神的な戦いに関心をもつ。とくに時刻の共産主義者との戦いに関心をもつ根本主義者にとっては,共産主義者が現実になにをしようと,あるいは彼らが存在していようがいまいが問題ではなく,むしろ共産主義者は,精神の戦いにおける敵の原型を象徴しているにすぎない。根本主義者が一度も生身の共産主義者を見たことがない以上,現実味のある存在であるはずはないのだ。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.117-118

政治と根本主義

政治に関心をいだく根本主義者を極右に向かわせるのは,たんなる日和見主義ではない。自分たちが幅広い世界観をもつと考える傾向は他に劣らず根本主義者にも強くあり,宗教的反感と政治的反感を結合できれば満足感は高まる。彼らは,一見無関係なさまざまな憎悪を,たがいに強めあうかたちで結びつける能力を高めていった。たとえば現代の原理主義者が自分たちの宗教感情と冷戦を結びつけたように,彼らは20年代,第一次世界大戦の諸問題とそれにともなう反ドイツ感情の残滓に反応した。近代主義者への非難に共通してみられたのは,聖書批判がドイツの学問から最大の刺激を受けたという主張である。根本主義者たちはこの点を利用して,ドイツ人の非道徳性(戦争時の残虐行為にかんする逸話から明らかだとされた)と聖書批判の反道徳性との結びつきを強調することができた。その形式は単純なものから複雑なものまでさまざまだが,もっともわかりやすいのは,おそらくビリー・サンディのつぎのような発言だろう。「1895年,ポツダム宮殿に廷臣を集めた皇帝は,世界征服計画の概要を述べた。ドイツ人民はマルティン・ルターの教えに反する計画をけっして支持しないだろうとだれかがいうと,皇帝は叫んだ,「ならばドイツの宗教を変えてしまおう」と。こうして聖書批判は始まったのである」。
 この発言には,さらに包括的な偏見が感じられる。政治的不寛容と人種的偏見にかんする研究によれば,熱心かつ厳格な宗教信仰と政治的・人種的憎悪とのあいだには強い相関関係がある。そしてこの種の精神の存在こそが,「完全主義者」の出現を促し,現代右翼と根本主義者との類似性を生み出したのである。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.116

進化論教育への反対

テネシーをはじめ諸州の根本主義者が進化論教育に反対したのは,子どもたちの宗教——ひいては家族すべての信仰——を進化論者,知識人,コスモポリタンの害から救おうとしたためである。この点で,根本主義者にも同情の余地があるといえるだろう。彼らがこの論争を,家庭や家族を守るためと考えていた——この点は現代でも変わらない——とすれば,彼らの過激さも理解することができる。そのいい例が,原始バプティスト派の信者でテネシー州議員でもあったジョン・ワシントン・バトラーである。彼はテネシー州に進化論教育に反対する法律を導入したが,それは,彼の出身地の若い女性が大学へ行き,進化論者になって帰ってきたという話を聞いたからだった。この話で自分の5人の子どもたちの将来を案じはじめたバトラーは,1925年にみずからの願望を州の法律とすることに成功した。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.110-111

信仰に引き戻す

理由はともあれ,人びとは伝統的な宗教のいかなる拘束力によっても保持できない存在になり,礼拝形式やくわしい信条とも無縁になっていた。諸教派はこうした人びとに教会への忠誠を誓わせようとしていたのだ。もはやかつての形式や信条をとおして訴えても,ふたたび人びとを惹きつけられるとは思えなかった。有効手段と考えられたのは,人びとを最初にキリスト教に帰依させたもの,つまり一種原始的で情緒的な訴えを復活させることだった。復興運動は伝統手技が失敗した部分で成功した。情緒的高揚が,宗教的エスタブリッシュメントの強制的規制に取って代わったのだ。単純な人びとは,単純な思想によって信仰に引き戻された。力をもつ説教師は複雑さを排除し,人々にもっとも単純な二者択一の選択——天国か地獄か——を迫ったのだ。救済もまた,選択にかかわる問題だとされた。罪深き者は「宗教を掴む」ものだとされ,宗教が彼を掴むのではなかった。どのような方法であれ,人びとを信者の群れに引き戻せればよかった。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.74

自発的な活動

アメリカの教派主義の本質は,教会が自発的な組織になったことである。アメリカの信徒はいかなる教会にも加入を強制されることはなく,親から継承する伝統的な信仰も有名無実と化していることが多かった。そのため平信徒たちは,どの教派に忠誠を捧げるかを自由に選択できた。従来の教会では,信徒は生まれながらに属する教会が決まっており,国家がその教会への帰属を強制することも多かった。宗教的経験も,所属する教会の礼拝形式どおりだった。しかしアメリカの信徒には,生まれつき決まった教派も代々継承する宗教儀式もなかった。教派は往々にして自己を変革するような宗教的経験をした後に,自分の選択で加入できる自発的な団体だった。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.72

精神と学識の対立

「勉強もせずに!」これこそ,大覚醒の中心問題のひとつに迫るものだとチョーンシーは断言する。彼によれば「前の時代」の過ち,つまり「聖書以外の書物は要らない」と言った異端派や素人説教師の過ちがくり返されつつあるのだ。「彼らは説教には学問は要らないといった。そして彼らのなかには,学識に頼る牧師より,「精神」の上で上手に説教できる者もいると言ってのけた。あたかも「精神」と学識が対立するかのように」。これが復興論者の根本的過ちだとチョーンシーは考えていた。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.61-62

広い教養

ハーヴァードの卒業生の第一世代が,狭い神学教育しか受けていなかったと考えるのは誤りである。たしかに,ハーヴァードをはじめとする植民地大学の発端は神学校にすぎなかったと広く考えられてきた——そしてピューリタンの祖父たちが「学識のない牧師たち」の増加に不安を表明していたことは,この考えを裏づけているようにみえる。しかし実際には,ハーヴァードの創立者が訓練を受けたオックスフォードやケンブリッジ大学は,長期にわたる徹底した人文科学の伝統をもっていた。植民地時代の教育の創始者たちの目には,聖職者にふさわしい基本教育とその他の教養人に適した基本教育とは,なんら異なるものではなかったのである。ハーヴァードが神学校だったとみる考えは,近代の専門主義や教派間の競争の産物であり,大学の世俗化への脅威が生んだ反動にすぎない。そうした考えは創始者たちの視界の外にあった。彼らは他の職業につく学識者よりも,牧師の学識者を必要と感じてはいたが,牧師たちに対しては,他の世俗の指導者や実務家と机を並べておなじ教養課程に学ぶことを期待したのである。結果は彼らの望みどおりになった。ハーヴァードでは最初の二世代のうち,牧師になったのは卒業生の約半分だけで,残りの者は世俗の職についている。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.53

アメリカで融合

精神(マインド)と心情(ハート),情緒(エモーション)と知性(インテレクト)のあいだの緊張関係は,いずこでもキリスト教徒が常態として経験することである。それゆえ,宗教的反知性主義を特別にアメリカ的なものとするのは誤りだろう。アメリカが発見されるずっと以前から,キリスト教社会は長いことふたつのグループに分裂していた。ひとつは,知性が宗教のなかにきわめて重要な地位を占めなければならないと信じる人びと。もうひとつは,知性は感情の下位に置かれ,または感情の命令の下に,実質的に放棄されるべきだと信じる人びとである。つまり私が言いたいのは,新世界で新しい,さらに悪質な反知性主義が発見されたということではない。むしろアメリカ的条件の下で,片や既成の権威と,片や信仰復興論や熱狂者の運動とのバランスが大きく後者に傾いてしまったのである。その結果,学識ある職業的牧師は地位を失い,彼らの気性に合った理性的なスタイルの宗教も,当然影響を受けた。歴史の早い時期に,プロテスタントと異議申し立ての精神とを継承したアメリカでは,宗教の性格をめぐる普遍的な歴史的闘争が極端に極地的な色彩を帯びて展開した。そして宗教的熱情と信仰復興運動が,もっとも鮮やかな勝利をおさめた。アメリカの反知性主義の強さと浸透力の大半は,その宗教生活の特異性に由来する。とくに知識人を受け入れる確固たる制度の欠如,福音各派の競合する教派主義は大きな影響をあたえた。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.49

脱出の連続

こうしたことはすべて驚くに当たらない。アメリカに定住した人びとは男女とも,なによりも抑圧的で退廃的という理由でヨーロッパ文明を否定した人びとであり,もっとも顕著なアメリカ的素質を,当時の粗雑な社会形態にではなく,自然と原始的な世界のなかに見出した人びとである。文明から理想郷(アルカディア)への脱出,ヨーロッパから自然への脱出は,そのまま東部から西部への脱出,定住世界から辺境への脱出というかたちでくり返されてきた。アメリカ精神は何度となく,組織化された社会の侵食に苛立ちをみせてきた。一度捨て去ったものを再度押しつけようとするように思えたからである。文明を総体として否定することはできないが,依然としてそこにはなにか有害なものがあると信じられていた。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.44

反知性という敵意

反知性の立場はある架空の,まったく抽象的な敵意にもとづいている。知性は感情と対峙させられる。知性が温かい情緒とはどこか相容れないという理由からである。知性は人格と対峙させられる。知性はたんなる利発さのことであり,簡単に狡猾さや魔性に変わる,と広く信じられているからである。知性は実用性と対峙させられる。理論は実用と反対のものだと考えられ,「純粋に」理論的な精神の持ち主はひどく軽蔑されるからである。知性は民主主義と対峙させられる。それが平等主義を無視する一種の差別だと考えられるからである。こうした敵意の妥当性がいったん認められると,知性を,ひいては知識人を弁護する立場は失われる。だれがわざわざ,情緒の温かみ,堅固な人格,実践能力,民主的感情を犠牲にする危険を冒してまで,せいぜい単に利口なだけ,最悪の場合は危険ですらあるタイプの人間に敬意を払うだろうか。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.41-42

知識人の悲劇

知識人の悲劇のひとつは,自分自身や自分の仕事について最大の価値とすることが,その社会が測る彼の価値とまったく異なることである。社会が知識人を価値あるものと評価するのは,大衆娯楽から兵器の設計まで,知識人を多種多様な目的に利用できるからである。しかし,私がこれまで知性主義の本質だと指摘してきた気質を,社会が十分に理解することはほとんど不可能である。さまざまな形で現れる知識人の遊び心は,大方の人の目には,おそらくよこしまな贅沢と映る。アメリカでは精神の遊びは,思いやりや寛大な目で見られない唯一の遊びの形態だろう。知識人の信仰心も現実の危険はないにせよ,苛立たしく見られうる。そして,どちらの資質も,実用のビジネス社会には大した貢献はしないと考えられている。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.29-30

知性的であること

《知性的であること》を定義するには,たとえば知的な弁護士や大学教授と,知的ではない弁護士や大学教授の違いを見きわめることが必要である。もっと適切な言い方をすれば,なぜ弁護士や大学教授が,あるときは決まりきった純粋な職業的流儀にのっとって行為しているとされ,あるときは知識人として行為しているとされるのかを見きわめることが必要である。両者の違いは,仕事の基盤となる知識の性格ではなく,知識に対する態度にある。私が示唆してきたように,こうした人物はある意味では知識のために生きている——つまり,宗教的傾倒とじつによく似た,精神生活への献身的意識をもっている。これはべつに驚くにはあたらない。知識人の役割は,重要な部分で聖職者の職務を受け継いだものだからである。すなわち,考察という行為のなかに絶対的な価値を認める,ある特殊な意識である。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.24

知能と知性2

この知能の質と知性の質との相違は,そう規定されるというより,そう推量されるにすぎないことのほうが多いのだが,それらがよく使われる文脈から,両者の微妙な違いを察することができる。そしてこの違いはほぼだれにでも理解できることだ。つまり,知能はかなり狭い,直接の,予測可能な範囲に適用される頭脳の優秀さを指す。ものごとを処理し,適応するなど,きわめて実質的な特質——動物の長所のうち,適応するなど,きわめて実質的な特質——動物の長所のうち,もっともすぐれ,魅力あるもののひとつ——である。知能は,限定され明確に定められた目標の枠内ではたらき,そのために用をなさない考え方は,さっさと切り捨てる。そして,知能は世間一般で広くもちいられるため,そのはたらきは日常的に観察でき,単純・複雑,双方の考え方からおなじように評価される。
 一方,知性は頭脳の批判的,創造的,思索的側面といえる。知能がものごとを把握し,処理し,最秩序化し,適応するのに対し,知性は吟味し,熟考し,疑い,理論化し,批判し,想像する。知能はひとつの状況のなかで直接的な意味を把握し,評価する。知性は評価を評価し,さまざまな状況の意味を包括したかたちで探し求める。知能は諸動物のひとつの特質として高く評価される。それに対し,人間の尊厳を唯一表わすものである知性は,人間の特質のひとつとして高く評価される一方,非難もされる。両者の相違がこのように明確になれば,なぜ,だれがみても鋭敏な知能をもつ人が,やや知性に欠けると言われるのか,同様に,なぜまちがいなく知性的な人びとに,かなり多方面にわたる知能がそなわっているのか,理解し易くなる。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.21-22

知性と知能

世間の偏見を理解するには,まずその慣習的なあり方を分析するのが得策である。この観点から,人気のあるアメリカの著作に目を通すと,だれでも,知性という観念と知能という観念とが明確にちがうことに気づくはずだ。前者はよく,一種のののしりとして使われるが,後者はけっしてそういうことはない。だれも知能の価値を疑わない。知能は理想的特性として世界じゅうで尊重されており,知能が並外れて高いと思われる個人は深く尊敬される。知能の高い人はつねに賞賛を浴びる。これに対して高い知性をもつ人は,ときには——とくに知性が知能をともなうと考えられるときには——称賛されるが,憎悪と疑惑の目を向けられることも多い。信頼できない,不必要,非道徳的,破壊的といわれるのは知性の人であって,知能の高い人ではない。ときには,その高い知性にもかかわらず,知能が低いとさえいわれるのだ。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.21

反知性主義の指導者たち

私が知っている反知性主義の指導者にはつぎのような人びとがいる。福音主義の聖職者——その多くは高い知性をもち,なかには学者もいた。自分の神学を明確に説明できる原理主義者,きわめて洞察力に富んだ人物をふくむ政治家。実業家や,アメリカ文化の日常的な要請についてのスポークスマン。知的な主張と確信にみちた右翼の編集者。さまざまな作家のはしくれ(ビート族の反知性主義をみよ)。反共主義者の識者——知識人社会の大部分がいだいていた過去の異端思想に怒っている。そして共産主義の指導者もいた。彼らは知識人を利用できるときだけ利用するが,知識人の関心事をことさら軽蔑している。これらの人びとにきわめて顕著な敵意は,もろもろの思想自体にも,知識人自体にも向けられてはいない。反知性主義のスポークスマンはほとんどつねに,なんらかの思想に傾倒しており,同時代人のなかで陽があたっている知識人を憎むのとおなじぐらい,とうの昔に死んだ知識人に——アダム・スミスや,トマス・アクィナス,ジャン・カルヴァン,さらにカール・マルクスにさえ——傾倒しているのである。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.19

知識人に対する考え

以上の事例や出所や意図は多様だが,いずれも反知性主義にかんして格好の仮説を提示している。つまり,知識人は見栄っぱりでうぬぼれが強く,軟弱で尊大であるらしく,不道徳で危険で,社会の破壊分子であるともみられている。この仮説にもとづけばふつうの人間の十人並みの判断力は,とくに実務面で成功している場合,学校で正式に得た知識と専門の識見をはるかに凌がないまでも,十分それにとって代わりうる。知識人が影響力を発揮しやすい場所——総合大学や単科大学——が芯から腐っているのも,驚くに値しない。とにかく情操教育や,古い宗教的,道徳的諸原理が,新しい思想や芸術に呼応する知性を形成しようとする教育よりも,信頼できる人生の指針ということになる。小学校教育においても,身体と情緒の発達に逆らって知識のみを重視しすぎる教育は,社会的退廃をひき起こす恐れがあると見なされている。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.16-17

想像させる

ドイツのケッセル大学を中心とした研究グループは,他者の心のなかを想像することができれば,サイコパシー傾向が高くても,攻撃的な行動にはつながらないという可能性を見いだしました。
 コミュニティの15〜24歳の104名(男女含む)を対象とした調査が行われました。子供時代の両親との関係を思い出してもらったときに,親の心のなかを想像するような発言をする傾向のある若者は,サイコパシー傾向が高くても,能動的な攻撃は強くならないことがわかりました。能動的な攻撃というのは,攻撃を自分の望むものを得る手段としてもちいる傾向です。
 心のなかを想像するというのは,「心のなかは見えない」「それぞれの心は独立だ」といった行動を,「心」の観点から理解する傾向です。
 このとき,子供時代の両親との関係では,とくにつらかった記憶を思い出してもらうことで,単に他者の心を理解しているということを超えて,つらい感情がともなう状況でも,養育者の心を察していられるかを見ています。
 心のなかを想像する能力は,環境の影響も大きいとされています。つまり,治療につながる糸口として有力かもしれません。

杉浦義典 (2015). 他人を傷つけても平気な人たち 河出書房新社 pp.171-172

感情を当てるか

ノルウェーのベルゲン大学を中心とした研究グループは,92名の男性受刑者に,人物の目の部分の写真を見せて,それがどんな感情を示しているのかを読み当てるテストをしました。
 その結果,二次性サイコパシー傾向の高い人は,ネガティブな感情や中性的な感情が表出されているのを当てるのが苦手でした。「中性的な感情の表出」とは,とくに感情が表現されていないということです。ところが,一次性サイコパシー傾向の高い人は,中性的な感情が表現されているのを当てるのがむしろ得意でした。
 これは,これまでの実験結果からの予想に反する結果ですが,サイコパシー傾向の高い人が,人に付け入るのがうまいということを表しているのかもしれません。ときに,人の目から敏感にその人の気持ちを読み取ってしまうのです。

杉浦義典 (2015). 他人を傷つけても平気な人たち 河出書房新社 pp.143-144

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