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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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江戸の脚気

八代吉宗の治世は米の値段が激しく変動して庶民は物価の上昇に苦しめられた。吉宗は“米将軍”と呼ばれたほど米価の調整に力を入れたが,この間,着々と経済力をのばしたのは商人たちである。富裕になったかれらは1日3食の習慣を定着させ,やがて全国にこれがひろまった。江戸の町民はヌカを落とした精白米を腹一杯喰わねば満足しなかった。同時に江戸では脚気の病いが流行した。脚気はヌカに含まれるビタミンB1の欠乏によっておこる。春から秋口にかけて発症し,とりわけビタミンB1の消耗がはげしい夏場に悪化する。田舎から丁稚奉公にやってきた少年たちは白米飯を食べると足腰の力が抜け,いわゆる「江戸煩い」にかかった。盆に故郷へ帰って玄米飯を食べると奇病はなおる。家康の時代は食生活が質素で,武士たちも玄米を常食にしていたが,家治の時代には江戸城台所も味のよい精白米しか買い上げなかった。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.130-131
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綱吉の身長

プロローグで述べたように将軍が亡くなるとその場で遺体の身長を測り,これと同じ長さの位牌をつくって三河の大樹寺まで運んだ。大樹寺に展示された歴代将軍の位牌の中できわだつのは綱吉のそれが低いことである。わずか124センチしかない。綱吉は犬公方と呼ばれて人々を苦しめたから,亡くなったとたん,計測係がこのときとばかり身長を好い加減に計ったのかとわたしは勘ぐった。だが位牌は幕府が公式に製作して三河まで運ぶものであって,そんな非礼はできるはずもない。父家光の身長は位牌によると157センチ,母桂昌院のそれは遺体の実測値で146.8センチである。江戸時代の男女としては標準的寸法である。その両親から生まれた綱吉の背丈が小学2年生ぐらいしかないのは低身長症と断じてもよいだろう。
 低身長症の原因には内分泌異常,骨系統疾患,栄養不足,愛情遮断性小人症などさまざまなものがある。綱吉の肖像画を見ると均整のとれたからだつきをしており,特別な症状はみとめられない。したがって突発性(原因のはっきりしないとき医者はこういう便利な用語を使う)あるいは成長ホルモン分泌異常による低身長症と思われる。将軍が極端に小柄であれば,いかにも威厳が足りず,綱吉にとって大きなコンプレックスになっただろう。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.89-90

生類憐れみの令

信仰心の厚い桂昌院は江戸市中に大きな神社仏閣を建てさせた。神田橋の護持院はそのひとつであり,祈祷僧の隆光が桂昌院の帰依を得て護持院大僧正に任じられ,関東真言宗の大本山として威勢を示した。
 隆光は世継ぎが生まれる霊力のあるところをみせねばならない。だが,いくら祈祷をくり返しても側室たちに懐妊の徴がみられない。窮余の末,桂昌院と綱吉に吹き込んだのが『生類憐れみの令』の発令である。
 『憐みの令』そのものは「君主の仁慈は鳥獣にまでおよぶ」という儒教の理想を実現しようとしたもので,そこに内在する自然を尊重し動物を愛護する思想は現代人にとってもかえりみる価値はありそうだ。だが綱吉の顔色ばかりうかがう役人たちは,法の精神を理解せず運用方法をゆがめた。町民たちは犬や猫に石を投げただけで牢屋に放りこまれ,ときには島流しの憂き目に遭った。庶民は悪法を憎み,綱吉を「犬公方」とののしった。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.85-86

家光の精神不安

権力者の病いが世間に知れるのを幕閣は極端に恐れた。しかも現代とちがってなおりにくいうつ病(気分障害)である。御三家はもちろん全国の大名たちにこの病いを知られれば,いかなる不祥事がおこるかわからない。将軍家の絶対権力を確立するために幕閣は家光の精神不安をひたかくしにした。側近たちは家光の気を引き立てようと,猿楽,能狂言,弓術,馬術,あるいは鷹狩などさまざまな気散じを催した。講談の「寛永三馬術」や「寛永御前試合」などはこのような史実をもとに生まれたのであろう。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.65

家康の死因

一般に家康は鯛の天ぷらによる食中毒で亡くなったとされる。だが『江戸時代医学史の研究』を著した医史学者服部敏良博士は,家康の死因は胃がんではなかったかと指摘する。その根拠として,家康はしばらく前から食欲がなく,からだが徐々にやせてきたこと,侍医の触診にて腹中にしこりをふれたこと,もし鯛の天ぷらによる食中毒で死亡したならば数週間以内で決着がついたはずだが家康が亡くなったのは発病から3か月もかかったことなどをあげている。服部博士は家康の胃がんは以前から発症していて鯛の天ぷらが症状を顕在化させる引き金になったのではないかとも推測する。たしかに胃がんが腹上よりしこりとなってふれるようであればすでに末期であろう。食欲がないならと茶屋四郎次郎に鯛の天ぷらをすすめられた気配もある。がんはしばしば家系的にみられるが,のちに述べるように息子の忠英や孫の水戸光圀も消化器がんでたおれたことや,臨終間ぎわまで意識があったこともがんの発症をうたがわせる。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.34-35

家康のサプリメント

今川義元の日常生活をつぶさにみてきた家康はグルメ肥満の義元を反面教師として美食をさけ,ふだんは玄米食に大豆みそを中心とする粗食に徹した。サプリメントとして用いたのは精力剤の八味地黄丸である。地黄や茯苓,牡丹皮などを配合し,中年の精力減退,インポテンツ,前立腺肥大,膀胱炎など多方面に効能のある妙薬で,四百年経ったいまでも町の薬局で売っている。60を過ぎた家康が3人の男子をもうけ御三家を創立できたのも,このようなサプリメントのおかげであろう。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.27-28

元気な爺さん

家康は信玄,謙信,秀吉ら多くの戦国武将が壮途半ばで病にたおれるのを見聞きした。そこから最後に勝利をつかむのは長寿者であると健康を保つ重要性をみぬき,暴飲・暴食・過淫をさけ,ひらすら養生にはげんだ。『徳川実紀』にはその健康管理ぶりがことこまかに記されている。
 家康は幼少よりからだをうごかすことを好み,連日のように刀術,槍術,弓術,馬術,鉄砲,水練(水泳)などのスポーツ活動に身を入れた。駿府では人質屋敷からひと走りの安倍川へいって泳いだ。小・中・高校と静岡で育ったわたしは流れの速い安倍川で泳ぐなといいきかされたが,そこで泳いだ家康の腕前は相当なものだったと思う。慶長十五年(1610)年,古希を前にした69歳の時も駿府の瀬名川へ川釣りに出かけて川泳ぎをした記録があるから,ずいぶん元気なじいさんだった。

篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.25-26

究極の否定表現「嫌い」

「今日はですね,究極の否定表現,『嫌いだ』について考えてみましょう」
 「おお,そうですね。『嫌いだ』というのは,たしかに究極っぽいですね」
 「そうなんです。『この本を読んで,作者のことが決定的に嫌いになった』という感想で,全面否定することができます。理由とか論理を越えていますから,反論を許さない絶対的表現として用いられています。いわば捨て身の最終兵器ですね」
 「うーん,でも,好きか嫌いかは,個人的な嗜好の問題ですよね?」
 「そのとおり。ですから,『嫌いだ』とわざわざ公言しても,実際には作品の否定というよりは,その人本人の自己顕示としての意味しかありません。それでも,やはり,この評価に重みがある,と感じてしまう人が多いようです。それは,誰かから『お前は嫌いだ』と言われることを恐れている人たちが現代社会では非常に多い,ということでしょう」

森博嗣 (2014). 実験的経験 Experimental experience 講談社 pp.261

あなたとは無関係

読者は,いつもと違う作品,自分が期待していなかった作風に出会うと,「この作家,どうしたの?」という言葉を発する。それに対する答は簡単だ,「自分の思うとおりにしたかっただけです。あなたの気持ちなどとは無関係に」。

森博嗣 (2014). 実験的経験 Experimental experience 講談社 pp.233

小説

「誰に対してのものかは関係ないのです。この,読んで得るものがない,というのと,もう一つ頻繁に出てくるフレーズは,心に残るものがない,というやつですね。僕,思うんですけど,小説って,読んでなにかを得たり,読んで心に残すものなんでしょうか?それって,教科書とか聖書みたいですね。小説っていうのは,そもそも,得るものなんてないし,心に残るものでもないのでは?その証拠に,みんな読んだものを綺麗さっぱり忘れているじゃないですか。心に残るというのなら,読んだあと,もう少し振り返ってみるとか,じっくり考えてみるとか,したら良さそうなものなのに,つぎつぎと作品に手を出して乱読しまくるわけですよね。こういう読み方が,そもそもなにかを得たいとか,心に残したいとか,そういう姿勢と矛盾していると思えるのですが,いかがでしょうか」

森博嗣 (2014). 実験的経験 Experimental experience 講談社 pp.67-68

答えられる問題

脳科学リテラシーに関しては,脳科学が答えられる問題とそうでない問題を区別することの重要性を周知徹底させることも大切だ。脳科学の役割は,精神現象に関連した脳のメカニズムを解明することにあり,その専門知識を有効に活用できる問題に適用すれば,発想の大躍進や臨床的な進歩につながる見込みは十分ある。だが,不向きな問題を振り向けられても,答えの出ない袋小路に迷い込むのがおちで,悪くすれば,科学の権威の悪用につながるだろう。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.227-228

神経中心主義の罠

きわめて重要な心理や社会,文化のレベルでの分析に顧みずに,過剰や食欲や社会行動を脳に依拠して説明すると,神経中心主義の罠に陥る。したがって,そのような説明がろくな成果を生まないことはほぼ間違いない。科学者は(ニューロンや心,行動,社会生活といった)さまざまなレベルで人間の行動を記述できるが,物理的側面と心理的側面の大きな隔たりを埋め合わせる段階にはほど遠い。脳は心を,ひいては人間の機能を可能にする。だがその仕組みを,脳科学は(仮にいつかはできるとしても)いまだ十分に解明できていない。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.226-227

脳と行動

脳科学者は,脳のデータと行動の間に緊密な因果関係をいまだに構築できていない。有責性——つまり,誰が理性に従うことができて,誰ができないか——の判断に重要だと法律が見なすほどの有意義な特性を脳科学が明らかにできるまでは,脳画像の価値は法的妥当性をはるかに踏み越えた,ただの誇張にとどまるだろう。法律の枠内では,刑事的・道徳的責任の帰属は,悪しき行動を引き起こした原因にはかかっておらず,加害者が予見可能な結果に影響を受け,それに従って行動を改めるに足る理性を有していたかどうかで決まる。これが今日の法廷で「行動は画像より雄弁だ」と言われる所以であり,本来あるべき姿である。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.226

エネルギー節約

もし認知作用にかかるエネルギーを節約しなかったら,私たちは日常生活が突きつけてくる要求に圧倒されて,機能停止に近い状態に陥るだろう。歯を磨く,タクシーを止める,感情を抑える,制限速度を守るといった日々の活動に逐一注意を払わなくてはならないとしたら,どうだろう?実際,テニス選手としての才能の大部分——そして,市民としての道徳的責任の大部分——は,一連の適切な「自律的」行動を習得することにある。よく知られているように,アリストテレスも「美徳とは,有徳の行動を重ねることによって人間の中に形作られる」と言い切っている。
 したがって,この種の自由を,あるかないか,白か黒かという観点で捉えたら誤りになる。おそらく,白や黒や灰色の要素から成るモザイクと捉えるべきなのだろう。私たちの行動のある面はときおり,意識の制御下にある。とりわけ,難しい判断を下す必要があったり,計画を立てたり,重大な局面に立たされたりしたときなどがそうだ。だがその他の場合には,意識は蚊帳の外に置かれている。けっきょくのところ,ほとんどすべての行為が意識的な過程と無意識的な過程の入り交じったものから生じ,その割合は時々の状況によって変わると言えそうだ。行動や自制心をもたらしうる意識的な精神状態を人間が持っているかぎり,とくに法律も人々の道徳観全般も,根底から見直す必要はない。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.209

自由だという判断

通常の意味における責任能力は,一般に人が直観的に捉える道徳的行為者の意味内容に合致するように思われる。心理学者のロイ・F・バウマイスターとその共同研究者たちは,行動に自制心や理性的な選択,計画性,自発性の行使が認められるときに,被験者がその行為を「自由」だと判断することを突き止めた。つまり,普通の人にとって,「自由意志」とは理性によって導かれ,複雑な状況を見極め,道徳判断に従う能力を伴うものであることがわかる。さらに,さまざまな事象はそれに先立つ事象に起因するという見解を受け容れていた(そのため,仮想の加害者の責任を追求する傾向の弱かった)被験者も,加害者が怒りの感情を掻き立てるような凶悪犯罪を行なう筋書きをそのあとに示されると,その責任を認める率が高まることが,多くの研究チームによって確認されている。ようするに,人間は行動の決定権を欠くが責任を負うとの見解に,一般の人が与するということが,これらのデータから窺われる。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.202-203

決定論

人間が自分ではどうにもならない自然の法則に従う機械装置にすぎず,諸因の海で揺れ動く浮きのようなものである世界に生きるとは,何を意味するのだろう?決定論が正しいとすれば,その帰結は深刻だ。第一に,私たちは道徳的責任の概念を根底から見直さなくてはならない。なにしろ,ある状況におけるあなたの選択が前もって決まっている——そしてそれが唯一「なしえる」選択なのだ——としたら,誰に責を負わせればいいというのか?「固い決定論」と称される考え方によれば,そもそも選択の余地がないのだから,責任もいっさい存在しえない。そして,責めを負うべき者がいなければ,道徳的に刑罰に値する者もいない。あなたが悪事を働いたとしても,それはあなたの過ちではない。また,あなたが聖人のように振る舞ったとしても,それはあなたの功績ではない。人間の行為者性についてのこの説明は,自由意志(あるいは,一部の哲学者が言う「究極の自由」)という考え方を根底から揺るがす。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.196

関連の曖昧さ

現在のところ,脳に損傷や重い障害がある最も極端な場合を除いて,脳の特定の異常が当該の犯罪行為と関係するかどうかは,神経学者や精神科医や心理学者にはわからない。こうした曖昧さには多くの理由がある。
 すでに見たように,脳画像法は血液中の酸素濃度の変動を測定することはできるが,脳の活性化の変化を,被告人が(理性が著しく損なわれている,意志を形成できない,衝動を制御する力が弱まっている,などの理由で)十分な責任を負う法的基準を満たすことができない証拠だとする解釈は,まだ科学的に確実な基盤に立っていない。「異常」に機能的な意味があるとはかぎらないことも重要だ。神経学者が何十年も前から認めてきたように,「悪い」脳(不審な損傷が見られたり,機能的スキャンで異常な活性化のパターンを示したりする脳)を持ちながら,法を守っている人は大勢いる。たとえば,前頭葉の損傷は統計的には攻撃性の増加と関連づけられているが,それでもそうした損傷のある人のほとんどは,敵対的でも暴力的でもない。おそらく,各脳領域が緊密に接続しているおかげで,一部の領域が他の領域を調節したり,他の領域の埋め合わせをしたりできるのだろう。逆に,深刻な問題行動があっても,脳スキャンをすると,ほとんどあるいはまったく欠陥を示さない人もいる。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.172-173

ロンブローゾ

司法の場で骨相学の影響が弱まり始めたころに,イタリア人医師チェーザレ・ロンブローゾが,凶悪な犯罪は引き起こされるのであって,自由意志で選ばれるのではないという考えを提唱した。彼は連続強姦殺人犯を検死解剖したとき,頭蓋骨の内側,後方の正中部の,小脳があったと思われる箇所に異常な陥没があることを発見した。この窪みは「下等な類人猿や,齧歯類,鳥類」に見られるものと似ているとロンブローゾは記している。1876年にロンブローゾは『犯罪人論(Criminal Man)』を出版し,その中で,生涯にわたって暴力的な犯罪者には未開人への先祖返りが起こっているという考えを示した。「理論倫理学には,こうした病的な脳は素通りしてしまう。大理石の上にこぼれた油が染み込まずにそのまま流れていくのと同じように」と書いている。こうした生来の犯罪者は万人の安全のために永久に隔離される必要があるのに対して,生物学的により進化している他の犯罪者は教育して更生させるべきだと彼は言う。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.169-170

何を有罪とするか

犯罪者に責任を課す法制度の権限そのものが,責任の帰属に関する心的内容と意思能力の関係を正確に把握することにかかっているのだ。もう少し話を具体的にしよう。有罪と判断するにあたって,脳科学的データは,法にどのような手助けができるのか?この問いに答えるには,法が有罪かどうかをどのように決めるかを理解する必要がある。手短に背景に触れておく。アメリカの刑法では,ある人が禁じられた行為に及ぶ意図があった場合,本人に罪の責任を負わせる。意図があるというこの精神状態は「犯意(メンズ・レア)」あるいは「有罪の心(ギルティ・マインド)」と呼ばれており,通常,意志と無謀さのどちらかを要する。犯意があったという証拠がなければ,法は人に刑事責任を問えない。たとえば,自動車が勝手に暴走し,歩行者をはねて殺しても犯意があることにはならないが,車を歩行者に向け,アクセルを踏んでその人をひいた場合は犯意があることになる。
 とはいえ,禁止されている行為に及んでも罪を免れる状況もある。正当防衛がその一例で,命を奪うような攻撃を加えてくる不法な襲撃者を故意に殺しても許される。そのような攻撃は被告人の行為を「正当とする根拠」と見なされる。また,被告人が「免責される」状況もある。それはつまり,被告人の行為は依然として違法と考えられるが,被告人はその行動に責任はないと見なされるということだ。脅迫された場合(もし被告人が,よく言われる言葉を使えば,「頭に銃を突きつけられながら」罪を犯した場合)や,心神喪失[精神障害により善悪が判断できない状態]の場合も免責される。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.163-164

脳指紋法

脳指紋法は,特定の情報が「脳に保存されている」かどうかを検知できるとファーウェルは主張する。だが,「脳に保存されている」というのは,記憶の仕組みの隠喩としては欠陥を孕んでいる。脳は,忠実な音声・画像レコーダーのようには機能しないし,静的な記憶の保管所でもない。記憶は誤りを犯しやすい器械であり,ときにはものの見事に間違える。すべてが記憶されるわけではないし,記憶されるものも,歪められることがよくある。事象のコード化,保存,永続的な記録の作成,想起という,記憶の各段階で不具合が生じうる。罪を犯した人も,脳波を使った訊問に「合格」するかもしれない。激しい怒りなどで我を忘れ,犯罪の極めて重要な詳細が頭に入ってこないこともあるからだ。頭に入ってこなければ,脳は記憶としてコード化できない。仮に詳細がコード化されても,毎回永続的に保存されるわけではない。記憶は通常しだいに薄れていくし,時がたつうちに,それ以前やそれ以後の記憶と混ざり合いかねない。そのような合成記憶は,正確な記憶に劣らず鮮明で,本当に真に迫っているように思えることもある。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.138

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