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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ポリグラフ=興奮検知器

もし罪を犯していれば,体がそれを暴露するというのだからありがたいが,じつはそれは,よくてもはなはだしいまでに事を単純化しているし,悪くすれば,明らかな誤りだ。常習的な嘘つきは必ずしも不安にならない。精神病質者(サイコパス)はとくにそうで,彼らの末梢神経系は,たいていの常人に比べて脅威に対する反応が鈍い。一方,真実を語っている人は不安になることがある。とくに,重大な状況ではそうだ。嘘発見器には,無実の人も有罪のように見えることがよくある。彼らは訊問されるとおびえたり動揺したりし,胸がどきどきし,息が苦しくなり,手のひらに汗が滲んでくる。彼らは自分が罪を犯したと感じることすらありうる。ポリグラフ検査者は,そういう人のことを「有罪意識過剰者」と呼ぶ。嫌疑をかけられただけで自律神経系が刺激されるからだ。逆に,罪を犯している人は,場数を踏んだ犯罪者であることが多く,ポリグラフを欺く技術を心得ていることがしばしばある。たわいのない嘘に答えている間,舌を強く噛んだり,骨の折れる暗算をしたりして,生理的な反応を起こす。そうしておけば,実際の犯罪について嘘をついたときには,結果はそれほど劇的でなくなる。
 というわけで,ポリグラフは煎じ詰めれば興奮検知器であり,嘘発見器ではない。ポリグラフは「偽陽性」を生み出す率が高くなりがちで,当局が無実の人を罰することにつながりうるし,そこまで多くはないものの「偽陰性」も生み出すので,有罪の人の容疑を誤って晴らしてしまう。適切に実施されたポリグラフ検査では,嘘をついた人のおよそ75〜80パーセントを正しく見つけ出せる(正真正銘の陽性)が,真実を語っている人の約65パーセントを誤って嘘つきと判定してしまう(偽陽性)と,アメリカ科学アカデミーは推定している。判断を誤った有名な事例を2つ挙げよう。1986年,ソヴィエト連邦のためにスパイをしていたCIA職員オールドリッチ・エイムズは,有罪とされなかった(偽陰性)。逆に1998年,エネルギー省の科学者ウェン・ホー・リーは,中国政府のスパイだと誤認された(偽陽性)。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.134-135
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嘘だらけの世界

嘘を検知できないというのは,嘘だらけの世界でははなはだ不都合だ。人は,10分以上続く社会的相互作用の5回に1回で嘘をつくと認めている。これは,平均すると少なくとも1日1回になる。ある人が徹底的に文献を調べたところ,英語の語彙には「collusion(共謀)」「fakery(ごまかし)」「malingering(仮病)」「confabulation(作話)」「prevarication(二枚舌)」「exaggeration(誇張)」「denial(否認)」など,嘘という含みのある単語が112個あったという。イギリスの精神科医で嘘の専門家,故ショーン・スペンスは,どの文化にも,正直を意味する単語よりも嘘を意味する単語の方が多いことに気づいた。欺き方はいくらでもあるが,真実を語る方法は1つしかないからかもしれない。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.130

自滅の理由

中毒問題の核にあるパラドックスは,選択能力があるのに自滅を招くのはいったいなぜか,だ。「中毒になりたくてなった人になど,私は一人として出会ったためしがない」と語るのは,2003年にレシュナーの後任として国立薬物濫用研究所の所長になった脳科学者のノラ・ヴォルコウだ。まさにそのとおり。肥満になりたくてなった人に出会ったことのある人がどれだけいるのだろう?人生で望ましくない結果は,たいてい徐々に訪れる。「中毒者が毎日ハイになることを選択するのは想像できるが,中毒者になることを選択するとは思えない」と心理学者のジーン・ハイマンは言う。「けれども,毎日ハイになることを選択すると,中毒になってしまう」

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.100

サリエンス

中毒者を惹きつける薬物類の力を表すときに脳科学者がよく使う用語に「顕著性(サリエンス)」があるが,これは好むというより欲する感覚,いや,必要とするという感覚でさえある。顕著性の発達は,経験を伝達する神経経路にたどることができる。この経路は,脳の下側の,腹側被蓋野と呼ばれる領域から,側坐核,海馬,前頭前皮質など,報酬,動機づけ,記憶,判断,抑制,立案に関連した脳領域へと拡がっていく。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.97−98

ワトソンと広告

20世紀の初頭以来,実業家は消費者心理の謎を解明するために心理学の専門化の助言を求めてきた。1920年代には,絶大な影響力を持つアメリカの心理学者ジョン・B・ワトソンが,広告の基本的な学習理論を提唱した。消費者は製品を購買する動機があるときに購買する,というのがそれだ。購買欲を育てる絶対確実な方法の一つとして,ワトソンは人々の自己像(自分自身について抱いているイメージ)と,それに付随する情動や,関連する文化的事象に訴えるよう,企業に勧めた。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.66

法外な主張

ところが,脳画像法の専門家たちはそのような包括的な主張は避ける。生物学的な指標から精神状態を推断する概念的限界を熟知しているからだ。fMRIは驚くべき科学技術であり,依然として比較的未熟ではあるものの,今後の発展が運命づけられている。ただし,その優れた能力が最もうまく実証できるのは認知あるいは情動の実験室であることが,彼らには容易に理解できる。危険が生じるのは,スキャンが実験の範囲を離れ,法やビジネスといった,社会的に重大な領域に入り込んだときだ。そこでは,解釈を抑制するという大切な要件がなおざりにされ,脳スキャン画像が心について何を解明できるかに関して,法外な主張がなされることが多い。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.60

ダブル・ディッピング

標準的な統計検査を使って「擬陽性」の問題を補正するのは比較的易しい。だが,それ以外にも落とし穴はたっぷりある。ある同輩脳科学者が「爆弾」論文を呼んだものの中で,マサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院生エドワード・ヴァルは,多くの脳画像研究者が自分のデータを分析する方法に関して,根本的に問題があると結論した。ヴァルは,心理状態とさまざまな脳領域の活性化との間に,彼に言わせれば「ありえないほど高い」関連性が推定されているのを目にしたとき,疑わしいと思った。たとえば,怒りに満ちた発話に対して不安を示す傾向と,右の楔状葉(脳の後部にあって衝動制御に関わると考えられている領域)での活動との間に,ほぼ完璧な0.96という関連性(1.0が最大)が見つかったとする2005年の研究に,ヴァルは疑問を感じた。また,気持ちのうえでの不倫をめぐってパートナーに感じる嫉妬の自己報告と,島での活性化との間に0.88という相関を報告した2006年の研究もにわかには信じがたかった。
 ヴァルと共同研究者のハル・パシュラーは,もともとの論文を熟読しているうちに,研究者たちが偏った結果のサンプルから結論を引き出していることに気づいた。彼らは刺激と脳の活性化との相関を探すとき,基準を緩めすぎることが多い。その結果,まず,活性化の度合いが際立っている小さな領域に行き着く。そうした小領域にいったん狙いを定めると,研究者は当該の心的状態と脳の活性化との相関を計算する。そのときに,のちの研究では通用しそうにないような,データ中の偶然の変動を図らずも利用してしまう。
 ヴァルの批判は多くの面で専門的だが,要点は簡単に理解できる。統計的に有意の関連性を探して膨大な数のデータ(この場合は,何万というボクセル)を調べてから,見つかった関連性だけをさらに分析すると,何か「有効なもの」が出てくるのは,ほぼ請け合いであるということだ(この誤りを避けるには,二度目の分析は最初の分析とは完全に独立したものでなければならない)。この誤りは,「循環分析問題」や「非独立問題」,もっとくだけた言い方では「ダブル・ディッピング」など,さまざまな呼び名で知られている。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.54-55

死んだサケの脳スキャン

この誤りに,脳画像法のプロセス自体ではなく,統計的な誤差が加わる。研究者がBOLDの信号を,同時に膨大な数の統計的試験にかけると,試験のいくつかは,単なる偶然のせいで「統計的に有意」となるのが必定だ。言い換えると,そうした試験結果は,被験者が課題に取り組んでいるとき,実際には必要とされなかった脳の領域が活発になる,と誤って示唆してしまう。この点を劇的に示すために,脳科学者のクレイグ・ベネットは,脳スキャン画像が胡散臭い結果を生み出しうることを実証することにした。ベネットと彼の率いるチームは,鮮魚店で死んだサケを買い,この協力的な被験者を脳スキャナーに入れ,さまざまな社会的状況にある人々の写真を「見せ」,彼らが何を感じているか想像するように「頼んだ」。すると,ベネットのチームは,探し求めていたものを見つけた。その死んでいるサケの脳の小さな領域が,この課題に反応してぱっと輝いたのだ。この脳の小領域の活性化は,もちろん統計的な作り物だった。ベネットと仲間の研究者たちは,意図的にやたらに多くの「引き算」を行ったので,結果のいくつかが,まったくのでっち上げであるのにもかかわらず,ただの偶然のせいで,統計的に有意になったのだった。2012年度のイグノーベル賞(「まず人々を笑わせ,それから考えさせる」研究のための賞)を受賞したこの「サケ研究」は,データ分析における決定がfMRIの結果の信頼性に影響を及ぼしうることを例証してくれる。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.53-54

逆推論のみ

公平を期すために言っておくが,逆推論の手法自体には,そこで研究が打ち止めにならないかぎり,何の問題もない。それどころか,この手法からは,有益な仮説を生み出す貴重な出発点が得られることが多い。そして,その仮説は,のちほど体系的な実験で試すことができる。あいにく,マスメディアの注意を惹く傾向にある研究は,逆推論のみに基づいた結論を売り物にしている。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.45

逆推論

この例から明らかなように,逆推論は厄介だ。逆推論というのは一般的な慣行で,研究者が神経の活性化から主観的経験へと逆向きに推論することだ。逆推論の難しさは,脳の特定の構造が単一の課題しか実行しないことが稀で,ある領域と特定の精神状態を一対一で対応させるのはほぼ不可能な点にある。ようするに,脳の活性化から心的な機能へと,気安く逆向きに推論できないということだ。ジェフリー・ゴールドバーグがマフムード・アフマディネジャードの写真を眺め,彼の腹側線条体がユダヤ教会堂で使われる燭台のように輝いたときに,「ふーむ,腹側線条体は報酬の処理にかかわっているのがわかっているから,この被験者は,腹側線条体が活性化したところを見ると,この独裁者に対してポジティブな感情を経験しているらしい」と考える研究者がいるかもしれない。だが,じつはそうではない。目新しいものも腹側線条体を刺激しうるのだ。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.45

脳マッピング

骨相学は,人格特性と脳の解剖学的特徴を結びつけるための体系としては,ものの見事に破綻したが,特定の種類の心的現象は脳の中で局在化しているという,その根底を成す概念はおおむね正しく,今日の重要な臨床慣行には,この概念に基づくものもいくつかある。手術前の計画立案のときに,脳外科医がfMRIを使って脳のマッピングをし,言語領域と運動領域の位置を突き止め,そうした機能的に重要な領域に与える損傷を最小限に食い止めつつ,腫瘍や血栓,癲癇性の組織を取り除くようにするのが,しだいに一般的になってきている。脳のマッピングは,深刻な慢性の鬱や強迫性障害の患者の脳で,異常な活動の中心箇所を正確に突き止め,治療用電極を最も望ましい位置に挿入して,その箇所を刺激する,「脳深部刺激」と呼ばれる技術を使ううえでも重宝している。さらに,脳卒中による損傷を確認したり,アルツハイマー病や癲癇の経過を追ったり,脳の成熟度を測定したりするのにも使われる。科学者は,fMRIによって医師が意識のレベルを直接測定できるようになり,昏睡状態の患者の治療が進歩することを期待している。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.42-43

骨相学と脳科学

人間の行動についての,脳に関連した主要な理論はいくつもあるが,最初期のものの一つが骨相学だ。骨相学は,1800年代にヨーロッパとアメリカ全土に広まった。高い評価を得ていたドイツの解剖学者フランツ・ヨーゼフ・ガルが開発した骨相学は,脳機能と人間行動の科学の構築を試みた。ガルは,心は完全に脳内部にあると信じていた。骨相学者は,機知や好奇心の強さ,情け深さといった何十もの特性を反映しているという触れ込みの頭蓋骨の凹凸を検査することで性格を「読んだ」。よく発達した器官は,頭蓋骨の当該領域を内側から押し,外表面を隆起させるとガルは考えた。対照的に,頭蓋骨の窪みは,とりわけ脆弱な器官の証で,そうした機関は正常な大きさに成長しそこないはしたものの,筋肉と同じで,鍛えれば発達させられるという。当時の人々は自分の生まれつきの才能を知り,自分の脳に最適の種類の仕事や人生の伴侶に関する助言を受けるために,繰り返し骨相学者に診てもらった。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.41

盲目的な心身二元論者

心理学者のポール・ブルームが言及しているように,今日でさえ,たいていの大人は盲目的な心身二元論者で,心はおおむね,あるいは完全に脳の働きとは別個のものと見ていることを,統計データが示している。脳画像研究がこれほどマスメディアの関心を集める理由も,この盲目的な二元論で説明できるかもしれない。そうした研究の結果は,多くの人には意外なもの,いや,魅惑的なものにさえ見える(「すごい。気分の落ち込みというのは,本当は脳の中のことなんですか?それに,愛情も?」)。「私たちは,自分は非物質的なものだと直観的に思っている。だから,思考という行為を行なっている自分の脳を目にするとショックを受け,果てしない興味を掻き立てられるのだ」とブルームは述べている。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.39-40

酸素消費量や血流量

感じる,考える,知覚する,行動するなど,脳のおかげで私たちのできることはすべて,脳内の酸素消費量と局所的な血流量の変化と結びついている(相関している)という事実を,fMRIは裏づけてくれる。写真を見たり,計算問題を解いたりといった課題に取り組むと,たいてい脳の特定領域が使われ,酸素を豊富に含む血液がより多く流れ込む。血流量が増え,それに伴って酸素の量が急増すれば,ニューロンの活動が増加していると解釈できる。なぜ「増加」なのかといえば,それは,生きている脳全体がいつも活動しているからだ。常に血液が循環し,常に酸素が消費されている。本当に沈黙した脳というのは,死んだ脳にほかならない。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.35

X線

脳画像法の起源をはるかにたどっていくと,最初期の祖先として,1895年にドイツの物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンが発明したX線技術に行き着く。今や有名な,最初のX線写真には,彼の妻の左手の骨が写っており,5本の指の4本目には太い結婚指輪がはまっている。それまで隠されていたものを可視化するというレントゲンの変換に,大西洋の両側で人々は熱狂した。シカゴとニューヨークとパリのデパートに,硬貨投入式のX線装置が設置され,客が自分の手の骨格の解剖学的構造をわが目で見られるようになった。自分の骨を目にして気絶する人もときおり出た。パリの医師イポリット=フェルディナン・バラデュックは,X線を使って自分の考えや感情を写真に撮れるとさえ主張した。彼はでき上がった写真を「プシコン(心の画像)」と呼んだ。もちろんX線は脳が相手では役に立たず,ましてや心が写せるはずもない。頭蓋骨が厚すぎて,簡単には透過できないからだ。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.33

実社会の問題の場合

だが,実社会の問題の帰趨がかかっているときに脳スキャン画像を深読みすると,由々しき事態を招きかねない。法律を考えてほしい。人が罪を犯したときの責任の所在は?咎めるべきは加害者か,それとも加害者の脳か?これは無論,選択しの設定を誤っている。もし私たちが生物学から学んだことがあるとすれば,それは,「私の脳」と「私」という区別が虚偽であるということだ。それでもなお,行動の生物学的な根源が特定できれば(そして,目を奪う色鮮やかな斑点として脳スキャン画像で捉えられれば,なおさら好都合なのだが),吟味の対象となっている行動は「生物学的」なものに違いなく,したがって「生まれつき組み込まれて」いる,故意ではなかった,あるいは制御できなかったと,素人があっさり思い込むのも無理はない。刑事訴訟で弁護士が,依頼人に殺人を犯すように「仕向けた」生物学的欠陥を示しているという触れ込みの脳画像に頼る例がしだいに増えているのは,少しも意外ではない。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.17

アメリカの宗教

アメリカの宗教界を取り巻く環境は他国と異なる。その特殊な性格は,憲法修正第一条で定められているとおり,政府公認の宗教がない点によるのかもしれない。このため,経済学者や社会学者のことばを借りれば,宗教の「自由市場」が発展する余地があった。学者たちは,市場での企業の浮き沈みを左右する経済法則を当てはめれば,宗教についても多くのことがわかると信じている。
 その説によると,宗教制度のある国では聖職者の給与が保証されているし,公認された宗教は市場を独占しているか,少なくとも優位な立場を脅かされずにすむ。したがって,聖職者にはブランドを高める意欲も,商品のシェアを増やそうとする意欲もない。その結果,イギリスやスゥエーデンのほかほとんどのヨーロッパ諸国で,教会にかよう信者は減りつづけてしまった。
 反対にアメリカでは,宗教が生き延びるためには伝道が欠かせない。伝道を怠れば,競合する宗教に信者を奪われてしまう。宗教という商品の市場規模は,競争がない国よりはるかに大きい。さまざまな宗教ブランド間の絶えざる競争によって,消費者の需要が掘り起こされるからだ,と社会学者のフィンクとスタークは主張する。結果として,どこかの教会に属しているアメリカ人の数(「あなたの宗教はなんですか」と尋ねるより,信仰の指標になる)は,国の歴史をつうじて確実に増えつづけている。フィンクとスタークの調査によれば,1776年,協会に属する信者数は人口の17パーセントにすぎなかったが,以降着実に増加して,1980年には62パーセントのピークに達し,2000年も同じ割合だったという。

ニコラス・ウェイド 依田卓巳(訳) (2011). 宗教を生み出す本能:進化論からみたヒトと信仰 NTT出版 pp.294-295

暴力は宗教よりも社会に

当然ながら,ほとんどすべてのイスラム教徒は平和な人々だ。しかし,ドイツ,イギリス,スペイン,オランダといったヨーロッパの移民受け入れ先でのイスラム教徒による近年のテロ行為は,イスラム教が暴力的な宗教であるという認識を助長している。宗教行動そのものは社会を結束させ,共通の目的を定めるだけである。しかし,指導者はそれを攻撃に用いることができる。アステカの宗教が一例だ。キリスト教が多様であるように,イスラム教もさまざまだ。ある宗派の信仰を形成する者は,信者がその宗派の名においてすることについて,ある程度の責任は負うだろう。言い換えれば,暴力は宗教より社会に起因すると考えるべきだ。社会は宗教を用いて暴力を正当化することもあれば,あおることもある。

ニコラス・ウェイド 依田卓巳(訳) (2011). 宗教を生み出す本能:進化論からみたヒトと信仰 NTT出版 pp.270-271

高い出生率

高い出生率を維持することは強力な人口戦略となる。人口の多い集団に脅かされている少数宗派にとってはなおさらである。たとえばモルモン教会は,現在の増加率はおそらく横ばいではあるものの,創設後100年間は10年ごとに40パーセント増加し,1980年代の10年間は70パーセントと一時的に増加したこともあった。高い出生率と精力的な伝道プログラムによって達成されたこのいちじるしい増加は,教会の存続を揺るぎないものにした。モルモン教の初期,預言者ジョセフ・スミスが殺害されて信徒たちがユタ州の未開の荒野へ追放されたころは,とても楽観できる状況ではなかった。信徒たちは数で勝れば安全であることを理解し,信徒増加に努めてきたにちがいない。

ニコラス・ウェイド 依田卓巳(訳) (2011). 宗教を生み出す本能:進化論からみたヒトと信仰 NTT出版 pp.243

一神教の歴史

3つの一神教の誕生を振り返ると,ひとつのプロセスがあるのは明らかだ。すなわち,歴史を通して,宗教は社会が変わるたびに生じる新しい要求に応えるために,何度も作り変えられてきた。そして,大きな文化的刷新がもたらすこの作り変えは,宗教的行動を志向する性質という,きわめて柔軟な遺伝的枠組みのなかで起きた。
 狩猟採集民の宗教は,共同体のメンバーに結束を命じる,超自然的存在との暗黙の交渉にもとづいていた。超自然界との交信のおもな形式は舞踏とトランスであり,それを通して別世界の代理者と遭遇することができた。
 次の定住社会は,試行錯誤を重ねながら初期の農業をおこなっていた。人々は宗教を季節の周期に合わせ,作付けと刈り入れを忘れないようにした。過ぎ越しの祭とローシュハシャナ(新年祭)の起源である初期のカナン人の祭りに見られるように,舞踏は農業祭に取り込まれた。
 1万年前に始まる新石器時代では,人口が増加し,社会は狩猟採集民の平等主義から階層制へと変化した。聖職者が宗教行事を取りしきり,超自然界との交信を独占することによって,権力を強化した。それまでよりはるかに多くの人々が,宗教の支配下に入った。
 5000年前に文字が発明されると,超自然的存在の観念は文字化され,聖典が都市宗教の標準的な要素となった。紀元前7世紀ごろ,儀礼と歴史と民族統一という政治課題を担うユダヤ教が,最初の近代的宗教となった。さまざまな目的を持つ多神教に一神教が取って代わり,超自然的存在との直接交信は,現在の体験ではなく,過去の歴史の事実になった。
 この新しい宗教は,祖先の狩猟採集民の宗教と同じくらい,共同体を結束させる効果があった。この場合の共同体は,狩猟民の集団ではなく,ひとつの小国家である。ユダヤ人は自らの宗教に鼓舞され,繰り返しローマの支配に反逆した。そして1900年ものあいだ,ユダヤ人の共同体は故国を持たず,信仰の結束によって生き延びてきた。
 それほど強いにもかかわらず,ユダヤ教には厳しい限界があった。それは部族の宗教であり,割礼と律法によって単一の民族性を帯びていた。キリスト教とイスラム教が相次いで出現すると,宗教行動がそれよりはるかに大きな働きをすることが明らかになった。宗教以外にほとんど絆を持たない人々をひとつにまとめる働きだ。
 ユダヤ教の厳格さを緩和したヘレニズム的ユダヤ人は,最初の普遍宗教となるキリスト教を創造した。それはローマ帝国内の多様な民族と,のちにキリスト教徒となる人々を束ねた。
 イスラム教も似たような成功を収めた。ムアーウィヤとアブド・アルマリクは,アラブ帝国内の論争の絶えないキリスト教諸宗派をまとめ,さらにビザンチンの教義に対抗できる普遍宗教を必要としていた。
 3つの一神教の誕生により,宗教の樹はほぼ1500年間変わらぬ完成形になった。

ニコラス・ウェイド 依田卓巳(訳) (2011). 宗教を生み出す本能:進化論からみたヒトと信仰 NTT出版 pp.212-123

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