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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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優秀なリーダーとは

それも不思議はない。リーダーシップに詳しかったニューヨーク州立大学バッファロー校の故ジェームズ・メインドルは示唆に富む研究を重ね,業績から切り離された有能なリーダーの条件はないと結論した。明快なビジョン,すぐれたコミュニケーション能力,判断力など,優秀なリーダーの資質を私たちはよく知っているつもりでいるが,実際には,これらの資質に合致する行動は幅広い。好業績の企業の名を1つ挙げてくれれば,私はそのリーダーのいいところを見つけられる。明確なビジョン,コミュニケーション能力,判断力,誠実さを指摘すればいい。低迷している企業なら,リーダーの悪いところをいくらでも説明できる。これで思い起こされるのが,言論の自由と猥褻について争った1964年の裁判である。このとき最高裁判事のポッター・スチュアートはポルノの定義に困ったが,「見ればわかる」といったという。リーダーがすぐれているかどうかは業績のデータがないとわかりにくく,ポルノよりもずっと判断が難しそうだ。ポルノかポルノでないかなら,少なくともスチュアート判事が見ればわかるのだから。リーダーシップをテーマにしたビジネス書がこれだけ書かれても,業績が明確にわかる情報,はっきりいえば財務実績を手がかりにしないかぎり,たいていの人には見ただけですぐれたリーダーかどうかはわからない。そして,業績がすばらしいとわかれば,リーダーのみならず,企業文化や顧客志向や従業員の質も確信をもって評価できるのである。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.103-104
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同じ現象

ハロー効果は,認知的不協和を解消するためだけのものではない。具体的な評価が難しい事象について,それがどんなものなのか,だいたいのイメージをつかむために用いられる経験則でもある。私たちには重要かつ具体的で見たところ客観的な情報をつかみ,ほかのもっと曖昧な特徴をそこから判断しようとする傾向がある。たとえば,新製品の効果がわからなくても,それが評判のよい有名企業のものなら品質がよいにちがいないと思うだろう。ブランド構築はまさにこの心理を利用するものだ。ハロー効果をつくりだして,商品やサービスの好感度を高めようとするのである。また,企業の採用面接試験もハロー効果の代表的な例だ。就職希望者について最初に知る最も重要で具体的な情報はなんだろうか。出身校や学校の成績や賞罰などだろう。これらの情報——重要かつ具体的で見たところ客観的な情報——を採用担当者が知っていると,就職希望者の態度や一般的な質問への回答など,明確に判断しにくい点への評価が知らず知らず変わる場合が多い。一流大学で優秀な成績をおさめた候補者だったらどうだろう?質問への答えも立派で,仕事をしっかりこなしそうな,すぐれた人物に思えるだろう。田舎の無名大学卒で,成績もぱっとしなかったら?まったく同じ回答をしてもそれほど優秀に思えず,身なりや態度が同じでも印象はやや劣るだろう。ソーンダイクが数十年前に将校と兵士の調査で発見した現象とまさに同じである。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.93-94

ハロー効果とは

ハロー効果にはいくつか種類がある。1つはソーンダイクが発見したもので,全体の印象から個々の特徴を判断する傾向である。多くの人にとって,1つひとつの特徴を個別に評価するのは難しい。そこで全部を一緒くたにして考える。ハロー効果とは,認知的不協和[訳注:個人にあたえられた情報に矛盾があるとき生じる不快感]を解消するために,一貫したイメージをつくり上げて維持しようとする心理的傾向なのである。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.91

ハロー効果

第1次世界大戦中,エドワード・ソーンダイクというアメリカの心理学者が上司は部下をどう評価するかについて調査していた。あるとき,ソーンダイクは陸軍将校に依頼して,知性,体格,リーダーシップ,性格などさまざまな面から部下の兵士を評価してもらった。その結果に彼は驚いた。「優秀」と思われている兵士は,ほぼすべての項目で評価が高かったのに対し,そう思われていない兵士はどの項目も標準以下だったのである。まるで,顔も姿勢もいい兵士は銃撃も靴磨きもハーモニカもうまいと思われているかのようだった。ソーンダイクはこの心理傾向を後光(ハロー)が射している様子になぞらえて,ハロー効果と名づけた。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.91

単純な言葉で説明

まさにサーワーとバローズのいうとおりだ。フォーチュン氏やビジネス・ウィーク誌のような一流ビジネス誌でさえ,企業の絶頂期と低迷期を誇張して表現し,企業パフォーマンスを単純な言葉で説明しようとする傾向がある。そのほうがストーリーとしてはおもしろくなるが,それでは読者を惑わすことになる。よくいわれるとおり,ジャーナリズムは最初に書かれた歴史だ。韻文や雑誌の記事はのちの研究の重要な資料になる。前述したハーバードのケーススタディもそのような新聞や雑誌をもとにしているし,オライリーとフェファーの共著でも,シスコに関する章に先ほど見たフォーチュン誌の記事が引用されていた。こうしたケーススタディや著作が,参考資料以上に質のよいものになるわけがない。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.64

レポートとストーリーの違い

レポートとストーリーの違いをはっきりさせておこう。レポートとは,何よりも事実を伝えることであり,作意や解釈が紛れこんでいてはならない。レゴとWHスミスについての記事がレポートだとすれば,はずれているとかさまよっているといった表現には問題がある。他方,ストーリーは人々が自分の生活や経験の意味を理解するための手段だ。よいストーリーの条件は,事実に忠実であることではない。それよりも,ものごとが納得いくように説明されていることが重要なのである。レゴとWHスミスのニュース記事は,ストーリーとしてなら立派に役割を果たしている。わずか数パラグラフの記事で,何が問題になっているかがわかり(売上と利益が落ちこんだ),原因がもっともらしく説明され(進むべき方向を見誤った),教訓も得られる(道をはずれず,基軸産業に集中するべし)。明快な結論で締めくくられている。後にもやもやも残らず,読者は気持ちよく読み終えられる。
 ストーリーがいけないのではない。ストーリーだとわかって読むならかまわない。ところが油断ならないことに,科学の仮面を被ったストーリーが知らぬ間にはびこっている。いかにも科学です,という顔をしているが,そこには真の科学の厳密さもない。エセ科学なのだ。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.38-39

ランダムウォーク

もちろん,私たちは何もわからないとは思いたくない。社会心理学者のエリオット・アロンソンは,人間はものごとを合理的に説明できるほど合理的にできていないと述べた。だから私たちは理由をほしがる。世の中のあらゆることがなぜそうなるかを知りたがる。レゴが壁にぶちあたり,WHスミスが苦境に陥り,ウォルマートが大成功をおさめたその理由は正確にはわからないかもしれないが,わかった気になりたいのだ。なるほどと思える理由があれば,あの企業は基軸からはずれたとかさまよったといえる。株式市場を例にとってもいい。株価はぐんぐん上昇したかと思うと,翌日にはわずかに下落するといった具合に,日々変動する。まるで花粉が液体や気体の分子に衝突して不規則に動くブラウン運動のようだ。だが,今日の株価の動きはでたらめだというのでは,私たちは納得できない。ビジネス専門番組にチャンネルを合わせると,キャスターが刻々と数字の変わる株価表示を見ながら,「製造業受注額の増加により投資家が積極的に買いに出て,ダウ平均はわずかに上昇しています」とか「投資家が利益を確保したため,ダウ平均は1パーセントポイント下げました」とか「政府の金利政策に対する投資家の懸念が弱まり,ダウ平均はわずかながら上げています」などと解説している。キャスターは黙っているわけにはいかない。カメラを見つめ,ダウ平均が0.5パーセント下がったのはブラウン運動のせいだというわけにはいかないのである。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.32-33

わかりきったアドバイス

ボストン・レッドソックスの大打者テッド・ウィリアムズは,いつも癪に障ることが1つあると話したことがある。相手チームのランナーが塁に2人以上出ていて,バッターボックスに強打者が立つと,監督はマウンドまで出てくる。そしてピッチャーに「打たれにくいところをねらっていけ。ただし,フォアボールはやめてくれよ」というだけいって,さっさとベンチに引きあげるのだ。ばかばかしい!ピッチャーだって打たれにくいところに投げたいし,フォアボールも出したくないに決まっている。わかりきったことではないか!そうではなく,「ここではフォアボールはまずいから,ストライクゾーンをねらっていけ!」,もしくは「ここでは打たれたくないから,フォアボールで逃げろ」とはっきり指示してこそ役立つ助言なのである。それなのに,監督はどちらもうまくやれと簡単にいう。業界アナリストとそっくりだ。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.26

活動を次々と与える

単に児童・生徒が楽しんで活動するだけの体験・実技系授業は数多い。担当教員はよかれと思って作り込み,何ら反省することもなく,また新たな活動を考える。生徒にとっては楽しい時間だから,その教員の人気は高まる。
 そういう状況を目の当たりにしたとき,教育の本質的な意味をわかっている教師は,苦々しい思いを押し殺しながら,「人気取りの授業をしていてはダメだ」と指摘する。すると,活動主義の教員は,自分が一生懸命作り上げた授業,ひいては自分の情熱を否定されたとして指摘した教師との間に溝を作る。このまま数年を経ると,意固地で変化できない教員が完成する。
 何のための体験・活動なのかを精査し,活動が終わった後に振り返りを行い,次の段階や別の分野に応用していくことを考えなければ,教育機関の使命を果たしたとは言えまい。毎回の体験・活動の効果を最大化し,生徒に有意義な時間を過ごさせることが求められるのだ。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.231-232

想像力の欠如

かつて見た,国語の論理的思考力を高めるというプリントに驚愕したことがある。ベテランの教員が作成したものだが,名前・クラス・番号を書く以外の場所は,指示文が数行あるだけで,残りはただ空欄が並んでいるだけなのである。
 そのプリントの作成者は超有名国立大学の卒業者で,進学校でしか教鞭をとったことがない人物だった。だから,「このプリントでも学びのモチベーションを落とさない人々と生きてきたんだなあ」と思わざるを得なかった。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.137

現状無視

プロの教師であれば,下手な説明・解説が,生徒の人生の選択を左右してしまうという危機意識を持って,シンプルでわかりやすく話せるよう努めなくてはならない。
 また,下手な説明しかできない教員を生徒はすぐ見限る。それは塾講師という比較対象が存在することや,お笑い芸人やテレビの司会者の話し方を常日頃,見聞きしているためである。そんな現状を受け入れられないロートル教員は,こぞって「学問は違う」とか「学校は違う」「生徒は教員の話を聞くのが当然」と嘯く。
 これらの音声は私の耳に,不快なノイズとしてしか聞こえてこない。経営学の観点に立てば,マーケティングの完全無視を宣言したに等しい。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.106

練習しなさい

私はよく新人教員に向かって「ちゃんと家で練習をしてから授業に臨め」と言うが,大概,次のような答えが返ってくる。
 「練習?授業をするのに練習するんですか?」
 私は「プロ野球の選手でも,Jリーガーでも練習して試合に臨むだろう。授業もそれと同じだよ。せめて授業の導入部分でもいいから,練習するもんだ」と続ける。
 このやりとりを,相手を変えながら何度繰り返しただろう。
 私は,練習をせずに教壇に立ったことはない。練習なしに授業に臨むなどという傲慢さを捨てるぐらいの謙虚さは持ち合わせているし,そもそも,練習なしに自分の説明力が生徒の満足度に達することは考えられない。生徒指導として,どうしても生徒を叱責しなければならないときなどは,“叱る練習”すら行う。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.103

今の生徒に

私は,はっきりと言い切りたい。教育に遅効性などないし,仮にそのような現象があったとしても,それを教員側が言い出すのは倫理違反だと。
 生徒たちはかけがえのない,「今」を生きている。その「今」から「未来」を切り拓いていく人生設計をさせるのが教師である。来るともわからない,いつの日かの気付きに期待して「今」を構築することなど,ただの逃げ口上に過ぎない。
 もっと生徒心理に寄って書けば,学生時代にまともな交流をしなかった・できなかった教員の言った言葉や指導内容を,卒業後に思い出すことなどない。教員の名前すら忘れてしまうことが当たり前なのに,教員が行った,茫洋として効果尺度も見えない教育実践を振り返る生徒がどれだけいるだろうか。
 さらに,次の時代を創っていく若い世代に対して,学生時代という過去を振り返らせようとすること自体がおこがましい。社会人になってから自らの至らなさに気付くことは多いが,そうだとすると,高校卒業後たった10年以内に,中学・高校時代の“教え”を振り返れと言っていることになる。そんな後ろ向きな若者を育成したいのだろうか。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.87

生徒に求める理想像

教員が生徒に求める理想像は,大きく3つに分けられる。
 1つは,人格・思想焦点型理想像である。「優しい人になってほしい」「他社と協調できる人間になってほしい」「何事にも諦めない心を身に付けてほしい」「質実剛健の精神」といったものである。
 もう1つは,経済的価値向上・知識技能獲得焦点型理想像である。
 「卒業後,自律的な経済活動が行える人間になってほしい」「誰にも負けない何かを身に付けてほしい」「日本社会の発展に寄与する人材になってほしい」「グローバル人材になってほしい」「読み書き算盤ができるようになってほしい」というものである。
 最後は,学問的魅力焦点型理想像である。
 「英語を好きになってほしい」「数学の美しさを知ってほしい」「芸術的に豊かな感受性を身に付けてほしい」というものである。
 この3つは,完全に分けて語れるものではない。それぞれの間に,「リーダーになれる人になってほしい」とか「他人に勇気を与えることのできる存在になってほしい」「良妻賢母」といったものが位置し,グラデーションのようになっている。
 しかし残念ながら,このような教育理念をきちんと持っている教員は多くない。
 「あなたは教員として,どのような生徒を育てたいですか?」と聞かれれば,元“優等生”教員たちは模範解答をするだろう。しかし,その言葉に熟慮はなく,多くの場合,言葉の意味についても考えられていない。当然,彼らが実践している教育活動にも繋がっていないし,行動に表れてくるはずもない。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.64-65

「当たり前」?

教員たちは,自らの経験から「教員が生徒にする話とはこういうものだ」と勝手に理解している。本来,比較対象となる質の高い講演会をこまめに聞きに行くほどの勉強家は,多く見積もっても2割程度しかいない。多くは“多忙”を言い訳にして,自己を肯定している。だから,自分の話し方を反省することはないし,残念さに気づくこともない。
 加えて「生徒は教員の話を聞くのが当たり前」と考える者が少なくないことも挙げられる。こういう思考回路からは,話法の向上や内容の精選に取り組むどころか,生徒が話を聞くときの心理にすら目を向けない姿勢が生み出される。そして“教員の話を聞かない”“居眠りをしている”生徒などが指導の対象となり,叱られることになる。
 確かに倫理や道徳観の指導も担わされている現状があるので,生徒に舐められたら業務に支障が出るという教員側の論理はわからなくはない。しかし,このタイプの残念な教員は,「生徒は教員の話を聞くのが当たり前」というスタンスでは教育サービス業が成立しなくなったことに気付けていない。また,そんなスタンスで人間同士のコミュニケーションが成立するはずがないことも理解できていないのである。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.44-45

「天声人語を読みなさい」?

私自身,学生時代に体験し,今でもよく見る光景として挙げられるのは,何の熟慮もなしに「天声人語を読みなさい」と指示してしまう教員の存在だ。「天声人語」は朝日新聞にしか掲載されていない。つまり朝日新聞を読みなさい,と指示をしているに等しい。朝日新聞を読むことが悪いと言いたいのではなく,こんな不公平な指示を何の思慮もなく出してしまうことが,「学べない」=知的レベルの低さを表わしているのではないかと指摘したいのだ。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.41

「いい先生」

それでも,生徒のために学んだことを情熱的に話す教員は,生徒から“いい先生”と評価される。このような教員は
生徒から“いい先生”と評価されることを拠り所にして,自らの実践を正当化していく。そのため,学問的手法や科学性,客観性というものを引退するまで身に付けることができない。
 “いい先生”が生まれる構造は,学問的手法などについてよく知らない生徒たちが,自分たちのことを考えて懸命に業務を遂行しようとしている教員のことを,“いい人”と判断し,その“いい人”がたまたま“先生”をしていたから“いい先生”と読み換えられているに過ぎない。
 無論,この程度で“いい先生”と言われるということは,その他の教員が生徒にとって“どうでもいい先生”であることの証明でもある。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.28

そこまでは

「中学生は大変ですよ。スマホを握りしめたまま寝ているって子,少なくないですもん。嫌われるのが怖くて仕方ないんですよね」とは,関西地方で中学の教員を務める20代男性の弁だ。
 生徒たち自身,「関係維持のために,全く面白くなくても『爆笑』って書くよねぇ」と言っている。
 LINEのグループには,グループ構成メンバーの承認がないと加入できない。したがって,教員が生徒の言動を把握することはかなり難しい。クラスの人間関係に明るく,多くのグループに属していて,なおかつその情報を逐一教員に報告してくれるような生徒と繋がりがなければ,把握することはほとんど不可能に近い。
 だから,このレベルまでの感受力を,教員やその他の大人に求めることは非現実的と言わざるを得ない。また,生徒もそこまでの能力を教員側に求めてはいない。

林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.22

生殖能力と資源獲得能力

簡単に言ってしまうと,私たちの研究結果が示唆していたのは,年齢の好みのように見えるものも,突き詰めれば年齢そのものが問題になっているわけではないということだった。女性は子供に身体的な資源を注ぎこむため,男性は生殖能力と健康に結びつく特徴を求める。一方,男性は子供に間接的に資源を与えるので,女性はそれらの資源獲得能力に結びつく特徴を求める。そして,男性の資源獲得能力と女性の生殖能力は年齢と関係はしているが,年齢そのものが原動力なのではない。
 進化生物学について多少なりとも知識があれば,この説明は自明に思えるかもしれない。だが当時は,人間の求愛と繁殖のつながりについて真剣に考えている社会学者はほとんどいなかった。だから,進化の観点を加えたこの研究結果について私たちが話しはじめると,冷笑されたり,そんな説明は明らかに間違っているだとか,アメリカ文化の規範だけで十分に説明がつくとか言われることもしばしばだったのだ。

ダグラス・ケンリック 山形浩生・森本正史(訳) (2014). 野蛮な進化心理学 白揚社 pp. 99

集団感動ポルノ

子どもを題材にしながら,クラス全体で感動を呼び起こすという式のあり方は,いわば「集団感動ポルノ」といってよい状況である。
 「感動ポルノ」(inspiration porn)とはもともとは,オーストラリアのコメディアンであり,ジャーナリストのステラ・ヤング(Stella Young)氏が拡げた言葉で,健常者の利益のために,障害者を感動の対象としてモノ扱いすることを指している。「2分の1成人式」もまた,子どもを感動の対象に据えて,大人たちが感動を享受するという場である。しかもそれが,個人的な空間ではなく,学校という公的な空間で,集団的に遂行される。その意味で,「集団感動ポルノ」なのである。

内田 良 (2015). 教育という病:子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 光文社 pp.109

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