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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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公表されたテストの運命

上述の「科学性」の問題にかぎらず,Y-G検査の作成手続きが一定の方針に沿って行われていたとしても,そこでの「チェック」の基準が甘くなっているという点はいなめない。それと同時に,辻岡氏自身のパーソナリティ観が明確に打ち出されていないことは問題であると思われる。「パーソナリティ観」が不在ということはないであろうが,それが顕在化されていないがために,彼の「チェック」や「判断」がいたずらに恣意的で,ただギルフォードを模範としたテストを作れば良い,という印象を受けるのである。
 以上の検討から,テスト作成者の「良心」や「科学性」についての判断の問題だけではなく,ひとたび公表されたテストは「実用」的である方向へと「社会」的要請に応えて必然的に向かわざるを得なくなるという事実が示唆されると思われる。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.217-218
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Y-G検査の場合

Y-G検査の実際の使われ方を問題にする前に,この検査が具体的にどのような手順を経て,どのような論理に基づいて作成されたかを,みておくことが必要であろう。しかし,本稿の目的は,それらを「実証的」に批判してゆくことではないので,辻岡美延氏が作成過程をまとめた論文より,辻岡氏の「意図」を最低限明らかにするにとどめたい。
 彼はまず,妥当性と信頼性の概念を問題にしているが,妥当性に関しては実際的妥当性よりも因子的妥当性を優先させようとする立場を明らかにし,「信頼性を高めるという目標はそれぞれの下位検査に向け,妥当性を高める目標はテストバッテリーそのものに向けられるべきだと考え」ている。
 辻岡氏はこの論文の目的を次の7点に要約している。
 (1)内的整合性を有する特性別人格診断目録を作成すること。
 (2)その検査の尺度間の因子構造を明らかにすること。
 (3)各尺度を構成している項目間の因子構造を明らかにすること。
 (4)各尺度の信頼性を明らかにすること。
 (5)大学生・高校生・中学生・一般成人・非行少年などの集団について本検査の標準化を行なうこと。
 (6)種々の実際的分野における本検査の実際的妥当性を検討すること。
 (7)他の人格検査との関係を研究すること。(ただし,実際には(5)の大学生の標準化までで,それ以外の集団及び(6),(7)については論じられていない。)
 なお,辻岡氏はまず信頼性と因子的妥当性の高い尺度を作成し,次に種々の現場で,種々の立場からの実際的妥当性を検討することを課題として設定しているのであるが,これらの現場及び立場として,「教育的な場では教育的価値観から,産業では作業員の能率や適性や作業への適応度の観点から」をあげている。このように作成過程の当初から,Y-G検査の用途として,教育・臨床・産業のように多方面な場を考えていたということは,記憶されるべき点であろう。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.213-214

適応性概念の打ち出し

以上の見解をまとめてみるならば,ギルフォードが向性検査を検討し,複数の特性を導き出した背景として,
 (1)新しい技法(因子分析)の応用例を求めていたこと,そしてそれはまた,パーソナリティ理論に科学的・客観的な基礎づけを提供するだろう。
 (2)向性概念にかわるパーソナリティの中心的概念が,社会的にも求められていたこと,それは新しい労務管理のための技術を支えねばならなかった,の2点があげられるだろう。
 ギルフォードは,向性の分解→特性→社会適応性,というみちすじで,実用的な「適応性概念」を科学的に保証した。したがって,彼の「功績」は,いくつかの既成のテストを整理・統合する技法として,因子分析法を全面に押し出したことと,適応性概念を明確に打ち出したことであろう。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.210

理論の具体化

ここで,注意しておかなくてはならないことは,質問紙性格検査の初期の段階,たとえば,Woodworthの段階では実用性が優先していた。そこではテストの背景となるパーソナリティ理論の必要性はなかったといえる。あるいはテストがパーソナリティ理論そのものであった。しかし,それ以後のテストにおいては,次第にパーソナリティ理論の「具体化」としての側面が増大していったように思われる。向性検査もまた,1つにはそのようなパーソナリティ理論(向性概念)の具体化として存在したのではないか。そして,向性検査を検討する動機の背景となったものとしては,向性概念そのものが産業界を中心とする人事管理という社会的要請に応えられなくなったということが考えられるのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.209-210

性格検査の歴史

あらかじめ用意された多数の質問に対する個人の回答を通じて性格を把握しようとするいわゆるパーソナリティ・インベントリィ(性格調査目録)は,1918年のWoodworth Personal Data Sheetに始まるとされている。これは,R.S.WoodworthがPoffenbergerとともに,神経症患者の事例史から,適応異常の諸兆候を集め,これらを質問項目として整理した目録で,第一次世界大戦において応募兵に知能検査とともに用いられ,兵役に適さない者の排除に有効であったという。
 これ以後,各種のパーソナリティ・インベントリィが作成されているのだが,辻岡氏によれば,現在のインベントリィは,(1)Woodworthに始まる神経性兆候に関するインベントリィ,(2)Lairdに始まる向性検査,(3)Bellに始まる社会適応性検査,のどれかの流れをひいているという。
 Bellの検査というのは,1939年に作られたもので,適応性を多次元的に測定するためのインベントリィである。彼は,論理的分析により,Thurstone Scheduleの項目は,家庭生活への適応と,社会生活への適応と,情緒的適応とに分類され得ることを見出し,これらの異なる領域での適応性を測定しようと試みた。
 また,それ以前のインベントリィとしては,Bernreuter Personality Inventory(=BPI, 1933年,広く用いられた最初のものであり,かつまた適応不適応のみならず,広く他の人格特性次元まで測定しようとした一般用の最初のインベントリィ)と,Humm-Wadworth Temperament Scale(1935年,Rosanoffの人格理論に基づいて,人格の6次元に関する測定を可能ならしめるため考案したもので,正常者のみならず,精神異常者を分類し得るよう試みたもの)が重要であるという。
 BPIとHWTSとの相違は,前者が内的整合性の検討により項目選定が行われているのに対し,後者は6種の異常者の集団と正常者の集団を弁別するという「外的基準」による項目選定が行われている点で,これは人格特性測定のためのインベントリィとMMPIのごときインベントリィとの二大対決の初め,であるという。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.207-208

「心」

研究至上主義の中で,被験者を研究に奉仕する「モルモット」として位置づけて,しかも,「科学の進歩=人類の幸福」といった,タコツボ的ヒューマニズムに支えられた科学論が肯定的に存在していたためとも思われる。また,業績中心主義の中で己の上昇志向に夢中で,業績に奉仕する「モルモット」の立場までは考えてあげられなかったためとも思われる。
 さらには,現代の心理学は「心」の問題の科学性・客観性を自然科学的方法論である数量化の中に求める傾向が強かったのであるが,被験者の「心」の諸現象を,この方法論の中で抽象化することに夢中であったためとも思われる。つまり,その「心」に関する諸現象の内容,意味を質的に受けとめ,それ自体において検討することをしないで,ただそれらを(主として数量化過程を経て)心理学的枠組に収斂させ,かつ抽象化してしまう癖のためともいえよう。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.185

体質

しかし心理学を自然科学と並べてみて直ぐ目につく低さ,浅さ,安っぽさは,どうしようもないのでして,このひけ目を補償するために,上からお声がかかるとすぐ尻尾を振って乗って行ったものです。私(または私たち)のこの心理学者的軽佻性は,戦後もずっとつづいて,その後の<新進>のお手本に成ったようです。もろもろの官庁の委員会・審議会,大企業・大会社,その他各種の研修機関に招かれて,あらゆる問題について,さっと解説し解答する習慣です。戦後は<学識経験者>の委員会がふえましたし,日本の産業界は戦後ゼロから出発するために勤労意欲の向上や志気の問題や人間関係論やそして更に大衆心理とかの知識を私たちに求めてきました。そんな風にして同僚は浅間山荘にまで出張することに成るのでした。私たちはこうした大学生活に安住し,極力,人びとの生活や歴史の流れに触れないようにつとめてきました。日本の心理学世界には紳士協定とでもいうべき目にみえないおきてがあります。同業の著作や行為やについて決して批判的発言をしないこと。社会問題に一切関わりをもたぬこと。心理学の中に社会問題や人間関係を引き入れたり科学者の枠から出て,これらの問題につき発言しないこと。これは学会の体質ですし大学の体質であると思います。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.155

客観性願望

客観性とは何かを,もし哲学に問うとすれば,もちろん何か一連の解答を得ることができると思うが,それを典拠としてあるテストの客観性の有無を判定することには役に立たないであろう。しかし私たちが客観性といっているのはもっと簡単なことであって,それは<誰が,いつ,どこで,どんな意図で実施しようと常に必ず,こうすれば,こうなる>という知識をいうのである。したがってそれは公共性ということに近いのであり,きめられた条件と手続きを遵守するかぎり誰でもいつでも何回でも反復しうる<技術>ないし技術的知識をいうのである。技術というのは,きめられた条件と手続きとを守るかぎり誰でもいつでも何回でも反復しうる操作でありそうした操作の知識である。そして技術というものは,こうすれば必ずいつもこうなるという操作,統制,支配の術なのである。客観性とはこうした技術というものの特性なのであり合理的科学的な支配や操作やの特性なのである。自然科学は要するに自然に対する技術であり自然に対する統御・支配のための技術学なのである。したがって実証ということも,記載された条件下で定められたやりかたで試行していつでも記載されたのと同じ結果がえられることの実証である。それであるから,すべて客観的知識は必ず技術となりうるはずであり,技術は理論的にいってすべて機械化されるはずである。たとえばコンビナートは技術の機械化であり,客観的知識の機械化である。
 これが心理学のお手本であり,私たちの<客観性願望>である。それならば私たちは心理学研究者として,何を目的として,何を支配統制しようとしているのであろうか。この問いは,応用心理学,臨床心理学とテスト問題とを越えて,心理学,実験心理学に対して問われなければならない。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.149-150

望ましさの測定

性格検査も同様であって,私たちには夥しく多くの個人差や特性があるが,検査はひたすら,望ましい社会生活を営む上に,はっきりプラスになる性質とマイナスになる性質とが,その人の性格としてしらべられる。従順,無口,社交性,着実,粗野,人好きのよさ悪さ,等々がこれである。したがって毒にも薬にもならない性質は,たとえ個性的であっても取り上げられない。煙草を口の真中で吸うとか,上目がちに人の顔を見るとか,コーヒーに砂糖を入れないとか,そうした<つまらない>性質は性格特性に算えない。性格検査は社会生活を営む上に不適応を生じやすい性質,平均から偏った性質,社会的に望ましくない性質,またはおおいに歓迎され奨励される性質,の有無や度合を明らかにするためにある。テストは現在の世の中の基準で望ましいとする人間の選抜検査であり,優良品と劣等品,善玉と悪玉との,ふるいわけ検査である。更に,可能なかぎり早い時期に区分けして,それぞれに適した教育訓練を行ない社会的階層の適所に適材を配置するための検査なのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.145-146

能力の多様性

なぜ,その人の評価と知能の評価とを区別するかといえば,理由は簡単である。人間の能力は極めて多様である。算数の能力もその1つであるがケン玉遊びもその1つであり,白痴児にその名人がいたそうであるが,素手でハエを捉えるのも人間能力の1つである。知能検査は決してこういう能力をテストしない。それはつまらない,役に立たない能力であるからである。現代社会における高度の学問や技術やの習得に不可欠な基礎的能力でないからである。社会の上層の仕事に従事するのに必要でないからである。知能検査で測られる知能とは望ましい社会人であるための必要条件としての知能であり,テストはその種の精神発達の検査に他ならない。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.145

媒介変数テスト

これらの点を更に明らかにするための例を知能検査にとって,それが何を検査する検査であるか考えてみよう。私たちはいろいろな形で人間の頭のよし悪しを評価している。これらいろいろな形で測られた知的諸能力の共通のおおもとの変数が知能とよばれる因子である。この事情は性格検査,人格検査,適性検査も同じであって,私たちの言葉でいえば,諸検査はすべて,知能とか性格とか適性とかいう<媒介変数>のテストである。人間をテストしているようにみえて実は個々人の問題ではなく,知能,性格等の媒介変数がテストされている。必要なのは,知りたいのは,何某という人間ではなくて,能力であり,特性であり,それのおおもとであると考えている想定的因子なのである。したがってこういってもいい。検査者は人間を評価しているのではなくてテスト結果について解答しただけである。
 しかしてすとの成績表は,媒介変数という見えない相手の首にさげられるのでなくて,現実のその人の何等かの記録に載せられ,その人の背番号になる。背番号とはその人の記録に載せられることである。見えない背中に貼られて生涯その人についてまわるのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.144-145

内田クレペリンの場合

たとえばクレペリン精神作業検査において,内田勇三郎によって,健常者常態定型曲線として提示された曲線は,一般社会人10,479名の平均作業曲線であり,各人の作業曲線はそれから逸脱の程度によって,準定型,準々定型,疑異常型,異常型などと分類される(横田象一郎『クレペリン精神作業検査解説』金子書房, 1961,による)。これは正常者の平均反応パターンからの逸脱によって異常性を判別するという心理テストの特徴を,典型的に示しているといえるが,この場合の『定型曲線』は日本の社会人集団の平均であるという,その一事によって,工業中心の社会で期待される行動様式や価値観を十分に反映しているのではないか。たとえば横田氏(前掲書)は,この『定型曲線』を示す人の特徴として,『仕事へのとっつきが良く,仕事を長く続けてもムラがなく,新しい仕事にもすぐ慣れ,上達も早い。また仕事に好き嫌いが少なく,外からの妨害によって影響されることも少なく,短時間の休憩で疲れをいやし,前より能率があがる。さらに仕事に没頭していても,外界の変化に適切に反応出来,事故や災害を招くことは少なく,人格も円満で人づきあいも良い』と述べている。この解釈は,横田氏自身の主観によって,やや理想化されすぎている感じがなくもないが,少なくとも仕事へのとっつきの良さ,慣れの早さ,ムラの少なさ,短時間の休憩の効果が十分みられることなどの点では,まさに企業内の労働者やサラリーマンに期待される人間像を十分に示しているように思われる。さらに横田氏の判定法によると,この定型曲線を示す人が,大学文科学生では9.7%,中学生では17.7%しかないという結果が出ているが,これは定型曲線があくまでも企業や職場に慣らされてきた一般社会人の心的特性を示すものであることを物語っている。このように平均からのへだたりという視点では,常に平均附近の反応をする多数者が,評価の基準となり,それらこそ正常者の見本として価値高く評価され,その多数者から落伍した少数者は脱落者,異常者として蔑視され,それにふさわしい処遇を受けるべく,種々の評価ー処理機構の中へ投げ込まれて行くのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.122-123

SPIの場合

では,<より公正>であり客観的と主張する心理テストの評価の中身は,じっさいにどんなものだっただろうか。ここに総合人格診断検査(SPI)の実例をあげておこう。
 この検査は人格を行動的側面・意慾的側面・情緒的側面に分けてそれぞれ各側面をさらに細分化して点数で示し(たとえば,社会的内向性37,持続性60,敏感性53,高揚性58,いずれも100点満点),さらに性格類型を内向・直観・感情・知覚の4項目で得点化し,次のように判定する。
 「外界に対して気軽に働きかける社交家である。感じたこと考えたことをちゅうちょなく表現する一方,他人の感情にも敏感で思いやりがあり,友好的な印象を与える。人の気持ちを犠牲にしてまで能率本位に仕事を進めることは好まず,他人に対して同情的で人間関係の調和を重んじながら進めていこうとする。ものの見方は,どちらかといえば現実的で,観念的なものより日常の体験や目前の具体的事実を重視し,周囲の状況に逆らわず,柔軟に適応していく傾向がある。細かい注意力を要する仕事やじっと机に向かう仕事は苦手で,活動的な仕事や人と接することの多い仕事に喜びを見いだす。筋道を立てて論理的に考えることが苦手で注意や考えが散漫になったり,安易な妥協をしやすい。状況に流されたり,いたずらに感情に左右されないように留意するとともに,物事を能率的に進めることの必要性を認識し,ときには合理的に割りきって,厳しい態度で望むことが肝要である」

 また,これらの診断から職務適応性として社交性・対人指向性を必要とする職務に適していると述べている。担任が3年間ないし4年間,子どもとつき合ってきて具体的な生きざまを書ききった中身と比べて,何とそらぞらしい(そして同時に傲慢な)言葉の羅列だろう。企業の側にしても,これらの点数なり評価を本気で信じているというより,好ましくない者を排除するための口実として使用する可能性こそ問題であろう。たとえば,企業が本心では国籍を問題にしながら心理テストで気分性が何点以下だったので採用しなかった,などと主張するのに使われることが恐ろしいのである。このような似非科学性の上にあぐらをかき,企業にテスト問題を販売しているテスト業者と,これに癒着する一部の心理学者の態度は今後とも,きびしく見守っていかねばなるまい。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.105-106

聞くだけに

なんで私たちを支配や管理するのでしょう。私たち病人から言いますとね,インタビューもテストも支配管理以外の何ものでもないんです。インタビューもやってもらわなくていいんですわ。あんなテストみたいなことは。断定するんですからね,相手は。なぜ断定しなきゃいけないんでしょうね。こっちは,そんなこと信じないでいいけど疾病中の混乱時には,それに呪縛されることは事実なんです。もう息が出来ない,しかも私たちは今だってですけど,秒という呼吸の中,時間と対決しているような苦しさですよ。
 もうやめて下さい。すべて,もう聞くだけにしてください,患者からは。もし患者が勝手なこと言っているのなら「あなたと話したくない」となぜはっきり言えないのですか。言えばいいですよ。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.84

社会的利用

能力に応じて特殊学級へ入級したとしても担任の先生の努力や熱意がなければ意味がないし,また,IQ73であるため無理矢理本人や保護者を説得し特殊学級へ入級させたとしても本人や保護者が不満や拒否感をいだいているとすれば特殊教育の効果は半減してしまうか,むしろ,全人格の成長の妨げになってしまうであろう。ですから,「能力や障害に応じた指導を」という名目で,ただ単にIQだけで子どもを振るい分けすることには問題があるのは当然であろう。そういう意味では,児童相談所の心理判定員は,自分たちの実施した知能テストの結果がどのように社会的に利用されているかを考えてみなければならないだろうし,また,責任を感じなければならないだろう。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.42

知能テスト

そもそも,知能テストの結果で子どもを選別することに問題があるといえる。児童相談所の心理判定員が実施する知能テストは,子どもの全人格を理解するためのものであるが,知能テストで測定出来るものは全人格のほんの一部にすぎない。
 IQ=全人格ではないはずである。また,知能テストで測定出来るといわれている,IQそのものにもかなり問題がある。鈴木・ビネーテスト,WISCなど知能テストの種類によりIQが違ってくる。とりあえず,特殊学級入級の基準をIQ50〜75と定めてあると仮定すると,一人の子どもについて,鈴木・ビネーではIQ70であり,WISCではIQ90の結果が得られたとする。鈴木・ビネーテストの結果ではその子どもは特殊学級入級が適当であるし,WISCの結果では通常学級入級が適当となってしまいます。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.41-42

人生のすべてではない

今日のアメリカに生まれる赤ちゃんは,親がどの社会階層に属するかによって,与えられる機会が大きく異なる。だが,親の問題にばかり気を取られて,こうした不平等のパターンを生み出し助長している社会的機関の役割を軽視するのは間違いだ。そして,学業成績が収入や健康など社会でのさまざまな結果を形づくるのは確かなことだが,それが人生のすべてではない。

(アネット・ラロー 『学業成績や収入は大事だが,人生のすべてではない』 pp.79-83)

ジェームズ・J・ヘックマン 古草秀子(訳) (2015). 幼児教育の経済学 東洋経済新報社 pp.83

ロッシの鉄則

熱心な進歩主義者で1960年代から80年代にかけて社会政策評価に関してアメリカ有数の専門家だった社会学者のピーター・ロッシは,彼自身のキャリアの末期になって,評価論文に関する自身の幅広い知識を「鉄則」を使って要約した。ロッシの鉄則は,「大規模な社会計画について,その正味の価値を評価すれば,どんな計画であれ結果はゼロになる」というものだった。彼の厳然たる鉄則は,「社会計画の成果の評価がすばらしく設計されているほど,正味の成果はゼロだと評価される可能性が高い」とした。私に言わせれば,幼少期の介入に関する実施体験は,ロッシをそのような鉄則へと導いた,おなじみの落胆を誘うパターンを踏襲している。すなわち,こういうことだ。やる気に満ちた人々による,小規模の実験的努力は成果を示す。だが,それを綿密な設計によって大規模に再現しようとすると,有望に思えた効果が弱くなり,そのうちにすっかり消滅してしまうことが多い。

(by チャールズ・マレー『幼少期の教育的介入に否定的な報告もある』, pp.58-62.)

ジェームズ・J・ヘックマン 古草秀子(訳) (2015). 幼児教育の経済学 東洋経済新報社 pp.

認知的・非認知的スキル

持つ者と持たざる者とのあいだの,認知的スキルおよび非認知的スキルの格差は,ごく幼いころに発生し,年少期の逆境に根源をたどれる部分があり,現在ではそうした環境で育つ子供の割合が増えつつある。子供がどれほどの逆境に置かれているかは世帯所得や両親の学歴といった昔ながらの物差しではなく,子育ての質によって測られる。ただし,それらの昔ながらの物差しは,子育ての質と相関関係にあるのだ。相関関係を因果関係と混同しないことが重要だ。家族にもっと金を与えることは,恵まれない子供の環境の質を向上させることと同義ではない。「貧困との闘い」を求める声が多いけれど,われわれはかつての失敗をくりかえすべきではない。たんに貧困家庭に金を与えるだけでは,世代間の社会的流動性を促進できない。クリントン政権を1996年の福祉政策改革へと導いたのは,そうした考えだった。貴重なのは金ではなく,愛情と子育ての力なのだ。

ジェームズ・J・ヘックマン 古草秀子(訳) (2015). 幼児教育の経済学 東洋経済新報社 pp.41-42

小児期の逆境

ロバート・アンダ,ヴィンセント・フェリッティらの研究チームは,家庭内暴力や虐待やネグレクトといった幼児期の悲惨な体験が成人後にもたらす影響について調査した。その結果,子供時代のそうした体験が,成人してからの病気や医療費の多さ,うつ病や自殺の増加,アルコールや麻薬の乱用,労働能力や社会的機能の貧しさ,能力的な障害,次世代の能力的欠陥などと相関関係があるとわかった。逆境的小児期体験(ACE)について調べたこの研究では,18歳までに虐待やネグレクト,家庭内でのアルコールや薬物の乱用などの体験があったかどうかを被験者に尋ね,1つの体験を1点と数えて合計点で深刻度を計測した。つまり,合計点が高いほど小児期の環境が悪いということだ。成人被験者の3人の2人が少なくとも1点,12.5パーセントは4点以上だった。小児期の逆境的経験がもたらす悪影響は著しい。

ジェームズ・J・ヘックマン 古草秀子(訳) (2015). 幼児教育の経済学 東洋経済新報社 pp.24-25

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