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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ホットシステム

まず,ホットシステムは,もっと評価されてしかるべきだ。私たちはほっとシステムに耳を傾け,それから学ばなければいけない。ほっとシステムは,人生を送り甲斐のあるものにする情動や熱意を与えてくれるし,いつもではないものの,役に立つ自動的な判断や意思決定を可能にしてくれる。だが,このシステムにも難点はある。ホットシステムは,直観的には正しく思える判断を苦もなくたちまち下すのだが,その判断は完全に間違っていることが多い。衝突を避けるのに間に合うようにブレーキを踏んだり,知覚で銃声がしたときに身を守るために屈み込んだりさせて,あなたの命を救うこともありうるとはいえ,あなたを厄介な状況に陥れる場合もある。暗い路地で,本当は無実でありながら怪しげに見える人物に向かって,警察官に早まって銃の引き金を引かせたり,愛し合っているカップルを,嫉妬と不信で引き裂いたり,自信過剰の成功者を,衝動的な欲求や,恐れに駆り立てられた意思決定で破綻させたりしうるのだ。ホットシステムは,抗い難い誘惑を本人の目の前にぶら下げたり,あまりに生々しい恐れを生み出したり,ほんのわずかな情報から固定観念を抱かせたり,あわてて結論や判断を下させたりといった,度を越す働きによって,健康や富や幸せの敵となりかねない。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.110
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複雑な相互作用

繰り返すが,性格や人格,態度,さらには政治信条をも含め,人間の気質と行動パターンは,遺伝子の複雑な影響を反映しており,人の生涯を通して,遺伝子の発現は環境の多数の決定要因によって決まる。気質は遺伝子の影響と環境の影響が途方もなく複雑なかたちで相互作用して生み出される——ということであれば,今はもう,生まれか育ちかという疑問を乗り越えてしかるべき時なのだ。カリフォルニア大学バークリー校のダニエラ・コーファーとダーリーン・フランシスが2011年に結論したとおり,生まれと育ちの関係に関する最先端の研究成果は,「遺伝子と環境の関係についての暗黙の仮定を覆しつつある。……環境は,以前私たちが遺伝子にしか可能と思っていなかったほどの影響力を揮いうるし……ゲノムは,以前私たちが環境にしか可能と思っていなかったほどの順応性を持ちうる」。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.106

長方形の縦か横か

研究者たちは双子研究を使って,生まれと育ちが分離できるかのように,それぞれの別個の貢献度を割り出そうとしてきた。彼らの先駆的研究には感謝すべきだろう。そのおかげで,私たちは生物学的作用に基づく生き物で,あらかじめ多くのものが組み込まれており,育ちに劣らず生まれも重要であることが明らかになったからだ。だが,遺伝についての研究が深まるにつれ,生まれと育ちとを簡単に分離できないことがわかってきた。特徴や人格,態度,政治信条など,人間の気質や行動のパターンは,一生にわたって環境要因によって発現の仕方が決まる遺伝子(たいていは複数の遺伝子)の複雑な作用を反映している。私たちが何者で,何者になるかは,途方もなく複雑なプロセスの中で遺伝子の影響と環境の影響の両方が行なう相互作用の表われなのだ。「どれだけ?」という問いは,もういい加減,お蔵入りさせるべきだろう。なぜなら,単純に答えられないのだから。カナダの心理学者ドナルド・ヘッブがとうの昔に述べているように,それは,長方形の大きさを決めているのは縦の辺の長さと横の辺の長さのどちらかを問うようなものだ。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.98

生まれか育ちかの揺れ動き

生まれと育ちについての科学の定説は,私のこれまでの人生で,正反対の結論のあいだを大きく揺れ動いてきた。1950年代までアメリカの心理学で幅を利かせていた行動主義では,B.F.スキナーらの科学者は,新生児は白紙状態で誕生するので,環境がそれに刻印を押して彼らがどうなるかを決め,おもに報酬や強化を通して彼らを形作ると考えた。だが,1960年代には,そのような極端な環境決定論は勢いを失い始めた。そして,1970年代までには,ノーム・チョムスキーをはじめ,多くの言語学者と認知科学者が,私たちを人間たらしめているものの多くがあらかじめ組み込まれていることを証明して,このテーマについての考え方を一変させた。当初の闘いは,赤ん坊がどうやって言語を習得するかを巡って起こった。そして,赤ん坊が最終的に高地ドイツ語を話すようになるか,あるいは北京語を話すようになるかは,もちろん学習と社会環境次第であるものの,言語を可能にする,根底にある文法がおおむね生得的であることを,その争いの勝者は証明した。新生児が持って生まれた紙は,白紙にはほど遠く,情報がたっぷり書き込まれているのだ。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.94-95

もらえると思っていない時

あまりに多くの人が幼年時代から,信頼のできない,当てにならない世界で生きている。そういう世界では,より大きな報酬を先延ばしにしたかたちで約束されても,その約束はけっして守られない。こうした背景を考えれば,何であれ目の前にあるものをさっさと手に入れずに待っても,ほとんど意味がない。約束を守らない人と接してきた未就学児は,驚くまでもないが,ただちにマシュマロ1個をもらわず,あとで2個もらおうとする率がはるかに低い。このような常識的な見通しは,実験によって,とうの昔に裏づけを得ている。人は,先延ばしにした報酬がもらえるとは思っていないとき,合理的に行動し,その報酬を待たないことが立証されているのだ。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.84-85

冷却スキル

これは何を意味するのだろう?過剰なまでに支配的ではなく,子どもの欲求に敏感な母親を持つ幼児は,母親から距離を置く理由がなく,「新奇な場面」で母親がストレスを減らしてやろうと近づいてきたときに,そばを離れない。だが,自分の欲求にはとても敏感でありながら,子どもが必要なものには,それを子どもが最も必要としているときにも気づかず,子どもを苦しめるようなかたちで,一挙手一投足をコントロールしようとする母親を持つ幼児はどうなのか?アニータの研究結果からは,いくつか考えるべき問題点が明らかになる。おもちゃで遊び,部屋を探検するには,幼児が母親から少し離れるのは悪いことではないだろう。それは,5歳になったときにマシュマロ2個を手に入れるのに必要な自制のための「冷却」スキルを発達させる役に立ちさえするかもしれない。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.70-71

クールに考える

半世紀以上前,カナダの認知心理学者ダニエル・バーラインは,あらゆる刺激が持っている,相反する2つの面を指摘した。まず,魅力的で欲求をそそる刺激には,人を夢中にさせ,興奮させ,動機づける特質がある。だからあなたはマシュマロが食べたくなり,食べれば快感が得られる。一方,刺激からは認知的に捉えられる,非情動的な特徴についての情報を与える,叙述的な手掛かりも得られる——マシュマロは白くて丸く,ずんぐりしていて柔らかく,食べられる,というような。だから刺激が私たちに与える影響は,その刺激を私たちが頭のなかでどのように表象する(思い描く)か次第で違ってくる。人を興奮させるような表象は,動機づけを与えるホットな刺激の特性に焦点を当てる。マシュマロの,もっちりした食感や甘さという特性や,喫煙中毒者にとっては,吸い込んだタバコの煙の味わいといった特性だ。このホットなフォーカスは,マシュマロを食べる,タバコを吸うといった,衝動的な反応を自動的に引き起こす。それとは対照的に,クールな表象は,刺激のもっと抽象的で,認知にかかわる,情報提供元としての側面に焦点を当て(マシュマロは白くて丸く,小さくて柔らかい),刺激の魅力を強めたりすることなく,それがどのようなものかを教えてくれる。あなたはそのおかげで,その刺激に飛びつく代わりに,「クールに考える」ことができる。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.43-44

エンジンかブレーキか

こうした研究成果について報道陣と論じているときにB.J.ケイシーが述べたように,先延ばしにする能力の低い人はより強力なエンジンに駆動されているように見えるのに対して,先延ばしにする能力の高い人はより優れた心的ブレーキを持っていた。この研究からは,1つ重要な点が明らかになった。私たちの基準に照らして,生涯にわたって自制能力が低い人も,日常生活のたいていの状況では,苦もなく自分の脳をコントロールすることができた。行動と脳の活動における衝動制御に彼ら特有の問題が見られるのは,とても魅力的な誘惑に直面したときだけだったのだ。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.36

満足遅延と脳

これらの卒園生の脳スキャン画像からは,保育園でマシュマロの誘惑にうまく抗い,その後の年月も一貫して自制が得意だった人とそうでなかった人とで,前頭葉と線条体を結ぶ脳の神経回路網(動機づけと制御のプロセスを統合する回路網)の活動がはっきり異なることがわかった。先延ばしにする能力の高い人では,効果的な問題解決や創造的思考,衝動的な行動のコントロールに使われる前頭前皮質領域の活動が,より盛んだった。それとは対照的に,先延ばしにする能力の低い人では,腹側線条体の活動がより盛んで,情動的にホットで抗いがたい刺激に対する反応をコントロールしようとしているときには,とくにそうだった。脳の深くの,より原始的な部分にあるこの領域は,欲求や快楽,中毒と結びついている。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.35-36

満足遅延とSAT

子どもたちの実際の学業成績を測定するために,私たちは親に,可能なときには子どもたちの大学進学適性試験(SAT)のクリティカル・リーディングと数学の点数を教えてくれるように頼んだ。SATはアメリカの子どもが大学へ入学を志願するためによく受ける試験だ。親が報告した点数の信頼性を評価するために,私たちはSATを実施する<教育テストサービス>という団体にも連絡をとった。欲求充足を長く先延ばしにできた未就学児は,全体としてSATの点数がはるかに高かった。先延ばしにできた時間が短かった子ども(下位3分の1)と長かった子ども(上位3分の1)のSATの点数を比較すると,平均で210点の差があった(訳注 SATは3科目合計で2400点満点)。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.33

満足遅延の結果

マシュマロ・テストで長く先延ばしにできた未就学児は,およそ10年後には,欲求不満を覚えるような状況で,ほかの人より強い自制心を示す青少年というふうに評価された。彼らは誘惑に負けにくく,集中しようとするときには気が散りにくく,より聡明で,自力本願で,自信に満ち,自分の判断に自信を置いていた。ストレスにさらされても,先延ばしにする能力の低い人ほど取り乱さず,あわてたり,混乱したり,退行して未熟な行動をとったりする傾向も弱かった。また,彼らのほうが先のことを考えて計画し,動機を与えられると,目的を追求するのがうまかった。さらに,彼らのほうが注意深く,理性を使ったり理性に従ったりするのが得意で,邪魔が入っても脱線する率が低かった。ようするに,少なくとも親や教師の目や報告によるかぎり,問題が多くて扱いにくいという,広く浸透した青少年像が彼らには当てはまらないのだ。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.32-33

マシュマロ・テスト

カリブ海で以前に行なった研究から,進んで欲求充足を先延ばしにするための要因として信頼が重要であることがわかっていた。報酬を与えるという約束をする人を子どもたちが確実に信頼するように,気楽に接することができるまで,まず研究者と遊んでもらった。それから子どもたちに1人ずつ,ベルの載った小さなテーブルについてもらった。信頼感をさらに高めるために,研究者は繰り返し部屋から出て,子どもがベルを鳴らすとすぐに戻ってきて,「ほら,呼んだから戻ってきましたよ!」と大きな声で言った。呼ばれるとただちに研究者が戻ってくることを子どもたちが理解したらすぐ,自制のテスト(子どもたちには,これも「ゲーム」と説明してあった)が始まった。
 研究方法はごく単純にしておいたが,私たちは信じられないほど長たらしい学術名称をつけた。すなわち,「先延ばしされたものの,より価値のある報酬のために,未就学児が自らに課した,即時の欲求充足の先延ばしパラダイム」だ。幸い数十年後,コラムニストのデイヴィッド・ブルックスがこの研究を発見し,「マシュマロと公共政策」という題で《ニューヨーク・タイムズ》紙で取り上げると,マスメディアは「マシュマロ・テスト」と名づけてくれた。そして,この呼び名が定着した。ご褒美としてマシュマロを使わないことがよくあったのだけれど。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.26

一般法則と個別事例

一般法則の話を個別の話に当てはめているのに,個別の話だけで論じようとして混同してしまう人も,因果関係の議論の際によく見かける。実在世界と言語世界の混乱であり,科学の仕組みとヒュームの問題を知らないためである。また,ヒュームの問題により,たとえ要素還元主義やメカニズムを追求する場合であっても,原因と考える出来事と結果と考える出来事との間で,データに基づいて推論を行わねばならないことも分かる。
 ヒュームの問題は250年ほど前に指摘された。20世紀にはラッセルがヒュームを広く紹介した。ところが,日本ではいまだに,ヒュームの問題が踏まえられていないことが多く,この弊害は非常に大きいと思う。原因という出来事と結果という出来事は実在世界に属する。しかし因果関係は言語世界に属する。因果を日常生活や科学に生かすためには,このことを頭にたたき込み,言語世界の因果関係を描き出す語彙を持つ必要がある。そうでないと因果関係は描けないし,描かれた因果関係も理解できない。従って妥当な判断もできない。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.101-102

因果関係の証明

研究者たちは因果関係があると言うために,証明をして示さねばならないと思っている。しかし具体的な証明方法を知らない場合には,因果関係がないかのようになってしまう。因果関係が分からないでとどめればいいのに,因果関係がないのと同じにしてしまう。だが,観察されたデータから因果関係の有無を推論するのなら,因果関係がないことも証明する必要がある。そして,「因果関係がない」と証明することはしばしば困難を伴う。今は因果影響がないと思える1に近いリスク比でも,もっと対象者を増加させ観察を繰り返していたら,誤差の変動に隠されていた微妙な因が影響が見えてくるかもしれない。いずれにせよ,その後さらに,定量的に描かれた因果関係の影響の測定結果から判断を導く作業が待っている。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.100-101

要素還元主義の悪用

要素還元主義は悪用される。JT(日本たばこ産業)を含む世界のタバコ会社は長年にわたり,タバコ喫煙と肺がんとの因果関係に関して「メカニズムがまだ証明されていない」と,因果関係を認めてこなかった。1990年代には,タバコに含まれている物質ベンツピレンが作用して,がん抑制遺伝子の157,248,273のコドンに変異が生じることが示された。更にこの変異は,人の肺がん遺伝子の通常位置でも発見された。それまでのタバコ会社の主張の路線を維持するなら,ここでタバコの発がん性を認めるのが筋だろう。
 しかしここまで示しても,JTを含むタバコ会社の多くは主張を一向に変えないため,「メカニズムがまだ証明されていない」という要素還元主義やメカニズムへのこだわりが,単なる逃げ口上に過ぎないことも分かってきた。さらに,海外のタバコ会社はMutagenesisという国際的医学雑誌の編集委員と組んで,前述した研究を目立たない一意見に過ぎないと葬ろうとした。これがタバコ会社の内部文書の公開で明らかになり,Lancetという有名医学雑誌に発表された。因果関係を明らかにしてほしくないという強い気持ちが入ると,目に見えないゆえに強引な論理が押し通されてしまう。要素還元主義は,時間稼ぎにはもってこいである。その間に,「正常な使い方をして明瞭な害のある唯一の商品」(米CDC長官の発言)であるタバコを売りまくってしまえる。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.52-53

認めない人

医学研究で人間を観察対象にした研究方法論や因果関係論の発達により,今日では人間を観察し,人間レベルの仮設を立て,人間を単位として分析する方法論が十分に可能になり,簡単に利用できるようになってきている。従って,医学領域では研究に実験が必要という状況ではなくなっている。その一方で,治験や臨床研究ですら科学や医学研究と見なさない医学研究者もいまだにいる。人間も臨床も肉眼レベルの判断は実に多いので,このままでは「科学的根拠に基づいた医療」などできなくなることになる。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.45-46

科学の文法

ともあれ,観察という実在世界の事柄,理論(一般法則)という言語世界の事柄,この2つを結ぶ構造を科学は持っている。ばらばらと起こる現象をまとめ上げ,理論や一般法則として言語化するのは統計の役割なので,統計学は科学の文法と呼ばれる。これにより我々は一般化され言語化された理論を構築し,それを個別の事象に適用させることが出来る。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.34

科学は中立ではない

現代では,科学的観察は白紙の状態で行うのではなく仮説を元に行う。そもそも何ものにも影響されずに自然を観察することなどほとんど不可能である。この点は,科学ではきわめて重要である。観察とか証拠というものは,理論の影響から自由ではない。
 我々は何らかの目的を持って事柄を検証している。心の中で何らかのアイデア(観念)を伴って事柄を検証しているのである。科学的観察は常に理論負荷的であると言われ,観察事実は理論を前提としていて,その理論の影響からは逃れられない。こんなことを勉強すると,大学でよく耳にした「心を真っ白にしてデータを見なさい」とか「科学は中立だ」などという教授たちのセリフに対して,ひと言文句でも言いたくなる。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.29-30

何が「直接的証拠」か

一方,IARCは,
 「ある特定の物質が人体に対して発がん性を示すかどうか?」という問いに対する,間接的というよりもむしろ直接的な答えは,疫学的方法を使った人体に関する研究からのみ得られ,疫学は,症例報告,もしくは統計を使った探索的な研究結果や動物実験結果に動機づけて行われる」
 と,すでに1990年にはっきりと述べている。つまりIARCは,疫学を直接的,動物実験を間接的であると言っているのだ。この考え方は,人における発がん物質の分類をIARCが1960年代末に始めて以来の一貫した考え方である。IARCで評価される疫学研究は,観察研究が大部分を占める。
 多くの日本の医師や研究者が考える「直接的」と「間接的」が,IARCでは入れ替わっており,何を直接証拠と考えるかについて真逆であると言ってよい。日本の研究者は操作性を「直接」とし,IARCは対象を「直接」と言っているとも解釈できる。もちろん科学的証拠であることに直接関連するのは,後者の「直接」である。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.15-16

形式ではない

さて,疫学研究で得られるデータとその分析が応用のために信頼できるかどうかを,妥当性という言葉を用いて説明することが多い。妥当性は,内的妥当性と外的妥当性とに分けられる。外的妥当性は,一般化可能性とか応用可能性と呼ばれることがある。内的妥当性の追求が科学の整合性(論理的な説明)を求める一方,外的妥当性は応用可能性を求める。
 医学研究における動物実験は,うまくいけば内的妥当性はそこそこあるが,人への外的妥当性は全くないかほとんどない。ピロリ菌による発がん性を動物実験で示そうが示すまいが,「それでどうしたの?動物と人間とでは違うよ」と一言で片付けられる危険性が常にある。動物実験の結果を人間に適用可能であると言うすべを,動物実験は持っていない。一方,応用可能性を追求しすぎて内的妥当性が全くなければデータは信用できない。両方の妥当性を十分に満たすことは困難だが,どちらかが完全に欠けているのはまずいのだ。内的妥当性を追求して,実験ばかりするのでは困る。特に医学の応用目的では人間での観察が可能なら観察研究を検討する必要がある。実験は内的妥当性を上げるための形式の1つに過ぎない。科学研究の目的は,形式を整えることではない。この場合の目的は,あくまでも因果推論である。目的を見失ってはならない。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.12

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