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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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因果関係とは

因果関係とは,原因と結果の関係である。自然科学における因果関係の推論とは,原因と考える要因(出来事)と結果と考える出来事との関係を,実験か観察で得られたデータを用いて推論することである。本書で説明するように,因果関係自体は直接認識できないので,「推論」がついて回る。つまり,原因と結果に関するデータを得て,そのデータに基づいて思考し,因果関係があるのか因果関係がないのかを推論するのである。さらに,あるとすればその因果関係はどの程度の影響を与えるものなのか,それは無視できるのか,対策が必要なのか,どの程度役に立つと言えるのか,商品化可能なのかを考えたりもする。ちなみに,私の専門分野の疫学では原因を暴露と呼び,結果を病気と呼ぶことが多い。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.10-11
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壊す

敵を発見し,敵を吊るす——。
 社会はいま,こうした憎悪と不寛容の回路の中で動いている。
 そうした時代とどう向き合っていくべきか。
 法規制をしても,言葉を取り締まっても,おそらく人の住む世に差別は残る。
 だが,そこで思考停止してしまうことだけは避けたい。
 何度でも繰り返す。
 ヘイトスピーチは人を壊す。地域を壊す。そして社会を壊す。
 生きていくために,私たちはそれと闘っていかなければならないのだと私は強く思う。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.265-266

政治家の側から

前述した議員のみならず,けっして少なくはない議員が,そもそも「在特会的」な主張を繰り返していることこそ,危惧すべき点ではないのか。隣国との対立を煽り,復古的な教育を礼賛し,偏狭なナショナリズムを喧伝し,在特会関係者による集会へ無警戒にも足を運ぶ議員が後を絶たない。
 在特会が政界に近づいているわけではない。政治家の側が勝手に「在特会化」しているだけなのだ。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.254

差別の理由とは

差別主義者,排外主義者は必ず「差別の理由」を訴える。私のもとにもヘイトスピーチを正当化するための「理由」が,これまでにもメールや電話などで多数寄せられてきた。
 そのたびに私はこう答えている。
 マイノリティ差別を正当化できる「理由」など一切,存在しない。ヘイトスピーチというのはマイノリティに対する暴力,攻撃,迫害である。人間としての尊厳を傷つけ,また社会全体をも破壊するものだ。もしも「理由」如何によってそれが許容されるならば,世界中にはびこる様々な差別——黒人差別,ユダヤ人差別,アラブ人差別なども正当化されてしまう。あるいは第二次大戦中,日本人であるということだけで収容所送りとした米国の差別政策すら認めなければならない。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.223-224

差異にこだわる

彼らが口にする「気持ち悪い」は,「怖い」「意味が分からない」といった言葉と同義語である。とにかく“異なる他者”を差別することでしか,自我を保つことができない。あるいはそうすることでしか,自らの優位性を訴えることができない。そうしたゼノフォビア(外国人嫌い)を根底に抱えた者は,デモ参加者の中に少なくないように思える。
 以前,新大久保でおこなわれた差別デモの最中,たまたま現場に遭遇した右翼組織のメンバーが「朝鮮人って言葉を使わずに愛国を語ってみろよ」とデモ隊に対して吐き捨てるように叫んでいた風景を目にしたことがあるが,私もまったく同感だ。レイシストはレイスの差異にこだわることこそが,活動の原動力なのである。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.205-206

匿名性

ネット上のヘイトスピーチがやっかいなのは,匿名性が保たれているからである。悪質なヘイトスピーチの担い手たちが実名を明かしているケースは皆無に等しい。そればかりか大半は,年齢も住所も勤務先もわからない。自分だけは物陰に身を隠しつつ,他者を罵倒,攻撃する。実に卑怯極まりない。そんな連中が「愛国者」だの「大和魂」だのと国士気取りなのだから笑わせる。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.180

理由などない

しかし,私は思う。そもそも差別に理由をもうける時点で,決定的に間違っている,と。差別を肯定するための理由などを認めていたら,世界中のすべての差別が許容されてしまうではないか。
 国家や指導者を批判することは一向に構わないが,私たちの目の前にいるマイノリティを差別し,排除し,嘲笑する理由など何一つない。
 いや,あってはならないのだ。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.132-133

熟慮ではない

社会のマジョリティとして,マイノリティの殺戮を煽ったのだ。「軽はずみ」であることなど,何の言い訳にもなるまい。世界中の歴史を紐解けば,あらゆるジェノサイド(虐殺)は,それこそ「軽はずみ」から始まっている。熟慮に熟慮を重ねた「虐殺」などあっただろうか。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.130-131

不快語や罵詈雑言とは違う

「ヘイトスピーチとは,人種,民族,国籍,性などのマイノリティに対して向けられる差別的な攻撃を指す」
 これが師岡の見解だ。私もそれに倣いたい。
 自身の努力だけでは変更することのできない,けっして抗弁することができない属性や,性的マイノリティに対し,差別に基づいた扇動・攻撃を加える行為そのものが,ヘイトスピーチと位置付けられる。しかもそれらの攻撃は社会的な力関係を背景におこなわれる。
 また,人種差別研究で知られるハワイ大学のマリ・マツダ教授は,ヘイトスピーチは「マイノリティに対して恐怖,過度の精神緊張,精神疾患,自死にまで至る精神的な症状と感情的な苦痛をもたらす」としたうえで,その定義を以下の3点に簡潔にまとめている。
(1)人種的劣等性を主張するメッセージであること
(2)歴史的に抑圧されてきたグループに向けられたメッセージであること
(3)メッセージの内容が迫害的で,敵意を有し相手を格下げするものであること
 要するに,ヘイトスピーチは単なる不快語や罵詈雑言とは違うということだ。
 この点は世間にはまだ正確に伝わっていない。「言葉遣いが汚い」ということだけで「ヘイト」だとする風潮の方が,日常社会やネット言論の世界では一般的だ。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.77-78

だから害悪

カタルシスや娯楽のためにマイノリティが存在するのではない。ヘイトスピーチを全身に浴びてきた人間が,そう簡単に「痛み」から解放されるわけがないのだ。
 何度でも言う。ヘイトスピーチは暴力そのものだ。生身の人間を傷つける。そして,人を抱える社会そのものを傷つける。
 だから害悪なのだ。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.62

暴力そのもの

ヘイトスピーチは単なる罵声とは違う。もちろん言論の一形態でもない。一般的には「憎悪表現」と訳されることも多いが,それもどこか違うように感じられてならない。
 憎悪と悪意を持って差別と排除を扇動し,人間を徹底的に傷つけるものである。言論ではなく,迫害である。
 言葉の暴力——ではない。これは「暴力」そのものだ,と。人間の心にナイフを突き立て,深く抉るようなものだ。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.19-20

理性の結果

「そんなに理性や合理主義が正しいのであれば,キリスト教同士でなぜあれだけの殺し合いをして,20世紀にヨーロッパが2度も焦土と化したのだ?」
 また,イスラム世界では,アメリカが日本に原爆を投下したことはよく知られています。これも同じことで,ムスリムはこう問いかけます。
 「あれだけ多くの市民,とりわけ戦闘員でもない女性や子どもや高齢者を一網打尽に殺害する武器を作り,使うことが,理性の結果だというのか?」
 これらの問いに答えられる人は,どれだけいるでしょうか。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.164

「アルカイダ」

CMに入った隙に,キャスターの方々に,「アルカイダって固有名詞じゃないことをご存知ですか」と聞いたのです。すると全員が驚いて私を見つめます。「えっ,テロ組織の固有名詞じゃないんですか?」
 「カイダ」とは,ベース,拠点を意味します。「アル」は冠詞ですから,“The Base”という意味でしかありません。アラビア語では野球のことを「アルカイダのボール」と言います。ベース・ボールという英語の直訳です。まさか,野球がアルカイダなんて誰も想像したこともないでしょう。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.112

原理主義

そもそも,ムスリムに「原理主義」と言っても何のことだか理解できません。なぜなら「イスラム原理主義」というのはアメリカにおける造語だからです。
 「原理主義」(fundamentalism)はもともと,極端なまでに聖書中心の生活を目指し,なかには現代文明を拒否して信仰生活がすべてというような禁欲生活を送る,アメリカの一部のキリスト教徒たちに対する侮蔑のニュアンスを含んだ用語です(ただし,当人たちも好んでこの言葉を使うことがあります)。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.94-95

「警察の発表です」

ある日,宝石店に強盗が入り,新聞は「中近東系の外国人?」と見出しをつけました。その記事を書いた新聞の地元の支局を訪ねて,どうして容疑者が捕まる前から「中近東系」と書いたのかを尋ねました。答えはひと言「警察の発表です」。
 誘導する警察。それを鵜呑みにする記者のリテラシーのなさ。無検証なまま翻訳される欧米報道の言葉。こういうことが幾重にも重なると,ついには戦争への誘導,参戦への誘導にもつながっていきます。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.88

報道のバイアス

イスラムについて不正確で偏見に満ちた情報を流布する欧米諸国のジャーナリストや知識人。そして,欧米の支援を背景に持つ強圧的な政府に擦り寄るムスリム諸国のイスラム指導者たち。彼らこそ反イスラム感情を市民の間に醸成する原因と私は考えます。イスラム・フォビアwp煽っている点ではムスリム諸国も同じ問題を抱えているのです。
 「イスラムは危ない」と漠然と信じている人は日本に限らず世界中にいます。その状況では,あらゆるデマや嘘や誇張が,流布,拡散する可能性は低くありません。イスラム世界を考えるとき,欧米から発信される報道のバイアスを意識する必要があります。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.86-87

戦士を生み出す時

イスラムの思想には,アメリカ人を殺害しろとか,ユダヤ人を抹殺しろとか,そんな教えはありません。キリスト教徒やユダヤ教徒を殲滅しろという考えもありません。しかし「テロリスト」や「過激派」を掃討すると称して,爆撃機やドローン(無人攻撃機)による度重なる誤爆で子や母を殺すような残虐なことをした場合には,命を賭けて戦う戦士を生み出してしまいます。
 そういう者が出てきたとき,それを「ジハードだ」と認識するムスリムはかなりいるはずです。西欧的な価値観に絶対的な信を置く人にはこうした反応は理解しがたいかもしれませんし,ムスリムの理路に同調すべきだとも思いません。ただし,最低限,ムスリムはそういうときに激しい反発をするということを知っておくことは,政治のレベルでも個人のレベルでも無駄な争いを避け,共存を実現していくうえで大変大事なことなのです。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.77

極論に走る可能性

私が危惧するのは,集団的自衛権の行使ということになると,当然,世論が「軍はどう考えているか」を聞きたがるということです。戦後,一貫して沈黙を守らされてきた自衛隊が,急に,国際政治や国内政治に関連した発言をすることになると,ここまでは言ってもいいが,ここから先は発言してはならない,というようなレッスンを受けていないので,極論に走る可能性を否定できません。政治家のポピュリズムも怖いのですが,軍の現役幹部がポピュリズムを振りかざしたりすると,目も当てられないことになります。戦争で国民の支持を取りつけようとするからです。このことは,シビリアン・コントロールを崩壊させる危険をはらんでいます。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.68

どうしてないのか

言葉の問題だけではありません。ずいぶん昔のことになりますが,東京の大学で教えていたとき,西洋史,日本史,東洋史の講義はあるのに,どうしてアフリカ史はないのか,アフリカ史の講義も,当時一般教養科目と呼ばれていた教養教育で開設すべきだと主張しました。みんな頷くのですが,実現しませんでした。官製グローバル人材の養成をおしつける政府だけではありません。問題は,大学教員の縄張り意識にもあるのです。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.54-55

グローバル?

大学で語学の授業といえば,いつまで経っても英語,中国語,ロシア語,フランス語,ドイツ語などと,安全保障理事会の常任理事国みたいな顔ぶれです。最近になって韓国語(朝鮮語)を入れるようになりましたが,アラビア語はもちろん,マレー語やタイ語やインドネシア語のような東南アジアの言語を初修から必修の外国語枠で開講している大学はほとんどありません。
 そんな教育を進めながら,いきなり「グローバル人材を要請せよ」とお上から言われても,せいぜい,みんな英語圏に留学しましょう,語学留学でもなんでもよいから,とにかく行きましょう,ということにしかなりません。ここ数年,粗雑なグローバル化政策が学生と大学の上に覆いかぶさるようになりました。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.52-53

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