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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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基本を知ること

イスラムの基本を知らないと,どうしてもムスリムの人間像を誤認していきます。その果てに,彼らと敵対し,攻撃を正当化し,多くのムスリム一般市民が犠牲となったのです。これはアメリカに限った話ではありません。中国のウイグル問題も,ロシアがチェチェンやダゲスタンに対してやってきたことも構造は同じです。
 こうした大国は,大国すぎてかえって世界が見えない部分があるのでしょう。恐竜然り,巨大な生き物が力を行使するとき,一度動き出してしまうと大きすぎて止められません。象は蟻を踏みつぶしても痛みを感じませんが,踏みつぶされた蟻にも命があります。命には尊い,尊くないという区別などありえません。ムスリムもまた,理不尽に命が奪われること,とりわけ子どもたちの命が奪われることに激しい怒りを覚えるのです。

内藤正典 (2015). イスラム戦争:中東崩壊と欧米の敗北 集英社 pp.48-49
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誤解のきっかけに

微表情という概念は広く関心を集めているが,その科学的な信頼性は,今のところ,どうひいき目に見ても高くない。第1の理由は,人間の感情は知らず知らずに外に漏れ出て,他人にもはっきりわかるという考え方は,客観的な事実というより自己中心的な幻想に思えるからだ。被験者に,嘘をつかせたり強い感情を隠してもらったりする実験では,被験者は自分の本心が相手に悟られてしまう可能性を,実際よりはるかに高く見積もっていた。良くも悪くも,人間は,自分が思う以上に嘘をつくのが上手なのだ。第2の理由は,研究者が,相手が嘘をついていることをうかがわせる表情を必死に探しても,それが見つかるケースはごくわずかで,さらに嘘を述べているときも真実を述べているときも,微表情の出方は変わらないからだ。ある実験で,被験者にいろいろな感情を呼び覚ます写真を見せて,その時々に感じたことを正直に出したり,逆に隠してもらった。すると,実験で見られた679の表情のパターンのうち,完全な微表情(顔の上半分と下半分のどちらにも出る表情)は1つもなく,部分的な微表情(顔の上半分か下半分のどちらかに出る表情)は14個(全体の2%)しかなかった。そして14個のうち,半分は本当の気持ちを隠そうとした時のもので,残りの半分は,本当の気持ちを正直に出した時のものだった。つまり,微表情はめったに見られるものでなく,しかも本当の気持ちを表しているかもしれないし,逆にそれを隠しているかもしれないのだ。もちろん,すべての感情が隠せるわけでもない。とはいえ意外なのは,人間の本当の気持ちはめったに漏れ出るものではなく,顔に出る表情は本当の気持ちを誤解するきっかけにもなるということだ。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.254-255

共通点より相違点

男女の性別を論じる人も,当然,1人の人間であり,私たちと同じく,共通点より違う点に注目してしまう。男女の共通性を論じることを提案した唯一の心理学者であるジャネット・ハイドは,性差に関する大規模な研究では,2つの性に驚くほど共通点があることが示されているにもかかわらず,それらを引用した二次研究では,男女のステレオタイプを定義づける小さな違いのほうに焦点が当てられてしまう,と指摘する。影響力のある作家もマスコミも,こうした共通点のことは申し訳程度に触れるだけで,その後は,もっぱら研究結果で得られた男女の違いを取り上げる。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.206

グレーゾーン

ステレオタイプが完全に正しかったり間違ったりすることはまずない。ステレオタイプがもたらすイメージは,集団の平均像を的確に捉える場合と,まったく的はずれな場合のあいだに広がる無限のグレーゾーンに位置している。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.197

ステレオタイプ

あなたも,私の調査に回答した人も,保守派とリベラル派,豊かな人と貧しい人,男性と女性の考えの差を想像するときに,実際に外に行って直接話を聞く必要はなかったはずだ。というのも,彼らの考えに対してある種の印象をすでに持っているからである。その印象こそが,ステレオタイプ——「集団独自の特徴に対するイメージ」——だ。これらの印象は,どこからともなく沸いてくるものではない。ステレオタイプは,他人の考えを推測するため,自分や他人が得た情報をもとに,複雑な世界から平均的な傾向を導き出そうとする脳の試みを反映している。リベラル派と保守派,豊かな人と貧しい人,男性と女性に対して持っているあなたの印象には,いくらかの真実が含まれており,今回取り上げた調査でいえば,両者の違いの方向性は正しく認識していた。だが,あなたの印象には間違いも含まれていて,今回の調査でいえば,認識の差の程度をまるっきり間違えて予測していた。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.192

気づけば解放される

ピアジェは,自分の視点に気づけば,その視点から解放されると主張したが,そのとおりだと思う。実験を通してこのことを学んだおかげで,私の人生は大きく変わった。教授という仕事は,人前で話すことが多い。ところが,人前で話すようになって間もないころの私は,身をすり減らすほどのあがり症に苦しんでいた。初めて学会で発表するときは,緊張で2日間眠れなかった。初めて教職採用面接を受けたときは,3週間で9キロもやせた(心配ご無用。大学時代はフットボールをやるため増量していたので,余計な贅肉はたっぷりあった)。今でも人前で話すときは緊張するが,身をすり減らすほどではない。聴き手のほとんどは,私が想像する最悪のケースのことなどまるで考えていないし,私が目の前で話しているときも,自分の生活にとって大事なことをあれこれ考えているだろうし,たとえ何が起ころうとも,私が思うよりはるかに早く忘れてしまうことを知っているからだ。数年前,初めて高校の卒業式でスピーチをすることになったときなどは,自分が卒業生だったときのスピーチ内容を思い出せたら100万ドルあげるといわれてもまったく思い出せなくて,逆に勇気づけられたものだ。そもそも,高校の卒業式のスピーチをした人が,男性か女性かも忘れていた。あなたが昔聴いた講義や講演や,終わるまでじっと耐えていた卒業式スピーチのことを,もう一度思い出してほしい。あなたは,話の内容を何%くらい思い出せるだろうか?もしその数字が,雷に当たる確率より高かったら,驚きだ。人間は,自分の視点が持つ自己中心性を意識することで,広い視点を持てるようになる。さあ,気を楽に持とう。そもそも他人はあなたなど見ていないし,もし見ていても,たいして気にしていないのだから。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.160-161

心を読む

他人の心を読む能力は,人間の脳が持つもっとも偉大な道具であり,複雑な人間社会を渡っていく上で必須といえるものだ。この能力を扱う上で,私たちがよく犯す過ちは2種類ある。1つめは,自分以外の他人など,実際には心を持っている存在なのに,そうと認識しないこと。2つめは,ハリケーンやコンピューターや不定期に起こる自然災害など,実際には心がないものに,心があると認識してしまうことだ。これらの間違いは,私たちが時と場合によって第六感を発揮したり発揮しなかったりするために起こるものである。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.136-137

類似性の原則

ここで述べた知覚の基本原理は単純で,ほとんどが類似性の原則に基づいている。「アヒルのように歩いてアヒルのように話しているなら,それはアヒルに違いない」という類似性の原則は,アヒルを見わけるときならほぼ完璧に当てはまるが,より複雑な状況では間違いのもとだ。軍隊では,こうした知覚的手がかりを利用して,目や顔があり,人間のような肌をした精巧な手を持つ戦争ロボットをつくり,見た人すべてが恐怖心を抱くようにしている。また,1990年代に,マイクロソフト・ワードのユーザーが,プログラムについている仮想アシスタント<クリッピー>に本気で腹を立てたのは,<クリッピー>があまりにも擬人化されていて,その振る舞いが,まるで勝手にオフィスに押しかけてくる,社交性のかけらもないおせっかいな同僚のように思えたからだ。さらに,外見だけを見れば,ほぼ人間と変わらないように思えるチンパンジーをペットにしている人は,人間にもっとも近いこの動物が,遊びに来た友人の顔を引き裂いたり性器を引きちぎったりして始めて,彼らが人間と違う心の持ち主であることを思い知った。つまるところ,外見は当てにならないのである。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.119-120

誤った戦略

テロリストの心を読み違えたために,誤った軍事戦略をとる例は,枚挙にいとまがない。敵が感情のない動物のような存在であるなら,彼らを震え上がらせるだけの圧倒的な力を見せつけなければならない。だが,もし敵が自分の集団への同情心や,個人的な利益より大きな意味を持つ大義名分のために闘っているなら,「衝撃と畏怖」作戦は,相手を恐怖に陥れると同時に,相手を勢いづかせることにもなりかねない。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.93

テロリストへの想像力

こうした見方は,テロリストの心を読み違えている。たとえば,自爆テロリストは,かならずしも極貧家庭の出身ではない。彼らは狂人でも,相手の痛みがわからない人でもなく,家庭があり,子持ちの人もいる。そして,親しい人を愛している。暴力行為に及ぶ人とそうでない人を分け隔てるのは,あなたもよく知っている,非常に人間らしい感情や動機だ。それは,自分の社会集団との深い絆や,ある大義名分のせいで苦しんでいる人への強い同情心や,危機にさらされている生活を守りたいという強い責任感である。そして,暴力行為に及ぶ人は,自分が属する集団への同情心と,それに起因する敵対集団への軽蔑心に突き動かされている。彼らの行動は,偏狭な利他主義からきている。偏狭な利他主義とは,自分の行動の結果を積極的に顧みず,ひたすら自分の集団や大義名分に利することをしたいという強い思いのことである。これは,大統領選挙中のジョン・マケインが,すべてのアメリカ人が望む行動の動機として挙げた「個人の利益よりも偉大な大義名分に奉仕すること」そのものだ。私たちは偏狭な利他主義によって,自分に近い同胞たちの存在を借りて語られる。ある自爆テロリストの父親は「息子は大義名分のために死んだのではなく……愛する人々のために死んだのです」と述べている。ところが,テロリストが愛で動いていると想像できる人は少ない。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.92-93

赤ん坊は人間か

患者を一人の人間として扱うことが仕事であるはずの医者でさえ,相手の気持ちを考えないことがある。とくに,患者が自分たち医者とまったく違う立場であるときに,そうなりがちだ。たとえば,1990年代初めまで,赤ん坊の手術では麻酔を使わないのが一般的だった。なぜだろう?当時の医者は,赤ん坊には,人間のもっとも原始的な能力である痛みを感じる能力がないと考えていたからだ。メアリー・エレン・エイブリーは,著書『新生児の痛み(Pain in Neonates)』の冒頭で,こう述べている。「先輩の医者から,生後間もない赤ん坊は痛みを感じないといわれたことが,どれだけあったでしょう。もちろん赤ん坊は,拘束されて手術を受けるときは泣いています。それなのに『それとこれとは別』だというのです」。ずっと前から,医者は赤ん坊を生物学的には人間だと考えていたが,心理学的にも人間だと考えるようになったのは,ほんの20年前なのだ。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.76-77

非人間化

要するに,非人間化とは,相手の人間性を認めないことだ。人が非人間的な扱いに抵抗するのは極端なケースが多いので,そこまで頻繁に起きている現象ではないと思えるかもしれない。だが,実際はそうではない。相手を心のない存在として扱うケースは,目立たないかもしれないがあちこちで見られる。あなたの家の冷蔵庫にも,その名残が入っているかもしれない。フランス人がイギリス人向けにシャンパンを作りはじめたとき,シャンパンの製造業者は,イギリス人がフランス人よりはるかに辛口を好むことを知った。だが,フランス人にとって,イギリス人が好きな味はおいしくなかった。そこで,彼らには粗野に思えたイギリス人をからかって,イギリス人向けのシャンパンを「ブリュット・ソバージュ(野蛮な辛口)」と呼んだ。この冗談は,フランス人にしっぺ返しを食らわせることになる。今や「ブリュット」は世界でもっとも人気のある種類だからだ。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.75-76

自分で気づかない

びっくりするのは,人間は,本当は自分のことがわかっていないにもかかわらず,内省によっていとも簡単に,よくわかっている気分に陥ってしまうことだ。自分が事実をそのまま伝えているのではなく,物語を作り出していることにも気づかないのである。たとえば,あなたが,車のディーラーのショールームで日がな一日車を眺め,あの車とこの車を頭のなかであれこれ比較し,最後に,もっとも強く惹かれた1台に決めたとしよう。その車で家に帰る途中,あなたは,自分がなぜ別の車ではなく,この車にしたのか,はっきりわかっているはずだ。この車がいちばん光り輝いていたからだ,とか,いちばん乗っていて心地よかったからだ,とか,いちばん馬力があったからだ,というように。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.62-63

右と左

ここで,ショッピングモールの買い物客に,商品を選んだ理由を尋ねるという簡単な実験を紹介しよう。まず,買物客に四足のストッキングを見せて,いちばん好きな商品を選んでもらう。実は,四足のストッキングはまったく同じ商品だ。実験の結果,選択の鍵となっていたのは,商品の順番だった。ストッキングをどの順番で並べても,いちばん多く選ばれたのは右端の商品(最後に見せられた商品)で,いちばん選ばれなかったのは,左端の商品(最初に見せられた商品)だった。ところが,なぜそれを選んだのかと買物客に聞くと,商品が並ぶ順番のことを理由に挙げた人は一人もいなかった。さらに,選ぶときに商品の順番が気になったかと単刀直入に聞いても,「ほぼ全員が,質問を聞き違えたのか,相手は頭がおかしいのか,という顔で否定した」という。ストッキングの順番が商品を選ぶ決め手だったのに,買物客は,それが自分たちの選択に影響を与えていることに気づかなかった。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.61-62

わかることとわからないこと

はじめに,よいニュースだ。一連の実験から,総じて人間は,グループ全体の自分に対する評価をわりあい正しく予測できていることがわかった。自分が予測した数字と,ほかのメンバーの実際の数字の平均値の相関係数は,非常に高かった(正確な数字を知りたい人のためにいうと,0.55だった)。これは,父と息子のあいだの相関係数(約0.5)と,ほぼ同じくらい高い数字だ。完璧に把握できているとまではいかないが,まったく見当違いというわけでもないレベルである。いいかえれば,人は他人の考えを,ある程度は予測できるのだ。
 次に,悪いニュースだ。この実験では,グループの個々のメンバーの評価を,どれだけ正確に予測できるか,というテストもした。たとえば,同僚たちからは,おおむね頭が切れると思われていることは理解できても,同僚一人一人の評価には幅がある。ある人は,ナイフのように鋭いと思っていても,別の人は,スプーンくらいの鋭さだと思っているかもしれない。その違いを感じとれるのだろうか?
 答えはノーだ。この問いに対する正答率は,当てずっぽうで答えたときの数字をわずかに上回る程度だった(予測と実際の評価の相関係数は0.13で,まったく関係ない人同士が予測した場合より少し高いだけだった)。同僚たち全体から,どれくらい優秀と思われているかを予測することはできても,とくに優秀と思ってくれている人や,そこまで優秀とは思っていない人を見分ける手がかりはまったくないようである。この実験に関わった研究者の言葉を借りれば,「特定の人から自分がどう思われているか,ということについて,人はほんの少ししかわからない」ようなのだ。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.28-29

ブレインスコープがあったら

実際,人は,他人から見た自分の印象をいちばん知りたいと思っている。メアリー・ステッフェルと私が行ったある調査では,インターネット上で500人のアメリカ人に対し,他人の頭のなかを覗ける<ブレインスコープ>が発明されたときのことを想像してもらった。それを使えば,相手の考えや気持ちが完璧にわかるという代物だ。そして,その道具をだれに対して,何を知るために使いたいかと訊ねた。すると驚いたことに,金持ちや有名人や権力者の考えに興味を持つ人はほとんどおらず,ほとんどの人は,パートナーや恋人,上司や家族や近所の人など,自分に最も近い人の頭のなかを知りたがった。つまり,自分が一番よく知っていると思っている人の頭のなかを覗きたいわけだ。しかも,被験者がもっとも知りたがったのは,相手が自分をどう思っているのか,ということだった。ほとんどの人が,<ブレインスコープ>を魔法の鏡のように使いたいと考えたのである。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.26-27

パラグラフの規則

パラグラフには厳密な規則がいくつかあり,その規則は書き手にある一定の制約を押しつけます。パラグラフの規則を守りながら書けばそれがそのまま論証のスタイルになるというわけです。規則は次のようなものです。

 (1)ひとつのパラグラフにはひとつの主張または結論しか書いてはいけない。すなわち,ふたつの主張がある場合には2つのパラグラフに分けて書く必要があるのです。
 (2)主張はパラグラフの戦闘にトピックセンテンスとして書く必要がある。これにより,各パラグラフの先頭にはそれぞれのパラグラフで述べられる主張が並ぶことになります。
 (3)トピックセンテンスとして書かれた主張のあとにその主張をささえる根拠をサポーティングセンテンスとして書く。これは論証に必要な条件を整えるためです。
 (4)サポーティングセンテンスに書かれる根拠は文頭に述べたトピックセンテンスの主張と直接に関係すると考えられる根拠のみを述べること。
 (5)パラグラフの最後にコンクルーディングセンテンスとして同パラグラフで主張したトピックセンテンスの内容を再度書く。サポーティングセンテンス(根拠)の内容が長くなり,パラグラフの最初で述べた主張が読者の記憶から薄れてしまう場合もあります。コンクルーディングセンテンスでもう一度主張をくりかえすことにより,パラグラフで書き手が言いたかったことが再度確認されるわけです。

福澤一吉 (2002). 議論のレッスン NHK出版 pp.122-123

トートロジー

「これは私のおふくろです。なぜなら,私の母だからです」という表現は,最も厳密な論証で誤りがありません。しかし,このような論証は結論が必ず真理なので内容的に意味のない表現になっています。吟味するまでもなく意味内容が絶対に真理となるような表現内容を,「トートロジー」とか「同語反復」と呼びます。トートロジーでは前提や根拠から主張への飛躍はありません。つまり,確実な結論を導けますが,生産的なことは何も言っていないに等しいのです。ですから,なにか生産性のある論証をする場合には「Aという前提・根拠」から「Aという前提・根拠以外のなにか」を導く必要があります。言いかえるなら,飛躍をともなわない意見は主張にはなりえないのです。

福澤一吉 (2002). 議論のレッスン NHK出版 pp.91

反論を許す

主張をこのように考えてみますと,単に主張が「自分が一番言いたいこと」では済まない場面がありそうです。要するに,自分の主張は誰かへの反論になっているのですから,こんどは自分の意見は誰かから必ず反論される対象となっているはずです。そうであるなら,「誰かからの反論を十分に許す(これはいいことです)だけの議論構造をあらかじめ用意してから主張すること」が議論の順番ということになるでしょう。

福澤一吉 (2002). 議論のレッスン NHK出版 pp.90

基準・ルール

議論のルールをサッカーのルールとのアナロジー(対比)で話す場合に誤解しないように気をつけたいのは,議論は白黒が明確につく試合ではないということです。ある議論が有効(ゴールに相当)であることを議論の参加者全員が承認する場合でも,それは必ずしも「議論の勝ち負け」を意味しません。
 むしろここで私が重要だと思うのは,議論の評価をする必要がある場合に,その議論をある「基準」または「ルール」に照らして評価できるということです。基準があるからこそ,他者の議論だけでなく,自分の議論に対しても評価できるのです。「あなたの考え方は誤っている」とか「あなたの論証には問題がある」と誰かに指摘された場合でも,それに対してむやみやたらに反発するのではなく,その指摘の正当性を「ある基準またはルール」に照らし合わせることで承認できるようになるというわけです。

福澤一吉 (2002). 議論のレッスン NHK出版 pp.63-64

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