さて蝶と蛾は学問上はどちらも鱗翅類という近似同類の昆虫として纏められています。そして蝶と蛾の間には学問的な区別をたてる明確な根拠がないので,両者を大まかに一つのものと見なす文化(言語)があっても,また反対に出現するのが夜か昼かの違いなどを主な理由として,この2つを別の種類の虫だとして区別する言語があってもおかしくないわけです。
ただ重要なことは日本人のようにこの2つを区別するタイプの言語を母語に持った人々は,両者を同じものと見る言語があるなど夢にも考えたことがないということで,この事実を知らされたときはまさか,そんな馬鹿なことがあるかといった驚きと不審の感情を隠せないのが普通です。人並みの昆虫少年で大人になった後も虫に興味を失うことのなかった私も,長い間蝶と蛾は別のものと思って疑うことはありませんでした。人間は何時何処でも自分の母語が区別し名を与えている世界だけが,正しいものと思うように出来ているので,この母語の絶大な制約から解放されることはなかなか簡単にはできないのです。ですから外国語を学ぶことによって,その気になれば様々な異文化衝突を経験する機会に出会えるはずですが,実際はなかなかそうはならないのです。
鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 pp.95-96
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