I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「生物学」の記事一覧

ばらつき

 例えば体重の遺伝率が80%だからといって,体重60kgの人の80%分の48kgまでが遺伝でできていて,残り12kgが環境でつくられたという意味ではありません。これは日本人の平均体重が60kgだからといって,日本人がみんな60kgだという意味ではないことと似ています。その集団にはいろんな体重の人がいて,その体重のばらつきの原因は,一人ひとり異なる遺伝要因のばらつきと,それぞれに異なる環境要因のばらつきが合わさったものです。そのとき体重のばらつき全体のどの程度の割合がそれぞれの要因によるばらつきで説明できるかをあらわしたのが,この数値なのです。


 それじゃあ,一人ひとりの遺伝と環境の状態については,何も考えていないのかと思われるでしょう。決してそうではありません。


 例えばあなたの体重が75kgだとしましょう。そしてあなたと同じ年齢と身長の平均体重は65kgだとします。平均より10kg重いわけです。ほかにもあなたと同じ条件で10kg重い人たちがたくさんいるとしましょう。その人たちがみんなあなたと同じ遺伝的素質と環境で育ったとは限りません。あなたは本来,ふつうに食べていれば遺伝的には70kgになる素質なのに,食べすぎがたたって5kgオーバーして75kgなのかもしれない。またある人は遺伝的素質は本来80kgになる人だけれど,ダイエットして75kgなのかもしれません。またもともと75kgの素質の人がふつうの食生活を送っているのでありのままに75kgかもしれません。


 このように同じ75kgの人の遺伝的資質と環境にはそれぞればらつきがあり,その総和としてそれぞれの人の体重があるわけです。そして実際は遺伝的素質も環境も,それぞれさまざまにばらついているので,表現型としての体重も人によってばらばらに違う。このときの遺伝のばらつきと環境のばらつきが,相対的にどの程度なのかを示したのが,ここで表した遺伝と環境の説明率なのです。



安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.76-77


生物と人間社会

 残念ながら,動物たちは人間の出す騒音のせいで鳴き方を変えることを余儀なくされている。水中の哺乳類や魚も例外ではない。洋上に風力発電所を設置するのは環境にやさしい発電方法だろうか。海底にタービンを設置するための杭打ち作業で騒音に襲われるゼニガタアザラシの身になれば,おそらくそうは言えないだろう。スクロビー・サンズ洋上風力発電所の建設工事中,イングランドの海沿いの町グレート・ヤーマスに程近い岩の上で観察されるアザラシの数は減少した。くい打ち作業の騒音は1メートル離れたところでおよそ250デシベルと激しく,動物の聴覚系を物理的に損傷するおそれがある。



トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.116


日光の効果

 さらにもう一つ,日光には,近視になるのを防ぐ効能があるという。これは聞きのがせない情報だ。というのも,モグラ並みの視力に近づいている人間が多くなっているからである。世界じゅうで,近視の人口は増え続けている。中国では,伝染病かもしれないと言われるほどだ。なにしろ国民の80~90パーセントが,遠くのものがよく見えないと訴えている。これについて,中国とオーストラリアの大学教授グループが,「自然光に十分当たっていないせいではないだろうか?」という疑問を抱いた。


 そこで,広東にある小学校11校で,ある実験が行われた。毎朝の遊び時間を45分間延長したのだ。こうした方法で科学の発展に寄与できるとは,被験者となった子供たちもさぞかし喜んだことだろう。そして,結果は驚くべきものだった。雲のあるなしにかかわらず,毎日45分間多く自然光にあたることで,近視の進む確率が25パーセント減ったのだ。



ジャン=ガブリエル・コース 吉田良子(訳) (2016). 色の力:消費行動から性的欲求まで,人を動かす色の使い方 CCCメディアハウス pp.145-146


配偶システム理論の4法則

 配偶システム理論の4つの法則を打ち立ててみよう。第1の法則。メスが一夫一妻の忠実なオスを選ぶことで繁殖成功度が上がれば,一夫一妻が生じる。それは,オスがメスに無理強いはできないときに限る。これが第2の法則。メスが既婚のオスを選んでも繁殖成功度が下がらなければ,一夫多妻が生じる。これが第3の法則。しかし,すでに配偶したメスがオスの再婚を阻止できれば,一夫一妻が生じる。これが第4の法則である。ゲーム理論は意外な結果をもたらした。誘惑で積極的な役割を果たすオスが,結婚という自分の運命では受動的な傍観者になるのだ。



マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.304


性が二つある理由

 オックスフォード大学のローレンス・ハーストはこれらの議論から,性が2つあるのは,融合によるセックスの結果であると予測している。つまり,コナミドリムシや多くの動植物のように,2つの細胞を融合させることによってセックスが成立する場合,性は2つになる,というのである。セックスが接合であり,2つの細胞が管で結ばれて,管を通じて核の遺伝子が移動するだけであり,細胞の融合が起こらない場合は,葛藤も起こりえず,したがって,殺人者と犠牲者という性の必要もない。確かに,繊毛虫類やキノコのように接合によるセックスを営む種は,非常に多くの性をもっている。これに対し,融合によるセックスを営む種では,ほとんど例外なく,性は2つである。特におもしろい例は,「ヒポトリック」という繊毛虫類で,いずれの方法でもセックスが可能なのである。これらが融合によるセックスを行う場合は,あたかも性が2つであるかのようにふるまう。そして接合によるセックスを行う場合は数多くの性をもつのである。


 1991年,この整然とした物語に最後の仕上げをしていたそのときに,ハーストはこれと矛盾するように思われる事例に遭遇した。粘菌の一種に,13の性をもち,融合セックスをするものがあるのだ。しかし彼は徹底的にこれを調べ上げ,この13の性は階級をなしていることを発見した。13番めの性は,どの相手と結合しても,必ずオルガネラを提供する。12番めの性は,11番め以下の性と結合するときだけ,オルガネラを提供する。そして11番めの性は10番め以下の性と結合したときだけ……という具合に順々に下がっていくのである。このシステムは2つの性をもつのと同様に機能しているが,もっとずっと複雑な仕組みである。



マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.171-172


身体と社会

 人間の体を形成,維持している7万5000組の遺伝子は,小さな町に住む7万5000人の人間と同じような状況に置かれている。人間社会というものが,自由な経済活動と,社会的な協力行為との不安定な共存関係で成り立っているように,体内における遺伝子の活動も,ちょうどそれと同じように機能している。人々が協力しあわなければ,町は共同体となりえない。だれもが他人を犠牲にして,嘘をつき,人を騙し,盗みをはたらき,みずからの富を追求したとしたら,商業,行政,教育,スポーツといったすべての社会活動は,相互不信のうちに機能が麻痺することだろう。同様に,遺伝子どうしが協力しあわなければ体ができないので,遺伝子はその住みかである体を,次世代に遺伝子を伝える道具として使うことはできない。



マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.153-154


ヒトは進化のカメ

 抗生物質は,バクテリアがそのライバルであるバクテリアを殺すために自然に生産する化学物質である。しかし,人間が抗生物質を使用し始めると,バクテリアは抗生物質への抵抗力を,人間をがっかりさせるような速度で発達させていくことがわかった。病原菌の抗生物質に対する抵抗力には,注目すべきことが2つあった。1つは,抵抗力の遺伝子が1つの種から別の種へ,害のない腸内細菌から病原菌へと飛び移るらしいということであった。それは性と似たような遺伝子転移の一形態によっていた。2つめは,バクテリアの多くはその染色体上にすでに抵抗遺伝子をもっているらしいということだった。要は,それを活性化する秘訣を再発明するだけのことだった。バクテリアと菌類のあいだの軍拡競争により,多くのバクテリアは抗生物質と戦う能力を獲得することになった。それは人間の腸内にいるかぎり,もはや「必要になるだろうとは思いもしなかった」能力である。


 寄生者の寿命は宿主に比べて非常に短いので,寄生者は宿主よりも速く進化し,適応していくことができる。HIVウィルスの遺伝子は,この先10年ぐらいのあいだに,人間の遺伝子が1000万年に行うほどの変化を遂げるだろう。バクテリアにとっては,30分は一生にも匹敵する。30年という人間の世代時間は永遠にも等しいものであり,ヒトは進化のカメなのだ。



マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.121-122


犬を見る時の誤り

1つ目の誤りは,犬を人格化したり,自分の思考や感情を自分以外のものに投影したりすることだ。人間がとかくやってしまいがちのことで,仕方がないとも言える。私たちの脳は生まれつき,自分の思考を他人の思考に投影する傾向にあるからだ。これはメンタライジングと呼ばれるもので,人間の社会交流に不可欠なものだ。相手の考えていることを常に推測しているからこそ,人は互いに交流できる。簡略化した携帯メールや,一度につき140文字までのコミュニケーションが上手く機能するのは,互いにメンタルモデル(訳注 心の奥底に持っているイメージや仮説。独自の思考フィルター)を持っているからだ。実際,ほとんどの携帯メールの内容は,最低限の言葉だけだ。また,人間は共通する文化要素を持っている。だから,ほぼ同じような反応を示す傾向にあるのだ。私は悲しい映画を観ているとき,自分の反応から,周りに座っている人も同じ気持ちだと直観で分かる。相手が全く知らない人であっても,自分から話しかけ,共通の経験を頼りに会話を成立させることができる。だが,犬は人間とは違う。人間のように分かち合う文化を持っていない。なのに,人間は犬の行動を観察するとき,どうしても人間の心というフィルターを通して見てしまう。あいにくだが,犬に関する本の大半は,犬のことよりも著者自身のことが書かれていると言えるのだ。
 2つ目の誤りは,犬の行動の意味をオオカミの行動を頼りに読み取ろうとすることだ。これを“類質同像”という。実際,犬とオオカミは共通の祖先を持つが,犬がオオカミの子孫というわけではない。この区別は重要だ。オオカミと犬の進化の道は,「ウルフ・ドッグ」が人間と暮らし始めたときに枝分かれした。人間のもとに残った方が犬になり,去った方が現代のオオカミになった。現代のオオカミは犬と異なる行動をし,全く違う社会構造を持っている。脳も違う。オオカミの行動というレンズを通して犬の行動の意味を読み取るのは,人格化するよりもさらに性質が悪い。つまり,オオカミの行動を人格化したり,間違った印象を犬の行動の例えとして使ったりしているのは,人間なのだ。

グレゴリー・バーンズ 浅井みどり(訳) (2015). 犬の気持ちを科学する シンコーミュージック・エンタテイメント pp.44-45

何が不道徳か

一部の医学倫理学者は,ダッハウやアウシュヴィッツでの実験から得られたデータはもう実際にあるわけだから,その情報を使っていまの時代の人命を救うことこそ彼らの死に報いることなんだと考えている。たとえ,そのデータ収集法が非倫理的なものであっても。でも一方で,データが倫理的に汚れていて,不正に得られた利益だとしたら,どんな場合であっても使ってはならないと言う人もいる。同じように,一部の動物保護運動家は,動物実験の結果もまた不正に得られた利益だと考える。そういう人たちは,動物を使って試験した薬を使うことも不道徳だと考えているのだ。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.307-308

実験動物か害獣か

罠にかかったネズミは,とんでもない苦しみを味わいながら死んでいく。ハツカネズミをボール紙に糊づけして一晩放置する実験動物の申請があったとしても,動物管理使用委員会は承認しないとわたしは思う。「実験対象」というレッテルを貼られたハツカネズミには明らかに許されないことが,「害獣」というレッテルを貼られたネズミには認められるわけだ。
 このパラドックスがさらに深刻なものに思えたのは,その害獣ネズミがどこから来たのか知ったときだった。どうやら,その建物自体にもともと害獣ネズミの問題があったわけではないらしい。でも,何千もの小動物を飼っている施設だから,必ず”脱走組”が出る。要するに,悪いネズミのほとんどすべては,逃亡したよいネズミだったのだ。動物施設の管理者はこう語った。「動物が床に足をつけた瞬間に,それが害獣になるんです」。そして,ドーン!その道徳的な地位も一瞬で消えてしまうのだ。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.291

同じはずなのに

ところが,ハツカネズミの研究者たちは,1999年に『サイエンス』誌に掲載された論文に震撼させられた。この論文は,まったく同じ手順で8系統のハツカネズミを使って行動実験を行った,オレゴン州ポートランド大学,カナダのエドモントン大学,ニューヨーク州アルバニー大学の研究者たちがまとめたものだった。実験に際して,どの研究室も同じところからハツカネズミを入手した。ハツカネズミたちはみんな,同じ日に生まれ,同じエサ,同じ昼夜サイクルの(生活リズムの)なかで育てられ,まったく同じ手順で実験を受けた。しかも,各大学の実験者たちは,ハツカネズミを扱うときにはめる手術用手袋のブランドまで揃えたという。
 そこまで動物をまったく同じ扱いにしようと苦労したにもかかわらず,いくつかの実験では,ハツカネズミたちはほかとまったく違う行動をとった。ポートランド大学の研究室のハツカネズミは,コカインを与えると異様に興奮したのに,アルバニー大学とエドモントン大学でコカインを与えられた兄弟ネズミたちは,ほとんど反応を見せなかったのだ。研究者たちは,遺伝子的にまったく同じ動物を研究してもそれぞれの研究室の微妙な違いによって,まったく違う結果が得られかねない,と結論した。わたしは,この論文をファイル棚の「不都合な真実」のなかにしまった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.286-287

飼いイヌの登場

化石を見ると,飼いイヌが登場したのは1万7000年〜1万4000年前くらいにかけてのことだったらしい。ヒトとイヌのつながりを示す有力な証拠で,いちばん古い年代のものは,イスラエル北部で出土した1万2000年前の老女の骨だ。彼女は,子イヌを両手に抱いた状態でていねいに埋葬されていた。1万年前には,人類がシベリアから北アメリカへと陸橋をわたり,彼らについていったイヌがアメリカを走りまわるようになった。そしてイヌたちは,それからたった4000年でアラスカからパタゴニアへ(南米大陸南部のコロラド川以南)の長旅を済ませている。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.148

気にかけているのは一部だけ

地球上に生息するほ乳類,鳥類,魚類,は虫類,両生類を合わせた六万五〇〇〇種のなかで,人がふだんから気にかけているのはほんのひとにぎりだ。なぜわたしたちはオオサンショウウオでなくジャイアントパンダを,コンドルではなくワシを,あるいはありきたりのスズメではなくルリツグミを,ダヤックオオコウモリ(=ほ乳類のなかで二種しかいない,オスが乳を出す種のうちのひとつ)ではなくジャガーを大切にするのか?わたしたちの動物に対する考え方は,たいていの場合,その生物種の特徴によって決定される——魅力の程度,大きさ,頭のかたち,ふわふわとした毛に覆われているか(これはプラスの評価),それともぬるぬるしているか(こちらはマイナス評価),どのくらい人に似ているか,あるいはどのくらい賢いとわたしたちが考えているか。足の数が多すぎるのお足りないのも嫌われる。ふんを食べたり,血を吸ったりという気持ち悪い習性もダメ。その動物が美味しいかどうかも大事だ(ただしこれはみなが思っているほどではないけれど)。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.49

事実と価値

進化生物学では,「進化」とは端的に事実(遺伝的性質の累積的な変化)を指すものであり,それ自体よい意味もわるい意味もない。そもそも,生物の諸個体のあいだに性質のちがいがあり,その性質が子孫の数と相関しており,その性質が次代に伝えられるという三条件がそろった場合には,勝手に遺伝的性質の累積的な変化,つまり進化が生じる。その事実にはよいもわるいもないし,いわゆる「退化」も進化のうちだ。
 でも,私たちの通常の用法において,「進化」はたんに事実を表す言葉ではない。それは必ず,「進歩」「改良」「向上」「発展」「前進」といったプラスの価値を帯びている。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.167

偶発性

それを可能にしたのが自然淘汰説である。先にも少し触れたように,次の三条件——個体間に性質のちがいがあること(変異),その性質のちがいが残せる子孫の数と相関すること(適応度の差),それらの性質が次世代に伝えられること(遺伝)——がそろったとき,自然淘汰のプロセスによって進化(遺伝的性質の累積的な変化)が起こる。これらはすべて自然主義的に説明できるものであり,その上位や下位に進化の方向性をつかさどるような存在や原理を想定する必要はない。
 この考えは,ラマルクやスペンサーの発展的進化論が想定した進化の発展法則を不要にする。これが発展的進化論とダーウィンの進化論(ダーウィニズム)とのあいだにある決定的なちがいであり,非ダーウィン革命において忘れられた大義であった。
 これは学説上の些細なちがいではない。帰結は重大である。これによってダーウィニズムは発展的進化論とはまったく異なった進化観をもたらすことになるからだ。進化とは「偶発性」(contingency)に左右されるものだという新しい進化観である。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.160

スペンサー主義

ダーウィンの信奉者たちがジャーナリズムを通じて熱心に吹聴したのも,その結果として近代人の心に根付いたのも,もっぱらこのスペンサー流の進化思想だ。だから,これまで「社会ダーウィニズム」と呼ばれてきた思想は,実際にはかつて一度もダーウィンの進化論であったためしはないということになる。それは実質上は「社会ラマルキズム」ないしは「スペンサー主義」であり,本来ならそう呼ばれるか,あるいはたんに「社会進化論」などと呼ばれるのがふさわしいものだったのである。
 結局,誰もが「ソースはダーウィン」としながら,発展法則にもとづく非ダーウィン的な発展的進化論を好き勝手に開陳していたのである。日本においても,明治期に導入されて以来,少なくとも一般社会,つまりお茶の間やジャーナリズムにおいては,「進化論」はつねに社会進化論であり,「ダーウィニズム」はつねにスペンサー主義であった(し,現在でもおそらくそうである)。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.158-159

適者は生存→生存したのは適者→誤解

進化論が言葉のお守りとして用いられる際,適者生存(自然淘汰)の原理には次のような操作が加えられていることになる。それは,適者生存のトートロジーを,言語の文法に導かれて「適者は生存する」という(トートロジカルに正しい)擬似文法とみなし,こんどはそれを,自然淘汰の足跡消去に導かれて「生存したのは適者だった」という(トートロジカルに正しい)命題で確証するという操作だ。つまり,トートロジカルにのみ正しい命題をあたかも法則のように扱い,こんどはその法則を,トートロジカルにのみ正しい命題によって確証するというマッチポンプである。私達は必ずしもそうと意識しているわけではないが,たしかにそのように行う(©マルクス)のである。
 このような次第で,私たちは自然淘汰説のアイデアを誤解しつづけることになる。基準と法則との,定義と説明との,前提と結論との取り違えによって,進化論を理解し使いこなしていると思い込むのである。そのとき私たちは,ちょうど進化論にたいする反対者や批判者が指摘するとおりのやりかたで,言葉のお守りというトートロジーをつぶやいていることになる。反対者や批判者によるトートロジー批判に,もし一理あるとしたら,こうした進化論のお守り的使用についての批判としてであろう(とはいえ,反対者はあくまで進化論の全体に反対しているのだろうから,あまり意味のない想定だが)。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.145-146

適者と強者

私たちは自然淘汰の意味を大雑把にではあれたしかに理解できるはずなのに,それにもかかわらず,ことあるごとに適者を強者や優者と取り違える。また,過去の勝者や敗者があらかじめ決まっていたかのように語るし,未来の勝者や敗者があらかじめ決まっているかのようにも語る。しかもそれを,当の進化論の用語で語るのである。なんと反—進化論的な態度であろうか。たとえば,「ビジネスAND進化論」といった言葉でウェブを検索してみれば,その種の事例にいつでも触れることができる(後に述べるように,私たちは進化論が大好きはずなのだが,そのじつ,まったく別のものを愛しているだけなのかもしれないのだ)。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.103

適者を強者と取り違える

私たちは自然淘汰の意味を大雑把にではあれたしかに理解できるはずなのに,それにもかかわらず,ことあるごとに適者を強者や優者と取り違える。また,過去の勝者や敗者があらかじめ決まっていたかのように語るし,未来の勝者や敗者があらかじめ決まっているかのようにも語る。しかもそれを,当の進化論の用語で語るのである。なんと反—進化論的な態度であろうか。たとえば,「ビジネスAND進化論」といった言葉でウェブを検索してみれば,その種の事例にいつでも触れることができる(後に述べるように,私たちは進化論が大好きはずなのだが,そのじつ,まったく別のものを愛しているだけなのかもしれないのだ)。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.103

適者生存

では,自然淘汰説を正しく理解するとはどのようなことか。それは,「適者生存」という言葉にあるとおり,生き延びて子孫を残す者を,まさしく適者として理解するということだ。生存するのは,強者(強い者)でも優者(優れた者)でもなく,あくまで適者(適応した者)であると理解するのである。これは言葉を字面通りに理解するというだけのことで,当たり前といえば当たり前の話なのだが,私たちの日常的理解にとっては,必ずしも当たり前のことではない。
 私たちは多くの場合,生き延びて子孫を残すべき存在を,強者とか優者としてイメージしている。強いものが弱いものを食い物にするとか(弱肉強食),優れたものが劣ったものを駆逐する(優勝劣敗)といったイメージだ。でも,こうした弱肉強食や優勝劣敗のイメージは,あくまで人間が自然や野生といった概念にたいして抱く印象や願望の反映にすぎない。私たちがふだん抱いている進化論のイメージは,大部分がこうした印象や願望,あるいは失望を投影したものだ。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.98-99

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