I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「ことば・概念」の記事一覧

悪口・陰口

悪口や陰口というのは,物事やひとの行動が嫌だと思ったときに,それが変わってほしいという思いがフラストレーションとなって,それを本人に直接言えないときに,別の分かり合えているひとに話す行動である。これが繰り返されれば,派閥が生まれたり,孤立するひとが出たり,弱い側のひとがつぶれていく。自殺につながる可能性もある。

森川すいめい (2016). その島の人たちは,ひとの話をきかない:精神科医,「自殺希少地域」を行く 青土社 pp.76

ペットの定義

わたしのお気に入りは,ペンシルバニア大学の人類動物学者,ジェームズ・サーペルによるペットの定義だ。サーペルによると,ペットとは明白な役割を持たないままわたしたちがいっしょに暮らす動物を指すのだという。でも,この幅をもたせた定義ですらも,その境界線のあたりではおかしなことが起きる。比較的最近まで,アメリカの家庭で飼われる多くの動物には何かの仕事が与えられていた。たとえばイヌだったら,家畜の群れを追い,狩りをし,番犬になり,荷車を引き,ときにはバターをかき混ぜるのを任されたりもした。ネコだって,愛情の対象としてよりもむしろ,生きたネズミ捕りとしての立場に甘んじていたのだ。アメリカでは,カナリアを筆頭に,カゴのなかで飼われる鳥の数が爆発的に増加する19世紀半ばまでは,飼い主を楽しませるのが唯一の役目という動物はほとんどまれだった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.103-104

名前と分類

動物に名前をつけたり,特徴を言いあらわしたりするときにわたしたちが使う言葉は,動物についてどう考えるかという問題にかかわるもうひとつの要素——すなわち,動物をどのように分類するか,ということとも深く関係している。たとえば「ペット」に分類される動物には名前をつけるけれど,「研究対象」に分類される動物にはふつう名前はつけない。最近,ある生物学者に,実験室のマウスには名前があるのかどうか尋ねてみたら,こいつは頭がおかしいんじゃないかという顔でこっちを見ていた。そりゃそうだ。だって,生物学者が突いたり,深針を挿したり,注射したりする白いマウスは,本質的にどれも同じなんだから。名前なんかつけてどうするって言うんだ?

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.61-62

負の力

人を怨む,世間を呪う「負の力」。
 これは,簡単に恐ろしいパワーを生み出してしまう。
 どうにでもなれというパワーは,人々を圧倒し,魅了することすらある。
 だけど,それは必ず自分に跳ね返ってきて,自分を追い込む危険な刃物だ。
 だから今のぼくは,「正」の力で物事を考え生きるようにしている。怨まず,呪わず,感謝する。100パーセントできている自信はないが,心がけるように努めている。

ハウス加賀谷・松本キック (2013). 統合失調症がやってきた イースト・プレス pp.99-100

説明と理解

どういうことか。本書の関心に即して私なりにまとめると,およそ次のようになる。「説明」と「理解」とは,同じ水準に並び立つような営みではないし,ましてや対立する営みでもない。また,学問(科学)には「説明」的方法と「理解」的方法という2つの方法があるのでもない。つまり,自然を対象にしたときには「説明」的方法が用いられるが歴史や芸術を対象にしたときには「理解」的方法が用いられるとか,自然科学は「説明」するが人文科学は「理解」する,とかいうわけではないのだ。強いていえば「説明」だけが方法的である。学問とは「説明」という方法と,それによって獲得された知の総体にほかならない。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.352

歴史をどのように語るか

基本的な語彙の選択においてすらむずかしい問題が生じる場合がある。侵略か進出か,テロリズムか革命か,保護か隷属化か等々,私たちは歴史を語る語彙をめぐって争うことをやめない。歴史的事件の当事者や歴史家にかぎらず,既存の歴史に規定されながら新規に歴史をつくっていく存在であるところの私たちは,歴史的な事実にどのような意味を担わせるか,どのような語彙を用いるかを通じても,歴史に参加している。歴史とは解釈であり実践であると言われるのはそういう意味だ。歴史にかかわる論争がしばしば平行線をたどる背景にはこうした事情がある。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.314-315

進化論の比喩

私たちの日常生活は進化論の比喩的な用法にあふれている。なかでも典型的なのはビジネスや処世術,人生訓で用いられる進化論(ビジネス進化論)だろう。これらの語り手たちは,進化論が教える生物の世界をモデルとして引きあいに出しながら,私たちに絶え間なく「進化」しつづけるように命じる。そして厳しい競争を勝ち抜いていこうと鼓舞する。テレビ,新聞,雑誌,ネット,看板広告,中吊り広告,社員研修等々で,こうしたものを見ない日はない。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.24

homosexual

1868年5月6日,ケルトベニはウルリヒスに宛てて手紙を書きます。ウルリヒスが「ウルニング」だなんてちょっとカッコよすぎる名前で同性愛者を呼んでいたのに対し,ケルトベニはもうちょっとシンプルな言葉づかいをしてみせました。ギリシャ語で「同じ」を意味する「ホモ(Homo)」と,ラテン語で「性」を意味する「セクスス(Sexus)」を組み合わせ,「Homosexual(同性愛者)」という言葉をつくり出したのです。さすが,語学に長けた言葉のプロのやることです。同じ要領で,ケルトベニは「Heterosexual(異性愛者)」という言葉もつくりだしてみせました。
 続いてケルトベニは,この「同性愛者」という言葉を使い,1869年に刑法143条反対を表明する文書を発表しました。匿名での発表でしたが,その中には,自殺した友達を想い「刑法143条は恐喝や自殺を誘発する」と書くことを忘れませんでした。これが,文献に残っている限りでは,人類史上はじめて「Homosexual(同性愛者)」という言葉が公式に使われた瞬間です。

牧村朝子 (2016). 同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル 星海社 pp.45-46

生物次元への還元の危険性

ヒトラー出現以降の世界に住むわれわれは,人間の価値や反社会的行動の原因を生物学の次元へ還元してしまうことの危険をよく知っており,事実そのような警句は繰り返し発せられてきた。ここでもう一度整理しておくと,その危険とは,IQの遺伝子や,犯罪傾向の遺伝因子や,反社会的あるいは暴力的な遺伝子などという,生物学のレベルとは対応関係のない,その意味でありもしない遺伝因子を想定したり,人間の社会的行動を説明づけしようとする生物学概念へ人間解釈を還元してしまったりすることである。それは,人間解釈の浅薄さ以外の何ものでもなく,このような言説に対しては感度を鋭くして,ていねいに批判しつづけていかなくてはならない。
 同時にわれわれは,飛躍的に研究が進むであろう脳神経系の生物学の研究成果を常時モニターし,ここから引き出されてくる脳神経系の疾患のしくみを正確に理解するようにすべきである。科学的にも倫理的にも妥当と思われる治療や予防の手段については,これを受け入れていくだけの洞察力と理解力をあわせもたなければならない。しかし,それ以前に,正確な医学的意味が理解されないまま,また科学的意味が未解明のまま,遺伝子診断がサービス産業として拡大していくことの非合理と無責任さは,何より科学および医学の立場からもっと問題視されてよいだろう。
 ただし,医学史研究・医療人類学などが明らかにしているように,何を「疾患」や「障害」とみなすのか,また「疾患」や「障害」にいかに対応すべきなのかについては,文化や価値観,あるいは「疾患」や「障害」をもつ当事者であるか否かなど,さまざまな要因が関わってくる。科学や医学の研究成果を正確に理解するとともに,その成果が人間社会に発信される場面でいかに意味づけられ機能するかという面も,監視しなくてはならない。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 269-270

カーネマンは何学者

心理学者にとっては,カーネマンがノーベル経済学賞をとる前から,トゥバスキー&カーネマンという2人の名前は,リンダ問題などと共に認知心理学者として認識されていた。したがってノーベル経済学賞をとったからといって,カーネマンは経済学者じゃない,心理学者なんだ!というのが心理学者の気持ちなのである。私たちが育てたんだ!という気持ちであろうか。
 しかし現実は残酷である。『岩波世界人名大辞典』においてカーネマンは行動経済学を開拓した経済学者として評価されているのであった。ただし,ノーベル賞受賞の理由は,不確定状況下における判断についての心理学的研究の洞察を経済学に統合したことであり,受賞分野としてあげられていたのは,経済心理学ならびに実験経済学であったから,彼のことを心理学者であるとしても基本的には間違いにならないだろう。

サトウタツヤ (2015). 心理学の名著30 筑摩書房 pp.273

哲学者の二分法

また彼は哲学者の二分法ということも述べている。哲学における2つの大きな考え方である合理論と経験論のいずれをとるかは,哲学者の気質によるという大胆な仮説である。柔らかい心,と,硬い心,というのがジェームズの唱えた二分法である。一般に,性格やパーソナリティの理論は,個人差を扱おうという動機がなければ発生しないし維持もされない。
 この(哲学者の)気質二分法は,心理学者たちに影響をあたえ,1920年代の性格類型論へと結実していったと思われる。たとえば,ユングに関してはジェームズの影響についての研究が進んでおり,ユングの類型論(タイプ論)とジェームズの気質二分法との関係が明らかになりつつある。

サトウタツヤ (2015). 心理学の名著30 筑摩書房 pp.17-18

健康とは

50年以上前に策定されたWHO憲章(1946)をみると,その前文には次のように書かれている。「完全な肉体的,精神的及び社会福祉の状態であり,単に疾病又は病弱の存在しないことではない」。心理・社会的な側面も「健康」にとって重要であることはわかっていたのだ。ただ,それを科学的にとらえる方法の開発や大規模なデータが得られなかったなどの理由で研究が遅れていた。他方で,生物医学的な研究方法がより早く確立し,膨大な知見の蓄積が進んだ結果,生物医学的なとらえ方のほうが,主流となった。それに対し生物心理社会モデルは,社会疫学によってようやく科学的に裏づけられたというべきかもしれない。

近藤克則 (2010). 「健康格差社会」を生き抜く 朝日新聞社 pp. 114

マタイ効果

1968年,社会学者のロバート・マートンは「マタイ効果」という概念を提唱した。これは,競争において早い段階で優位に立った者は,それによってさらに有利な環境に身に置けるために,弱者との差をますます広げていくというものだ。たとえば,最も優秀な子供は,一流校に行き一流の教師の指導を受ける。最も優秀なスポーツ選手も,強豪チームに行き最高のコーチの指導を受ける。この語の由来は,『マタイによる福音書』に記された「持つ者はさらに与えられて豊かになり,持たざる者は持っている物まで奪われる」という一節にある。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.63-64

てんかん

epilepsy(てんかん)とepileptic(てんかんの)という二語は,「捕らえる」または「襲う」を意味するギリシャ語のepilambánein に由来する。てんかんという病気には長い歴史があり,おそらく有史以前の人類にもあったものと思われる。最古の記録は中東のメソポタミア時代にさかのぼる。アッカド帝国(紀元前2334-2154)のある文書には,てんかん発作の記述があり,てんかん発作を起こした人は頭を左に向け,手足を硬直させ,口から泡を吹き,気を失ったという。てんかんの原因は身体的なものであり,食事や衣料品など理性的な手段で治療すべきだと信じる医師がいる一方で,てんかんは超自然的な力によって生じるもので,怒りを鎮めるために清めやまじないで治療すべきだと主張する呪術師や魔術師,にせ医者がいて,両者は何世紀にもわたって議論を闘わせた。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.26-27

日本人の言語行動

翻訳を専門にしている一人の英語話者に,日本人の言語行動で好意がもてないことについて率直な意見を聞いてみた。これまで述べたことと重なる部分もあるし,個人の見解であるけれども,長年日本語と英語の問題を考えてきた人の意見として紹介し,参考にしてほしい。指摘してもらったことは次のようなことである。

a) too forceful intonation
——高圧的に押しつけるイントネーション
b) asking personal questions like one’s age
——年齢など個人的なことを尋ねる
c) lack of direct eye contact
——視線を合わせるのを避ける
d) inappropriate laughing
——不適切なときに笑う
e) aizuchi interruption
——あいづちで話をさえぎる

水谷信子 (2015). 感じのよい英語・感じのよい日本語—日英比較コミュニケーションの文法— くろしお出版 pp.128

感謝は明確に

日本語の「どうぞよろしく」という挨拶について,「何についてよろしく頼んでいるのかわからないので「こちらこそ」と言うのは不安だ」と言ったアメリカ人がいる。これは,感謝するときthank youだけでなく,for〜を用いて何についての感謝かを明らかにすることと共通している。つまり,一般的にものを言うのではなく個別的にはっきりさせるという態度である。

水谷信子 (2015). 感じのよい英語・感じのよい日本語—日英比較コミュニケーションの文法— くろしお出版 pp.110

explanation

日本の社会では自分に有利になる説明をすることを,「弁明」や「弁解」として低く評価する傾向がある。弁明に相手の時間をとるよりは謝罪してしまう。explanationよりapologyという結果になりやすい。国際化が進んで説明の必要な場面が多くなれば,こうした傾向は少しずつ変わっていくであろうが,現在ではまだexplanation意欲は強力とは言えないのではなかろうか。

水谷信子 (2015). 感じのよい英語・感じのよい日本語—日英比較コミュニケーションの文法— くろしお出版 pp.99

あいづち

あいづちの多様は,話し手と聞き手の文づくりを共同作業と見ることで,共同作業は「寄り添い」の意識の現れであると言える。それに対して英語の談話の展開では,相手が話す間はじっと待つ態度を大切にする。それは相手を他者と認めて尊重することである。談話の展開における待遇表現の重要な要素は,英語は「尊重」であり日本語は「寄り添い」であろう。話し合いの場で日本人が寄り添いの意識を表面に表すと,英語話者は自分の権利を尊重されず侵害されたとしてinterruptionと感じることになる。

水谷信子 (2015). 感じのよい英語・感じのよい日本語—日英比較コミュニケーションの文法— くろしお出版 pp.84-85

遮らない

日本人は,大抵の場合無意識にではあるが,話の流れというものは,話し手だけでなく聞き手もあいづちをうって参加することによって作られるのだと感じている。これは会話についての欧米の人の考えと全く異なっている。欧米では人が話している間は途中で遮ったりせず黙って聞くのが礼儀とされている。

水谷信子 (2015). 感じのよい英語・感じのよい日本語—日英比較コミュニケーションの文法— くろしお出版 pp.70

親愛・寄り添い

英語の待遇表現の重要な要素が「親愛」であるとすれば,日本語のそれは「寄り添い」あるいは「共存」である。英語で親しみを表すために相手の名前を呼ぶことが大切なのは,話す相手を確認して相手との関係を意識するためである。いっぽう日本語ではそのために相手の名前をいちいち確認する必要はない。極言すれば,相手が誰であるかは問題ではなく,自分と場を共有していることで十分なのである。英語で親しさを示すための呼びかけは相手との関係に確認が必要であるが,日本語ではそうではない。相手は共存者だからである。

水谷信子 (2015). 感じのよい英語・感じのよい日本語—日英比較コミュニケーションの文法— くろしお出版 pp.57

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