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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「マスメディア」の記事一覧

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一発当てようとしない

 実地調査とコンピュータによるシミュレーションの結果から,ワッツらのグループは,バイラル・マーケティングの場合には,あまり一発で当てようとしない方がいいのではないかと提言している。それよりも,伝わるときの再生率が1より小さくても多くの人がメッセージを受け取れるように,「大きな種子」を確保する,つまり最初にメッセージに触れる人たちの集団を大きくするというのである。一回の挑戦で森林全体を燃やそうとするのではなく,よりささやかな広さの区域に火をつけ,それが消えてしまう前に少なくともその周辺だけでも燃えるようにすることだ。
レン・フィッシャー 松浦俊輔(訳) (2012). 群れはなぜ同じ方向を目指すのか? 白揚社 pp. 184-185

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メディアからの影響

 それなのに,私たちの頭の中には事実とまったく逆のイメージが焼き付いているのはなぜなのでしょうか。おそらくテレビ,新聞,週刊誌といったメディアが進化して,少年犯罪の報道がセンセーショナルに取り上げられ,人々の目と耳に届きやすくなった結果,私たちは犯罪数自体が多くなったと錯覚してしまっているのではないでしょうか。
 結局,私たちがまちのイメージを作り上げていく過程も同じで,こうしたメディアの影響から無縁ではいられないということは自覚しておくべきなのです。
大原 瞠 (2018). 住みたいまちランキングの罠 光文社 pp. 70

見分け方ばかり

 これに関連して最近気になるのは,メディアから「見分け方」ばかりを取材されることだ。「見分け方」は前著でも詳述した重要事項だが,そればかりが独り歩きすることで「見分けられなかった者が悪い」とならないか危惧している。いくら見分けても入るしかない場合も,見分けられない場合もある。「見分け方」ばかりが喧伝されることで,「入るのは自己責任」ということにならないか,危惧しているのだ。もっといえば,次に見るように,「わかっているはず」の学生さえも騙されて入ってしまうのがブラック企業の恐ろしさである。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 39-40


エーレンライク

エーレンライクは,彼女の本の執筆準備のために私に助けを求めてきた。私たちは,主に健康に関する研究文献について,1対1でのミーティングの機会を2回持った。私はそれから彼女に詳細な参考文献と何本もの論文を送ってあげた。だが,エーレンライクは,あらゆる研究を紹介することなく,一部の研究だけを「つまみ食い」して本を書いた。少数のエビデンスを強調し,楽観性が,心血管疾患,全死因死亡,およびガンを有意に予測することを明らかにした立派な研究については論評しなかった。自分にとって都合のよい部分だけを「つまみ食い」するというのは,抽象的に言えば知的不誠実さの1つの現れである。だが,実際の生死に関わる問題としては,「つまみ食い」によって,ガンで苦しむ女性が楽観性と希望を持つことの意義を退けてしまうのは,危険な報道上の不正行為だと私は考える。

マーティン・セリグマン 宇野カオリ(訳) (2014). ポジティブ心理学の挑戦:“幸福”から“持続的幸福”へ ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.363

写真の経費

その写真掲載にかかる経費が,じつはあなどれない。さきほども書いたとおり,一点につき三万円ほどを寺へおさめるしきたりが,できている。
 もちろん,現代建築の場合と同じで,寺の建築や庭などにも,肖像権や意匠権はない。ほんらいなら,出版社側がそういうものをしはらう義務は,ないはずである。金はいっさいださずに,雑誌などへ写真をのせても,法的にはとがめられないだろう。法廷闘争という話になっても,寺が勝つとは思えない。
 にもかかわらず,たいていの出版社は,寺への納金というならわしに,したがっている。これにそむいたという出版社の話は,聞いたことがない。たぶん,どこも寺の言いなりになっているのだと思う。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.105-106

マスコミ志望

かつてのマスコミ志望者は,それなりのこだわりを持っており,マスコミしか受けないタイプが多かった。が,就職偏差値として数値化されてしまえば,他の業種と並列な存在となっていく。マスコミだから受けるのではなく,人気企業だから採用試験に臨むのであり,キー局と大手商社と都銀とをかけもちして受けるなどは,ごく当たり前の事態となっていた。それゆえ他の業界に先駆けよう,先に学生を囲い込んでしまおうと,マスコミ各社は青田買いに勤しむこととなる。

竹内和芳 (2014). 「就活」の社会史—大学は出たけれど…— 祥伝社 pp. 280-281

二つの極のどちらか

私はある経済の論客さんがいいなと思って見ていたことがあるのですが,ある程度無名だった頃は,非常に「バランス感覚」があって,「経済成長は大事だけど,そこに人々のナマの喜びが含まれているような形じゃないといずれ破綻するし,その成長は長続きしない」という論調だったんですよね。
 しかし,その論客さんがある程度有名になるにつれて,そういう「バランスの取れた適温の話」では埋もれてしまうので,どんどん「極端な話」に吸い寄せられていってしまったんですよ。それはもう見ていて「なんでこうなるんだろうなー」というような悲しい体験でした。
 結局その人が言うことは,どんどん「経済成長なんていらねえ」的な方向になり,いろいろな「現行の経済に対して前向きな動き」に対して片っ端から非難するみたいなことになってしまったんですね。
 そして,悲しいことは,そうやって過激化すると,とりあえず読者が付くということです。そして,その読者を引き連れて,世の中全体をどんどん「二つの極のどちらか」に引っ張っていってしまうんです。

倉本圭造 (2014). 「アメリカの時代」の終焉に生まれ変わる日本 幻冬舎 pp.70-71

ベストセラー

絶対数でいうベストセラは,とにかく出にくくなっている。ベストセラにランクインするものの部数自体が,かつてよりも一桁低い。ミリオンセラなど奇跡的な現象となってしまった。これは,書籍だけではない。あらゆる商品,あらゆるメディアで観察される現象だ。
 この傾向はさらに進むだろう。したがって,今はまだヒット作があっても,これからはもっと出にくくなる。平均的にはその方向へ進む。エントロピィが増大する自然現象と同じ理屈と理解する以外にない。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.177-178

本は読まれない

日常的に本を読む人はそんなに多くはない。小説になると数十万人といわれているほど少ない(これはどんな統計なのか僕は知らない。単にあちらこちらで耳にする数字にすぎないが,大きく外れていないことは確かだ)。たとえば,さきほどの一番売れた『F』でも,20年かけて78万部程度なのだから,日本人のうち0.6%にすぎない。つまり,170人に1人くらいの割合になる。これがTVの視聴率だったら即打切りだ。とにかく,小説というものが,超マイナなのである。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.56-57

「出版社に損をさせなかった」

実は,多くの書籍が赤字だという。多くというのは,半分よりもずっと多い,大多数という意味だ。それなのに出版社は成り立っている(最近の出版不況で潰れるところも多いが)。これは,一部の売れる本が黒字を出しているからにほかならない。部数が多くなるほど,利益率は高くなる。僕の担当編集者の一人は,「増刷というのは,お札を刷っているみたいなものです」と話していた(1万部,2万部単位での大量増刷になると,まさしく1000円の本なら500円札を刷っているのと同じことになる)。増刷になるのは,初刷がすべて売れたか,売れる見込みがある本だ。すなわち,編集も終わっていて,印刷の版下(写真のネガみたいなもの)もあるので,安く作ることができる。出版社にしてみれば,労力がかからない,まるでお札を刷っているみたいな感覚になるのも頷ける。
 作家としては,増刷は不労所得だと書いたが,それ以上に,「出版社に損をさせなかった」とほっとするのが増刷,ともいえる。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.51-52

本の売上

印税率とは,本の価格に,印刷される部数を乗じた「売上げ」に対して作家が受け取る印税の割合のことだ。すなわち,1冊1000円の本を1万冊印刷すると,1000円×1万部=1000万円が売上げになるから,印税率が12%ならば,120万円が作家に支払われる。
 「売上げ」と書いたが,通常は印刷された時点で,出版社は著作権を利用したわけだから,たとえその本が1冊も売れなくても,印税が作家に支払われる。この場合,印刷した本が倉庫で眠っていたら,出版社にとっては資産になり,税金もかかる。書店で売れないと,出版社に返本されるし,在庫を抱えることは出版社にはマイナスである。だから,売れそうな数字のぎりぎりを狙って印刷部数を決めることになる。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.33-34

ウラ取り

こんな状況の中で,正確な報道を行うためには,記者自身が可能な限りの「裏取り」をするしかないのだが,その当たり前のことがなんとも難しい。相手は騙すために相当な嘘を準備しているからだ。懸命に裏取り取材を続け,あげく話の内容が事実ではなかったという「裏」が取れた場合はどうすればよいのか。
 答えはひとつ。
 あっさりとボツにするしかない。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.163

取材力

「自分の頭で考える」という基本を失い,「○○によれば……」という担保が無ければ記事にできない記者たち。それは結果的に,自力で取材する力を衰退させ,記者の“足腰”を弱らせていくことになるはずだ。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.140

2種類のスクープ

私は,スクープというものを大きく分けると,2種類あると思っている。

 1. いずれは明らかになるものを,他より早く報じるもの
 2. 報じなければ,世に出ない可能性が高いもの

 1は「抜き」などと呼ばれ,各社が秒単位でその速さを競っているのはご存知の通り。だが,その内容の全てが国民にとって一刻も早く必要なものかどうかといえば疑問である。もちろん地震速報や津波警報などは重要だ。
 しかし例えば「警察庁は○○事件で,男の逮捕状を請求する方針を固めた」「テニスのXX選手が今年限りで引退する意向であることがわかった」など,いずれもしばらくすれば明らかになるニュースの「途中経過」である。なのになぜ速さを競うのか。
 一体,誰がそれを求めているのか。
 ジャーナリストの牧野洋氏によれば,誰が早く報じたのか,という経緯は読者や視聴者には関係ない。アメリカのジャーナリズム界では,速さは評価されず,それは「エゴスクープ」と呼ばれているという。ごもっともだと思う。
 私自身が意識しているスクープは,当然2の方である。それにこそ意味があると信じている。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.138-139

予算獲得

同時に疑問に思う。
 「なぜDNA型鑑定は,これまで絶対視されていたのだろうか」と。
 その根を掘ると,菅谷さん逮捕当時,警察庁が科警研のDNA型鑑定技術を喧伝していたことがわかった。そして警察庁クラブの記者を通じて,まるでPRかのように世間に伝わっていたのだ。先に触れた新聞記事などである。警察庁と科警研は,この新システムを早く捜査に導入したかったようだ。実際,菅谷さん逮捕の3週間後には,警察庁は翌年度の鑑定機器予算として約1億千六百万円を獲得していた。DNA型鑑定に騙されて「平成の大冤罪」を後押ししたマスコミの責任は大きい。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.117

DNA「型」

DNA鑑定型の専門家を取材していくと,事件当時の鑑定はまだ試運転のような状態であり,“実戦”で使えるようなレベルではなかったという。実は,90年代初頭のDNA鑑定は,血液型鑑定と同様に「型」の分類である。MCT118法の鑑定では三百二十五通りの型に分類していた。そのため本書ではこれを「DNA型鑑定」と明記している。従来のABO式血液型鑑定では四種類の分類だったから,飛躍的に増えたとも言えるのだが,初戦は型分類だから同型異人もいることになる。
 「足利事件」の犯人のDNA型は「16-26」という型とされていた。
 その型と血液型B型を併せ持つ者は,逮捕当時「1000人に1.2人」とされたことは書いた。ところがしだいにサンプル数が増え,93年になるとこれが「1000人に5.4人」と一致率はダウン。当初の4倍強である。菅谷さんの弁護団の試算によれば,同じ型は足利市内だけで200人以上もいたはずだという。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.101-102

発表報道と調査報道

「発表報道」とは,官庁や企業,各種団体,個人などが,記者会見やプレスリリースなどを通して情報を提供,それを受けたメディアが,その内容をほぼそのままの形で報じるものを指す。
 「官房長官は……」「厚労省の統計によると……」などというスタイルのニュースは,みなさんにもおなじみのものだろう。
 政治や災害情報,景気の動向,原発のトラブル,交通情報など,国民の「知る権利」に関わる大事な基本情報も多い。また「新型携帯電話売れ行き好調」「銀座に大型デパート開店」など,発表側の「PR」に近いものもある。
 一方,発表者にとって喜ばしい内容のものばかりではない。
 不祥事の謝罪や釈明会見,「欠陥製品の回収のお願い」,有名人の離婚会見といった,追いつめられ退路を塞がれて,仕方なく「発表」する場合もある。
 このように内容はさまざまだが,新聞やテレビニュースなどの大半が,これら発表された内容をニュース・ソースにして出稿しているというのが現実だ。実際,私が所属するテレビ局でも,記者の大半が担当(官公庁,政党,警察,企業など)を持ち,記者クラブを通してニュースをカバーしている。
 それに対して,記者が自ら調べて判断していくのが「調査報道」ということになる。
 発表されていないものを掘り起こす——それが調査報道の第一の条件なのだ。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.73-74

ネタ元

同じ事件を追いかけながら,なぜこうも私の記事の方向性と百八十度違うものになったのだろうか。私の記事と彼らの記事を大きく隔てたものは何か。
 答えはシンプルだ。
 彼らの「ネタ元」がほぼ警察のみだった,ということに尽きる。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.68

記者クラブ

「記者クラブに加盟していなければ,取材には応じることはできませんね……」
 官庁や警察などには,大手マスコミ(主に新聞社,通信社,テレビ局)が加盟する記者クラブというものがある。庁舎内に記者室が設けられるなど取材の便が図られている一方で,非加盟者である週刊誌記者などお呼びではない。「クラブに属していない」というだけの理由で取材拒否されることも日常茶飯事。予期していた反応とはいえ,釈然としないまま現場に戻った。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.42-43

「サブい」

例えば「サブい(寒い)」という言葉がある。ギャグやボケが面白くない時に使われる業界用語だ。
 この言葉を世に広めたのはダウンタウンだ。彼らがテレビで「サブい」と口にしているのを真似て,世間の人もいつしか気軽に「サブい」と言い出すようになった。
 この言葉は,お笑いの劇場やバラエティ番組では今まであまり使われていなかった。
 なぜなら,他人のことをサブいと言い切るのは,よほど自分に自信がなければできないし,誰かをサブいと断定して偉そうに見えてしまったら,今度はそれを言う本人が笑ってもらいにくくなるというリスクもあるからだ。
 サブいという言葉はダウンタウン以前にも存在したが,もともと客前では使う言葉ではなかったのだ。

ラリー遠田 (2015). なぜ,とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか? コアマガジン pp.100-101

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