I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「マスメディア」の記事一覧

マスコミ志望

かつてのマスコミ志望者は,それなりのこだわりを持っており,マスコミしか受けないタイプが多かった。が,就職偏差値として数値化されてしまえば,他の業種と並列な存在となっていく。マスコミだから受けるのではなく,人気企業だから採用試験に臨むのであり,キー局と大手商社と都銀とをかけもちして受けるなどは,ごく当たり前の事態となっていた。それゆえ他の業界に先駆けよう,先に学生を囲い込んでしまおうと,マスコミ各社は青田買いに勤しむこととなる。

竹内和芳 (2014). 「就活」の社会史—大学は出たけれど…— 祥伝社 pp. 280-281

二つの極のどちらか

私はある経済の論客さんがいいなと思って見ていたことがあるのですが,ある程度無名だった頃は,非常に「バランス感覚」があって,「経済成長は大事だけど,そこに人々のナマの喜びが含まれているような形じゃないといずれ破綻するし,その成長は長続きしない」という論調だったんですよね。
 しかし,その論客さんがある程度有名になるにつれて,そういう「バランスの取れた適温の話」では埋もれてしまうので,どんどん「極端な話」に吸い寄せられていってしまったんですよ。それはもう見ていて「なんでこうなるんだろうなー」というような悲しい体験でした。
 結局その人が言うことは,どんどん「経済成長なんていらねえ」的な方向になり,いろいろな「現行の経済に対して前向きな動き」に対して片っ端から非難するみたいなことになってしまったんですね。
 そして,悲しいことは,そうやって過激化すると,とりあえず読者が付くということです。そして,その読者を引き連れて,世の中全体をどんどん「二つの極のどちらか」に引っ張っていってしまうんです。

倉本圭造 (2014). 「アメリカの時代」の終焉に生まれ変わる日本 幻冬舎 pp.70-71

ベストセラー

絶対数でいうベストセラは,とにかく出にくくなっている。ベストセラにランクインするものの部数自体が,かつてよりも一桁低い。ミリオンセラなど奇跡的な現象となってしまった。これは,書籍だけではない。あらゆる商品,あらゆるメディアで観察される現象だ。
 この傾向はさらに進むだろう。したがって,今はまだヒット作があっても,これからはもっと出にくくなる。平均的にはその方向へ進む。エントロピィが増大する自然現象と同じ理屈と理解する以外にない。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.177-178

本は読まれない

日常的に本を読む人はそんなに多くはない。小説になると数十万人といわれているほど少ない(これはどんな統計なのか僕は知らない。単にあちらこちらで耳にする数字にすぎないが,大きく外れていないことは確かだ)。たとえば,さきほどの一番売れた『F』でも,20年かけて78万部程度なのだから,日本人のうち0.6%にすぎない。つまり,170人に1人くらいの割合になる。これがTVの視聴率だったら即打切りだ。とにかく,小説というものが,超マイナなのである。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.56-57

「出版社に損をさせなかった」

実は,多くの書籍が赤字だという。多くというのは,半分よりもずっと多い,大多数という意味だ。それなのに出版社は成り立っている(最近の出版不況で潰れるところも多いが)。これは,一部の売れる本が黒字を出しているからにほかならない。部数が多くなるほど,利益率は高くなる。僕の担当編集者の一人は,「増刷というのは,お札を刷っているみたいなものです」と話していた(1万部,2万部単位での大量増刷になると,まさしく1000円の本なら500円札を刷っているのと同じことになる)。増刷になるのは,初刷がすべて売れたか,売れる見込みがある本だ。すなわち,編集も終わっていて,印刷の版下(写真のネガみたいなもの)もあるので,安く作ることができる。出版社にしてみれば,労力がかからない,まるでお札を刷っているみたいな感覚になるのも頷ける。
 作家としては,増刷は不労所得だと書いたが,それ以上に,「出版社に損をさせなかった」とほっとするのが増刷,ともいえる。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.51-52

本の売上

印税率とは,本の価格に,印刷される部数を乗じた「売上げ」に対して作家が受け取る印税の割合のことだ。すなわち,1冊1000円の本を1万冊印刷すると,1000円×1万部=1000万円が売上げになるから,印税率が12%ならば,120万円が作家に支払われる。
 「売上げ」と書いたが,通常は印刷された時点で,出版社は著作権を利用したわけだから,たとえその本が1冊も売れなくても,印税が作家に支払われる。この場合,印刷した本が倉庫で眠っていたら,出版社にとっては資産になり,税金もかかる。書店で売れないと,出版社に返本されるし,在庫を抱えることは出版社にはマイナスである。だから,売れそうな数字のぎりぎりを狙って印刷部数を決めることになる。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.33-34

ウラ取り

こんな状況の中で,正確な報道を行うためには,記者自身が可能な限りの「裏取り」をするしかないのだが,その当たり前のことがなんとも難しい。相手は騙すために相当な嘘を準備しているからだ。懸命に裏取り取材を続け,あげく話の内容が事実ではなかったという「裏」が取れた場合はどうすればよいのか。
 答えはひとつ。
 あっさりとボツにするしかない。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.163

取材力

「自分の頭で考える」という基本を失い,「○○によれば……」という担保が無ければ記事にできない記者たち。それは結果的に,自力で取材する力を衰退させ,記者の“足腰”を弱らせていくことになるはずだ。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.140

2種類のスクープ

私は,スクープというものを大きく分けると,2種類あると思っている。

 1. いずれは明らかになるものを,他より早く報じるもの
 2. 報じなければ,世に出ない可能性が高いもの

 1は「抜き」などと呼ばれ,各社が秒単位でその速さを競っているのはご存知の通り。だが,その内容の全てが国民にとって一刻も早く必要なものかどうかといえば疑問である。もちろん地震速報や津波警報などは重要だ。
 しかし例えば「警察庁は○○事件で,男の逮捕状を請求する方針を固めた」「テニスのXX選手が今年限りで引退する意向であることがわかった」など,いずれもしばらくすれば明らかになるニュースの「途中経過」である。なのになぜ速さを競うのか。
 一体,誰がそれを求めているのか。
 ジャーナリストの牧野洋氏によれば,誰が早く報じたのか,という経緯は読者や視聴者には関係ない。アメリカのジャーナリズム界では,速さは評価されず,それは「エゴスクープ」と呼ばれているという。ごもっともだと思う。
 私自身が意識しているスクープは,当然2の方である。それにこそ意味があると信じている。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.138-139

予算獲得

同時に疑問に思う。
 「なぜDNA型鑑定は,これまで絶対視されていたのだろうか」と。
 その根を掘ると,菅谷さん逮捕当時,警察庁が科警研のDNA型鑑定技術を喧伝していたことがわかった。そして警察庁クラブの記者を通じて,まるでPRかのように世間に伝わっていたのだ。先に触れた新聞記事などである。警察庁と科警研は,この新システムを早く捜査に導入したかったようだ。実際,菅谷さん逮捕の3週間後には,警察庁は翌年度の鑑定機器予算として約1億千六百万円を獲得していた。DNA型鑑定に騙されて「平成の大冤罪」を後押ししたマスコミの責任は大きい。

清水 潔 (2015). 騙されてたまるか:調査報道の裏側 新潮社 pp.117

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