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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「マスメディア」の記事一覧

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種明かし

 超能力とうそぶいてデモンストレーションをやってみせる彼らの所業は,ことごとく暴かれるべきであり,アメリカのジェイムズ・ランディ氏や日本のナポレオンズの「超能力者」との対決姿勢は,職業的デメリットも多いだろうに,その勇気と義憤に頭の下がる思いであって常習的に同業者の営業妨害を続けているマスクド・マジシャン(元々の芸名はヴァレンティノ。覆面で顔を隠さなければできない行為の為で,プロレスラーのマスクとは事情が違うようだ)の日本での荒稼ぎ等,暴かれるべき「超能力者」のイカサマは暴かず,立場が弱くテレビ局に抵抗の意思表示すらできない手品師達の食べていく手段を興味本位で奪ってしまう風潮は,政治家の犯罪は追わずに芸人の私生活の暴露に明け暮れるスキャンダル誌の精神とも似て,哀しすぎるではないか。それらの暴露マジシャン達が,自分達の得意ネタの種明かしを一切しないことが,すべてを表している。

松尾貴史 (2009). なぜ宇宙人は地球に来ない?—笑う超常現象入門— PHP研究所 pp.70-71
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マスコミ操作

 さらに毛沢東は,影響力のあるアメリカ人ジャーナリストで「サタデー・イブニング・ポスト」紙や「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙に寄稿しているエドガー・スノーに目をつけ,西側諸国を魅了しようとした。スノーは毛沢東のでっち上げをそっくり信じ込み,毛沢東と党の指導者らを「率直で,純粋で,信用できる」と評していた。
 ジャーナリストを取り込もうとする毛沢東のキャンペーンは,スノーと毛沢東に長期にわたって利益をもたらした。他の著名人らも毛沢東と彼の政権をたたえた。ハーヴァード大学教授,ジョン・K・フェアバンクは中国から戻るとこう述べた。「毛沢東主義の革命は,概して,中国の長い歴史の中でも人民にとって最高のできごとである」。女権拡張運動の哲学者,シモーヌ・ド・ボーボワールは,毛沢東政権の殺人を養護した。「彼が行使する権力は,たとえばローズヴェルトの政権より独裁的ということはない」。その配偶者であるジャン=ポール・サルトルは毛沢東の「革命的暴力」を賛美し,「きわめて教訓的である」とい断言した。
 しかし毛沢東と共産党はますます巧みに新聞を騙すようになり,自体は予想もしない方向へ進んだ。国民党は共産党よりはるかに自由な報道を許していたため,公然と不満を述べ議論することが可能で,民衆の目には国民党の残虐行為と失敗が拡大されて見えた。共産党陣営からの,注意深くコントロールされた肯定的な報道との対比に,多くの人々は,どちらも悪いにせよ共産党がましであるという結論を出したのだ。ある国民党の幹部は,共産党支配の恐怖を目の当たりにして強固な半共産主義者となった1人だったが,上海の近くの寧波に行ったとき,人びとは彼を拒絶し,意見を聞こうとはしなかった。「わたしは訪問者すべてと話をした。舌が乾き唇がひび割れるまで……共産党の無法者の無慈悲で獣のような行いについて語った……しかし彼らを目覚めさせることはできず,敵意をかき立てただけだった」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.263-264

組織力 vs. 身体能力

 新聞記事のなかで「組織力」と対立する概念は「身体能力」だ。新聞はそれを「アフリカ特有」のものだと,しつこいほどに書く。山本のいうように「高い身体能力」という言葉が「文明化されていない身体」という意味をもっているとすれば,ここにあるのは「身体=アフリカ=未開」と「精神=ヨーロッパ=文明」という二分法的な思考回路だ。
 この境界線を前にして,新聞は無意識のうちに,日本人を「精神=ヨーロッパ=文明」の側に置きたがっているのではないか。
 そのとき顔をのぞかせるのが,日本人論でも喧伝されてきた「日本人は持ち前の組織力でここまで国を発展させてきた」という国民の物語だ。歴史や記憶に裏打ちされているかのようにみえるこの言い方が,サッカー代表チームのプレースタイルの描写にまで影響を及ぼしている可能性がある。

森田浩之 (2007). スポーツニュースは恐い:刷り込まれる<日本人> 日本放送出版協会 pp.170

ホメオパシーへのマスコミの役割

 さらに一般の人びとは,ホメオパシーを不当なほど好意的に扱うニュース番組に乗せられてしまう。近年,もっともあからさまにホメオパシーに好意的だった報道のひとつに,ブリストル・ホメオパシー病院で行われ,2005年に結果が発表された研究に取材したテレビ番組がある。ブリストル・ホメオパシー病院は,6500人の患者に対し,6年間にわたって追跡調査を行った結果として。慢性病をもつ人の70パーセントは,ホメオパシーによる治療を受けたのち,健康状態が改善したと言っていると述べた。この番組を見た一般の人びとにしてみれば,これは驚くほど肯定的な結果だろう。しかしこの研究では対照群が用いられていないため,ホメオパシーの治療を受けなくても改善したかどうかは知りようがなかった。症状が改善したという患者が70パーセントにのぼるというが,その数字の背景には,自然治癒したケースや,インタビュアーの期待に応えたいという患者側の心理や,プラセボ効果や,その患者が受けていたかもしれないホメオパシー以外の治療の効果など,さまざまな要因があったことだろう。ブリストル・ホメオパシー病院の研究にはあまり意味がないと指摘する批判的な人も多かった。たとえばサイエンス・ライターのティマンドラ・ハークネスはこう述べた。「それはちょうど,チーズだけを食べさせれば子どもの身長が伸びるという仮説を立て,子どもたち全員にチーズばかり食べさせて,1年後に身長を測ってこう言うようなものだ。『ほらごらん!全員の身長が伸びたではないか,チーズが効く証拠だ!』」

サイモン・シン&エツァート・エルンスト 青木薫(訳) (2010). 代替医療のトリック 新潮社 p.183-184

データを調べた方が良い

 今度,何かどきりとするようなことを耳にすれば,データを調べていただきたい。絶対的な数字——あるいはまったく何の数字もないこと——には疑いを抱くべきである。たとえば,初めて親になった人たちには現在,乳児突然死症候群(SIDS)についてあふれんばかりの注意がなされる。1歳以下の乳児の原因不明の死を乳児突然死症候群という。子供の命がかかっていて,すぐにでも予防策(たとえば乳児を仰向けに寝かせること)がとれることを考えれば,それらの警告も理解できる。だが初めて親になった人たちに病院で手渡される警告入りの怖いパンフレットがリスクを客観的にとらえているのであれば,そのほうがはるかに好ましいであろう。たとえば,警告に次のような表現を付け加えることもできるはずだ。「SIDSはいまだよく解明されていない。だがその発症率は史上最低を記録している。それは,一部にはあなたがたのような両親がこのパンフレットに記載されている基本的な予防措置を講じているからである。このような症候群で亡くなるのは,1000人の乳児につき1人以下である(先天性欠損症や出生時の体重不足で死ぬ幼児の数はこの4倍である)。だから真夜中に7回も起きて乳児が呼吸しているかどうか確かめる必要はなく,記載した単純な決まりに従うだけでよい——そして眠ることに集中して下さい。そのほうが100パーセント近い確率ではるかによい親になることでしょう」

アマンダ・リプリー 岡真知子(訳) (2009). 生き残る判断 生き残れない行動:大災害・テロの生存者たちの証言で判明 光文社 p.109

ドーピング検査の偽陽性

 同様の問題は,運動選手の薬物問題でも起きる。ここでもまた,頻繁に取り上げられるはずが直接関連ない数字が偽陽性率である。この数字が,選手がクロである確率の見方をゆがめてしまう。
 たとえば,世界的なランナーで1983年の1500メートルと3000メートルの世界チャンピオンだったメアリー・デッカー・スラニーは,カムバックを目指していた1996年のアトランタ・オリンピックで,テストステロン使用のドーピング違反で告発された。国際陸連(2001年から正式に「国際陸上競技連盟」として知られている)は,いろいろ討議した末,スラニーがドーピング違反をしたと裁定し,実質的に彼女の選手生命を絶った。スラニー裁判でのいくつかの証言によれば,彼女の尿に対してなされた検査の偽陽性率は1パーセントだったという。たぶん人びとはこの数字を聞いて,彼女がクロである確率は99パーセントだと納得したことだろう。
 しかしすでに見てきたように,それは真実ではない。たとえば,1000人の選手が検査され,10人に1人はクロなのだが,検査によってドーピング違反が暴き出される各率は50パーセントだったとしよう。すると,検査された選手1000人ごとに100人がクロになったはずだが,実際にはそのうちの50人だけが検査でクロにされただろう。一方,偽陽性率は1パーセントだったから,潔白である900人のうち9人がクロとされただろう。したがって,このドーピング陽性検査だと,彼女がクロである確率は99パーセントではなく,84.7パーセント[59分の50]だったことになる。
 表現を変えると,あなたはこの84.7パーセントという証拠にもとづきスラニーはクロだと確信するだろうが,その確信の程度は,スラニーがサイコロを振ったときたぶん1は出ないだろうというあなたの確信の程度[6分の5]とほぼ同じだ。確かにこの数字は合理的な疑いを催させはするが,それ以上に重要なことは,大量の検査を行い(毎年9万人の選手が尿検査をされている),このようなやり方にもとづいて判断していくと,それによって多数の潔白な選手が糾弾されてしまうことだ。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.176-177
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

独立系メディアと主流派メディア

 僕はそれから,独立系メディアと主流派メディア,この両者間の戦いの何たるかを理解するようになっていった。一方には力と膨大な読者。もう一方には情熱と,それから,巨大企業組織にとって不適切であるために,主流派メディアが素通りするような内容がある。
 独立系メディアの出版物とウェブサイトの多くは読者が少ないが,広告スペースを売る必要もない。独立系メディアには,報道の質を重視する筋金入りのジャーナリストが多く,主流派メディアのサラリーマン記者を威圧する者たちを苛立たせるような報道をすることに,むしろ興奮を覚える。おなじみの「謀略論」で独立系メディアを攻撃する卑劣な手口は,政府と企業が共謀してうまい汁を吸っていることがばればれの時代の大衆には通用しない。

ジェイソン・レオポルド 青木 玲(訳) (2007).ニュース・ジャンキー:コカイン中毒よりももっとひどいスクープ中毒 亜紀書房 p.317

対話型メディアへのシフト

 旧来の出版メディアや放送局は企業のオーナーの価値観を表した階層型組織だ。これに対して,新しいメディアはコントロールをすべてユーザーに明け渡す。ネット世代は,ボトムアップ組織とトップダウン組織の違いをわかっている。初めて,若い世代はコミュニケーションの基盤を自分たちの手にすることができたのだ。
 ネット世代はただ単に情報を見るだけではなく,積極的に情報を探索してきたことで思考と調査の技能以上のものを身につけざるを得なくなった。子供たちは優秀な批評家にならなければならないのだ。どのウェブサイトが良いのか,データソースの真贋をどう判別するか,チャットセッションに現れた映画スターが本物なのか偽物なのかをどう判断すればよいのかなどを的確に判断できなければならない。
 多くの点でネット世代はテレビ世代のアンチテーゼだ。一方向の放送メディアから対話型のメディアへのシフトがネット世代に大きな影響を与えている。

ドン・タプスコット 栗原潔(訳) (2009). デジタルネイティブが世界を変える 翔泳社 p.35

オフレコの意味

 先日あるアメリカ人の記者と話し合った。私は,キッシンジャーが,日本の記者はオフレコの約束を破るからと会見を半ば拒否した事件を話し,これは,言論の自由に反することではないか,ときいた。これに対して彼は次のようなまことに面白い見解をのべた。
 人間とは自由自在に考える動物である。いや際限なく妄想を浮べつづけると言ってもよい。自分の妻の死を願わなかった男性はいない,などともいわれるし,時には「あの課長ブチ殺してやりたい」とか「社長のやつ死んじまえ」とか,考えることもあるであろう。
 しかし,絶えずこう考えつづけることは,それ自体に何の社会的責任も生じない。事実,もし人間が頭の中で勝手に描いているさまざまなことがそのまま活字になって自動的に公表されていったら,社会は崩壊してしまうだろう。
 また,ある瞬間の発想,たとえば「あの課長ブチ殺してやりたい」という発想を,何かの方法で頭脳の中から写しとられたら,それはその人にとって非常に迷惑なことであろう。というのは,それは一瞬の妄想であって,次の瞬間,彼自身がそれを否定しているからである。もしこれをとめたらどうなるか,それはもう人間とはいえない存在になってしまう。
 「フリー」という言葉は無償も無責任も意味する。いわば全くの負い目をおわない「自由」なのだから,以上のような「頭の中の勝手な思考と妄想」は自由思考(フリー・シンキング)と言ってもよいかもしれぬ。いまもし,数人が集まって,自分のこの自由思考をそれぞれ全く「無責任」に出しあって,それをそのままの状態で会話にしてみようではないか,という場合,簡単にいえば,各自の頭脳を1つにして,そこで総合的自由思考をやってみようとしたらどういう形になるか,言うまでもなくそれが自由な談話(フリー・トーキング)であり,これが,それを行[な]う際の基本的な考え方なのである。
 従って,その過程のある一部,たとえば「課長をブチ殺してやりたい」という言葉が出てきたその瞬間に,それを記録し,それを証拠に,それを証拠に,「あの男は課長をブチ殺そうとしている」と公表されたら,自由な談話というもの自体が成り立たなくなってしまう。
 とすると,人間の発想は,限られた個人の自由思考に限定されてしまう。それでは,どんなに自由に思考を進められる人がいても,その人は思考的に孤立してしまい社会自体に何ら益することがなくなってしまうであろう。
 だからフリー・トーキングをレコードして公表するような行為は絶対にやってはならず,そういうことをやる人間こそ,思考の自由に基づく言論の自由とは何かを,全く理解できない愚者なのだ,と。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.309-311

よく調べた上で語っているのか?

 「科学では測り知ることができない,あなたの知らない世界があるんですよ」
 自称・霊能力者や自称・超常現象研究家の皆さんが,自信満々なしたり顔でこのようなフレーズを語るのを,テレビなどで今までに何度見てきたことだろうか。
 でも,そんな「あなたの知らない世界」とやらは,本当に実在しているんだろうか?というより,「あなた方が知らない不思議な世界のことを,私はあなたよりずっとよく知っているのだ」と確信に満ちた顔で語ってみせる自称専門家の皆さんは,本当にその「不思議な世界」とやらをよく調べ上げた上で語っているのだろうか?もしかしたら,相手の無知に付け込んでいるだけだったり,何が本当なのかどうせわかるまいと口から出まかせを言っていたり,客観的にはなんの根拠もない自分の強い思い込みを,さも真実であるかのように堂々と話してみせているだけなのではないだろうか?

皆神龍太郎 (2008). UFO学入門:伝説と真相 楽工社 Pp.280-281

視聴率さえ

 相手がUFOだろうがなんだろうがちゃんと調査をすれば,もしそれがインチキであればどこかに矛盾は出てくるものだ。欧米のUFO界内部では,お互いに自分の見つけた「証拠」を振りかざしながら,「それはエイリアン・クラフトじゃない。でっち上げだ」といった論争がしょっちゅう起こっている。そして論争している双方の批判をつなぎあわせて話を1つにまとめてみると,たいていのUFO事件が誤認か嘘である,という「実態」が浮かび上がってくるわけだ。
 日本のテレビを中心としたUFO報道の最大の問題点は,こういった「真面目な研究成果」を一切紹介せずに,欧米のUFO研究家がとっくにインチキと見破っている事件を,いつまでたっても「視聴率さえ取れればあとはどうでもいい。どうせ何が本当かわかるまい」とばかりにセンセーショナルに流しつづけることにある。


皆神龍太郎 (2008). UFO学入門:伝説と真相 楽工社 p.85

情報リテラシーこそ

 結局,日本経済が抱えているボトルネックは,その多くがコミュニケーション上の障壁,つまり日本人の情報リテラシーの問題なのだ。
 政府の財政について,まるで家計のやりくりのような,低レベルな説明を続ける経済評論家やマスメディアは論外である。だが,バランスシートやキャッシュフローに関する正しい知識もなく,政府の債務拡大についていたずらに恐れを抱く日本人のリテラシー水準も,やはり大きな問題ではある。

三橋貴明 (2009). ジパング再来:大恐慌に一人勝ちする日本 講談社 p.258

負債のみ,資産のみ

 日本のマスメディアは日本政府のストック(債務問題)を取り上げる際は「負債」のみを,海外企業を褒め称える場合は「資産」のみしか報じないので,細心の注意が必要だ。フェイクマネーで膨れ上がった資産など,正体不明な分,はっきりいってゼロよりも始末が悪いのである。

三橋貴明 (2009). ジパング再来:大恐慌に一人勝ちする日本 講談社 p.109

厳罰感情のインフレーション

 昨今,メディアにおける犯罪報道では,遺族が語る場面が必ずといっていいほど挿入される。そして,それは「善」と「悪」という,単純な二項対立のフレームのもとでスペクタクル化している。その効果として,人びとのあいだに「道徳的な公憤」を強力に喚起してしまうのだ。つまり,「悪」なる加害者に対する,厳罰感情のインフレーション(膨張)というべき事態が起こる。山口県光市母子殺害事件が好例だろう。

芹沢一也 (2009). 暴走するセキュリティ 洋泉社 p.141

登場人物の関係性を操作する

 映像の作為を象徴する手法にインサートという技術がある。AとBとが対面して話し込んでいるシーンで,Aの話に相槌を打つBの表情が,パン(横移動)ではなく画面にカットインの形でインサート(挿入)されたなら,そのカットは実は,実際とは違う時間軸の映像なのだと思ってまず間違いはない。ドキュメンタリーの現場で,複数のキャメラが互いに同調しながら回っていることなどめったにない。キャメラが互いに映りこむことはとりあえずタブーだし,何よりも(テレビも含めて)日本のドキュメンタリー現場に,そんな潤沢な予算は許されていない。
 つまり,Aの発言にBが賛同しているか不満をもっているかなど,編集で簡単に操作できる。インサートの映像に何を選択するかで,2人の関係性も猫の目のように変わる。恣意的に作品を変更させることなど容易い。その気になれば関係の捏造や誇張など,編集機の前でチーズバーガー1個を食べ終えるあいだにやることができる。

森 達也 (2008). それでもドキュメンタリーは嘘をつく 角川書店 p.99-100

映像からは事実を確定できない

 たぶんほとんどの人が記憶していると思うが,9・11同時多発テロ直後,歓喜するパレスチナの人々の映像が世界中に配信された。ある意味で,その後のアメリカの報復行為もやむなしと世界を納得させた映像だった。湾岸戦争当時,イラクの無軌道さと暴虐ぶりを伝える映像として,海辺で油塗れになった水鳥が大きく報道された。停戦後,この水鳥の映像は捏造だったことが発覚した。同様にパレスチナで歓喜する人々の映像も,放送後に様々な憶測を呼んだ。ネット上では,数年前の映像と断定する人も現れた。知り合いの民放ニューススタッフが,この映像について調べた経緯を教えてくれた。
 「結論としては,9・11直後のパレスチナの映像であることは間違いなかったよ」
 「じゃあ彼らは実際に喜んでいたということになるのかな」
 「そこが微妙なんだ。実はあの映像にはまだ続きがあってさ,キャメラが引いてゆくと,喜ぶ人たちの周りには多くの野次馬たちが集まっていて,不思議そうに撮影風景を眺めている。さらに引けば,画面の端にはディレクターらしき人も映っていた」
 情報としてこれだけの映像から,何を解析することができるだろうか。撮影スタッフが彼らに歓喜の演技を養成した可能性はもちろん濃い。でも断定はできない。たまたま喜んでいた彼らに,もう一度歓喜の声をあげてくれと頼んだ可能性だって払拭できない。あるいは狂喜乱舞していたパレスチナの人々が,たまたま取りかかった取材クルーに対して撮ってくれと申し出た可能性だって絶対にないとはいえない。要するに何だってありだ。確定できない。


森 達也 (2008). それでもドキュメンタリーは嘘をつく 角川書店 p.95-96

「リアルな映像」は存在しない

 9・11の映像を評して,ハリウッド映画には真似のできないリアルな映像と言った識者がいた。そりゃそうだ。あんな映像はB級ハリウッド映画でもNGだ。もしあの映像をそのまま本篇に嵌めこんだなら,なんとチープで貧困な発想だと笑われるだろう。
 ならばなぜ,CNNからの生中継に僕らは息を呑んだのか?世界貿易センタービルが崩落するその瞬間に画面に釘付けになったのか?
 これは本物だと思いながら見たからだ。その前提がないのなら,実際の映像そのものは,学生たちが作る自主制作映画の戦場シーンよりも安っぽい。
 リアルな映像など実は存在しない。リアルそうに見える映像なら存在する。重要なのは,伝える側のテーマと,受け手側のイマジネーションだ。

森 達也 (2006). 世界が完全に思考停止する前に 角川書店 p.32

世界はそんなに単純ではない

 わかりやすい結論など要らない。なぜなら世界はそんなに単純ではないし,何よりも簡単な結論は思考を止める。情報のパッケージ化を急ぐあまり,黒か白,正義か邪悪などの二元論に,テレビは自らを埋没させ続けてきた。優柔不断を怖れるあまり,麻痺の自家中毒を進めてきた。わからないことはわからないと自覚し,愚痴や煩悶を恐れずに露出するだけで,今のメディア状況は大きく変わるはずと僕は思っている。


森 達也 (2003). 放送禁止歌 光文社 p.133

事実を材料に紡がれたフィクション

 カメラが介在する段階で現実は変容する。要するに誰だってカメラの前では演技する。その変容した現実を,今度はフレームという恣意的な視点で切りとる。この段階で既に,本来の事実は大きく加工されている。その加工品に編集という取捨選択を重ね,インサート(カットの挿入)という手法で時系列を偽装し,場合によっては音楽やナレーションでニュアンスを強調する。つまり(僕の定義だけど),現実の断片的な素材を材料に,あくまでも主観的に再構成された世界観の呈示がドキュメンタリーなのだ。事実を材料に紡がれたフィクションと言い換えてもよい。

森 達也 (2006). 世界が完全に思考停止する前に 角川書店 p.210

曖昧さの排除

 テレビはずっと,曖昧さを排除しなければならないという強迫観念に捉われてきた。あらゆる現象を被害者と加害者,白と黒,正義と悪などの単純な構図に収斂させ,パッケージ化された商品として消費者に提供することばかりに情熱を注いできた。


森 達也 (2006). 世界が完全に思考停止する前に 角川書店 p.178

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