I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

能力主義と職務主義

日本は人で給与が決まる。この場合,「人」とは,人の能力を指します。つまり能力で給料が決まる。だからこれを「能力主義」といいます。
 対して,欧米は仕事(職務)で給与が決まる。だから「職務主義」という。
 こんな基本中の基本用語でさえ,ほとんどのマスコミが誤って使っていたりします。能力主義という語感から,自分のもっている能力で仕事を勝ち取り,のし上がっていくという,実力主義とか成果主義と同じようなイメージで使われがちなのです。たとえば,「日本はいま年功序列でダメだから,能力主義にしろ」と。日本型雇用の一番根幹にある能力主義が,こんな間違った使われ方をしています。

海老原嗣生 (2013). 日本で働くのは本当に損なのか:日本型キャリアVS欧米型キャリア PHP研究所 pp.20

木戸を突かれる

寄席演芸会の最後のピークとも言える東京オリンピックが開かれた昭和三十九年から大阪万博の催された昭和四十五年にかけて,おびただしい数の入門志願者があった。
 テレビは白黒からカラーに代わり,『笑点』『お笑いタッグマッチ』『お笑い七福神』『大正テレビ寄席』等々,いくつもの寄席番組が人気を博した。関西に,松鶴,米朝,小文枝,春団治の四天王はいたものの,まだ可朝,仁鶴,三枝のブームはこなかった。マスコミにおける演芸会のスターは,東京の落語家だった。団塊の世代と呼ばれる若者はそんな姿に憧れ,こぞってその門を叩いたのである。
 昭和四十五年一月,人形町末広がその幕を閉じた。談四楼は,客としてそれを見た。マスコミ人気と観客動員との間に,微妙なズレが生じていた。
 談四楼が落語家になった昭和四十五年三月,すでに高座のない二ツ目があふれていた。人形町末広の後を追うように,目黒名人会の灯が消えたのは昭和四十六年のことだった。六軒の定席が四軒に減り,二ツ目には高座がない。その傾向は,昭和五十年代に入って更に拍車がかかったようだ。
 「あ,もしもしお客様,入場料を……」と客に間違われる,いわゆる木戸を突かれるという現象があちこちで見られた。寄席の従業員が,滅多に会うことのない二ツ目の顔を,あるいは多過ぎる二ツ目の顔を,覚えないのである。

立川談四楼 (2008). シャレのち曇り(文庫版) ランダムハウス講談社 pp.184-185

立川談志の言葉

「君の今の,落語家になりたいという気持ち,それはまさに情熱と呼んでいいもんだ。だがな,情熱はいつか冷めるんだ。考え直せ,やめなさい。期間をおいて冷静に考える,というのもひとつの手だ。大学を目指す,家業を継ぐというのも方法だろう。
 しかし,こうも言えるだろう。青春にあって,一途にこれになりたいという職業があるにもかかわらず,他の職業,他の道を選択してしまう,もしくはそうせざるを得ないということは,生涯において後悔する,悔やみきれないという結果になる。ま,こういうことは世間によくあるこったがな。また,それをひきずりながら生きてゆくというのも,ひとつの人生であるがだ。さらに難しいことに,僕には弟子を育てる義務があるのですよ。現に僕は,そうやって小さんに育てられた。芸の伝承とひと口に言うが,これは伝えていかにゃならんのだ。落語家ならみんなそうだ。そして,いきなりの落語家なんていやしないという事実だ。最初は君のように学生であり,またはサラリーマンであり,いわゆる素人なんだ。だから正直に言うと,なれとも言えんし,なるなとも言えんのですよ。ま,後進の才能を見極める力もあるつもりだし,その資格はあるつもりだが,他人の人生を左右する権利は持っとらんのだ。渡ろうか」

立川談四楼 (2008). シャレのち曇り(文庫版) ランダムハウス講談社 pp.50

道具の使用

第二工学部の蔑称が「戦犯学部」であることはすでに述べた。しかし第二工学部を「戦犯学部」と呼ぶならば,東大の第一工学部をはじめ戦争に協力した大学の学部すべてを「戦犯学部」と呼ばなければならない。
 そもそも,殺人兵器を率先して作れば「戦犯」の汚名を着せられてもしかたがない。しかし,それが人を守るための道具だったとしたら———。
 この問題が微妙で難しいのは,道具にはローマ神ヤヌスのような二面性があるからだ。たとえば,包丁は食材を切る道具だが,人を殺める道具にもなり得る。ノーベル賞を非難する人はいないだろう。しかし,アルフレッド・ノーベルが発明したダイナマイトは人類の発展に貢献する反面,多くの人命を奪ってきた。
 また,インターネット通販サイトのアマゾンは現在,「ドローン」を使った宅配事業を施行している。しかし,ドローンを利用して,爆弾をピンポイントで敵の施設に投下することができるかもしれない。
 このように二面性をもつ道具をいずれの面で利用するかは,それを利用する人間の倫理にかかわっている。この問題は,研究者や大学人である以前に,ひとりの人間として問われる。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.199-200

白線浪人

1942年に開学し,1951年に閉学した第二工学部は,わずか9年間存続したに過ぎない。しかし,その間に一期生から八期生まで総勢2562人の卒業生を送り出した。
 ちなみに,国立大学は1950年度で旧制での募集を打ち切った。そのため,旧制高校出身者は1950年度までに大学に進学できなかった。
 このことを,白い線が入った旧制高校の制帽にちなみ,「白線浪人」と呼んだ。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.168-169

B29の迎撃兵器

当時の日本は高度1万m以上を悠々と飛行するB29の空爆に悩まされていた。B29の迎撃に従来機を用いると,1万mに達するまで40分から50分もかかり,また1万mという高空では満足な戦闘もできなかったからだ。そのため,迎撃用に新型ターボチャージャーを積んだ戦闘機の開発が進み,B29を撃墜するケースも出てきた。しかしターボエンジンを搭載する戦闘機の数が少なく,撃墜率も1.5〜2%に過ぎなかった。
 いっぽう,ロケットエンジン戦闘機ならば,計画時点で最高速度900km時,わずか3分半で1万m以上の上空に到達できる。ただし,全重量の半分以上を占める満タンの液体燃料すべてを消費したとしても,上空での戦闘時間はわずか数分に過ぎない。それでもB29の迎撃兵器としては期待の星だったのである。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.135

電波報国隊

学徒動員の一形態に「電波報国隊」があった。東京所在の4大学(東京大,東京工業大,早稲田大,藤原工業大)の電気工学科の学生は,特に陸海軍の電波兵器工場に派遣された。彼らのことを電波報国隊と呼んだのである。
 学校により派遣工場は異なり,東大第一工学部は海軍管理下で東京芝浦電気(現・東芝),残るは陸軍管理下で第二工学部および東京工業大,早稲田大は住友通信工業(現・日本電気),藤原工業大は日本無線であった。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.121

造兵学科

数ある学科のなかで,特に戦時色が強いのが造兵学科だろう。700番台のこの学科では,兵器の製造について学ぶ。講義には「701 実用計算学」「720 火砲構造及理論」「721 弾道学」「722 砲架構造及理論」「723 移動砲架」「724 戦車及射爆兵器」「725 魚雷」などの講義科目がある。
 造兵学を研究し講義する大学は,世界で日本とドイツにしか存在しなかった。そのため,東洋各国からの留学生も多かった。また海軍から毎年1〜2名の軍人が派遣され,普通の学生とともに机を並べ,工学士の学位を得て軍に戻っていった。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.101

当時の学費

つまり,第二工学部合格者は初年度に125円が必要で,授業料は前期と後期の分納制になっていた。では,この125円は現在の貨幣価値に換算すると,いかほどになるのか。精確な試算は難しいが,ここでは「かけそば」の値段にもとづいて算出してみたい。
 週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史』によれば,1941(昭和16)年当時のかけそばの値段は1杯16銭だった。これを基準にすると,入学料および授業料の合計である125円があれば,781杯のかけそばを食べられる。
 いっぽう,現代のかけそばを1杯200円と見積もったとしよう(少々安めかもしれないが,著者の事務所の近くにはこの値段で営業している店がある)。781杯分は15万620円になる。かけそば1杯を少々高めの300円と見積もると,781杯分は23万4300円だ。このように15万〜23万円が125円の現在価値に相当すると考えてよい。学費については,現在のほうがかなり高いようである。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.95-96

くじ引きによる配分

入学者の選抜方法も重要な検討課題だった。というのも,第一工学部および第二工学部の学生の質をできるだけ均等にするのが基本方針だからだ。東大ではこの基本方針にしたがい,次のような基準を取り決めた。
 まず,入学試験については両学部とも同時に行ない,そのうえで両学部の定員数を満たす学生を上位から選抜し,両学部に分配する。もちろん,学生はいずれかの学部を選ぶことはできない。
 また,これはのちに決まることなのだが,学生の素質がなるべく均等になるような振り分け方法を2種類考案して,クジで選んだいっぽうを用いて配分する方法を採用した。残念ながら,具体的な配分方法はつまびらかではない。一説によると,高等な方程式を用いて配分を決定したという。

中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.59-60

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