I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

好意的セクシズム

 これとは別に,「女性は,男性からかわいがられ,守られねばならない」「多くの女性は,ほとんどの男性がもっていないような純粋さの特性をもっている」というような考え方がある。一見女性に好意的である。好意的セクシズムという。日本では以前は「フェミニスト」というとこのような考え方を持つ男性のことを指し,「フェミニスト男性」は好意的な評価を受けていた。しかしこでも,女性は家庭に入るべき,夫に庇護されるべきという考え方にもつながる。
 好意的セクシズムに対して「女性は男性をコントロールすることで力を得ようとしている」「男性が女性のためにしてやっていることを,ほとんどの女性が十分にわかっていない」のような考え方を敵意的セクシズムという。敵意的セクシズムと好意的セクシズムは一人の人の中で必ずしも矛盾しない。両方の傾向が強い多義的セクシストもいる。
 多義的セクシストの男性は,女性について極端な見方をする。タイプ分けをして好き嫌いをはっきりさせるのである。つまり,キャリアウーマン的生き方の女性は彼らが嫌いなタイプ,専業主婦のような生き方の女性は彼らの好みのタイプということになる。
岡本真一郎 (2016). 悪意の心理学 中央公論新社 pp. 75-76

レイシズム

 古典的差別(レイシズム)(old fashioned racism)と現代的差別(modern racism)という概念がある。前者は黒人差別に関していえば「黒人は劣っている」「黒人は白人と同じバスに乗るべきではない」というような,古い時代から見られた偏見・差別である。
 現代でもこうした古典的差別が全く消滅したわけではないが,その一方で現代的差別という問題が生じている。現代的差別の信奉者は,人種間の平等は必要だと主張する。しかし「もう偏見や差別は存在しないのに,黒人は優遇されすぎている。黒人が経済的に低い位置にあるのは,彼らが努力しないからなのだ」という見方をする。したがってレイシスト(人種差別主義者)とはいっても,本人はそのような意識がない。
岡本真一郎 (2016). 悪意の心理学 中央公論新社 pp. 68-69

公正バイアス

 公正バイアスは,自分のほうが相手よりも客観的に見ても構成に振る舞っていると見てしまう傾向である。仮説検証バイアスと同じく,自分に都合のよう情報に目を向けてしまいがちであることが,一つの原因とされる。
 敵意バイアスは相手が敬意を持っていると実際以上に思い込んでしまう傾向で,これは攻撃的な性格の人ほど現れやすいという。また,争っている相手との間では,客観的に見るよりも対立を過大視してしまいがちであることも分かっている。
 こうした認知の歪みが加われば,相手への敵意はさらにましていく,そしてさらに認知が歪む,という悪循環が生ずることになりかねない。
岡本真一郎 (2016). 悪意の心理学 中央公論新社 pp. 66

ステレオタイプ

 ステレオタイプとは,知識や信念,行動の予測など,認知的な先入観である。これに対して,感情的要素が加わった先入観が偏見である。「女性は能力的に劣るから管理職を任せるのは不安だ」「血液型がA型の人はまじめだから好きだ」などはその例といえる。
 さらにそこに選択,意思決定のような行動を伴うと差別となる。女性は能力的に劣るからと管理職に登用しなかったり,A型の男性はまじめだからと結婚相手に選ぶような場合である。
 これらの例でも分かるように,偏見や差別にはネガティブなものだけでなくポジティブなものも含まれる。しかし,ある集団・個人に対してポジティブな偏見や差別があればそのあおりを受けて,不利益を受ける別の集団・個人が存在することにもなる。
岡本真一郎 (2016). 悪意の心理学 中央公論新社 pp. 57-58

マジックミラー錯覚

 マジックミラー錯覚は透明性錯覚の逆である。なぜなら,透明性錯覚が「自分が見えているから他者にも見えるだろう」と感じるのに対し,マジックミラー錯覚は「自分に(他者が)見えていないのだから他者にも(自分が)見えていないだろう」と感じるのだから。しかし自分の状況から他者も同様の状況(透明性錯覚であれば見えているという状況,マジックミラー錯覚であれば見えていないという状況)だと推測するという点では,二つの錯覚は共通する。これを知識の呪縛という。自分の知っていることに囚われて判断してしまうという意味である。そしてこのことは,他者の視点に自分の視点をうまく合わせられないことに起因するものである。
岡本真一郎 (2016). 悪意の心理学 中央公論新社 pp. 54

透明性錯覚

 透明性錯覚とは,時分の内心について他者が実際以上に気づいている,と感じる錯覚である。ジュースをいくつか用意しておき,そのなかの一つだけにとても辛い香辛料を混ぜておく。演技者がそれぞれを飲んで見せて,観衆はどれが辛いものかを見破ろうとする。演技者は見破られないように振る舞う,というゲームがある。こうした場面では,演技者のほうは観衆に見破られてしまったと思っても,実際にそうであるのは半分くらいのケースに過ぎない,ということが実験によって示されている。演技者は透明性錯覚に陥っているのである。
岡本真一郎 (2016). 悪意の心理学 中央公論新社 pp. 51-52

公人の発言問題

 以上,公人の問題発言に関して共通していえるのは,次のような点である。
 最も重要なこととして,発言内容自体が誰かを傷つけるということへの自覚が乏しい。そんなことを個人的に考えたとしても(偏見や差別を有していること自体はもちろん問題だが),それを立場上表明すべきではないということが判断できなかった。これは公人としては決定的な問題であろう。
 第二に,その場の一般的な聴衆だけを念頭に置いており,そうした発言を聞いて傷つくターゲットもいるということを十分に考えなかった可能性がある。しかし聴衆の中にもいろいろな人が混ざっている。それにその場にいなかった人たちにも,内容が伝えられていく可能性が大きい。ツイッター等インターネットもそれを助長する。身内の講演会などではとくにこうした間違いが生じやすいが,記者会見でもこうした問題は起きる。
 第三に,とくに公園や遊説などでは,その場で受けたいというところに関心がいく。話を面白くしようというところに注意を集中し,そこにいない第三者への配慮がなおざりになってしまった,ということが考えられる。あらかじめ用意していた内容以外に「アドリブ」で示そうとしたため,なおさら細かい配慮ができなかったのかもしれない。
 第四に,こうしたことが問題発言として扱われると,本人は別のことを言いたかったのだとか,全体の文脈を考えてほしいという弁解をしたくなるかもしれない。しかしターゲットにされた人は,当然,問題箇所の具体的な言い方のところに目を向けてしまう。
岡本真一郎 (2016). 悪意の心理学 中央公論新社 pp. 45-46

「さん」づけ

 ところで大学教員どうしで雑談していて,学生から「さん」づけで呼ばれたということが話題になったことがある。筆者もそう呼ばれたことがあり,「いくらなんでも」と思って当の学生に「そりゃないだろう,『先生』のほうがいいよ」と注意した。ただ,若い教員の中には親しみの表現として許容しているという人もいた。たしかに「さん」づけは距離を縮める効果があるし,そのほうが学生から親しみを感じてもらえるかなとは思うのだが,筆者は歳のせいか,なお抵抗感がある。もっとも,学生から「店長!」と「役職名」で呼ばれた経験もある。アルバイト先で店長に忠実に仕えている「成果」だろうか。
岡本真一郎 (2016). 悪意の心理学 中央公論新社 pp. 20

火を使うまでは

 最後に,疑いを挟む余地がない話を。それは,火を自在に操れるようになるまでは,大がかりな狩りをするヒト科はいなかったということだ。繰り返すけれども,人間は肉食動物のような歯も消化器官も持ち合わせていない。解剖学的にも,生理学的にも,肉を消化するのにとくに適していたわけではなく,この問題が解決されるのは調理という技術を手に入れてからだ。人間の腸管は短い。したがって,どんな肉を食べる前にもまずは消化しやすいように火で処理をしなければならなかった(もちろん,加熱処理したからといって,肉食では摂取できない栄養分が口に入るようになるわけではない)。
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 314

紳士と悪魔

 初期ヒト科の行動について,そして彼らの行動と現生人類の行動との生物学的つながりについて,たくさんの人類学者や生物学者が学説を展開してきた。けれども,どの説をとっても平均的ヒト像は極端な描き方しかされてこなかったように思われる。いずれの学者も偏った見方をしていて,中間派があまりいない。片方ではジャン=ジャック・ルソーのいう高貴な野蛮人のごとく紳士的に描かれ,もう片方では残忍な悪魔めいた描き方をされている。繰り返すが,中間がほとんどいないのだ!
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 259-260

二足歩行の要因探し

 筆者の考えが正しいとすれば,人類の祖先たちに二足歩行の最初の一歩を踏み出させた,これといった要因探しはしなくていい。最初のヒト科が暮らしていた環境には,二足歩行をすることが有利に働くような,たくさんの要因があった。このことをそのまま受け入れればいい。森の周縁や乾ききったサバンナに生息する霊長類が四足の姿勢を捨てたのは,食物や道具や武器を運ぶ,食事の間は真っすぐに座る,高めの低木から食物を得る,狩りをする,背の高い草越しにより広い視界を得る,体温調節を果たすといった要因のためではなかった。二足歩行という移動様式はすでに定まっている事実だった。そして二足歩行の成功あるいは利点は,単なる副産物だったのだ。多彩な生き物,つまり古代のわが祖先は,まず二足で歩くのに成功して,そのあとにこのような利点や,樹上と地上の両方の生活環境を利用できる能力を手に入れたのだ。
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 242-244

見回す能力

 集団生活がもたらす有効な作用の一つに「目視」がある。捕食者を探す個体の数が多いほど,相手から発見される前に相手を発見する確率が高くなるからだ。より多くの目はより多くの捕食者の発見につながる。このように目視に重きを置くことは,霊長類が嗅覚よりも視覚に依存している事実と一致する。
 広い場所をくまなく見回す能力は,人間の能力に深く刻み込まれた特徴の一つでもある。実際の生活でも絵画でも,ある景色を目にすると誰もが心地よいと感じ落ち着きを覚えるのだが,それはなぜだろうか。18世紀ヨーロッパの画家たちは,なだらかな牧草地や丘陵地帯,点在する雑木林を芸術的に表現することで,この至福の境地に至っていた。コーネル大学のニコラス・二カストロは,広々として視界を遮るものがほとんどない土地を人間が好む傾向を調べ,次のように結論した。開けた地形では,捕食者が迫ってきて防御戦略を立てる間がなかったという羽目に陥る前に,捕食者を発見できる。驚いた。なんと,遠くまで広がる自然を見て喜びを覚える感覚が,自分たちを食べようとしている相手を正確に見定めることに関係していたのだ!
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 233-234

人間を食うワニ

 人間を捕食するワニ類の逸話の出所は,ほとんどがインド太平洋だ。なかでもとくに身の毛がよだつ話がある。第二次世界大戦中のこと,イギリス軍がビルマを奪回する軍事作戦にでたため,1000人の日本兵が撤退を余儀なくされた。彼らはビルマ本土とラムリー島との間にあるマングローブの沼地に入り,海軍が送り込んでいたはずの避難船を探した。ところが,イギリス軍の封鎖により日本の海軍艦艇は予定の場所に到着できず,兵士たちは一晩その沼地に閉じ込められることになった。そこに,ワニがやってきた。日本兵はワニのあごで押しつぶされるたびに悲鳴をあげた。封鎖の任についていたイギリス部隊の一人がその叫び声を聞き,こう書き残している。「ワニが回転しながらたてる,鈍い感じの噛みつく音が地獄の不協和音を奏でていた(ワニは水中ですばやく回転して獲物を食べられる大きさになるまで砕く)。こんな音が地上で繰り返されたことはめったにない」。日が昇るころには,恐怖の一夜を語れる生存者はわずか20名しかいなかった。生き残った兵の話では,なかには溺れた者もいたし,撃たれた者もいたかもしれないが,仲間の大半はワニに殺されたという。
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 178-179

観察と幸運

 現場に居合わせるということは,幸運以外の何ものでもない。何しろぴったりの時間にぴったりの場所にいなければならないのだから。たとえば,マダガスカルのタンポロの森林地帯で研究者がヘビの捕食に気づいたのは,鳥やキツネザルが騒いでいたおかげだった。見ると,大きなマダガスカルツリーボアがタケキツネザルに巻きついていた。締めつけて窒息させるまでに60分かかったという。
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 168

捕食と人類史

 ヒト科はオオカミに対して,グルジア共和国と北米とではまったく違う体験をしてきている。これは否定できない。とくに170万年前ドマニシで生きていた「豆粒ほどの脳みそ」のヒト科について言えば,彼らは屈強な狩人ではなかったし,草食動物をめぐって土着のオオカミと競合するわけでもなかった。小さなドマニシ・ホミニド氏がオオカミの獲物から少しばかり失敬していたなどという証拠があるとも思えない。ドマニシの小柄なヒト科は被食者然としてふるまい,相手からもそのように見られていた。オオカミは,170万年前のユーラシアでは,「狩られるヒト」の捕食者だったのだ。その証拠に,今日わずかに残っているオオカミの集団が捕食を試みている。オオカミと人間がともにすみ始めてからの期間が短い北アメリカとは違い,ユーラシアでは双方が作用し合って進化を展開する長い期間があった。そのほとんどで,生殺与奪の権はオオカミの方にあったのだ。
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 131

人類史とオオカミ

 北アメリカではオオカミが人間を襲うことはまずない。これは複数の専門家筋によって確認されている。情報の不足などではなく,事実に違いない。欧州における最近の状況とは著しく対照的だ。ヨーロッパは赤ずきんちゃんのお話が生まれた地でもある。あの物語は実際に起こった恐ろしい,さほど珍しくもない出来事に基づいているのだ。ヨーロッパ(アジアも)のオオカミが北アメリカのオオカミとこうも違う行動をする理由は,いまだにわかっていない。だがデータからは,オオカミが人間の,とくに子どもの常習的な捕食者だった(そして今なお)ことははっきりとわかる。
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 130

脳容量の増加

 環境が変わり,ならわしも変わり,追い込まれた状態になると何が起こるだろう。適応するか死に絶えるか,この二つしか選択肢はない。マレーンは,開けた環境で大型ネコ科動物と対決する必要が生じたためにヒト科系列の適応に弾みがかかった,という考えを提出している。行動だけでなく形態も適応を余儀なくされたのかもしれない。160万年前のこのころまでにホモ・エレクトスは登場し,ホモ・ハビリスは消えてしまっていたようだ。マレーンによれば,大型ネコ科動物に捕食されることによって,進化のうえでは身長と体の大きさと下肢の長さに成長がもたらされた。木に登る能力と引き換えに大股で歩き出すようにもなった。いずれもホモ・エレクトスがもつ特徴だ。またホモ・エレクトスの化石からは,洗練された小型石器のようなそれまでまったくなかった道具の発展につながる,脳容量の著しい増大がはっきりわかる。ホモ・ハビリスで650cc,ホモ・エレクトスになると1000〜1100cc,この著しい脳容量の増加は,気候変動と大型肉食動物による捕食とが絡み合った結果,引き起こされた形態変化だとマレーンは考えている。
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 101-102

特別な位置に

 創造主義に反対で,進化論に賛成という議論になってくると,科学者の多くは頑ななまでに進歩主義を通す。それなのに,現生人類や初期ヒト科,大型類人猿,そしてその他の霊長類までも,何としてでも特別な位置に分類しようとする。被食動物にしてはあまりにも知能が高いという理由からだ。こういった科学者たちがこだわるのは,少なくとも人間(すなわち「狩るヒト」)はまわりの環境を支配しなければならなかった——人間が自分たちを食べにかかってくる「もの言わぬ動物」のなすがままだったはずがない,という点だ。だが自然選択や進化論を信じるのであれば,捕食者と被食者をとらえる動物学の枠組みに基づいて,自分たちの立つ位置を受け入れなければならない。筆者は,霊長類種に対する捕食はまぎれもない事実だと立証してきた。小型で二足歩行をしていたヒト科もほかの霊長類と同じく,まさに食べられる状態にあったのだ。
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 75

多様性への疑問

 込み入った茂みのなかに一本の枝がある。なんとか生き残って今なお生存している唯一のヒト科,解剖学的にいうと現生人類につながる枝だ。タッタソールは次のように言う。「人類としてのわれわれの歴史をじっくりと考えるにあたって忘れてはならないのは,われわれは,ゆっくりと途切れることなく一つの方向だけをめざした進展の完全なる結果ではなく,いろいろな枝を広げたこの茂みのなかで単に唯一生き残った小枝にすぎないということだ」。では,込み入ったヒト科の茂みにあった他の枝はどうなってしまったのか?小柄で二足歩行をする霊長類は,おそらく700万〜1000万年にわたって現れては消えていた。なかには,100万年以上勢力をふるったと思われるホモ・エレクトスのように,うまく生き長らえるものもあった。けれども人類の歴史のなかで,あの枝よりもこの枝のほうを主役とすると何者かが指名しているわけではない。なぜ,これほどまでの多様性が過去に存在し,なぜ,それにもかかわらず地球上に現存しているのはただ一種のヒト科だけなのか。これは科学の世界で延々と考え続けられているとても興味深い疑問である。
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 29-30

思想の影響

 ここでちょうどいいからふれておこう。人類の祖先をめぐる問題には,客観科学や公平な真理の追究よりも,思想的な側面から多くの関心が集まっていた。とくに19世紀後半から20世紀初めごろは,私たち人類およびその祖先は種という山の頂上にいなければならないと考えられていた。われわれはもっとも賢い種でなければならない。われわれは特別で,強靭で,ほかの動物たちの上に君臨していなければならない。そして,きわめて重要な点だが,人間も,ヨーロッパ人種を頂点とする階層に従って位置づけなければならないとも考えられていた。自然選択の考えを通して進化の理論をまとめあげたダーウィンは,自然の法則に従って,人間を他の動物と同じように動物界のなかにおさめた。けれども,そのダーウィンでさえ,人間と類人猿(人間に最も近い現生する親戚)とでは,精神と知性の面で雲泥の差があると考え,「最低の人間の精神と最高の動物のそれとの間には計り知れない隔たりがある。これには疑いを挟む余地がない」と書き残している。当時,生体と行動という点であらゆる人間と動物とを分けていたのは,大きな脳の存在だった。19世紀後半の理論家たちは,現代人の脳に備わっている灰白質の量をもって真の人間の特徴ととらえ,大きな脳という期待にそうような初期ヒト科の化石を探していたのである。
ドナ・ハート ロバート・W・サスマン 伊藤伸子(訳) (2007). ヒトは食べられて進化した 化学同人 pp. 26-27

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