I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

予言モデル

 いますでに,自己実現的な予言のモデルが3種類出てきた。第1は,一方向のプロセスである。ある集団についてある思い込みが存在し,それに従って集団に接すると,その思い込みの通りの結果になる,というケースだ。第2は,教授陣と学生のように,双方向のプロセスである。アラブ人とユダヤ人,将校と下士官などもそうだ。お互いが相手の行動や態度を予想し,その予想に基づいて互いに行動するケースである(たとえばどちらの側も,相手は好機が来れば予告なしに攻撃を仕掛けてくると考えたら,どちらも好機を逃さず予告なしに攻撃することが自衛上必要だと感じるだろう)。第3は,番犬に警察犬を選ぶ例のように,選択を伴うプロセスである。たとえば宴会の幹事をやりたがるのはおしゃべりで社交的な人だと一般に考えられていたら,幹事をしているだけでおしゃべりで社交的だとみなされる。人前で煙草を吸うのは売春婦だけだと一般に考えられていて,売春婦も含めて女性はみなそのことを知っていたら,女性は人前では喫煙しなくなる。実際にそういう時代があった。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 131


クリティカル・マス

 いま挙げた例すべてに共通するのは,人々の行動が,どれだけ多くの人がその行動をとるか,あるいはどれだけの頻度でその行動をとるかに左右されることである。どれだけ多くの人がどれだけの頻度でセミナーに出席するか,どれだけ多くの人がどれだけの頻度でバレーボールに参加するか,どれだけ多くの人が喫煙するか,二重駐車するか,どれだけ多くの人がどの程度力強く拍手するか,どれだけ多くの人がさびれた地区を離れるか,どれだけ多くの生徒が転校していくか,といった具合に。


 これらの行動を総称して,クリティカル・マスと呼ぶ。社会科学者はこの名称を原子力工学からとった。原子力工学では,原子爆弾に関連してこの言葉がよく使われる。ウラニウムのような物質の中で放射性崩壊が発生すると,中性子が大気中に放出される。中性子が他の原子核に衝突すると,核が分裂して2,3個の中性子が飛び出し,それがまた同じことを繰り返す。ウラニウムが少量の場合には,中性子からすれば空間はほとんど「空っぽ」で他の原子と衝突する可能性はごく小さいため,新たな中性子の放出はごく少量にとどまる。だがウラニウムが大量であれば,衝突する可能性が高くなり,2個以上の中性子を生み出すことになる。さらに,中性子の半分以上が新たに2個の中性子を生み出せるだけの量のウラニウムが存在すれば,この分裂反応は自律的に維持されるようになる。このときにウラニウムの量を「臨界質量(クリティカル・マス)」と呼ぶ。臨界質量を上回るウラニウムが蓄積されれば,1個の中性子が平均して1個以上の中性子を生み出す。爆発的な連鎖反応が起きると(密閉空間の中で火薬1粒の爆発が他の爆発を誘発する現象と似ている),ウラニウムは一瞬で全部消費される(ウラニウムがばらばらに飛び散って反応が止まる場合を除く)。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 103-104


命題とは

 とはいえ命題にとって重要なのは,その妥当性が定義次第であるにしても,ともかくそれまで私たちが知らなかったことを語っているかどうか,ということだ。あるいは,誰か(その誰かは定義のことなどよく考えないかもしれない)にとって,その人の知らなかったことを語っているかどうか,ということである。この点に関しては,誰でも自分で判断できる。ある命題が,あなたの知らなかったこと,あなたが経験していないことを教えてくれるなら,あなたは一歩前進したことになる。なぜならその命題を通じて,あなたは世界について何かをひとつ知ったことになるからだ――たとえそれが,実証的に裏付けられた科学的事実として普遍化することはできないとしても。たとえば,死亡原因に占める非感染性疾患の割合が50年前より増えたのは,感染性疾患による死亡が減ったからであって,必ずしも他の病気の死亡率が上がったからではない。このことをもしあなたが知らなかったとしたら,この命題に注意を払ったおかげですこし賢くなったわけである。こんなことも知らなかったのかと,少々いまいましく感じるかもしれないが。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 53-54


椅子取りゲーム

 経済学では,所得と成長,通貨供給量と信用,インフレ,国際収支,資本市場,公的債務の分析にこうした「会計報告」の類いが欠かせない。これらの数字は(分析目的でデータを収集する人に比べると),実施に経済活動に従事している人にとっては,往々にして把握しにくい。


 この状況は,別々の部屋にたくさんの椅子が置かれて大勢のプレーヤーが繰り広げる椅子取りゲームに似ている。人々は個別に行動しており,気づかれないうちに椅子が取り除かれたり,新しいプレーヤーが加わって新たな椅子が追加されたりする。プレーヤーにわかっているのは,すばやくやらないと,音楽が止まったときに坐る椅子がなくて退場させられてしまうことだけだ。だから誰もがせかせかし,のろくさい人がいると苛立つ。椅子の数が人の数より少ないことがつねに頭から離れないからだ。いかにうまくやろうと,音楽が止まったときに必ず何人かは椅子なしになること,どれほど俊敏でも,椅子なしになる人数は変わらないこともわかっている。椅子なしの人を退場させたとき,椅子を減らすのではなく退場者と同数のプレーヤーを加えていけば,退場までにプレーする平均回数を計算することができる。椅子取りが非常にうまくて最後まで退場させられないプレーヤーがいようと,初回で姿を消すプレーヤーがいようと関係なく,平均は数学的に求められる。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 49-50


個別からの一般化

 社会科学の中でも経済学は,このように個別の例からの一般化が重要な役割を果たす。それは経済学が,価値が等しいものの交換を主に扱うことと関係がある。私が自転車を買うとしよう。私は自転車を手に入れて150ドルがなくなる。自転車屋は自転車がなくなって150ドルを手に入れる。自転車屋の主人は,そのうち90ドルを次の自転車の仕入れに,40ドルを家賃,給料,電気代などに充てる。そして20ドルが利益として自転車屋のものになる。仕入れに支払われた90ドルは,さらに部品,組立工場の賃金,賃貸料,電気代などに充てられ,電気代は燃料,人件費,発電所建設に伴う借入金の金利,配当,税金などに充てられる。こんな具合に他の項目についても内訳を調べることが可能だ。こうしてすべての項目を調べ上げて会計報告をしようとすると,私が自転車に支払った150ドルから生じる利益(所得税・利益課税・社会保障給与税を含む)を150ドルになるまで足さなければならないことがわかる。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 48-49


重なり合い連動する

 情報ネットワーク,人種の分離,結婚,言語の発達などは,往々にして重なり合い,互いに連動する。小売店やタクシー会社やモーテルの従業員を見ると,均質であることが多い。アイルランド人であれ,イタリア人,キューバ人,プエルトリコ人であれ,あるいは白人または黒人であれ,プロテスタントまたはカトリックであれ,均質であるということは,何らかの目的や設計の存在を示唆する。だが決定因は情報ネットワークである可能性が高い。空きポストに採用されるのは,空きポストが出たことを知っている人だ。空きポストが出たことは,その会社で働いている知人から教えてもらった。その人と知り合ったのは,同じ学校出身だから,近所に住んでいるから,家族を介して,教会あるいはクラブが同じだから,といった具合である。しかも以前から社員による推薦は,新規採用者が望みうる最善の保証に近い。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 40


クリスマスカードの市場

 クリスマスカードの「自由市場」がなぜ最適の交換に行き着かないのかを疑問に思うなら,答はこうだ。市場ではないのだから,最適な結果を期待する理由がそもそもないのである。自由市場がうまく機能しているとすれば,それは,売買可能な商品を,情報が入手可能な状況で,自由意志に基づいて取引しているという特殊なケースである。天体にしても,ごく特殊な惑星に限れば円軌道を描いている。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 31


目的を考える方法

 同じ高さになろうとする水だとか,自分と同じ種族を守り,増やそうとする遺伝子といった具合に,意思を持たないものに「目的追求」行動を考えるやり方いは,それなりに利点がある。そこで仮定した動機は,便宜的な表現や示唆的な比喩や有用な決まり文句以上のものになって,記憶に残ることだ。ただし人間が対象の場合,比喩が比喩でなくなり,目的をめざすとか問題を解決するといったイメージに安易に結びつきやすい。このため,およそ見当違いの目的をめざしているとか,目的を知らずに行動しているとか,意識せずに目的を取り違えている,といった可能性を忘れてしまうことがある。また,人々がめざしているとされた目的が達成された場合,その満足感を過大評価してしまうこともある。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 13


行動には動機が

 科学分野では,またときには社会科学でも,行動には動機があるものと考える。というのも,多くのものがあたかも目的をめざしているかのようにふるまうからだ。たとえば,水は同じ高さをめざす。自然は真空を嫌う。泡は表面張力を最小化しようとする。光は,さまざまな物体を異なる速度で通過して最短距離を進もうとする,といった具合である。だがJ型の管に水を満たし,低い方の先端を閉じて管の中の水が同じ高さに到達できないようにしたら,水が困惑するとは誰も考えない。閉じていた先端を開いて水が噴き出し,床に飛び散ったら,同じ高さになろうとしてあわてるからだと非難する人もいない。同様に,光が最短距離を進むのは急いでいるからだ,とも考えない。なるほど近頃では,ひまわりは太陽光が浴びられないと悲しむと考える人がいる。また,木の葉は光合成を最大化するために,枝上で太陽光を分け与えるような位置を探すとも言われる。林業を営む人なら,木の葉がうまく位置取りしてくれたらうれしいだろう。だがそれは,木の葉のために喜ぶのではない。そもそも,木の葉が自分たちの利益になるようにふるまっているのか,単に酵素の命じるとおりにしているのか,あるいは「目的」とか「~をめざす」といった言葉がまったくそぐわないような科学的な系の一部に組み込まれているのかは,おそらくわかっていない。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 11-12


性格は

 性格は人の行動を決定します。そして,決定され実行される行動に問題があれば,その積み重ねが問題を大きくしていきます。この場合の行動は,ものの見方や感じ方,それに考え方など人の営みのすべてを指します。そして,その性格の基盤が自律的自尊感情なのです。



山崎勝之 (2017). 自尊感情革命:なぜ,学校や社会は「自尊感情」がそんなに好きなのか? 福村出版 pp. 136


自分で成長する力

 とはいえ,この本でも直接お話ししておきたいことがあります。それは,子どもは本来,みずから正しい方向に伸びていく力があるということです。自己成就力といってもよいでしょう。子どもが間違った行動に出ている場合は,この力が一時的に発揮できないように覆いがかぶさっているような状況です。そのような状況で,子どもの手をとり「こっちにおいで」と引っ張るような教育はやめましょう。一時的に行動の修正ができても,子どもは何も変わりません。子どもみずからが考え,正しい方向に歩む力が出るように働きかけをします。


 そのためには,子どもの話をよく聞くという傾聴や,子どもの正しい動きのかけらが出るのを辛抱強く待ってそれを認めていく姿勢が大切です。それに,子どもとよく話をして先生も子どもも納得できる決定をすることも大切になります。自律的自尊感情が欠如し,攻撃的になったり依存・消極的になっても,小学生はまだまだ軌道修正する力があり,学校の先生はその手助けをしたいものです。



山崎勝之 (2017). 自尊感情革命:なぜ,学校や社会は「自尊感情」がそんなに好きなのか? 福村出版 pp. 134


金儲けか社会貢献か

 ここで意地の悪い言い方をしよう。神童は頭のよさを金儲けに使えるようにするため,ビジネススクールで経営に関する知識,技術,ネットワークを身につける。成功者は億万長者の道を歩む。頭のよさは個人が幸福を追究するための利益獲得に向けられる。豪邸に住み,リゾート地にいくつも別荘を持ち,夜な夜な美女と遊び回る。ビジネススクールはそれに手を貸すことになる。そもそもMBAはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが,大学の役割を考えると腑に落ちない。大学には人材育成によって社会を発展させなければならないという責務がある。個人の利益追求ばかりを教えていいのだろうか。頭のよさをすこしでも社会貢献に向けさせるような教育をすることこそ,大学の役割であり,それでこそきわめて高い公共性を持ち得ると,わたしは思う。



小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 295-296


頭のよさ=自尊心

 中学受験,大学受験での「栄光」はいくつになっても誇るべき勲章と,思っているエリートたちはいる。若かりし頃の頭のよさが証明されることに無常の喜びを感じる人たちだ。反対に,身近なところに,中学受験や大学受験で自分がとった成績を上回る人が現れるとショックを受ける人もいる。頭のよさは,そのまま自尊心につながってしまうだろう。



小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 229-230


神童のアイデンティティ

 神童は大人になって,神童であり続けたことを誇りに思う。そんな人がたまに見られる。まわりから見ればいやみこの上ないが,神童本人にすればアイデンティティーを認めてもらいたいところだろう。


 子どものころ,あたまがよかったことについて,成人になってからも自慢する。とくに聞かれるわけでもないのに,「勉強しないでいつも満点だった」「まわりから神童と呼ばれた」などと話す。その地域で一番の進学校に通っていたことを,突然,脈絡もなく話す人もいる。きっと誇り高いことだろう。本人は自分のプロフィールをたんたんと話しているつもりである。だが,その言い方がちょっとでも自慢っぽく聞こえてしまうと,「自分の頭のよさを自慢している」と顰蹙を買いかねない。



小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 228-229


宮沢喜一

 だが,年をとるほど,無邪気な東大信仰が現れてしまう。同僚や記者に最終学歴を聞きまくっていたことがある。宮澤の「何年卒ですか」というのは,東京大学法学部を前提とした話で,相手が他大学であると知れば「ふ~ん,そうですか」と小バカにする態度を示してしまう。本人はそのつもりはないが,不愉快な思いをした人は少なくない。もともと,勉強ができる,知識を十分に兼ね備えていることを鼻にかける傾向があったので,なおさらだった。まわりを気遣える頭のよさは不十分だった。神童はこんなところで評価を下げてしまう。政治家としての経歴に水をさしてしまい,もったいない。



小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 169


東大法学部の学士助手

 わかりやすく説明しよう。大学教員の道を歩む場合,大学院修士課程2年,博士課程3年を経るのが一般的である。しかし,東京大学法学部では「天才」「秀才」ぶりを示した学生は,修士,博士課程で学ぶというプロセスを免除されている。大学から「今さら教えることは何もないほど,頭がよい」というお墨付きをもらうわけだ。大学院に5年も通わせるのはもったいない,早く学者の世界に入れてあげようという,神童に対する一種の英才教育である。


 だが,そのウラにはもう1つ理由があった。神童の青田買いである。


 東京大学法学部の優秀な学生は,国家公務員総合職試験に軽々と受かってしまい,中でも財務省(大蔵省)採用者には試験成績5位以内が集まる。また,司法試験にも上位の成績で合格する。


 東京大学法学部教授にとっては,教え子の中で最も優秀な学生がほしい。しかし,飛び抜けた秀才は大蔵省に取られてしまう。あるいは,法曹(裁判官,検事,弁護士)に流れかねない。そこで,助手採用によって20代で助教授,30大半ばで教授というライフプランを提示する。30代の官僚,法曹はその世界で第一人者になれるわけではない。その点,東京大学教授は若くして一国一城の主となる。


 助手の任期は3年間で,それまでに論文を仕上げる。これを「学士助手」の「助手論文」という。修士論文でも博士論文でもないので,修士号,博士号の学位はもらえない。だが,論文が評価されれば,博士でなくても助教授,講師として任用される。満年齢で26歳の助教授が誕生する。



小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 128-129


新村さん

 『広辞苑』(岩波書店)の表紙には,いまでも「新村出編」と掲げられており,編者名がブランド力を持った感がある。初版は1955年。現在は2008年刊行の「第六版」まで版を重ねている。新村出は1967年に死去。彼が関わったのは初版までである。「第二版」「第三版」「第四版」は長男の新村猛を中心に編まれた。猛の長男の新村徹も関わっている。新村猛は1992年,徹のほうは不慮の事故で1984年に死去。『広辞苑』の「第五版」「第六版」において,新村家3代は関わっていない。それでも「新村出編」という名前を残しているのは,新村出が『広辞苑』の基本コンセプトを作ったこと,それを守り続けていくことを広く知らしめるためであろう。これは刑法学者の末弘厳太郎と似ている。なるほど,神童はこうして後世に伝えられていくものなのか。1980年代まで,新聞社や出版社で新人記者が原稿の中でひどくあやふやな言葉を用いると,デスクは「新村さんに聞きなさい」と突っ返すことがあった。「広辞苑で調べろ」という意味である。いまは,ネットで調べれば済んでしまうことが多くなったので,「新村さん」の出番は少なくなりつつある。さびしい話だ。神童さんと読みかえてもよかったのに。



小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 107-109


東大の銀時計組

 東京大学の歴史をひもとくと,「この学生が首席である」と公式に認定していた時代があった。


 1899(明治32)年,東京帝国大学(東京大学の前身)は卒業式で学業成績優秀者を表彰する,「優等生の選定」制度をスタートさせている。式では天皇が成績優秀者に銀時計を授けている。当時,東京帝国大学は8学科構成となっており,毎年,全学科合わせて16~20人の学生が選ばれていた。1918(大正7)年,この制度は廃止されている。20年のあいだ,223人が銀時計をもらっている。学科別では,法学科88,経済学科9,文学科50,工学科77,理学科20,農学科24,医学科42。


 天皇から直接銀時計を手渡される人たちはほんの一握りである。国が頭が良いことを天下に示された彼らは,東大銀時計組と呼ばれ,頭のよさについて,のちのちまで伝説的に語られることとなる。



小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 98


都合の良い理解

 日本の戦後教育は何かと批判されてきた。大学入試に備えて,中学,高校までは教科書を詰め込み型授業で教える。記憶力重視型で想像力を育ませることはできない。金太郎飴のような優等生ばかり。そして田中,天野,山中の3人は,わたしとほぼ同世代である。1979年に導入される共通一次試験を前に暗記型と批判された。ついでに言えば,無責任,無関心,無気力とボロクソ言われた世代である。


 だが,1950年代後半生まれの研究者がしっかり成果を出してしまった。こうなると形成は逆転してしまう。戦後の詰め込み教育が,神童を伸ばして,頭のよさを醸成させ,ノーベル賞クラスのすぐれた発見ができる基礎となったという肯定的な見方が成り立った。


 これには,ゆとり教育からの揺り戻し,学力低下への政策的対応という,大きな「援軍」があったことも大きい。


 神童は,国の教育政策によって,都合良く理解されるものだ。



小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 83-84


親睦会?

 MENSA JAPANが神童集団として,ほんとうに「知性才能」を「人類の向上に役立」たせているならばいい。だが,寡聞にして聞かない。アピールが足りないのだろうか。「知性才能」同士の親睦会であるのならばそれでいいし,MENSA JAPANの会員であることを自慢したければ,どうぞ勝手におやりなさい,といったところだ。むずかしいのは,どんな形でも「知性才能」をひけらかすことになり,それに対して支持が得られにくいことだ。



小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 65-66


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