I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

依存とは

一度このことに気づけば,「心理的」な依存と「物理的」な依存(または病みつき行為)の従来の区別は誤解を招きやすいものだとわかるだろう。たとえば,摂食障害を持つ人が大量のアイスクリームを食べると,その行為が脳の変化によって強化されることがある(ついでに,そのあとそれを吐きもどせば,セロトニンのハイも経験できる)。このような人は,アイスクリームに物理的に病みつきになっている。しかし,この病みつき行為は,自分にそれを強いることをやめれば,完全に元に戻せるものだ。だから,どの面から見ても,病気と言うことはできない。
 一方,依存という言葉は,さまざまなことを意味する。糖尿病患者の一部は,インスリンがなければ命を落とすという意味で,インスリンに依存している。ヘロイン依存者は,ヘロインがなければ命を落とすわけではないが,ヘロインというフィックスを得られなければ離脱症状に苦しむという意味で,ヘロインに依存している。1日にエスプレッソを6杯飲む人も,突然コーヒーをやめたら,離脱症状に苦しむ。おそらく,かなりひどい頭痛に見舞われることだろう。だとすれば,その人はカフェインに依存していると言えるのではないだろうか。

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp. 103

自発的行為

なぜ科学は,依存症という現象をとらえるのに,これほど苦労しているのだろう。それは,端的に言うと,他の動物の脳とは違って,ヒトの脳は,自らの身体に命令を下し,ほぼ無数の自発的な(そのため予測不能な)行動をとらせるからだ。病気モデルの擁護者,そして巨大な医療関連産業の思い込みに反し,依存的行動とは本質的に自発的な行為なのだ。依存者は脳の化学物質が混乱した結果,悪い選択を下すのかもしれない。しかし,たとえそうだとしても,それが自分の意志による「選択」であることに変わりはない。

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp. 97

共存症

ここまで,異なる薬物が異なる方法でドーパミンを増大させる実態について見てきたが,この情報は,実はそれほど有益ではない。というのは,ドーパミンには,習慣性のある薬物と,報酬が得られても習慣性は持たない薬物が区別できないからだ。脳は,私たち人間が文化に基づいて決めた合法薬剤と非合法薬物の分類など認識しない。私たちがうまく線引きしてきた薬物と食物の境界,そして崇高な危険行為と自己破壊的な危険行為との違いを認識しないことについても同じだ。
 さらに,これではまだ複雑さが足りないとでも言うかのように,多くの依存症者は,忠誠心を簡単に翻す。たとえば,ある街でヘロインの供給が止まると,ヘロイン依存者はコカインに依存の対象を切りかえる——この2種類の薬物がもたらす満足感は非常に異なり,関与する報酬系もそれぞれ異なっているにもかかわらず。「共存症」と呼ばれるこの現象は,科学者にとっての謎である。
 だから,神経科学者が,脳の神経経路の地図をたどって,それを作りだした行動を特定することができないのは当然なのだ。科学者たちに言えるのは「脳の損傷を示している兆候は,もしかしたら,特定の習慣によって引きおこされたのかもしれない」ということだけ。このことと,脳の神経経路から特定の行動を導き出すこととは大きく異なる話である。

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp. 96-97

好きより欲しい

最近,科学者たちは,ドーパミンに対する理解をさらに深めた。その結果,今では,ドーパミンは,快楽よりも,欲望のほうに深く関わっていると考えられている。つまり,昨今,依存症について科学的な議論をするときにいつも登場するようになった,爽快なほどシンプルな用語で言いかえるとすれば,ドーパミンは「好き(嗜好 liking)」という衝動よりも「欲しい(欲求 wanting)」という衝動のほうに深く関わっている,と考えられるようになったのだ。

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp. 85

スリープ・ランプ

たとえば,アップルのMacBook(マックブック)シリーズの魅力的な特徴の1つに,状態表示ランプがある。パソコンがスリープ状態になると,このランプが穏やかに点滅するのだ。初期のレビュアーは,このランプが持つ癒やしの効果を褒めそやしたが,それを眺めることが,なぜそれほど癒しの感覚をもたらしてくれるのかについては突きとめられなかった。が,そののちアップルが「呼吸のリズムを模した」スリープ・モード表示ランプの特許を申請し,「心理的に魅力のある」ランプは,あらかじめ意図されたものであったことが判明した。
 技術ブロガーのジェシー・ヤングが指摘するように,アップルのスリープ・モードのランプは睡眠中の呼吸ペースに合わせてあるが,デルのランプは,激しいエクササイズをしている最中の呼吸のペースに近い。「アップルをまねしようとする企業は数あるものの,どこもピントを外しているという事実は興味深い。これも,細部に徹底的にこだわりぬくアップルの姿勢を示す例の1つだ」とヤングは言う。

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp. 35

即座の報酬

この傾向が人間にそなわっているわけは,そもそも人間の脳が,即座に手に入る短期的な報酬を求めるように進化してきたからだ。私たちの祖先は,高エネルギーの果実をその場でむさぼり食ったり,性的刺激にすぐ反応したりしなければならなかった。そうしていなければ,あなたも私も,今,この世にはいないだろう。
 問題は,もはや身体的にも必要としておらず,種としての存続にも何の意味もないような報酬に満ちた環境を,私たちが築いてしまったことにある。たとえ必要のないものであっても,そういったものは報酬であるため——つまり,脳の中で期待感と快楽といった特定の感情を引き起こすため——私たちはつい手を伸ばさずにはいられない。
 言いかえれば,私たちは「すぐに気分をよくしてくれる=フィックス」に手を出してしまうのだ。

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp. 14-15

地域環境と健康

人的な環境だけではない。地域環境も肥満・健康な食生活,身体活動などと関連している。人口250万人の住民がいるリスボンの7669人を対象に,この人たちの特徴(ライフスタイルや教育年数,年収,就労状況など)とともに,どの地域に暮らしているかを調べ,その地域の特徴も調べて,それらの関連を分析した研究がある。まず個人レベルに着目すると,肥満は身体活動が少なく,教育年数が短い者などに多い。健康的な食生活は,教育年数が短く,離婚していて,失業中,低所得の者などでは難しい。身体活動は教育年数が短く,低所得の人で少なかった。
 次に,地区の特徴としては,犯罪の多さ,人口密度や運動施設(体育館やプール)の有無,ソーシャル・キャピタル(社会的統合の強さ)などを調べ,個人の特徴も考慮(統計的に調整)して分析した。その結果,犯罪が多い地域では健康な食生活,身体活動が少なく,肥満が多い。運動施設がある地域,ソーシャル・キャピタルが豊かな地域では身体活動が多かった。つまり,同じ個人の特徴をもつ人でも,どのような地域環境に暮らしているのかによって,食生活や身体運動料が違ってきてしまうのだ。

近藤克則 (2010). 「健康格差社会」を生き抜く 朝日新聞社 pp. 184

健康とは

50年以上前に策定されたWHO憲章(1946)をみると,その前文には次のように書かれている。「完全な肉体的,精神的及び社会福祉の状態であり,単に疾病又は病弱の存在しないことではない」。心理・社会的な側面も「健康」にとって重要であることはわかっていたのだ。ただ,それを科学的にとらえる方法の開発や大規模なデータが得られなかったなどの理由で研究が遅れていた。他方で,生物医学的な研究方法がより早く確立し,膨大な知見の蓄積が進んだ結果,生物医学的なとらえ方のほうが,主流となった。それに対し生物心理社会モデルは,社会疫学によってようやく科学的に裏づけられたというべきかもしれない。

近藤克則 (2010). 「健康格差社会」を生き抜く 朝日新聞社 pp. 114

生死という評価軸

もう1つ,健康格差を問題にする意義には,生死が,評価尺度および価値としてもっている特徴によるものだ。才能や努力や成果を評価するのは意外に難しい。報酬面でも,お金以外に名誉や権力をはじめ非金銭的な報酬もいろいろある。評価すべき尺度がいろいろあって,どれが「絶対」とも言い切れない。つまり,何をもっとも重視するかは,「価値観しだい」で「相対的」になってしまう。
 しかし,生死となると,これまた話は違う。死は,測定上の価値の面でも,「絶対的」である。死んでしまえば「おしまい」だから。お金が増えてうれしいのも,勝ち負けも,その前提は「生きていること」だ。世論調査をみても,「最後はお金よりも健康」という声は多い。

近藤克則 (2010). 「健康格差社会」を生き抜く 朝日新聞社 pp. 33-34

よい格差・悪い格差

だが,所得格差に代表される社会経済的な格差の話となると,議論をしても話がなかなかまとまらない。なぜなら,「努力や能力が評価されないのは悪平等だ」とか,「平等を追求して格差を減らすと活力や効率が低下する」「経済の成長のためには平等を多少犠牲にしても許容される」などといわれると,「格差にもいい面がある」「必要悪だから仕方ない」と思えるからだ。
 つまり,格差にも「よい格差」と「悪い格差」がある。あるいは,格差にも「いい面」と「悪い面」があるから「価値観しだい」となる。格差を巡っては,そんな平行線のまま答えが出ない「不毛な論争」に終止している感がある。しかし,「健康格差」は「経済格差」とは違う,と私は思う。健康格差が「悪い格差」であることには,多くの人が同意する。従来の格差論争には「健康格差」の視点が抜け落ちていた。それを持ち込むことは,「悪い格差」をみえやすくして,格差論争を不毛なものから一歩進めるものになる。私が問いたいのは,「悪い格差」まで放置しておいていいのか,である。

近藤克則 (2010). 「健康格差社会」を生き抜く 朝日新聞社 pp. 31-32

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