I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

一般法則と個別事例

一般法則の話を個別の話に当てはめているのに,個別の話だけで論じようとして混同してしまう人も,因果関係の議論の際によく見かける。実在世界と言語世界の混乱であり,科学の仕組みとヒュームの問題を知らないためである。また,ヒュームの問題により,たとえ要素還元主義やメカニズムを追求する場合であっても,原因と考える出来事と結果と考える出来事との間で,データに基づいて推論を行わねばならないことも分かる。
 ヒュームの問題は250年ほど前に指摘された。20世紀にはラッセルがヒュームを広く紹介した。ところが,日本ではいまだに,ヒュームの問題が踏まえられていないことが多く,この弊害は非常に大きいと思う。原因という出来事と結果という出来事は実在世界に属する。しかし因果関係は言語世界に属する。因果を日常生活や科学に生かすためには,このことを頭にたたき込み,言語世界の因果関係を描き出す語彙を持つ必要がある。そうでないと因果関係は描けないし,描かれた因果関係も理解できない。従って妥当な判断もできない。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.101-102

因果関係の証明

研究者たちは因果関係があると言うために,証明をして示さねばならないと思っている。しかし具体的な証明方法を知らない場合には,因果関係がないかのようになってしまう。因果関係が分からないでとどめればいいのに,因果関係がないのと同じにしてしまう。だが,観察されたデータから因果関係の有無を推論するのなら,因果関係がないことも証明する必要がある。そして,「因果関係がない」と証明することはしばしば困難を伴う。今は因果影響がないと思える1に近いリスク比でも,もっと対象者を増加させ観察を繰り返していたら,誤差の変動に隠されていた微妙な因が影響が見えてくるかもしれない。いずれにせよ,その後さらに,定量的に描かれた因果関係の影響の測定結果から判断を導く作業が待っている。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.100-101

要素還元主義の悪用

要素還元主義は悪用される。JT(日本たばこ産業)を含む世界のタバコ会社は長年にわたり,タバコ喫煙と肺がんとの因果関係に関して「メカニズムがまだ証明されていない」と,因果関係を認めてこなかった。1990年代には,タバコに含まれている物質ベンツピレンが作用して,がん抑制遺伝子の157,248,273のコドンに変異が生じることが示された。更にこの変異は,人の肺がん遺伝子の通常位置でも発見された。それまでのタバコ会社の主張の路線を維持するなら,ここでタバコの発がん性を認めるのが筋だろう。
 しかしここまで示しても,JTを含むタバコ会社の多くは主張を一向に変えないため,「メカニズムがまだ証明されていない」という要素還元主義やメカニズムへのこだわりが,単なる逃げ口上に過ぎないことも分かってきた。さらに,海外のタバコ会社はMutagenesisという国際的医学雑誌の編集委員と組んで,前述した研究を目立たない一意見に過ぎないと葬ろうとした。これがタバコ会社の内部文書の公開で明らかになり,Lancetという有名医学雑誌に発表された。因果関係を明らかにしてほしくないという強い気持ちが入ると,目に見えないゆえに強引な論理が押し通されてしまう。要素還元主義は,時間稼ぎにはもってこいである。その間に,「正常な使い方をして明瞭な害のある唯一の商品」(米CDC長官の発言)であるタバコを売りまくってしまえる。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.52-53

認めない人

医学研究で人間を観察対象にした研究方法論や因果関係論の発達により,今日では人間を観察し,人間レベルの仮設を立て,人間を単位として分析する方法論が十分に可能になり,簡単に利用できるようになってきている。従って,医学領域では研究に実験が必要という状況ではなくなっている。その一方で,治験や臨床研究ですら科学や医学研究と見なさない医学研究者もいまだにいる。人間も臨床も肉眼レベルの判断は実に多いので,このままでは「科学的根拠に基づいた医療」などできなくなることになる。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.45-46

科学の文法

ともあれ,観察という実在世界の事柄,理論(一般法則)という言語世界の事柄,この2つを結ぶ構造を科学は持っている。ばらばらと起こる現象をまとめ上げ,理論や一般法則として言語化するのは統計の役割なので,統計学は科学の文法と呼ばれる。これにより我々は一般化され言語化された理論を構築し,それを個別の事象に適用させることが出来る。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.34

科学は中立ではない

現代では,科学的観察は白紙の状態で行うのではなく仮説を元に行う。そもそも何ものにも影響されずに自然を観察することなどほとんど不可能である。この点は,科学ではきわめて重要である。観察とか証拠というものは,理論の影響から自由ではない。
 我々は何らかの目的を持って事柄を検証している。心の中で何らかのアイデア(観念)を伴って事柄を検証しているのである。科学的観察は常に理論負荷的であると言われ,観察事実は理論を前提としていて,その理論の影響からは逃れられない。こんなことを勉強すると,大学でよく耳にした「心を真っ白にしてデータを見なさい」とか「科学は中立だ」などという教授たちのセリフに対して,ひと言文句でも言いたくなる。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.29-30

何が「直接的証拠」か

一方,IARCは,
 「ある特定の物質が人体に対して発がん性を示すかどうか?」という問いに対する,間接的というよりもむしろ直接的な答えは,疫学的方法を使った人体に関する研究からのみ得られ,疫学は,症例報告,もしくは統計を使った探索的な研究結果や動物実験結果に動機づけて行われる」
 と,すでに1990年にはっきりと述べている。つまりIARCは,疫学を直接的,動物実験を間接的であると言っているのだ。この考え方は,人における発がん物質の分類をIARCが1960年代末に始めて以来の一貫した考え方である。IARCで評価される疫学研究は,観察研究が大部分を占める。
 多くの日本の医師や研究者が考える「直接的」と「間接的」が,IARCでは入れ替わっており,何を直接証拠と考えるかについて真逆であると言ってよい。日本の研究者は操作性を「直接」とし,IARCは対象を「直接」と言っているとも解釈できる。もちろん科学的証拠であることに直接関連するのは,後者の「直接」である。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.15-16

形式ではない

さて,疫学研究で得られるデータとその分析が応用のために信頼できるかどうかを,妥当性という言葉を用いて説明することが多い。妥当性は,内的妥当性と外的妥当性とに分けられる。外的妥当性は,一般化可能性とか応用可能性と呼ばれることがある。内的妥当性の追求が科学の整合性(論理的な説明)を求める一方,外的妥当性は応用可能性を求める。
 医学研究における動物実験は,うまくいけば内的妥当性はそこそこあるが,人への外的妥当性は全くないかほとんどない。ピロリ菌による発がん性を動物実験で示そうが示すまいが,「それでどうしたの?動物と人間とでは違うよ」と一言で片付けられる危険性が常にある。動物実験の結果を人間に適用可能であると言うすべを,動物実験は持っていない。一方,応用可能性を追求しすぎて内的妥当性が全くなければデータは信用できない。両方の妥当性を十分に満たすことは困難だが,どちらかが完全に欠けているのはまずいのだ。内的妥当性を追求して,実験ばかりするのでは困る。特に医学の応用目的では人間での観察が可能なら観察研究を検討する必要がある。実験は内的妥当性を上げるための形式の1つに過ぎない。科学研究の目的は,形式を整えることではない。この場合の目的は,あくまでも因果推論である。目的を見失ってはならない。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.12

因果関係とは

因果関係とは,原因と結果の関係である。自然科学における因果関係の推論とは,原因と考える要因(出来事)と結果と考える出来事との関係を,実験か観察で得られたデータを用いて推論することである。本書で説明するように,因果関係自体は直接認識できないので,「推論」がついて回る。つまり,原因と結果に関するデータを得て,そのデータに基づいて思考し,因果関係があるのか因果関係がないのかを推論するのである。さらに,あるとすればその因果関係はどの程度の影響を与えるものなのか,それは無視できるのか,対策が必要なのか,どの程度役に立つと言えるのか,商品化可能なのかを考えたりもする。ちなみに,私の専門分野の疫学では原因を暴露と呼び,結果を病気と呼ぶことが多い。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.10-11

壊す

敵を発見し,敵を吊るす——。
 社会はいま,こうした憎悪と不寛容の回路の中で動いている。
 そうした時代とどう向き合っていくべきか。
 法規制をしても,言葉を取り締まっても,おそらく人の住む世に差別は残る。
 だが,そこで思考停止してしまうことだけは避けたい。
 何度でも繰り返す。
 ヘイトスピーチは人を壊す。地域を壊す。そして社会を壊す。
 生きていくために,私たちはそれと闘っていかなければならないのだと私は強く思う。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.265-266

counter

Top

twitter

AdMax

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS /  /