I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「金融・経済」の記事一覧

一発逆転

 宝クジを購入する動機には,このような資産蓄積の仕組みが背景にある,と思われる。購入者にとって重要なのは,平均還付という仮想的な金額(期待値)ではなく,このような資産蓄積が不可能な状況下での生存中における「一発逆転の可能性」なのではないだろうか。つまり,不確実性下の選択というのは,各自の生きている社会の構造と不可分なのである。
小島寛之 (2005). 使える!確率的思考 筑摩書房 pp. 215

多数の商品メニュー

 貨幣を保有することは,将来手に入れることのできる「多数の商品メニュー」を手にしているのと同じである。もちろん,他にも多少融通の効く商品はある。デパートの商品券を保有すれば,デパートで売っている商品とは何でも交換できる。そういう意味では商品券も流動性を持っている。しかし,デパートにない商品とは交換するのが困難である。チケットショップで換金すればいいが,時間がかかるうえ,額面をディスカウントされてしまう。だから商品券の流動性は貨幣に比べて限定的なのである。
小島寛之 (2005). 使える!確率的思考 筑摩書房 pp. 207

ビッグ・ファイブ

 アップル,アルファベット(グーグルの持株会社),マイクロソフト,アマゾン・ドット・コム,フェイスブックのIT企業「ビッグ5」は,収益力や成長性を反映する時価総額の大きさに加え,データや技術,人材など多方面でニュー・モノポリー(新たな寡占)を形成しつつあるといわれます。デジタル革命の波に乗るこうした巨大企業の文化が,かつて産業界に君臨した巨大企業(たとえばGEやIBM)の文化とかなり異なるであろうことは,容易に想像できます。
植村修一 (2018). “社風”の正体 日本経済新聞社 pp. 212

銀行の種類

 ちなみに,ウォール街に関する作品の舞台になる金融機関は,主に投資銀行です。銀行の名前がついていますが,投資銀行(investment bank)は,日本の銀行の主な業務である預金・貸出は行わず,主に大企業や機関投資家,政府などを相手に,株式や債券の発行引受けや資金調達・M&Aの助言,さらに市場でも為替を含むディーリング業務などを行っています。商業銀行(commercial bank,日本の銀行のイメージに近い)に比べ,少人数で多額の資金を動かし,従業員の報酬も高いとされます(その代わりスタッフの地位は不安定)。投資銀行と商業銀行では,企業文化がかなり違います。
植村修一 (2018). “社風”の正体 日本経済新聞社 pp. 189-190

後継者不足

 そうした中,同じく「2016年後継者問題に関する企業の実態調査」(サンプルは社長分析と異なる)では,国内企業の3分の2にあたる66.1%が後継者不足で,14年の前回調査に比べ,0.7%ポイント上昇しています。社長年齢が若い企業で後継者が不足なのはわかりますが,60歳代で54.3%,70歳代で43.3%,80歳代でも実に34.7%と,高齢層で驚くほどの高さとなっています。
植村修一 (2018). “社風”の正体 日本経済新聞社 pp. 68

派手な宣伝

 だが今日では,派手な宣伝をすることがベンチャーキャピタルビジネスの要になった。新たな企業がたくさん生まれ,新たな資金がふんだんに流れ込む中,ベンチャーキャピタルも,注目を集めなくてはとプレッシャーを感じているのだ。だからスタートアップ企業のようなおかしな動画をつくり,広報担当者を雇い,ブログやポッドキャストを立ち上げて,元ジャーナリストを雇って運営させる。毎年,シリコンバレーで大金を稼いでいるのは,一握りの企業だけだ。ベンチャーキャピタルたるもの,そうした企業にお金を預けなくてはならない。だが,そんな契約に至るのは,簡単なことじゃない。投資家は実のところ,おいしい契約を目指して,競い合わなくちゃいけないのだ。どうすればあの起業家にお金を受け取ってもらえるだろう?どうすれば目立つだろう?それには,話題づくりが必須だ。
ダン・ライオンズ 長澤あかね(訳) (2017). スタートアップ・バブル:愚かな投資家と幼稚な起業家 講談社 pp. 284

大事なのはビジネスモデル

 そしてもう一つ,私が新しい仕事で学んでいることがある。それは,いまだにこのビジネスは「テクノロジー業界」と呼ばれているが,実のところ,もはやテクノロジーが主役ではない,ということ。「素晴らしいテクノロジーを開発すれば報われる,という時代は終わった」というのは,ある友人の弁だ。彼は1980年代からこの業界で働いてきた元投資銀行家で,今はスタートアップ企業に助言している。「大事なのはビジネスモデルさ。市場は,一気に大きくなる企業の創業者にお金を払う。大事なのは,速く大きくなること。もうけるな,ひたすら大きくなれ,とね」
ダン・ライオンズ 長澤あかね(訳) (2017). スタートアップ・バブル:愚かな投資家と幼稚な起業家 講談社 pp. 179

ダムマネー

 シリコンバレーの新たな投資家の中には,ハリウッドセレブやポップスターなど,ウォール街が「愚かな投資家(ダムマネー)」と呼ぶ人々も含まれている。だがある意味,誰も彼もがダムマネーだ。何がものになり,どの企業が成功するかなど,誰にもわからないのだから。投資家の中には,お金をただ至るところにまき散らしている人もいる。これは,「ばらまいて祈る(スプレー&プレー)」と呼ばれるやり方だ。1発が運よく次のフェイスブックに当たって,残りの不発弾を補ってあまりある利益をもたらしてくれることを祈ろう,ってわけだ。ベンチャー投資家にとって最大の利益は,悪い馬に賭けることじゃない。よい馬に賭けるチャンスを逃すことなのだ。
 起業家の多くも,投資家に負けないくらい未熟で経験不足だ。どんな商品やサービスをつくるつもりか自分でもわからぬまま,資金を調達する者もいる。多くは会社経営の経験がなく,働いた経験すらない者もいる。おまけに,こうしたスタートアップ企業の創業者には,どこかいかがわしい人物も多い。かつてIT産業を動かしていたのは,エンジニアとMBA(経営学修士号)取得者だったが,今業界に息づいているのは,道徳心の薄いやり手の若者たちだ。
ダン・ライオンズ 長澤あかね(訳) (2017). スタートアップ・バブル:愚かな投資家と幼稚な起業家 講談社 pp. 50

資金調達可能

 今や誰もが次のフェイスブックを見つけようとして,ITをめぐる新たな狂乱が生まれつつある。毎週末を過ごす東海岸では,「サンフランシスコのベイエリアあたりは,ちょっぴち浮ついてきてるな」という漠然とした感覚しか持てないが,サンフランシスコに戻ると,その感覚は揺るぎないものとなる至るところにお金が転がっているのだ。
 中途半端なアイデアしかないパーカー姿の大学中退者でも,投資資金を調達できる。スクーターのレンタル,グリルドチーズサンドイッチ,毎月会員に犬のグッズを適当に送る会社……どこもかしこも資金を集めている。
ダン・ライオンズ 長澤あかね(訳) (2017). スタートアップ・バブル:愚かな投資家と幼稚な起業家 講談社 pp. 45

選好と寄与

 最も単純なモデルは,次のように記述できる。何らかの母集団の統計値に個人は2通りの方法で関与する。第1は,その統計値について何らかの選好を持つこと。第2は,その統計値に何らかの寄与をすることである。ふつう,両者は別々のものである。つまり,中年であることと中年の人と仲よくなりたいかどうかは別問題だし,金持ちであることと金持ちと付き合いたいかどうかは別問題だ。とはいえ両者の間に相関関係が存在することもある。


 相関性が存在しないなら,選好が同じだという理由で集まった人たちは,母集団のサンプルにすぎない。この人たちには,その選好以外には集団を形成する理由が何もない。


 選好と寄与が負の相関関係にあるときは,回帰する傾向が見られる。つまり,ある集団の何らかの統計値が平均から乖離していずれかの極値に寄っているとき,この集団は,反対の極値に寄っている集団に合流する傾向を示し,後者も前者に合流する傾向を示す。たとえば,太った人は痩せた人と,痩せた人は太った人と一緒にいたい,というふうに。この場合,太った人と痩せた人を分離しようとしても,持続しない。


 選考と寄与に正の相関関係が成り立つ場合には,分離が発生しうる。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 215-216


椅子取りゲーム

 経済学では,所得と成長,通貨供給量と信用,インフレ,国際収支,資本市場,公的債務の分析にこうした「会計報告」の類いが欠かせない。これらの数字は(分析目的でデータを収集する人に比べると),実施に経済活動に従事している人にとっては,往々にして把握しにくい。


 この状況は,別々の部屋にたくさんの椅子が置かれて大勢のプレーヤーが繰り広げる椅子取りゲームに似ている。人々は個別に行動しており,気づかれないうちに椅子が取り除かれたり,新しいプレーヤーが加わって新たな椅子が追加されたりする。プレーヤーにわかっているのは,すばやくやらないと,音楽が止まったときに坐る椅子がなくて退場させられてしまうことだけだ。だから誰もがせかせかし,のろくさい人がいると苛立つ。椅子の数が人の数より少ないことがつねに頭から離れないからだ。いかにうまくやろうと,音楽が止まったときに必ず何人かは椅子なしになること,どれほど俊敏でも,椅子なしになる人数は変わらないこともわかっている。椅子なしの人を退場させたとき,椅子を減らすのではなく退場者と同数のプレーヤーを加えていけば,退場までにプレーする平均回数を計算することができる。椅子取りが非常にうまくて最後まで退場させられないプレーヤーがいようと,初回で姿を消すプレーヤーがいようと関係なく,平均は数学的に求められる。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 49-50


個別からの一般化

 社会科学の中でも経済学は,このように個別の例からの一般化が重要な役割を果たす。それは経済学が,価値が等しいものの交換を主に扱うことと関係がある。私が自転車を買うとしよう。私は自転車を手に入れて150ドルがなくなる。自転車屋は自転車がなくなって150ドルを手に入れる。自転車屋の主人は,そのうち90ドルを次の自転車の仕入れに,40ドルを家賃,給料,電気代などに充てる。そして20ドルが利益として自転車屋のものになる。仕入れに支払われた90ドルは,さらに部品,組立工場の賃金,賃貸料,電気代などに充てられ,電気代は燃料,人件費,発電所建設に伴う借入金の金利,配当,税金などに充てられる。こんな具合に他の項目についても内訳を調べることが可能だ。こうしてすべての項目を調べ上げて会計報告をしようとすると,私が自転車に支払った150ドルから生じる利益(所得税・利益課税・社会保障給与税を含む)を150ドルになるまで足さなければならないことがわかる。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 48-49


重なり合い連動する

 情報ネットワーク,人種の分離,結婚,言語の発達などは,往々にして重なり合い,互いに連動する。小売店やタクシー会社やモーテルの従業員を見ると,均質であることが多い。アイルランド人であれ,イタリア人,キューバ人,プエルトリコ人であれ,あるいは白人または黒人であれ,プロテスタントまたはカトリックであれ,均質であるということは,何らかの目的や設計の存在を示唆する。だが決定因は情報ネットワークである可能性が高い。空きポストに採用されるのは,空きポストが出たことを知っている人だ。空きポストが出たことは,その会社で働いている知人から教えてもらった。その人と知り合ったのは,同じ学校出身だから,近所に住んでいるから,家族を介して,教会あるいはクラブが同じだから,といった具合である。しかも以前から社員による推薦は,新規採用者が望みうる最善の保証に近い。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 40


クリスマスカードの市場

 クリスマスカードの「自由市場」がなぜ最適の交換に行き着かないのかを疑問に思うなら,答はこうだ。市場ではないのだから,最適な結果を期待する理由がそもそもないのである。自由市場がうまく機能しているとすれば,それは,売買可能な商品を,情報が入手可能な状況で,自由意志に基づいて取引しているという特殊なケースである。天体にしても,ごく特殊な惑星に限れば円軌道を描いている。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 31


最強の社会科学

 経済モデルは人間の行動に関する誤った認識に基づいてつくられているが,皮肉にも,そうしたモデルがあるおかげで,経済学は最強の社会科学とされている。経済学が最強と言われる理由は2つある。1つ目の理由に議論の余地はない。公共政策への提言においては,経済学者はどの社会科学者よりも強い影響力を持っているからだ。なるほど政策提言は経済学者の独壇場だと言っていい。ごく最近まで,他の社会科学者が政策について議論する場に呼ばれることはめったになく,たとえ呼ばれたところで,親族が集まる場で子どもの席に座らされるような扱いを受けた。


 もう1つの理由は,経済学は知性の面でも最強の社会科学だと考えられているからである。経済学には核となる統一理論があり,それ以外のほとんどすべてのことがその理論から導かれる。それが最強とされるゆえんだ。あなたが「経済理論」という言葉を使うと,それが何を意味するのか,周りの人にはわかる。そのような土台を持っている社会科学は他にない。他の社会科学の場合はむしろ,理論の目的が特定の分野に限られる傾向がある。特定の環境下で何が起こるかを説明するためのものだ。実際,経済学者はよく,経済学を物理学になぞらえる。物理学と同じように,経済学ではいくつかの核となる前提が設定され,その前提の下で理論が展開されている。



リチャード・セイラー 遠藤真美(訳) (2016). 行動経済学の逆襲 早川書房 pp.22-23


権力の分散

権力が分散され,より適切なバランスになれば,善きにつけ悪しきにつけ1人の人間が途方もないことを1人で決めるような事態は減るはずだ。しかしこのアプローチがこれまでほとんど無視されてきた一方で,よきリーダーを求める声がますます強まっているのは興味深い。だが望むだけでは職場は改善されず,リーダーのクオリティも向上しない。

ジェフリー・フェファー 村井章子(訳) (2016). 悪いヤツほど出世する 日本経済新聞社 pp.255

セルフサービングバイアス

ある調査によれば,経営者というものは,高業績は自分の実力だと自画自賛し,業績不振は自分ではどうにもならない外部要因や前任者やマクロ経済環境のせいにするという。なかには,現場の営業に責任を転嫁する経営者もいる。うちの会社は人件費が高すぎるから,人間が多すぎるから競争力がないのだと言う経営者は,現場で実際に仕事をしている社員のコストを削ることしか考えていないらしい。

ジェフリー・フェファー 村井章子(訳) (2016). 悪いヤツほど出世する 日本経済新聞社 pp.228-229

心理的麻痺

人びとが動物の扱いについてどう思っているか本当に知りたいなら,カネの動きを見ればいい。アメリカ人は動物保護団体に対し,年間20億ドルから30億ドルを寄付している。すさまじい金額だと思うだろう?でも,動物を殺すのにかけている金額と比べたら”雀の涙”だ。食肉に1670億ドル,ハンティング用品や機材,旅費に250億ドル,害獣駆除に90億ドル,毛皮衣料に16億ドル,計2026億ドル也。もちろん,自分が知りもしない人間以外の生きものの福祉を拡充しようという動物保護団体に寄付する金額よりは,自分のペットの幸福や健康のために投じる金額のほうがはるかに多い。このことは人間性の根底を流れるいくつかの原理にぴたりと重なる。ひとつは,すっかり定着した進化の法則,すなわち「家族優先」だ。ペットはいまや多くの家庭において家族の一員と考えられているのだ。
 もうひとつは,オレゴン大学の認知心理学者ポール・スロヴィックが「心理的麻痺」と呼んでいる現象だ。つまり,悲劇が大きければ大きいほど,人びとはよりその悲劇を気にかけなくなるようなのだ。たとえば,病気の子どもひとりを救うために寄付してもいいと人びとが考える金額は,病気の子ども8人のグループを救うために寄付していいと考える金額の二倍だと言われる。もっとたくさんの人が苦しんでいるとなると,人間の無関心はさらに拡大する。『ニューヨーク・タイムズ』紙のコラムニスト,ニコラス・クリストフが指摘したように,五番街にあるリッチな分譲マンションに巣くった一羽のアカオノスリ(=赤茶けた尾羽を持つ北米産のタカの仲間)が追い払われそうになったとき,ニューヨーク市民の怒りはそれこそ怒髪天を衝くがごときだったのに,スーダンで故郷を追われた200万人の窮状についてはほとんど怒りの声をあげることもなかったおいう事実は,この心理的麻痺の考え方を使って説明できる。スロヴィックは,圧倒的な人数を前に人間が無関心になる現象を「共感の崩壊」と呼んでいる。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.316-317

組織内習慣

この2人の著者は10年以上かけて,企業がどう機能しているかを研究し,膨大なデータの沼地をじわじわと進みながら,主として次のような結論に達した。彼らの本によると「企業の行為の多くは決断という木の先にある小枝をじっくり観察した結果ではなく,概してその企業の過去に由来する全般的な習慣と戦略的対応の反映だと理解される」という。
 これを理論経済学には縁のない人間にもわかりやすい言い方をすると「大半の企業が慎重な意思決定にもとづいて合理的な選択をしているように見えるかもしれないが,実際はそうではない」ということだ。むしろ,企業は長年続いてきた組織内習慣によって導かれている。数千人の従業員それぞれの決定から生まれたパターンだ。そしてこの習慣の影響力がどれほど大きいか,それまで誰も理解していなかった。

チャールズ・デュヒッグ 度会圭子(訳) (2013). 習慣の力 The Power of Habit 講談社 pp.225-226

ストックとフロー

経済学に「ストック」と「フロー」という考え方がある。人口の動向に関していえば,ストックとは自然増減に関すること,フローとは社会増減に関することと言い換えることができるだろう。これに照らすと,少子化とは「ストック」の問題である。
 ストックをこれ以上減らさないために少子化の流れを変えないと,日本の未来が危ういということに異論はない。しかし,この難題に一地方公共団体が対応できる範囲には限界がある。その一方で,魅力あるまちづくりを通じ,社会増を生み出すというフローへの対応は,どこだろうと努力次第で成果をあげることができる。
 少子化のような問題は,国家施策としてのストックの課題への対応と,地方施策としてのフローの課題への対応が両立したとき,はじめてバランスのとれた答えを導き出すことができる。逆に,これらの課題を混同したり,取り違えたりしてしまうと,思わぬ落とし穴にはまり込んでしまう。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.35-36

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