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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「金融・経済」の記事一覧

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中国で売る

前述のように,中国市場でのラッコ毛皮の価値を世界に知らしめたのは,キャプテン・クックの第三次航海だった。クックの驚異的な大航海の意義は,イギリス帝国史のなかでもっと重視されるべきだが,ここではそのごく一部にしか触れえない。1778年にクックのリゾリューション号とディスカヴァリー号は,ヴァンクーヴァー島の西岸ヌートカ湾に1カ月滞在した。船員たちは滞在中に先住民から,ラッコの毛皮を何枚か,1シリングほどの金物と交換で入手した。翌年末に,クックを失った探検隊が広州へ寄港した際,彼らはラッコの毛皮が途方もない高値(90ポンド)で売れるのに驚かされた。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.116
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オーケイディアン

地の果てのハドソン湾で働こうとするイギリス人は少なかったから,初期の労働者の多くは,ロンドンの失業者から引きぬかれている。道徳的な腐敗で悪名高い彼らは,会社が求める規律になじもうとはしなかった。早くも1682年に総督ジョン・ニクソンは本社に宛て,イギリスから送られてくる労働者が大酒飲みの荒くれ者ばかりだと指摘し,堕落に染まっていない純朴な田舎の若者を派遣するよう求めている(HBRS, VIII, p.250)。解決策として導入されたのが,年季奉公制度(アプレンティス)だった。この制度のもとで,14歳ほどの少年が7年後の年季奉公契約を結び,下級労働者としてハドソン湾に送られるようになる。スコットランドの北に浮かぶオークニー諸島が,絶好の労働者供給源となった。零細な漁業と農業に依存していた島の少年たちは,ハドソン湾での過酷な自然と労働によく適応した。「オーケイディアン」と呼ばれた彼らは,やがてハドソン湾で働く労働力の4分の3をも占める最大の民族グループとなる(Van Kirk, 1980, pp.10-11; Williams, 1983, pp.25, 40)。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.51

商売上手

インディアンは交易品の品質を厳しく吟味し,不満があれば取引を拒否してフランス人の交易者に毛皮を持ちこんだ。インディアンに拒否されて銃製造業者に返送された不良品は,1679年に43挺,81年に122挺に達する。このためロンドン委員会は,イギリスの銃製造業者に注文を出す前に,しばしばサンプルの提出を求め,製品には商標を刻印して責任を命じさせている(HBRS, VIII, pp.25, 31, 47)。交易所での在庫が増大すると,長期保存による品質低下が生じ,とりわけ銃の錆と,火薬の劣化は深刻だった(HBRS, XI, p.125; HBRS, XX, p.61)。インディアンからの苦情による返品の無駄を防ぐため,鉄砲職人や鍛冶工が交易所に配置された。英仏どちらの交易品が優秀だったかについては,研究者の間で長い論争がある(Eccles, 1979, pp.429-434)。実際のところ,品質の優劣は製品による差異が大きく,一概にどちらが優秀だったとはいえない。だが火打ち石と火薬は明らかにフランス製が優れており,ハドソン湾会社が外国から輸入する交易品では,火打ち石とブラジル・タバコがもっとも重要だった。毛皮交易におけるインディアンは,英仏間の競争を巧みに利用し,高い品質と有利な交易条件を主張するしたたかな「商売上手」だったのである。彼らがヨーロッパ製品の魅力の前にたちまち屈服したとの通説は,アーサー・レイが強調するように,研究者が作り上げた「神話」にすぎない(Ray, 1980, pp.267-268)。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.38

交易品

インディアンとの交渉の中で,徐々に標準的な交易品となったのは,銃とその付属品,斧,ナイフ,ヤカン,毛布,ブラジル・タバコ,ブランデー,ビーズなどである。タバコ1つをとっても,最初に提供されたのはヴァージニア・タバコだったが,1685年からはフランスの例にならって,ポルトガルから輸入したブラジル・タバコが使われるようになる。ロープ状に巻かれ,独特の香りを持つブラジル・タバコを,インディアンが「魔法の草」として珍重したからである。1708年と15年にポルトガルからの輸入が途絶すると,ハドソン湾会社はオランダ商人を通じ2倍以上の高値でブラジル・タバコを購入している。ブランデーは,オルバニーでは1698年から,ヨークでは1718年から主要な交易品として帳簿に記載され始めた。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.37-38

ファクトリー・システム

彼らとは対照的に,ハドソン湾会社は湾に流れこむ主要河川の河口に恒久的な交易所を建設して交易者を常駐させ,インディアンがカヌーや犬橇で毛皮を運びこむのを待つことに徹しようとした。未知の内陸へ進出するために必要な知識や技能を,イギリス人はまだ持ちあわせていなかった。彼らはビーヴァーの捕獲や皮剥ぎもできず,冬場の壊血病予防策も知らなかった。内陸で不可欠の輸送手段であるカヌーを製作・操縦したり,モカシン靴,ミトン,カンジキなどを作る技術もなく,すべてを現地のインディアンに依存しなくてはならなかった。だとすれば危険を犯して内陸に乗りだすより,常設の交易所を設けて年中いつでもインディアンから毛皮を受け入れられるようにするほうが,危険もコストもずっと小さいと考えられたのである。1682年までにハドソン湾会社は,ルパーツ・ハウス(ルパート川河口)に続いて,ムース・ファクトリー(ムース川河口),オルバニー・ファクトリー(オルバニー川河口),そしてフォート・ネルソン(後にヨーク・ファクトリーと改称,ネルソン川とヘイズ川の合流点)と,4つの交易所を建設し,それぞれに20人から数十人を常駐させてインディアンの来訪を待った。この体制が「ファクトリー・システム」と呼ばれ,同社が本格的に内陸に進出し始める1770年代までほぼ100年間続けられることになる。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.24-25

儲かるベンチャーキャピタリストとは

 数年前,当時クレアモント大学院にいた心理学者のジェフ・スマート博士は,51人のベンチャーキャピタリストを対象にした研究を行った。ベンチャーキャピタリストたちは高いリスクを冒し,数億円を無名の新興企業に投資する。決算書や過去の業績を分析できる,ある程度確立した会社に投資するパブライ氏やクック氏たちとは違い,彼らは若く野心的な起業家が描く荒削りな夢に大金を賭けるのだ。起業家たちが掲示できるのは,1枚の紙に描かれた落書きや,ろくに動かない試作品だけ,ということも多い。だが,グーグルやアップルもそのようにして始まった。ベンチャーキャピタリストたちは,次のグーグルを見つけ,それを所有しようとしているのだ。
 彼らはいったいどうやって投資の判断をしているのだろう。スマート博士は調べてみた。アイデアの質が最も重要な判断材料なのだろうと私は思っていたが,そうではないらしい。実は,良い起業アイデアを見つけるのはそれほど難しくない。だが,良いアイデアを実現させられるような人物を見つけるのはとても難しいそうだ。アイデアを具体的な形にし,朝早くから夜遅くまで働き,プレッシャーや挫折に耐え抜き,人の問題にも物の問題にも対処し,何年間も努力を続けられるような人が望ましい。だが,そのような人材は希少で,運良く目の前に現れても,それに気づくのは難しい。
 スマート博士はベンチャーキャピタリストたちを研究し,彼らが人物を見分ける方法を十数種類に分類した。方法と言うより,流儀と言った方がいいかもしれない。まず,「美術評論家」タイプ。彼らは起業家を一目で判断する。美術の評論家が絵画を見る時のように,勘と長年の経験を元に一瞬で決める。「スポンジ」タイプは時間をかけて調べる。面接,会社の見学,資料などから,ありとあらゆる情報を吸収する。だが,結局最後は直感に任せる。あるスポンジタイプの投資家に言わせると,「調べるというより,時間をつぶすという感じかもしれない」そうだ。
 「検察官」タイプは起業家を問い詰める。難問を投げかけ,知識があるか,様々な状況にどう対応するかなどを試す。「八方美人」タイプは,審査よりも,起業家に好かれることに専念してしまう。「ターミネーター」タイプは,起業家を評価するのは無理だと考え,人物の審査をしない。とにかく一番よいアイデアに投資し,経営者が無能だと思えば,すぐにクビにして代わりを雇う。
 そして「機長」タイプ。彼らは過去のミスや同業者の失敗を分析してチェックリストを作り,それを使って丁寧に仕事をする。この人なら絶対に成功すると直感的に思っても,自分を律し,手順を絶対に飛ばさない。
 スマート博士がベンチャーキャピタリストたちの成績を追ってみると,あるタイプが飛びぬけて好成績を収めていた。ここまで本書を読んでくださった方々ならば,どのタイプかおわかりだろう。機長タイプの成績が突出していた。彼らが不適任を理由に経営者をクビにする,または当初の評価は間違いだったと結論付ける確率はわずか10%,他のタイプでは50%以上だった。
 収益にも大きな差があった。機長タイプの投資リターン率の中央値は80%だったが,他タイプは35%以下だった。決して他タイプの成績が悪かったわけではない。きっと彼らの経験がものをいったのだろう。だが,経験にチェックリストが加わると,断然良い成績をあげられるのだ。

アトゥール・ガワンデ 吉田 竜(訳) (2011). アナタはなぜチェックリスト使わないのか?:重大な局面で“正しい決断”をする方法 晋遊舎 pp.195-197

損を防ぐ

 人間も含めてあらゆる動物は,得をするより損を防ぐことに熱心である。縄張りを持つ動物の場合,たいていは防衛側が勝つことは,この原則で説明できる。ある生物学者の観察によれば,「縄張りを脅かそうとする侵入者が現れた場合,ほぼまちがいなく縄張りの主の勝利に終わる。それも数秒以内に決着がつく」という。人間の場合には,組織改革を試みたときに起こりがちな顛末を,この原則で説明できるだろう。たとえば企業の再編やリストラ,事務手続きの合理化,税法の簡素化,医療費の削減などがこれに当たる。はじめからわかっていることだが,改革というものはまず必ず,全体としてみれば改善であっても,大勢の勝ち組をつくる一方で,一部に負け組を生む。だが改革で不利益を被る人たちが政治的な影響力を持っている場合,潜在的な負け組は潜在的な勝ち組よりも積極的に,かつ強い決意をもって,その影響力を行使する。すると結果的にはこの人たちに好都合な改革になり,当初の計画より費用は高く効果は低い,ということになりやすい。改革案には,現材の利権保有者を保護する既得権条項が盛り込まれることが多い。たとえば人員を減らす場合には解雇ではなく自然減を選ぶとか,給与・福利厚生のカットは今後の新入社員にのみ適用する,といった具合である。

ダニエル・カーネマン 村井章子(訳) (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるのか(下) pp.109

目標

 私たちはよく短期目標を立てる。目標というものは,がんばって達成しなければならないが,必ずしも上回る必要はない。だから首尾よく達成すると私たちは気を抜いてしまう。これはときに経済学の理論に反する結果を招く。たとえばニューヨークのタクシー運転手は,月次目標や年次目標を立てているかもしれないが,とりあえず日々の努力を左右するのは毎日の売上目標である。しかしこの目標は,達成が容易な日もあれば難しい日もある。雨の日には客を探す必要はほとんどなく,早い時間にあっさり目標を達成できるだろう。しかし天気のいい日には,町を流していても一向にお客がつかまらないことが多い。すると経済学の論理では,運転手は雨の日には長時間がんばって働き,晴れた日に休暇をとるべきだということになる。晴れた日は売上げが少ないので,安く休暇を「買う」ことができるからだ。しかし損失回避の論理からすればまったく逆である。売上目標(=参照点)が決まっている運転手は,達成できなければ損失なので,晴れた日はこれを避けるべくがんばって働く。雨の日は,目標を達成したら,ずぶぬれになってタクシーを探すお客を尻目にさっさと家に帰ることになる。

ダニエル・カーネマン 村井章子(訳) (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるのか(下) pp.106

不合理

 ある学問や研究手法がいつから始まったのかをはっきりさせるのは,かなり難しい。だが行動経済学として知られている学問がいつどのように始まったのかは,はっきりわかっている。それは1970年代初めに,経済学科の大学院生だったリチャード・セイラーが正統的でない考えを抱き始めたときだった。当時セイラーは,正統中の正統であるロチェスター大学の大学院に在籍していたが,生来鋭い基地と皮肉に富む性格だったため,合理的経済主体モデルでは説明できないような事例を集めてはおもしろがっていた。セイラーにとってとりわけ愉快だったのは,教授陣のふるまいに経済的不合理性を発見したときである。なかでもひどく目に引くものが1つあった。
 それは,R教授(いまではこれはリチャード・ロゼット教授であることが判明している。ロゼット教授はのちにシカゴ大学ビジネススクールの院長になった)のふるまいである。R教授は標準的な経済理論の頑固な信者であり,かつ,大のワイン好きだった。セイラーの観察によると,教授はコレクションしたワインを売りたがらず,100ドル(それも1975年のドルで)出すと言われてようやく渋々売るのだった。しかし教授はオークションでワインを買うときに,35ドル以上はけっして出さない。つまり35〜100ドルの間では,教授はワインを買いもしないし売りもしない。この大きな差は,どうみても経済理論に反する。教授は1本のワインに1つの価値を与えるべきである。もしあるワインが教授にとって50ドルの価値があるなら,50ドルを上回る値段を提示されたときに売らなければおかしい。またもしそのワインが売りに出ていたら,50ドルまで払って手に入れてしかるべきである。これ以上なら売ってもよいという値段は同一のはずだ。ところが実際には,教授が売ってもいいと思う最低価格は100ドルであり,買ってもいいと思う最高価格の35ドルを大幅に上回る。どうやら,持っているだけで価値が高まるらしい。
 セイラーはこのような例を多数集め,「保有効果(endowment effect)」と名付けた。「授かり効果」と呼ばれることもある。この効果は,正規の取引が行われない品物にとりわけ顕著に現れる。そうした状況は,容易に思いつく。たとえば,あなたは人気バンドのコンサートのチケットを手に入れたとしよう。もともとこのバンドの大ファンなので,500ドルぐらいなら出しても惜しくないと思っていたが,運よく正規料金の200ドルで買うことができた。その後にチケットは売り切れになり,インターネット上では3000ドル出すから売ってほしいという熱烈なファンがいることがわかる。さて,あなたは売るだろうか。もし他の大勢のチケット購入者と同じなら,売らないだろう。となると,あなたのチケットの最低売値は3000ドルよりも上,最高買値は500ドルということになる。これは保有効果の一例である。標準的な経済理論の信奉者なら頭を抱えるだろう。セイラーはこうした謎を説明できる理論を見つけようとした。

ダニエル・カーネマン 村井章子(訳) (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるのか(下) pp.91-93

This is an ex-parrot.

 2000年になってついに行動経済学者のマシュー・ラビンが,損失回避を富の効用で説明するのはばかげており,重大な誤りだということを数学的に証明した。そしてこの証明は注目を集めた。ラビンは,数学的に見れば,掛け金の小さい有利なギャンブルを拒否する人は,より掛け金の大きいギャンブルでばかばかしいほどリスク回避的になることを証明した。たとえばラビンは,大方のふつうの人間(ヒューマン)は,次のギャンブルには手を出さないと指摘した。

 50%の確率で100ドル失うが,50%の確率で200ドルもらえる。

 次にラビンは,効用理論に従えば,このギャンブルを断る人は次のギャンブルも断ることを証明した。

 50%の確率で200ドル失うが,50%の確率で2万ドルもらえる。

 だが正気だったら,このギャンブルを断るはずがない。マシュー・ラビンとリチャード・セイラーは,この証明に関する熱狂的な論文の中で,次のように述べている。後者のギャンブルの「期待リターンは9900ドルであり,200ドル以上損をする確率はゼロである。石橋を叩いても渡らないような法律家でさえ,このギャンブルを辞退する人は頭がおかしいと言うだろう」
 たぶん興奮しすぎたせいだろう,ラビンとセイラーはあの有名なコメディ・グループ,モンティ・パイソンからの引用で論文を締めくくっている。怒ったお客が死んだオウムをペットハウスに返そうとする。お客は長々と鳥の状態を説明した末に,「こいつは元オウムにすぎない」と言う。だから「経済学者はいい加減に,期待効用理論は元理論にすぎないと認めるべきだ」とラビンらは結論づけた。多くの経済学者は,この軽率な発言を許しがたい冒涜と感じたものである。だが理論に眩惑されて富の効用に執着し,わずかな損失に対する態度までそれで説明しようとする姿勢が揶揄の対象になったのは,当然といえば当然だった。

ダニエル・カーネマン 村井章子(訳) (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるのか(下) pp.81-82

金融業界のスキルの錯覚

 数年前,私は金融業界におけるスキルの錯覚をこの手で調べるという,めったにないチャンスに恵まれた。裕福な顧客向けに資産運用上の助言その他のサービスを提供する会社に呼ばれ,投資アドバイザー向けに講演をしてほしいと依頼されたことがきっかけである。準備のために資料がほしいと頼んだところ,思いがけない幸運に行き当たった。提供された資料の中にアドバイザー25名の投資成績8年分をまとめたスプレッドシートが入っていたのである。成績は数値化され,主にそれに基づいて年度末のボーナスが決まる。毎年の成績に従ってアドバイザーをランク付けすれば,アドバイザーに持続的な能力格差があるかどうかがわかるし,同じアドバイザーが一貫して好成績を収めているかどうかもチェックできる,と私は考えた。
 そこでこの点を調べるために,2年分の成績を1組にしてランキングの相関係数を計算することにした。1年目と2年目,1年目と3年目……7年目と8年目まで,28組のペアをつくり,それぞれについて相関係数を求めた。統計的に考えればスキルの存在を示す相関係数は低いだろうと予想してはいた。それでも結果が出たときには驚愕したものである。28個の相関係数の平均は0.01だった。つまりゼロである。アドバイザーの間にスキルの差があることを示す相関性は,どこにも見当たらなかった。私の計算結果は,アドバイザーの仕事が高度なスキルを要するゲームよりも,サイコロ投げに似ていることを示していた。
 その会社では,投資アドバイザーがやっているゲームの性質に誰も気づいていないようだった。アドバイザー自身,自分たちは難しい仕事をこなす有能なプロフェッショナルだと自負しており,上司もそれに同意していた。講演の前夜,リチャード・セイラーと私は同社の経営幹部数人と食事をした。ボーナスの決定をする人たちである。私たちは,投資アドバイザーの年ごとの成績相関はどの程度だと思うか,と質問してみた。彼らはこちらが何を言うつもりか想像がついたらしく,にやにやして「そんなに高くはないだろうね」「年ごとの変動が大きいと思う」と答えたものである。だが誰1人として,よもや相関係数がゼロであるとは予想していなかった。

ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.313-314

正しい判断へ

 社内のありとあらゆる「正解のない意思決定」について,正解がないのであればとりあえずランダムに決めてしまう,という選択肢の価値はもっと認められるべきだろう。ただ決定をランダムにすることと継続的にデータを採取することさえ心がければ,後で正確に「それがよかったのか」「どれぐらいの利益に繋がったのか」が評価できるのだから,少なくともそちらのほうがより確実に「正しい判断」へと近づく道になることもある。

西内 啓 (2013). 統計学が最強の学問である ダイヤモンド社 No.1421-1422/3361(Kindle)

日本経済のためになるか

 実は,ここまで個別企業の成長と実質的な経済の違いに言及してこなかったが,社会問題としてのブラック企業を考える上では,これが決定的に重要な視点である。なぜなら,一部の論者は「ブラック企業でも成長すれば日本経済のためになる」と主張しているからだ。ここまで見てきて明らかなように,ブラック企業がいくら成長しても,それは一時的なものでしかない。額面の上で大きな利益をたたき出したとしても,その後には使い捨てられた若者が横たわるのである。しかも,ブラック企業の「成長」それ自体が,日本の医療費等の直接的な,あるいは労使関係の信頼という間接的な財産を食いつぶして成立しており,実質的な意味では「一時的な成長」だということすらできない。したがって,本書で経済的な発展や成長の戦略を語るとき,それは実質的な意味での経済の発展のことを指しており,決して一時的な額面上での成長ではないことに留意していただきたい。
 一国の経済発展を考えるとき,それが持続可能な実質性を担保しているのか,それとも「数値のまやかし」であるのかは,決定的に重要なのである。経済成長も「質」が重要なのだ。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.176-177

絶え間のない否定

 これらハラスメント手法に共通するのは,努力しても何をしても罵られ,絶え間なく否定されるということである。人格破壊の非常に巧妙かつ洗練された手法だといえる。人格を破壊するようなハラスメントが横行しているがために,社員は「次は自分かもしれない」と怯え,緊張の糸を張り詰めながら仕事をしている。現在もこの企業で働くある女性社員によれば,会社支給の携帯電話が鳴るのが恐ろしかったという。彼女のかつての上司は些細なことにも激しく叱責する性質の人物で,電話中,相手の言葉が聞き取れずに聞き返しただけでも激怒したという。電話に応答すれば必ず怒られるのが分かっているから怖い。電話の1本にも戦々恐々としなければならない働き方が,この会社の常態なのである。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.38

女性雇用はコストか

 女子を採用し長期雇用することに対して,いまだに多くの企業は「コスト」と感じているのが,偽らざる気持ちだろう。なぜなら,女性に出産・育児による休業ブランクや,夫の転勤による異動希望・退職などがついてまわるからだ。
 とすると,企業の選択肢は以下の4点になる。
 1点は,これらのコストを払って採用しても,目に見えるメリットがある「女性向け産業」。マスコミや日用品メーカー・専門商社などが,これに当たるだろう。
 2点目が,コストの支払いに前向き(途中休業したとしても,長期雇用する対価が大きい)な長期熟練型産業。重工業と建設インフラ業がこれに当たる。これらの企業は,採用したからには,面倒見もよく,定着率も高い。ただし,超厳選で数をしぼる。
 3点目が,女性の総合職採用は控え,一般職でアシスタント的な任用を主流にする企業。ここには金融や総合商社が入る。ただし,昨今ではこうした業界でも女性の勤続年数は伸びている。その理由として,アシスタント的職務でも,「阿吽の呼吸」や「特殊な社内文化」などを理解する熟練者は,企業にとって重宝されるからだ。
 とりわけ,総合職の異動が激しい都銀や総合商社などでは,1つの部署に長く勤務し続ける庶務役の女性が,文化継承の要であったりもする。つまり,勤続者は歓迎される傾向にあるのだ。
 そして,こうしたアシスタント職の場合,ひとつの部署でひとつの仕事をこなし続けるために,休業したとしても,そのブランクが「将来のキャリア形成にマイナス」などとならない。数年休んでも戻ってきやすいというメリットとなる。そのため,最近では女子一般職の勤続年数が伸びているのだ(こうした一般職の有利さを知ると,ますます,総合職で男性同様にキャリアを築こうという気持ちが削がれるかもしれない)。
 そして最後の4点目が,ライフイベント(出産・育児)に達しない短期雇用のため,女性採用に躊躇しない業界。定着率が良くないために,出産適齢期まで残る女性が少ない産業だ。ここに分類されるのが,IT・コンサルとサービス・小売業。

海老原嗣生 (2012). 偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 朝日新聞出版 pp.136-137

企業内研究

 彼が達成したことのうち,アイデアとその実現が完全であったものがある。それは,企業内研究というアイデアを実業家と消費者に売り込んだことである。ウェストオレンジ研究所は,実験が生活の質を高め,企業と製造業者に無限の機会を与える場所だった。その産物に「テクノロジー」という威厳ある名称が与えられるまで数年が経過した。エジソンの研究所や機械ショップにはそのような言葉がまだなかった。彼が死んだときには,米産業界には数百もの研究所があった。1931年には1600もの企業内研究所が存在し,3万2000人もの職員が働いていた。ベル研究所などの有名な研究機関とともに,コーンフレークで有名なケロッグ社,チョコレートのハーシー社,そしてジェロー社などにも小さな研究施設があった。企業内研究の主唱者のねらいは単純だった。技術は善で制御可能であり,何よりも企業内研究は利益につながる,というものだった。そのテーマに関するさまざまな記事には,「研究——企業の医者」「企業科学——最良の保険」「研究によってなされる産業の進歩」「進歩の光としての研究」といった表題が付けられていた。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.389-390

産業界への貢献

 彼の米産業界への貢献は,ほとんど注意を払われてこなかった。企業内研究,すなわち古い製品を改良し新しい製品を探しだすための常設の研究施設というアイデアを生み出した栄誉は,エジソンに与えられなければならない。1920年代にはTAE社は,「発明とはエジソン研究所からの組織されたサービスである」と言うことができた。
 エジソンは企業内研究を管理し,研究所からもたらされる新しいアイデアと製品の流れのまわりに事業を組織するという方法をつくり出した。彼は技術研究にもとづく多角経営の先駆者だった。TAE社創設までには,音楽用蓄音機,口述用蓄音機,一次電池,蓄電池,セメントという5つの製品系列にもとづく企業連合ができ上がった。これは,デュポン社,GE社,RCA社といった企業によって採用された戦略であった。RCA社によれば,「研究と多角化はRCAビクター社の将来への計画的な投資であった」。
 経営者かつ組織設立者として,エジソンは失敗もした。彼が始めた多角化の方針は,彼の事業をつくり出し,また没落もさせた。多角化のために財源も研究所の人材と設備も,つねに限界まで追求された。結果として事業をどれか1つでも完全に支配することができなかった。だが1920年代まで,彼はつねに新領域に移ることで事業の破滅を避けることができた。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.389

人々の好みとの乖離

 第一次大戦の時代は,米国にとって社会変動の時代だった。趣味も価値も変化した。禁酒法も若い世代の情熱をおさえつけることはできなかった。大戦後の米国は新しいアイデアの時代であり,女性の裾が上がり紙が短くなったように新しいファッションの時代でもあった。音楽の趣味も劇的に変化した。「愛しのアデリーン」や「銀色の月光の下で」といった感傷的な愛好歌は,「アレグサンダーズ・ラグタイム・バンド」に道を譲っていた。戦時中に南部の米国人が北部の都市へ移住することで,多くの人々がニューオーリンズのスイング音楽に接するようになった。それにはすぐに「ジャズ」という名前が与えられ,北東部の都会に愛好者が現れた。ジャズへの熱狂は米国の新しい好みの一指標だった。
 ジャズ流行の市場開拓において,TAE社は競争相手に追従しようとはしなかった。社長がそれを嫌いで,蓄音機の購入者はよい音楽を聴くために買ったのだと誤って信じ込んでいたからである。エジソンは主要な都市におけるレコード音楽の市場とは,まったく波長が合わなかった。彼の愛好歌は「キャスリーン,君を故郷に連れ帰らん」であり,この曲がエジソン社の最も人気のレコードであると主張した。彼の強調点はまだ曲目よりも機械にあった。顧客からは「エジソン社製は機械はいいのだが,レコードの種類が少なすぎる」という言葉が寄せられた。
 ビクター社では,録音技術者が大衆の嗜好に自由に従い,聴衆のつきそうな新しい音楽を発掘することが奨励された。ビクター社は,1917年に専属のバンドによって初めてジャズを録音した。同社によるディスク市場の支配は,充実したレコード・カタログによるところが大きい。それは壮大なオペラからジョン・マコーミックら人気歌手による感傷的な歌までを含むものだった。さらにビクター製蓄音機を買えば,横切り溝のレコードを用いていたブランズウィック社やコロンビア社のレコードを聴くこともできた。だがTAE社は山と谷のレコードによって,孤高の位置を保っていた。独特なレコードの形式を守ろうとする決断は,20年代にはたいへんなハンディとなった。時代遅れの基準に固執したことで,TAE社は多くの客を失うことになった。創立者の趣味にはよく合ったろうが,同社はつけを払わねばならなかった。27年には同社のレコードは,レコード総売り上げの2パーセントを占めるにすぎなくなった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.356-357

姿勢の違い

 GE社のX線の開発は,エジソンの研究所の運営とあざやかな対比をなしている。GE社はエリュー・トムソンによって開発された機械を徐々に導入するよう進めていったが,すぐそれを販売リストからはずした。X線の問題はそれが制御不能なことだった。最初のX線管の予期せぬ振るまいによってこの技術の有用性が疑問視され,X線にさらされたことによる負傷や死亡の例によってX線特有の危険性が示された。エジソンの助手の1人であるクラレンス・ダリーは放射能の害毒により,ウェストオレンジでの最初の死者となった。GE社の警戒感は市場が小さかったことで和らげられた。大きく改良されたX線管には新しい電球と同じ材料が使われており,そのことがGE社の経営陣がX線装置の製造販売への進出を決断する際の要因になった。同社は1914年にその中心事業で不況を味わって以来,分散化の可能性をいろいろと考慮するようになっていた。第一次大戦中において無線通信の需要がその将来を保証したように,大戦でのX線機器の需要はその実用技術としての将来を保証した。この2つの驚くべき20世紀の技術に利用される真空管を割よく製造することによって,GE社は経営基盤を確立させたのである。
 X線にかんして,エジソンは利益もあまり得なければ名声もまったく得なかった。X線の発見後,1896年のニューヨークの電気博覧会でのぞき穴装置を展示するなどこの新現象を利用したが,彼はすぐに次のプロジェクトへと移り,X線についてもう実験作業をすることはなかった。X線を利用する試みは多少はなされたが,エジソン製造会社は病院へのX線機器の販売を1914年以前に終了した。一方は企業的で他方は混沌という2つの開発の道筋の差は,技術産業のビジネスに対する2つの異なるやり方を示している。GE社に成功をもたらした忍耐や警戒心が,エジソンにはまったく欠けていた。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.187-188

GE社

 1892年にエジソンの名前が社名から削られジェネラル・エレクトリック社(GE社)が設立されたことにエジソンは不満だったが,しばしばいわれているように同社と関係を切ることはしなかった。エジソンは自分がつくり出した産業から自分の名前がなくなることで悩んでいると秘書テイトは考えたようだが,エジソン自身はそれよりも合併においてトムソン=ヒューストン社の資産価値の方が高く評価されたことに驚いていた。予想に違わず,ヘンリー・ヴィラードは小さかったトムソン=ヒューストン社の株式を水増しし,EGE社の株式と同程度にさせていたのである。GE社の設立は,エジソンの電機産業とのかかわりにおける分水嶺になっているとよく指摘される。マスコミは独占企業と孤高の発明家との対立とみなし,エジソンが自分のつくり上げた産業から追い出されたと論評した。一方多くの啓蒙書やテレビ番組では,エジソンをGE社の創業者としてみなしていた。(実際には同社の設立はヘンリー・ヴィラードとJ.P.モルガンの仕事であった)。電力供給と電気製品の製造の業界では競争が激しく,エジソンはあまりそこに自分の金銭の利害をかかわらせたくなかった。ウェストオレンジ研究所を設立する目的は,まさにこのような過当競争的な市場から,新しい製品による新事業へ移行することにあり,エジソンは最組織された電機産業にあまり未練はなかった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.156-157

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