I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

タバスコ

 タバスコが飛躍的に売り上げを伸ばしていったのは,唐辛子よりもむしろ塩の恩恵によるところ大である。現在でも年間50万トンを産出している岩塩ドームの塩を運搬するために,サザン・パシフィック鉄道が近郊の町ニューイベリアまで線路を延長したので,タバスコもこの鉄道敷設に便乗して世界中で売り上げを伸ばしていったというわけである。
ジェームス・M・バーダマン 森本豊富(訳) (1995). アメリカ南部:大国の内なる異郷 講談社 pp. 155

テキサス共和国

 さて,結局,独立軍はアラモ砦での戦闘の後,サンハシントの戦いで勝利した。そして1836年に,総司令官サミュエル・ヒューストン(1793〜1863)を初代大統領とし,テキサス共和国として独立。1845年には,アメリカ合衆国に奴隷州として併合された。アメリカ軍は,その後さらにメキシコシティまで進軍し,1848年にはグァダルーペ・イダルゴ条約によって,メキシコのテキサスへの請求権を放棄させたうえにカリフォルニア,ニューメキシコも譲渡させ,1500万ドルの賠償金の支払いを命じた。
ジェームス・M・バーダマン 森本豊富(訳) (1995). アメリカ南部:大国の内なる異郷 講談社 pp. 71-72

テキサス独立

 連邦の崩壊はまた,テキサスのメキシコ領の発展とも関連があった。メキシコ側からの招きもあって,テキサスには多くのアメリカ人が移り住むようになっていた。1830年には,綿花栽培に従事する白人二万人と約二千人の奴隷がいたとされる。メキシコ人の人口を上回るには,さして時間はかからなかった。しかしながら,メキシコでは奴隷は禁止されていたこと,そして移住したアメリカ人は国籍を変える意思は無かったことから,メキシコ側にテキサスを独立した領地として認めるように申請した。
 メキシコ政府は,当然のことながらこの要望をしりぞけた。1836年,テキサス在住のアメリカ人がテキサス共和国の独立を目指して反乱を起こすと,メキシコ総督サンタ・アナは三千人の大軍を率いてサンアントニオを拠点とする「反逆者」の退治に当たった。アラモ砦にたてこもった187人の独立軍兵士は数日間にわたる激しい戦闘に耐えたが,圧倒的な兵力を誇るメキシコ軍の攻勢に耐えかね,玉砕という悲劇の結末を迎えることとなった。
ジェームス・M・バーダマン 森本豊富(訳) (1995). アメリカ南部:大国の内なる異郷 講談社 pp. 69-70

アメリカ南部プランテーション

 南部プランテーションでは,労働者の数が収穫高に直接結びついていたので,おそらく当時の状況からして,奴隷の数を増やす以外に収穫を伸ばす術はなかったといってよかろう。一家族で経営している農園の数の相当数あったが,中規模以上雨の農園で奴隷を使用していない所は無かった。収入を増やしたいのであれば,賃金を与える必要のない奴隷を買い取る以外に考えられなかったのである。
 プランターが奴隷を購入するのに要した金額は,一人当たり500ドルから1800ドルであったが,いったん手中に収めてしまえば,彼らの衣食住をまかなうには年間15ドルから60ドルで済んだのである。農地の拡大によってのみ増収が見込まれるという図式においては,労働力,すなわち奴隷の数を増やすことがプランターたちの主要な関心事であった。であるから,北部においては作物の収益が農機具や土壌の改良,設備投資などにあてられたのに対して,南部ではそのほとんどが奴隷および農地購入の資金として使われた。いったんこのパターンが定着すると,そこから抜け出すことはほとんど不可能であった。
ジェームス・M・バーダマン 森本豊富(訳) (1995). アメリカ南部:大国の内なる異郷 講談社 pp. 23

化石の旅

 なお,ケーニッヒスワルトと彼の標本をめぐっては,日本と関係する逸話がある。


 第二次世界大戦中の日本のジャワ島占領下で,彼は32ヵ月にわたって日本軍の収容所で,不自由な生活を強いられた。彼はそうなる前に化石を巧妙に隠したのだが,ガンドンから出た比較的年代の新しいジャワ原人の頭骨化石1点のみは,日本軍の手に渡ってしまい,天皇陛下への贈り物として日本へ送られた。


 戦後,その化石は未開封の状態で日本に置かれていたものをGHQに接収され,長い旅路をたどってアメリカにいたケーニッヒスワルトの手に戻った。さらに,彼の移動とともにオランダへ移されたあとで,インドネシアに返還された。ガンドンの標本は結局,地球をぐるりと一周してジャワ島に戻ってきたのである。



川端裕人(著) 海部陽介(監修) (2017). 我々はなぜ我々だけなのか:アジアから消えた多様な「人類」たち 講談社 pp. 69-70


イスラムから学ぶ

 中世ヨーロッパと古代ギリシアの哲学世界との再会は,1031年にイベリア半島で後ウマイア朝が滅亡し,キリスト教勢力による失地回復運動,いわゆるレコンキスタが一挙に進んだ結果として,12世紀初頭にトレドで始まっていく。もともとローマ帝国が崩壊し,西ヨーロッパが他民族による侵略の繰り返しで長い混乱期に入ってから,アリストテレスをはじめ古代ギリシアの知は西洋の記憶からは失われ,むしろ西アジアからイベリア半島に及ぶ広大なイスラム帝国に受け継がれていった。イスラムの知識人は,古代世界からローマ法や哲学,数学や天文学を継承し,発展させていた。その諸都市には,豊かな蔵書を誇る図書館が建設され,学校では古代ギリシアやアラビアの哲学者たちの思想が教えられていた。レコンキスタの結果,ヨーロッパ人たちは,当時のキリスト教世界からすればはるかに進んだイスラム文明を目の当たりにする。19世紀に「西洋」と出会った幕末の日本人にも似て,圧倒的な文明レベルの差を前にした西洋人たちは,この時「イスラム」から学ぶことを開始するのである。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 41

戦士と知識人

 12世紀のヨーロッパ各地で突然,群れをなし始めた教師や学生たちにとって,最も嫌悪すべきは私闘を重ねる騎士や十字軍に参加した戦士たちであった。後者もまた,人口と経済の面で急成長しつつある当時のヨーロッパで膨張していた社会層であったが,彼らが武力に訴え,文明の進んだイスラム諸国へ襲撃や略奪に向かっていたのに対し,新しい知識人たちはそのような野蛮さを嫌い,精緻な論理的弁証を駆使してたたかわされる神学・哲学的テーマについての論戦を,各人の「武勲」が賭けられた知的戦闘と受けとめていたのである。
吉見俊哉 (2011). 大学とは何か 岩波書店 pp. 38

ロンドンのスモッグ

さらに,煙は長年にわたって都市生活の一部だと考えられていた。ロンドン市民はそうした生活妨害に慣れていて,霧を近代社会の避けられない副産物とみなし,黒い天蓋もイギリス独自のもので,大都会にふさわしい特徴だと思っていた。「スモーク」や「ビッグ・スモーク」がロンドンの代名詞として使われるようになり,ロンドンといえば汚染だった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.353

女性用公衆便所

 19世紀末には,この話題が公の場でもちきりとなったので,自治体の選挙では女性用公衆便所が進歩派のスローガンとなった。だがやはり,女性は非常に貞淑で清らかで慎み深いので公衆便所を必要としないと主張する保守派の人も,まだ存在していた。セント・パンクラスの教区委員だったジョージ・バーナード・ショーは,1900年にカムデン・ハイ・ストリートの女性用公衆便所を頑固に認めたがらない他の教区委員について詳述している。ひとりは,地元の貧しい花売り娘がスミレを洗うためだけに公衆便所に行っていることに不服だった。別の教区委員は,そうした設備を求める女性は「女性であることを忘れてしまったのだ」と主張した。交通に与える影響を知るために設置された公衆便所の実物大木造模型は,ショーによると,乗合馬車や荷馬車が通りかかるたびに故意による破壊の対象となり,「ありとあらゆる人にからかわれ続ける」物笑いの種になったという。問題は,1905年にようやく女性用地下公衆便所が建設されるまで解決しなかった。ショーの説明が興味深いのは,年老いた教区委員は,女性の身体について忍び笑いをする感じの悪い男子生徒と同じだという実態はもとより,階級に対するある種の先入観も表しているからだ。ウェストエンドの上品な中流階級の女性に公衆便所を提供するのと,贅沢品の利用方法をほとんどわかっていないカムデンの花売り娘や工場労働者向けに公衆便所を提供するのとは別問題だというのだ。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.264-265

公衆便所

 小便所の建設は19世紀初め頃に始まったようだが,正確な日付を確認するのはかなり難しい(それ以前は,小便所を表す英語「urinal」は,医師が患者の尿を集めて調べるのに使用したガラス容器を意味したから)。ある教区民が1814年にホルボーン教区会に送った手紙は,「彼の要請で,彼の家の横に,委員会によって設置された小便所」に触れている。1830年代になると,ホルボーンには,教区会の小便所がいくつかあるだけでなく,小便所の清掃人も週3シリングで雇っていた(以前は週2シリングで貧困者を雇っていたが,あまり熱心に働かなかった)。
 そうした初期の小便所は複雑な作りではなかった。通常は,壁に薄い石版や石が取りつけられている程度で,屋外に設置され,男性の下半身を覆い隠す石版が立ててある場合もあった。パブが設置した小便所の多くは排水設備がなく,基本的には,壁続きでつながる建物の状態を維持することだけが目的だった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.238

川に浮かぶプール

 市民の間に「遊泳」の人気が高まってきたのを利用して,利益を上げようとした者もいた。1875年,フローティング・スイミングバス社は,鉄とガラスで覆われた,テムズ川に浮かぶ小さな水晶宮殿のような遊泳浴槽を製造し,チャネリング・クロス駅のそばの,かつて汽船の桟橋だった場所に設置した。このプールには,川からポンプでくみ上げ,ろ過して温めた——「もとの塩分とソフトで心地よい性質はそのままで,浮遊する泥やゴミを完全に除去した」——水が使われた。この豪華な設備は,当然ながら男性労働者向けのものではなかったが——入場料は1シリング——冬の間は水上アイスリンクとして利用されつつ,10年ほどは繁盛していた。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.227

洗濯屋

 この他にも,洗濯婦に「洗濯物を出す」というぜいたくな手段があり,19世紀の後期には,機械化された規模の大きな洗濯屋へ出すようになった。洗濯屋の利用にはお金がかかり,衛生問題の専門家に言わせれば非衛生的で危険だった。洗濯婦たちは自分の家で洗った洗濯物を裏庭で乾かしたが,そこは貧困者たちが使うごみ箱と水洗便所に近く,「最底辺の人々が頻繁に足を運ぶ」場所でもあった。そのような環境が天然痘などの病気を媒介するという報告がときおり出されたが,洗濯のビジネスにはほとんど影響がなかった。中産階級の主婦にとって,「洗濯屋に出した方がはるかに快適」なのは,逃れがたい事実だった。利点は多かった。使用人たちが流し場で丸一日,あるいはそれ以上の時間を使って,洗濯物を次々と懸命に洗い,煮沸し,すすぐ必要がなくなり,家の主は普段の快適さを奪われずにすみ(「ディナーは遅れ,ちゃんとした服もなく,洗濯中だから,と告げられる」),冬の数ヵ月間,家の中が乾燥中の服で溢れる「蒸気風呂」に変わることもなかった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.204-205

死体の処理

 ロンドンには下水の他にも頭の痛い「廃棄物除去」の問題があった——死体の処理である。埋葬の方法については,ほとんど議論は行われなかった。土葬が主流で,火葬は外国の特殊な習慣と考えられていたからだ。問題は,増え続ける死体を収容するスペースを見つけることにあった。首都の人口は急増し,教会墓地や埋葬地,地下納骨所は死体で満杯で,結果として,需要が供給を上回った場所は,どこも不快極まりない状態だった。深さ6メートルほどの縦穴に,棺を積み重ね,一番上の棺は地面からわずか10センチメートルほどのところにある。腐った遺体は,新参者に場所を譲るために,かき乱され,バラバラに切断され,破壊されることも珍しくない。掘り返した骨を不注意な墓掘り人が落とし,墓石の間に散らかして放置し,棺は粉砕されて貧困者に薪として売られる。聖職者と寺男は,埋葬料が収入の大半を占めていたため,この最悪の習慣に目をつぶっていた。また,墓掘り人の仕事を間近で覗いたりすれば,おぞましい光景が待ち受けていた。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.163

自動車の出現

 「馬のない車」が初めてロンドンに現れたのは1896年のことだ。なかには,この機械には血が通っていない——「ニンジンや角砂糖をあげられない」——とか,自動車での移動は「感動のない満足感をもたらす」などと嘆く人もいた。また,軽はずみな予測をする人もいた——「鉄道だって馬を一掃してしまうはずだったが,どうだろう?今じゃ,かつてないほど多くの馬がいるではないか」
 確かに,馬はその後も数十年にわたってロンドンの路上にとどまり続けたが,その数はヴィクトリア朝が終わると減少し始めた。特にバスが急速に普及し,たちまち血と肉を有する競争相手をしのぐ人気を得た(「乗客は必ずといってよいほど,速い方の乗り物を選んだ」)。何より確かな兆しとなったのは,1905年にロンドン乗合馬車会社が,乗合馬車の客室部分を自動車の車台に乗せると決断したことだった——やがて馬が使われなくなるのは明らかで,あとは時間の問題だった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.66

道路の汚泥

 人もまた汚泥で転んだ——「多くが足をくじき,背骨を『ぶつけ』,神経系に『衝撃』を受け」,安全に道路を渡れるところを探すのが,危険な行為となりかねなかった。けれども何よりの問題は衣類への影響だった。汚れないようにと,スカートの下のたっぷりしたペチコートをしとやかにたくし上げるには,かなりの技術と判断力が必要で,たとえとても優雅に,注意深く歩いたとしても,通り過ぎる車に泥をかけられることがある。靴や服の泥を取り除くのは,当時の人々の日課となっていた。女性誌のコラムには,ブラシで泥汚れを払う方法や,布地の適切な取り扱い方,便利な化学薬品についての助言が溢れていた。傷みやすい布地の場合は,理想をいえば,街路で衣服を露出すべきでない。リージェント・ストリートやボンド・ストリートで馬車から降りずに,帽子職人や店員に馬車まで見本を持ってこさせる貴族の女性は,社会的地位を誇示していただけでなく,舗道上の危険から衣服を守っていたのだ。外を歩かねばならない人にとって,解決策のひとつはガロッシュというゴム製のオーバーシューズで,これを履けば「冬場にロンドンの街路をほんの少し歩いただけで泥が跳ねて汚れてしまうブーツではなく,気のきいた履物で,友人宅の応接間に入ることができた」
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.45

道路の汚泥の中身

 元凶となっていたのは汚泥で,道路を覆い,歩道にまで飛び散っていた。その正体は,畑の泥でもなければ,厩舎がある庭の泥でもなく,実は馬の糞が主体なのだが,色は黒い。煤で汚れた大気が,触れるものすべてを,道路の泥でさえも汚染していたからだ。また,ロンドンの泥は,「ブーツが脱げるほど」強くねばついたが,それは,ほとんどの車道の舗装に花崗岩を多く含む骨材,マカダムが使われていたためだ。マカダム舗装は,比較的安価で細かな石をぎっしりと敷き詰めるなど,いくつかの長所があったが,くぼみができやすく,轍がつきやすかった。削り取られた石の粉は湿った馬糞と混じり合い,ねっとりとした糊状になる。「溶け込んだ」砂粒は驚くべき量だった。シティ・オブ・ロンドンの医療担当者だったレゼビー博士は,12ヵ月にわたる調査の結果,乾燥させたロンドンの汚泥の成分を明らかにした。57パーセントが馬糞,30パーセントが削られた石,13パーセントが削られた鉄粉(鉄製の車輪や馬の蹄鉄から出た)だった。もちろん,泥の全体的な粘度には水分が極めて大きく関係しており,道路は「霧が出るとべたつき,靄で滑りやすくなり,小ぬか雨が降ると液状になった」。だが,最も雨が少ない夏でも悩みが消えるわけではなく,乾燥した泥の「コーヒー色の熱風」が吹き,衣服を汚し,目やのどを刺激した。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.43-44

廃棄物焼却炉

 問題解決に必死だった教区会は,新しい機械に大いに関心を持った。1870年代半ばに初めて開発され,マンチェスター,リバプール,リーズといった工業都市ではすでに使われていた廃棄物焼却炉,つまり巨大焼却炉だった。ロンドンでも,一部の自治体や請負業者はすでにごみを焼却処分していたが,たいていは,ゴミ置き場でたいして大きくもない炉を使うか,戸外でごみの山に火を放つのが関の山だった。ところが廃棄物焼却炉なら,一日に24トンのゴミを焼却して,4トンの不活性の「燃え殻(クリンカー)」に量を減らし,それを道路工事などでバラストとして使えた。そのうえ,設計次第で,家庭のごみだけでなく,道路清掃で出るごみや「下水路の残滓」まで償却できた。LCCの1892年の調査では,早期に燃焼実験をした自治体が明らかにされている。先駆けとなったのはホワイトチャペル地区で,1876年に「フライヤー式」廃棄物焼却炉(アルバート・フライヤーが1874年に原特許権を取得)を購入し,続いてマイルエンドが1881年に,シティ・オブ・ロンドンが1884年に購入した。やがて1888年には,バタシーとハムステッドが初めて地域のすべてのごみを焼却処分し,1892年にはウリッジが後に続いた。焼却処分の大きな利点はごみの減量で,その結果,輸送費も削減できた。欠点は施設建設への高額な投資で,自治体の中心部に建設しなければならないことも難点だった。廃棄物焼却炉の煙突から出る悪臭と煙は,地元住民を悩ませた。公衆衛生のための施策が首都の環境を悪化させるとは,皮肉なものだ。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.37-38

ゴミという金鉱

 だが,そのようなたぐいのものは,家庭から出るごみの大部分を占める灰や石炭の燃え殻の脇役にすぎず,灰や燃え殻こそがごみのリサイクルを金鉱にする可能性を秘めていた。灰はもともと肥料とされていて,農民にとってはそれなりの価値があり,道路清掃で集めた馬の糞と混ぜればさらに儲けを生んだが,19世紀初頭の大きな市場は,拡大し続ける首都の周辺部に工場を構えるレンガ製造業界だった。灰の細粒はレンガの製造過程で粘土と混ぜられ,「粗粒(ブリーズ)」と呼ばれる大きめの燃え殻――家庭の炉で燃えきらなかった石炭――は燃料として使われた。燃え殻は,広大な露天の敷地に粘土レンガを積み上げる際,レンガとレンガの間に挟んで置かれた。火をつけても,燃え殻のおかげでレンガ同士がくっつくのを防げ,レンガ製造に不可欠となる緩慢な燃焼がもたらされた。ロンドンがかつてない速度で発展するにつれて,建設業界におけるレンガ――すなわち粗粒――の需要もうなぎ上りとなり,塵芥請負業者の利益もそれに比例して増加した。ロンドンは不死鳥であり,自らの灰から蘇ったと冗談を言うお調子者もいた。だが,実のところ,それは二重の意味で正しかった。一般にハードコアは,道路のみならず,新築の家の基礎にも用いられていたからだ。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.21-22

ヴィクトリア時代のごみ収集

 第一に,ごみ収集人を呼ぶのがそう簡単ではない。収集人のサービスを受ける権利は利用者の側にあり,収集人が黙って通り過ぎたという口論は日常茶飯事で,特に収集の荷車が思わに時間に来たり,週に一回程度しか(もっと少ないことも頻繁にある)来なかったりすると争いが起きた。収集人を呼ぶ際の混乱を失くすために,「依頼カード」――大きく「D」とかいただけの簡単なカード――を使うようになった地区もあった。ゴミを収集してほしければ,このカードを窓に貼るのだ。だが,それでも住民からは,カードが無視されると苦情が出た。また,ごみ収集人の側は,あまり定期的に行き過ぎると――特に1ヵ月分のゴミが入るような大型のごみ入れがある家の場合――「用はない」とぶしつけに断られると不満をこぼした。
 覆いのない荷車は,20世紀に入ってからもかなりの間使われたが,これもまた苦情の種だった。灰がひっきりなしに荷車から飛び散り,道路や,近隣の家々や,すれ違う乗り物や,不用心な通行人にかかるからだ。決して新しい問題ではない。1799年に,クリンク・ペイブメント委員会と請負業者が交わした契約には,「荷車に積んだ灰や汚物や粗粒が,飛び散ったり,振り落とされたり,こぼれたりしないように,荷車に覆い,縁,その他の適切な装備を設けるように」と明記されている(効果を見込んだというよりも,希望にすぎなかったと思われる)。実際には,わざわざこのような措置を取った請負業者はほとんどいなかったため,契約から100年がたっても,ロンドン県はなお覆いをつけさせようと試みねばならなかった。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.18

火山と人間

 繰り返し申し上げたことのひとつは,火山と人間がよく似ているということです。元気な泣き声とともに誕生したかとおもうと,姿を変えながら成長し,やがて年を経て,死を迎えます。突然,怒りを爆発させたかとおもうと,そのあと,何事もなかったかのようにすましています。成長と死,喜怒哀楽のあることによって,火山は普通の山とはまったく異なる表情をもっています。そこにも,火山が神話として語りつがれた原因があるのではないかとおもわれます。
蒲池明弘 (2017). 火山で読み解く古事記の謎 文藝春秋 pp. 243

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