I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

真珠湾攻撃に対して

プッツィ・ハンフシュテングルがかつてヒトラーに言った,次に起こる世界規模の戦争において,アメリカの敵につくことは致命的だという警告を,彼が覚えていたかどうかはわからない。どちらにせよヒトラーは,日本がアメリカを攻撃したと聞いた瞬間,これ以上のことはないと喜んだ。いまやアメリカは太平洋での戦争に主軸を置かざるを得ず,イギリスやソ連にはエネルギーや物資をあまり割くことができなくなるだろうと考えたのだ。真珠湾攻撃の翌日,ヒトラーはこう断言した。「われわれがこの戦争に負けるはずがない。いまやわれらには,3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」
 真珠湾攻撃による情勢の変化を,もっとも歓迎した国家指導者はチャーチルであった。運命のその日,大西洋を挟んでつながれた電話でルーズヴェルトは,イギリス首相が待ち望んでいた言葉を口にした。「われわれはいまや,同じ船に乗っている」。12月26日,チャーチルはアメリカ議会で演説をした。「わたしにとってなによりの吉報は,アメリカ合衆国が,かつてないほど一致団結して,自由の剣を抜き,その鞘を投げ捨てたことである」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.465

男性の強さ

ナチ党は活動の初期から,男性の精力の強さを誇示することに力を入れていた。「ナチ党が人々の性への本能を掻き立てようと,さまざまな手段を駆使してきたことをわたしは知っている」とシュルツは書いている。「大規模な集会のスピーチでは,ナチ党の男たちによる性の武勇伝が延々と語られ,それを聞いた突撃隊員たちはさっそく実践してやろうと勇んで会場を出て行くのだった。パートナーならすぐに見つかる。女性たちは集会場の外で待っているのだから」。ヒトラーは出生率を上昇させることに熱心で,新聞の売店には「ヌードの男性や女性で埋め尽くされた本や雑誌」が並んでいたと,CBSの新人キャスター,フラナリーは書いている。「ナチスドイツがこうした計画を進めている理由は,ひとつしか考えられなかった」
 多くの男たちが家を離れて敵地へ向かい,とくに1941年6月にドイツ軍がソ連に侵攻し,兵士たちが現地でバタバタと死んでいくようになってからは,当局は出生率向上政策をさらに進化させ,女性の配偶者の有無を問わないことにした。「『非摘出子』という言葉は,ドイツ語から抹消されるべきである」。ドイツ労働戦線の指導者ローベルト・ライはそう宣言した。フラナリーによると,世間体が気になる場合は,女性は戦死した兵士の名前を合法的に貰い受けることができたという。ナチスは,未婚の母親たちは「若きドイツの英雄」の子どもたちを生んでいるのだと喧伝していたが,実際のところ,子どもたちの父親はたいていは「年若い秘書や事務員,販売員たちの既婚の上司」だったと,シュルツは指摘している。こうして「ナチ党が自分たちの非嫡出子を守ってくれるという理由で,ナチズムにしがみつく」女性層ができあがっていった。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.433-434

個人の経験

彼らがなぜこれほど鈍感だったのかと言えば,それはひとつには,個人的な付き合いの場では,アメリカの若者たちにとってドイツ人はやさしく親切だと感じられたからだ。1936年にはじめてドイツでひと夏を過ごしたハワード・K・スミスは帰国したのち,<ニューオーリンズ・アイテム紙>の記者としての仕事に復帰したものの,翌年の夏,またドイツに戻ってきた。ドイツの政治制度についてもっとよく知りたいと考えたスミスは,倹約のためにヒッチハイクをすることにしたが,あまりに簡単にどこにでも行けることにひどく驚いたという。「バッグの上から小さなアメリカの旗をかけておくだけで,あの素朴で親切な人たちはすぐに車を停めてくれた。ドイツ人の外国人——とくにアメリカ人——に対するやさしさや,こちらが圧倒されるほどの歓待ぶりには,目を見張るものがあった」。1年前のオリンピックでのアメリカ人アスリートの活躍が,「アメリカ人がドイツ人のいちばんお気に入りの外国人」になった理由だろうと,スミスは考えていた。こうしてドイツ人の親切を受けた旅行者たちは,最後まで無邪気な外国人として機嫌よく過ごし,自分たちのまわりで起こっていた事の本質を見抜けずにいたのだった。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.339

ヒトラーとオリンピック

皮肉にもヒトラーとナチ党は,ずっと以前から,オリンピックなどの国際スポーツ大会をドイツで開催するというアイディアを,辛辣な言葉で批判し続けていた。彼らは1923年には,ミュンヘンで開かれたドイツ体操祭に反対している。この大会が「ユダヤ人,フランス人,アメリカ人」の参加を受け入れているのがその理由だと,ヒトラーの署名がある請願書には記されている。政権を取る直前の1932年,ヒトラーはオリンピックを「フリーメイソンとユダヤ人の陰謀」と糾弾した。しかしオリンピックをベルリンで開催することは,すでにその1年前に決定された事項であった。ナチ党が政権の座に就いてからも,彼らはまだ,”ユダヤ人や黒人を含めた国際的な競技会”という概念に納得がいかないようだった。<フェルキッシャー・ベオバハター紙>は怒りもあらわに,黒人が白人と競うことができるなどという考えは「オリンピックの概念にとっての不名誉であり,その価値を貶めるものだ」と書き立てた。「黒人は除外すべきだ。われわれは断固要求する」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.285-286

神秘的で宗教的

翌日には,ヒトラーがなぜあれほど熱狂的な賞賛を受けているのかが,シャイラーにも少しわかりかけてきた。ルイトポルト・ホールで開かれた党会議の開会式を見学したシャイラーは,ナチスがここでやろうとしているのはたんなる「派手なショー」ではなかったと書いている。「そこには神秘的で宗教的な情熱が感じられ,まるでゴシック様式の壮大な教会で行われるイースターやクリスマスのミサのようだった」。色鮮やかな旗がひらめき,音楽を奏でていたバンドは,ヒトラーが威風堂々と入場してくるときにはピタリと静かになったかと思うと,ふいに耳馴染みのいい行進曲を演奏しはじめる。やがて「殉教者」の名前が順に読み上げられた。殉教者とは,あの失敗に終わったビアホール一揆で命を落としたナチ党員たちのことだ。「こうした雰囲気のなかでは,ヒトラーが発する一言一句が,天上から聞こえてくる御言葉のように感じられても不思議ではない」とシャイラーは書いている。「人間の——少なくともドイツ人の批判能力は,こうした瞬間には,どこかへ吹き飛んでしまうのだ」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.262

マスコミ対策

ナチ党はこのころになると,特派員を無理に追い出した場合,プロパガンダ合戦に負けることに気付きはじめていた。追い出された記者たちは,母国で一躍注目の的となるからだ。ナチ党はその代わり,新たな手段として,気に入らない相手に不名誉な罪を着せるというやり方を思い付いた。記者たちのところには,自分はナチスドイツに反対していると称するドイツ人が近付いてきて,極秘の軍事情報を提供すると言ってくるようになった。シグリッド・シュルツは,その手の男たちを一度ならず<シカゴ・トリビューン紙>のオフィスから追い出し,同僚たちにも,あいつらとはいっさい関わらないようにと言い含めていた。1935年4月のある日,シュルツが自宅に戻ると,留守のあいだに一通の封書が届いており,表には「重要情報」と書かれていたため,持ってきたのはどうやら例の男たちの仲間だと思われた。封筒を開けると,中身は飛行機のエンジンの設計図で,シュルツはすぐさまこれを暖炉で燃やした。もしこんなものが自宅で見つかれば,スパイ容疑の裁判で格好の証拠として使われてしまう。
 シュルツがオフィスに戻ろうと歩いていると,以前,秘密警察と会ったときに顔を見たことのある3人の男が,彼女の自宅のほうへ歩いているのを見かけた。シュルツは男たちの前に立ちふさがり,もうあの封筒は燃やしたから,わざわざ家に行かなくてもいいと告げた。3人は言葉を失って立ちすくみ,シュルツはタクシーを止めて,運転手に大声でアメリカ大使館へ行ってくれと告げた。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.259-260

反ユダヤ小冊子

ヒトラーの台頭を間近に見たアメリカ人記者たちが当時興味を持っていたのは,なぜ多くのドイツ人がヒトラーの運動に惹き付けられたかという議論ではなく,全面支配に向けて突き進むヒトラーの動向であった。働き者のニッカーボッカーは,1933年の春から夏にかけて,おびただしい数の記事を書き続け,ヒトラーがどこまで政権を掌握したのかについて詳細に伝えていった。「アドルフ・ヒトラーはアーリア人の救世主となった」とニッカーボッカーは書き,ヒトラーが「人種の純粋性」を保つための運動に全力を傾けていると説明した。そのころ発表された反ユダヤ主義者のための小冊子には,6種類のユダヤ人が列挙されていた。「血なまぐさいユダヤ人,嘘つきのユダヤ人,搾取するユダヤ人,堕落したユダヤ人,芸術界のユダヤ人,金融界のユダヤ人」。これについてニッカーボッカーはこう書いている。「こうした出版物が許されているという事実は,国外に出た難民たちの判断が正しかったことのなによりの証拠である」。また別の記事で彼は,ヒトラーは「至上のボス」にのしあがり,その権威は「民主主義政権にかつて君臨したあらゆる権力者のそれを[……]凌駕している」と述べている。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.227

最悪の事態

ベルリンを訪れる二ヵ月前,マクドナルドは,巨大銀行ゴールドマン・サックスのヘンリー・ゴールドマンに会っていた。ゴールドマンもやはり,近いうちにベルリンに行く予定だということだった。マクドナルドは彼に,ドイツ新政府の苛烈な反ユダヤ主義は,ドイツの人々がどこかおかしくなっている兆候ではないかと言った。ゴールドマン・サックスを創設したドイツ系ユダヤ人移民の息子であるゴールドマンは,マクドナルドの質問を鼻であしらい,「そんなことはありません。ドイツの反ユダヤ主義など,アメリカの反ユダヤ主義と似たり寄ったりですよ」と言い切った。マクドナルドは以前からゴールドマンのことを「ドイツの擁護者」だと考えていた。しかし4月8日,ベルリンのアドロン・ホテルでふたたび顔を合わせたとき,マクドナルドはゴールドマンの変わりはてた様子に目を見張った。「彼はまるで,憔悴しきった老人のようだった」
 この国でさまざまなことを見聞きした結果,ゴールドマンは,ドイツに対する自分の見解を大きく変えていた。「ミスター・マクドナルド,15世紀や16世紀に起こった最悪の事態が,この20世紀に,しかもドイツ全土で復活しようとは,思ってもみませんでした」。マクドナルドがベルリンにはどのくらい滞在するのかと聞くと,彼は答えた。「耐えられなくなるまでです」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.171

ヒトラーの努力

マウラーによれば,ヒトラーとナチ党は,こうした場でつねに最大限の効果を得るために,あらゆる努力を惜しまなかったという。「ほかの人間が寝ているとき,彼らは働いていた。敵が1回話をするなら,彼らは10回話をした。ヒトラーはとくに個人的な接触,話し言葉,人となりを重視している」。そしてマウラーは,こんな不吉な一文を記している。「大衆をペテンにかける大掛かりなゲームにおいて,ヒトラーは並ぶ者のない達人だ」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.157

バーナム

ナチ党の運動に亀裂が入っているといううわさや,11月6日に行なわれた国会選挙でナチ党の得票が落ち込んだという事実もあり,これと似たような幻想を抱く者はシュライヒャーのほかにもいた。アメリカ大使サケットの場合はむしろ,第三党の共産党が議席を伸ばしたことのほうを気にかけていた。サケットは,左翼は極右よりも危険だとみなしていたのだ。共産主義の脅威に対抗するためには「当時はきわめて中央集権的な,多少軍事寄りの政権を持つことが重要なのはあきらかだった」とサケットは述べている。彼はワシントンに対し,ヒトラーはどうやら「自分ひとりによる支配」を狙っており,彼とゲッペルスは「さまざまなできごとを,自分たちの妄想や目的に都合のいいようにねじ曲げる名人で,また疲れを知らない雄弁家」であると報告するいっぽうで,その言葉の端々にはこのナチ党リーダーを馬鹿にしているような響きも感じられ,ヒトラーのことを「P.T.バーナム[1810〜91年。人気サーカス団を設立したことで有名]以来の大物芸人」と評していた。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.142-143

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