I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

強制収容所

 世界で最初の大規模な強制収容所は,ロシア帝国などの侵略に対して立ち上がったポーランドの愛国組織「バール連盟」(1768~72年)の反乱の参加者を収容したものといわれる。ロシアに敗れはしたものの最後まで抵抗し,捕まった約5000人が家族とともにポーランド・リトアニア共和国の三ヵ所の収容所に押し込められ,最終的に多くがシベリアの強制収容所に送られた。



石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 96


低張鉄条網

 この戦闘で特筆すべきは,ソ連軍が鉄条網の使用にさまざまな工夫を凝らしていたことだ。たとえば,日本の戦車部隊が悩まされた「低張鉄条網」である。直径40~50センチほどの輪状や格子状にした鉄条網を地面に敷き詰めたものだ。


 そこに,日本軍の戦車が突っ込むと,キャタピラーを動かしている起動輪や転輪に絡みついて動きが取れなくなる。とくに,草原に隠すように幾重にも設置された場合には効果は絶大で,立ち往生したところをしばしば速射砲で撃破された。


 反撃ができずに切羽詰った日本軍は,爆弾を抱いて戦車の下に潜り込む肉弾攻撃を仕掛けたが,ソ連軍は戦車を鉄条網で覆って防御したためうまくいかなかった。



石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 91-92


塹壕と鉄条網

 大戦の初期は,フランス軍の塹壕は浅くて塹壕と塹壕をつなぐ連絡線もなく,塹壕の前面の防衛線もなかった。攻撃や退却途上の一時的な避難場所でしかなかった。一方,開戦後間もなくドイツ軍は恒久的な塹壕を掘り,塹壕の前にワイヤーを張りめぐらせていた。これはすぐにフランス軍が追随するところとなった。



石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 74


塹壕の普及

 城壁,要塞,砦などの恒久的な防御用建築物と異なり,塹壕は一時的な施設である場合が多い。17世紀までは,歩兵や騎馬の地上戦で決着がついたから,こうした防御施設はほとんど意味をもたなかった。塹壕は銃砲の普及とともに発達してきた防御法だが,とくに重要性を帯びてきたのは,機関銃をはじめとする高速ライフルや長距離砲など銃砲の進歩によるところが大きい。


 欧州大陸中央部からはじまった塹壕は,両軍が互いの塹壕の裏側に回り込もうと,戦場に沿って北へ掘り進められ,開戦二ヶ月にして北の端は北海にまで達した。塹壕の全長は700キロにおよんだ。



石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 73-74


機関銃

 開戦はしたものの,両陣営ともに「クリスマスまでには戦争は終わるだろう」という空気が支配的だった。せいぜい半年間の短期戦を予想していた。この背景には,多くの人びとの抱いていた戦争のイメージが,ナポレオンの戦争当時のままだったことがある。後方から大砲を打ち合い,機をみて騎兵や歩兵が突撃するという戦法だ。当時は戦争を支える兵力にも軍需産業にも限りがあり,長くつづける「体力」はなかった。


 だが,戦場に送られた両軍の兵士はすぐさま,これが容易ならざる戦闘であることを知った。はじめは少数しか配備されていなかった機関銃が,その威力が証明されるにつれてしだいに数を増やし,ついには戦場の主役の座を占めるまでになった。突撃する兵士たちに機関銃の弾が降り注ぎ,死傷率もそれまでの戦争と桁違いに高くなった。


 機関銃の製造は当時,英国のヴィッカース社と米国のホチキス社が独占していた。ヴィッカース社の機関銃は,1分間に745発も発射することができた。



石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 71


ガトリング砲

 鉄条網による防御をさらに強固にしたのが機関銃の配備だった。鉄条網と機関銃はほぼ同時期に実用化された。陣地の前面を鉄条網で固め,その隙間から機関銃で攻撃するというこの2つの組み合わせは最強の守りとなった。


 機関銃のアイディアは古くからあったが,はじめて実用化されたのは1861年に米国のリチャード・ガトリングが発明した「ガトリング砲」である。六本の方針を束にした多銃身で,ハンドルで回転させて連続射撃した。当時としては,毎分350発という驚異的な発射速度を誇った。「砲」とよばれるが,口径20ミリ未満を「銃」と呼ぶ慣例からすれば,銃である。


 ガトリングは発明の動機を「この砲による大量殺戮の恐怖から,戦争を止めさせることができる」と,ダイナマイトを発明したノーベルと同じようなことを語っていた。間もなく最強の殺戮武器として各国が競って装備するようになった。



石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 64


鉄条網

 こんな切実な状況から,安価で効果的に大面積を囲う柵が切望されていた。これは世界共通の悩みでもあり,多くのアイディアが登場した。その先覚者はまずフランスに現れた。1860年代初期に,鉄線にトゲを巻きつけ二本の鉄線を撚り合わせて鉄条網を作る方法が考えられた。


 しかし,ほとんど実用化しなかった。



石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 19-20


ゲットー

 とりわけ受難だったのはユダヤ人である。大戦当初のポーランドのユダヤ人人口は9.7%(350万人)であった。ユダヤ人を幽閉するため,四方をコンクリートの高い塀で囲った「ゲットー」が設けられた。その数はポーランドだけで約400に及んだ。総督管区内で最大のゲットーが,1940年4月からワルシャワに築かれた(翌41年には45万人を収容)。ゲットーでは飢餓が日常的であった。ユダヤ人に対するドイツ軍の配給は日にわずか184カロリー(現在の標準的摂取カロリーの10分の1以下)であり,栄養失調から自然死するように仕組まれていた。50万人がゲットーで亡くなったと推定されている。



渡辺克義 (2017). 物語 ポーランドの歴史 中央公論新社 pp. 100


大規模なスト

 1904年2月に勃発した日露戦争はポーランド人に多大な影響を及ぼした。7月,ピウスツキとフィリポヴィチは来日し,日本政府・軍部に対し,ロシアに敵対する日本とポーランドが軍事協力をすることは理にかなうと説明した。一方のドモフスキは,社会党の動きを事前に察知し,一足早く五月に来日し,日本政府・軍部に,ポーランドで革命が起こるような事態は日本にとって得るところがないと説得を試みた。日本側は結局,ポーランド社会党からの要請を断っている。ドモフスキの説得工作がどの程度影響したかは不明であるが,結果的には国民民主党側の勝利であった。


 1905年,第一次ロシア革命が起こると,これに呼応するように,ワルシャワ近郊やウッチの工業地帯を中心に約40万人がストに入った。



渡辺克義 (2017). 物語 ポーランドの歴史 中央公論新社 pp. 69-70


人権闘争の3文書

 アメリカ合衆国第三十九代大統領ジミー・カーターは,1977年12月にポーランドを訪問した際,歓迎式でこの二人の偉人に触れ,次のように述べた。



 南北関係,東西関係は変化していますが,ポーランドとアメリカとの絆は歴史が古く,かつ強固なものです。


 ジョージア州の私たちの自宅近くで,両国家の偉大なる愛国者カジミェシュ・プワスキは,アメリカ独立戦争で騎馬隊を指揮し,致命的重傷を負いました。私の息子の妻は,ポーランド出身のこの偉大なる英雄の名にちなんだ,ジョージア州プラスキ郡の出身です。


 また,タデウシュ・コシチュシュコには,独立戦争の際の軍事手腕と勇気に対し,我々の初代大統領ジョージ・ワシントンが敬意を表しました。コシチュシュコは,平時にあっては,自由および正義に貢献したことに対し,第三代大統領トマス・ジェファソンから称賛されました。


 こうした勇敢な人物は,人権闘争における三つの重要な文書が生まれる時代に,アメリカ人の側に立って戦ったのでした。三つの文書とは,一つはアメリカ独立宣言であり,二つ目はフランス人権宣言,三つ目はポーランドの五月三日憲法であります。



渡辺克義 (2017). 物語 ポーランドの歴史 中央公論新社 pp. 42


壁画の周りの音響

 音は私たちの祖先が描く題材にも影響したらしい。音響考古学のスティーヴン・ウォラーはこの研究をもっと厳密な科学にしようと,描かれているものを音響の異なるエリアごとに統計的に分析した。彼は「ネイチャー」誌に発表した論文でこう述べている。「フォン・ド・ゴームやラスコーの深い洞窟では,音の反射レベルの高い場所で馬,雄牛,バイソン,鹿の絵が見つかり,音響効果の弱い場所ではネコ科の動物の絵が見つかる」。どうやら太古の祖先は,自分たちの描いた壁画のまわりで物語を語るときに洞窟の音響を利用していたらしい。鳴き声や足音の大きな有蹄動物の話をするときには反射音で声を増幅したが,大きな音を立てない猫の話をするときには音を強める必要がなかったのだろう。



トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.77


映画の見方

 なんの話だったかな。そうそう,映画の話だ。にわかには信じられないと思うが,私の両親の世代は,適当な時刻に映画館に入っていくのがふつうだった。どんな映画がかかっているかまるで気にしない。それどころか,映画が始まったばかりなのか,中ほどまで進んでいるのか,最後の追跡シーンの最中なのかすら気にしない。お菓子や煙草をお供に機嫌よく座席に腰をすえ,どんな話なのか,だれが悪役で,なぜみんなハンブルクに来ているのか解読しようとしはじめる。そして映画が終わると,辛抱強く予告編とニュース映画を観,アイスクリームを食べ,やがてまた映画が始まると,ようやくだれがだれで,なぜハンブルクに行ったのかわかってくる。そしていったいなにが起こっていたのか,やっとわかって,今度こそ大団円を楽しめるというときになって,「ああ,ここから観たんだった!」と言う――そして映画館を出ていくのである。こんな観客を相手に,いったいどんな脚本を書けばいいというのか。名高い喜劇作家ベン・トラヴァーズから聞いたのだが,1930年代には「田舎」の上流人士は例外なく,劇場の一階奥の席にだいたい20分遅れでやってきていたという(労働者階級のつまらない規則には縛られないことを見せつけるために)。それで彼はいつも,そのころに物語の簡単なあらすじを付け加えて,そんなハイソなかたがたが話についていけるようにしていたそうだ。しかし,ベンは少なくとも,そういう客がだいたいいつごろ入ってくるかはわかっていたわけだ。それに対して,「ああ,ここから観たんだった!」集団は,そもそもなぜ好んで間違った順序で映画を観ていたのか,その理由を考えたことがあっただろうか。少なくとも私の両親は考えていなかった。



ジョン・クリーズ 安原和見(訳) (2016). モンティ・パイソンができるまで―ジョン・クリーズ自伝― 早川書房 pp.356


トリックの活用

 ジャスパー・マスケリンは一家に伝わる秘密のトリックを活用して,兵士の逃亡のための道具を開発した。巧みな脱出術で一世を風靡した米国の奇術師フーディーニは,飲み込んだ鍵を自由自在に吐き出して使う技を会得していた。しかし兵士は逃亡の道具を飲み込むわけにはいかず,身につけたり,装備のなかに隠したりして,敵の目をあざむかなければならない。


 ジャスパーは人前でも隠し通せるもの,あるいは最初から隠す必要がないものをデザインした。たとえば,一見ふつうのコマンドブーツ。これは靴ひものひも先金具(アグレット)や垂れ金具が,コンパスの針になっていて,ブーツの舌革(靴のひもや留め具の下にある革)に地図を,横革の下にはヤスリと弓のこを隠すことができた。また,コンパスの針一本,地図二枚,27センチの長さの弓のこの刃一枚,そして小さなヤスリを,ヘチマスポンジに防水絹を内張りして作ったサイズ調整用の中敷のなかに収めることもできた。爪ブラシまたは靴磨き用のブラシの柄のなかには,釘ぬき,ヤスリ,弓のこ,ドライバー,ペンチ,スパナ,コンパス,二枚の地図という脱出キット一式が収まった。ジャスパーが作った安全カミソリは,有能なニッパーに簡単に変えることができたし,歯ブラシは歯を磨くだけでなく,地図,コンパス,弓のこを隠すことができた。標準の靴下どめにさえ,カッター,地図,コンパスが仕込まれていた。


 最も実用的だったのは,鋼鉄のチェーンソーの刃に細工をしたもので,これには0.5ミリ刻みの歯がついていた。クロムめっきで仕上げを施せば,普通の認識票(軍人が身分証明のために身につける小判型の金属),時計バンド,キーリング,幸運のお守り,そのほかどんなアクセサリーにでも見せかけることができた。兵士もおとりスパイもこれをおおっぴらに持ち歩いて,木でも鉄でも大きなのこぎりのように,切ることができた。


 ジャスパーの脱出ツールは1万人のイギリス兵に支給されたが,逃亡においてどれだけ重要な役を果たしたのか,正確に測るすべはない。しかしキット一式にしろ,個別のツールにしろ,兵士やスパイが敵と接するあらゆる場面で,逃亡の一助として使われたのはたしかだ。たとえばチェーンソー。これは有名な東ケント連隊のナスバッハー軍曹の命だけでなく,鉄道の客車一輌に乗せられた彼の捕虜仲間も救った。ナスバッハー軍曹は占領下のハンガリーで私服を着ている際に捕らえられ,ぎゅうぎゅう詰めの列車に押しこまれてナチスの強制収容所に送られた。しかし,死の列車が収容所に到着する前に,ナスバッハー軍曹は持っていたチェーンソーで列車の側板を切り抜き,同じ車輌に乗っていた捕虜全員を解放したのだ。



デヴィッド・フィッシャー 金原瑞人・杉田七重(訳) (2011). スエズ運河を消せ:トリックで戦った男たち 柏書房 pp.246-247


大虐殺の影響

 ポル・ポトの虐殺の被害者となった人々の職業的地位と彼らの子どもたち(もはや生まれてはこないのであるが)のIQの相関がどの程度であったのかは不明である。しかし,半農耕社会においては,おそらく米国での相関よりも低かったであろう。その当時のアメリカでは,その相関が0.300であったと推定できる(Flynn, 2000b)。したがって,仮に職業によって米国の人口のトップ26%を排除しても,その子どもたちのIQの平均値は1.92低下するにすぎない。さらに,ポル・ポトは純粋に職業的地位を実際の抹殺の基準としたのではなかった。その証拠に,虐殺を実行した彼の取り巻きたちの多くは知識人であった(ちなみにポル・ポト自身もソルボンヌ大学に入学した。もっとも,すべての教科で落第したのであるが)。さらに,彼が首都プノンペンに住む人々のすべてを排除しようとしたとき,その中には職業的地位が低い人も多く含まれていた。以上を総合すると,カンボジアの人々の遺伝的資産は,IQ得点に換算して1ポイントも低下しなかったのではないかと推定できる。つまり,カンボジアの人々の知的能力は,ポル・ポトの抹殺による被害をほとんど受けなかったと考えられる。


 カンボジアの目覚ましい復興が,そのことを証明している。ポル・ポト軍の残存者によって苦しめられたにもかかわらず,1979年に就任したヘン・サムリン新政権は,見事な復興を成し遂げた。新政権は,飢えの問題,学校,本,病院,警察,裁判所,市民サービス,郵便・電話・ラジオ・テレビなど通信事業の復興に着手し,1985年までに新しい行政的エリートと技術的エリートを育成した。そして社会は正常に戻ったのである(Flynn, 2012b)。



(Flynn, J. R. (2013). Intelligence and Human Progress: The Story of What was Hidden in our Genes. New York: Elsevier.)


ジェームズ・ロバート・フリン 無藤 隆・白川佳子・森 敏昭(訳) (2016). 知能と人類の進歩:遺伝子に秘められた人類の可能性 新曜社 pp.50-51


ローマ貴族の奴隷

 「ふつうの」ローマ貴族は数百人の奴隷を有していた。そこで,女奴隷は家のなかに仕事らしい仕事を割り当てられてはいなかったのに,若いときに売られると,高値がついた。男奴隷は独身を義務づけられていた。ではローマ貴族はなぜこんなに大勢の女奴隷を買ったのだろうか?奴隷を産むためだと,ほとんどの歴史家は述べている。しかしそれだけならば,妊娠中の奴隷にこそ高値がついたはずだが,実際にはそうではない。奴隷が処女でないことがわかると,買い手は売り手を訴えた。それに,子どもを産むことが女奴隷の役目だとしたら,男奴隷に禁欲を強いたのはなぜか?女奴隷は愛妾と同じであるとしたローマの著述家たちは,真実を語っていたにちがいない。ホメロス以来,ギリシア・ローマ文学は,無制限な性的対象としての奴隷の供給があったことを当たり前としている。現代の作家たちだけが,故意にそれを無視するようになったのだ。


 それだけではない。ローマ貴族は多くの奴隷を怪しいほど若いうちに解放し,しかも怪しいほど多額の持参金をもたせた。これは経済的に分別のあるはからいであろうはずはない。解放奴隷は裕福で,数多くいた。ナルキサスはその当時最も裕福であった。ほとんどの解放奴隷は,主人の館で生まれていたが,鉱山や農場で生まれた奴隷が開放されることはほとんどなかった。ローマ貴族は,女奴隷の産んだ庶出の息子たちを解放したと考えてまちがいないだろう。



マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.326-327


さかのぼれば

 ちょっと計算してみればすぐにわかる。人間には必ず両親,四人の祖父母,八人の曾祖父母,そのまた上に十六人の曾曾祖父母がいる。ほんの三十世代さかのぼった,おおよそ1066年ごろには,同じ世代の直系尊属が10億人以上いる計算になる(二の三十乗)。当時の世界の人口は10億人に満たないので,多くが二重にも三重にもつながる先祖がいたということだ。私と同じく,あなたがイギリス人だとすると,1066年当時生きていた数百万人のイングランド人,すなわちハロルド王,征服王ウィリアム,はたまたそのへんにいるはしため,最も卑しい奴隷を含む,ほぼ全員(行いの正しい修道僧や尼僧は除くが)が,あなたの直系の先祖ということになる。つまり新たに移民として入ってきた人々の子孫は別として,今いるイギリス人全員が,幾重にもつながる遠いいとこにあたる。たかだか三十世代前には同じ一群に属していた人たちの子孫が現代イギリス人である。人間の(およびその他のあらゆる有性の)種に一定の統一性が見られることにはなんの不思議もない。性が執拗に絶え間なく遺伝子の共有を要求するからである。


 さらに時代をさかのぼれば,民族の相違は消滅し,人類は,単一の人種にいきつくことになる。三〇〇〇世代を少しさかのぼれば,我々の祖先はみなアフリカに住む数百万人の狩猟採集民族だったのだ。彼らは,生理学的,心理学的には現代人とまったく変わらない。だから,各民族の平均的個人のあいだの遺伝子に大差はないという結果が生じるのである。



マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.29-30


交換が人類の発展を生んだ

 10万年以上前,地球史上初めての現象がアフリカのある場所で起きた。ある「種」が世代を重ねるごとに,(さほど)遺伝子を変化させずに習慣を蓄積し始めたのだ。これを可能にしたのは交換,すなわちモノやサービスの個体間でのやりとりだった。このことによってこの「種」は,その大きいとされる脳にも収め切れない集団的な外部知性を持つようになった。二つの個体はそれぞれに一つの道具を作ったり,アイデアを思いついたりする術しか知らずとも,どちらも二つの道具やアイデアを持つことができた。単一の個体は一つのことしか理解できずとも,10個の個体が集まれば10を数える物事を理解できた。こうして交換によって専門化が促され,この「種」の習慣はさらにその数を増していった。一方で,各個体がつくり方を知る物の数は減っていった。消費はより多様化し,生産はより専門化した。当初,「種」の文化の累進的発展は緩慢だった。緊密なつながりを保てる個体群の大きさに制限されていたからだ。島の孤立状態や干ばつの被害によって個体数は減り,集団的知性も縮小する。しかし,この「種」はわずかずつその個体数と繁栄度を拡大していった。より多くの習慣を取得すればするほど,より多くの生態的地位(ニッチ)を占有し,より多くの個体を維持できるようになった。より多くの個体を維持すればするほど,より多くの習慣を取得した。より多くの習慣を取得すればするほど,より多くのニッチを生み出せた。



マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.532-533


人のほうが安上がり

 どうやら,1700年から1800年のあいだに,日本人は集団で犂を捨てて鍬を選んだようだ。その理由は,役畜より人間のほうが安く使えたことにある。当時は人口急増の時代であり,それを実現したのは生産性の高い水田だった。水田は窒素を固定できる水中の藍藻のおかげで自然に肥沃になるので,肥料がほとんど必要ない(ただし,人間の糞尿はこつこつ集められ,慎重に保存され,念入りに土に施されていた)。豊富な食糧と衛生に対する入念な取り組みのおかげで日本の人口は急増し,土地は不足したが労働力は安かったので,犂を引く牛馬に食べさせる牧草を育てるために貴重な農地を使うより,人間の労働力を使って土地を耕すほうが,文字どおり経済的である状態に達した。そうして日本人は自給自足を強め,見事なまでに技術と交易から手を引き,商人を必要としなくなって,あらゆる技術の市場が衰退した。さらには資本集約的な銃を使うのを止めて,労働集約的な刀を選んだ。優れた日本刀の刀身は強い軟鋼で作られているが,そのもろく硬い刃は,延々と鎚で鍛えられることで恐ろしく鋭利になっている。



マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.308-309


大きな脅威は政府の失敗

 帝国は,というより政府一般は,初めこそ民衆のためになることをするが,長く続くほど理不尽になる傾向がある。当初,中核となる公益事業を行ない,交易と専門化の障害を取り除くことによって,社会が繁栄する力を高める。チンギス・ハンの大モンゴル帝国でさえも,シルクロードの山賊を撲滅して,ヨーロッパの応接間に置かれる東洋の品々の値段を下げることによって,アジアの陸路貿易を活性化した。しかしその後,中世の地理学者イブン・ハルドゥーンの先例にならってピーター・トゥルチンが論じているように,政府は次第にもっと野心的なエリートを雇うようになる。彼らは民衆の生活に対する干渉を強めることによって,社会が上げる利益からの自分の取り分を増やし,一方で強要する規則を増やし,最終的には金の卵を産むガチョウを殺してしまう。ここには今日に通じる教訓がある。経済学者はすぐに「市場の失敗」を口にする。それはそれで正しいが,もっと大きな脅威を生むのは「政府の失敗」だ。政府が経営するのは独占事業なので,ほとんどが非効率と停滞に陥る。政府機関は顧客サービスよりも予算を膨らませることを考え,圧力団体は仲間のために納税者からたくさん金を搾り取ろうとして政府機関と癒着する。しかしそれでもなお,たいていの知識層は政府にもっといろいろ経営するよう求め,そうすれば,次はどうにかしてもっと理想的な無私無欲の政府になるだろうと決めてかかる。



マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.283


停滞の理由は同じ

 このような青銅時代の帝国では,商業は繁栄の源であって,繁栄の現れではなかった。にもかかわらず,自由貿易区は帝国に支配されやすい。交易の生んだ富はほどなく,税と規制と独占によって,少数の人びとの贅沢と多数の人びとの弾圧に流用されるようになる。紀元前1500年までに,商業活動が次第に国有化されるにつれ,世界で最も豊かな地域が宮廷社会主義による停滞に沈んでいったと言える。エジプト,ミノス,バビロニア,そして殷の独裁者が支配した社会は,統制が厳しく,官僚支配が行きすぎ,しかも個人の権利が弱く,支配者は技術革新を抑圧し,社会刷新を締め出し,創造性を罰した。青銅時代の帝国が停滞した理由は,国有企業が停滞する理由とまったく同じだ。独占企業では慎重な態度が報われ,実験的な試みは阻まれ,収入は次第に生産者の利益に取られて消費者の利益が犠牲にされるようになる。専制君主によって実現したイノベーションは,イギリスの国有鉄道やアメリカの郵政公社によって実現したイノベーションと同じくらい数が少ない。



マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.260-261


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