I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

物々交換が世界を変えた

 物々交換こそ世界を変えた芸当だった。H.G.ウェルズの言葉を借りれば,「私たちは野営地を永遠に引き払い,旅の途についた」のだ。およそ8万年前にはアフリカの大半を制した現生人類は,それでやめにはしなかった。私たちの遺伝子はほとんど信じられないような話を語っている。アフリカ以外で生まれた人全員のミトコンドリアの染色体とY染色体のDNAの変異パターンを調べると,次のような筋書きが実証される。6万5000年ほど前,あるいはそれからそれほど時を経ない時点で,総数わずか数百人程度の一集団がアフリカを離れた。彼らはおそらく,当時は今よりずっと狭かった紅海南端の海峡を渡ったのだろう。それからアラビア半島南岸沿いに広がり,大部分が干上がったペルシア湾を越え,インドと,当時は陸続きだったスリランカの沿岸を通り,ゆっくりと先へ進み,ミャンマー,マレー半島を抜け,そのころはインドネシアの島々の大半が埋め込まれていたスンダと呼ばれる陸塊の岸に沿って広がり,やがてバリ島近くの海峡に至った。だが,彼らはそこでも止まらなかった。きっとカヌーか筏に乗り,少なくとも8つの海峡(最大のものは65キロメートル以上)を漕ぎ渡り,島づたいに進んで,おそらく4万5000年ぐらい前に,オーストラリアとニューギニアが合わさった大陸,サフルにたどり着いた。



マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.115-116


交換が進歩を生んだ

 もう明らかだろうが,私はどちらの説も気に入らない。私に言わせれば,答えは気候や遺伝子,古代の遺跡,いや全面的には「文化」の中にすらなく,経済にある。人間はあることを互いにし始め,それが実質的に集団的知性を作り上げるきっかけとなった。すなわち彼らは,血縁者でも配偶者でもない相手と,初めて物を交換し始めたのだ。だから,ナッサリウスの貝殻が地中海から内陸部にまで至った。その結果,専門化が起き,それがテクノロジーの革新を引き起こし,そのせいでさらに専門化が促進され,交換がいっそう盛んになった。こうして「進歩」が生まれた。彼らはフリードリヒ・ハイエクが「カタラクシー」と呼んだものを思いがけず手に入れた。これは,いったん始まると自らを拡張し続けるプロセスだ。


 交換は発明される必要があった。ほとんどの動物は自発的に物を交換したりはしない。ほかのどんな動物種も物々交換をすることは驚くほど珍しい。家族の中での分かち合いはあるし,食べ物と引き換えの交尾は昆虫や類人猿も含めて多くの動物で見られるが,ある動物が血縁関係にない動物から何かと交換で別の物を手に入れるケースはまったくない。



マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.102


「資源の呪い」

 カルロス5世とフェリペ2世の統治下の16世紀スペインでは,ペルーの銀鉱山が生み出した莫大な富が浪費された。それ以後も,思いがけない授かりものを得た国々,とりわけ産油国(ロシア,ベネズエラ,イラク,ナイジェリア)がこれと同じ「資源の呪い」をかけられ,レント・シーキングする専制君主に支配されることになった。そうした国はせっかくの授かりものを活かせず,オランダ,日本,香港,シンガポール,台湾,韓国といった,資源はまったくないもののせっせと貿易と販売に勤しむ国よりも経済成長率が低い。17世紀には冒険的事業家の典型だったオランダ人たちでさえ,あまりに多くの天然ガスを見つけた20世紀後半には,この資源の呪いにやられた。インフレを起こした通貨は,輸出業者を痛めつけ,オランダ病と呼ばれる事態を引き起こした。日本は20世紀の前半,嫉妬心に駆られるように資源の争奪に明け暮れ,破滅したが,世紀の後半は資源なしで貿易と販売に努め,世界一の長寿国になった。2000年代には欧米諸国は,アメリカ合衆国の連邦準備制度理事会(FRB)が私たちに向けて放出した中国の貯蓄という安価な授かりものの使い方を誤った。



マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.62-63


ヒポクラテスとガレノス

 なお,この「神聖病について」の中,および『ヒッポクラテス集典』のいま一つの代表的論文である「古い医術について」の中には,のちの気質論の背景となる<体液>の考え方も示されている。彼らにとって,体液は,プネウマと並んで,その過多や欠乏が身体の状態を左右する重要な要素であったらしい。だが,これを四元素や四季と結びつけ,熱,冷,乾,湿の各比率(程度)の異なる血液,粘液,黄胆汁,黒胆汁の四種に限った有名な<四体液説>の考えは,上述の「神聖病」や「古い医術」の中ではなく,「人間の本性について」という別の短い論文の中で提示されている。元来,ある人々には活力の源となる食物やアルコール飲料が,他の人々にとってはかえって有害であるという経験的事実から出発し,その違いの原因を,身体を構成する物質の配分に求めて到達した結論が,コス派(ヒッポクラテス学派)の体液説である。したがって,そこには身体的個性すなわち<体質>の概念の芽ばえはあるが,四体液説を媒介に,これを4つの<気質>に結びつけて心理学的な気質理論(性格理論)を展開するのは,600年後のガレノスであるとされている。



高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.91


恐怖を行使する者

 残虐行為には,単純にして恐ろしく,きわめて明白な有用性がある。モンゴルは,かつて抵抗した町や国を徹底的に殲滅したことで有名だったが,ただそれだけで,戦わずして数々の国を降参させることができた。<テロリスト>の語はずばり<恐怖(テロル)を行使する者>という意味である。個人でも国家でも,恐怖を無慈悲かつ効果的に駆使して権力をにぎるのに成功した例は,地理的にも歴史的にも近いところにごろごろしている。



デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.335


殺人への抵抗を減らす武器

 このような現象は,軍事史をひもとけばいたるところに見られる。たとえば戦車(チャリオット)(馬に牽かせる古代の戦車)である。戦車はきわめて長期にわたって戦場を支配してきたが,その理由はしばしば不可解とされてきた。戦術的,経済的,そして力学的に見た場合,戦車はコスト効率のよい戦争の道具とはいえない。にもかかわらず何世紀にもわたって戦場の花形でありつづけたのである。だが,戦車のもたらす心理的影響に目を向ければ,その成功の理由はすぐにわかる。戦車は史上初の組扱いの武器(クルーサーブド・ウェポン)だったのだ。


 ここには複数の要因が関わっている。長距離兵器としての弓,射手が高貴の身分だったことによる社会的な距離。戦車は敵を追跡して背後から矢を射かけるのに使われたから,そこから心理的な距離も生まれていた。しかし決定的だったのは,戦車が伝統的に御者と射手との二人乗りだったことだ。ただそれだけのことで,近接度の高い集団内における義務と匿名性が発生していたのである。第二次大戦中,ライフル銃手は15~20パーセントしか発砲しなかったのに,組扱いの武器(機関銃など)では100パーセント近くが発砲されていたのと理由は同じである。



デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.258-259


銃よりも手榴弾→相手を見なくて済む

 第一次大戦の至近距離での塹壕戦は,心理的にも物理的にも手榴弾は使いやすかった。そのため,キーガンおよびホームズによれば「歩兵はライフルで正確な射撃を行うことを忘れていた。おもな武器は手榴弾になっていたのだ」。いまならその理由がわかる。手榴弾が好まれたのは,近距離での殺人,とくに犠牲者の姿を見,声を聞かねばならない場合にくらべると,殺人にともなう心理的トラウマが小さかったからなのだ。



デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.202


戦争の長期化がもたらした弊害

 これは興味深いことだが,何ヵ月も連続して戦闘のストレスにさらされるというのは,今世紀の戦場でしか見られない現象だ。前世紀までは,何年も続く攻城戦のときでさえ,戦闘からはずれる休暇期間は非常に長かった。おもに火砲や戦術がまだ未熟だったために,ひとりの人間が数時間以上もつづけて実際の危険にさらされることはめったになかったのだ。戦時には精神的戦闘犠牲者は必ず出るものだが,物理的・兵站的な許容量が増大して,人間の精神的許容量を完全に超えるような長期の戦闘が可能になったのは今世紀に入ってからなのである。



デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.102-103


天使や妖精から宇宙人や超能力へ

 意外に思うかもしれないが,近代の始まりといわれる時代は,中世キリスト教世界の崩壊とともに,異端とされてきた古代の叡智が復興し,オカルト思想が激動の時代とともに渦巻いていた。俗に「科学的」といわれるような機械論的自然観は,17世紀のニュートン力学の登場以降に確立されていくものである。


 ニュートンののち,18世紀にオカルト思想の考え方を生物学に活かそうとしていたのが,科学者にして芸術家のゲーテであった。たとえば,ゲーテの『ファウスト』は当時のオカルト思想の状況をうまく伝えている。


 20世紀には,精神分析学の権威ユングが,そのようなオカルト思想を人間の内面で起こる現象として捉え,集合的無意識で読み解こうと試みている。そう考えると,1950年代にユングがUFO現象に古きオカルト思想の蘇生を感じ取り,遺作となる『空飛ぶ円盤』を著したのも頷けるのである。


 神秘体験と呼ばれるものは,古くは「天使」「妖精」「人魚」などによって説明されたが,現代は「宇宙人」「超能力」「心霊現象」などにとってかわられているともいえるだろう。



前田亮一 (2016). 今を生き抜くための 70年代オカルト 光文社 pp.7


陸軍α,β

陸軍は,心理テストの作成に関しては優れた歴史を有する。陸軍で作成されたテストはそのまま民間で標準的なテストとして採用されてきた。第一次世界大戦では,読み書きのできる兵士たちには「陸軍アルファ」テストが,読み書きのできない兵士たちには「陸軍ベータ」テストが実施された。そのテストは200万人の兵士が受けたのだが,その目的は精神的に「有能」な兵士と「無能」な兵士とを振り分け,有能とみなされた兵士たちの中から責任の重い任務に就かせる兵士を選抜することにあった。賛否両論あるものの,集団知能テストは民間で瞬く間に広がった。
 それからほぼ1世紀を経て,知能テストは現代では不動の位置づけを保ったままだ。第二次世界大戦で,陸軍は,より特定の能力を測定するさまざまなテストを開発した。その1つが「航空心理学プログラム」であるが,このプログラムによって,パイロットとなる人員を選抜して類別する新たな手法が開発された。開発に関わったのはいずれも20世紀のアメリカの心理学で名前を馳せた人物だった。

マーティン・セリグマン 宇野カオリ(訳) (2014). ポジティブ心理学の挑戦:“幸福”から“持続的幸福”へ ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.226-227

悪魔の悪賢いトリック

21世紀では,一般の共和党員は敵を億万長者ジョージ・ソロスの手先と非難し,一般の民主党員は敵を億万長者チャールズとデイヴィッド・コッホ兄弟の傀儡と非難する。上層の敵を信じるのは少数派だと言われてきたが,こうした策略はもはや政党政治の一部となった。悪魔のいちばん悪賢いトリックはほとんど誰も悪魔の存在を信じない点にある。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社

同性愛者への懸念

同性愛者に対する懸念はつねに,アメリカ文化の一要素であったが,第二次世界大戦後,この懸念は過熱状態に陥り,歴史家のデイヴィッド・K・ジョンソンが同性愛を象徴する色を冠して「同性愛者(ラヴェンダー)狩り」と呼ぶ時代にアメリカは突入した。性犯罪者に関する懸念が嵩じて,21の州とコロンビア特別区は,戦後10年ほどのうちに「性的精神病質者」を取り締まる法律を導入した。こうした方策は性的暴行から子どもを保護するために推進されたのだが,導入とほぼ時を同じくして,合意のある成人しか関与していない事例にも適用されることになった。一方ワシントンでは,性に対する懸念は冷戦と重なりあっていた。ウォルデックが「ホモセクシャル・インターナショナルが共産党インターナショナルの関連団体のごとき存在になっている」と警鐘を鳴らしたとき,政府当局者らはこれを深刻に受け止めた。今日では性差別防止のための立法を早くから擁護してきた人物としてよく知られる,キャサリン・セント・ジョージ下院議員(ニューヨーク州選出)は,ウォルデックの記事が連邦議会議事録に掲載されるよう取り計らった。中央情報局(CIA)長官のロスコー・ヒレンケッターは,ある下院委員会で,「倒錯者が要職に就くと,政府内政府」を形成すると訴えた。ゲイによるフリーメイソン的友愛について述べたヴィダルの一節に悪意を加味したような言葉で,ヒレンケッターは同性愛の公務員が「ロッジ,すなわち友愛会に所属している」と証言した。「倒錯者の一人がほかの倒錯者を支部に紹介すると,彼らは次々に移動して,多くの場合,その場限りの情事をさらに重ねるために,突き進むのだ」。ゲイやレズビアンは,裏づけとなる根拠がほとんどないにもかかわらず,危険人物と見なされた。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.108-109

全体主義

共産主義やマッカーシズムに与する者たちが体制順応主義を憂慮していたと聞くと,違和感を覚えるかもしれないが,全体主義への反対を公言する者たちが権威主義的な手段を是認することには,さらに強い違和感があるかもしれない。ところが,これは珍しくもなく,その歴史も全体主義の誕生にまでさかのぼる。歴史家レオ・リブフォは,「ファシスト(ブラウン)狩り」という言葉を生み出して,1930年代から40年代における国家転覆を阻止する運動の高まりを評した。この頃,ナチに対する当然の恐怖から,極右の言論と集会の自由に対する制限を求める声が上がったが,こちらは当然とは言いがたかった。そうしたなか,当局は多種多様な人びとをひと括りにし,ドイツに同調する人たちだけでなく,高名な保守派の人びとまでも監視下に置いた。ファシスト狩りは左翼ではなく右翼に向けられたものではあるが,より知名度の高い赤狩りと同じく,手近な脅威を誇張し,ほんとうに凶暴な陰謀者たちと,急進派だが平和的な活動家や主流派の人たちとの区別を曖昧にしている。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.102-103

ドイツからの恐怖

ひとたび外からの敵という筋書きが確立されると,教皇や大族長だけでなく,敵と想定されるあらゆる相手方に適用できた。1917年4月に,アメリカがドイツとオーストリア=ハンガリー帝国に対抗する連合国軍に加わり,第一次世界大戦に参戦したとき,戦場ははるか遠いヨーロッパだったが,敵の長い触手がアメリカの中心にまで届いているのではないかという恐怖に国民の多くがとらわれた。
 触手を伸ばす敵国に対する国内での対抗策は,ときには恐ろしく,ときには滑稽で,その両方の場合もあった。ドイツ音楽の演奏が禁じられた町もあった。ピッツバーグではベートーヴェンが禁止となった。また,ドイツ人が所有する醸造所への厳しい取締りが行なわれた。コミック・ストリップの『カッツェンジャマー・キッズ』は,ドイツ系と思われる主人公の腕白少年の出身国を設定し直し,二人がほんとうはオランダ人であるとした。
 ドイツ語で書かれた本が焼かれる焚書が,国中のいたるところで頻発した。自警団員はドイツ移民を捕らえては拷問にかけ,その財産を破壊した。イリノイ州コリンズヴィルでは,暴徒化した人びとが,ドイツ系アメリカ人の未成年に事実無根のスパイ容疑をかけて集団暴行し,殺害した。被告人側の弁護士は裁判でこの犯罪を「愛国的殺人」と主張し,陪審員はほどなく,殺害に加わった人たちを無罪放免にした。コリンズヴィルの市長は,連邦議会が背信行為防止にもっと力を尽くしてさえいれば,このような出来事は避けられただろうと述べた。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.57-58

食生活の大変更

人間のご先祖はたぶん,食生活を何度か大幅に変えたのだろう。はじめは繊維質の多い植物ベースの食事,それから動物の肉をもっと含む食事へ。やがて農業が発達して,ふたたび植物中心の食事に戻る。狩猟採集民の食事を見ると,人間がすさまじく多様な食物に適応できることがわかるけれど,そこには必ず肉が含まれていた。北極圏にスノーモービルや衛星テレビがやってくるまでは,アラスカ北部のヌナムイット族が摂取するカロリーの99%は,動物性だった——たとえば,生のムクトゥク(=クジラの皮膚と脂肪),魚,セイウチ,アシカのヒレを発酵させたものなど。一方,カラハリ砂漠のクン族は,85%植物性の食事でも楽々と暮らしている。何百もの狩猟採集民の食事を調べた,コロラド州立大学の栄養研究家ローレン・コーディンは,こうした集団は平均するとカロリーの3分の2を動物の肉から摂取していると結論した。動物性の食品が(クン族を下まわる)15%以下の狩猟採集社会はひとつもなかったのだ。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.225

動物以下

ナチスはフレーミングを利用して,アーリア人を頂点とし,ユダヤ人を「人間以下」——ほとんどの動物以下——に分類する,倒錯した道徳体系を築き上げようとした。ジャーマン・シェパードやオオカミたちが道徳ヒエラルキーのなかで高いところに位置づけられたのに対し,ユダヤ人はネズミや寄生虫,シラミなどの害獣や害虫にたとえられた。1942年,ユダヤ人はペットを飼うのを禁じられた。ナチスは,家畜を人道的なやり方で屠殺処分するよう定めた法手続きに従い,ユダヤ人たちが飼っていた何千匹というペットを(麻酔を使って)安楽死させた。これは歴史における大きな皮肉のひとつだ。彼らのイヌやネコとは違って,ユダヤ人たちはその人道的屠殺法によって保護されることはなかった。それどころか,強制収容所に送られたユダヤ人たちがそこで受けた扱いは,第三帝国の動物福祉法下でも通用しないようなひどいものだった。ナチスにとって,ユダヤ人は人間と動物の境界線上にいるあいまいな存在だった。彼らは汚れた人種,変種であり,完全な人間でも完全な動物でもない存在だった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.84-85

真珠湾攻撃に対して

プッツィ・ハンフシュテングルがかつてヒトラーに言った,次に起こる世界規模の戦争において,アメリカの敵につくことは致命的だという警告を,彼が覚えていたかどうかはわからない。どちらにせよヒトラーは,日本がアメリカを攻撃したと聞いた瞬間,これ以上のことはないと喜んだ。いまやアメリカは太平洋での戦争に主軸を置かざるを得ず,イギリスやソ連にはエネルギーや物資をあまり割くことができなくなるだろうと考えたのだ。真珠湾攻撃の翌日,ヒトラーはこう断言した。「われわれがこの戦争に負けるはずがない。いまやわれらには,3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」
 真珠湾攻撃による情勢の変化を,もっとも歓迎した国家指導者はチャーチルであった。運命のその日,大西洋を挟んでつながれた電話でルーズヴェルトは,イギリス首相が待ち望んでいた言葉を口にした。「われわれはいまや,同じ船に乗っている」。12月26日,チャーチルはアメリカ議会で演説をした。「わたしにとってなによりの吉報は,アメリカ合衆国が,かつてないほど一致団結して,自由の剣を抜き,その鞘を投げ捨てたことである」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.465

男性の強さ

ナチ党は活動の初期から,男性の精力の強さを誇示することに力を入れていた。「ナチ党が人々の性への本能を掻き立てようと,さまざまな手段を駆使してきたことをわたしは知っている」とシュルツは書いている。「大規模な集会のスピーチでは,ナチ党の男たちによる性の武勇伝が延々と語られ,それを聞いた突撃隊員たちはさっそく実践してやろうと勇んで会場を出て行くのだった。パートナーならすぐに見つかる。女性たちは集会場の外で待っているのだから」。ヒトラーは出生率を上昇させることに熱心で,新聞の売店には「ヌードの男性や女性で埋め尽くされた本や雑誌」が並んでいたと,CBSの新人キャスター,フラナリーは書いている。「ナチスドイツがこうした計画を進めている理由は,ひとつしか考えられなかった」
 多くの男たちが家を離れて敵地へ向かい,とくに1941年6月にドイツ軍がソ連に侵攻し,兵士たちが現地でバタバタと死んでいくようになってからは,当局は出生率向上政策をさらに進化させ,女性の配偶者の有無を問わないことにした。「『非摘出子』という言葉は,ドイツ語から抹消されるべきである」。ドイツ労働戦線の指導者ローベルト・ライはそう宣言した。フラナリーによると,世間体が気になる場合は,女性は戦死した兵士の名前を合法的に貰い受けることができたという。ナチスは,未婚の母親たちは「若きドイツの英雄」の子どもたちを生んでいるのだと喧伝していたが,実際のところ,子どもたちの父親はたいていは「年若い秘書や事務員,販売員たちの既婚の上司」だったと,シュルツは指摘している。こうして「ナチ党が自分たちの非嫡出子を守ってくれるという理由で,ナチズムにしがみつく」女性層ができあがっていった。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.433-434

個人の経験

彼らがなぜこれほど鈍感だったのかと言えば,それはひとつには,個人的な付き合いの場では,アメリカの若者たちにとってドイツ人はやさしく親切だと感じられたからだ。1936年にはじめてドイツでひと夏を過ごしたハワード・K・スミスは帰国したのち,<ニューオーリンズ・アイテム紙>の記者としての仕事に復帰したものの,翌年の夏,またドイツに戻ってきた。ドイツの政治制度についてもっとよく知りたいと考えたスミスは,倹約のためにヒッチハイクをすることにしたが,あまりに簡単にどこにでも行けることにひどく驚いたという。「バッグの上から小さなアメリカの旗をかけておくだけで,あの素朴で親切な人たちはすぐに車を停めてくれた。ドイツ人の外国人——とくにアメリカ人——に対するやさしさや,こちらが圧倒されるほどの歓待ぶりには,目を見張るものがあった」。1年前のオリンピックでのアメリカ人アスリートの活躍が,「アメリカ人がドイツ人のいちばんお気に入りの外国人」になった理由だろうと,スミスは考えていた。こうしてドイツ人の親切を受けた旅行者たちは,最後まで無邪気な外国人として機嫌よく過ごし,自分たちのまわりで起こっていた事の本質を見抜けずにいたのだった。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.339

ヒトラーとオリンピック

皮肉にもヒトラーとナチ党は,ずっと以前から,オリンピックなどの国際スポーツ大会をドイツで開催するというアイディアを,辛辣な言葉で批判し続けていた。彼らは1923年には,ミュンヘンで開かれたドイツ体操祭に反対している。この大会が「ユダヤ人,フランス人,アメリカ人」の参加を受け入れているのがその理由だと,ヒトラーの署名がある請願書には記されている。政権を取る直前の1932年,ヒトラーはオリンピックを「フリーメイソンとユダヤ人の陰謀」と糾弾した。しかしオリンピックをベルリンで開催することは,すでにその1年前に決定された事項であった。ナチ党が政権の座に就いてからも,彼らはまだ,”ユダヤ人や黒人を含めた国際的な競技会”という概念に納得がいかないようだった。<フェルキッシャー・ベオバハター紙>は怒りもあらわに,黒人が白人と競うことができるなどという考えは「オリンピックの概念にとっての不名誉であり,その価値を貶めるものだ」と書き立てた。「黒人は除外すべきだ。われわれは断固要求する」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.285-286

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