I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

テロは今世紀の問題ではない

テロが21世紀の現象だと考える人がいたら,記憶力にいささか問題がある。1960〜70年代には政治的暴力の嵐が吹き荒れ,さまざまな軍隊や同盟,連合,旅団,分派,戦線などによる何百回もの爆撃,ハイジャック,狙撃が行われた。当時,アメリカでは黒人解放軍,ユダヤ防衛同盟,ウェザー・アンダーグラウンド(「ウェザーマン」とも呼ばれ,ボブ・ディランの曲の歌詞「風向きを知るのに予報官(ウェザーマン)はいらない」から命名された),プエルトリコ民族解放軍(FALN),シンバイオニーズ解放軍(SLA)などの過激派組織が活動していた。SLAは,70年代に起きた現実離れした事件の1つを起こしたことで知られる。1974年,SLAは新聞王の娘パティ・ハーストを誘拐し,洗脳された末にメンバーとなったパティは「タニヤ」という名を与えられ,銀行強盗にも加担した。7つの頭を持つコブラが描かれたSLAの旗を背に,ベレー帽に機関銃という戦闘姿でポーズをとる彼女の写真は,ニクソン大統領がホワイトハウスを去る際にヘリコプターから別れの挨拶する写真や,白いポリエステルのディスコスーツにドライヤーでセットしたヘアスタイルのビージーズの写真とともに,70年代を象徴する画像の1つとなった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.602-603

20世紀の暴力という神話

またこのリストを見ると,19世紀は平和だったが,20世紀には組織的暴力が飛躍的にエスカレートしたという,これまでの一般通念が誤りであることがわかる。第1に,それが成り立つには,19世紀初頭に甚大な被害を出したナポレオン戦争を除外しなければならない。第2に,ナポレオン戦争後に一時的な平和が続いたのはヨーロッパだけの話であり,ほかの地域に目を向ければ,いたるところでヘモクリズムがあった。中国の太平天国の乱(おそらく史上最悪の内戦である宗教的反乱),アフリカの奴隷貿易,アジア・アフリカ・南太平洋における帝国主義戦争,そしてリスト入りしていない2つの大虐殺——アメリカの南北戦争(死者65万人),1816年から1827年にかけて100万から200万人の死者を出したズールー王国のヒトラー,シャカ王によるアフリカ南部征服など。まだ忘れている大陸があるだろうか。そう,南米大陸だ。南米大陸でも数多くの戦争が起こったが,なかでも死者40万人を出し,パラグアイの人口の60パーセント以上が失われた三国同盟戦争は,比率からいえば近代における最も破壊的な戦争である。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.360

ハンの人生の快楽

モンゴル帝国初代皇帝チンギス・ハンにとって,人生の快楽とは次のようなものだった。「男にとって最大の歓びは,敵を征服し駆逐することだ。彼らの馬に乗り,財産を奪い,彼らの愛する者が涙を流すのを見ること,彼らの妻や娘を抱くことだ」。それがただの大言壮語ではなかったことを,現代の遺伝学は証明している。今日,かつてのモンゴル帝国の版図に住む男性の8パーセントは,チンギス・ハンの時代にまで遡る同一のY染色体をもっており,このことは,それらの男性がチンギス・ハンやその息子たち,そして彼らに抱かれた多数の女性たちの子孫であることを示している可能性が高い。これに勝る手柄をあげるのはかなりむずかしそうだが,モンゴル帝国の再興を試みたテュルク人のティムール(別称タメルラン)は健闘している。ティムールは西アジアの都市を征服するたびに何万人もの捕虜を殺害し,記念として頭蓋骨で尖塔を立てた。あるシリア人は,1500個の頭蓋骨でできた塔を28も目撃したという。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.359-360

債務奴隷

奴隷制と近い関係にあるのが債務奴隷である。聖書の時代や古代以降,借りた金を返済できなかった者は奴隷にされたり,投獄されたり,処刑されたりしてきた。「厳格な」「苛酷な」という意味の形容詞 draconian の語源は古代ギリシアの立法官ドラコンだが,ドラコンは紀元前621年に債務返済不能になった者を奴隷とする法を制定した人物だ。『ヴェニスの商人』で,借金を期日までに返せなかったアントニオがシャイロックに肉を切り取られそうになるのもこの債務奴隷と関連する。16世紀には債務不履行に陥っても奴隷にされたり処刑されることはなくなったが,債務者監獄は大勢の人であふれていた。無一文であるにもかかわらず食べ物は有料の場合もあり,債務者たちは監獄の窓から通行人に物乞いをして何とか生き延びるしかなかった。19世紀初頭のアメリカでも,女性を含む何千人もの人びとが債務者監獄で悲惨な生活を送っていたが,その半数の借金は10ドルにも満たなかった。1830年代になると,債務奴隷に反対する改革運動が起こり,奴隷制廃止運動がそうだったように人びとの理性と感情の両方に訴えた。議会の委員会では,「たとえどんな場合であれ,債権者に債務者の身体を支配する権力を与えること」は正義の原則に反するとの見解が出された。委員会はこうも表明している。「もしあらゆる弾圧の犠牲者が,その破滅的運命に関わった妻や子,友人たちとともに1つの集合体としてわれわれの目の前にあらわれたとしたら,それは全人類が恐怖で身震いするほどの光景となるだろう」。債務奴隷は1820年から40年の間にほとんどすべての南北アメリカの国家で,1860年から70年の間にほとんどのヨーロッパの国家で廃止された。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.290-291

奴隷貿易

アフリカの奴隷貿易の残酷さは,人類史のなかでも際立っている。16世紀から19世紀にかけて,少なくとも150万人のアフリカ人が大西洋を航海する奴隷船で死亡した。奴隷たちは鎖でつながれ,息が詰まるような悪臭と汚物の充満する船倉に押し込められていた。ある記録によれば,「港に着くまで生き延びた者は言語を絶するほどの悲惨な姿を呈していた」という。さらにジャングルや砂漠を歩いて沿岸部や中東の奴隷市場に連れて行かれるまでの間にも,何百万人もの奴隷が死亡した。奴隷業者はさながら氷の売買のように奴隷を扱い,輸送の途中で商品の一部が失われることは織り込み済みだった。奴隷貿易では少なくとも1700万人,最大で5600万人ものアフリカ人が死亡したと考えられる。奴隷貿易は輸送中に奴隷の命を奪っただけでなく,途切れることなく奴隷を供給することによって,奴隷所有者が奴隷を死ぬまで酷使し,足りなくなれば新しい奴隷を補充できるようにした。たとえ比較的良好な健康状態を保つことができた場合でも,奴隷たちは鞭打たれての労働やレイプ,四肢切断,家族との離別,簡易死刑などの恐怖に怯えながら生活しなければならなかった。
 奴隷所有者が奴隷に対して個人的に親密な感情を抱くようになり,自らの意志で奴隷を解放することも少なくなかった。また中世ヨーロッパのように,奴隷制が農奴制や小作制度へと移行する場合もあった。奴隷を拘束状態に置いておくより税金を課した方が安上がりだったり,弱小の国家では奴隷所有者の財産権を行使できなかったりしたからだ。だが制度としての奴隷制に反対する大衆運動が起きたのは18世紀になってからであり,その後奴隷制は急速にほぼ消滅に近い状態へと追いやられた。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.286-287

拷問から収監へ

16世紀末までに,イングランドとオランダでは軽微な犯罪の罰として,拷問や四肢切断に代わって刑務所への収監が行われるようになった。だが,状況はさほど大きく改善されたわけではない。囚人は自分の食べ物や服,藁を自分で買わねばならず,もし本人にも家族にも払う能力がなければそれらは支給されない。また金を出さないと,内側にトゲの付いた鉄の首輪や,足を床に固定する鉄の棒を外してもらえないという慣行もあった。ネズミなどの害獣や害虫,暑さと寒さ,排泄物,腐った食べ物……これらは単に獄中生活を悲惨なものにしただけでなく,疫病を蔓延させ,刑務所を事実上の死の収容所にした。ろくに食べ物を与えられていない囚人たちが,起きている時間のほとんどを木のやすりがけや石割り,踏み車を踏むなどの労働を強制される刑務所も少なくなかった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.275-276

文明化のプロセス

では最近の犯罪率低下は,どう説明できるのだろうか?多くの社会科学者が説明を試みているが,せいぜいそれには複数の原因があるという結論にとどまっている。しかもあまりにも多くのことが同時に起きたため,それらが具体的に何なのかは誰も明確にしていない。しかし私は2つの包括的な説明が可能だと考えている。第1に,リヴァイアサンがより大きく,賢明で効率的になったこと。第2に,1960年代のカウンターカルチャーが逆転させようとした文明化のプロセスが,ふたたび前向きに進みはじめたことだ。それどころか,文明化のプロセスは新しい段階に入ったように見える。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.231

失業より格差

数ある経済尺度のなかで,一般に犯罪と関係の深いのは失業より格差である。だが所得分配の不平等さの指標であるジニ係数は,犯罪率が低下した1990年から2000年までの間に上昇しており,犯罪が急増していた1968年には,反対に最低の数字を記録している。暴力犯罪の発生件数の変化を経済格差で説明することの問題は,それが異なる州や国の間での比較には有効である一方,1つの州や国のなかでの時間的変化には適合しないことだ。おそらく国や統治や文化のもつ固定的な特性にあり,それが格差と暴力の両方に影響を与えるのだと考えられる(たとえば貧富の差の大きい社会では,貧困地区に警察の保護が行き渡らないため,暴力事件の巣窟となる可能性があるなど)。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.227

そもそも正しくない

犯罪の動向の説明に使われるもう1つの有力な要因——経済——も,この場合にはほとんど役に立たない。たしかにアメリカの失業率は1990年代に下がったが,カナダでは逆に上がっており,それでも暴力犯罪の発生件数はカナダでも減少しているからだ。フランスとドイツでも失業率が上がったのに暴力犯罪が減少したが,アイルランドとイギリスでは失業率が下がったのにもかかわらず暴力犯罪が上昇した。これは,一見して思うほど驚くことではない。犯罪学者のあいだでは,失業率と暴力犯罪のあいだには明確な相関関係は存在しないことは長く知られている(失業率と窃盗犯罪にはなんらかの相関関係がある)。それどころか,2008年の世界金融危機から3年間,大恐慌以来最悪の景気後退が起きたときも,アメリカの殺人発生率は14パーセント減少したのだ。これを受けて犯罪学者のデイヴィッド・ケネディは,取材に応えてこう述べている。「誰の頭にも刷り込まれている考え——経済が悪くなれば,犯罪率が上がる——は間違っている。そもそもそれが正しかったことなどないのだ」。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.226-227

1960年代の暴力

1950年代にロックミュージックが突如として登場したとき,政治家や聖職者はそれが道徳を腐敗させ不法行為を助長するものだとして非難を浴びせた(オハイオ州クリーブランドにあるロックンロール・ミュージアムに行くと,頭の古い人びとが声高にロックを非難している笑えるビデオが見られる)。では私たちは,そうした人びとが正しかったと(ウグッ)認めるべきなのだろうか。1960年代の大衆文化の価値観を,その時代の暴力犯罪の増加と結びつけることはできるのか?もちろん,直接の結びつきはない。相関関係は因果関係ではなく,おそらくは第3の要因——文明化のプロセスの価値観に対する反発——が,大衆文化における変化と暴力行為の増加の両方を引き起こしたと考えられる。さらに,ベビーブーマーの圧倒的多数は暴力をふるうことなどいっさいなかった。それでも,人びとの考え方と大衆文化は互いに強化しあうことは確かであり,影響を受けやすい個人やサブカルチャーがなんらかの形でその影響力にさらされる可能性の高い辺縁部では,非文明化的な思考が実際の暴力の促進を引き起こすという因果の矢が生まれるのは,ありうることなのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.218

自力救済

自力救済による正義は,その人間の武勇と決意の信頼度にかかっており,今日にいたるまでアメリカの南部には信頼できる抑止力——名誉の文化とも呼ばれる——に対する執着が色濃く残っている。名誉の文化の本質は,略奪目的の暴力や道具的攻撃[目的達成の手段としての攻撃]を認めず,侮辱などのひどい扱いに対する報復のみを認めるという点にある。心理学者のリチャード・ニスベットとダヴ・コーエンは,こうした考え方が,いまなお南部の法律や政治,そして人びとの考え方に浸透していることを明らかにした。強盗にともなう殺人の件数は南部と北部で違いはなく,南部のほうが多いのは口論がエスカレートした結果の殺人だけであることを,2人は突きとめたのだ。南部の人びとは抽象的な意味の暴力は是認せず,自分の家庭や家族を守るという目的でのみ認めている。南部諸州の法律も,この倫理性を是認している。自分自身や財産を守るための殺人には寛容で,銃の購入に対する規制は緩やかで,学校での体罰(「パドリング」)を許容する。殺人罪には死刑を指定し,司法制度は死刑執行に積極的である。南部では他の地域と比べて,兵役を務め,陸軍士官学校で学び,外交に関してタカ派的な考え方を取る人が多い。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.193

合法的な武力

南部の暴力の歴史がこれほど長いのはなぜなのか?最も包括的な答えは,アメリカ南部では政府の文明化機能がヨーロッパはいうまでもなく,アメリカ北東部のように深く浸透しなかったということだ。歴史学者のピーター・スピーレンバーグは,アメリカへの「民主主義の到来は早すぎた」と挑発的にも述べている。ヨーロッパでは,まず国家が人民に武器を捨てさせて暴力を独占し,その後人民が国家の装置を引き継いだが,アメリカでは人民が,国家に武器を捨てさせられる前に政府を引き継いだ。人民は武器を保持し携帯する権利をもつという,有名な合衆国憲法修正第二条の条文は,まさにこのことを示している。言いかえればアメリカ人,とりわけ南部と西部のアメリカ人は,合法的な武力行使を政府に独占させる社会契約にきちんと署名したことは一度もないのだ。アメリカの歴史の大半を通じて,合法的な武力は民警団や自警団,リンチを行う群衆,私設警察,探偵社,私立探偵によって行使され,そして何より個人の特権として守られてきたのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.192

問題解決と別の問題

こう見てくると,暴力に関していえば,初期のリヴァイアサンは1つの問題を解決できたものの,別の問題をつくり出してしまった。人びとにとって,殺人や戦争の犠牲者になる確率は小さくなった反面,今度は暴君や聖職者や泥棒政治家たちに抑えつけられ,言いなりにさせられたのである。これにより,「平和化」という言葉には不吉な意味が付与される。平和がもたらされるだけでなく,強圧的な政府による絶対的支配が押しつけられることになるからだ。この2番目の問題を解決するまでには,さらに数千年の歳月を要することになる。しかも世界の大部分は,今日もなおこの問題を解決できずにいるのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.125

絶対数か相対数か

絶対数でいえば,文明社会の破壊行為は原始社会とは比べものにならないのは当然だ。しかし比較のためには絶対数を使うのがいいのか,それとも相対数,つまり人口に対する比率を用いるべきなのだろうか?
 これは,100人の人口の半分が殺されるのと,10億人の人口の1パーセントが殺されるのと,どちらが悪いかという道徳的善悪の測りがたい問題を私たちに突きつける。1つの考え方はこうだ。1人の人間が拷問されたり殺されたりしたとき,その苦しみの度合いは,ほかに何人の人間が同じ運命に遭おうと変わらない。したがって私たちが同情を寄せ,分析の対象にすべきなのはこうした苦しみの合計だという考え方である。だが別の考え方もある。生きるということは取引であり,人は暴力や事故,病気などの理由で早死にしたり,苦しみながら死ぬ危険を冒しつつ生きている。したがってある特定の時代と場所で十分な生を謳歌する人の数は道徳的な善として教え,これに対して暴力の犠牲になって死ぬ人の数は道徳的な悪として数えなければならない。別の表現を使えば,「もし自分が,ある特定の時代に生きていた人の1人だったとしたら,自分が暴力の犠牲になる確率はどのくらいあったか?」ということだ。この2番目の論理にしたがえば,異なる社会間の暴力の有害性を比較する際には,暴力的行為の数ではなく,その発生比率に注目すべきだという帰結になる。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.108-109

立派な人格から粗暴さへ

私たちが経験したもう1つの大きな変化は,日常生活における力の誇示に対する許容度が低くなったことだ。数十年前までは,自分を侮辱した相手に拳を振り上げることは,その人間が立派な人格を持つことのあかしだった。ところが今日,それは粗暴であることのあらわれ,衝動制御障害の兆候であって,その人物は怒りのコントロール・セラピーへの参加資格ありとみなされてしまう。
 象徴的なのは1950年に起きたある出来事だ。当時のアメリカ大統領ハリー・トールマンの娘マーガレットは歌手の卵だったが,ワシントン・ポスト紙に彼女のデビュー公演をこきおろす批評が載った。トルーマンはその批評子宛に,ホワイトハウスの便箋にこうしたためた手紙を送りつけた。「いつか貴殿と面会したいものです。その際には,新しい鼻と,目に当てる肉の牛肉[目の周りのあざには生の肉を当てて治すという民間療法がある]をたっぷり,それに下半身用のサポーターをご用意ください」。作家であれば誰しも同様の衝動を抱いた覚えはあるだろう。だが今日では,批評家に暴行を加えると公然と脅すなどというのは無教養で粗野なことであり,もし権力の座にある者がそんなことをすれば不正で悪質な行為だと決めつけられる。だが当時,トルーマンはその父性的な騎士道精神の持ち主として尊敬されていたのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.69-70

磔の刑

ローマにおける死の手段としてもっとも有名なのは磔(crucifixion)だ。この語は,耐えがたい苦しみを表す形容詞excruciatingの語源にもなっている。教会の祭壇の上方を見たことがある人は誰でも,十字架に釘で打ちつけられることの言語に絶する苦痛に,たとえ一瞬であっても思いを馳せたにちがいない。胃袋の強い人なら,1986年に「ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション」誌に掲載された,イエス・キリストの死についての考古学的・歴史的資料にもとづく法医学的研究論文を読めば,さらに想像を膨らませることができる。
 ローマの磔刑は,まず裸にした受刑者を鞭打つところから始まる。使われたのは先の尖った石を編み込んだ短い革の鞭で,ローマ兵がそれで男の背中や尻,足を打つ。この論文によれば,「裂傷は骨格筋にまで達し,血を流して痙攣する細い筋肉の束が剥き出しになる」。次に,両腕が重さ45キロほどもある十字架にくくりつけられ,男はそれを背負って支柱が立てられた場所に運んで行かなければならない。そこで彼は背中をずたずたに裂かれた体を起こされ,手首に釘を打ち込まれて十字架に磔にされる(手のひらに釘を打ち込むという説明がよくされるが,手のひらの肉では体重を支えることはできない)。次に十字架が支柱にかけられ,両足は支柱に——通常は支えのブロックなしに——釘付けにされる。両腕に全体重がかかり,肋骨はその重みで広げられるため,腕に力を入れるか,釘を打たれた両足を踏ん張るかしないかぎり呼吸はむずかしくなる。3,4時間から長ければ3,4日間苦しみ抜いた末に,男は窒息か失血のために死亡する。処刑人は男を椅子に座らせることで拷問の時間を引き延ばすこともできるし,こん棒で両脚を叩きつぶし,死を早めることもできる。
 私は自分が非人道的なものにはなじみがないと思いたい人間だが,それでもこのすさまじいまでのサディズムを考案した古代人の心の中をのぞいてみたい気持ちを抑えることはできない。仮に私がヒトラーの身柄を管理していて,どんな厳罰でも与えられる立場にあったとしても,とうていこのような拷問を課そうとは思わないだろう。まずは同情心からたじろいでしまうし,こんな残虐行為に嬉々としてふけるような人間にもなりたくもない。そして,これまで世界に蓄積されてきた苦難を,これ以上——それに見あう恩恵なしに——増やすことになんの意味も見出だせない(独裁者の出現を阻止するという実際的な目的でさえ,それを達成するには,独裁者は正義のもとに裁かれるという見込みを最大化するほうが,刑罰の残虐性を最大化するより有効だと私は考える)。それにもかかわらず過去という名の異国では,磔は一般的な刑罰だった。磔刑はペルシャで考案され,それをアレクサンドロス大王がヨーロッパに持ち帰り,地中海沿岸の王国に広まったのだ。イエスは扇動の罪に問われ,2人の盗賊とともに十字架にかけられる。この物語が喚起するよう意図されていた怒り,それは軽犯罪であっても磔刑に処されるということではなく,イエスが軽犯罪者のように扱われたことに対しての怒りだった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.47-48

天気のように

21世紀にも,戦時下で女性がレイプされることはたしかにあったが,それが凶暴な戦争犯罪と見なされるようになって久しい。ほとんどの軍はレイプを未然に防ごうとするし,仮に起きれば否定したり隠したりしようとする。けれども『イリアス』に登場する英雄たちにとって,女性の肉体は正当な戦利品だった。彼らにとって女性は意のままに楽しみ,独占し,捨てられるものだったのだ。メラネウスががトロイア戦争を始めたのは,妻のヘレネが誘拐されたからであり,アガメムノンは女奴隷をその父親に返すことを拒んだためにギリシアに災いをもたらす。やがて娘を返すことを承諾した彼は,代わりにアキレウスの愛妾を横取りしてしまう。だがその後,埋めあわせのために28人もの奴隷を渡す。「わたしは幾度も眠られぬ夜を暮らし,昼は血なまぐさい戦いに明け暮れた——それも奴らの抱く女を得るために敵と戦って」。オデュッセウスは20年の不在ののちに妻のもとに戻り,誰もが自分が死んだと思っていたあいだに妻に求婚した男たちを皆殺しにしてしまう。さらにその男たちが,彼の家の妾たちと通じていたことがわかると,オデュッセウスは息子に命じて妾たちも殺させてしまう。
 こうした大量殺人とレイプの物語は,現代の戦争ドキュメンタリーの基準からみても物騒きわまりない。ホメロスや彼の描いた人物たちは,たしかに戦争が浪費であることを嘆き悲しみはしつつも,ちょうど天気のように,それを避けられない人生の現実として受け入れている——誰もが話題にはするが,どうにかすることはできないものとして。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.34

真っ向勝負してしまう

政治学者アレグィン=トフトは,この疑問につながる奇妙なパターンを発見していた。負け犬がダビデのように戦えば,たいてい勝利する。だがダビデのように戦う負け犬はめったにいないのだ。アレグィン=トフトによると,戦力に極端に差があった紛争202件のうち,弱い側が真っ向勝負を挑んだものは全部で152件——そして119件で敗北した。1809年,スペインの植民地だったペルーは宗主国に反旗を翻して鎮圧された。1816年,グルジア人はロシアに戦いを挑んで失敗した。1817年,インドのピンダリ族はイギリスに抵抗して負けた。1817年,スリランカのキャンディで起きた反乱はイギリスに鎮圧された。1823年,宗主国イギリスと戦ったビルマ人は叩きつぶされた。挙げていくときりがない。1940年代,ベトナムの共産主義勢力は宗主国フランスを苦しめたが,1951年にヴォー・グエン・ザップが通常戦争に路線変更したとたん負けが込みはじめた。アメリカ独立戦争でも,初期にはゲリラ戦術があれほど成果をあげていたにもかかわらず,ジョージ・ワシントンが方向転換してしまった。ウィリアム・ポークは,型破りな戦争を取りあげた著書『バイオレント・ポリティクス』でこう書いている。「ワシントンはイギリス式の軍隊,すなわち大陸軍の整備に勢力を注いだ。その結果,戦況がどんどん不利になって敗北寸前まで追い込まれた」。

マルコム・グラッドウェル 藤井留美(訳) (2014). 逆転!強敵や逆境に勝てる秘密 講談社 pp.36-37

大国はかならず勝利するか

過去200年に起きた大国と小国の紛争の勝敗表をつくってみよう。人口および兵力に,少なくとも10倍の開きがあることが条件だ。ほぼすべての人が,大国の勝率は100パーセントに近いと予測するはずだ。10倍の開きはそう簡単に埋まらない。だが,正解を知ると,誰もが腰を抜かすにちがいない。政治学者アイヴァン・アレグィン=トフトがはじきだした結果は,71.5パーセント。3分の1弱の戦いで,小国が勝利している。
 アレグィン=トフトはさらに,弱いほうがダビデになったとき,つまり大国と同じ土俵に乗らず,常識はずれのゲリラ戦法を採用した場合も計算した。すると小国の勝率は,28.5パーセントから63.6パーセントに跳ねあがった。たとえばアメリカの人口はカナダの10倍だ。もし両国が戦争になり,カナダが型破りな作戦を採用したら,カナダ勝利に賭けたほうがいいということになる。

マルコム・グラッドウェル 藤井留美(訳) (2014). 逆転!強敵や逆境に勝てる秘密 講談社 pp.26

政府の舵取り

大恐慌とニューディール政策がわたしたちに教えてくれたのは,たとえ未曾有の経済危機に陥ろうとも,政府が舵取りを間違えなければ,国民の命と健康を守ることができるということだった。わたしたちが今迫られている政治的選択は,大恐慌の教えを生かすのか,それとも大きなリスクを冒して別の道を進むのかという根本的な選択なのである。

デヴィッド・スタックラー,サンジェイ・バス 橘 明美・臼井美子(訳) (2014). 経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策 草思社 pp.56

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