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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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人を分ける

私はいまも,またこれまで一度も,白人と黒人の社会的政治平等を何らかの形で実現することには賛成していない。……白人と黒人とでは身体的な違いがあり,そのため,2つの人種が社会的政治平等のもとでともに暮らすのは永遠に不可能だと思う。……そして,私も他の人と同じく,白人に高い地位を与えることに賛成である。

 これは,エイブラハム・リンカーンが1858年にイリノイ州チャールズタウンでおこなった討論のなかで発した言葉だ。リンカーンは当時としては信じられないほど進歩的だったが,それでもなお,法的な面は別として社会的な人種の分類は永遠に続くと考えていた。
 だがそこから人類は進歩してきた。今日多くの国では,真剣に国政に携わろうとする人のなかで,リンカーンのような考え方を唱える人物か,あるいは少なくとも,国民の権利に否定的だとみなされそうな人物を思い浮かべるのは難しい。今日の文化は十分に進歩し,ほとんどの人が,カテゴリー的な身元から推測した特性を理由に,故意に誰かの機会を奪うのは,間違っていることだと感じられるようなレベルにまで達している。しかし,こと無意識の偏見については,理解の手がかりしかつかめていない。

レナード・ムロディナウ 水谷淳(訳) (2013). しらずしらず:あなたの9割を支配する「無意識」を科学する ダイヤモンド社 pp.232
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予測できたか

ソビエト帝国の崩壊は必然の結果のように思えるかもしれないが,それを予測できた政治学者は一握りで,彼らは嘲りの対象となっていた。政治学者がソ連の崩壊——おそらく20世紀後半において最も大きな出来事だろう——を予測できないとすれば,ほかに彼らがすべきことなどあるのだろうか。
 当時,カリフォルニア大学バークレー校で心理学と政治学を専門としていたフィリップ・テトロックは,同じような疑問を持っていた。そこで彼は前例のない大胆な実験に着手した。1987年,学界や政界の大勢の専門家から,国内政治,経済,国際関係というさまざまな項目についての予測を集めはじめたのである。
 その結果,政治の専門家はソ連の崩壊を予期できなかったことがわかった。体制の崩壊を予測し,その理由を理解するためには,さまざまな議論を1つにまとめる必要があったからだ。これらの議論は本質的に矛盾するものではなかったが,政治領域のなかで異なる立場にいる人々から出てくるため,1つのイデオロギー陣営に身を置く学者にとっては,両方の議論を受け入れることは難しかったのである。

ネイト・シルバー 川添節子(訳) (2013). シグナル&ノイズ:天才データアナリストの「予測学」 日経BP社 pp.56

現世的願望

福は,もともとは神からさずけられた「さいわい」を意味し,もっと広い意味で使われていたと思われる。七福神は,そういう幸福をもたらしてくれる神様なのだ。だから,金持ちになることだけでなく,長生きも,良縁も,立身出世も,名誉も,みな福であり幸福である。また,富も,価値あると思われるもの,有用なものすべてを言い,健康とか愛とか情とかも富だったのである(小松和彦『福の神と貧乏神』筑摩書房,1998年)。
 それが,いつしか,狭い意味での福,富の意味に変わってしまった。福は富であり,富は物質的なもの,つまりは財産であり,お金である,というようになってしまったのである。そのよい例は,福引き,福袋だ。福引きで当たるもの,福袋の中身は,お金であり,海外旅行券であり,衣服であり,宝石であり,どれも物質的な富,金銭である。
 日本の民間夢占いは,そういう日本人の現世的,物質的な幸福願望,とくにお金に対する願望があらわされていると思われる。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.78-79

血液型ブーム

1930年代には,結婚相手や職業の選択に役立つとか,特定の職業や犯罪者と血液型とのあいだに関係があるなどと真面目に論じられ,現在以上の血液型ブームが起きた。松田の本によると「昭和6年,大阪大丸本店は,無料の血液型検査をはじめた。同じころ,路上には,血液型を知ることは結婚問題,就職,採用にも役立つなどの口上をいう的屋が現れ,紋付き羽織袴の出で立ちで,東京の大勢人の集まる博覧会とか展覧会とかまたはデパートなどを利用して,唾液によって血液型を調べ,O型は軍人,政治家,A型は医者,教員に向いているなどと言って,検査料70銭をとっていた」という。
 その後,このブームは,さまざまな批判を受けて,終息するが,1つ重要な事は,当時の血液型と気質についての議論は,両者の間に相関関係が見いだせるという主張であって,具体的には,何型の人はどういう気質,性格だと判断する学問的考察だと主張されていたことである。そのため,気質や性格概念の曖昧さという問題,調査方法の適正さという問題,統計的データの処理と解釈の問題など,純粋に学問的見地からの批判が噴出し,最終的には非科学的,非学問的であるという理由と,血液型と性格を関係づける考えそのものが否定されることになった。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.63-64

大卒採用

日本に大卒採用が登場したのは明治期末期,定着したのは大正時代である。
 当初,選考開始時期は大学卒業後だった。それが変わるのが,第一次世界大戦のさなか。日本は大戦景気に沸き,学生の売り手市場となる。1915年前後には早くも卒業後という慣習が変わり,1920年代には4年生11月頃に選考開始,というスケジュールが定着する。今なら4年生11月だと十分遅いと思えるが,当時はこれでも早過ぎると問題になっていた。

石渡嶺司 (2013). 就活のコノヤロー:ネット就活の限界。その先は? 光文社 pp.87

歴史に葬り去る

1945年5月にドイツが降伏すると,チャーチルはその数日後に予想外のショッキングな行動に出た。暗号解読が第二次大戦の勝利に貢献したという証拠をことごとく破棄するよう命じたのである。こうして暗号学やブレッチリー・パークやチューリングやベイズの法則やコロッサスが連合軍の勝利に貢献したという事実そのものが,葬り去られることとなった。チューリングの助手のグッドは後に,「ホレリス[のパンチ]カードから逐次統計,経験的ベイズやマルコフ連鎖や意思決定理論,そして電気計算機に至るまでの」対ユーボート戦や暗号解読に関するすべてのことが超機密にされた,とぼやいている。ほとんどのコロッサスが解体され,見る影もない部品の山となった。コロッサスを作ってタニー暗号を解読した人々は,イギリスの公職守秘法と冷戦とに猿ぐつわを噛まされた格好で,コロッサスが存在したことすら公言できなくなった。イギリスおよびアメリカの対ユーボート戦関係者の著作は即座に秘密指定されて,軍の上層部しか読めなくなり,その公開には何年も,場合によっては何十年もかかった。対ユーボートの暗号解読作戦のことは,機密扱いの戦史にも書かれず,ベイズやブレッチリー・パークのことや,チューリングが国家を救済するために尽力したことが世間に知れたのは,1973年以降のことだった。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.161

三度息絶えた

かくして確率を巡る数学の研究は先細りとなった。ラプラスは死後二世代も経たぬうちに,おもに天文学の業績で記憶されるようになり,1850年には,パリのどこの書店に行っても確率に関するラプラスの分厚い著書は見あたらなくなっていた。物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェルは,ラプラスではなく数学者で社会学者でもあったベルギー人のアドルフ・ケトレー[近代統計学の祖の一人とされる]から確率を学び,頻度に基づくその手法を統計力学や気体運動理論に取り入れた。彼らは確率と名のつくものをなかなか取り入れようとしなかった。一方アメリカの論理学者で哲学者でもあったチャールズ・サンダーズ・パースは,1870年代後半から1880年代初頭にかけて,頻度に基づく確率論を売り込んだ。スコットランドの数学者ジョージ・クリスタルは,1891年にラプラスの方法論の死亡記事をまとめ,「逆確率の法則は……死んだ。これらの法則は人目のつかないところにきちんと埋葬されるべきものであって,そのミイラを教科書や試験用紙に残すべきではない。……偉大なる人々の無分別は,そっと忘却にゆだねるべきなのだ」と記した。
 ベイズの法則は,三度息絶えるに任された。最初はベイズ本人が棚上げし,次にプライスの手で蘇ったものの育児放棄によってすぐに命を落とし,そして今度は理論家達によって埋葬されたのである。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.81-82

数への囚われ

ビクトリア朝初期の人々は,急速な都市化や工業化や市場経済の台頭に不安を感じ,犯罪と堕落と数について研究する私的な統計協会を立ち上げた。スコットランド兵士の胸囲や,馬に蹴られて死んだプロシア将校の数,コレラで命を落とした人の数などなど,統計を集めるのは簡単で,女にもできる仕事だった。数学を使って統計を分析することは,必要でもなければ期待もされていなかった。統計を集める政府官僚のほとんどが,数学の知識もなく,数学に敵意すら抱いていたが,そんなことはどうでもよかった。事実,それも純粋な事実こそが時代の流行だったのだ。
 確率を使って我々の知識がどれくらい足りないかを数値で表すという着想は消え,ベイズやプライスやラプラスが展開した原因の探求もどこかに失せた。ある通信社は1861年に,病院の改革に乗り出したフローレンス・ナイチンゲールに次のように警告している。「ここで今ひとたび,因果関係と統計を混同しないようご忠告申し上げねばなるまい……統計学者は因果関係とは何の関わりもない」
 「主観的な」という言葉も不適切とされるようになった。フランス革命とその余波は,合理的な人々はみな信念を同じくするという思想を打ち砕き,西欧社会は,科学をまったく受け入れないロマン派と,数の客観性——数でありさえすれば,ナイフで刺した数でも,ある特定の年齢で結婚した人の数でも何でもよかった——の虜になって自然科学に確かさを求める人々の二手に分かれた。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.77-78

メートル法

革命政府がほかの君主国に攻撃されると,以後10年間フランスでは戦争状態が続いたが,恐怖政治の時代ですら,ほとんどの科学者,技術者が国内に留まった。科学者や技術者たちは国防のために動員され,徴兵の計画を作成し,火薬の原材料を集め,軍需品の工場を監督し,軍用地図をつくり,秘密兵器の偵察気球を発明した。ラプラスはこの動乱の時代にも仕事の手を休めることなく,革命のもっとも重要な科学プロジェクトの1つである「メートル法による重量と尺度の標準化」で中心的な役割を果たした。メートル,センチメートル,ミリメートルという単位名を考案したのは,ラプラスである。

シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.65-66

マンモス

マンモスの数が激減したのは,やはり生息に適した環境が狭まったせいだろう。さらにここから人類も関わってくる。現生人類は,7万年前にはじめてアフリカを出てからというもの,ずっとマンモスを狩ってきた。ノゲス=ブラーボらは保全生物学にもとづいた数学モデルを使って,狩猟方法や人口密度ごとにマンモスの狩猟圧に対する感受性を推計した。それによると,マンモスの生息数がいちばん多かった4万〜2万年前にマンモスを絶滅させるには,18か月ごとに人口ひとり当たり1頭以上を殺さなくてはならなかった。しかし時代が下って6000年前ごろにはマンモスの数が激減していて,200年ごとにひとり当たり1頭以下でマンモスは絶滅した計算になる。つまりほんのときたましとめただけでも,マンモスを地上から消すには充分だったということだ。
 マンモス狩りが盛んだったことをうかがわせる考古学的な証拠もある。ウクライナにある2万〜1万5000年前の人類の居住跡からは,建材として使われたおびただしい数のマンモスの骨が出土している。テントの重石がわりという単純な用途もあるが,メジリチで見つかった4つの小屋は,マンモス95頭分脚の骨,下あご,頭骨,牙を積みあげたものだった。
 個体数が多かったときは人類による狩猟圧をなんなく吸収できたマンモスだが,気候が変動して数が減ったことで,圧力をはねかえせなくなった。つまり狩猟圧がどんなに小さくても,それで種が絶滅に追いやられる可能性はあるということだ。気候温暖化が進みつつあり,多くの種が危機的状況にある今日,マンモスの前例はとても切実である。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.143

困難な時代

上智,同志社,青山学院の例で示されたように,軍国主義・国家主義はますます強くなると,国民の間にキリスト教やキリスト教系の学校は,日本が進もうとしている方向に反旗を翻す宗教や学校という認識が高まることとなった。やや極論すれば,キリスト教は非国民の信じる宗教であり,キリスト教の学校に入学する人は非国民である,との認識が日本中で高まったのである。そうであればキリスト教の学校は入学者が減少し,経営が苦しくなって存立の危ぶまれる学校が出てきても不思議ではなかった。戦争直前,あるいは戦中に廃校,あるいは休止に追い込まれた学校が見られたのである。軍国主義・国家主義が最高潮に達したこの時期にキリスト教系学校は困難を極めたのであった。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.121-122

寺子屋

寺子屋に入学するのは。7〜9歳の子どもであり,在学年数も3年から6年という幅の広いものであった。男子と女子の生徒数は石川(1972)によるとそれぞれ59万2754名と14万8138名であり,男子が女子の約4倍の多さであるから,江戸時代にあっては初等教育では女子よりも男子がはるかに重視されたのである。封建時代の男尊女卑という特色が背景にあった。寺子屋修了後に通う学校であった,前節で述べた藩校にいたっては,ほぼ全員が男子のみの入学だったので,女子教育,特に中等教育にあっては女子は排除されていたといっても過言ではない。寺子屋でどういう教科を教えていたかといえば,読み・書き・習字が主であった。学校によっては商人になる人のために算術を教えていたし,僧侶の教える学校では漢学,仏学,修身なども教えていた。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.35

朱子学

江戸時代における宗教と教育を特色づければ,儒教(特に朱子学)の教義が学校での教育方針を支配していた,といっても過言ではない。幕府と各藩は封建的な幕藩体制を維持するために,朱子学の教え(すなわち「孝」と「忠」)を武士を筆頭に庶民にも浸透させることが有効と判断したのであった。江戸時代の前半では幕府や藩が強かったのでそのことを強制しなくとも,幕藩体制を維持できたが,中期,後期になると幕藩体制が弱体化して,その教義をむしろもっと強制するようになり,昌平黌や藩校では朱子学を唯一の学問と認めて,他の学問を異端とする強攻策に出たのである。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.29

儒教

日本において儒教がもっとも重宝された時代は江戸時代である。幕藩体制を強化するために,為政者(すなわち江戸の徳川幕府と各地の諸大名)は儒教の教えを支配原理として用いようとしたからである。時代によって色々と考え方に種類のある中国の儒教の中でも,宋の時代(具体的には南宋)における朱熹による朱子学の思想が13世紀に日本に移入されており,江戸幕府はこの朱子学を政治哲学として重宝したのである。具体的には林羅山とその後継者による儒学者の教えを幕藩体制の教学ないし正学としたことが大きい。ここで正学とは,幕府公認の学問・思想であり,この教義を政治を行うための唯一の学問体系であると宣言した,と理解してよい。その宣言は「寛政の改革」を実行した老中・松平定信の時代,すなわち1787(天命7)年頃である。他の学問・思想は異学として排除した,と言ってもよいほどである。ここで江戸時代における異学とは,儒学の中にあっても朱子学以外の思想,例えば陽明学や古学であるとともに,儒教以外であれば仏教やキリスト教である。キリスト教は江戸時代に異端として弾圧されたことは有名であるが,仏教は為政者,民衆ともに信者が多かったので,異端や異学とするのは言いすぎである。仏教の場合には統治のための学問・思想としてさほど重宝しなかっただけであり,弾圧やそういう圧力をかけることはなかった,といった方が正確である。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.15

女性の権利の制限

まず制限面をみておこう。イスラム社会一般の特徴として,ここでも,社会生活上の男女の住み分けは明確だった。これは公からの女性の排除とみることもできるし,彼女らが男性中心の社会とは異なる「別の世界」に住んでいたともいえる。オスマン史上,表の政治に登場する女性としては,わずかにスルタンのハレムの女性群が挙げられるのみである。政治の場に宮廷関係者以外の女性の名が登場することは,19世紀後半に至るまでほとんどなかった。
 法的な制限は,父親等からの遺産の相続権が男性兄弟の半分であること,各種の契約や裁判において男性の後見人を必要としたこと,伴侶となる男性が複数の妻や奴隷女性を所有する権利をもち,妻・母としての権利が男性に対し1対1には保障されていなかったことなどが挙げられる。結婚における女性の不利な状況は,男性に対し,先払い婚資金(結納金にあたる)と,後払い婚資金(離婚慰謝料にあたる)が義務づけられていることによって一定程度補われたが,今日の感覚でいえば,不公平な条件下に置かれていたことには疑いがない。離婚の男性のイニシアチブで行われ,女性から要求することは難しかった。
 ただし,前近代の社会の中で,この状況をどう判定するかは議論のあるところである。結婚は,非常にお金のかかることだったため,複数の妻をもつ男性は全体の5パーセント程度と少数だった。むしろ,妻にとっての脅威は夫が所有する奴隷身分の女性の存在であったといわれるが,女性の奴隷は,富裕層のステイタス・シンボルとなるほど「高価」な存在であることから,それをもつ者も富裕層に限られた。なお,奴隷女性から生まれた子供と,妻から生まれた子供は,法的にまったく区別されなかった。これは,妻の立場からは不利なことだったといえよう。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.245-246

ハレムでも生まれより教育成果

ハレムの内部では,16世紀後半以降,母后をトップにした位階的な構造ができあがった。母后に続くのは,現スルタンの子を産んだハセキと呼ばれる女性たちだった。ハレムの女性の大半は,戦争捕虜や献上品として贈られた奴隷身分の女性である。
 しかし,女奴隷という言葉の響きとは異なり,宮廷のハレムは基本的に教育の場だった。その日常は,規律と階層的権力関係に秩序づけられた一種の女学校のようなものだと考えた方がいいだろう。宮廷に残った先輩女性が後輩の教育にあたり,宦官長は寮長のような役回りである。このうち母后の目にとまった成績優秀者には,スルタンの側室への道が開かれた。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.180-181

生まれより努力

トルコでは,すべての人が生まれつきもつ天職や人生の幸運の実現を,自分の努力によっている。スルタンのもとで最高のポストを得ているものは,しばしば,羊飼いや牧夫の子であったりする。彼らは,その生まれを恥じることなく,むしろ自慢の種にする。祖先やぐうぜんの出自から受け継いだものが少なければ少ないほど,彼らの感じる誇りは大きくなるのである。

 これは,ハプスブルグ家のオスマン大使ビュスベックの書簡の一節である(1555年)。ビュスベック自身は,貴族の庶子だったがゆえに多くの苦労をしている。それに比べオスマン帝国はなんと幸せなことよ,という嘆息である。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.122

兄弟殺し

先に紹介したように,オスマン帝国では,即位したスルタンが兄弟を殺すことが慣例化していたが,それが可能なのは,王子たちがいずれも,県軍政官として行政や軍事指揮の経験を積み,即位に備えていたからである。その過程で軍功と有能さを競い,首都イスタンブルの有力者の間にも支持者を増やす努力をしていた。父であるスルタンは,イスタンブルに近い県の軍政官に自らの後継候補を任命することで,後継候補の優先順位を示すことができた。イスタンブルにもっとも早く入った王子が継承権を得たからである。しかし,いずれにせよ自らの死後のことである。最終的には,イスタンブルに支持者のある候補(王子)にだけ即位のチャンスがあった。こうして,イェニチェリなどの首都の常備軍勢力がスルタンの後継争いに重要な役割を演じることになったのである。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.106-107

スルタンの奴隷

ムラト1世の時代のイェニチェリの数は2000人程度,15世紀前半のムラト2世の時代にも3000人程度といわれ,それは,文字どおり少数精鋭の近衛兵だった。彼らは有給で,常にスルタンの周囲をかため,その特権的な地位を誇った。
 その特権は「スルタンの奴隷」(カプクル)という言葉によって表された。カプクルは直訳すると「門の奴隷」となる。門とはスルタンの家を指し,彼らがスルタンの「もの」として扱われる家産的な傭人だったことを意味している。彼らは,イスラム法で定義される奴隷身分にあることになっていたが,それは多分に建前上のことであった。「スルタンの奴隷」は,スルタンに対してのみ奴隷であり,また,宮廷や軍の中で職にある限り解放されることもなかったからである。彼らはスルタンの「もの」であることから,生きる権利をスルタンに握られていたが,スルタン以外に対しては特権的な存在になりえた。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.76

2つの問題

オスマン帝国の過去が,誤ってトルコの国,オスマン・トルコの歴史とされてきたことは,2つの大きな問題を引き起こした。
 1つは,現在のトルコ共和国以外の国々で,オスマン帝国時代が正当に扱われなくなったという問題である。前述のように,バルカン諸国や中東諸国で,オスマン帝国時代はあたかもトルコ人による暗黒の占領時代とされ,それぞれの地域が歩んだ近世の「歴史」が各国の民族主義鼓舞の道具として利用された。
 第2は,「何人の国でもない」オスマン帝国のシステムが十分に理解されず,ましてや,多くの民族を内包する社会が,さまざまな要因で時代と共に移り変わってゆくダイナミズムが無視された点である。その結果,ヨーロッパにとってオスマン帝国がもっとも脅威だった16世紀の像が,「トルコ人の脅威」の名のもとに固定的に想起され,かつてはすばらしかった(強かった)オスマン帝国が(あるいは,イスラム文明が),長い凋落の歴史を経て,西欧諸国家の(あるいは西欧文明の)軍門に降ったというタイプの,西欧中心的な歴史の理解を助長した。その実,オスマン帝国は,14世紀から18世紀の末の間にも変化を繰り返し,そして,近代オスマン帝国も19世紀を通じて,依然,広大な領土を領有する大国として,ヨーロッパの政治の一翼を担っていたのである。

林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.18-19

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