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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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幸運から神風へ

モンゴルの大艦隊が一夜にして壊滅したことは,幕府・朝廷や武士たち,そして日本の人々にとって「想定外」の慶事でした。こうしてみると,海事作戦がいかに難しいものであるかもよくわかります。日本が周囲を海で囲まれていることは,圧倒的に「安全・安心」をもたらしました。しかし,モンゴル帝国の強大な力を知ることなく,大艦隊が壊滅した事実と局所的な戦闘シーンしか知らない日本の人々の間では,いつしか「偶然」や「幸運」がバブル化して「神風」に変わったようです。20世紀に起こった悲劇を考えると,弘安4年にやってきた台風は,ある意味罪作りでもありました。

植村修一 (2013). リスクとの遭遇 日本経済新聞社 pp.126
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憑依から診断へ

もう少し進んだ宗教団体のなかでは,しだいに憑依ではなく罪が診断として好まれるようになり,精神疾患の説明に使われるようになっていった。受け入れがたい行動や態度は,粗野,野蛮,貪欲,好色な性質が外に現れたものとされた。精神障害者は悪魔から罪人へと昇格したわけだ。その行動は悪魔じきじきの介入によるのではなく,道徳や慎みに欠けた自由意志の行使を示す。そういう意味では,精神障害者はよくいっしょに収容されているありふれた犯罪者と大差ない。感情を抑え,罪を断ち切るまっとうな道へと精神障害者を導くために,厳格な扱いが推奨された。精神障害者は厳しくしつけ,従順にし,拘束しなければならない。罪深い性質は根深く染み込んでいる。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.94-95

相違と邪悪

西洋世界は相違を邪悪と同一視し,その伝染を恐れた。奇妙な行動をしている者は悪魔と交わっているのかもしれず,共同体全体の福利を(そして永遠の救済を)おびやかしかねない。極端な例では,拷問と処刑が神の業の一環として完全に正当化された。もっとましな例では,回復もありえたが,それも罪を告白して神と聖なるものに立ち返ってからの話だった。ギリシャの科学的観察は,不合理な霊的診断のシステムにとってかわられ,さまざまな精神状態の特性はさまざまな悪魔の序列に対応させられた。宗教の妄想という覆いがヨーロッパに垂れ込め,最も弱い人々に対する卑劣で残酷な扱いが正当化された。

アレン・フランセス 大野裕(監修) 青木創(訳) (2013). <正常>を救え:精神医学を混乱させるDSM-5への警告 講談社 pp.93

倍々ゲーム

グーテンベルクが印刷機を発明したのは,1439年ごろのこと。歴史家のエリザベス・アインシュタインによれば,1453年から1503年の50年間におよそ800万冊の本が印刷されたという。その1200年ほど前のコンスタンティノープル建設以来,欧州では写本,つまり筆写者がせっせと書物を生み出してきたわけだが,その写本を全部足しても印刷機誕生からたった50年間に作られた800万冊には及ばない。言い換えれば,欧州では蓄積された情報の量がわずか50年でほぼ倍増したことになる(当時,世界中の全蓄積情報のうち,欧州が圧倒的なシェアを占めていたはずだ)。ちなみに,情報量は約3年で倍増している。

∨・M=ショーンベルガー&K.クキエ 斎藤栄一郎(訳) (2013). ビッグデータの正体:情報の産業革命が世界のすべてを変える 講談社 pp.23

我々の負の遺産

あるいは,より深刻な問題として,現代日本の刑事事件の被害者救済・被害者保護の問題に立ちはだかる「壁」についても,喧嘩両成敗法や中世以来の衡平感覚との関連が指摘できるかもしれない。というのも,現在,まったくいわれのない事件に巻き込まれて心身に傷を負った被害者に対して,マスコミや無関係者によって「被害者側の落ち度」が穿鑿され,しばしばそれが被害者を二重に苦しめ,また公的機関による被害者救済を遅らせているという悲劇がある。これには直接にはマスコミ倫理の問題になるのだろうが,そうした情報を渇望する国民の側に,なんらかの事件になる以上,被害者側にも相応の「落ち度」があるはずだ,という無根拠な思い込みがないとは言いきれない。それ自体,喧嘩両成敗法や折衷の法を成り立たせた中世人の心性の重要な一要素でもあるが,もし,それが数百年を経た現在まで無責任に信奉されているのだとすれば,私たちの社会が荷った“負の遺産”はあまりに大きいものであったといわざるをえない。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.203

喧嘩両成敗の乱用

元来,喧嘩両成敗というのは,紛争当事者の衡平感覚に配慮しつつ緊急に秩序回復を図るために中世社会が生み出した究極の紛争解決作であった。しかし,そこには単純明快であるがゆえに,しばしば安易な運用で理非が蔑ろにされる危険がつねにつきまとった。かねて中世の人々がその採用に躊躇を示していたのも,まさにそうした点を危惧していたからに他ならない。豊臣政権は,一方では公正な裁判を標榜しつつも,他方では喧嘩両成敗を採用するという戦国大名以来のジレンマからは完全に抜けきれてはいなかった。しかも,その両成敗には,つねに逸脱や恣意的な乱用といった影がつきまとっている。これらのことがらは,喧嘩両成敗を永続的な秩序維持策として運用してゆくことのむずかしさを物語っているといえるだろう。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.190-191

均衡状態をつくり出す

「やられた分だけやり返す」という中世の人々の衡平感覚や相殺主義は,現代人にはどうにも野蛮で幼稚な発想のように思えてしまうが,反面で「やられた分」以上の「やり返し」を厳に戒める効果も明らかにもっていたのである。さらに視野を広げれば,そもそも人々の同害報復の観念が復讐を助長した反面,復讐に一定の制限を与えていたという事実は,さきに例としてあげたメソポタミアのハンムラビ法典をはじめとして,中世ヨーロッパ世界やイスラム世界など人類史上においても普遍的に確認される現象である。こうしたことから考えれば,日本中世社会の衡平感覚や相殺主義も,それは一方で紛争の原因でありながらも,他方では紛争を収束させる要素ともなっていたと断言して差し支えはないだろう。そして,他でもない喧嘩両成敗法とは,当事者双方を罰することで,まさにそうした均衡状態を強制的につくり出す効果をもっていたのである。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.123-124

押蒔き

なかでも滑稽なのは「押蒔き」や「押植え」といった行為である。これは,係争中の土地の支配を主張するために,その土地に勝手に作物の種を蒔いたり,苗を植えたりしてしまうことをいう。もし訴訟相手からこれを強行された場合,された側は「種まきや田植えの手間がはぶけた」などといって呑気に笑っていてはいけない。すぐにその土地に駆けつけて田畑を「鋤き返し」(耕しなおし)てしまわなければならないのである。なぜなら,それを放置すれば相手の用益事実を認めたことになってしまい,中世社会の場合,それは即,その土地の秋の実りのみならず,その土地自体を手に入れることができてしまうことになる。中世社会では「種を蒔くこと」や「苗を植えること」に,その土地の支配権につながる象徴的かつ物神論的な意味が込められてしまっていたのである。これなどは現代人には理解に苦しむ本末転倒した話ではあるが,当知行の論理とはそういうものだったのである。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.107

法の保護の外に

つまり,ここから,室町幕府には,流人を「公界往来人」,すなわち室町殿との主従関係(保護ー託身関係)が切断された者とみて,そうしたものは殺害しても構わないとする認識があったことがうかがえる。これもまさに,同時代の落武者狩りや没落屋形への財産掠奪と同様,「法外人(outlaw)」や「フォーゲル・フライ」の論理だろう。だとすれば,これまでみてきたように流人がいとも簡単に敵人によって殺害されてしまい,その後,その敵人の罪が問題とされないのも,すべて納得がいく。つまり,法の保護を失った人間に対して「殺害」「刃傷」「恥辱」「横難」,そのほかいかなる危害を加えようと,それはなんの問題にもならない。この原則があったからこそ,流人は次々と「配所」や「配所下向の路地」で敵人によって殺害されていたのだろう。いってみれば,室町幕府の流罪とは,罪人の追放や拘束に意味があったのではなく,なによりも彼らを法の保護の埒外に置くことに最大の意味があったのである。もちろん,自力救済を基本とする中世社会にあっては,それは多くの場合,即「死」を意味した。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.99-100

集団への帰属意識

現代の私たちの生きる社会では,それが良いことか悪いことかはべつにして,さまざまな場面で「個人」が尊重され,「集団」に対する帰属意識が薄れていっている。いまやかつてのような「村」や「町」という共同体はほとんど見られなくなっているし,「家」すらも今後いまと同じようなかたちで存続するという保証はどこにもない。かつては日本経済の美徳(?)とされた「企業」への滅私奉公意識も若者を中心に急速に薄らいでいる。そうした現代人の目には,こうした室町社会のありようはきわめて奇異なものに映るかもしれない。しかし,この時代は「個人」がその生命や財産を守ろうとしたとき,なんらかの(ときには複数の)「集団」に属することは必須のことだった。そして,その代償として人々は紛争の無意味な継続や拡大に悩まされることにもなった。そのため,この状況にどうにかして歯止めをかけることが,当時,社会全体から切実に求められていたのである。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.76

人命軽視

そして,なにより室町人は現代人には考えられないほど個人の生命を軽視しており,遺恨の表明や特定の訴願のまえには,自身の生命を捨てることも厭わなかった。彼らが自害を選択する背景として最も重要な要素は,その独特の生命観にあったといえるだろう。この時代は戦乱や病気,飢饉などにより,現代社会よりもずっと「生」と「死」の間の垣根は低く,人々に「死」は身近な存在だった。ある者は死んで,ある者は生き残る——それを分けるのは,ただ当人たちの運の良し悪しだけだった。そんな社会に生きる彼らが永続すべき「家」や「所領」や「誇り」のために一命を捨てることは,私たちが考えるほど大胆な決断ではなかったのかもしれない。そして,そうした人々の生命観は,また当時の紛争を激化させた重要な要因ともなっていたのである。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.48

号する

そもそも中世社会には武家法や公家法・本所法といった公権力が定める法が存在したが,その一方でそれらとは別次元で村落や地域社会や職人集団内で通用する「傍例」や「先例」「世間の習い」とよばれるような法慣習がより広い裾野をもって存在していた。しかも,それらの法慣習には互いに相反する内容が複数並存していることも珍しいことではなく,人々は訴訟になると,そのなかからみずからに都合のよい法理を持ち出して,自分の正当性を主張し,「〜と号する」のを常としていた「〜と号する」というのは中世人が主観的な正当性を主張しているとされるときの常套的表現)。現代の「法治国家」から見ればアナーキーというほかない実態であるが,そうした多元的な法慣習が,公権力の定める制定法よりもはるかに重視されていたのが,この時代の大きな特徴だったのである。言ってみれば,日本中世社会においては,「法」という名の異なる多様な価値がせめぎあいながら,さまざまな緊張と調和を織りなしていたのであり,公権力の制定法も,その「多様な価値」の1つに過ぎなかったのである。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.40

発狂する大名

当時の日本人は強烈な名誉意識をもちつつも,一方で怒りを「胸中を深く隠蔽し」,「次節が到来して自分の勝利となる日を待ちながら堪え忍ぶ」という陰湿さも同時に持ち合わせていたのである。
 とくに,容易に「主殺し」に転化するような荒ぶる心性を身につけていた被官たちに推戴されていた室町期の大名たちは,つねに被官の反逆に恐々としながら生きていたことは疑いない。史料を読んでいると,よくこの時代の室町殿や大名が発狂するという話に出くわす。あまりにその事例が多いため,これを足利氏を中心とした遺伝的な形質として理解する説もあるが,むしろ私は,その原因は当時の権力構造と被官の心性に由来するものと考えるべきだと思う。後継者の決定や家政の運営について,この時期,大名当主の意見は通りにくくなり,家臣団の意見が尊重されるようになってくる。また,彼ら被官たちが主従の秩序よりも自身の誇りを最優先する心性をもっていたことは前述のとおりである。いっそ近代大名のように,大名当主の存在が「家中」という政治機構のなかに明確な職掌と位置を与えられていれば問題もないのだが,この時期の家政のすべては家臣団と大名当主のパワー・バランスの中で流動的に推移していた。そんな不安定さのなかで,家臣団を思い通りに統制することができず,精神のバランスを崩してゆく大名が多かったのではないだろうか。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.31

名誉意識

このほかにも,同じ頃の北野神社では,神前に奉納した連歌の内容がヘタだといって「笑」ったことで,北野社の社僧と参詣人が喧嘩になり,一方が撲殺されてしまうという事件が起きるなど,この時代には「笑うー笑われる」を原因とした殺傷事件は後を絶たない。それほどまでに彼らは傷つきやすく,「笑われる」ということに過敏だったのである。しかも,ここで稚児や遊女に笑われたのを理由にして大惨事を巻き起こした人々は,とくに侍身分というわけではなく,いずれもただの僧侶であったり,たんなる「田舎人」である。彼らの場合,稚児や遊女といった自分たちよりも身分の低い者から笑われたのが,どうにも許せなかったのだろう。この時代の人々は,侍身分であるか否かを問わず,みなそれぞれに強烈な自尊心「名誉意識」をもっており,「笑われる」ということを極度に屈辱と感じていたのである。もちろん室町人の中にも個人差はあり,その程度は人それぞれであるが,それはおおむね現代人の想像を超えるレベルのものだったようだ。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.16

現代の図式

第二次世界大戦の惨禍の後,オカルティズムが人種差別的見解に結びつくというケースは比較的目立たなくなったものの,霊の性質によって神人と獣人を区別するという二元論的思考,さらには,神的本質を有する人間が獣的勢力によって脅かされるという構図自体は,依然として持ち越された。本章でケイシーやアダムスキーの例を見たように,戦後のオカルティズムにおいては,霊性進化に向かう人類の歩みを,邪悪な超古代的・宇宙的存在者が妨害しているという図式がしばしば描かれたのである。

大田俊寛 (2013). 現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 筑摩書房 pp.176

ナチズムの源流

20世紀初頭に開始されたアリオゾフィの思想運動は,ドイツやオーストリアにおいて徐々に支持者を増やしていき,ついにはナチズムの源流の1つを形成することになる(両者の関係については,ここでは十分に論じる余裕がないため,詳しくは巻末に示した諸文献を参照していただきたい)。その運動の特徴について簡潔に指摘しておくとすれば,それは一方で,アーリア=ゲルマン人種の純粋性と至上性を追求するさまざまな結社が広範に普及していったこと,また他方で,劣等人種とされる対象がもっぱらユダヤ人に局限化されると同時に,その動きにまつわる「陰謀論」が語られるようになったことである。

大田俊寛 (2013). 現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 筑摩書房 pp.93-94

毛皮帝国の終焉

ハドソン湾会社の毛皮帝国は,ここに終焉を迎えた。それは17世紀のフランス,イギリスによる北米進出に始まり,ロシア,スペイン,アメリカ,ハワイ,中国などをも巻きこんだ,毛皮交易の時代の終結でもあった。ヨーロッパ列強による北米大陸の領土分割は,毛皮交易を重要な規定要因として,ほぼ完了していた。他方でビーヴァー,ラッコ,バファローなどの毛皮獣は,絶滅の縁に追い込まれた。白人交易者のパートナーだったインディアンも,カナダ領では1870年代のいわゆる番号条約(71年の第1条約から77年の第7条約まで)を強制されて土地を奪われ,保留地に押し込められた。白人とインディアンのパートナーシップを体現する混血民メイティも,リエルが指導した2度の蜂起を武力で鎮圧され,無権利状態に追いやられる。クリー族の族長たちは,71年4月にエドモントン・ハウスで彼らの土地がカナダに売却されたことを知らされた。インディアンにとっては,神からすべての人間に与えられたはずの土地が売却の対象になること自体が理解できなかった。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.216-217

アラスカ購入

カナダ誕生を急がせたもう1つの要因は,アメリカによるアラスカ購入だった。1867年3月30日,ワシントンの国務省でアメリカ国務長官シュワードとロシアの在ワシントン行使ドゥ・ストッケルとが,720万ドルでのアラスカ委譲に関する露米条約を締結する(Farrar, 1966, p.53)。売却を持ちかけたのはアメリカではなくロシア側だった。ラッコが絶滅に瀕したアラスカは,「吸い尽くされたオレンジのような」無用の長物と化していた(Gibson, 1987, pp.271-294)。露米会社も,政府から多額の助成金を受けてもなお60年代半ばには1000万ルーブル以上の負債を抱え,株価も急落していた。ロシアはクリミア戦争敗北の屈辱に加え,イギリスがアヘン戦争,南京条約,香港割譲で中国市場さえ奪取することを恐れていた。皇帝アレクサンドル2世の実弟で,帝国膨張論の主導者コンスタンチン大公でさえ,アラスカを捨ててでもアムール川流域と沿岸州に,太平洋帝国の全力を傾注すべきと唱えるようになる。アラスカをアメリカ領にすれば,南北をアメリカ領に挟まれた形となるカナダは早晩アメリカに併合され,ロシアは高慢なイギリスの鼻をあかすことができるはずだった。イギリスとカナダが大陸横断版図の確立を急いだのは当然だったろう。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.210-211

人口激減

毛皮交易がもたらした害悪として,銃器,アルコール,タバコの他に,性病や伝染病をあげなくてはならない。性病は1778年のクック隊により,タヒチ,ハワイ,ヌートカ,さらにアラスカ半島西端のウナラスカ島にまで拡大された。1792年にヌートカ湾に上陸したスペイン人は,「先住民はすでに恐るべき梅毒の蔓延を経験し始めている」と記している。1820年ともなれば,ハドソン湾会社のフォート・ジョージでは,10人中9人の従業員が梅毒の水銀治療を受けており,「一夜のヴィーナスは,3年間の水銀」なる警句が生まれた(Merk, 1931, p.99)。部族間戦争による死亡率も,銃器のために増大した。ヌートカ湾でのインディアン人口は,これらの理由のため,1788年の3000−4000人から,1804年には1500人に減少している。しかし最大の被害をもたらした疾病は,内陸でと同様,周期的に沿岸各地を襲う天然痘だった。最初の感染源は恐らくスペイン船で,1792年にジョージ・ヴァンクーヴァーは,ピュージェット湾とジョージア海峡で,天然痘のため廃墟と化した多くの村落を目撃している。1795年にはハイダ族に天然痘が蔓延し,人口の3分の2が死亡した。チヌーク族にも,1776−78年,1801−02年に天然痘が広がっている。白人がもっとも恐れた屈強なトリンギット族でさえ,1835年11月にシトカから広がった天然痘で,人口が1万人から6000人まで減少してしまい,ロシア人士官によると「哀れな連中は,ハエが落ちるように死んでいった」。伝染病,銃器,アルコールなどのため,北米太平洋岸のインディアン人口は1774年の18.8万人から,1874年までの100年間で3.8万人にまで激減したと推計される。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.131-132

ロシアの進出

ラッコはもともとカムチャッカ半島沿岸に多数生息していたが,中国市場で高価に売れることが判明して以来,乱獲のため半島部では急減していた。ロシアは新たなラッコ生息地を求め,一方ではクリル(千島)列島から蝦夷へ,他方ではアリューシャン諸島からベーリング海峡を渡ってアラスカへ進出し始める。彼らはアラスカ湾のコディアック島に基地を設け,ここが北米大陸で最初の狩猟基地となった。ロシアが1743−1800年の間に100回以上の航海で取得したラッコ毛皮の販売額は800万銀ルーブル以上にもなり,「柔らかな黄金」としての評価を確立した(Makarova, 1975, pp.209-217)。清朝は1727年のキャフタ条約で,ロシアにバイカル湖の南に位置するキャフタ経由での貿易を許可しており,アラスカで取得された毛皮は中継港オホーツクから陸路でヤクーツクへ,そこから船でレナ川をさかのぼってイルクーツクへ,さらに国境の町キャフタまで4500キロの距離を運ばれ,さらに隊商のラクダの背に乗せられて北京へ送られた(Gibson, 1980, p.221; Lower, 1978, p.33)。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.105-106

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