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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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男女不均衡

1805年にノースウェスト会社の交易者アレクサンダー・ヘンリーは同社の部局全体について,当時としては貴重な「人口統計」を残した(Gough, ed, 1988-92, I, p.188)。そこでは1090人の交易者に対し,368人の妻と569人の子供が記録されている。統計上の遺漏や,すでに結婚関係を解消した妻子や,その子孫も多かったことを考慮すれば,西部での現地婚の広がりを如実に示す数字であろう。同じ統計では,インディアンの成人女性数が1万6995人なのに対し,男性数は半分以下の7502人となっている。この不均衡が交易者との結婚を促しただけでなく,インディアン女性を「多数で,有利で,過剰な商品」にしていたとジェニファー・ブラウンは書いている(Brown, 1980, p.88)。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.84
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現地婚

最後に第4の影響として,「現地婚」の拡大がある。白人交易者と先住民(混血者を含む)女性との間には,双方の合意と社会的な認知にもとづく婚姻関係が広く成立した。民族間の差異や対立を克服した婚姻を通じて,萌芽的な「多民族社会」が生み出されたのであり,これが毛皮交易史のもっともユニークで魅力的な特徴の1つとなっている。2人の女性カナダ人研究者,シルヴィア・ヴァン・カークとジェニファー・ブラウンが突破口を開いてから,毛皮交易の女性史,社会史研究はもっとも豊かな成果を生みだしている。ヴァン・カークによると,「毛皮交易での白人とインディアンは,「文明」と「野蛮」が邂逅した世界のどの地域にもまして,もっとも対等な基板に立っていた」(Van Kirk, 1980, p.9)。初期の毛皮交易会社には白人女性は皆無であり,インディアン女性は生活のパートナーとしてだけでなく,労働力,ガイド,通訳としても有能だった。女たちは自分の出身部族と夫との毛皮交易を媒介する「文化的リエゾン」の役割をも果たしたのである。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.82

依存関係

内陸部にまで広がった交易網が,たちまちインディアンの交易依存を強めたわけではない。ずっと後の1795年になってさえ,ある交易者は,インディアンが交易やヨーロッパ製品なしでも十分暮らしてゆけることを,率直に記している。17世紀から18世紀を通じ,むしろ交易者の方がインディアンに依存していたのであり,その逆ではなかった。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.58

広大な無償貸与

驚くべきは,ハドソン湾会社に与えられた領土の広さと,その境界の曖昧さである。特許状の文言は同社の領土を,ハドソン湾の海,沿岸,およびそこに流れこむ諸河川の流域一体と,ごく抽象的に規定している。だが海岸や内陸部の正確な地図がまだ存在しない以上,ルパーツランドと名付けられた領土が,実際どれだけの広さをもつのか,当時は誰にも検討さえつかなかった。19世紀にやっと北米大陸の地理が明らかになった時点で,ルパーツランドは東はラブラドールから西はロッキー山脈まで,きたは北極海から南は現在アメリカのミネソタ州,北ダコタ州までおよそ777万平方キロと主張された。先住民の存在なぞまるで顧慮することなく,イギリス議会の同意さえないまま,国王のペンの一振りで,同社は巨大な領土の「真の絶対的な支配者にして所有者」となったのである。湾岸と内陸での排他的な交易独占権は,より具体的に記されており,同社のみが領土内での交易と通商を支配でき,違反者は船舶と積み荷を没収され,1000ポンドの保釈金を支払うまで投獄と定められた。領土と独占権の代価として求められたのは,国王と彼の後継者がルパーツランドを訪問した際,「2頭のエルクと2匹のビーヴァー」を贈ることだけだった。王族がハドソン湾を訪れるなど当時は論外だったし,まったくの無償貸与に他ならない。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.16

ハドソン湾会社の誕生

エリザベス1世の時代からヨーロッパでは,ビーヴァーの内毛を素材とした最高級フェルト帽子(ビーヴァー・ハット)が,ステータス・シンボルとして絶大な人気を集めた。王侯貴族や新興のジェントルマン,さらに軍人,僧侶までもが,さまざまなスタイルに加工されたビーヴァー・ハットを競って着用したのである(Lawson, 1943, pp.1-8; Grant, 1989; 木村, 2002, pp.16-25)。最大のビーヴァー生息地である北米で,最初の毛皮植民地ヌーヴェル・フランスを1603年に建設したのは,フランスだった。「百人会社」や「アピタン会社」が毛皮の交易独占を認められ,ヒューロン族を主要な交易相手に,貴重なビーヴァー毛皮をフランスへ送り出したのである(Rich, 1967, pp.15-18)。しかし会社組織に属さず,先住民と直接に交易する多くの独立交易社(「森を走る人々」と呼ばれた)も生まれ,その中にピエール・E・ラディソンとメダール・S・デ・グロセリエという義兄弟がいた。2人は1659年にスペリオル湖畔で越冬し,北のハドソン湾こそビーヴァーの宝庫であるとの情報をクリー族から聞きつける。2人はこの情報をすぐヌーヴェル・フランス総則やフランス本国に伝え,モントリオールではなくハドソン湾を毛皮交易の拠点とするよう進言した。だが進言はまったく無視され,グロセリエは不法交易の咎で東国の憂き目にさえあった。
 憤慨した2人は,宿敵イギリスに情報を売り渡そうと決意する。彼らは1665年に渡英し,国王チャールズ2世に拝謁することができた。イギリスにとってハドソン湾は,偉大な探検家ヘンリー・ハドソンが1622年に乗組員の反乱で氷海に置き去りにされた悲劇の海だったが,国王はフランスを出しぬいて毛皮資源を奪取する計画に関心をそそられた。側近の廷臣で,ハドソン湾の毛皮に魅了されたのが,国王の従兄弟にあたるライン・パラティン伯のバヴァリア公ルパート王子である。ボヘミア女王の息子として生まれた彼は,清教徒革命では伯父のチャールズ1世のためフランス軍を率いて革命軍と戦った。王政復古後にはイギリス海軍大臣となり,1672年からの英蘭戦争では海軍提督をつとめている。本来ビジネスの人ではなかった彼に,ハドソン湾への投資を説得したのは,彼の個人秘書で財政顧問だったジェイムズ・ヘイズだった。宮廷とシティ金融界の双方に通じていたヘイズは,後にハドソン湾会社の実質的な支配者となる。ルパート王子は他に6人の出資者を募り,68年に2隻の交易船をハドソン湾の南端にくびれ込むジェイムズ湾に無事到達した。湾に流れこむルパート川の河口で越冬したノンサッチ号は,先住民と予想以上の交易を行い,ロンドンに持ち帰った毛皮は競売で1379ポンドの売上を記録した。この成功を受け,70年5月2日にはチャールズ2世から特許状が下賜され,ハドソン湾会社が誕生したのである。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.14-15

ハドソン湾会社

1670年に国王チャールズ2世の特許状により,「ハドソン湾で交易するイングランドの冒険家たち」の会社として創立されてから200年間,ハドソン湾会社は多くのライヴァルと競いながら,北米を基板とする世界的な毛皮交易の中心であり続けた。イギリスにとって17世紀は,冒険商人たちが急速に世界各地に進出した「商業革命」の時代であり(Braddick, 1998, p.292),ハドソン湾会社,東インド会社(創立1600年),王立アフリカ会社(同1672年)などが,それぞれの地域で通商独占を認められた。これら3社は,前世紀の冒険商人組合やレヴァント会社のような規制会社(レギュレイティド・カンパニー)ではなく,合本会社(ジョイント・ストック・カンパニー)だった。規制会社ではそれぞれのメンバーが共通の規約のもとで自己資本による貿易を行うのに対し,合本会社では株主が1つの事業体に資本を集中し,利潤や損失を折半する。株式が公開市場で売買されず,株主の有限責任性も確立していなかったから,近代的な株式会社とはいいがたい。それにもかかわらず合本会社は,遠距離貿易に必要な多額の資本を調達しえたし,海難や海賊による危険を分散できる合理的な組織だった。国王や議会は「外国貿易によるイングランドの財宝」(トマス・マン)を獲得するため,これらの会社を強力に支援し,有望な世界商品を生産する地域で排他的な通商独占権を与えたのである。

木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.12-13

錬金術

ニュートンその人でさえ,その後半生は,錬金術についての実験と思索が支配し続けていました。もちろん,日本語で「錬金術」と書いてしまいますと,これはもう文字通り「金を造り出す魔術」のことにしかならず,今のわたくしどもは,金が合金でないことを知っていますから,そんな何かと何かとから金を造り出そうとする術はどうしてもまやかしだ,ということになってしまいます。もっとも,先回りをしておけば,現代の核分裂や核融合の技法が完全にその制御力を獲得したと仮定しますと,理論的には金の原子核を造ることだって,絶対不可能ではないと言えるかもしれませんが,それはまあ別の種類の話です。ですから,錬金術というと,すぐ詐欺師だの魔術師だのを想像してしまいますし,そんな想像も,まったくいわれのないものではありません。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.123

ガリレオの信仰

またしても話は全然違います。ガリレオは,たしかに処世の術に関してはずいぶんご都合主義的な人物でしたけれども,こと信仰にかんして言えばきわめて真剣で,熱烈な態度をとっていたといえましょう。ガリレオは,有名なことばを残しました。神は2つの書物を書いた,その1つはいうまでもなく聖書である,もう1つは自然そのものだ,というのです。自然という神の書かれた書物を,1ページ1ページ読んでいくことがいかに信仰にとってたいせつなことと考えられていたかは,そうしたことばからも読み取ることができます。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.106

科学者へのあこがれ

一言注意しておけば,戦争中は,特攻隊のように,人間が爆弾を直接操縦するという「野蛮な」,精神主義の固まりのような戦術が採用されたり,竹槍で本土防衛をしようとまじめに考えられたりするという哀しい話だけが語り継がれ,また敗戦後も,日本は「科学技術」をおろそかにしていたから敗けたのだ,結局は「科学戦」の敗北だった,という言い方がはやったために,戦争遂行に当たって,日本は,科学を無視したと考えるような誤解が今まで漠然と続いています。しかしこれは非常に大きなまちがいです。
 戦争中の日本は,その国策からして,戦後のあの高度成長期の理工科ブームにまさるとも劣らないほどの,科学技術振興政策をとっていました。理工科の学生は,畳用もあと回しでしたし,大学でも研究費は潤沢でした。子どもたちも「科学する心」の開発をしきりにそそのかされ,『譚海』などというちょっとハイ・ブラウな少年雑誌には,高垣眸や南洋一郎,山中峯太郎などという作家たちの冒険小説に交じって,海野十三の空想科学小説が評判でした。そのころはSF,つまりサイエンス・フィクションなどというしゃれた呼名はありませんでしたが,今から思えば海野十三の作品は,まさしくかなり高度なSFにほかなりませんでした。
 そういう雰囲気の中で少年たちが,不可能と思われることをつぎつぎに可能にして行く「科学者」,絶対確実な客観性の世界に一歩一歩近づいていく「科学者」なるものに,あこがれと尊敬の念を抱いたのは当然だったでしょう。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.14-15

19世紀と20世紀

 外見が人生を向上させるという助言は,それなりに自信をもつ人々をも不安にさせたに違いない。サスマンは,19世紀に書かれた人格形成をうながす本に頻繁に登場する言葉と,20世紀初めに書かれた性格指向のアドバイス本に頻繁に登場する言葉とを比較した。前者は,誰もが努力して向上させられる特質を強調し,つぎのような言葉が使われていた。

 市民権
 義務
 仕事
 品行方正
 名誉
 評判
 道徳
 礼儀作法
 高潔

 それに対して,後者が賞賛する特質は——デール・カーネギーはあたかも簡単に得られるかのように書いたが——手に入れるのがより難しく,つぎのような言葉で表現される。

 磁力
 魅力的な
 驚くほどすばらしい
 人の心を惹きつける
 生き生きとした
 優位に立つ
 説得力のある
 エネルギッシュな

 1920年代,30年代に,アメリカ人が映画スターに夢中になったのは偶然ではなかった。魅力的な性格を持つ人物のモデルとして,映画スターは最適な存在だった。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.39-41
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

国が必要とするときも

 サイコパスがつくりだされ,社会から除外されないのは,ひとつには国家が冷血な殺人者を必要としているからかもしれない。そのような兵卒から征服者までが,人間の歴史をつくりつづけてきたのだ。サイコパスは恐れをしらぬすぐれた戦士,狙撃兵,暗殺者,特別工作員,自警団員,接近戦の名手になれる。それは彼らが殺す(あるいは殺すよう命令を下す)ときに恐怖を感じず,殺したあとも罪悪感をもたないからだ。ふつうの人びとはそんなに非情になりきれず,徹底的に訓練されないかぎり,せいぜい四流の殺人者にしかなれない。相手の目を見すえて冷静に撃ち殺せる人間はふつうではないが,戦争ではそれが求められる。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.185

「それ」としての扱い

 人類の歴史全体を通じて,人びとは罪のない多くの存在を敵視し,イットとして扱ってきた。歴史の折々に人間として扱われなかった民族やグループのリストは長く,私たちのほとんどの大部分が含まれてしまう。たとえば黒人,共産主義者,資本主義者,芸,アメリカ先住民,ユダヤ人,外人,魔女,女性,イスラム教徒,キリスト教徒,パレスティナ人,イスラエル人,貧しい人,金持ち,アイルランド人,イギリス人,アメリカ人,シンハラ族,タミル人,クロアチア人,セルビア人,フツ族,イラク人などだ。
 そして集団の中に住みついたイットにたいして,その集団の指導者が排斥の命令をくだした場合は,なんでもありになる。良心はもはや必要なくなる。良心が私たちの行動を抑制するのは,仲間同士に対してであり,イットにたいしてではないからだ。イットは集団の中から排除される。彼らの家を奪い,家族を撃ち殺し,火あぶりにしても罰せられることはなく,称賛さえ受けるようになる。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.84-85

良心と道徳

 要点をまとめると,初期の神学者たちによれば,(1)道徳律は絶対的なものである,(2)人はみな生まれながらに絶対的真理を身につけている,(3)悪しき行動はまちがった判断の結果であり,シンテレーシス(良心)が欠けているせいではない,人はみな良心をもっており,人間の理性が完璧なら悪い行動は起こらない。
 良心にかんするこの3つの考え方は,これまでの歴史の中で実際に広く支持されてきた。そしていまもなお,人が自分や他人を考えるうえで,測り知れないほどの影響力をもっている。とくに,3番目の考え方は根深く残っている。アクイナスから800年近くたっても,人は非道な行為を目にすると,「弱い理性」の現代版といった見方をする。悪いことをしたのは,貧しい体,心が乱れていたからだ,育ち方のせいだと考えたがる。そしていまだに神ないし自然が彼に良心を与えそこなったからだという,単純な説明には大きな抵抗をおぼえる。
 数百年にわたって,良心にかんする議論は,人間の理性と神から授かった道徳的知識との関係が中心だった。いくつかの説も付け加えられた。最近では善悪の判断に比率主義をとり,理性が“善”をもたらすための“必要悪”をうながすという,都合のいい抜け道もある——たとえば「聖戦」などだ。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.46-47

人種とIQ

 黒人の劣等性という神話は,心理学者たちの後押しで精神保健の隅々にまで広がっていった。最大の問題は学校で起きた。そこではIQが黒人の生徒を差別するために用いられた。白人に利用可能な教育資源を,彼らに与えない根拠となったのである。IQテストによる人種差別も,精神保健に2つの大きな影響を与えた。1つは,黒人がしばしば知恵遅れと間違って認識され,彼らの真の問題が見落とされてしまったことである。問題はすべて知的劣等性のせいにされるのであった。彼らは,不適切なクラスに入れられたり,回復不能な患者のためのプログラムを押しつけられたりした。そのため彼らは大抵悪化してしまった。2つ目に,黒人の患者が仮に正しく知恵遅れと判定されても,役に立たないプログラムを割り当てられてしまっていた。IQは,患者の能力をア・プリオリに決めつけるために用いられた。低いIQ得点は,教育的資源の提供を拒むための合理化として用いられ,さらには,非自発的な断種や厳罰主義的な処置を正当化するものとしても使われた。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.278-279

捏造

 心理学は20世紀の初頭に学問として登場し,移民や黒人の生物学的劣等性の主張に多大な貢献をした。心理学者を他のメンタルヘルス従事者と区別する重要な特徴の1つに,心理テスト,主に知能検査がある。IQテストは,黒人や移民の劣等性の証明にしばしば用いられた。ほとんどの読者は,人種間には遺伝的にIQの差があるという主張(例えばR.J.ヘルンスタインとC.マレーによる「ベル曲線」におけるそれ)を何度も聞いているだろう。対象,方法,技術が変わっても,IQ得点と遺伝についての議論には本質的な変化は生じなかった。ユダヤ人が初めてアメリカに来たとき,彼らのIQの低得点は人種的劣等性のサインと見なされた。経済的,知的レベルが改善して得点が標準より高くなると,そこに彼らの遺伝的優秀性が反映していると主張された。
 高名な心理学者たちが,みずから進んで人種的劣等性の証明をしようとしたことに注目しなくてはならない。IQテストを開発したターマン,バートなどは,黒人のIQ劣等性という神話に貢献した人物である。英国の心理学者シリル・バート(「教育的テストの父」と呼ばれ,その分野での貢献によりナイトの称号を受けた)による研究は,さらにひどい。彼はデータをねつ造し,アシスタントの偽名で論文を書いた。黒人の知的劣等性を主張してきた心理学者でさえもが,首をかしげるような見え見えの捏造であった。データが完璧すぎたので,1840年調査と同様,いかさまは露見してしまった。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.278

引用者注:シリル・バートのデータ捏造についてはそれを否定する研究者もいる(真偽不明)。また,バートが見出した(「捏造した」とされる)双生児間の相関係数は,後の研究者が見出した値に非常に類似していることも知られている。

移民と精神障害

 移民を精神障害の主因とする思想は,19世紀後半に広く普及した。この思想は,移民に対する畏れと精神科入院患者の激増により加熱した。人数の増加,イコール精神障害の増加であった。望ましくない特徴が不利な結果を招くことについての生物学的説明は,ダーウィン,メンデル,マルサスや,とりわけ「優生学」という名の創始者であるガルトンの理論から引き出された。
 しかし,彼らが精神病の原因を社会状況に求めようが,遺伝的欠陥を持つ人口の増加に求めようが,そのような学説の微妙さとは関係なく,ほとんどの論者は,後になって国に流入した劣等な「人種」が精神病の急増の主因と信じていた。移民の潮流を止め,精神的欠陥者を排除し,移民後に発病したと見なされる人たちを国外追放するための組織がつくられた。1882年,議会は,重罪人,狂人,白痴,一夫多妻主義者,てんかん,こじき,売春婦,アナーキスト,伝染病の罹患者,公的負担になりそうな人々などを排除する法律を可決した。が,措置の後も,貧困者や依存者,精神科病院入院患者の数は減らず,公衆の心配は癒えなかった。アジア人の排除法も同じで,1907年の日本移民の停止を旨とする紳士協定も,たいした効果をもたらさなかった。
 こうした扇動の陰で,強大な権力を誇っていたのが移民制限同盟であった。これはアングロ・サクソンの優等性という信念をもち,他人種の存在が開拓者の遺伝的優位を損なうという思想を掲げる組織で,裕福なハーバードの卒業生によって設立されていた。彼らは自分たちへの恩師,ヘンリー・カボット・ロッジ上院議員が発起した法律の制定を支援した。移民制限同盟の基本戦略は識字率法案の採択で,彼らはそれが欠陥者を排除する有力な方法だと確信していた。識字法は1917年に最終的に採択され,さらに厳密な条例が1920年代に追加された。しかし,相変わらず精神科病院は満員であった。

ハーブ・カチンス,スチュワート・A・カーク 高木俊介・塚本千秋(監訳) (2002). 精神疾患はつくられる:DSM診断の罠 日本評論社 pp.270-271

反統合失調症患者

このような問題にはじめて本格的に関心が寄せられるようになったのは1960年代から1970年代初頭のことだった。この頃,児童精神医学と発達心理学が重なり合う分野の心理学者たちが,健全な成長と発達を阻害する幼児期の要因を調査し始めた。阻害要因としては,母親との別離,両親の離婚,胎児期の合併症などが挙げられるが,最大の危険因子が貧困であることは疑いの余地がない。この分野の研究の大部分は,臨床心理学者ノーマン・ガーメジーが統合失調症患者について行った先駆的な研究を基礎としている。ガーメジーは,興味深い発見をした。彼が担当する成人の統合失調症患者のなかには,困難な状況に直面しながらも驚くほど円滑な人生を楽しんでいる例が見られたのだ。彼らは仕事をもち,さまざまな活動を順調にこなし,恋人と良好な関係を維持していた。こうした患者(ガーメジーの研究では「反統合失調症患者」と呼ばれる)は,施設,失業,ホームレスという堂々めぐりの人生を過ごしているように見える「過程統合失調症患者」とは,あまりにも対照的だった。
 こうした違いに関心を抱いたガーメジーは,さらに統合失調症の親をもつ子どもたちの調査に乗りだした。かなり意外だったのは,90パーセントの子どもたちが友達と良好な関係を築き,学業面で成果をあげ,しっかりとした将来の目標をもつなど,正常に発達していたことだ。彼は仲間の臨床学者たちに,研究の重点を危険因子から「子どもたちを生存と適応に向けて突き動かす力」に移すべきだと声高に訴えた。1970年代初頭,彼の呼びかけにより,心理的レジリエンスについて本格的な研究が始まった。

アンドリュー・ゾッリ,アン・マリー・ヒーリー 須川綾子(訳) (2013). レジリエンス 復活力:あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か ダイヤモンド社 pp.159-160

イノベーションの創出

「崩壊を避ける唯一の方法は,蒸気機関とか,電気,コンピュータ,インターネットに匹敵するものを生みだすことでしょう」とウェストは言う。「難しいのは,生きるスピードが加速するのに応じて,イノベーションを創出するスピードも加速する必要があるということです。私の腕時計はあてになりません。世界はもはや線形の時間軸で進行していないのです。成長とイノベーションは日増しに加速しているのですから」
 成長のうねりは次第に大きくなり,加速している。そんななか,順調に機能している都市は,いかsにして絶え間なくイノベーションを創出し,自らの姿を変え,1つの成長曲線からつぎの成長曲線へと乗り移っているのか。その答えは,都市の大きさではなく,多様性の凝縮にある。
 都市とは,地域社会,ネットワーク,イノベーター,インフラストラクチャーなど,多様な小さな要素が積み重なった集合体だ。こうした要素は,さまざまな人や集団を結びつけ,緩やかで形式ばらない,流動的な協力関係を生みだす。ニューヨークに暮らし,都市計画の概念に影響を与えた活動家ジェイン・ジェイコブズの有名な著作には,コラージュのように多様性がひしめくウェストビレッジの活気あふれる風景が描写されている。地元紙を手にした売り子,パトロール中の警察官,すれ違う通勤者たち——そのひとりひとりが,異なる価値観と目的意識が織りなす複雑な階層構造の一部をなしている。

アンドリュー・ゾッリ,アン・マリー・ヒーリー 須川綾子(訳) (2013). レジリエンス 復活力:あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か ダイヤモンド社 pp.128-129

「氏名」

 ふつう新生児が生まれて役所に届け出る時,名の欄に「氏名」とある。この氏名を姓名とも言って済ましているが,もとは異なる概念であった。苗字・氏・姓が混用されるようになったのは明治の初め明治8年(1875)から同11年(1878)にかけてのことで,同12年(1879)ごろを境に,前代の法令の引用を除けば氏または姓が用いられるようになったという。明治23年(1890)の民法,同31年(1898)の新たな民法制定以降,制度上の名称は氏に統一されたのであるが,一方で苗字や姓の名称も廃れることなく今日まで命脈を保っている。


佐藤 稔 (2007). 読みにくい名前はなぜ増えたか 吉川弘文館 pp.38

非難メッセージ

 1940年には,国民啓蒙・宣伝省は映画部を作り,同年,史上最も有名なナチのプロパガンダ映画『永遠のユダヤ人』を制作した。この映画には,ナチのポーランド侵攻のドキュメンタリー場面と,ポーランド系ユダヤ人は堕落しており下品で怠惰で醜悪で邪悪だとするスタジオ収録の場面とが交互に登場する。ここでは,ユダヤ人は汚れた下水管からもがき出て,「権力と信仰を毒性の強い病気のようにまき散らしているネズミの群れ」にたとえられている。当時は医学書でさえ,ユダヤ人を「菌のようにはびこる」バクテリア,腫瘍,がんになぞらえていた。1936年(ベルリンオリンピックの年)の医学生に向けた講義では,ナチ親衛隊に属していた放射線科教授ハンス・ホルフェダー博士が学生らに見せたスライドで,ユダヤ人はがん細胞として,ナチの突撃隊員は当然ながらがんと闘う放射線として描かれていた。ナチは,ユダヤ人に病原体という烙印を押した上に,彼らが病気の原因となる物品,たとえばタバコを取引していることを非難した。世間に広められたメッセージは「ユダヤの害虫と伝染病を根絶せよ」。悲しいことに,このメッセージは功を奏した。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.158

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