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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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先延ばしの起源

 先延ばしの起源は,おそらく9000年くらい前に農業が始まったときにさかのぼる。人類がはじめて人為的に設けた「締め切り」は,春に畑に種をまき,秋に作物を刈り取ることだった。こうした作業は,文明を築き,生き延びていくうえで不可欠だったが,進化のプロセスはこの課題を成し遂げる能力を私たちに備えてくれなかった。先延ばしに関して記している初期の文献がことごとく農業について書いているのは,偶然ではない。4000年前の古代エジプト人は,遅延を意味するヒエログリフ(神聖文字)を少なくとも8種類も用いており,とくにそのなかの1つは怠慢や忘却による遅延,つまり先延ばしを表すものだった。その「先延ばし」を意味するヒエログリフは,ナイル川の氾濫の周期など,農業に関する文脈で最も頻繁に用いられていた。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.88
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ビッグバン

 宇宙が膨張する以前はどうだったかと一生懸命考えたのが,ロシア出身の理論物理学者ジョージ・ガモフでした。
 ガモフはまず宇宙を形づくっている元素の分布に注目しました。中でも水素に目をつけ,水素ガスは陽子と電子でできており,これを圧縮していくと陽子と電子が結びついて中性子になる,つまり宇宙の最初の状態は中性子に満たされた超高密度の高温状態であると仮定しました。なぜそう考えたかというと,宇宙が冷たい状態ならヘリウムが少ししか生まれない,これほど多くのヘリウムが存在するには,宇宙が高温高圧の火の玉状態である必要があると考えたのです。
 ガモフは,宇宙が膨張するずっと前の段階では,「とてつもなく密度が高い火の玉の状態がどこかにあるはずだ。そうでないと辻褄が合わない」と考えました。これを「αβγ(アルファ・ベータ・ガンマ)理論」といいます(1948年に発表)。
 この考えに異議を唱えたイギリスの天文学者フレッド・ホイルが,出演したラジオ番組の中で,「やつらは宇宙が大きな爆発(ビッグバン)ではじまったといっている」といって揶揄したのを,ガモフがおもしろがってあちこちで使っているうちに「ビッグバン」という名称が定着していったそうです。

懸 秀彦 (2012). オリオン座はすでに消えている? 小学館 No.829-837/1700(Kindle)

超新星

 時計の針を1572年まで進めます。
 冬のある夕暮れのころ,デンマークの貴族で天文学者のティコ・ブラーエが馬車で家に向かっていました。すると,道端で人々が集まって空を見上げていたのです。すぐに馬車を降りたティコは自分の目で,人々が指さす方向を見てみました。
 そこにはこれまで見たこともないほど明るい星が輝いていました。自分の目が信じられなかったティコは,通りすがりの人を捕まえて「お前にもあれが見えるか」と確認したほどでした。
 ティコは他の天文学者と共同で観察をはじめました。観察を続けていくうちに,この「新たな星」は彗星のようなものではなく,観察者の位置が変わってもまったく動かないことを突き止めました。これをティコは「新星」(ノヴァ・ステラ)と呼んだのです。
 しかし,この明るく輝く星こそが超新星爆発によるものでした。このときの星は「ティコの新星」と名付けられました。ティコの新星は超新星爆発を起こすまでは暗くて認識されていない星でした。そこへいきなり明るく輝く星として見えるようになったので,「新しい星」が誕生したと彼らは考えたのです。
 新しい星が生まれるにせよ,古い星が崩壊するにせよ,当時の人にとってそれは受け入れ難いことでした。というのも,当時のヨーロッパを支配していたのはキリスト教の考え方で,宇宙の中心は地球であり,神がつくった宇宙は不動で永遠のものと考えられていたからです。1543年にニコラウス・コペルニクスが地動説を発表して,地球は太陽の周りを回っていることを提唱しましたが,当時はまだ仮説のひとつと見なされているに過ぎませんでした。
 その後,1931年になってスイスの天文学者フリッツ・ツヴィッキーがこのように飛び抜けて明るい星のことを「超新星」(スーパーノヴァ)と呼ぶようになり,現在に至っています。

懸 秀彦 (2012). オリオン座はすでに消えている? 小学館 No.389-407/1700(Kindle)

大絶滅

 これまでわかっているだけで,地球では過去5億年の間に5回も生物の大絶滅が起きています。それも50〜90%もの生物が絶滅しているのです。
 1度目は,4億4000万年前のオルドビス紀末のこと。サンゴやオウムガイ,三葉虫のような節足動物が栄えていましたが,こうした海洋無脊椎動物の57%が絶滅しました。
 2度めは,3億7000万年前のデボン紀末のこと。このころになると海中で魚類が栄えており,陸上に進出する動物も現れてきた時代でしたが,50%もの生物が絶滅しています。
 3度目は,2億5000万年前のペルム紀末のこと。海洋中の脊椎動物の半分がぜ爪と。全体でも53%の生物が絶滅しています。
 4度目は,2億年前の三畳紀末のころ。このころは爬虫類が栄え,哺乳類も登場していましたが,海綿類やアンモナイトの多くが絶滅しています。
 5度目は,6500万年前の白亜紀末のころ。繁栄を極めていた恐竜が全滅しました。この5度目の絶滅の理由は,現在のところ巨大隕石が地球に衝突したという「隕石説」が有力です。隕石の衝突で大津波が発生,粉じんによって日光がさえぎられ寒冷期が到来したとされています。
 このうち,4億4000万年前のオルドビス紀末に起こった大絶滅が超新星爆発に関係があるのではないかとされています。このときは,宇宙からの宇宙線,つまりガンマ線によって絶滅したと考えられているのです。
 この時代の地層を調べてみると,生物大絶滅が起こったことがわかります。当時もっとも繁栄していたのは,三葉虫でした。多種類の三葉虫を地層年代ごとに調べてみると,あることがわかりました。
 アルゼンチンのある渓谷の地層を調べると,4億4400万年より古い地層には,海の浅いところにいる海洋生物と海の深いところにいる海洋生物の両方の化石が見つかるのに,4億4400万年より新しい地層には,海の深いところにいる海洋生物の化石しか見つからなかったのです。つまり,4億4400万年前に海の浅いところにいた海洋生物が絶滅したということです。これは何を意味するのでしょうか?その原因を超新星爆発に見出す研究者もいるのです。

懸 秀彦 (2012). オリオン座はすでに消えている? 小学館 No.286-312/1700(Kindle)

最初の鉄道

 ところで学校の歴史の授業では,世界初の鉄道は,1825年にストックトン〜ダーリントンの間に敷設された,と習った記憶がある人も多いのではないだろうか。事実,炭鉱のエンジニアであったジョージ・スチーブンソンは,ストックトンとダーリントンの間に敷設された線路で,蒸気機関車「ロコモーション」の走行に成功する。これが「世界初の鉄道」という認識が日本では一般的だ。ところがこの「ロコモーション」は,鉄道馬車の力を借りてようやく動くことができた,という程度の代物だった。スチーブンソンは,息子のロバートとともに改良を重ね,世界初の営業路線として決まったリバプール〜マンチェスター線に,その成果でもある「ロケット」を投入した。これが1830年である。
 それでも1825年が“世界初”であるように思えるが,実用に耐えうるかどうかがイギリスでは大きなポイントになるらしい。イギリスにおいても25年説は少なくないが,たとえばイングランド銀行の5ポンド紙幣(旧)に大きく描かれているのは「ロケット」のほうであり,「ロコモーション」は紙幣の隅に,申し訳程度に挿入されているに過ぎない。
 さらに言えば,イギリスで,いや世界で初めて蒸気機関車の製造に成功したのはスチーブンソン親子ではなく,リチャード・トレシビックなる人物である。彼がSLを製造したのはスチーブンソンより20年以上も早い1804年で,試験走行にも成功している。だが,それはとても実用にはならず,彼は試行錯誤を繰り返す。そのうちにスチーブンソン親子が「ロコモーション」,そして「ロケット」を世に送り出し,トレシビックの名前は鉄道史の陰に葬り去られてしまうのである。

秋山岳志 (2010). 機関車トーマスと世界鉄道遺産 集英社 pp.180-182

歴史を知れば

 ウィルバートの第12作目『8だいの機関車』所収の「ゆうめいになったゴードン」は,ゴードンが急遽ロンドンに行くことになったお話である。ロンドン行きに先立ちゴードンは,自分が昔ロンドンのキングス・クロス駅で活躍していたと自慢する。ところが,ほかの機関車がゴードンにこう反論するのである。

 「ロンドンの駅は,ユーストンだよ。そんなこと,だれだって,しってるよ」

 これを訊いたダックは黙っていない。

 「そんな ばかな! ロンドンの駅は,パディントンだよ」

(『8だいの機関車』)

 これは,ゴードンはもともとLNERの機関車であり,同社がロンドンでターミナル駅としていたのがキングス・クロス駅,ダックはGWR出身なのでターミナルがパディントン駅であることを知らないと,何を言い争っているのか皆目わからないのではないだろうか。ちなみにユーストン駅は,ジェームスなどが属していたLMSの発着駅。各自が自分の駅,すなわち自分の鉄道会社が一番だと譲らない当時の状況を揶揄しているのである。
 四大鉄道時代以前,鉄道会社は各自バラバラに首都ロンドンに乗り入れ,専用のターミナル駅を作っていった。その結果,膨大な数の駅が狭いロンドンに出現する。4つの会社に統合された後も,合併前の会社の駅をそのまま受け継いだため,やはり各社別々の駅を利用していた。フランスなどヨーロッパ大陸の国でも複数の駅がある都市は珍しくないが,ロンドンが群を抜いて多いのは,そのためだ。

秋山岳志 (2010). 機関車トーマスと世界鉄道遺産 集英社 pp.105-107

世界初のプログラマ

 コンピュータ科学という分野は昔から男性中心だと思われがちだが,世界で最初のプログラマーは女性である。1843年にエイダ・ラヴレス(1815〜1852年,ちなみに詩人のバイロン男爵の娘である)が当時「解析機関」と呼ばれていたコンピュータについて書いた文章が,現在まで続いているほぼすべてのコンピュータと独創性に関する議論のはじまりである。
 チューリングは,チューリングテストを提案した論文のなかで,1つのセクションを彼の言う「ラヴレス婦人の反論」に割いている。特に,1843年に彼女が書いた次の一節についてだ。「解析機関はどんなことでも自分でははじめられない。人間が命令の仕方を知っていれば,解析機関はどんなことでも実行できる」。
 このような主張は,コンピュータに対する大多数の意見を集約しているようにも思えるし,こうした主張を受けてさまざまな意見が考えられるが,チューリングは素直に急所を突いた。「ラヴレス婦人の反論を変形させると,機械は『本当に新しいことはなにもできない』ということになる。これについては当面,『太陽の下に新しいものなどなにもない』ということわざで言い返すことができる。自分がした『独創的な仕事』が,ただ教育によって自分のなかにまかれた種が育っただけ,あるいはよく知られた一般則に従っただけのものではないと確信できる人がいるだろうか」。
 チューリングは,ラヴレス婦人の反論をコンピュータの限界だと認めるわけでもなく,実はコンピュータは「独創的」になれるのだと主張するわけでもなく,これ以上ない痛烈で衝撃的な手段を選んだ。人間が誇りにしている意味での独創性など,存在しないと言い放ったのである。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.190-191

誰が想像できたか

 だれが想像しただろうか。コンピュータが,人間をこの星のどんなものとも違う唯一無二の存在に保ってきた「論理分析」という能力を真っ先に実現することを。自転車にも乗れないのに,自動車を運転し,ミサイルを誘導できることを。それなりの世間話もできないのに,それなりの前奏曲をバッハ風に奏でられることを。言い換えもできないのに,翻訳できることを。椅子を見て「椅子」と答えるという幼児でもできることもできないのに,それなりのポストモダン論のエッセーを書き上げられることを。
 人間は,なにが大事なのかを見失っている。コンピュータがそれを教えてくれるのだ。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.100

人間コンピュータ

 18世紀半ば以降,企業や設計事務所や大学に雇われた計算係(コンピュータ)(多くは女性)が,ときには原始的な計算機を使って,計算や数値解析をおこなっていた。このような元祖の人間コンピュータは,ハレー彗星の回帰時期に関する最初の精密予測——それまで惑星軌道についてしか確認できていなかったニュートンの万有引力の法則に関する初期の証明——から,ノーベル賞を受賞した物理学者リチャード・ファインマンがロスアラモスで大勢の人間コンピュータを監督したマンハッタン計画まで,あらゆるものの計算を支えていた。
 コンピュータ科学の黎明期に書かれた論文をいくつか読み返すと,執筆者たちが人間に先駆けてこの新しい機械装置の正体を明らかにしようとしていることに感心させられる。たとえばチューリングの論文では,一般には知られていない「デジタルコンピュータ」を人間コンピュータになぞらえ,「デジタルコンピュータの背後にある考えは,こうした機械は人間コンピュータが実行できるどんな処理でも実行できるようにつくられていると説明できるかもしれない」と述べている。それから数十年が経ち,「コンピュータ」という言葉に対する認識が変わり,いまや「コンピュータ」とは一般にデジタルコンピュータを指す言葉になった。というよりも,事実上その意味しか持たなくなった。「人間コンピュータ」のほうが不条理なたとえになったのだ。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.23-24

ヒポクラテスと憂うつ

 ヒポクラテスも,2000年以上前にこれと同じように持続的な憂うつを区別し,黒胆汁(ギリシャ語でmelania chole)の過剰が引き起こす病気であるとした。症状として,「長期的な恐怖感」を伴う「悲嘆,不安,落胆,[および]自殺傾向」が挙げられた。黒胆汁の過剰を抑え四体液のバランスを取り戻すため,ヒポクラテスは,マンドレイクとヘレボルスを煎じて飲むこと,食生活の見直し,それに下剤効果・催吐効果のある薬草の服用を勧めた。
 中世には,深刻な憂うつに陥った人間は,悪魔にとりつかれていると見なされ,悪魔払いのため司祭や祈祷師が呼ばれた。ルネッサンス期の到来とともに,古代ギリシャの教えが改めて見直され,15世紀の医師は持続的な憂鬱を再び医学的見地から説明するようになった。1628年に医学者ウィリアム・ハーベーが血液の循環を発見すると,ヨーロッパの多くの医師が憂うつは脳への血液不足から生じると推理した。

ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.221-222

戦争への利用

 エジソンの製品は戦時中さまざまな形で利用された。蓄電池は戦艦の砲塔を動かし,通信隊には弱い電流を供給した。彼の口述用蓄音機は軍の事務部門で多く利用され,特性の携帯用機種が戦場用に開発された。味方兵も敵兵も塹壕やキャンプで蓄音機から流れるお気に入りの歌に聞き入り,戦争の恐怖をしばし忘れたことだろう。戦争によって多くの人々が音楽レコードに接し蓄音機の需要が着実に伸びることで,売り上げも大幅に増大していった。ニューヨークとウェストオレンジのエジソンの録音スタジオでは,戦場の歩兵や故郷に残る人々のために,行進曲や懐かしい曲など愛国的なレコードを生産した。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.334

戦争へ

 熱烈な愛国主義社のエジソンは,米国が参戦すればしかるべき役割を果たすつもりだった。1895年に彼はすでに戦争が起これば「すべてを捨てて国に奉仕する」つもりであると公表した。彼は多くの米国人と同様,この戦争を軍国主義に対して民主主義を守る戦い,絶対主義の力に対してアメリカ式の生活様式を守る戦いとして見ていた。国家の危機に直面してその国の経済の源泉である産業技術が救済者として活躍することは,適切でありおそらく不可避的でもあった。連邦政府が国家の産業的科学的資材と人材の動員を決定したときに,米国で最も有名な発明家がその努力を指導することもまた適切だった。海軍省長官は1915年エジソンに,軍の技術的諮問に答える技術専門家の頭脳集団というアイデアを提示してきた。海軍諮問評議会(NBC)と後に呼ばれるこのグループは,科学と技術は戦争で重要な役割を果たすという信念と米国人の「天賦の発明の才」が活用できるという信念にもとづいていた。エジソンはこの考えに両手を上げて賛成した。技術的解決が有効であるという彼の長年の信念は,今やより高い境地に達した。「差し迫った対立」において,科学は民主主義に奉仕するために必要とされたのである。エジソンはある漫画のメッセージがとりわけ気に入っていた。それは英雄的な発明者の姿が創意と技術革新の故郷とされる米国の大西洋岸に高く立ち構えているもので,エジソンはその絵を研究所の図書館の壁に貼らせた。ダニエルス長官はエジソンに助言をしてもらうだけでなく,海軍では扱えないような重要な実験作業をウェストオレンジのエジソン「自身のすばらしい施設」でこなしてくれるよう要望した。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.324

口述蓄音機

 口述用蓄音機をいざ売り込む段になって,ショップ文化の価値観が市場では通用しないことが示された。この技術によって事務所にいる熟練労働者は不要になると研究所は踏んでいた。「あなたの会社の速記者は昼食をとりに家に帰り,ときどき休暇をとる……蓄音機は食事をとらないし,いつも手元にあり,いつでも準備ができている」。機会は利用しやすかった。「しゃべれるだけ速くチューブにしゃべって下さい。それだけです」。それによる経済的利益は,高い購入費と保守管理のめんどうを上回るはずであった。
 この戦略は,不要になるとされた従業員自身の手ですぐに握りつぶされた。速記者は,蓄音機が信頼性に欠け複雑で理解できないと主張し,その使用を拒否した。産業化の初期の事務労働者は一定の地位を保っていたが,その後徐々に低下しつつあった。エジソン社のA.O.テイトのように,彼らは中流階級出身で管理職になるのが通例だった。事務作業は,技能や自由の度合いなどで職人の作業になぞらえられたりした。1880年代の米国の典型的な事務所では,速記者は通常男性で給料もよく(エジソン社の広告文によると週20ドルも稼いだ),自分の速記技能や事務管理能力を自由に伸ばしていくことができた。彼らは事務労働者の頂点に位置し,事務係,コピー係,帳簿係,伝令よりも地位が上だった。速記者を蓄音機によって置き換えることは容易ではなかった。
 19世紀末におけるタイプライターの導入と事務量の急速な増大によって事務作業に革命が起こり,そこに口述用蓄音機の製造業者が入り込む余地が生まれた。女性がますます事務所に進出し,タイピストという新しい職につくようになった。だが彼女らには昇進の機会や男性速記者並みの幅広い仕事が与えられていなかった。1900年には速記者とタイピストの75パーセントは女性になった。事務職への女性の進出によって,低賃金で召使い的な労働者層が生み出された。エジソンのセールスマンは口述用蓄音機の売り込み方を変え,蓄音機によって高級のすぐれた速記者をタイピストで置き換えられると説得するようになった。タイピストは,蓄音機に吹きこまれた手紙を書き起こすだけでいい。販売部のスローガンはその利点を,「熟練した速記者の代わりに,半額の給料のタイピストですますことができます」とうたった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.308-310

衰え

 1900年にエジソンは53歳で活動的だったが,彼の健康は衰え始めていた。彼は1900年と1901年に大病をわずらった。若いときに傷めた耳の聴力がますます悪化していた。彼は1906年と1908年に耳の感染症で緊急手術を受けたが,1907年には病状が深刻だったため「すべての商業的事業から引退する」と決心するほどだった。エジソンは商業的な仕事から引退し自分だけの楽しみのためにいろいろな実験に専念すると,事業の支援者や一般の人々に告げられた。1908年に秘書がうかつにも「われわれは研究所ではもう商業的仕事をしない」と宣言するほどだった。
 創設者の健康問題は,エジソン企業連合の経営陣に抜き差しならない問題を突きつけた。無秩序に拡大するエジソン産業帝国を,エジソンなしで運営できるような組織に改変していく必要が緊急に生じたのである。エジソンは自分の会社で,取締役会長・発明家・技術者・経理担当といった多くの役職を務めていた。これらの役職の仕事がそれぞれ明確にされ,その部門の日々の運営を維持できる専門の経営者によって継承されなければならなかった。1907年にはウィリアム・ギルモアが各部局の部長を通じて,エジソン企業連合を運営していた。彼の権限は事務棟から蓄音機工場,さらにその先にまでおよんでいた。彼は部下たちを「エジソン氏を煩わせたり悩ませたりせず,賢く抜かりなくやるように」指示した。事務部門の目標は,親方が研究所で忙しい間操業を支障なく維持することであった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.232

X線

 この戦略において典型的だったのが,X線を実用技術としてすみやかに開発していったことである。ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンは,1895年の末にX線(未知という意味を込めて命名された)を発見した。この種の電磁気力は光と同程度の波長をもち,個体を貫通することができた。レントゲンの発見が電信で報じられるのを聞くや,10時間後にはその実験を開始した,とエジソンは言っている。このプロジェクトは研究所の電気,写真,電気医療の専門家を活用することになった。ただちに必要な機器すべて,特にX線を生み出すのに必要な高電圧の発電装置などがそろえられた。ウェストオレンジ研究所は活気づき,エジソンと彼のチームは日夜作業を続け,レントゲンの実験を再現するとともに,フルオロスコープと呼ばれる装置を2週間以内でつくり上げた。フルオロスコープは,蛍光乳剤を塗ったスクリーンと2つの電極をもつ真空管からつくられており,電荷が金属の標的にあたることでX線を放射し,X線は患者を通りぬけスクリーンに届いて像をむすぶのである。エジソンは作業用のフルオロスコープを1896年3月末にコロンビア大学のマイケル・ピューピンに送り,7月までにウェストオレンジにフルオロスコープの製造工場を完成させた。彼の研究所が1880年代の操業で示していたすばやさは,まだ失われていなかった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.182-184

扇風機

 電気扇風機はウェストオレンジで生産される一連のモーター製品のうち最初のものだった。それはモーター,基盤,羽,針金のガードからなる単純な機械であり,蓄音機工場での組み立ても容易だった。一号棟の電気研究所の職員はどんな家庭用電源でも使えるモーターを設計し,工作室ですみやかにエジソン=ラランド電池の不要な扇風機として製作された。扇風機は,広く一般に流行した。世紀末までに電気扇風機は,電話や電動エレベーターと同じように事務作業にとって不可欠のものとなった。
 エジソンが切り開いていくところは,すぐに多くの人が追いかけてきた。扇風機をまねすることは難しくなかった。エジソン製造会社も多数販売したが,家電製品の市場に参入しようとする小企業のつくる何千もの電気扇風機によってすぐに凌駕された。エジソンはこの分野で競争がなかなか起こらないなどとは楽観していなかった。彼は述べている。「発明が競争によって十分な利益を上げない場合には,中断して別の発明で置き換えていけばいい」。映画はまさにそのたぐいの置き換わるべき技術だった。研究所のこれまでの経験にしっかりもとづいており,模倣は電気扇風機の場合よりずっと難しかった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.180-181

多くの人が

 映画の真の発明家を探そうとしても,あまり意味がない。エジソンの研究所の流動的な組織の中で,何人もの人たちがこの技術の誕生に重要な貢献をした。研究所外部の人々も,科学出版物を通じてあるいはエジソンや彼の部下との個人的な接触によって実験結果を提供した。この新技術創生の歴史におけるポイントは,それがけっして1人だけの作業ではできなかったということである。電気照明と同様に,映画の開発も国際的広がりをもつものだった。エジソンの技術的工夫はまさに絶好の場所とタイミングでなされた。キネトスコープはもともとエジソンのアイデアだったが,その発明の成功は,彼のアイデアを実際の装置に仕立てあげた部下たちの技能によるところが大きい。エジソンは映画の発明にはあまり権利は主張できないかもしれないが,彼の発明工場(それこそが彼独自のアイデアだった)の職員の協力がなければ19世紀のうちに映画は生まれなかっただろう。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.164

交流と直流

 好奇心をもつ大衆と歴史家にとって,エジソンの交流の使用への反対は彼の怒りを表すものだとされてきた。偉大な発明家は自分の傑作を脅威にさらすような新しい技術を攻撃したように見えた。なぜ他の点では「時代の最も進歩的な人間」が進歩を止めさせようと叫んだのか。その答えは独学の天才の限界としばしば結論づけられてきた。エジソンは交流を理解しなかったから反対したのだ,と。この見解から,エジソンが新しい技術を中傷したのはそれに対する答えをもっておらず,「ただ不公正な戦いが熱心になされた」と結論する歴史家もいた。この結論は,エジソンの研究所が交流の脅威に対して,高圧直流の開発,新たな交流システムの開発,そしてウェスチングハウス社の「死の電流」の信用を失墜させるキャンペーンという3つの対抗措置を講じていた事実を無視するものである。エジソンは交流理論の複雑さを理解するような数学教育を受けておらず,そのせいで取り組みをためらっていたのかもしれない。しかし彼は数学に対して特別な適性をもっていたし,1880年代の交流技術は科学的に複雑といえるほどではなかった。それに彼の研究所にはあらゆる交流機器を開発するための機器と訓練された職員がそなわっていた。たとえばアーサー・ケネリーは非常に有能な電気技師で,後にこの分野を教えるとともに高電圧技術でいくつかの重要な貢献をしている。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.128

蓄音機への愛

 エジソンは「純粋で単純な発明」品の蓄音機を,わが子のように可愛がった。蓄音機は他のアイデアを発展させる過程で偶然に発見されたもので,発明以前には思いもおよばなかったたぐいの数少ない発明の一例である。エジソンの言い方によれば,蓄音機は発明ではなく発見だった。それは,自動電信機(動く紙にモールス信号を記録する装置)を研究しているときに発見されたのである。1977年,彼は回転する紙の円盤に点と線とを打ち出して記録する自動電信機の特許を取り,このアイデアを利用して電話の受信内容を記録する装置をつくろうとしていた。この実験をやっている最中に,エジソンはトンとツーの刻み目が,人間の声に似た音を再生することを見つけたのである。
 電話と音響通信の仕事から,エジソンは音とその波形の研究へと乗り出した。彼はドイツの物理学者ヘルマン・ヘルムホルツの音波の研究を聞きつけ,音波の振動の跡を追うための,振動膜に棒のついた自動録音機のような装置の存在を知った。いつもメンローパークの実験室でそうだったように,自動電信の研究は,電話の中継器(増幅器)や記録器などの開発といった他のいくつかの計画と並行して進められた。電話を研究したことで,エジソンは振動板のように音波を生み出す金属や動物の膜に精通していた。針を振動膜につけて紙片をその下で走らせることによって,エジソンは自分のどなり声の音波をパラフィンを塗った紙の上に刻み込むことができた。この実験の成功によって,音波をスズ箔でおおった回転シリンダーの上に刻印することができる別の装置をつくり上げた。1つは音を刻印するためのもので,もう1つは音を再現し聴く人を驚かせるものだった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.77-78

わざとそう見せる

 エジソンは自分を,投資家が臆病なために発明を自分で実用化しなければならない発明家に見せようとした。自分は研究所にいて誰かが資金を集め工場を管理してくれることを望んでいると,彼は思わせようとした。エジソンの実業家としての評判はけっして高くはなかった。エジソンは世界最高の発明家だが最悪の実業家であるという,友人ヘンリー・フォードの言葉はその事情をよく表している。このエジソン像は今日まで存続し,革新的企業の衰退は技術が劣っていたからではなく経営が拙かったからだと説明される。経営学の専門家ピーター・ドラッカーは最近の著作で,エジソンは自分の発明を発展させるために立てた会社を破滅させたひどい経営者であると論じた。たしかに多くのエジソンの会社が破産したが,この事実上の失敗がすべて拙い経営によるわけではない。ドラッカーは,「ほとんどではないにしても多くのハイテク企業は,エジソンと同じやり方で経営されている,というより経営されそこなっている」と述べるが,それは二重に誤っている。エジソンの多角経営を模倣できるハイテク企業など,今日わずかしかないだろう。研究事業を少なくとも3つの異なる技術にもとづかせるという彼の事業戦略によって,技術的失敗や経済的不況に対するクッションが与えられた。エジソンの事業経営の歴史は成功の連続の歴史ではないが,失敗の連続だったわけでもない。金ピカの時代と大恐慌という生き馬の目を抜く実業界を生き抜いたことは,まさしく彼が誇りとするところである。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.60-61

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