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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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試行錯誤の実験ではない

 エジソンの発明工場は,実用的目的に向かって組織的,体系的研究を遂行する先駆的な企業内研究所だったのである。彼らの仕事は広範だった。もしもエジソンが試行錯誤だけを念頭に計画を立てていたならば,それぞれの作業場に置かれる研究所のノートにすべての実験を記録するようこだわることはなかっただろう。手さぐり仕事の名人エジソンは,大きな貯蔵庫をつくることで仕事を楽にした。しかし,彼は購入できる最高の検査測定機も備えつけており,研究所の仕事が試行錯誤の実験ではなかったことを物語っている。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.24
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エジソン研究所の図書室

 図書室は,新研究所のどの計画書にも必ず描かれていた,エジソンの方法は次の2つの作業に始まる。「1.問題の現況を研究せよ。2.すべての過去の経験を尋ねよ。そしてできる限りそのテーマのものすべてを研究し読み込むこと」。エジソンは十分な下調べもせずに新しい領域に乗り出すようなまねをする人物ではなかった。彼の多くの発明は他人の成果にもとづいて進められたのであり,電気照明を発展させる上でもそのことは歴然としていた。電気技術は世界的に広がり,人・機械・アイデアが大西洋を渡って交換されるからこそ急速な発展をとげていたのである。エジソンは彼の研究所にやって来る外国の機会(たとえばフランスからのグラム・ダイナモ)や文献からはかりしれない恩恵を受けており,自分の電気機械を制作するにあたり大事なヒントを得たりしていた。突破のきっかけとなる重要な情報は,パチノッティの環状電機子の発見のようにしばしば見慣れない科学文献の中に隠れていることをエジソンは電機産業の経験から心得ており,彼のまわりに流れ込む科学技術の最新の情報をいつでも利用してやろうとしていたのである。技術情報の流れは19世紀が下るにつれて大河のようになっていたが,発明工場の第1の役割はこの大量の技術情報の流れからいいアイデアをすくい取ることであった。エジソンにとっては電気の研究を進めることで新しい科学的地平が開かれるとともに,必要な知識を得るための資金ももたらされた。蔵書数約10万冊とされるウェストオレンジ研究所の図書室は,所員全員にとっての重要な情報源だった。

アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.12-13

カストラート

 思春期を迎える前に去勢された少年は,背が非常に高くなる。現代の私たちにとってはほとんど忘れられた事実だが,4世紀のアテネではありふれたことだった。当時のアテネは地中海じゅうから集められた奴隷で溢れており,その中には去勢された奴隷が大勢いたからだ。またこの事実は,流行の最先端にいた18世紀のイタリア人にもよく知られていた。スカラ座のような大劇場に君臨していたのは,現在のようなテノール歌手ではなく,カストラートだった。彼らの声域,音量,この世のものとは思えぬ美声は絶賛され,なかには名声を得て金持ちの有力者になる者もいた。たとえば,ファリネッリ(1705-82)はスペインのフェリペ5世の御前で歌い,騎士(カバジェロ)の位を授けられた。カファレッリは講釈に叙せられ,ナポリに豪邸を建てた。ドメニコ・ムスタファはローマ教皇の騎士に任ぜられ,終身聖歌隊長になった。ロッシーニも,モンテヴェルディも,ヘンデルも,グルックも,モーツァルトも,マイヤーベーアーも彼らのために作曲した。彼らが歌うと,観客は「Eviva coltello!(カストラート万歳!)」と叫び,恍惚となった。

アルマン・マリー・ルロワ 上野直人(監修) 築地誠子(訳) (2006). ヒトの変異:人体の遺伝的多様性について みすず書房 pp.173-174

結合性双生児

 結合性双生児をかたどった最古のものは,臀部で結合した太めの中年姉妹の白い大理石像で,新石器時代の小アジアの神殿で発掘された。それから3000年後に,オーストラリア先住民アボリジニの手によって,現在のシドニー郊外近くの岩に,双頭の結合性双生児(頭が2つに胴体が1つ)を記念してその姿が刻まれた。さらにその2000年後(紀元前700年)には,ギリシャ時代の幾何学文様の陶器に,ギリシャ神話に登場するモリオネが産んだ息子たちの姿が描かれている。エウリュトスとクテアトスという名の兄弟は,ひとりはモリオネと海神ポセイドンの息子,もうひとりはモリオネとアクトル王の息子と言われている。父親どうしは仲が悪かったにもかかわらず,兄弟は1つの胴体と4本の腕を持ち,それぞれ槍を振り回した。現代のイギリスのケント州の教区では,復活祭の翌日に体の側部がぴったりくっついた2人の女性をかたどったパンが,貧しい人々に配られる。ノルマン人の征服時代からの伝統で,かつてその地で暮らしていた結合性双生児の姉妹が,協会に財産を遺贈したことを記念したものらしい。

アルマン・マリー・ルロワ 上野直人(監修) 築地誠子(訳) (2006). ヒトの変異:人体の遺伝的多様性について みすず書房 pp.24

世界初だった

 その奇抜すぎる発想のせいで日本では自嘲気味に語られることの多い風船爆弾だが,実際にこの得体の知れない巨大な物体の飛来を受けたアメリカ側の評価は,日本とは正反対だった。戦時中,アメリカ西武防衛司令部の参謀長で,戦後来日して,ふ号作戦の全容解明につとめたW.H.ウィルバー代将という人物が後年,リーダーズ・ダイジェスト誌に「日本の風船爆弾」と題した手記を寄せているが,そのなかでこう書いている。

 この攻撃は大したものではないと,人々に思わせようとこちらは務めた。ところが実際には,これは戦争技術における目ざましい一発展を画したものであった。世界で初めて,飛び道具が人間に導かれないで海を渡ったのである。(中略)
 もしも夏のひでりの季節となって,アメリカ西武諸州の森林が火つけの火口みたいに乾き切ったころまで,この風船攻撃がつづいていたら,そしてもし日本人が1945年3月にやったように平均1日100個の割合で風船を放流しつづけていたら,さらにまた,彼らが少数の大型焼夷弾をつける代わりに数百個の小型焼夷弾をつけていたら——もしくは細菌戦の媒体でも使っていたら——恐るべき破壊がもたらされていたことであろう。

 ウィルバー代将のいうように,ふ号が世界で初めて人間に導かれないで海を渡った飛び道具たりえたのは,2つの要因による。ひとつは巧妙につくられた高度保持装置というテクノロジーであり,もうひとつは,高い気密性をもったこんにゃくという天然素材のおかげであった。

武内孝夫 (2006). こんにゃくの中の日本史 講談社 pp.125-126

自分の問題と

 大学を出てから,先輩の上野陽一氏(現在の産能大学の創立者)との関係で,協調会という機関の仕事をしたりしたようだが,まもなく,東京府立松沢病院の心理室において,三宅鉱一博士のもとで精神測定法の研究にたずさわることになる。ここで,記憶の検査,連想の試験,知能検査などの研究にたずさわるのだが,その過程で,クレペリンの連続加算による作業心理の実験的研究に出会うのである。おそらく父は,クレペリンの「作業曲線」の研究に,自分の作業障害の生物学的根拠を見出し,目をひらかれる思いがしたのだと思う。それで,連続加算の時間条件の吟味を行って,「5分の休憩をはさむ25分法」がクレペリンの5因子を看取するのに適当であることを見出し,もっぱらその「25分法」を使って,特に精神分裂病の患者さん達のデータをあつめたのだと思われる。(父は,精神分裂病の患者さんの作業障害と自分のある種の作業障害との間に,近似的な関係を見ていたようである。)そして,その「25分法」のデータを蓄積するうちに,この方法が,人間の精神の健・不健——別の言い方をすれば作業障害の有・無——を予測するのに役立つとの見通しを得て,検査法への発展を展望したのであろう。

内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.97

「少年が捕虫網で蝶々を追っかけるような感じ」

 それでは,彼は学者として何をしたかというと,結局,内田クレペリン検査のデータを大量に集め,研究することを通して,人間における素質的(生物的)なものの重要性を確認し続けたとでも言えるかもしれません。しかし,そんな風に言うと,なんだかおもむきが違ってきてしまうようにも思えます。心理学の先輩の城戸幡太郎さんが言われたそうですが,ちょうど「少年が捕虫網で蝶々を追っかけるような感じ」で,喜々として内田クレペリン検査のデータを集め,眺め暮らしていたと言った方がいいでしょう。しかも,そういうことを書斎で孤独に綿密にやるのではなく,色々な人とワイワイやりながら(それこそしばしば飲み食いしながら)盛大にやりっ放していたという感じです。(文部省体育研究所や早稲田大学時代のことをいろいろな方から聞くと,飲み食いを伴うおしゃべりの中から,さまざまなアイディアが出され,試され,一部がまとめられるといった形で研究がなされていたようです。しかし,ともすると,飲み食いに力点が置かれてしまう傾向が強かったと皆さんが指摘することもたしかです。)
 たしかに,こういったやり方は,あるいはもっとも先端を行くやり方であったと言えるかもしれません。けれどもその一面,彼自身がもう少しメリハリをつけ(計画的に),深く緻密に研究をし,さらにその成果を形にしてゆくことに意を注ぐべきであったということも言いたくなるところです。皆さんが,彼のねらいや展望にユニークさを見てくださるだけに,ちょっと残念です。

内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.83-84

日本・精神技術研究所

 日本・精神技術研究所は,迷留辺荘主人が,1947年(昭和22年)に内田クレペリン検査の普及のために設立した私設研究所である。「日本」などと大きく名乗ってみたものの,その研究所は迷留辺荘そのものの一室であった。そしてそこにお弟子さん風の人や,書生さんのような人が出入りして,おしゃべりをしていくのであった。もちろん飲み食いしながら。「精神技術」というのはサイコ・テクノロジー(psycho-technology)の日本語訳で,心理テストやカウンセリングなどの技術のことを意味している。「日本」と「精神技術」の間に「・」(中黒)を入れたのは,いつだったか「日本精神」と読まれて,右翼団体とまちがえられたための,苦肉の策であった。
 1966年(昭和41年),迷留辺荘主人が亡くなってからは,法人組織になり迷留辺荘からも離れて,いささかの近代化をとげた。それとともに宮沢賢治の童話に出てくるような牧歌的研究所のイメージもなくなってしまったかもしれない。 

内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.67-68

内田勇三郎の紹介

 ここで迷留辺荘主人といわれている内田勇三郎は,1894年(明治27年)から1966年(昭和41年)まで生きた心理学者である。東京銀座のたばこ屋(専売以前の)に生まれ,東京府立一中,岡山の第六高等学校を経て,東京帝国大学文学部心理学科を卒業した。卒業して間もなく,東京府立松沢病院に勤務し,そこでドイツの精神医学者E.クレペリンの「連続加算法」による作業検査の研究に出会う。その後その方法に着想を得て,こんにち「内田クレペリン精神検査」とよばれている心理検査を開発・研究した。
 また,旧制の第五高等学校,早稲田大学,埼玉大学,日本大学,社会事業大学などで,心理学を講義した。1947年(昭和22年)ごろから,前述の内田クレペリン検査の研究・普及のために,日本・精神技術研究所を自ら主催した。現在,内田クレペリン検査は日本でもっともよく普及している心理検査のひとつで,年間何百万人以上の人がこの検査を受けている。

内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.66-67

群れ嫌い

 迷留辺荘主人は,前述のように,衆を恃むとか群れをなすことが嫌いな人であったが,そういう傾向とも関連して,団体や組織を切り盛りすることなども,あまり好きでなかったし,得意でもなかったように思われる。
 もちろん,自分で小さな研究所を主催していたということではあるのだけれども,これは言ってみれば個人商店=パパ・ママストアみたいなもので,事実,迷留辺荘主人の妻は,その研究所で大きな役割を果たしていたのである。
 また,最晩年の仕事として,日本女子大児童研究所の主事といったか,とにかく所長のような立場の仕事を何年かしていたけれども,これだって週に2度ぐらい出かけて行って,「皆さんのお好きなようにしなさい」というようなことを言っていたのに違いない。もちろん,こういう言い方は身内の人間の偏見的過小評価の傾向があるかもしれないけれども,迷留辺荘主人の妻などは,「あの仕事は,若く美しい女性に囲まれて楽しいから続けてるんですよ」と公言してはばからなかったほどである。

内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.59-60

収入は

 迷留辺荘主人は,大正14年から昭和3年の間,熊本の旧制第五高等学校の教授というものになり,当時としてはかなりの禄を食んでいたらしい。その時はまだ独身であったから,熊本の地でかなり盛大にお金を使っていたようである。(要するに夏目漱石の『坊ちゃん』の主人公みたいな生活を送っていたのであろう。)
 しかし,ひとつ所からもらう給料で全生活をまかなうような生活は,その時が最初で最後だったと思う。五高から戻って,早稲田大学で心理学を教えていた時も講師であったし,そのあともいろいろな学校で心理学を講じていたけれども,ほとんど全部非常勤講師のたぐいであった。まれに「教授」という肩書きを持っていたこともあったかもしれないが,そういう時は,私立大学が文部省との関係で「教授」を置かないと具合が悪いというような事情で,「教授」であったにすぎず,したがって,給料なんぞはごくわずかであった筈だ。そのほか,当時の心理学者というのは,さまざまな役所(たとえば,少年鑑別所とか東京都とか)の嘱託のような仕事をしたりしていたから,そこからわずかの手当をもらってはいただろう。しかしながら要するに全部の給料・手当のたぐいを合わせたって,たいした金額ではなかったと思う。

内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.21

内田勇三郎の潔癖さ

 迷留辺荘主人は,さまざまな奇癖の持ち主であったが,なかでも彼の潔癖症は,いささか並はずれていて,それはもう病いと言ってもいいものであった。
 たとえば,(私がもの心ついてからはそういうことはなかったけれども)一時期,彼はお金を全部消毒していたことがあったという。どう消毒したかというと,まず,硬貨は全部クレゾール溶液のなかに漬けてしまったそうだし,紙幣に関しては,脱脂綿にクレゾール溶液をしみこませ,それを広口ビンのなかに入れ,そこに紙幣をおさめておいたという。硬貨に関してはかなりの消毒効果が期待できるように思うけれども,お札については,この程度のことでどのぐらいの消毒ができたのだろうか。しかし,とにかくそうせずにはいられなかったということなのだろう。その結果,当然のことながら,わが家のお金は全部クレゾール特有のにおいがしみついてしまい,近所の店屋の人から,「内田さんのところからくるお金は全部わかる」などと言われたそうである。

内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.18

「もう少し,なにかおやりになったらいかがですか?」

 ところで,世間的にみれば,迷留辺荘主人は,仮にも心理学者ということであった。したがって,世間の人が,迷留辺荘主人は,日がな,本を読んだりものを書いたりという生産的なことをしていると想像しても,それほど見当ちがいな想像とは言えないだろう。しかし,いま書いたように,実態はすこぶる非生産的なものであったと言わなければならない。
 そこで。ごくふつうの世間の人間から迷留辺荘主人の妻などというものになってしまった私の母親は,ある時,迷留辺荘主人におそるおそるたずねてみたそうである。「もう少し,なにかおやりになったらいかがですか?」と。そうしたら,言下に返ってきた迷留辺荘主人のことばは,「おまえさんのような者に,おれの頭の中を見せてやりたい」というものだったそうである。それ以来,これも明治生まれの女である私の母親は,自らのプライドもあって,この種の質問を発することはやめたそうである。
 なるほど,頭の中では活発な生産活動がなされていたということであるのか。言われてみれば,一理も二理もあることである。しかし,時としては食べることにも事欠くような生活を強いられている者が,そんな理くつをスンナリ受け入れることは,なかなかむずかしいことであった。
 たしかに,学者の生産は,たくさんの本を読むことや,たくさんの論文を書くことだと考えるのはいささか偏頗な学問観であると言えなくもないのかもしれない。しかし,迷留辺荘主人のように,本は読まない,論文も書かないということに徹する生き方が,どういう学問的立場でありうるのかということについては,私自身いまだにシックリした結論を出せないままでいる。

内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.16-17

消滅する自然資源

 1980年に,環境保護主義者であるポール・エーリックと彼の仲間,そして経済学者のジュリアン・サイモンとの間で取り交わされた有名な賭けがある。エーリックは1968年に出版されベストセラーとなった『人口爆発』の著者だ。彼はこの書籍で,人工の過剰な増加と自然資源の枯渇によって,1970年代にはすべての大陸で食糧不足の問題が表面化すると記している。サイモンはエーリックとその友人に対して,ただ言うだけでなく,実際に10年後に消滅する自然資源を5つあげるよう迫った。この不足は価格に反映する。もしその5つの原料の価格が10年の間に上昇したのであれば,サイモンが差額をエーリックとその仲間に支払い,それに対して,もし価格が下落した場合,エーリックがサイモンに支払うという賭けだ。
 エーリックと同僚は5つの金属を選んだ。クロミウム,銅,ニッケル,スズ,そしてタングステン。そして期間は1980年から1990年に設定された。賭けが行われた時点で「他の欲張り深い人間が割り込んでくる前に,サイモンの思いがけない申し出を受け入れることにした」,「金の魅力には抗えないから」とした。
 結果やいかに。
 僕もその10年は実際に生きていたからよく覚えている。1980年下ら1990年にかけては,『ホーム・アローン』が公開され,Windows 3.0が発表され,世界初の「www(ワールド・ワイド・ウェブ)」ページがCERN(欧州原子核研究機構)もよっって作成され,そしてクロミウム,銅,ニッケル,スズ,タングステンの実質的価値がすべてさがった(実質的価格とは,インフレが考慮に入れられた後の値段ということ)。打ちひしがれたエーリックとその仲間たちは,なんとかその負けを「無かったこと」にするために,恥を忍んでいろんな手を尽くしたけれど,結局,それらの鉱物の下落した価格分(578ドル)の小切手をわたすことを余儀なくされた。
 ジュリアン・サイモンが輝かしい勝利とちょっとしたお小遣いを手にすることができたのは,多くの人々が知恵と情熱を注いで,産業技術を発展させた結果だったと言えるかもしれない。

トーマス・トゥエイツ 村井理子(訳) (2012). ゼロからトースターを作ってみた 飛鳥新社 pp.131-132

ひとりでは

 ヨーロッパ史上初の冶金学専門書である『デ・レ・メタリカ』には,その当時知られていた,世界各地の採鉱,および金属の精錬について,年代順に記されていた。この本は,ほぼ500年前に書かれたものにもかかわらず,僕にとっては,現代の教科書よりもずと役に立った。そのことは,少なからずショッキングなことでもあった。というのもそれは,16世紀以降に発展してきたさまざまなメソッドを,僕1人ではまったく使いこなすことができないことを意味するからだ。

トーマス・トゥエイツ 村井理子(訳) (2012). ゼロからトースターを作ってみた 飛鳥新社 pp.53

美術批評の成立

 王政を終焉させた革命政府は,それまで王の臣民であった人々を,フランスの国民とするために国語教育を徹底します。こうして,従来は教会の管轄下にあった初等教育が政府の管理下に置かれることで,教育の力点は宗教教育から読み書き能力の修得に移行し,人々の識字能力は急速に向上します。これに,都市への人口集中と印刷技術の発展が加わり,新聞雑誌の需要は従来とは比較にならないほど増大していきます。
 今日からすると意外な感もあるのですが,この新聞雑誌において大きな人気を誇っていたのが美術批評でした。王室コレクションが開放されて美術館に展示されたものの,その鑑賞法がよくわからず,公募展のサロンに出かけてみても審査ができるほどの鑑賞のキャリアを持たない市民階級の人々は,そうした美術品の見方の指南を活字文化の中に見いだそうとしたからです。
 文豪ゾラや詩人のボードレールはそうした近代美術批評のパイオニアで,驚くべきことにそれらの批評は,彼らが小説や詩作で名を成したがゆえに依頼されたものではありませんでした。逆に,彼らは批評によって生活の安定を得た後に,本格的な小説や詩作に取りかかっているのです。それほど,当時の美術批評というものには大きな需要があったのです。

西岡文彦 (2012). ピカソは本当に偉いのか? 新潮社 pp.119-120

美術品の誕生

 宗教改革によって教会美術が否定された後,市民の生活空間を飾ることになった世俗的な題材の絵画にしても,そこに描かれた風景や静物は,日々の生活を美しく彩り,暮らしに豊かさや潤いをもたらす調度品としての機能を持っていました。
 ところが,教会美術の需要を激減させた16世紀の宗教改革に続いて,18世紀末のフランス革命は王政を終わらせ,王室美術というものの需要も激減させてしまいます。
 そして,それまで王室に収蔵されていた美術品は革命政府によってルーヴル宮殿に移され,市民を啓蒙するための美術品として一般に公開されることになります。絵画や彫刻は,それまで備えていたなにかを伝えるというコミュニケーション機能を失い,単なる鑑賞のみを目的とする「美術品」に変わってしまったのです。
 教会にあれば神の威光を表し,宮殿にあれば王の権威を表し,市民の家庭にあれば暮らしを美しく彩るという,それぞれの場面で実用的な目的を持っていた美術は,美術館という新たに出現した美の「象牙の塔」ともいうべき権威ある施設に展示されることによって,そうした「用途」から切り離されてしまい,美術品それ自体の持つ色や形の美しさや細工の巧みさだけを「鑑賞」される対象になってしまったのです。
 美術館は,博物館と同じミュージアムという言葉の訳語ですから,「博物館入り」という言葉によって表される古色蒼然としたニュアンスは,「美術館入り」という言葉にも含まれています。本章冒頭で,ニューヨーク近代美術館のことを現代美術の「殿堂」と紹介しましたが,「殿堂入り」という言葉なども同様に,そこに入ることが「現役を離れる」ことであるというニュアンスを含んでいます。
 フランス革命によって成立した市民のための美術館という新施設が,美術品に及ぼした最大の変化はここにあります。

西岡文彦 (2012). ピカソは本当に偉いのか? 新潮社 pp.108-110

ピカソの出生

 後の精力的な生涯からすれば意外なことに,ピカソは死産児として生まれています。
 呼吸もせず動きもしない新生児のピカソはサンバの蘇生の試みもむなしく,生命の兆候を見せようとしませんでした。皆があきらめていたのを,父親の弟で医師のドン・サルバトールが葉巻の煙を赤ん坊の鼻に吹き込んだところ,顔をしかめ怒ったような泣き声で蘇生したといいます。
 煙草の煙にむせながら怒りの産声を上げて地上に舞い降りた出生は,その後の彼の人生を暗示するかのようではあります。その蘇生した子に付けられた名前は,パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダート・ルイス・イ・ピカソという長いもので,このうちパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダートまでが洗礼名。パブロはその略です。最期のピカソは母方の姓で,父方の姓は,その前にあるルイスでした。
 スペインの命名は,聖人から先祖まで多くの名を連ねることが少なくありませんが,ここまで長い名はあまりありません。両親に待ち望まれていた男児だったせいで,これほど長大な名を授かることになったのでしょう。父の名はホセ・ルイス・ブラスコで,母の名はマリア・ピカソ・ロペスですから,彼の名は一族の中でも特別に長いものであったようです。

西岡文彦 (2012). ピカソは本当に偉いのか? 新潮社 pp.70-71

ナチスと美術

 ナチス・ドイツは美術史においても悪名高き存在で,ゲルマン民族の優秀性を写実的な描写で称えた保守的な作品以外は「退廃美術」として排斥したことで知られています。印象派の絵画などは,粗雑な筆さばきと浅薄な色彩で都市やリゾート地の風景風俗を描いた軽佻浮薄な絵として価値を認めていないのですが,そうした表向きの評価とは裏腹に,ナチスの高官はパリで競って印象派の絵を購入しています。大戦の混乱によって生じた金融不安や通貨不信から,印象派絵画の国際通貨としての信頼性が急速に高まっていたからです。
 このナチス高官の買い占めにより,印象派絵画はドイツ支配下のパリにおいて記録的な高騰を見せることになりますが,これは第二次世界大戦中のことですから,作者のモネやルノワールは20年ほど前に世を去ってしまっています。
 それでもまだ,モネやルノワールは画家としては幸運で,長寿をまっとうしたこともあり作品の高騰の見返りを得ることができています。対照的にセザンヌ,ロートレック,ゴッホ,ゴーギャンら「後期印象派」と呼ばれる画家は,短命や世間の評価の遅れが災いして,自身の作品の値上がりの恩恵に浴してはいません。

西岡文彦 (2012). ピカソは本当に偉いのか? 新潮社 pp.35-36

男性の優秀さを

 19世紀には,いろいろな脳部位で,女性と男性に差異がないことが明らかになるのだが,科学者は,男性の知能の優秀さを示すと自分たちが信じているものが存在する場所を探して,さらに突き進んで研究を行った。たとえば,脊髄の長さを測定し,脊髄の長さに見られる性差がいかに知性に関連しているかについて,入り組んだ説明を組み立てたこともある。こうした活動の中で,科学者は身体の部位を測定するだけでなく,男女にさまざまなテストを実施した。女性が男性より成績がよいときには,こうした情報はたいてい男性の優越性の「証明」として解釈された。たとえば,ロマーニズは,女性が男性よりも早く正確に文章を読むことができるのを発見したが,この結果は女性が道徳的に劣っている証拠に変えられている。その時代の著名な科学者であるロンブローゾとフェレーロが,この性差を説明し,読みの能力は嘘をつく能力と一体であり,女性は男性よりも嘘がうまいと論じたのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.37-38

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