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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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ワープロ普及期の話

 よく,「日本語ワープロだと原稿が遅くなったか」というような質問を受けたものだが,速度をどうのこうの言うのは愚の骨頂である。速く打たねばならないのは,手書きの原稿をワープロで清書する場合の話であって,書斎は「総務課」でも「庶務課」でもない。書斎での文章作成は,創造なのだ。じっくりと,いいものを創りあげることをよし,とするのが当然なのだ。
 創造には推敲はつきものである。原稿用紙で推敲すると,原稿用紙をまるめて捨てることが多くなる。原稿用紙を使っていた時代には,書き損じの原稿用紙を処分するのに胸が痛んだ。貴重な地球資源を能力のなさのために捨てているのだと,胸が痛まない人間は人間の資格がない。
 だがワープロはそれがないから,脳力がなくとも自由に推敲ができる。紙資源の節約に大いに貢献している。

山根一眞 (1989). スーパー書斎の仕事術 文藝春秋 pp.106
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70年代から80年代

 1970年代には,ホラー映画のヒットやスプーン曲げ,「ノストラダムスの大予言」,テレビのUFO番組などに代表されるオカルトブームが起きる。オカルト雑誌の老舗「ムー」(学習研究社)創刊は79年のことだ。さらに80年前後になると「精神世界」や「ニューサイエンス」などという言葉ももてはやされるようになる。
 大学生が漫画を読むなどとマスコミに揶揄されたのは1960年代末ごろのことだ。さらに,コミックだけでなく,テレビアニメの視聴者層までがハイティーンより上に広がったのは70年代になってからで,75年には第1回コミック・マーケットが開催されている。
 1970年代半ばから80年代にはジュニア向け文庫が次々に創刊され,現代のライトノベルの前身になった。また,推理小説の世界では,60年代での社会派一辺倒が70年代に入るとともにブレーキがかかり,伝奇的ギミックや論理(に支えられたゲーム性)が見直されるようになった。高城彬光『邪馬台国の秘密』(光文社,1973年)のように古代史の謎解きそのものをテーマにした作品も受容されるようになったわけだ。さらに81年には,いわゆる本格派の原点といわれる島田総司『占星術殺人事件』が登場している(ちなみにこの作品も,本筋とは関係はないが邪馬台国に言及した箇所がある)。

原田 実 (2009). 邪馬台国と超古代史 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.63-82

海外学術調査

 朝鮮戦争特需が支えた神武景気によって経済復興を果たした昭和三十年代は,日本人が敗戦から立ち直り,自信を取り戻そうとしていた時代だった。それと歩調を合わせるように,大学所属の研究者や学生らによる「海外学術調査」が盛んになる。その先頭を切ったのは今西錦司を中心とする京都大学の人類学者たちであった。
 今西らが確立したのは,大学の研究室を母体として,民族学(文化人類学)と考古学・地質学・植物学の学者陣と,登山家・報道カメラマンらとの合同学術遠征隊を組織し,新聞社の後援で世界中の<秘境>に旅立つという海外学術調査のフォーマットである。
 この大学とマスメディアとの蜜月時代は,海外学術調査には国庫からの補助がないために常に外部にスポンサーを探さざるをえなかった大学人と,外貨割り当ての制限によって自由な海外渡航がほぼ不可能だった報道人との利害の一致によって成立していた。学者側は新聞社のスポンサードによって海外学術調査が可能になり,新聞社は調査団に自社もしくは系列社の撮影隊を同行させることで独自の海外取材が可能になったのである。
 さらに新聞社は,映画・出版・展覧会・講演会などの興行権と同時に,学術調査という「文化活動」のPRを通して広告収入や新聞購読者数の増加をも見込んでいた。海外遠征隊の動向は逐一,後援社の新聞や雑誌で報道された。その成果は帰国後,一般向け書籍や写真集として刊行され,また劇場用ドキュメンタリー映画やデパートでの展示会・講演会となって全国を巡り,多くの「大衆」にめくるめく海外の<秘境>体験を分け与えた。<秘境>ブームは,こうした「学術調査=探検」のリアリティを背景に成立したのである。

飯倉義之 (2009). 美しい地球の<秘境>—<オカルト>の揺藍としての1960年代<秘境>ブーム— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.19-39

振り込め詐欺集団の誕生

 翌日,ユウチャンの受け持つ口座にはさらに150万円が振り込まれていました。銀行通帳でその数字を確認するや否や,女のコ2人が速攻で動きました。それぞれが「紹介屋の出し」をペラペラとめくりだしたと思ったら,
 「もしもし,私……」
 とユウチャンと同じ手口で電話をかけはじめたのです。
 (これは負けられないぞ!)
 すぐに僕も続きました。
 取りあえずは,ユウチャンの手法をそのままコピーしてやってみました。「紹介屋の出し」に記載されている債権者の実家をて適当に選んで電話をかけるやり方です。そのなかでもユウチャンと同じく,おばあさんがいる家庭を狙いました。先方が電話に出ると,
 「あっ,オレだけど,バイクで事故を起こしちゃって。相手が高級車で示談金を要求してきて」
 と,ここもユウチャンが話していたのとほぼ同じ内容を口にしました。
 「あなた誰?トシユキじゃないでしょ。そんな話し方の子は,うちにはいません」
 怪しまれたのでこちらからガチャ切りしました。すぐに次の電話番号をダイヤルします。
 「もしもし?」
 今度は細そうでやさしい声をした女性が出ました。
 (やった。これはビンゴだ!)
 さっそく名簿に併記されている名前を語り,「交通事故の示談金が必要」という作り話をしゃべります。
 「母さん,どうしても70万円必要なんだよ」
 「う〜ん。でも私はそんな金額,持ってないのよ。お父さんが帰って来たら相談するから,また夜にかけてきなさい」
 せっかく騙せたのに失敗でした。振り込みをお願いする金額が大きすぎたのです。逆に考えるとへそくりで貯めているレベルの金額だと大丈夫な気がしてきました。すぐに次の電話に取りかかります。電話に出たのは,おばあさんらしき声の女性でした。
 「おばあちゃん,明日の朝にどうしても30万円必要なんだよ」
 「分かった。今日中になんとか送るわ」
 「助かったぁ!本当にありがとう」
 僕は電話を切りました。時計を見ると最初に電話をかけはじめてから5〜6分ぐらいしかたっていません。そんなわずかな時間の労力で,明日の朝には30万円が口座に入ってくるのです。
 「おいおい,マジかよ。ユウチャン,これは本当においしいな」
 「なっ,そうだろ」
 ユウチャンが満面の笑みを浮かべて相槌を打ちました。
 数時間後,このオフィスにいる全員が同じ方法で電話をかけていました。後に言う「振り込め詐欺」集団が,ここに誕生したのでした。

藤野明男 (2012). 悪魔のささやき「オレオレ,オレ」:日本で最初に振り込め詐欺を始めた男 光文社 pp.50-52

オレオレ詐欺の誕生

 でも,この日はそこからがちょっと違いました。急に携帯電話のダイヤルボタンを押しはじめたのです。その電話番号は,ある債務者の家族構成の欄に記されていたおばあさんの自宅電話でした。
 「あ,オレだけど……。じつは金に困っちゃっておばあちゃんに電話したんだ。無免許で交通事故を起こしちゃってしはらいでもめてさ,40万円くらい振り込んでくれないかな?」
 ユウチャンはそのおばあさんと何やら数分間ほど話し込んだ後,電話を切りました。そして,隣に座る僕に,上ずった声で話しかけてきました。
 「おい明男,今のおばあちゃん,金を振り込むってさ(笑)」
 「ええ!?嘘だろう。そんな簡単にいくかよ(笑)」
 そんなわけないだろう,とみんながユウチャンの言葉に反応しました。最初は誰も信用していませんでした。
 ところがその翌日,本当に40万円がライト信販の架空口座に振り込まれていました。
 「うん,これは使えるな」
 振り込みの数字を確認したユウチャンは,この手口は商売になると確信したようでした。
 「明男,オレは今日1日,この方法でやってみるよ」
 僕を見るユウチャンの目は,いつにない輝きがありました。

藤野明男 (2012). 悪魔のささやき「オレオレ,オレ」:日本で最初に振り込め詐欺を始めた男 光文社 pp.49

ロンドンの基盤

 ヴィクトリア朝時代には,多くのすばらしいものをもたらしたが,わたしがもっとも好きなのは,衛生改善家(サニタリアン)という,いまはもう廃れた職業だ。衛生改善家とは,「公衆衛生」という新たな学問を修めた人々をさす言葉である。なかでも有名なのは,エドウィン・チャドウィックだ。
 チャドウィックは,当時の労働者階級がおかれていた不衛生な生活環境を問題にした。そして,それを改善するためには,下水道網を張りめぐらし,そこに雨水ではなく,下水汚物——新たに作られた言葉だ——を流してテムズ川に廃棄する必要があると考えた。おそらく川は汚れるが,それで住民の健康が守れるのならしかたがない。こうして下水道がつくられ,その結果,テムズ川はさらに茶色く濁り,人々がその川の水を飲んだため,コレラは喜々として拡大を続けたのである。汚物を川に流すことに,新聞や議会で激しい非難の声が上がったが,なんの手だても講じられなかった。パストゥール以前の医療機関では,依然として,疾病は瘴気による感染で広がると考えられていたのだ。
 乾燥した長い一夏がすぎて,ようやくこうした状況に変化が訪れた。それは,水の汚さではなく,空気の汚さゆえだった。1858年,テムズ川に満ちた下水汚物と夏の暑さが組み合わさって,「耐えがたい大悪臭」を生み出し,そのあまりの強烈さに,英国議会のテムズ川に面した窓のカーテンは,消臭効果のある塩化イオンに浸された。この問題を何年も先送りにしてきた議員たちは,ハンカチで鼻を抑えながら,たった10日間の審議で首都管理法の成立を可決し,「首都ロンドンの幹線下水道」を整備する首都事業委員会の設置が決定された。
 この委員会のチーフ・エンジニアに就任したのがジョゼフ・バザルジェットだった。彼は壮大な計画を立てた。テムズ川の上流,中流,下流の3つの幹線下水道を建設するというものだ。より小規模な,網の目のように張り巡らされた下水道の水がその幹線下水道に流れ込み,ロンドンの東の端にある2つの放流場所,バーキングとクロスネスへと運ばれる。ロンドンの下水汚物はここからテムズ川に投棄されるが,人々の生活の場からは充分に離れている。希釈する——エンジニアがマントラのように唱える言葉だ——ことによって,水質の汚染も食い止められる,と考えられた。
 バザルジェットによって,20年近くの歳月をかけ,下水道網が建設された。スティーヴン・ハリデーが著書『ロンドンの大悪臭(The Great Stink of London)』で述べているように,バザルジェットはもっとも偉大な衛生改善家だったと考えられる。彼がつくった下水施設に命を救われた人の数は,ほかのどんな公共事業によって命を救われた人の数よりも多いだろう。それにもかかわらず,彼の努力を称える証は,河岸公園に飾られた小さな銘板など,わずかしかない。彼の彫刻や,彼の名前を冠した公道も存在しないが,バザルジェットが,ロンドンのいまの生活の基盤づくりにかなりの貢献をしたことはまちがいない。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.80-81

革命成功

 ほんの60年前まで,日本は掘り込み便所の国だった。人々は,しゃがんで用を足していた。水で肛門を洗うかわりに,紙を使っていた。ビデが何かも知らず,気にもしていなかった。ところが現在では,日本で製造される和式トイレは全体のほんの3パーセントである。日本人は腰を掛けて用を足し,水で洗い流し,便座は暖かくて当然だと思うようになった。つまり,日本のトイレ産業は,道の左側を馬車で走っていた国民を説得して右側を走らせ,ついでに馬車からフェラーリに乗り換えさせるのと同じくらいの改革を,1世紀もかけずに成し遂げたのだ。日本のトイレ革命について,わたしが興味をひかれたのは次の2つの点だ。革命が成し遂げられたことと,その革命が驚くほど世界に広がらなかったことである。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.35

最悪の仕事

 皮なめしという仕事は“最悪の仕事”のコンセプトからすると,典型的なものである。驚くほどハードなものであるとともに,デリケートな現代人からすれば胸の悪くなるような仕事でもあろう。しかも,皮なめし人たちは自らのコミュニティからのけ者にされていた。それでも,技術の必要な仕事であったことは確かだ。ヴィクトリア時代,この仕事には何千という人たちが就いていた。もっと重要なことに,この仕事がなかったら——そして彼らの作った革がなかったら——馬に引かせる犁もなければ,騎馬隊も騎士もいず,彩色された写本も財務府の記録も存在しなかったことだろう。この社会と歴史の動きがストップしていたはずなのだ。
 だがそのことは,本書で紹介した仕事のほとんどについても言えるだろう。武具甲冑従者や火薬小僧(パウダー・モンキー)がいなければアジャンクールの戦いもトラファルガーの海戦もなかったろうし,糞清掃人がいなければハンプトン・コート宮殿もなかったろう,と。私たちの歴史が作られてきたのは,それぞれの時代の“最悪の仕事”に従事した,無名の人たちのおかげなのである。彼らこそ,この世界を作ってきた人なのだから。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.320-321

カストラート

 当時,去勢手術を受けるために選ばれた幼い少年たちに,選択の余地はほとんどなかった。たいていの場合,彼らはこれで貧乏から抜けだそうと狙う貧しい家庭の子どもだったのだ。実はバチカンは,野蛮だという理由で精巣の除去(カストレーション)を禁止しており,教会法でも民法でも禁じられていたのだが,それでも何世紀ものあいだ見て見ぬふりをされてきたのだった。現代風に言えば,被害者の家族は,息子は病気のために精巣を除去した,あるいは乗馬中事故にあった,またはイノシシの角で突かれたと申し立て,去勢手術を“拒否した”,といったところだ。
 思春期になると男性の声帯は成長して厚くなり,声は低くなる。しかし去勢を行うと,必要なホルモンの分泌が妨げられるため声帯の成長が止まり,声変わりをしなくてすむ。その結果カストラートは,成人男性の肺活量を持ちながらボーイソプラノの高い声を保てるのである。
 手術を施されるのは,8歳から10歳の少年だ。もし読者が男性なら,次の段落は読み飛ばしたいと思うかもしれない。
 まず,手術を受ける少年は気を失うまで熱い風呂に入れられ,中にはアヘンで麻酔をかけられる場合もある。その猛烈な暑さの中,睾丸はその機構が破壊されるまで手でもまれて潰され,その後,精巣から伸びている精管が切断される。実は,この手術は必ずしも常に成功するというわけではなく,中には命を落とす子どももいたのである。
 カストラート全盛期には,推定4000人のイタリア人少年にこの手術が施された。いたましいことに,手術をすれば美しい歌声が生まれるという誤解から手術を受けた子どももいたが,もちろん,去勢手術の効果があるのは,元来美しい歌声を持つ少年だけである。
 また,たとえ手術が成功したとしても,その先にはもっと多くの苦難が待ち受けていた。家族は名声と富を求めて息子にこの残酷な手術を受けさせる。しかし実際のところ,18世紀の舞台人生は今日のそれとほとんど変わらないのだ。去勢手術を受けた者のうち,その仕事でトップを極めるのはほんのひと握り。4000人のうち,成功を期待できるのはわずか1パーセントほどで,大半の者は通常の家庭生活とは無縁のまま,たまに仕事にありつくのがせいぜいだった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.239-240

しらみ取り

 スチュアート朝の男性ファッションは,自分の髪の毛は短く刈り込んでおいて,メッシュ地に縫い込んだ人毛のかつら(ペリウィッグ)を後頭部にピンでとめるというものだった。かつらの人毛にシラミの卵がついていることが多く,孵化するとメッシュをくぐってかぶっている者の頭部へ這い出す。耳のうしろや耳の陰で血を腹いっぱい吸うためだ。
 アタマジラミは命を脅かしはしないが,ひどい不快感のもととなる。ひっかくことで皮膚炎や二次感染につながる。予防は困難だった。小麦粉を水で溶いてケーシングをメッシュ部分に固め,シラミが通り抜けるのを防ごうとした人たちもいた。ところが,練った小麦粉で乾燥したかちかちの帽子をかぶるのは,シラミがいるのと大差ない不快さではないか。
 そこで,定期的に1軒1軒回ってサービスを提供する,たいていは女性のシラミとりが,招じ入れられてかつらの掃除をすることになる。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.182

硝石集め

 火薬は3種類の化学物質を混ぜあわせたもので,単純ながら破壊力がある。比率は炭素10パーセント,硫黄15パーセント,それに硝酸カリウムつまり硝石が75パーセント。硝石中の硝酸塩が酸素を生成し,それが燃焼して膨張,炭素と反応して爆発力を生む。マスケット銃の弾丸を1発発射するには25グラム,大砲の球形砲弾を打ち上げるには400グラムの火薬を要する。その結果,戦時には膨大な量の硝石が必要になった。それをすべて調達したのが,硝石集め人(ソルトビターマン)たちだ。
 硝石集めとは,牛乳配達人と執行吏と農場労働者,糞清掃人(ゴング・スカワラー)を合わせたような,奇妙なとりあわせの仕事だった。だが,することは単純だ。スチュアート朝時代,硝酸塩の主な出どころは,われわれにとって古いつきあいの尿や便であった。それが土中に長く残るうちに,カルシウムと硝酸ナトリウムに分解する。硝石集め人はまず,尿のしみ込んだ汚い土壌を見つけなくてはならず,さらには,えりすぐった土くれを旧来の重労働によって掘り上げなくてはならない。目をつける場所といえば,掘り込み便所,豚舎,堆肥の山,ハト小屋——いかにも窒素肥料が土壌にしみ込んでいそうなところならどこでもいい。糞掃除人は,たんにいらない廃土を取り除くだけだが,硝石集め人はその土を有用品に変えるのだ。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.159-160

ピン止めの服

 コルセットはつけて楽しいものではない。腹にくいこみ,横隔膜を締めつける。だが,最大の苦痛は何百本も使われるピンによってもたらされた。下着は縫ってあったが,だいたいのドレスはピンで留めるだけだったのだ。これだと,今のように人によって衣装を変えなくていいし,同じ服地を使い続けられる。チューダー王朝といえば襞襟(ラフ)だが,この襟までが,糊の利いた1枚の細長い布に熱いアイロンをかけてつくり,最大200本にのぼるピンで襟もとに留めただけだった。トムキスという劇作家は,ピンを使って少年役者にドレスを着せるには5時間かかるとしたうえで,「貴婦人の身支度より,船の艤装のほうがよほど時間がかからない」と感想を記した。あなたには,少年がそんなに長いあいだ,たくさんのピンに刺されまいとじっとしているところが想像できるだろうか?巨大なハリネズミの皮を裏表にまとっているようなものだったろう(これは当時の女性全員が,日々の経験として知っていることだった。肖像画の中のエリザベス女王がどれもこわばっているわけだ!)。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.143

お便器番

 そう,御便器番は実際に王の肛門を拭いていた。チューダー期の人々は,国王は天来の存在,神が定め,指名した存在だと信じていた。王のためなら,何でもしなければならない。そして現代人ならトイレでひとりになりたいものだが,王は人目にさらされるバスルーム生活を送っていたのである。
 御便器番は,宮廷の中で特権的な地位だった。王の臀部に触れられるのは,最高位の貴族だけと考えられていた。御便器番には最も私的な瞬間に,王と2人きりになるという役得があった。王の私室の鍵を持っており,王が着替えるのを手伝った。給料も破格だったし,出世の足がかりにもなった。
 しかし王のそばに仕えるというのは,危険でもあった。アン・ブーリンを始末する方法を探していたとき,周囲を見回したヘンリー8世は,自分の御便器番に目をつけた。サー・ヘンリー・ノリスは,彼女とふりん行為を働いたと言われて,1536年に処刑されたのだ。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.128

ただ歩くだけ

 中世後期の建築現場の絵のほぼすべてに,起重機が描かれている。小型の起重機は外側から輪を回転させて動かした。荷物の上げ下ろしだけでなく,軸回転できるような大型の起重機を設置するときは,小型の起重機か巻き上げ機を使って部品を大聖堂の上に持ち上げておいて,組み立てた。
 起重機を動かしたのは,踏み車を漕ぐ2人の人間だった。彼らは文字どおり建築界の大改革のど真ん中にいたと言える。1日中,ただ歩いているだけだとしてもだ。
 この最悪の仕事に採用されたのは,地元に住んでいた目の不自由な人だったと言われている。起重機は建築中の建物の最上部に設置されたので,町やその周囲の田園地帯を一望できたはずだ。地元にはそれほど高いところにのぼったことがある者も,そこまで遠くまで見たことがある者もいなかっただろうから,ただ眺めるだけでスリル満点,不安になるに違いない。だが,木製ケージの中で働く踏み車漕ぎは,不安定な状態で宙に浮いていた。彼らが歩くのは細い木の板でしかなく,あいだには狭い隙間があったので,絶えず落ちこみそうな,何もない空間と向きあわされた。そこで理屈として出てきたのが,視力に問題のある人なら,よく目の見える人を苦しめるであろうめまいを避けられるのではないか,という考え方だった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.94-95

神様,寒すぎます

 匿名の修道士たちがこの最悪の仕事に関する感想を残している。のちの中世の写本の余白には,彼らの落書きがあり,印刷時代到来前の時代に西洋文化を保持するのがどんなことだったのか,興味深い人間洞察の機会を与えてくれている。あるものは「写字の技法は難しい。目が疲れるし,背中は痛むし,腕と脚には痙攣が走る」とうめき,またあるものは「神さま,寒すぎます」と簡潔に述べている。そして3人目は,筆者室でのその日の作業の終了を,「仕事が終わった。さあ,ワインをくれ!」と祝った。
 寒さに震える筆写人たちがつくりあげた作品は,印象的であるとともにきわめて貴重であり,中には表紙に宝石や貴金属をちりばめたものもあった。だからこそ修道院は侵略者の標的となった。8世紀に入ると,ヴァイキングが本島のブリテン島にまで攻めてくるようになった。何百時間もかけて制作されたものが盗まれ,金を払って買い戻されたりした。793年,リンディスファーンを襲ったヴァイキングは,修道院に壊滅的な打撃を加え,有名な福音書を奪った。福音書はいったん海に落ちたものの,無事に回収されたのだった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.38-39

破綻へ

 1990年代は,あたかも島全土に警鐘が鳴り響いたかのようであった。リン鉱石の採掘現場の面積は,島の80パーセントに達した。ナウルの破壊を示す掘削跡が,数平方キロにわたって広がっていた。21世紀になって,島には草木は多少なりとも生えてきたが,荒廃した掘削跡を隠すまでには至っていない。自然が比較的残っているのは,島の外縁部だけである。20世紀初頭のナウルの写真を見ると,アスファルト舗装される以前の細い道の両脇には,ココヤシの木が密生して森になっていたことがわかる。だが,それから1世紀後には,島には数本のココヤシの木やユーカリの木を除き,木がほとんどない状態になってしまった。森を切り開いて建てられた道路沿いの住宅は,メンテナンス不足からあばら屋状態となっている。
 リン鉱石産業の衰退は危険水域に達した。年間産出量が50万トンを下回ったのである。採掘に必要な設備や道具は老朽化し,修理されることもなければ,買い替えることもなかった。オーストラリアの技術者や地質学者は,リン鉱石の埋蔵量が枯渇に向かうことで,操業に見合う安定した産出量が確保できなくなることから,リン鉱石産業は2000年代初頭には終了するであろうと予測した。1997年には,リン鉱石の産出量は過去最低を記録した。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.85-86

働かなくても

 毎日,大量のリン鉱石が採掘された。おもにアイランダー(islanders)と呼ばれるツバルやキリバスといった近隣の島々からやってきた人々が操る数十台のパワーシャベルが掘削にあたった。第二次世界大戦中に日本軍が占領する以前に,アイランダーと呼ばれる人々の一部はすでにナウルに移住し,鉱山の奥底で中国系労働者とともに汗を流していた。戦後になって掘削作業が近代化されたとはいえ,リン鉱石の回収ならびに仕分け作業には,人手が必要であった。ナウル独立にあたって,アイランダーは鉱山で働くためにナウルに残った一方で,中国人たちは,島でレストラン,雑貨店,さらには食料品店などを開き,商売に精を出した。アイランダーたちは,昼間はナウル・フォスフェート・コーポレーションのために島の中央台地で働き,アイウォ地区の海沿いに建つ低家賃の集合住宅で眠った。ここでは,夜になるとさまざまな人種が集まり,夜遅くまで歌い,トランプに興じたりして過ごした。彼らはここから少し離れたところに住むナウル人と交流することはなかった。
 というのは,ナウル人はすでに働く必要がなかったからである。とりわけ,鉱山で働くナウル人は誰一人としていなかった。彼らが働くとすれば,公務員として,公益の追求というよりは,涼しさを求めてエアコンの効いた役所の建物のなかにおいてである。というのは,ナウルは小型の集産主義国家のような様相を呈していたからである。ナウル・フォスフェート・コーポレーション,エア・ナウル,ナウル銀行,海運会社のナウル・パシフィック・ライン,これらすべては国営企業である。ナウルの犯罪発生率は高くないにもかかわらず,警察も大量の雇用を抱える就職先の1つであった。しかし,ナウルのような小さな島の暮らしは,全員が知り合いであり,お互いがお互いを見張っているようなものである。また国民は生活に不自由しておらず,物を盗む必要などなかった。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.60-61

日本軍とナウル

 1941年12月7日,日本はハワイの真珠湾を攻撃し,第二次大戦に参戦した。ドイツの軍艦の攻撃により,ナウルに駐留していたオーストラリアの派遣小部隊は撤退した。太平洋における日本の存在感は,ますます大きくなった。1942年春,珊瑚海海戦がパプアニューギニア沖やソロモン諸島沖で繰り広げられた。ナウルの岸辺からは,日本の軍艦や戦闘機が毎日のように見えたという。1942年2月,孤立したオーストラリア兵は,ナウル沖を巡航していたフランスの駆逐艦トゥリオンファン号に救出された。
 ナウルの人々は置き去りにされてしまったのである。8月26日,日本軍は太平洋上の燃料補給地を確保するために,巡洋艦四隻をナウルに上陸させた。沿岸部にそって滑走路が敷かれた。数週間のうちに沿岸部には防御陣地がいくつも設置され,アメリカ空軍の攻撃に対抗するために,巨大な高射砲がナウル最高峰の地点コマンド・リッジに据えつけられた。
 1943年の間,島はアメリカのB-24型爆撃機による爆撃を何回か受けたが,アメリカ兵が上陸することはなかった。兵站を絶たれた日本兵,そしてナウルの人々は,食料の補給に支障をきたし始めた。ナウル人,軍事基地を設営するために日本軍に連れてこられた労働者,日本軍の派遣部隊などで,島はあっという間に人口過剰となり,食料不足に陥った。そこで日本軍は,ナウル人1200人をトラック島へ強制連行し,500人の男たちは日本軍の労働力として島に残した[また,ナウル人のハンセン病患者39人を別の島に移送すると偽って連れ出し,ボートを沈没させて水死に至らしめ,水死をまぬがれた者は射殺した事実も明らかになっている。なお,かつてトラック島と呼ばれた環礁の小さな島々は,現在のチューク諸島で,ミクロネシア連邦に属している]。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.46-48

プレザント・アイランド

 1798年11月8日,イギリス人ジョン・ファーン(John Fern)船長率いる捕鯨船ハンター号がナウルに接近した。すぐに数席のカヌーが偵察にやってきた。驚いたハンター号の乗組員は船から離れず,ナウル人も小舟に乗ったままであった。だが,ナウル人からは,敵意はまったく感じられなかったという。これこそナウル人とのファースト・コンタクトである。ポリネシア諸島に滞在経験のあったジョン・ファーンは,ナウル島民の体に,ポリネシア人のようなイレズミがないことに気づいた。数百人のナウル人がイギリス船の後をついてきた。このファースト・コンタクトに感動したイギリス人船長は,この島を「プレザント・アイランド(快適な島 Pleasant Island)」と命名した。この島は,おそらく数十年の間,他のヨーロッパ人とコンタクトを持つことがなかったと思われる。

リュック・フォリエ 林昌宏(訳) (2011). ユートピアの崩壊 ナウル共和国:世界一裕福な島国が最貧国に転落するまで 新泉社 pp.31

古代ギリシャと自己コントロール

 とりわけギリシアのようなコンパクトな都市国家は,自己コントロールが政治的に重要であることは自明だっただろう。人々は徒歩で動き,いたるところに召使や家族の目があった。いちばん栄えていたころのアテネが良い例だ。数千人の市民(とさらに数千人の女性,子どもたち,奴隷)からなる都市国家である。都市国家アテネの人々の暮らしには最低限の監視しかなかった。警官も検閲官もいないし,戒厳令もない。だが同じ都市の住民にいつも取り囲まれ,その目にさらされている。「1人1人の住民が警官のようなものだった」とジェームズ・デヴィッドソンは言い,裁判の決め手は証人で,その証人のなかには家庭内の召使も含まれており,争いごとになりそうなほとんどすべてについて証言台に立った(そして,ほとんどが争いごとになった)と付け加えている。
 司法の領域のほかにも,世間の評判というものがあった。身分や階層が同じ人たちはお互いに知り合いだったし,言葉を交わしていた。世間の評判は重大事だった。「都市国家ポリスの成長のなかで,とくにソープロシュネーを重視する条件ができあがった」とノースは言う。「都市国家ポリスはその本質からして,大きな自制を求めていた」。
 人々の関係が密だった(窮屈ではあったにしても)都市国家と比べれば,現代の都市は,いやそれ以上に交通が激しくて,玩具菓子ペッツのように次々に商品がケースから出てくる大型店舗がどこにでもあるような郊外住宅地は匿名性が強くて,だだっ広く,とくに規制が働きにくい。住民の顔が見える都市国家ポリスではソープロシュネーが強制されたとすれば,現代の都市は「アクラシア」と呼ばれる苦しみの土壌となる可能性が大きい。そしてこのアクラシアは名づけられた昔から,哲学者の熱い議論の的になってきたのである。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.128-129

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