忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

エクソシスト

 ただし霊による憑依とされる場合は,事情が異なってくる。被害者の身体を乗っ取った悪魔やその手下がすることは,被害者の健康と幸福に対する宣戦布告である。シュルツ牧師がラインに手紙を書いたとき,メリーランドの当事者一家は,問題の原因は単なるポルターガイストではないとして,ローランドを悪魔祓いのためにセントルイスのイエズス会に連れて行っていた[悪魔祓いをするのはカトリック教会の神父のみ]。ほとんどのポルターガイスト事例に共通する特徴のひとつは,それが短期間で終わることだ。不可解な現象はたいていものの数カ月で消え去り,関係者の見解は,現実は,想像派,悪戯派に分かれるが,現象が再発しないため結論は出ずに終わるのが通例である。もちろんメリーランドの少年の家族は,その現象が短期間で終わるなどとは思わなかった。しばらくして新聞がこの話を記事にし,ウィリアム・ピーター・ブラッティという大学生がそれを読むことになる。ブラッティはその記事から着想を得てベストセラーとなる小説『エクソシスト』を書き,映画化されて全世界で大ヒットした。ブラッティは子どもの年齢,性別と他の詳細を変えているのだが,ライン宛に書かれたシュルツ牧師の手紙の内容を見れば,思いあたるところがある人は多いはずだ。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.113-114
PR

好戦的革命活動家

 学界に友人が少なく,その分野でまだ高い評価を得ていない立場ではけっしてしてはならないことを,ラインはことごとくしてしまっていた。さらに悪いことに『超感覚的知覚』は,定評のある学術系出版社からではなく,ボストン心霊研究学会から発行されていたのだ。とどめは,彼の確率の使い方に議論を呼ぶ点が多すぎて,心理学者,数学者,統計学者に,いわば何十年分もの議論の材料を提供してしまったことだった[使いかたが誤っていたのではなく,新しい分析法が多くの科学者になじみがなかったということ]。しかし学界での議論は,逆にラインを勢いづかせただけだった。「彼は正論を貫くタイプでした」と,ルイは夫について書いている。ラインは好戦的な改革活動家だったのだ。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.79

ユングとの交流

 まもなく,不思議な体験をした世界中の人々が,ラインのもとに手紙を送ってくるようになった。このころラインは,著名なスイス人精神科医カール・グスタフ・ユングと文通するようになっていたのだが,ユングは「魂が持つ時間と空間に関連する奇妙な性質にとても強い興味を持っている」と,そして何よりも「特定の精神活動において時空の概念が消滅すること」に興味があり,心霊研究にも期待していると書いてきた。他の書簡でユングは,数年前の出来事を語っている。彼は,若い霊媒と交霊会をひらくようになった。まもなく,ユング家の食器棚の中でナイフが爆発音とともに4つに切断された。そして数日後,テーブルがまた爆音とともにふたつに割れた。ユングは,これらの出来事は当時知り合った霊媒と何か関係があると信じていた。
 心理学者が,こんなにも簡単にESPを肯定してくれたのは初めてだった。しかもユングのような高名な学者である。しかしラインは,ユングに対して「我々は心についての仮説を『今のところ』何も持っていません。それがあれば,これらの事実を考察する際の手掛かりになるのですが」と認めざるを得なかった。ユングは励ますような返事を送ってきた。「これらの出来事は,単に現代の人類の頑固な脳では理解できないだけなのです。正気じゃない,あるいはイカサマだと捉えられる危険があります」
 そしてユングは,ラインがボルトン婦人に言い続けた,頭を低くしておく必要性について述べた。「私が見たところ,正常で健康でありながらそのようなものに興味を持つものは少数です。そして,このたぐいの問題について思考をめぐらせられるものはさらに少数です。私は今までの歳月における経験で確信を持つに至りました。難しいのはどのように語るかではないのです。どのように語らないかなのです」

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.68-69

ゼナーカード

 ラインはサマー・キャンプで,子どもたちと簡単なあてっこコンテストをすることからはじめた。ラインが数を書いたカードを手に持ち,子どもたちはそれをあてようとする。答えはあたりかはずれかである。秋の新学期になると,今度はデューク大学の心理学部の学生たちと同じような実験をした。ただし今回は,カードは封をした封筒に入れておいた。催眠状態になると被験者のESPが強化されるかどうかを見るための実験もした(当時はまだ催眠の可能性が注目を集めていたのだ)が,注目すべき結果は得られなかった。しかしひとつ明らかになったのは,普通のトランプを使うと,人々は無意識に自分が好きなマークや好みの数字を選ぶ傾向があるということだった。大学内には超心理学研究に適した学部はなかったが,とりあえず心理学部は研究を歓迎してくれていた。ラインがトランプカードと人の好みに関連する問題に直面したとき,この問題を解決したのも心理学者だった。ラインが心理学者カール・ゼナーに助けを求めると,ゼナーは新しいカードをデザインしてくれたのだ。カードは1組25枚で,5種類のカードが5枚ずつあり,それぞれ,円,四角,十字,波線,星が描かれていた。ぜナーが選んだ5種類の図形は,人々の好みが偏らないように選ばれていた。しかし,のちにゼナーはラインの研究にひと役買ったことを後悔し,これをゼナーカードと呼ぶのをやめさせようとする日が来る。だがこの時点では,ラインと心理学部の人々の関係は心の底から友好的で,カードの開発は進歩であり,マクドゥーガルはこのうえなく満足していた。その年の11月には,「わが同僚ラインは(霊との交信ではなく)透視としか呼べない結果を得つつある」と,西海岸のアプトン・シンクレアに手紙を書いている。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.42-43

超感覚的知覚

 しかし,どうやってこの考えを,敵対的な態度を示している科学者たちに提示すべきだろう?ラインは実験を組み立てはじめた。当時好まれていた用語は,感覚器を経由しない知覚という意味の Extra-Sensory Perception(超感覚的知覚),あるいはその頭文字をとったESPだった。「とりあえず今は『超感覚的知覚』を用いることにする。できるかぎり普通に聞こえるようにしたい」とラインは説明した。ラインは,科学者たちがテレパシーをすんなり受け入れるはずがないことを承知していた。そして少しでも抵抗なく受け入れてもらえるようにするために,心霊主義[spiritualismの訳語で,人の死後の霊魂の存在を信じる立場]やウィジャボード[こっくりさんのような占い板]などのあやしい匂いがしない,学術的な用語を使いたかった。心理学者は知覚の研究をよくおこなっているから,「知覚」という言葉を含む用語を使うことで,少しでも聞こえがよくなればと願った。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.41

クロノメータの重要性

 多くの航海者や海図作成者を困惑させ,海図上に数多くの混乱の種をばらまいてきた経度測定問題は,18世紀後半になって,ようやく解決を見る。17世紀はじめ,ガリレオ・ガリレイは,自らの発見した木星の衛星を利用して経度を測る方法を考案した。この木星法は,17世紀半ば,イタリア出身でフランスに帰化した天文学者ジョヴァンニ(ジャン)・カッシーニによって実用化され,地上の測量では大きな威力を発揮することになった。しかし木星法は,木星を観測できる時期が限られていることや,揺れる船上での観測が難しいことなどから,航海では使いものにならなかった。
 18世紀には,月と太陽や恒星との見かけの位置関係から経度を求める「月距法」が有望視されるようになった。この方法は実用に耐えるものであったが,正確な星図と月の運行表を用意しておく必要があり,しかも,つきが見えなければ測定できない,という欠点があった。
 イギリスの時計職人ジョン・ハリスンは,精密で持ち運び可能な機械式時計(クロノメータ)さえ作ることができれば経度問題は解決できる,と考えた。彼は,1735年にクロノメータ・ハリスン第1号(H1)を開発したのち,4半世紀もの歳月をかけてその改良に取り組み,ついに1759年,その最高傑作となったH4を完成させた。1761〜62年の実験で,H4は81日間の航海でわずか5秒(経度にして1分25秒)の誤差,という好成績を出している。ジェイムズ・クックは,第2回航海(1772〜75)でH4のレプリカを使用し,その優れた性能を讃えた。

長谷川亮一 (2011). 地図から消えた島々:幻の日本領と南洋探検家たち 吉川弘文館 pp.66-67

大人は関与しなかった

 テレビのコメンテーターは,
 「昔はこわいオジサンがいて,子供たちが間違ったことをしていると,自分の子供でなくても注意したものだ」
 と,よくいうが,ぼくの記憶では正反対に思える。
 ぼくが子供のころ,仲間とよく喧嘩をしたが,そんなとき,親が口をだすと,いままで喧嘩をしていた子供たちが一緒になって,
 「子供の喧嘩に親が出る!」
 と,一斉に囃し立てたものだ。
 子供のトラブルは子供で解決する。それがルールになっていた。これは兄弟の場合もおなじで,ぼくは2歳違いの弟と,よく取っ組み合いの喧嘩をした。だが,祖母も母も,よほどのことがないかぎり,とめようともしなかった。
 からだがちいさく非力だったぼくは,弟に負かされ,悔しさのあまり,大の字に寝て,
 「殺せ!殺せ!」
 と,喚くしかない破目に追い込まれることが多かったが,祖母も母も見てみない振りをしていた。弟に負けるのが,ぼくにとっては屈辱だったが,親は一切,関与してくれない。屈辱をぼくは自分で処理するしかなかった。

木谷恭介 (2011). 死にたい老人 幻冬舎 pp.199-200

人によって違う

 「戦争体験を語り継ごう」「戦争体験を風化させるな」とよくいわれる。
 もちろん,結構なことだが,兵隊で軍隊にいったひとと,将校でいったひとでは,おなじ戦争体験でもまったく違う。天と地ほどの差があることに注意してほしい。すなわち,C級であるぼくのような立場のひととはまったく違う。A級のひとというのがあるのだ。
 まして,幼年学校から士官学校,陸軍大学へと進んだ職業軍人の場合は,軍隊も戦争も出世するための“土俵”のようなもので,ぼくの飛行兵としての経験とは,かなり異質なものだったはずだ。

木谷恭介 (2011). 死にたい老人 幻冬舎 pp.157-158

クスリ

 ぼくはクスリには好意的だ。
 ぼくが旧制中学3〜4年生のころ,試験の時期になると,町の薬局へ覚醒剤を買いにいった。当時は覚醒剤とはいわず大日本製薬の商品名『ヒロポン』がもっとも一般的だったが,60錠ぐらいはいったビン入りをどこの薬局でも売っていて,未成年者がどうのといった面倒なことは一切なかった。眠気醒ましになる以外,飲んだからといって,何の不都合も起きなかった。
 次にこのクスリと対面したのは軍隊でであった。
 夜間に飛行機に乗るときに支給された。
 どぎつい緑色の地にいまの五百円玉大の赤い丸のはいったデザインで『日の丸丸』と呼ばれていた。特攻攻撃のときなど,このクスリを飲んで,景気をつけて飛び立って行ったそうだが,軍需工場などでも,生産性をあげるため,工員に配給して長時間労働をさせたという。
 この軍需物資が,敗戦で大量にあまった。
 そのため,のこった分は売ってもよいということになったが,製薬会社は錠剤ではなく,注射用のアンプルで売りだした。
 一説では軍が保有していたアンプルが,一斉に放出されたともいわれている。
 終戦直後,食べるものも着るものも,あらゆるものが不足していたが,アンプルにはいったビタミン剤だけは,どこででも安く手にはいった。
 そのため,自分用の注射器を持ち歩くのが流行になっていて,ひとと会っているときなどでも,
 「ちょっと失礼」
 と,ビタミン剤をいまのサプリメントのように手軽に注射したのだが,これが覚醒剤を大流行させる土壌になった。
 大日本製薬の売り出した商品名がヒロポン,武田製薬がゼドリン,参天製薬がホスピタン,富山化学がネオアゴチンと,各社が競って売りだし,ぼくは富山化学のネオアゴチンがからだに合ったように思ったが,錠剤とちがって,注射は初めて打ったときの爽快感が異常に素晴らしかった。

木谷恭介 (2011). 死にたい老人 幻冬舎 pp.93-94

昨日のことのように

 だが,ぼくは戦争をして,負けてよかったと思っている。
 ぼくの幼年時代から少年時代にかけて,警察,憲兵(陸軍のポリス),全国の中学校からうえの学校にかならず配属されていた陸軍将校などの威張り具合。
 ぼくの中学の配属将校は20代半ばの中尉だったが,校長以上の権限を持っていた。
 そのうえ,学校で教えられることのなかに潜んでいるたくさんの嘘(歴史がその代表だった)に対する疑問を口にすると“非国民”呼ばわりされる不自由さなど,時代の重苦しさに直感的な理不尽さを感じていたからだ。
 敗戦の日,1945年8月15日,ぼくは水戸の航空通信師団本部で迎えたが,真っ青に腫れあがった快晴で,真夏の太陽が焼けるように照りつけていた。
 敗戦で権力が崩壊した戦後の数年,生活は苦しかったが,あの自由な爽快さは忘れることができない。
 敗戦の日の澄んだ青空が六十数年すぎたいまも,昨日のことのように思いだされる。

木谷恭介 (2011). 死にたい老人 幻冬舎 pp.47-48

コーラとサンタ

 実際,コカ・コーラはいろいろなものを象徴しているが,その1つがクリスマスなのだ。サンタクロースを想像するとき,あなたはどんな姿を思い描くだろうか?赤い服に帽子,黒いブーツにベルトを身に着けた,太った陽気なおじさんが,赤ら顔に満面の笑みを浮かべているイメージではないだろうか?スゥエーデン人画家のハッドン・サンドブロムが,世界中ののどの渇いた子どもたちにサンタクロースがコーラを届けている広告を描くようコカ・コーラ社に依頼されて,このイメージを生み出した。
 「サンドブロムのイラストが登場する前は,クリスマスの聖人は,青や黄や緑や赤のさまざまな服を着ていた」とマーク・ペンダーグラストが著書『コカ・コーラ帝国の興亡 100年の商魂と生き残り戦略』(1993年,徳間書店)に書いている。
 「ヨーロッパの美術作品では,たいてい背が高くやせた人物として描かれていたが,クレメント・ムーアは詩『聖ニコラスの訪問』の中で,サンタを妖精として描いている。だがソフトドリンクの広告が登場してからというもの,サンタは大柄で肉付きのよい,太いベルトと腰までの黒長靴を身に着けた,陽気なおじいさんというイメージが定着した」
 サンタの服がコーラのラベルとまったく同じ色の赤だということに,あなたは気づいていただろうか?それは偶然ではない。コカ・コーラ社はこの色の特許を取得している。サンタクロースは明らかに,コカ・コーラの宣伝マンなのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.201-202
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

戦後の恐れ

 敗戦後,日本人の多くは米占領軍ばかりか,中国人や朝鮮人に対しても恐れや怯えや反感を抱いていた。中国人は一夜にして「戦勝国民」となったし,台湾人や朝鮮人(当時は「第三国人」と呼んだ)の多くは日本植民地主義のくびきを脱して精神的にも解放され,敗戦日本をあたかも治外法権の地と観じた。彼らの暴力と横車を規制できるのはGHQだけであり,日本警察はほとんど無力だった。日本人の中で暴力的にわずかに対抗できるのは戦前からのヤクザ,帰還兵や学生崩れから成る愚連隊,総じて暴力団に限られていた。
 まして日本国民は1923年(大正12年)9月発生の関東大震災の際,「朝鮮人が暴徒化,井戸に毒を入れ,放火して回っている」というデマや新聞記事を信じ,数百人から数千人と推計される朝鮮人を虐殺した歴史を持つ。朝鮮人が報復のため,敗戦の混乱に乗じ,日本人に同様の残虐行為を仕返すと予期したとしても不思議はなかった。

溝口 敦 (2009). 歌舞伎町・ヤバさの真相 文藝春秋 pp.115

新宿のはじまり

 新宿は甲州街道の宿駅である内藤新宿に始まる。徳川家康が江戸に入り,徳川幕府を開いたのは1603年(慶長8年)のことだが,翌年,日本橋を起点に東海道,中山道,日光街道,奥州街道,甲州街道の五街道を定めた。このうち甲州街道は日本橋——呉服橋——外堀通り——麹町——四谷大木戸のルートで府内を抜け,高井戸——府中——小仏——大月——勝沼から甲府に入る。甲府からはさらに韮崎——蔦木——上諏訪——下諏訪と延び,下諏訪で中山道に合する。
 1606年(慶長11年)に江戸城建設用の資材運搬路として青梅街道が定められたが,甲州街道との分岐点は内藤大和守の屋敷の前辺りだった。甲州街道の最初の宿駅は高井戸であり,日本橋から約16キロと距離が長かったこともあり,1698年(元禄11年)に新しい宿場として内藤新宿の開設が認められた。
 内藤新宿は次第に江戸の外側に隣接する遊里になっていった。享保の改革期,内藤新宿は一時廃されたが,1772年(明和9年)に再開され,飯盛り女(売春を行う)の数は150人と定められた(東海道の品川宿は500人)。旅籠屋,茶屋の数はそれぞれ数十軒だったが,年々増え,現在の地下鉄新宿御苑前駅辺りを中心に,新宿通りの両側には繁華な歓楽街が形成されていった。

溝口 敦 (2009). 歌舞伎町・ヤバさの真相 文藝春秋 pp.84-85

婿は選べる

 では,なぜ日本にはかくも老舗が多いのか。「有能な他人よりも無能な血族を信頼せよ」という格言のある華人社会。それに対し,「息子は選べんが,婿は選べる」という言葉が残る大阪をはじめ,日本にはたとえ他人でも,これと見込んだ人物を引き上げる許容力が存在した。そして,その許容力を支えたものこそが職人気質だったのではないか。日本やドイツでは血のつながりのない弟子を我が子同様に育み,血縁にとらわれずに評価する職人気質の風土が伝統的にあり,それが老舗を支える力となったのかもしれない。
 とはいえ,近年,日本社会や日本人は師匠と弟子,経営者と従業員といった人と人のつながりを「しがらみ」として絶ち切ってきた。そこに入り込んできたのが西欧の個人主義である。しかし,人はひとりでは生きられない。個人主義の下では個々人が責任を持つだけでなく,人々がバラバラにならないための努力と工夫が必要である。西欧,とくにアングロ=サクソン系の個人主義は,個人を単位としつつも個と個のつながりをつなぎとめようとする工夫を凝らした個人主義である。それにもかかわらず,自我と社会との間の曖昧さを体得してきた日本人が頭で学んだ個人主義は,何か過ちを犯したとき,謝り,周りに身を委ねる代わりに,他人に責任をなすりつけるだけの他罰的なものになってしまった。

松井彰彦 (2010). 高校生からのゲーム理論 筑摩書房 pp.102

鶴の一声

 意見が割れてまとまらないとき,鶴の一声でまとまることがある。日本でも戦国時代の城主は,家臣たちに思う存分議論させて,議論が出尽くしたところで意思決定をしていたという。2009年ころの宰相で他の意見を聞かずに数兆円もの国のお金を使ってしまった人物がいたが,それと比べると戦国時代の城主はかなり民主的だったことがわかる。民主的な国であればあるほど,鶴の一声がないと物事がまとまらない。国家存亡の危機には,だれも何が最良の戦略かわからず,自分の考えを繰り返して議論が平行線を辿るのである。

松井彰彦 (2010). 高校生からのゲーム理論 筑摩書房 pp.65

お告げ

 アポロンのお告げは巫女の口を通じてもたらされた。巫女は50を過ぎた農婦の中から選ばれ,神殿に入る前には泉で身を清める。さらに泉の水を一口飲んで,予言の力をつける。神殿では山羊等の生贄を捧げる。そして,巫女は,神殿の中央にある祭壇で,アヘンやひよす草などを燻したものの香りをかぐ。巫女は半分失神したまま,月桂樹の葉を噛んで,三脚の上に座る。三脚の下には大地の割れ目があり,火山性のガスが出ていた。巫女はそのガスを吸って神がかりとなり宣託を告げた。それを神官が解釈して板に書き付けたのである。
 お告げの内容は直接質問に答えるものではなく,曖昧なものが多かったという。この神託伺いは日常の些細な悩みから,王や政治家への宣託もあった。神託伺いは口頭だったが,国家の意思決定など大きな問題については,文書を提出させ,祭司達の討議資料とされた。デルフィの神託所は各国がもたらす情報に基づいて,より的確な判断ができたという。一種の情報センターのような役割も担っていたわけである。

松井彰彦 (2010). 高校生からのゲーム理論 筑摩書房 pp.63

陸ガメが積まれた船

 初期の捕鯨船は,船の食糧にするために,ガラパゴス諸島の何千匹ものゾウガメを捕らえた。肉を新鮮に保つために,ゾウガメは必要なときまで殺さずにおかれたのだが,屠られるのを待つあいだ餌も水も与えられなかった。彼らは単純に裏返しにされ,ときには何層にも積み重ねられたので,逃げだすことができなかった。私がこの話をするのは,なにも怖がらせるためではなく(もっとも,このような野蛮な残酷さは私をゾッとさせると言っておかなければならない),話の論点をきわだたせるためである。ゾウガメは餌も水もなしに数週間は生き延びることができ,これは,フンボルト海流に乗って,南アメリカからガラパゴス諸島まで漂流するのには十分な時間である。そしてゾウガメは実際に漂流する。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.381

突然とは言っても

 最大の空白,そして創造論者がいちばん好きなのが,いわゆるカンブリア紀大爆発に先立つ空白である。5億年以上昔のカンブリア時代に,大きな動物門——門は動物の世界における主要な区分——のほとんどが,化石記録のなかに「突然」現れる。突然に,というのは,カンブリア紀より古い地層にはこれらの動物群の化石が知られていないという意味であって,瞬間的にという意味での突然ではない。ここで語っている期間は2000万年ほどに及ぶものである。5億年以上も昔の話だから,2000万年が短く感じられるだけだ。しかしもちろん,それは現在の2000万年と正確に同じだけの時間が進化に必要だったことを表している。いずれにせよ,やはりきわめて突然であり,私が以前の本で書いたように,カンブリア紀は,多数の主要な動物門を私たちに示した。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.232

19世紀のリベラル

 19世紀のリベラルは,蓄財ひいては経済発展の鍵は禁欲だと考えていたのである。富を築くつもりなら,労働して報酬を得ても,すぐさま楽しんで散財してしまうのではなく,それを貯めて投資へ振り向ける必要がある,というわけだ。そうした世界観では,貧者は禁欲できる性分ではないので貧しい。したがって,貧者に投票権を与えれば,彼らは富者に税金を課すことによって,投資ではなく,自分たちの消費を最大化しようとする。これで貧者は短期的には消費を多少増やすことができるかもしれないが,長期的には投資を減らし,ひいては成長を鈍らせ,暮らし向きをむしろ悪くしてしまう。と,彼らは考えていたのである。

ハジュン・チャン 田村源二(訳) (2010). 世界経済を破綻させる23の嘘 徳間書店 pp.193

アメリカ紙幣の政治家たち

 1ドル札上の初代大統領ジョージ・ワシントンは,就任式では高品質のイギリスの衣服ではなくアメリカのもの(この日のためにコネチカット州で特別に織られたもの)を身につけると主張して譲らなかった。今日なら,こういうこだわりは政府調達の透明性にかんするWTOの協定に抵触することになるだろう。それに,ワシントンはハミルトンを財務長官に任命した本人であり,彼の経済政策にかんする考えをよく知っていた,ということも忘れてはいけない。ハミルトンは独立戦争ではワシントン総司令官の副官を務め,戦争後は彼の政治的盟友となった。
 5ドル札のエイブラハム・リンカーンが,南北戦争中に関税を最高レベルにまで引き上げた保護貿易主義者であったことはよく知られている。また,50ドル札に採用された,南北戦争の英雄から大統領になったユリシーズ・グラントは,自由貿易を強要するイギリスをものともせず,「200年以内にはアメリカも,あらゆる製品の保護をとりやめ,自由貿易を実行できるようになるだろう」と言い放った。
 ベンジャミン・フランクリンはハミルトンの幼稚産業保護論にはくみしなかったが,別の理由から高関税による保護の必要性を主張した。当時アメリカにはただ同然の土地が存在し,労働者はその気なら簡単に工場から逃げ出して農園を始めることができたので(労働者の多くが元農民であったため,これはただの脅しではなかった),アメリカの製造業者たちはヨーロッパの平均よりも4倍も高い賃金を支払わなければならなかった。
 そこでフランクリンは「アメリカの製造業はヨーロッパとの低賃金競争(いまなら“ソーシャル・ダンピング”)から保護されないと生き延びられない」と主張したのだ。この論理は,政治家になった億万長者ロス・ペローが,1992年の大統領選キャンペーンで北米の自由貿易協定(NAFTA)に反対するさいに用いた論理とまったく同じであるそしてこの論理は,アメリカの選挙民の18.9%に支持された。
 しかし,アメリカ自由市場資本主義の“守護聖人”たち,トーマス・ジェファソン(めったに見られない2ドル札に採用)とアンドリュー・ジャクソン(20ドル札に採用)なら,米財務長官の“テスト”に合格するだろう,とあなたは思うかもしれない。
 トーマス・ジェファソンはハミルトンの保護主義には反対だったかもしれない。だが,特許制度を支持したハミルトンとはちがい,特許権を目の敵にした。ジェファソンは,アイデアは「空気のようなもの」だから誰も所有してはいけない,と信じていたのだ。今日の自由市場主義者の大半が特許権など知的財産権の保護を重視している点を考えると,ジェファソンの見解は彼らにはまったくウケないにちがいない。
 では,「庶民」の味方で財政保守主義者(アメリカ史上初めて連邦政府債務を完済した)だったアンドリュー・ジャクソンはどうか?ジャクソン・ファンには申し訳ないが,彼にしても“テスト”に合格できないだろう。ジャクソン政権下では,工業製品にたいする平均関税は35〜40%もの高率だったのである。またジャクソンは悪名高き排外主義者だった。彼が1836年に半官半民の第2アメリカ合衆国銀行(連邦政府が株式の20%を所有)の認可を取り消したとき,外国人投資家(おもにイギリス人)の株式所有が「多すぎる」というのが大きな理由のひとつだった。
 「多すぎる」とはどのくらいだったかというと,わずか30%だった。もし今日,発展途上国の大統領が,アメリカ人が株式の30%を所有しているという理由で銀行の認可を取り消したら,米財務長官は怒り心頭に発することだろう。
 そういうことなのだ。毎日,何千万ものアメリカ人が,“ハミルトン”や“リンカーン”でタクシーに乗り,サンドイッチを買い,“ワシントン”でお釣りをもらって暮らしているというのに,「そうした崇敬される政治家たちはみな,保守・リベラルの別なくアメリカのメディアが何かにつけてこき下ろす,とんでもない保護主義者だった」という事実を知らない。ニューヨークの銀行家やシカゴの大学教授は,“ジャクソン”で《ウォールストリート・ジャーナル》紙を買い,ベネズエラ大統領ウーゴ・チャベスの排外的愚行を批判する記事を読んで舌打ちするが,彼らはチャベスよりもジャクソンのほうがずっと排外的だったことに気づいていない。

ハジュン・チャン 田村源二(訳) (2010). 世界経済を破綻させる23の嘘 徳間書店 pp.103-106

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]