I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

中立主義

この中立主義は新上流階級文化の最も不可解な特徴の1つである。新上流階級のメンバーは病的なまでに勤勉だが,勤勉ではない人に対して軽蔑的なレッテルを貼ることはない。新上流階級の若い女性たちは婚外子出産とは無縁だが,婚外子出産に対して軽蔑的な表現を使うのはご法度だと思っている。犯罪者に対してさえそうであって,何らかの軽蔑的な表現を使えば,周囲の何人かは軽く眉をひそめるだろう。要するに,新上流階級の世界では他者に対して軽蔑的な言葉を使ってはならないのであり,例外は次の三種類の人々に対してだけである。——政治的見解を異にする人,キリスト教根本主義者,そして田舎の白人労働者階級。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.419

勤勉・正直・結婚・信仰

これについてはさまざまな見解があり,またどの見解もさまざまに解釈できる。つまり,アメリカ国民の徳とはこれらであるという決定的なリストが存在するわけではない。しかしながら,少なくとも次の4項目——あるいはアメリカ社会の4つの側面——は誰もが認めるところであり,18世紀の建国の父や19世紀の評論家たちの記述を調べあげても,この4つを否定するような内容はまず見つからないだろう。その4つとは,勤勉,正直,結婚,信仰で,前の2つはそれ自体が徳であり,後の2つはそれを通して徳が育まれる制度である。便宜上,わたしはこの4つを合わせて「建国の美徳」(founding virtues)と呼ぶことにする。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.194

似た者が近づく

学歴も認知能力も高い者同士のカップルは,文化的にも似た者同士になる可能性が高い。たとえば,片方は大学卒で認知能力もきわめて高いが,もう片方は高校卒で認知能力は平均を少し超える程度というカップルの場合,本屋映画の好み,余暇の過ごし方,友人,その他生活上の多くの面で二人のあいだに違いがあるだろう。そのような違いがあれば,結婚が文化分散の機能を果たすことになる。1960年には,管理職・専門職の世帯の三分の二がそうした学歴上の異種混交性を有していた。しかし2010年には,経済的に大いに成功している夫婦の四分の三が大卒同士になっていた。つまり,彼らは高学歴・高知能の人々に特有の感性や嗜好を夫婦間で共有していて,そうした嗜好を満足させる財・サービスへの出費を惜しまないのである。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.104

似た人々が集まる

新上流階級が一般のアメリカ人から離脱していった背景には,きわめて単純な人間の衝動が働いている。人は誰でも自分を理解してくれる人,話の合う人と一緒にいたい。そのために,飛び抜けて頭のいい人間が,同じく飛び抜けて頭のいい人間と出会う機会が生じるや否や,認知能力による分離メカニズムが動き出すのである。
 人より飛び抜けて頭のいい人間は,子供のころからそうした出会いの機会を夢見ている。なぜなら,認知能力はほかの能力とは違い,子供を孤独にするからである。たとえば,運動能力に秀でたティーンエイジャーなら花形のクォーターバックになれるし,たとえ性格が内気で,友達づきあいが下手でも,周囲のほうから友達になりたいと寄ってくる。あるいは対人能力に秀でたティーンエイジャーなら,まさにそれだけで人気者になれる。そもそも対人能力とはそういう能力のことなのだから。しかし,数学の成績は抜群だが対人能力は普通という男子生徒の場合には,変わり者とみなされるだけである。得意な数学の話をしたくても,相手になってくれるクラスメートはせいぜい1人か2人,運が悪ければ1人もいないだろう。言語能力は抜群だが対人能力は普通という女子生徒も同じである。T.S.エリオットの詩に心を奪われて,どんなにすばらしいかを説明しようとしても,理解してくれるクラスメートはまずいないだろう。ウィットに富む表現も理解してもらえないし,それどころかわけのわからない言葉を使うからと嫌われてしまうだろう。『灰の水曜日』[エリオットの詩作品]について話をしようと思っても,まずぽかんとした顔で見られ,それから冷たくされるのが落ちで,そのことを彼女自身もよくわかっている。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.86-87

酒と煙草

アルコールはどうかというと,新上流階級が飲むのはたいていワインかクラフトビールである。どちらを飲むにしても,彼らの多くはその飲み物について微に入り細にわたって語りたがる。だがの無料は控えめである。また,タバコは吸わない。上流階級の家庭を訪問するときは,軽率にタバコに火をつけないほうがいい。それだけで軽蔑されてしまうかもしれない。疾病対策センター(CDC)によれば,アメリカの成人のおよそ3分の1がまだタバコを吸っているそうだが,新上流階級に囲まれて暮らしているかぎり,そんなことは想像もできない。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.63

何事もやりすぎ

しかしながら,新上流階級の親たちのやり方もいいことづくめではない。そこにはマイナス面もあり,それは何事もやりすぎてしまうことである。たとえばエリート家庭の子供たちには,バレエ教室,水泳教室,家庭教師,セラピーなどでスケジュールがいっぱいで,自由に遊ぶ時間もないといった状況がよく見られる。また,子供を有名幼稚園に入れようとして,そのための準備学校に通わせる親もいる。これは都市伝説ではなく,裏づけのある事実である。幼稚園でもそうなのだから,大学となれば推して知るべしで,子供を名門大学に入れるためならどんな努力も惜しまないという親が少なくない。そうした親たちは子供が大学に入っても干渉をやめられず,それがとうとう社会現象化して「ヘリコプター・ペアレント」[子供が大学生になっても子離れできない親。ヘリコプターのように子供の頭上を旋回し,何かあればすぐに降りてきて助けようとする]と呼ばれるほどになった。この言葉はアメリカの大学管理者のあいだでは日常的に使われている。さらに,エリート層の親たちは絶えず子供を褒めるが,これには逆効果もありうるとする研究結果が数多くだされている。なぜなら,たいていの場合,親たちは子供の行ないを具体的に褒めるのではなく,子供が賢いことを褒めるからである。その結果,多くの子供たちが「自分は賢い」というイメージを守ろうとし,そのイメージを危うくするチャレンジを避けるようになる。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.68

最上層

この集団の最上層を占めるのは,アメリカの文化,経済,政治に直接影響力をもつ地位に上りつめた人々である。その一部は政治権力を握り,別の一部は財界を動かし,さらに別の一部はマスコミを動かしている。この小集団を「狭義のエリート」と呼ぶことにしよう。狭義のエリートには,たとえば,憲法上の法解釈にかかわる弁護士や裁判官,,全国放送におけるニュース報道のあり方を決めるマスコミ上層部,主要な活字メディアやウェブサイトに署名入りで寄稿しているジャーナリストやコラムニストなどが含まれる。また,国内最大規模の企業や金融機関,財団,NPOなどの最高幹部も含まれる。さらに,映画やテレビドラマの制作にかかわるプロデューサーやディレクター,ライター,一流の大学や研究所の著名な学者・研究者,そして高級官僚と政治家も含まれる。
 この狭義のエリートは10万人に満たない。いや,実のところ1万人程度にとどまるのではないだろうか。少なすぎると思うなら,特定の分野について具体的に考えてみていただきたい。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.36

誤解

東京には,京都のことなどなんとも思っていない人だって,おおぜいいる。よほどのできごとでないかぎり,東京以外の現象には興味をしめさない人も,少なくない。見聞きにあたいするものは,みな東京にあるという考え方さえ,被地では流布している。
 だが,そういう人たちは,洛中人士の前にあらわれない。教徒にあこがれる物好きだけが,近づいてくる。あるいは,メディア人もふくめ,京都をたてまつることで利益のみこめる人々が。
 そして,彼らとの出会いがかさなるおかげで,京都人は誤解をしてしまう。首都東京も,京都には一目おいているのだ,と。どんな雑誌だって,企画にこまったらよく京都特集を,くむじゃあないか。そういって鼻をうごめかす洛中の旦那に,私は何度も出会ったことがある。
 ああ,こういう人たちが洛外をばかにするのだなと,私はそのつど考えこむ。嵯峨などを低くみるのは,首都のメディアにもてはやされ,うれしがっている連中だ,と。言葉をかえれば,けっこう底が浅いんだと,私は思いたがっているようである。まあ,それが私の精神衛生につながっているということかも,しれないが。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.38

試練にのぞむ

現代の英雄,つまり自分が呼び寄せられたことを気にかけ,人類が運命をともにする存在の住まう場所を探し求める個人は,自分が属する共同体が,うぬぼれた恐怖,合理化された欲望,聖化された勘違いといった古い衣服を脱ぐことを期待できない。ニーチェは次のように語っている。「生きよ,あたかもその日が来たかのように」創造する英雄を社会が導き救うのではなく,反対に,創造する英雄が社会を導き救うのである。こうして,私たち一人ひとりが究極の試練にのぞむ(救世主の十字架を担ぐ)。しかも,社会全体が大勝利をおさめる輝かしい瞬間にではなく,個人的絶望のうちに黙々と試練にのぞむのである。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.291

英雄の行為の根底

英雄の時代が始まるのは,人間の村や町があちこちにつくられた後のことである。原始の時代から生き延びた怪物の多くが,いまだ辺境に棲息し,悪意や自暴自棄の念をもって人間社会と敵対している。そうした怪物は退治しなければならない。それに加えて人間の専制君主が人々から略奪を繰り返してその地位につき,悲惨な状態をつくり出している。専制君主も討伐する必要がある。したがって,英雄の行為の根底には邪魔者を取り除く使命がある。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.215

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