I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

しるし

また,ここで注意しておかなければならないのは,どのような道具を使おうと,ひとの意図や操作によって結果が左右されてはならないということである。人為的な結果では占いにならない。コックリさんは,3人以上が棒の上に手を重ねておこなうが,棒は誰の意志とも無関係に,かってに動くのである。結果は偶然でなければならないと言ってもよい。必然的な結果では,占いの「しるし」とはならない。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.18-19

占いがすること

占いは何をしているのか。ひとことで言ってしまえば,何かを見て,考え,そして見て考えたことを言葉であらわす。それだけのことである。しかし,この「見る」,「考える」,「言葉であらわす」が問題なのだ。しかも,これらは別のことではなく,1つのことであることが問題なのだ。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.5

記憶と歴史

権力者が自分の都合の良いように公的記録=歴史を書き替えることは昔から行われてきた。しかしオーウェルが『1984年』で問題にしたのは,個人的な記憶が集合的な記憶としての歴史の中で果たす役割である。記憶喪失をモチーフとしたそれまでの小説や映画では,個人的な記憶が失われてしまうことは,その個人の問題だった。もちろん『独裁者』における浮浪者チャーリーや『無言の祈り』のハンブルトンのように,記憶を失った主人公が歴史の重大な岐路に直面することはある。ただしそれは,特権的な個人と歴史との関わりとして示された。これに対して「ビッグ・ブラザー」は,人々が持つ膨大な個人の記憶の領域にまで入り込み,それらを改変しようとする。そして模造され,埋め込まれた個人の記憶によって集団の歴史が作られる。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.116

概念を知ること

しかし,物語はこれで終わりではない。調べ始めてすぐにわかったのは,民族分類の研究は途方もなく困難な仕事だということだった。この種の情報の収集には,多大な困難が伴う。一見,それは簡単なことのように思える。一本の植物,あるいは一匹の動物をつかんで,「これをあなた方は何と呼ぶのか」と現地の人に尋ね,また別のものをつかんで同じことを尋ね,その答えを書きとめていけばいいのだ。しかし,その分野の研究者が収集しているのは,生物の概念やカテゴリーや言葉であり——それらは,噛みもしないし,逃げもしないが——,それは生物をつかんで名を尋ねるよりはるかに難しい作業なのだ。生物を見つけて瓶や袋に詰め込むだけでは,それらについて理解したことにはならないが,それと同じで,多民族の生物分類法を集めるには,その分類に含まれる生物を熟知するだけでなく,その名前,詳細な描写,分類の土台となっている言語体系と概念のすべてを,正しく理解しなければならない。「この動物をあなた方は何と呼ぶのか」と尋ねて,ある答えを得たとしても,それがすべての哺乳類を指す言葉なのか,それとも小型哺乳類だけを指すのかはわからない。植物についても,民俗分類の名前が,あらゆる種類の植物を意味するのか,それとも森の中で育つ薬草のことなのか,あるいは特定の薬草を指すのかがわからなければ意味はない。

キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.141-142

才能はプロセス

現代のわれわれにそれがわかるのは,不変の指標があるからだ。たとえば,いきいきとして弾むようなパガニーニの「バイオリン協奏曲第一番」や,バッハの「バイオリンのためのパルティータ第二番」の終曲——演奏時間が14分に及ぶ,難易度のきわめて高い作品——である。いずれも18世紀には演奏がほぼ分可能だと考えられていたが,現在ではバイオリンを学ぶ学生たちでも弾きこなせる。
 これはどうしてだろう?さらに,陸上選手や水泳選手はより速く,チェス選手やテニス選手はより巧みになっている。人間が,たとえば11日ごとに新しい世代が生まれるミバエならば,理由として遺伝子や進化を挙げたくなるかもしれない。だが,遺伝子や進化はそういう働きを持たないのだ。
 これには単純な,なるほどと思える説明がある。そこに含まれる意味合いは,家庭生活や社会の根本にかかわってくる重大なものだ。つまり,ある人々は他より熱心に——また,他よりも利口に——訓練している。何かをうまくできるのは,うまくなる方法を見つけたからなのだ。
 才能はものではなく,プロセスである。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.18

男女の見方

こうした傾向は,恋人募集広告の分析ではない調査からも見て取れる。テキサス大学オースティン校の心理学者デヴィッド・バスは「お相手選び」研究の第一人者だが,1989年,彼は結婚に関するさまざまな好みや傾向を調べる大規模なアンケートを実施した。対象になったのは,オーストラリアからザンビア,中国からアメリカまで37カ国の1万人以上である。アンケート結果を分析したところ,国や文化に関係なく,男性よりも女性のほうが相手選びの好みがうるさく,社会的な条件や本人の性格,資質といった数多くの基準で候補者を評価していることがわかった。女性は候補者の社会的地位や収入を条件からはずすことはぜったいにないのだ。いっぽう男性が相手選びで優先させるのは,女性の若さであり,外見だった。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.82

作曲時期

人間の場合は音楽が尾羽がわりだという説にも,裏づけはたくさんある。人気アーティストはセックス・アピールばつぐんだが,証拠はそれだけではない。進化心理学者ジェフリー・ミラーがジャズとポピュラーのミュージシャン,それにクラシックの作曲家で調べたところ,生殖可能な年齢のあいだがいちばん多作であることがわかった。またヴィヴァルディの献身的な努力も忘れてはならない。彼はピエタ慈善院で親のいない少女たちにヴァイオリンを教え,自らが指揮をして演奏会を開いていた。彼女たちの多くはそこで見初められ,金持ちの男性のもとに嫁ぐことができた。
 私の学生のひとりコスタス・カスカティスは,ミラー説をもっと厳密に検証するため,ヴェートーヴェンからマーラーに至る19世紀ヨーロッパの作曲家と,1960年代ヴィンテージ・ロックのスターを対象に創作活動の変遷を調べた。新曲を書くペースは結婚と同時にがっくり落ちるが,離婚や死別をして次のパートナー探しをはじめると,とたんに上がる。そして新しい人といっしょになると……またペースが落ちるのだ。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.64-65

150人

人間の「自然な」集団サイズを知るには,いまだに文明化されておらず,とくに狩猟と採集で生活する集団に着目するのがよさそうだ。狩猟・採集社会はさまざまなレベルで複雑に機能する。食べ物を集めるために泊りがけで移動するときは,30〜50人程度の小さい集団が形成される。この集団は不安定で,途中で人の出入りもある。反対にいちばん大きい集団は部族ということになるだろう。部族とはすなわち同じ言葉を使う言語集団でもあるので,文化的なアイデンティティでまとまっている要素が大きい。部族の規模は,老若男女あわせて500〜2500人といったところ。小集団と部族集団の二層構造は,人類学の世界では常識だが,そのあいだに第三の集団がある。こちらもたびたび論じられるが,具体的な規模が語られることはほとんどない。第三の集団は「氏族(クラン)」というくくりになって,成人儀式など定期的な儀式のときに重要な役割を果たすこともあれば,狩猟場や水源を共有する集団として扱われることもある。
 くわしい人口調査が行なわれた約20の部族社会では,氏族や村といった集団の平均人数は153人であることがわかった。細かく見ると100〜230人まで幅があるが,統計的には150人という平均の範囲におさまる。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.22

友人の好みの文化差

 同じように,中国のハイスクールの生徒は「謙虚」「利他的」「正直」「勤勉」な友人を好むのに対して,アメリカのハイスクールの生徒は「楽しく」「活動的」「社交的」な友人を求めるとわかった。「この対照性は明確だ。アメリカ人は社交性を重んじ,気楽で楽しい結びつきをもたらす特性を賞賛する。中国人はより深い特性を重んじ,道徳的美点や業績を賞賛する」と比較文化心理学のマイク・ハリス・ボンドは書いている。
 アジア系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人に,考えを口に出してしゃべりながら推論問題を解かせた実験もある。その結果,アジア系は静かにしている方が問題解決能力を発揮し,ヨーロッパ系はしゃべりながらのほうが能力を発揮した。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.236
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

personalityの文化

 「人格の文化」においては,思慮深く,規律正しく,高潔な人物が理想とされる。他人にどんな印象を与えるかよりも,自分がどうふるまうかが重要視される。「性格(personality)」という言葉は18世紀まで英語にはなかったし,「性格がいい(good personality)」という言葉は20世紀になってから広まった考え方だ。
 だが,「性格の文化」が広がると,アメリカ人は,他人が自分をどう見るかに注目するようになった。目立つ人や面白い人が人気を得るようになった。「新しい文化において必要とされた社会的な役割は,演技者としての役割だった。すべてのアメリカ人が自己を演技しなければならなくなった」とサスマンは書いた。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.37
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

サイコパスが少ない文化

 サイコパスは古くから世界じゅうにいたようだが,ほかよりもサイコパスの数が少ない文化圏があることもたしかだ。興味深いことに,東アジアの国々,とくに日本と中国では,かなりサイコパシーの割合が低い。台湾の地方と都市の両方でおこなわれた調査では,反社会性人格障害の割合が0.03から0.14パーセント。西欧世界における平均約4パーセントとくらべて,きわめて低い数字である。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.181

価値転換

 かなり最近まで,喫煙はおしゃれで好ましい行動だった。しかしいまや,喫煙は汚く危険で,本人だけでなく他人も汚染し,喫煙者は下賎で,がさつ,哀れだということになってしまった。はっきりと謳われていなくても,喫煙は嫌悪すべき習慣で喫煙者は汚染された社会の負け犬であり,道徳観に欠けるというメッセージを広告は発信している。この方法は,成人の喫煙マーケットが衰退を見せるまでの数十年にわたってよく宣伝されていた「喫煙は健康に害があります」という禁煙キャンペーンよりも,ずっと効果的だった。最近の喫煙に対する「道徳観の欠如した」観点からの非難の最たるものは,受動煙または副流煙(非喫煙者が吸い込む煙)には命に関わる影響があり,子供など罪もない犠牲者に特に有害だという「新しいデータ」が伝えられていることだ。わかりやすくいうと,喫煙者は,その無責任で自己中心的な行動で赤ん坊を殺してしまう道徳観のない落伍者なのである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.271

日本よ

 文化が違えば,吐き気を催させるほど最低のシーンが,エロティックなシーンに変わることもある。55億ドル規模といわれる日本のアダルト産業は,排泄物や道ならぬ行為を混然と見せるのを楽しんでいることにかけては,他国の追随を許さない。日本の社会というのは表向きは慎ましやかで秩序があり,礼儀正しく謙虚だが,ひと皮剥くと奔放であられもない性であふれかえっている。タコにクンニリングスされてよがっている裸の女性を描いた官能的芸術から,観た者の多くが吐き気を催して洗面所に駆け込み,また別の者は泣きながら逃げ去ったと伝えられる動画まで——この4分間のビデオについては,あるブログに「ありとあらゆる排泄物に混じりあい,誰かがランチにタコベル(タコス専門店)に行った(後で吐いた)みたいだった」と書かれていた——日本のポルノは,エロ・グロを妄想することにかけては果てしなく自由であるらしい。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.226-227

性的魅力の後景化

 要するにももクロにあっては,女性アイドルの定石とは逆に,性的魅力を前面に出す演出がなされないのである。たまさか前面に出ても,ジョークか,ハイブリッド化の一断片となってしまう。ももクロと共演している氣志團の綾小路翔氏は,ももクロについて「人生で初めて,性の対象ではない女子を好きになった」とすらいう。
 このような性的魅力の後景化は,逆説的なことに,ももクロの魅力を増しているようにおもわれる。イヤラシさや男性目線への媚びないことが,先の「近さ」「かわいさ」ともあいまって,女性ファンの獲得に貢献しているのは明らかだろう。あるいは<性的でないのに傑出していること>が,女性には憧れや同化への欲求を生むのかもしれない。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.146

無題

 こうした<日常生の美学>,<近さの美学>とも呼ぶべきものこそが,青春ガールズムービーのみならず,ももクロの大きな特徴と魅力をなしている。ももクロは,アイドルであり,その意味では非日常的で「遠い」存在かもしれない。しかし彼女らは,手の届かない「スター」ではない。あくまで「今会えるアイドル」である。ももクロは,どれほど有名になってもそれを強調し続けてきた。ももクロのもうひとつのキャッチフレーズ「週末ヒロイン」も,彼女たちが学校に通う,普通の中高生にすぎないことを強調する効果をもつ。
 このことは,ももクロを含む最近の「ライブアイドル」,あるいは「ご当地アイドル」全般に,多かれ少なかれあてはまる。彼女たちは,近接ライブ,握手会,撮影会などを盛んに行ない,その近さをアピールする。現在は高嶺の花になった AKB48でさえ,秋葉原の専用劇場にゆけばいつでも会える「会いに行けるアイドル」であることを売りにしてきた。宇野氏が村上春樹から借りたいい方をすれば,「リトル・ピープルの時代」のヒロインである。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.134

パクリ指摘に意味なし

 現代では,あまりにも多くの音楽があふれ,音楽情報が大量に氾濫している結果,どんな曲のどんな断片でも,類似した先例を,どこかでかならずみつけることができる状況にいたっている。しかもその先例にはかならず先例があり,さらにその先例にも先例がある……といった具合である。たとえ意図しなくとも,すべての音楽が二次創作,ないしN次創作にならざるを得ない状況といってもよい。それゆえ,よほどたちの悪い全面的な無断借用でない限り,盗作やパクリを云々することはほとんど意味がなくなってしまう。
 こうした状況は,少なくとも近年のアイドル界については,たびたび指摘されてきた。そのことは楽曲のみならず,外見や演出にもあてはまり,強い既視感をももたらす。かくして,新しいものは何も生まれないような閉塞状況が生じた。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.91

カオス感

 前山田氏自身は,最近の若者が飽きっぽいので,曲の中で次々に目先を変えているのだという。もっとも最近では,世代間の差がフラット化し,中高年も若者と似たような嗜好をもつ場合が少なくないし,中高年も音楽にかんしては経験豊富な人が多いから,このことは若者だけにあてはまるわけではなかろう。
 いずれにせよ,ギャップある異質な断片の,ときに高速のハイブリッド化が,ももクロの楽曲の大きな特徴と魅力をなすことは疑いない。大槻ケンヂ氏も,ももクロの音楽とは,最近のアニメやテレビなどの急激な画面展開を音楽化した新ジャンルだと評している。同様に怒髪天の増子直純氏も,1曲の中で色々なものがメチャメチャに展開してゆくカオス感が,ももクロの楽曲の特徴だと評価する。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.80-82

断片とハイブリッド

 このようにももクロの楽曲にあっては,たった1曲の内部でさえ,ギャップある異質な断片のハイブリッドがさまざまに生成される。
 同じことが,複数の楽曲のあいだにもみられる。ももクロの持ち歌は2013年1月現在,カバー曲を含め70曲強ほどあるが,それらは歌詞を度外視しても,提供者が固定していないことも手伝って,スタイルやジャンルの点で見事なまでにバラバラである。そのスタイルやジャンル自体は,各々歴史的な文脈に属する古いものといってよい。しかしライブやアルバム全体の中では,各曲が異質な断片となり,次々とハイブリッド化され,斬新な効果をもたらす。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.80

多様で雑多

 そもそも5人は,メジャーなアイドルとしては例のないほど,声も,歌も,背丈も,性格(キャラ)も,踊り方さえも,バラバラで,むしろそれを強調してきた。この個性差に応じてまた,各メンバーを応援する(推す)ファンたちの好みも分かれる。さらにそれら多様なメンバーたちが,多様な楽曲,ダンス,演出を繰り広げる。その組み合わせの可能性たるや,万華鏡のごとく無限大といってよい。
 かくしてファンは,きわめて多様で雑多なももクロの中から,自分の好みに合った側面のみに注目し,それを楽しむことができる。しかもファンは,ももクロにたいして強い感情的な一体感をもつことが多い。その結果,互いに相容れない通約不可能な<私だけのももクロ>像が,ファンの数だけ存在する事態になりやすい。
 重要なのは,それら<私だけのももクロ>像は,いずれも正しいことである。各々,ももクロの汲みつくせない多様性の全体を,少しずつ部分的に写し出したものなのだから。
 一般に現代日本では,音楽等にかんする人びとの好みが,多様化し細分化し,オタク的・排他的な「島宇宙」(宮台真司氏)と化す傾向が強い。もはやかつてのように,国民の誰もが同じ大スターを好むことはない。各人は自分の好きなものだけを追求し,ほかのジャンルやアーティストにはまったく無関心というわけだ。そのような状況にあってなお,ももクロが多様なファン層を獲得し,国民的現象にまでなり得たのは,ももクロ自体の中に,多様な島宇宙を包摂できる,<わけのわからない>雑多な多様性が併存するからに違いない。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.16-17

大学に例えると

 「俗に浅草フランス座がストリップ界の東京大学といわれていた。そして新宿フランス座が早稲田大学,池袋フランス座が立教大学,浅草ロック座がなぜかストリップ界の日本大学ということになっていました。
 仮にも大学というからには,高校があるはずですが,これに当たるのは,浅草の百万ドル劇場,美人座,浅草座といったところ。あるいは横浜セントラルなどの東京周辺の小屋でしょうか。この伝で云えば,喜劇役者の中学は地方巡回劇団ということになります。
 また『大学』卒業後にもそれなりの進路があって,丸の内の日劇ミュージックホールが東大大学院でしょうか。ここを経て,日劇の『春の踊り』や『夏の踊り』に出演すると,いわば大蔵省へ入省したようなもの。さらにここから映画に出るとか,そのころ仕事を始めたテレビに行くとか,社会の中に喜劇役者のための登攀装置が埋め込まれていたのです。逆に云えば,一人前の喜劇役者になるには,生の舞台で,それも厳しい観客の前で,長い間,修行しなければならなかった」(『浅草フランス座の時間』)

松倉久幸 (2011). 浅草で,渥美清,由利徹,三波伸介,伊東四朗,東八郎,萩本欽一,ビートたけし…が歌った,踊った,喋った,泣いた,笑われた。 ゴマブックス No.456-465(Kindle)

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