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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

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変人

 「日本は現在でもたいへん抑圧の強い社会ですから,ふつうの人々でさえそうそう自由に発言はできません。世に警鐘を鳴らして人々の目を見開かせるには,厄介者というか,悪者というか,変人というか,そういう人間だと思われることを覚悟しておかなければならないのです。私は人から変人だといわれることもありますけど,褒め言葉だと思っています」渡辺はクスリと笑った。「だって,日本で変人と呼ばれれば,独創的なすばらしい仕事をしている人ということになるんですから」

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.140
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イエ

 イエなどというのは,ずいぶん古めかしい概念のように思われるかもしれないが,じつは現在でも多くの社会的習慣に影響をあたえているのである。たとえば,今日でも長男の嫁は義母の介護をするのが当然だと考えられているし,結婚した男女は法律上,同一の姓を名乗らなければならないことになっている(現代の女性にとって,これら2つの制約は,結婚するうえで大きな難点となっている。母親が生きているうちは長男とはぜったい結婚しないという女性が多いのは,義母の介護をしたくないからである。またキャリアのある女性はみんな,それまで仕事で使っていた名前を,結婚と同時に捨ててしまうのはいやだと考えている)。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.111

依存と自立

 欧米人にとって「依存」は,生活保護や薬物依存を想起させるマイナスのイメージを持った言葉であり,いっぽう「独立」や「自立」,「自由」は美徳であり,倫理的に絶対必要なものである。ところが日本語では,たとえば「自由」は,きわめて曖昧な概念だ。日本にはそのものずばり,自由党という政党があった(2003年解散,民主党と合併)。しかし,「自由」という言葉は,集団の意思に反して自分の好きなように行動する権利を主張し,他者を無視して自己の欲求を優先する身勝手な人間をも想起させるのである。19世紀の半ばまで封建制度が敷かれ,1870年代になるまで民衆の大部分が名字を持たず,1945年まで天皇は神だと信じられていた日本の社会では,欧米人にとって当然のこととされていた,国家と神,国家と自然,社会と自己の明確な区別はまったく存在しなかった。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.102

アメリカだったら

 「ひきこもり」という社会病理には謎が多く,現代日本が直面している困難を解明しようとする者にとって,これほど興味をそそる現象はない。欧米でも,反社会的行動に走るティーンエイジャーは多いが,日本とはだいぶ異なる。親や学校に対する反発は「行動で示す」ことが多く,怒りを爆発させたり,奇抜な服装で「自己主張」したり,騒々しい音楽を演奏して大人の眉をひそめさせたりする。自傷に走る者もいる。銃やナイフ,ドラッグがかんたんに手に入るアメリカでは,若者の暴力は日常茶飯事だ。それはまるで,アメリカ社会が求める開放性,自主独立の生神,自己表現の代償を暗黙のうちに象徴しているようだ。とはいえ,アメリカでは幼少期から個人の自由が尊重され,「自分の足でしっかり立て」といわれ,自分の人生は自分の力で切り開け,と教えられ,独創性と冒険精神を持つことが強く奨励されている。そのため日本と比べれば,ある種の枠にはまらない行動に対してははるかに寛容なのだ。
 だから,アメリカのように多様な人々が暮らす広大な国だったら,ケンジのような若者はきっと,コンピューターゲーム制作者か家具職人になっていたかもしれない。あるいは,小さなソフトウェア会社を起こしていたかもしれない。あるいは,ミュージックビデオを編集していたかもしれないし,ブログを書いていたかもしれない。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.38-39

金魚ミキサー

 2000年,デンマークのトラップホルト美術館は,チリのアーティスト,マルコ・エバリスティ[自分の体から摘出した脂肪を料理して友人に振るまうなど,奇矯な行動が多い]に出展を依頼した。そこで彼が出展した作品は,10組の電動ミキサーのなかでキンギョが泳いでいる,というものだった。
 来場者はミキサーのスイッチを入れるように勧められていた。このアーティストの説明によれば,来場者が良心と格闘するよう意図して作品を製作したとのことだった。その結果,何匹かのキンギョはジュースと化し,展示責任者は動物虐待の罪で訴えられた。だが最終的には無罪の判決が下った。
 その8年後,今度はロンドンの現代美術館テートモダンで,再び魚をめぐる論争が巻き起こった。ブラジルのアーティスト,シウド・メイレリスは,生きた魚を展示したが,13週間が経過すると,当初は55匹いた魚のほぼ4分の1が死んでいた。展示に生きた魚を用いたことに対して,さまざまな動物保護団体が,感覚力をもつ動物を美術作品の一部として展示するのは不適切だとして抗議した。
 これらの展示に対する世間の反応は興味深い。ことにエバリスティのスプラッターホラーばりのコンセプトに対する反応は特筆に値する。彼の作品は,魚をジュースにする機会を来場者に提供した。実際にそうすることを選択した来場者がいたのは明らかであり,それに対する抗議が相次いだ。だが来場者の多くは,そのような形態で魚を殺すのは無意味な残虐行為だと考えたのだ。
 私たちの多くは,自分が不適切と考えている行為に対して本能的な嫌悪を感じる。それと同種の本能的な感覚によって,鳥類と哺乳類には痛みの経験によって苦しむ能力があると感じ,それらの動物の福祉に気を配る。つまり私たちは,どうにかしてこれらの温血動物の立場に身を置けるのだ。
 ところが話が魚類になると,人によって意見は大きく分かれる。ミキサーのスイッチを入れられる人もいれば,そうでない人もいるのである。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.156-157

鏡の間の世界

 それは200年前のことだ。現在,状況はずっと悪くなっている。ラジオ,テレビ,さらに現在ではインターネットの普及によって,正しくても間違っていても,思慮深くてもバカげていても,公平でも悪意に満ちていても関係なく,誰でも自分の意見を主張でき,その意見が引用され,繰り返されていく可能性が生じているように見える。インターネットが作り出した情報の「鏡の間」では,どんな主張も,たとえどれほど非常識なものであろうと,際限なく増殖していく。そしてインターネットでは偽情報も消えることがない。「電子的な野蛮」と,ある解説者は呼んだ。帆ばかりあって碇のない船のような環境。制御不能に陥った多元主義だ。
 その結果を見るのはたやすい。米国人の3分の1は,9・11同時多発テロの背後にサダム・フセインがいたと思っている。4分の1近い米国人は,いまでも喫煙が死を招くという確実な証拠はないと考えている。そして2007年になっても米国人の40パーセントは,地球温暖化が現実に起きているのかどうか,専門の科学者たちがまだ議論していると考えている。誰が非難できるだろう。どこを見ても,誰かが何かに疑問を投げかけている。今日の重要な問題の多くは,あの人はこう言った,この人はこう言った,誰に分かるだろう,と,そんな話に矮小化される。誰であれ,混乱するのは無理もない。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.208-209

J-POP

 この年,J-WAVEは在京のAM・FMを通して聴取率No.1を獲得。邦楽はほとんどかけない方針でしたが,局のイメージに合った曲のみ『J-POP』と呼んでかけていました。J-POPという言葉はJ-WAVEが起源です。

ホイチョイ・プロダクションズ 気まぐれコンセプト クロニクル 小学館 pp.236

インテリになること

 地方人の東京での文化衝撃は,なにも明治時代だけのことではなかった。昭和戦前期はいうまでもなく,1960年代前半までは,地方人が上京したときには,都会の建物や人ごみの多さに「驚く」だけではなかった。都会人の言葉づかい,服装,知識,通ぶり,機知,洗練さという「趣味の柔らかい権力」に晒され,「ひけめ」を感じ,わが身を振り返り自信を失うのが常だった。
 したがって,こうした時代の農村の若者にとって,高等教育に進学して,「インテリ」になるというのは,単に高級な学問や知識の持ち主になるというだけではない。垢抜けた洋風生活人に成り上がるということでもあった。インテリといわれる人の家には難しそうな本や雑誌とともに,洋間があり,蓄音機とクラシック・レコードがあった。紅茶を嗜み,パンを食べる生活があった。知識人の言説は,こうしたかれらのハイカラな洋風生活様式とセットになって説得力をもった。知識人が繰り出す教養も進歩的思想も民主主義も知識や思想や主義そのものとしてよりも,知識人のハイカラな生活の連想のなかで憧れと説得力をもったのである。経済的に貧しく,文化的に貧困な農村を「地」にして図柄である教養知が「自由な美しいコスモポリタンの世界」として輝いた。

竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.174

自己賛美と自己表現

 ナルシシズム流行病は,2つの考え方が文化の中心をなしたことに端を発した。「自己賛美は非常に重要だ」と「自己表現は個の確立に不可欠だ」の2つである。ナルシシズム流行病の広まりを減速させるには,この2つの価値観を修正しなくてはならない。
 1つの可能性は,文化的独我論とも言うべきものに対抗することである。人は自分を賛美する必要はないし,自分を表現して存在をアピールする必要もない。しかし,いまや確立されたこの2つの価値観を直接に攻撃しても,激しい抵抗に遭うだろう。特別な人などいないという私たち著者の主張を,多くの人は信じようとしない。この話になると感情的になってしまうので,いきなり自己賛美の重要性に異を唱えても無駄な場合が多い。親として子供にはただ愛情を伝えるだけのほうがいいのだと言えば耳を傾けてもらえるが,その場合でも,子供は自分を好きだと思えなくてはいけない,そうでなければ辛い思いをすることになると反論される。この考え方はアメリカ文化にしっかりと根づいているので,これに立ち向かうのは並大抵のことではない。言ってみれば,ズボンをはかなくてもいいのだと教えるのに等しいのだ。
 同様に,自己表現の重要性も文化に定着している。美術の授業,独創力,選挙の話になると,これらの活動は「自己表現」という枠のなかで語られる。これは過去になかった現象である。芸術は歴史的に見ても自己表現ではないし,独創力も選挙もそうだが,この話から自己表現を取り去ると反発されるのだ。トマス・エジソンは独創力とは1パーセントのひらめきと99パーセントの汗であると言ったが,現在の文化では,50パーセントのひらめきと10パーセントの汗と40パーセントの自己表現なのである。アメリカ人は自分を表現できるのがうれしくてたまらないので,本当はそうする必要はないことを納得させるのは至難の業だ。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.345-346
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

特別な存在

 最近の文化的風潮で最も流行っているのは,子供に向かって彼らは特別だと言ってやることである。Tシャツやステッカー,車のシートにまで,「わたしは特別」と書かれている。あるときキースが娘の通う幼稚園の週間予定を見てみたところ,3歳児のクラスで毎朝「わたしは特別,わたしは特別,わたしを見て」と歌うことになっていた。キースはそんな歌よりも,「パパの言うことをきくと約束します,服を着せてくれるときにパパの顔を蹴るのをやめます」と歌うほうがいいと提案した。しかし先生が言うには,「わたしは特別」の歌は幼稚園の全国指導要綱に載っているのだという。そこでキースが子供たちはもう充分に自分をすばらしいと思っているし,自分を「特別」だと思う気持ちはナルシシズムにつながりかねないと説明すると,先生はようやくよくない歌だと納得してくれた。もちろん,一粒の雨くらいで濡れはしないように,歌一つで子供の手のつけられないナルシシストになるわけではない。だが,大雨ならずぶ濡れになってしまう。「特別」という言葉を子供に雨あられと浴びせれば,悪い影響をあたえかねないのだ。そして今日の文化は,子供も大人もずぶ濡れにするだけのナルシシズムの雨を降らせている。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.24
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

件数が

 東京が美食都市であることは,ミシュランの星の数だけでなく,飲食店そのものの数からも窺える。都市にある飲食店の数は,パリが1万3000件,ニューヨークが2万5000件であるのに対し,東京は16万件に上る。

竹田恒泰 (2011). 日本はなぜ世界で一番人気があるのか PHP研究所 pp.38

絶滅寸前

 かつて日本で,スパゲティの定番といえばナポリタンかミートソースだった。昨今では事情は変わり,ナポリタンもミートソースも定番ではなくなった。現代で定番と言えば,ペペロンチーノやボンゴレだろうか。また,スパゲティという呼び名も,元来はある特定の形状の麺を指す名称であり,スパゲティの呼び名から,徐々にパスタという麺全体を指す語が使われるようになっていく。その移行期は,1980年代末のバブル経済期から,90年代前半にかけてのことである。
 フレンチに比べて,カジュアルで値段もリーズナブルなレストランとして,イタリアンが急増したのもバブル経済崩壊後のことである。そうしたイタリア料理のお店(当時“イタ飯屋”と呼ばれた)には,ミートソースやナポリタンという名称の料理はメニューに存在しない。前者はボロネーゼと呼び変えられ,後者にあたる料理は存在しない。いまでもナポリタンが残っているのは,学生街の喫茶店や,街の洋食屋さん,軽食を出すスナックなどである。ただし,これらの店も時代の変化とともに減りつつある。スパゲティナポリタンは絶滅寸前の料理なのだ。

速水健朗 (2011). ラーメンと愛国 講談社 pp.27

ヘア・アーティスト

 「最近,ヘア・アーティストって呼び方してるよね」と友人の美容師に聞いてみると,「ああ多いね,そう名乗っている人が」と若干顔を顰めて言われた。「技術職なんだから美容師でいいと思うんだけどね」。彼女の若い頃パリのサロンで修行し,非常に凝ったヘア・ショーも開いているベテラン美容師の一人なのだが,美容師仲間と作っているグループは「アルチザン」と命名している。あくまで職人としてスペシャリストであることにこだわりつつ,「カリスマ」や「アーティスト」という呼び名で妙に底上げされている現象を,醒めた目で見ているようだった。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.171

クリエーター

 ところが,職人になりたいという若者が目立って増えているかというと,アナウンスの徹底不足なのかそういう話はあまり聞かない。「アーティストになりたい」は憧れの言葉であることが多いが,「職人になりたい」はどちらかというと覚悟の言葉だから,おいそれとは口に出すことはできないのである。どちらも修行や修練は必要だが,職人修業のほうが厳しく辛いというイメージがある。親方に怒鳴られながら歯を食いしばって薄給に耐え忍び日々是鍛錬……古典的過ぎるがそんな見習いの姿も思い浮かぶ。
 かといって,一方のアーティストの需要は,職人以上に少ない。それを目指しても,実際なれる人は一握りだし,職人以上に生活の糧を得る見通しは暗い。では,アーティストでもなし,職人でもなし,でも何かモノ作りに関わりたい……という人が目指すのは何だろうか。
 クリエイターである。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.144

埋没したくない

 つまり,「(職人ではなく)アーティストになりたい」とは,この社会に埋没したくないという欲求である。職人のように,社会の歯車になりたくない。どこまでも「自由」でありたい。あまりにも青臭い発言なので,こんなことは世間知らずのナイーブな中学生でもない限り,誰も口にしない。実際,世捨て人にでもなって一人で山に籠ったりするのでなければ,そんな「自由」な生き方は無理なのだ。誰しも,この社会のどこかに身を置き,税金を払い,人間関係を作り,何らかのしがらみに囚われて生きていくしかないわけだから。アーティストとて例外ではない。
 だからこそ,アーティストにとって,社会にどっしり腰を据えてモノを作り,それで着実に生活の糧を得ている職人は,無視できない怖い存在でもある。目に見えない自由だの創造性だのより,日々の生活の中では目に見える確かな技術がものを言う。それで充分人々を満足させ,幸せにすることができる。だとしたら,自分が社会の中で実質的にできることは何なのか,自分は作品によって人々にいったい何を提供しているのか。このことを深く考え込んだことのないアーティストはいないだろう。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.138-139

職人とは違う

 これまでにないアイデアやイメージが生まれてくることが,アートにはいつも期待されてきた。いかにうまく描けているかではなく,何を描いたか,どんな見方で描いたかが重要だった。それがアートの創造性と呼ばれるものだった。だからアーティストにとって,職人並みの技術を持っていることはプラスではあるが,作品がそれに依存していると看做されることは,明らかにマイナスなのである。「器用なだけの作家は,しょせん職人だ」という,職人の人が聞いたらムッとしそうな意見は,こうしたところから出てくる。高い技術を身につけ,それを作品に生かしている人ほど,「職人とは違うんだ」という自負を持っている。なんだかんだ言って,アーティストのプライドは高い。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.129-130

何がアートか

 エジプトの神殿もヴィーナスの彫像もポンペイの壁画もメソポタミアのレリーフもローマのコロセウムもゴシックの教会も,美術,アートという独立した概念,ジャンルのない時代の宗教的,政治的な制作物であるが,必ず美術史の本に登場し,「鑑賞」の対象にされる。この調子でいくと百年後くらいの美術史の教科書には,東京タワーも「シンプルでエレガントな線が美しい」などと記述されているかもしれない。
 何がアートなのか。なにを美術として(も)見るか。それは常に現在の視点から語られ,更新されるのである。アートというカテゴリーが誕生し,あらゆる既存の制作物を「アートとして見,鑑賞する」という見方を知ったから,印象派の画家達は日本の浮世絵を「発見」し,そのエッセンスを作品に取り入れた。ピカソにとってのアフリカの仮面しかり,岡本太郎にとっての縄文土器しかり。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.121-122

他者の評価

 自分の作品がアートとして誰にどのように評価されるのか,それはすべてのアーティストにとって重要なも問題である。しかるべき場でしかるべき人に評価され,その評価がより多くの人々に共有されて初めて,自分はアーティストであるとの自己確認を得ることができるのだから。作品への高い評価を通じて,「優れたアーティスト」「注目に値するアーティスト」という社会的認証を得たい……この気持をまったくもたないアーティストはいないだろう。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.98

アートだと言うと

 料理上手やグルメ,旅行好き,スポーツマン/ウーマンぶり,各種のオタク趣味などをアピールしている芸能人は少なくない。歌手やタレントや俳優としての固定化したイメージに,別種の親しみやすさや意外性などの魅力を付け加えてファンサービスする。あるいはファンを増やす。それは芸能活動の一環である。画家,アーティスト活動のアピールも,基本的には同じだと思う。
 スポーツならよほどやりこなしていないと自慢できないし,料理やオタク趣味もハンパではバカにされるものだ。にも拘らず,アート方面となるとどういうわけか,評価が甘くなる傾向がある。アートだと聞かされると,周囲も「才能があるんだ」となんとなく一目置く雰囲気になる。そう大した内容でもないのに,メディアも持ち上げる。アートだという理由だけで。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.92-93

自分の世界

 “自分の世界”があるのが,そんなに偉いのかと思う。自分で書いて自分で歌うというだけで,アーティストなのか。中途半端なオリジナリティで「アーティストです」などという顔をされるのは,そろそろみんなうんざりしていないか。ルックスがよくて詩の書ける女の子(男の子)の歌に感心したいのか,質の高い音楽が欲しいのかどっちなんだろう。だってJ-POPをネット配信で聞きながら,アーティストのアート作品を体験してるなんて誰も思っていないわけでしょ?そんな疑問をよそに,若者の間では「どんなアーティストが好き?」は,「どんなシンガーソングライターが好き?」とほぼ同義となっている。言葉と存在の妙な捩れへの違和感は,そこにはない。この調子でいくとそのうち,かつて「アーティスト」にどれほどのプラスの価値が読み込まれ,そこにどのような願望が込められていたのか,知る者はいなくなるかもしれない。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.47

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