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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

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象徴

 世界の多くの人々にとってアメリカのファストフードチェーンは豊かさや革新の象徴であり,「よい生活」というイメージと結びついている。でも批判的な立場を取る人の目には,この同じファストフードチェーンがアメリカの肥大化したライフスタイルの象徴と映り,アメリカによる世界の文化的支配の現れとみなされている。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.132

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5分で千円

 リールが回転しては止まる,という動作が何回か繰り返されているうちに,液晶画面に巨大な球体の形をした使徒「レリエル」が現れた。碇シンジが乗るエヴァンゲリオン初号機が銃器で戦うシーンが映し出される。それは数十秒で終わって,その後は何事もなかったかのようにルーレットが続いた。わずか5分で,玉が出なくなった。ゲーム終了だ。私は5分で千円札が消えたことに,衝撃を受けた。なんて怖い遊びなんだろう……。ゲームセンターであれば,百円玉で5分以上は優に遊べるのに。パチンコは5分で千円札が吹っ飛ぶのだ。

安藤健二 (2011). パチンコがアニメだらけになった理由 洋泉社 pp.28

最強のシステム

 顔認証システムとは,店の入り口にカメラを設置して,来店客の「顔」を検知することで,さまざまな客の管理が可能になるシステムである。オムロンが開発し,2004年10月に,オムロンアミューズメント株式会社というパチンコ機器会社を設立して取り扱っている。
 客が入店すると,「顔」を検知して入店者の数をカウントする。正確な入店者数が出る。そして,カウントした顔画像をデータベース化する。客の顔画像を,他の店と共有すると,正確な情報を知ることができる。
 最近勝っているか,負けているか,データベースで一目瞭然となる。今日は少し勝たせてやるか,と飴をしゃぶらせることもできる。これをやられたら,どんなプロでも勝てない。遠隔操作と組み合わせたら,最強のシステムである。
 このシステムの導入金額は,最低500万円前後といわれている。店側としては,500万円出しても設置したいと思うだろう。

若宮 健 (2010). なぜ韓国は,パチンコを全廃できたのか 祥伝社 pp.108

社会的弱者がターゲット

 今や,パチンコは年金生活者と,主婦がターゲットになっている。なかには,生活保護を受けている客も少なくない。社会的な弱者がターゲットになっていることに,怒りを禁じえない。
 最近では,パチンコ業界も女性客を取り込むことに力を入れている。女性のほうが,依存症になりやすいからである。女性はとくに,ギャンブル経験が少ないから簡単に依存症になる。

若宮 健 (2010). なぜ韓国は,パチンコを全廃できたのか 祥伝社 pp.84

力を他に向けよ

 日本では,法律的には換金が違法なイカサマ賭博場が,どんどんエスカレートしている。最近のパチンコは,5万円の軍資金がなければ落ち着いて打てない状況になっている。これを博打といわずして,何を博打というのか。
 昭和30年代のパチンコは,お菓子や缶詰の景品に変えて家に持ち帰って,家族に喜ばれた平和で長閑な時代であったし,現在のように,パチンコによって人心が荒廃するようなこともなかった。
 日本で,もしパチンコが禁止になったら,パチンコ台を作る技術は他に転用できるだろう。パチンコ台を作る技術を,人を幸せにすることに使うべきである。

若宮 健 (2010). なぜ韓国は,パチンコを全廃できたのか 祥伝社 pp.60

韓国のパチンコ#2

 韓国では当時,1回あたりの限度額を規定していた。規則では,「1回限度額2万ウォン規定」とある。日本円にして,約2000円が大当たり1回の限度であった。しかし,実際には守られておらず,1度に数百万ウォンの当たりは不法であるにもかかわらず,それが横行していた。
 とくに問題となった『海物語(パタイヤギ)』を含めた電子式メダルゲームの場合,確率プログラムを変調させて射幸行為を高める手口が横行した。
 確率プログラムの場合,審議の過程にあっても不正を探し出しにくいだけでなく,仮に不正を見つけても,違法性可否を判断することは大変だという問題があった。
 これらのゲームでは,当たり金額を2万ウォンずつ数百回に分けて排出する方式にゲーム機を改造していたのである。高額当たり金額をメモリーに保存した後,表ではゲーム機を初期化しているように見せかけて連続的に当たるようにしていたのだ。
 企業がこのような改造をしたのは,高配当の当たりの成り立つゲーム機が市場でよく売れ,ゲーム場を訪問する人たちは,数う百万ウォンが当たるゲーム機を探すからだ。
 これは明白は違法行為だが,ゲーム場業主たちは確率プログラムによってそうなってしまった,という主張をして警察の取締りを避けてきた。検察の本格的な操作が成り立つまで,射幸的ゲーム機の製造企業とゲーム場業主たちは,このような手口で堂々と営業してきた。
 機械の不法改造は,日本も韓国も変わりなかったことがよく分かる。
 

若宮 健 (2010). なぜ韓国は,パチンコを全廃できたのか 祥伝社 pp.28-29

韓国のパチンコ

 日本のパチンコ店は在日の人が多いので,日本では,その関係で韓国で流行らせたと誤解する人が多いが,そうではない。
 反日ムードが今でも多少あるから,玉を弾く日本のパチンコは最初から許可されなかった。日本にいる業者が,韓国へ行って流行らすほどの状況にはなかったのである。
 日本のパチンコ台を改造した「メダルチギ」は,現地の人が考えたものである。もちろん換金は法的には禁止であった。
 だが実際には,日本の三店方式と似たやり方で換金していた。大当たりすれば,台から商品券が出てくる。その商品券を,店の外にある通称「ボックス」と呼ばれる一坪あまりの小屋に持っていくと,現金と引き換えることができた。
 換金所では,10%の手数料を取って商品券を現金に換えていた。
 1枚5000ウォンの商品券を4730ウォンで買い取り,これを同額で娯楽室(ゲーム場)に販売し,ゲーム場ではこの商品券を景品として使用する。まったく日本と似たやり方であった。
 1日5000枚を換金した場合,100万から400万ウォン(約10万から40万円)が手数料として落ちてきたことになる。日本と同じように,換金所は,ゲーム場とは無関係ということになっていた。
 換金所の場所はゲーム場では教えることはなかった。「外の客に聞いてくれ」と言われた。これも日本と同じである。

若宮 健 (2010). なぜ韓国は,パチンコを全廃できたのか 祥伝社 pp.23-24

状況依存の自己表現

 日本人は,人称代名詞を使おうとしても人称代名詞としては使えず,人称代名詞を名詞化する。「私の彼は左利き」の「彼」は人称代名詞ではない。具体的な男友達か恋人である。人称と人称代名詞を比べれば人称のほうが具体的で社会的であり,人称代名詞のほうが抽象的で非社会的である。
 日本語の具体的人称と英語の人称代名詞という人称に関する言語表現は,日本人の言語的自他分離とイギリス人の言語的自他分離が違うということであるが,これは言語表現だけのことなのであろうか。すなわち,言語次元にとどまるものなのであろうか。私は,これは単なる言語現象ではなく,意識次元での自他分離にも関わるものであると考える。
 すなわち,日本人の脳では,具体的にそして社会的に自他の分離がなされるが,イギリス人の脳では,抽象的にそして非社会的に自他の分離がなされるのである。日本人の自他の分離が具体的で社会的であるということは,自他の分離が状況の影響を受けやすいということを意味する。イギリス人の自他の分離が抽象的で非社会的であるということは,自他の分離が状況の影響を受けにくいということを意味する。
 日本人は,「わたくし」「俺」「自分」「手前」「あっし」「あたし」のように,状況依存的に自己を表現する。これは,自己を状況から析出したものとしては意識していないことを意味する。これに対して,イギリス人は“I”と非状況依存的に自己を表現する。これは,自己を状況から析出したものとして意識していることを意味する。
 自他意識は裏表である。したがって,「私」と“I”の違いは,「あなた」と“you”の違いにもなり,さらに,対人意識一般の違いにもなる。日本人の他人とイギリス人の他人は,別ものなのである。

月本 洋 (2008). 日本人の脳に主語はいらない 講談社 pp.208-209

人間関係が表出される

 相手と話をするときに,私のほうがあなたより偉いとか,あなたのほうが私より偉いとか,そういったことをいちいち表明しながら,話をしなければならないのが日本語である。会社で上司に「あなたは……」と言うだけで,多くの上司は不愉快になるであろう。「あなた」と呼ぶ,ただそれだけでも,批判的な感じの発言になってしまうのである。言い換えれば,「あなた」と言うだけで,会社での上下関係の外に出ようとしていることの意思表明みたいになってしまう。日本語は疲れる言語なのである。
 この非常にたくさんある日本語の人称は,外国人にきわめて評判が悪いらしい。そうであろう。こんなに多くの人称をうまく使えるようになるには,よほど勉強しなくてはならないし,それよりも,そもそもなぜ,話をするときにいちいち人間関係を確認しなければならないのであろうか,と思うであろう。
 日本語の人称の多さは,認知的主体と言語的主体が連続していることから説明できる(以下では一人称で説明する)。
 日本人の脳は,認知的主体と言語的主体の連続性が大きいので,認知的主体の状況が言語的主体の表現に反映される。言い換えれば,言語的主体が認知的主体の状況をひきずりながら表現されるのである。だから,各々の状況での人間関係の認知が言語的にも表出されてしまう。たとえば,会社員は,上司の前では「私はあなたの部下である」という認知を持っている。そして,この認知が言語的主体の表現にも姿を現すのである。言い換えれば,部下意識と切り離して言語的主体を表現するのが苦手なのである。

月本 洋 (2008). 日本人の脳に主語はいらない 講談社 pp.206-207

生食は健康ではない

 生食主義者が健康的にすごせないのは明らかだ。例外的に高品質の食物を摂取できる現代の豊かな環境においてのみ,彼らは健康でいられる。動物にそのような制限はない——野生の食物を生で食べて繁栄している。<イヴォ・ダイエット>の問題点からみちびきだされる疑問は正しい。明らかに,私たちはどこかおかしいのだ。ヒトはほかの動物とは違う。ほとんどの状況で,料理された食物を必要としているのだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.39

生で食べる人びと

 “生食主義者”とは,手に入るかぎり100パーセントか,それに近い割合の食物を生で食べる人々を指す。彼らの体重に関する研究は3例しかなく,いずれの場合にも痩せていることがわかっている。そのなかでもっとも大規模な研究は,栄養学者のコリンナ・ケプニックらがドイツのギーセンでおこなったアンケート調査で,食物の70パーセントから100パーセントを生で食べる513人を対象としたものだ。生食の理由は,健康になるため,病気にならないため,長生きするため,自然に生きるためとさまざまだった。生の食物には,料理していない野菜やときどきとる肉だけでなく,冷搾法による油や蜂蜜,熱をわずかに用いたドライフルーツや乾燥肉,乾燥魚などが含まれていた。肥満度を表すのには,体重を身長の2乗で割ったボディマス指数(BMI)が使われた。結果を見ると,生で食べる食物の割合が増えるにつれ,BMIが下がっていった。料理した食物から生の食物に移行したときの平均的な体重の減少は,女性が26.5ポンド(12キロ),男性が21.8ポンド(9.9キロ)。純粋な生食主義者の集団(全体の31パーセント)のうち3分の1が,慢性的なエネルギー欠乏を示す体重だった。栄養学者たちの結論は明白だった——厳密に生の食物だけをとる食事法では,かならずしも充分なエネルギー供給ができない。
 このギーセンの調査で摂取された肉の量は記録されていないが,生食主義者の多くはほとんど肉を食べない。肉の摂取量が少ないことがエネルギー不足につながった可能性はあるだろうか?それはある。しかし,料理したものを食べる人々のあいだでは,ベジタリアンと肉食者に体重の差はない。食材が料理された場合には,ベジタリアンのメニューからでも,肉の多い典型的なアメリカふうのメニューと同等のカロリーをとることができるのだ。顕著な体重減少が見られるのは,生で食べる場合だけである。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.19-20

死への恐怖

 死後への恐怖という想像上の恐怖に打ちひしがれるようになったのは,人間が生まれたときに始まったのだろう。死者の埋葬は,それを示している。だが,それは野生動物にとっては,もっともありえない観念である。
 この将来への不安こそが,資源の浪費につながっていると,私は思う。南アフリカ海岸の遺跡に堆積されたカサガイのサイズを測ると,中期石器時代には成長した貝殻がほとんどなのに,3万年前の後期旧石器時代には未成熟のサイズが小さい貝殻ばかりになっていた。つまり,彼らは成長してしまう前の貝を採集していた。あきらかに過剰利用である(Klein, 1999)。
 この貝殻サイズの変化は,現代人が本質的に過剰消費型でああることを示す。
 なぜか?我らは不測に備えるからである。想像される将来に備えるからである。我らはそこにあるものだけでは,けっして満足しない。
 食物がなくなる季節には,どうするか?子供たちが増えたら,どうするか?動けなくなったら,どうするか?
 将来への不安,想像上の不安が,いつも心に突き刺さっている。それが必要以上の採集,生態系が供給する以上の食物を探しまわり,蓄積する衝動につながっている。生態系の全体を見通した適正な消費に抑えることができず,わずかな利益に狂奔するのも,人間にとって抑えられない衝動である。
 食物だけではない。
 死後への恐怖というありえない幻影におびえ,想像上の敵を作り出して憎悪を強めるのは,人間精神の不合理である。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.257-258

能力がないことへの心配

 アメリカの子どもが間違うのを恐れるのには,もうひとつの強力な理由がある。生まれつき能力がないと思われてしまうのを心配しているのである。心理学者のキャロル・ドゥエックはアメリカの児童を20年間研究し,スティーヴンソンとスティグラーが目にした文化的違いの大きな理由のひとつをはっきりと指摘した。ドゥエックは実験で,一部の生徒については新しい課題を修得しようとした努力を誉めた。別の生徒集団については,頭の良さや成績を誉めることにした。「ジョニー,あなたって算数の天才ね」など,子どもがよくできたときに親が言いそうな言葉をかけたのである。しかしこうした単純なふたつのメッセージは生徒たちに大きな違いを生んだ。アジアでのように,最初は「できない」場合でも努力を誉められた子は次第に成績も上がり,生まれつきの才能を誉められた子より勉強が好きになっていた。また,間違いをしたり不備な部分を指摘されても,よくわかるようになるために役立つ情報といったとらえかたをしていた。一方,生来の才能について誉められた子どもは,実際に学んでいる内容よりも,自分がほかの仲間にどのくらい優秀に見えているかを気にかけるようになっていた。彼らはうまくできないことや失敗することに臆病になり,どんどん自滅的な思考サイクルに入っていった。何かがうまくできないと,続いて起こる不協和(「ぼくは賢いはずなのに,へまをした」)を解消するために,学習や修得中の内容に興味を失っていくのである(「ぼくは,やる気になればできるけど,やる気がないんだ」)。こうした子どもは,間違いをしたり責任をとるのを怖がる大人になっていく。自分に生まれつきの才能が欠けている証拠になるからだ。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.307
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

過ち=愚かさ

 アメリカの文化には,あやまちイコール愚かさという連想があまりに根強いため,必ずしもすべての文化に同じような「あやまち恐怖症」があるわけではないとわかると誰もが驚いてしまう。1970年代,心理学者のハロルド・スティーヴンソンとジェームズ・スティグラーは,アジアとアメリカの児童で算数の成績に差があるのを興味深く思った。5年生になるころには,日本で最下位の成績の子どもたちが,アメリカで最上位だった子どもたちより良い成績をとるようになっていたのだ。理由を知ろうと,ふたりは10年間をかけてアメリカ,中国,日本の小学校の児童を比較した。ヒントがつかめたのは,日本の小学生が黒板に立方体を描く問題で苦心惨憺する姿を見たときだった。その男の子は45分間の授業中,ずっとこの問題に取り組み,間違った図を描いては消し描いては消ししており,見ていると心配でかわいそうになるほどだった。しかし本人はいたって平気で,ふたりの研究者はなぜ自分たちのほうがおろおろしているのだろうと不思議だった。「アメリカの文化はあやまちに対して,心理的に高い代償を支払わせるのです」とスティグラーは当時を思い出す。「しかし日本ではどうもそうではないようでした。この国では,失敗やミス,思い違いはすべて,学習過程の自然な一部とされているのです」(日本の少年は最後には図が描け,クラスじゅうから歓声があがった)。またアメリカの親や教師の児童は,日本や中国よりもはるかに,算数の才能は生まれつきだと考えていることもわかった。対照的にアジアでは,算数の成績がよいのは,ほかの科目での成果と同様に,ひたすら努力した結果だと考えられている。もちろんその途中で間違うこともあるだろうが,そうやって覚え,向上していくのであり,間違いはけっして愚鈍さを意味しない。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.305-306
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

宇宙人に!

 引き金を引くのは恐怖の体験だ。「ある晩,真夜中に目が覚めると,まったく体が動きませんでした」と,スーザンが話を聞いた人物は話し始めた。「怖くなって,何者かが家に入り込んだと思いました。叫びたいのに,まったく声が出ないのです。ほんの一瞬のことでしたが,怖くてもう寝つけなくなるには十分でした」。無理もないことだが,この人物は発生した事実に意味を見つけ,そのほか抱えている問題も解決してくれるような説明を欲しがっている。別の人物は「記憶にある限り,ずっとうつの状態です」と語った。「何かがひどく調子が悪くて,それが何か知りたいのです」。性的な機能不全,体調管理の苦労や,自分を困惑させ悩ませている経験や症状を訴える者もいた。「目が覚めたとき,どうしてパジャマが床に散らばっているのだろうかと不思議でした」「そのころは鼻血がひどかったんです。今は全然です」「背中に丸い傷がいくつもあるなんて,どこでできたのでしょう」
 なぜこうした人々は,こうした症状や心配事の説明として宇宙人による誘拐を選んだのだろうか。「夜中に暑かったからパジャマを脱ぎ捨てたのだろう」とか「太ってきたようだ。少し運動をしなくてはな」「そろそろプロザック[抗うつ剤]を飲むか,カウンセリングでも受ける時期かもしれない」といった,もっと合理的な説明を検討しないのだろうか。睡眠障害やうつ状態,性的機能不全やよくある身体的症状を理由づけられるあらゆる説明がそろっているというのに,なぜよりによって,いちばん無理のある宇宙人による誘拐を選んだのかとクランシーは考えた。現実に体験しない限り誰も信じてくれそうもない出来事を覚えているなどと,なぜ主張できるのだろうか。答は,アメリカの文化にも,「体験者」の欲求や人格にも関わっている。「体験者」というのは,宇宙人に誘拐されたと信じる人々が自称する言いかたである。
 体験者は宇宙人による誘拐について,まず,同じ体験者の話を聞いたりこれに関する話を読んだり聞いたりすることで,自分の症状に対する説明として理屈に合うと信じるようになる。話というのは何度もくりかえされるとすっかりなじんできて,疑っていた気持ちも次第に小さくなるものだ。子どものころに悪魔を見たということを信じてもらおうとするような荒唐無稽な話でさえもである。たしかに宇宙人に誘拐話は,アメリカの大衆文化にも本,映画,トークショーにも,ありとあらゆるところに登場している。そして逆に,この話が体験者たちの欲求にぴったりと合っている。クランシーによって判明したところでは,体験者の大半は伝統的な宗教を与えられて育っているが,途中でこれを捨て,チャネリング(何か高次の存在との特別な能力による交信)や別のヒーリング法に重点を置くニューエイジ思想にのりかえている。彼らは一般の人よりも空想物語や他人からの示唆に影響を受けやすく,情報源の混乱による面倒も起こしやすいし,自分で考えたり直接に体験したことと,テレビで見たり読んだりしたことを混同しやすい傾向もある(シャーマーは,こうした人々とは対照的に,自分が見た宇宙人は60年代のテレビシリーズの産物だと認識している)。おそらく重要な点は,体験者の恐ろしい白昼夢の,感状に訴える激烈さや本人にとっての重要性を,宇宙人ゆう開設ははっきりと形にしてくれたということだろう。彼らにとって,昔からの「睡眠中の金縛り」説は何も心に訴えなかったが,宇宙人誘拐説はまさにリアルに感じられたのだ。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.120-122
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

ハーバードのクラブ

 長年,マスコミに盛んに取り上げられてきたイェール大学の秘密結社「スカル&ボーンズ」と同じように,ハーバードでの「ファイナルクラブ」もやはり,ハーバードのキャンパス内で秘密を守ることはほとんどできていなかった。いずれも男性だけで構成される8つのクラブは,ケンブリッジのあちこちに点在する地区何百年にもなる邸宅を本拠とし,何世代にもわたって世界の指導者や金融界の巨人,パワーブローカー(陰の実力者)たちを多数輩出してきた。また同時に重要なのは,8つのクラブのいずれかの会員である,というだけで即,社会の中で一定以上の身分が保証されることだ。クラブにはそれぞれ個性がある。ルーズベルト一族やロックフェラーもメンバーだった最古のクラブ「ポーセリアン」のように恐ろしく排他的なところもあれば,2人の大統領と億万長者を何人か排出した「フライクラブ」のように開放されたクラブもある。それぞれ個性はあるが,いずれのクラブも大きな影響力を持っていることに違いはない。「フェニックス」は,8つの中で最高級の名誉があるクラブというわけではないが,色々な意味で「社交界の頂点」だった。マウント・オーバーン・ストリート323にある荘厳な建物が,「フェニックス」の本拠である。選ばれし者たちは,毎週金曜と土曜の夜に,そこに向かうのだ。「フェニックス」のメンバーになれれば,1世紀にわたって形成されてきた人脈に加わることができるだけでなく,毎週末,ハーバードのキャンパスでも最高級とされるパーティーに出席できるようになる。そして,そのパーティには,毎回,マサチューセッツ州ケンブリッジ近辺のすべての学校から選び抜かれた,最高にチャーミングな女の子たちが招かれるのだ。

ベン・メズリック 夏目大(訳) (2010). facebook:世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男 青志社 pp.17-18

専門の能力

 あるとき,私は日本の自動車ディーラーを見学した米国のビジネスパーソンから,こんな質問を受けたことがあります。
 「優秀なセールスマンは将来どうなるんだい?」
 私はあまり深く考えずに「将来の店長候補だよ」と答えました。
 すると,彼から「そんなバカな話があるか,セールスパーソンの能力と店長の能力はまったく別のものだろう。なんでマネジメントの経験のない社員を店長にするんだ」と反論されてしまいました。
 確かに自動車を売る能力と,ディーラーを経営する能力は別のものです。エンジニアなら分野がはっきりしていて,エンジンの設計屋が内装のデザイナーになることはありません。
 しかし,日本で「文系」と言われる社員は「総合職」という定義の不明確な分類で一括されているので,能力の分類がはなはだ曖昧。この例の場合は販売と経営という技術が混同されています。

青木高夫 (2009). ずるい!?:なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか ディズカヴァー・トゥエンティワン pp.57-58

プリンシプルが苦手

 日本の企業や政府,個人の態度が,原則探しの得意な欧米人から,ときに「わかりにくい」とされるのは,日本人は是々非々や対症療法的な行動が多く,プリンシプルが見出しにくいことに原因があるようです。
 日本の書店に行って,ビジネス書コーナーをながめてみると「誰々の経営」みたいな事例書はたくさん並んでいますが,「何とか理論」といった原則を述べる理論書が意外と少ないことに気がつきませんか。
 変化の大きい現代では,対症療法的なビジネス書が受け入れられやすいし,事例書の方が読み物としては面白いということもありますが,ひょっとすると,事例から原則を抜き出すという帰納的な考え方は,私たちの苦手な分野なのかもしれません。

青木高夫 (2009). ずるい!?:なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか ディズカヴァー・トゥエンティワン pp.36-37

日本人の美学は

 私たち日本人は,ルールを守ることを行動の美学の1つとして考えるとお話しましたが,ルールを作ることになると,ほとんど意見がありません。あるとすれば,政治家や官僚など,ルールづくりに直接関わる人だけでしょう。
 それは大方の日本人にとって,“ルールは他の誰かが作るもの”であり,立ち居ふるまいの美しさや行動の美学は,“作られたルールの下で最善の努力をすること”にあるからです。

青木高夫 (2009). ずるい!?:なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか ディズカヴァー・トゥエンティワン pp.28

ゲームでは可能だが…

 リアルではできないこと,むずかしいことが,ゲームでは可能になる。確かにそれはゲームの楽しさでありすばらしさでもあるだろう。
 だがゲームに費やした10年という時間で,たとえば子どもを産む,という選択は考えられなかったのか。
 「確かに,主人の親は『子どもはどうした?』みたいなことを口にしてましたよ。それに私自身,27歳で結婚したときは30歳くらいまでに子どもを産もうかなって考えてましたけど…」
 実際は,「それどころじゃない」気持ちになったのだという。ネトゲをはじめ,生活がゲーム中心になってしまうと,子どもなんて冗談じゃない,そんなふうに出産や育児への気持ちが冷めてしまった。さらに,ネトゲにのめり込むほど子育てへの忌避感は募った。

石川結貴 (2010). ネトゲ廃女 リーダーズノート pp.86

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