忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

友人関係と満足度

 このように,個人の意思,技量,嗜好が友人関係の形成に重要な役割を果たす社会では,その個人主義ゆえに,皮肉にも,友人関係への満足度は自己への満足度,ひいては人生全般への満足度とも相関が高くなる可能性がある。この意外な相関関係は,実際ディーナーとディーナーの研究で報告されている。つまり,友人関係への満足度と人生全般の満足度は,個人主義の傾向の強い国であるほど関係が強いという結果である。個人主義の国では友人に満足すれば友人関係を続けるし,満足しなければ友人と見なされないという個人の視点から友人の取捨選択ができる。対人関係の技量のある人は,友人関係にも満足しているし,それが自尊心にも繋がり,人生全般の満足度も高いという結果に繋がっているように思われる。
 日本ではたまたまクラスを一緒にとったからとか,一緒のサークルに在籍していたからというところから友人関係が生まれることが多い。同じサークルに所属していれば,友人に満足しなくても顔をあわせなければならないから,簡単に友人関係から逃げ出せるようなものでもない。つまり,個人主義の国での友人関係と異なり,日本での友人関係では,自分の思いどおりに友人になったり,友人でなくなったりするという自由が利かない。仕方なく付き合っているという関係も多々あるであろう。そこでは,人生全般には満足していても,友人関係にはそれほど満足していないという人も少なからず出てくるはずであり,友人関係への満足度が人生全般への満足度と相関が低くなるのも理解できよう。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 pp.37-38
PR

こんな質問をする政府って

 外国生まれの配偶者や家族をアメリカの合法的な市民として登録するのがいかに大変なことか,ここでくどくどと述べるつもりはない。スペースもないし,いずれにしても,ひどく退屈な話になるからだ。おまけに涙,涙なくしては語れず,さらにはそのほとんどをでっちあげていると思われるのが関の山だ。
 こんな話をしたら,きっと失笑を買うに違いないが,我が家の知人で非常に学識高いイギリス人の学者が,娘がこう質問されるのを聞いて思わず口をあんぐりさせてしまったそうだ。「違法なギャンブルなどの,非合法の商取引に関わったことはありますか?」「今まで共産党や全体主義の団体の一員であったり,どんな形であれその活動に関わったりしたことはありますか?」私が一番気に入っているのは,「アメリカで一夫多妻性を実践するつもりはありますか?」だ。言っておかなければならないが,知人の娘は5歳である。
 そう,もう私は涙にかきくれている。
 たとえ相手が5歳の幼女でなくとも,そんな質問をする政府はどこか深刻に間違っている。


ビル・ブライソン 高橋佳奈子(訳) (2002). ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー 朝日新聞社 Pp.251

アメリカの移民政策

 人間の行いとして,全体的な問題の責任をごく少数の人間に負わせようとするほど,問題を馬鹿馬鹿しく単純化したり,間違った方向へ導くものはなく,その思慮の足りなさが害をもたらす可能性も高い。にもかかわらず最近は,こと移民に関する限り,それが当然のこととしてまかり通っているのである。2年前,カリフォルニアでは,圧倒的多数で議案187が可決された。違法な移民に対する医療と教育の提供を拒否するという法案である。議案が可決されるや,州知事のピーター・ウィルソンは州の保険局に,合法的居住が証明できない妊娠女性に関しては診療を行なわないようにという通達を出した。私が間違っていたら,是非言っていただきたいが,親の行いのせいで,出生前の赤ん坊の命を危険にさらすというのは,少々残酷----野蛮と言ってもいいかもしれない----ではないだろうか?
 同じくらい驚いたことに,最近政府は合法的な移民からも基本的な権利や資格を剥奪しようとし始めた。つまり,移民に対してこう言っているというわけだ。「長年我が国の経済のために尽力してくれてありがとう。しかし,このところ,ちょっといろいろとうまく行かなくてあんたたちを援助できなくなった。それになんといっても,あんたたちは発音が変だしね」


ビル・ブライソン 高橋佳奈子(訳) (2002). ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー 朝日新聞社 Pp.145-146

危険の確率

 同じように統計的に筋が通らないのが銃の問題だ。アメリカ人の40パーセントが自宅に銃を保有しているという。たいていはベッド・サイドの引き出しに。その銃が犯罪者に向けて発砲される確率は,子供がいたずらでというのがほとんどだが,少なくともその20倍に達する。それでも,1億人以上の人々がそんな事実を断固として無視しているのである。そのことについてとやかく言い過ぎると,たまにその銃をこちらへ向けられる危険もあるほどだ。
 しかし,人々の危険に対する非倫理性が何より明確にわかるのは,近年活発な議論を呼んでいる問題,間接喫煙である。4年前,環境保護局は35歳以上で煙草を吸わない人でも,常時他人の喫煙にさらされていれば,1年以内に肺癌にかかる可能性が3万分の1あるという報告書を発表した。それに対して人々は,まるで感電したかのように素早く反応した。全国的に,職場やレストラン,ショッピング・モール,その他の公共施設での喫煙が禁止されることになったのである。
 ここで見落とされているのは,間接喫煙の危険性はじっさいにはきわめて小さいということだ。3万分の1の確率というのはかなり深刻に聞こえるが,じつはそれほどでもないのである。週に1度ポーク・チョップを食べ続ける方が,日々喫煙者に囲まれて過ごすよりも統計的にはよっぽど癌になる確率が高い。7日に1回人参を食べるとか,1ヵ月に2度オレンジ・ジュースを飲むとか,2年に1度レタスを丸ごと1個食べるというのもそうだ。間接喫煙よりも,ペットにインコを飼っている方が,肺癌にかかる確率は5倍も高い。


ビル・ブライソン 高橋佳奈子(訳) (2002). ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー 朝日新聞社 Pp.119-120

アメリカの馴れ馴れしさ

 アメリカ人があまりにざっくばらんで馴れ馴れしいことに,たまに苛立つことはある。たとえば今でも,ウェイターに「今晩,このテーブルを担当するボブです」と名乗られると,こう言ってやりたくなる衝動と闘わなければならない。「私はチーズバーガーが食べたいだけでね,ボブ。別に友だちになってくれなくて結構だ」しかし,たいていの場合,それにも慣れて悪くないと思うようになった。なぜならば,それはたぶんもっと根本的な何かを象徴しているからだ。
 そう,そこにあるのはへつらいではない。ただ,人間に優劣はないという思想が真に社会全体に行きわたっているのである。何ともすばらしいことではないか。ゴミの収集人も私のことをビルと呼べば,医者も私をビルと呼ぶ。子どもたちの学校の校長も私をビルと呼ぶ。べつに向こうも私もへつらっているわけではない。そう呼ぶものだから呼んでいるだけなのだ。
 イギリスでは10年以上にわたって同じ会計士に仕事を依頼していた。その会計士とは親しくはあったが,あくまで事務的な関係だった。会計士は私をブライソンさんとしか呼んだことはなく,私のほうも彼女をクレスウィックさんという以外の呼び方で呼んだことはなかった。アメリカに戻ってきて,私は電話で会計士と会う手はずを整えた。そして,そのオフィスを訪ねたときに会計士が発した第一声は,「ああ,ビル,いらっしゃい」だった。我々はすでに友人同士というわけだ。今では会計士を訪ねると,彼の子どもたちのことを訊くようになっている。


ビル・ブライソン 高橋佳奈子(訳) (2002). ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー 朝日新聞社 Pp.103-104

エリク・エリクソンは212人

 何年か前,ストックホルムを訪ねた際,何もすることがない晩があって(すでに午後8時を過ぎており,地元の人はみなずっと前に床に就いていた),寝る前の数時間,その地域の電話帳をめくり,そこに記された名前を拾い上げて過ごしたことがあった。以前,スウェーデンにはほんの一握りの姓しかないと聞いたことがあったが,大雑把に言えばその通りだった。数えたところ,エリクソン,ウヴェンソン,ニルソン,ラルッソンという姓をもつ人々はそれぞれ二千人以上もいた。それ以外はほとんどがヨハンソンやヨハンセンやそれに似た姓で占められていた。じっさい,名前の種類も非常に少なく(それとも,スウェーデン人が滑稽なほどぼんやりしているのか),姓と名に同じ名前を使っている人も多かった。ストックホルムにはエリク・エリクソンが212人,スヴェン・スヴェンソンが117人,ニルス・ニルソンが126人,ラルス・ラルッソンが259人いた。私はそのとき紙に書きとめたこれらの数字を,いつかどうにか使えないものかとずっと思ってきたのだった。


ビル・ブライソン 高橋佳奈子(訳) (2002). ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー 朝日新聞社 p.101

結果論

 ピカソやストラヴィンスキーが巨匠として知られているのは,本人たちが成功したからである。われわれが調査したエキセントリックな芸術家たちは,大半がまだ批評家や一般大衆に認められておらず,したがってたんに頭がおかしいと思われている。しかし,ピカソとストラヴィンスキーが独自の斬新なスタイルを開拓したときには,かれらもやはり非難されたのである。ひとりよがりのとっぴな過激派だ,と。これらもやはり,奇人を表現するのによく使われる言葉だ。

デイヴィッド・ウィークス,ジェイミー・ジェイムズ 忠平美幸(訳) (1998). 変わった人たちの気になる日常 草思社 p.69

法律で禁じられていたこと

 同時代の信頼できる観察結果が1つも手に入らない場合,一般人の許容しうる行為が歴史を通じてどれほど大きく変化してきたかについては,法的な決まりごとに着目することで手がかりをつかむことができる。法律の目的とはつねに,ふつうの人びとから期待される物事の最低限度をはっきり決めることである。たとえば,ヴァイキング時代のアイスランドでは,四行を超える詩を唯一の例外として,他人に関する韻文を——たとえ相手をほめたたえるものであっても——書くことが罪悪だった。14世紀イギリスの農民は,犬を飼うことや息子を学校に通わせることが法律で禁じられていた。また,以下に列挙する事柄は,イギリスで,それぞれ異なる時代に罪とされた。書物を出版すること,血液が体内を循環しているという考えを公言すること,黄金を自宅に保持すること,市場に行く途中で金儲けのための品物を買うこと。そして,17世紀のマサチューセッツでは,ある悪名高い時代における行動規範が集団ヒステリーだった。そして穏健と人情を堂々と表に出している人はみな,一般社会の規範に背いているとされた。

デイヴィッド・ウィークス,ジェイミー・ジェイムズ 忠平美幸(訳) (1998). 変わった人たちの気になる日常 草思社 p.45.

(引用者注:1692年,マサチューセッツ州セイラム村で一連の魔女裁判が繰り広げられ,200名近くの村人が魔女として告発された。そのことを指していると思われる。)

それぞれのタブーがある

 もちろん異国の風景の中では,ちょっとした差異が必要以上に大きくわれわれの五感に訴えかけてくる。日本人がドイツの商店街を歩いていると,駅前のきれいな商店街の一角に普通の衣料品や食料品の店と軒を並べて,全国展開する大きなポルノショップが店を開いているのに驚くことがある。そのことをドイツの友人に言うと「でも,きちんとした身なりのサラリーマンが通勤電車の中で白昼堂々とポルノ漫画やヌード写真が載ったスポーツ新聞を読んでいる光景の方が,自分たちにはよほどショックだ」と逆に言われた。それぞれの文化にはそれぞれのタブーがあり,ある面だけとりあげて「ドイツ人はセックスにおおらかだ」,「日本人はセックスのことしか頭にない」などという評価をすることはできない。そのことがわかってくれば,わずかな経験から,すぐさまステレオタイプ化された予見的判断をくだすことはなくなるだろう。必ずしも厳密な検証を経なくとも,われわれはみずからの多様性の感覚,偶然性の受容能力を高めることによって帰納的推理の効率化バイアスを緩和し,より正確な認識に近づくことができる。ただしそのさいの重要な前提は,すでに述べたように主体が不安から解放されていることだ。

鈴木 直 (2007). 輸入学問の功罪----この翻訳わかりますか? 筑摩書房 p.212

14世紀のロンドン橋の様子

 14世紀の記録によると,橋門の東側に10軒,西側に10軒,橋門とはね橋の間に7軒,礼拝堂とはね橋の間に17軒,その西側に20軒,礼拝堂の北の東側に35軒,同じく西側に32軒の商店が並んでいた。
 300メートル足らずの橋の両側に,実に131軒の店が建っていたのである。この戸数は,当時としてはゆうにひとつの町を構成する数である。橋上の商店街はロンドンの市民にとって,大きな驚きであるばかりでなく,新しい生活圏の誕生を意味した。現代の人間が,海上都市の未来図を描くようであったかもしれない。
 この131軒の戸数に対して,かりに一軒あたり5,6人の家族数を加えると,橋上で生活していた人々は600から700人となる。中世ロンドンにおける小教区教会の人数は約5,600人と推定されるため,やはり,ひとつの教会を維持するのに十分な数である。131軒という戸数は,橋の大きさから割り出されたにちがいないが,教会維持の経済的な面からの考慮もなされていたのではないだろうか。

出口保夫 (1992). ロンドン橋物語 聖なる橋の二千年 東京書籍 p.64

米国って・・・

 たとえば米国では,ほとんどすべての人間が宗教的原理主義者かニューエージ神秘主義者,あるいはその両方ではないかとさえ時には思えてくる。そうでない人々でさえ,まず,あえてそのことを認めようとはしないだろう。たとえば,世論調査は,米国の全人口の98%が神を信じ,70%が死後の生命を信じ,50%が人間の念力を信じ,30%が自分の人生が星座によって直接に影響を受けていると信じ(そして70%が,万一に備えて星占いに従い),20%がエイリアンに誘拐される危険があると信じていることを裏づけている。
 問題は----子供の教育にとっての問題という意味で----,単に,それほど多くの人間が現代的な世界観と真っ向から矛盾するような事柄を積極的に信じているというだけでなく,それほど多くの人間が科学的な世界観の絶対的な核心であるような事柄を信じていないことにある。昨年[1996年]発表されたある調査は,アメリカ人の半分が,たとえば,地球が1年をかけて太陽のまわりを回っていることを知らないことを示していた。分子が何であるかを知っているのは10分の1以下であった。半数以上の人間が,人類が動物の祖先から進化したことを受け入れず,進化が----かりにそれがあったとして----何らかの外部的な介入なしに起こりえたと信じる人間は10分の1以下である。人々は科学の成果を実際に知らないだけでなく,科学がどういうものであるかさえ知らないのだ。どういうものを科学的方法として認めるかと質問されたとき,わずか2%だけが,それには理論を検証にかけることが含まれることを認めた。34%はそれが実験と測定にかかわるものであることを漠然と知っていたが,66%は見当さえもっていなかった。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.337-338

目標は広くとれ

 ところが現代でしばしば,これとはまったく逆のことがいわれる。ただ1つのことにとことん執着するのが,最前の道だという考え方が,多く見受けられるのだ。
 たとえば「東大に受かること」をただ1つで最高の正解だと思う親が多かったり,「ただ1人の運命の人との出会い」を信じている人も多いし,「自分に合った天職がどこかにある」と思いこんでいる人も,多いような気がする。
 しかし,あらかじめ決定された「正解」がある,という考え方は間違っている。そのような思い込みは「直感力」を鈍らせるだけだ。世界も自分自身も,日々,変化しつづけている。もちろん変わらないものもあるが,変わるものもある。そういったことを前提に,日々,人生の生活を積み重ね,非言語的メッセージに耳を澄まし,現場で直接感じる(直感する)ことが,正解へたどり着く,着実な方法なのだ。



佐々木正悟 (2007). 脳は直感している 直感力を鍛える7つの方法 祥伝社 p.145


目的と歴史的偶然

ものによっては,本来の機能を失い,新しい機能を持つ場合もある。旧式の火のしが,服にアイロンがけをするためではなく,ブックエンドやドアストッパーにするために買われたり,素敵なジャムの瓶がペン立てになったり,ロブスター捕獲器がプランターに再利用されたりするように。この事実は,今日の競争において,火のしはアイロンがけよりもブックエンドにふさわしいことを示している。そして,メインフレームコンピュータのDEC-10は,今日では,大型船舶係留用の便利で丈夫なアンカーになる。すべて人工品はそうした転用を免れない。<本来の>目的が現在の形状からどんなにはっきり読みとれても,新しい目的が本来の目的と結びつくのは,ただの歴史的偶然によってでしかない。旧式のメインフレームの所有者がアンカーをひどく欲しがっていたところ,それがたまたま都合よく利用に供されたといった具合に,である。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.312

ユートピア人と快楽

したがって夥しい数のすべてのかような快楽を,たとえ一般の人々は依然として快楽と考えているとはいえ,ユートピア人だけは真正な快楽とはなんら関係ないものとしてこれを断乎として排撃する。そこにはなんrの自然な快さというものが見出しえないからである。勿論これらのいわゆる快楽がわれわれの感覚にある快感(これが快楽の本当の作用だと考えられるわけであるが)を与えるのは事実である。しかし,だからといってユートピア人の考えが少しでも変ると思ったら大間違いである。本来苦いもの,酸っぱいものを甘いものと感ずる場合,その原因はどこにあるかといえば,それは決してその物の性質にあるのではなく,むしろ異常で途方もないこちらの味わい方にある。ちょうど妊娠中の婦人が,味覚をすっかり害したあげく,瀝青(ピッチ)や獣脂を蜂蜜以上に甘いと考えるのと同じである。それはともかく,病気のせいにしろ,習慣のせいにしろ,こちらの判断力が鈍り変質したからといって,直ちに当の快楽の本質そのものまで変えてしまうということはできないのである。これは他の種々な事物の本質についてもいえることだ。


トマス・モア 平井正穂(訳) (1957). ユートピア 岩波書店 p.118-119


枠組みの効果

 「日本は集団主義で,西洋は個人主義」という枠組みがいったんできあがってしまうと,私たちは日本を見るときは集団主義の実例を,西洋を見るときは個人主義のケースに目が行きがちだ,という傾向があることが問題なのである。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.224


素人談義ばかり

 物理学者がノーベル賞をもらったとたんに,日本人論の重要発言者になったり,数学の専門家が権威ある賞を受けただけというだけで日本社会研究の専門家のような顔をして論陣を張るという場合もある。これらの人たちの発言は,それなりに興味深い面もあるが,その内容は日本社会の分析に関する限り,彼らの学問的業績とは直接関係がない。日本社会についての素人談義が大研究の成果のように飾り立てられてまかり通ることができるのは,日本人論があまりにもその方法論的な裏づけについて無頓着であったことと無関係ではないだろう。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.167

思いつきの上に思いつきを重ねる

 日本人論のほとんどが思いつきの連続で,確固とした学問的蓄積の上に組み立てられたものでないという実情の背景には,いろいろな要素がからまっている。日本の大学では,社会科学の方法論・方法・論理といった分野での訓練がほとんどなされない。外国の日本研究の学生たちの多くは,地域研究プログラムの中で勉強するため,日本語の勉強と日本についてのバラバラな事実を詰め込むだけに終わっている。このため,日本でも外国でも,ある権威者が日本についての一般抽象命題を提出すると,その命題を科学的な方法によってテストしてみようとするよりは,すぐに信用してしまうという傾向があらわれる。思いつきの上に思いつきを重ねて展開される日本人論をチェックする学問的勢力が,日本国内にも海外にも十分に育っていないのである。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.133


日本をどこと比べるか

 日本社会をどの社会と比べるかによって,「日本的」なものの定義が変わるかもしれない。パプア・ニューギニア,ポーランド,アルゼンチン,北朝鮮などの人々と比較すると,日本人の特徴というものは,北米や西欧の人々と比べたときとは違ったものになるだろう。欧米以外の視点から観察すると,日本社会のどういう特徴が際立っていえるか。この問題の解答の中にも従来の日本人論を修正する素材が,山のようにある。
 韓国の李御寧の報告によると,韓国語には「甘え」に該当する語句が日本よりずっと豊富にある。「甘え」よりももっと細分化された「オリグヮン」と「オンソク」という2つの言葉があり,それにいろいろな言葉がくっついて活用自在,日本語よりもずっと複雑多様なニュアンスを持っている,という。
 また,韓国語では「大丈夫」という言葉は男という意味しかなく,何かに対処する条件が十分だという意味では使わない。「裸一貫」という言葉も,日本語にあって韓国語にはない。つまり,韓国語には依存心を強調する語が多く,日本語には独立心を表示する言葉が多い。言語が文化を反映するという,日本人論者の多くが主張している前提を使えば,日本人は自我の発達が不完全だというのは当たっていないのではないか,というのである。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.148-149

「日本人は特殊」という自己陶酔

 事実,「日本人の心」「大和魂」「大和心」「日本古来のしきたり」「日本的ツキアイ」……などは日本にのみ特有なもので,日本人だけが理解できる,という言説は,鎖国時代からめんめんとして強調されてきた。戦前には,それが「皇国史観」や「国体の護持」などのはっきりした政治思想の形をとって,国家の支持を受けた。戦後の日本人論,とくに1970年代にベスト・セラーとして登場した日本人論は,議論の具体的な内容は異なっていても,純粋に「日本的」なものがあり,その構成因子は他の社会に不在だ,とする点で容器は同じ形をしている。しかも,日本社会の中の不合理な側面を美化し,自己陶酔を奨励する,という点で,この型の日本人論は一種のナルシシズム的な傾向を帯びる。


杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.79

優越感と劣等感の揺れ動き

 日本人とは何か,という問題は,日本の知識人のお気に入りの主題として,長く日本の言論界の中心テーマとなってきた。古くは徳川時代の本居宣長以来の国学の伝統があり,明治にはいっては,福沢諭吉の『西洋事情』以来の啓蒙主義の流れもある。日本人論の流行の背景には,日本社会が1世紀以上にわたって欧米産業国とわたりあってきた事実があり,日本の知識人の西洋社会に対する劣等感や優越感が横たわっている。戦後の30年あまりも,その例外ではなかった。
 第1章で述べたように,野村総研の調べによると,戦後700点にのぼる日本人論が出版されている。そのすべてを分析することは時間が許さないが,日本人論が描く日本の自画像は,劣等感に影響されている時代と優越感に影響されている時代とがあり,この2つの間を時計のフリコのように揺れ動いてきたとはいえるだろう。このフリコの位置は,日本が国際情勢の中で占めてきた位置と関係している。


杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.65

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]