忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

お手軽セット

 エッセィというのは,小説に比べれば抽象的である。物語というものが非常に具体的だからだ。他者にとって価値があるだろうことをエッセィでずばり書くのは,もの凄く難しいけれど,プロのもの書きであれば,それを生み出すことが仕事であるから,考えに考え,言葉を選んで書き記すよう努力している。責任は伴うし,誤解される危険もあるから,大いに気を遣い,知恵を駆使して,エッセィの中に大事な一文を置く。これに対して,小説は具体的なので,ずばり価値のある一文でも,べつにどうだって書ける。言ったのは仮想のキャラクタであるから,責任は作者にはない。一般的に通用するかどうかも関係がない。非常に気楽になんでもすらすら書ける。
 ところが,読み手にしてみれば,そうではない。小説の登場人物が口にした言葉には「重み」があると感じるようだ。それは,そのシーン,その人生,その物語という具体的な環境の上に成り立っている「重み」なのだろう。しかし,逆にいえば,それはそれだけの「お膳立て」されたシステムの中にある「お手軽セット」なのだ。小説は感動させるシステムを売り物にしているわけだから,それほど考えなくても,その言葉が読み手の心にすっと入ってくるだろう。そうやって,「楽しさ」が味わえるようにできている。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.69-70
PR

短時間で楽しみたい

 小説を例にしてみよう。この頃は,読みやすいことが絶対条件になりつつある。すらすらと抵抗なく読み進められる文章を多くの読者が求めている。ネットのブログに散見されるのは,読みたくて買ったけれど読む時間がないから,どんどん未読の本が増えてしまう,という悩みである(正直なところ,たぶん悩んでいるのではない。プラモデルマニアが,作らないキットを蓄えるのと同じ心理だろう)。「これ,凄く読みやすいから」と人に薦める場合も多い。「読みやすさ」が,小説の評価のポイントの1つになっていることは確かだろう。だが,考えてみたら変な話ではないか。読みやすいことが,何故良いことなのだろうか?
 読みやすい文章もあれば,読みにくい文章もある。書き手と読み手の相性もあるし,絶対的に難解な文章を書く人もいる。しかし,それはそういう個性なのだ。読むのに時間がかかる,ということは悪いことではない(良いことでもないが)。
 できるだけ短時間で楽しみたい,という欲求は,もし楽しめなかったときに,時間的な損失を最小限にしたい,という気持ちから生じるものかもしれない。だから,最初は短時間で体験できるものを選ぶ。これが,楽なものを選ぶ動機の1つといえる。
 しかし,お気づきだと思うが,重要な点を忘れている。それは,時間をかけなければわからない「楽しさ」というものがある,ということ。もっといえば,時間をかけることでしか,本当の楽しみは味わえないのだ。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.60-61

本質は公正と正義

 アメリカの企業では,従業員の給与は資格や職能によって決まります。しかしこれは,一般に思われているように「市場原理主義」的な効率性から生まれた制度ではありません。従業員を年齢や性別,人種で差別してはならないのですから,あとは各自の「能力」で給与に差をつけるしかありません。奴隷制以来の長くはげしい反差別闘争の洗礼を経て,アメリカではこれが唯一,「正義」にかなう雇用制度だとされたのです(だから米国企業は,どの国の社員も同じ人事制度で扱うことができます)。
 日本では完全に誤解されていますが,アメリカの雇用制度は「効率」を基準につくられているのではなく,その本質は「公正」と「正義」にあるのです。

橘 玲 (2011). 大震災の後で人生について語るということ 講談社 pp.150

嫌悪の文化差

 嫌悪はおもしろい。なぜなら,人間の排泄物や腐敗した遺体といった特定のものに対しては,誰もが嘔吐反応を示すからだ。ここにも学習が入り込む余地がある。他人が気持ち悪いと言うと,気持が悪いように思えてくる物や行動があるのだ。食物の好みや個人の衛生意識,性行為が文化によって多様であるのがその証拠である。欧米の基準では口に合わないはずの昆虫やは虫類がアジアの料理に食材として使われているのは有名な話だ。それほどには知られていないが,コピ・ルアクという飲料がある。インドネシア産の希少なグルメ・コーヒーだが,その原料となるのが,東南アジア全土に分布し,樹上生活を送っている暗褐色のネコ科の動物,ジャコウネコの消化管を未消化で通り抜けたコーヒー豆なのである。コピ・ルアクの最大の輸出先は日本で,500グラムあたり最高600ドルほどで販売されており,世界で最も高価な“ウンチ・コーヒー”となっている。痰の例をとってみようか。他人のねっとりした黄色い粘液ほど気持ち悪いものは,そうはない。2008年北京オリンピックの準備が進む中,北京市当局は,公衆の面前で痰を吐いたり手鼻をかんだりという,中国では当たり前になっているが欧米人にとっては吐き気を催す習慣を禁止しようとした。皮肉なことに,ハンカチで鼻をかんで,汚れたハンカチをそのままポケットに突っ込むという欧米人の習慣を目にすると,多くの日本人はおえっとなるらしい。鼻汁を持ち歩くなど気色悪いと考えるのだ。欧米人にしても,鼻汁以外の排泄物をポケットに入れっぱなしにするとなれば,同じように思うことだろう。動物との性行為について考えてみてもよい。たいていの人はそうだろうが,私も,コロンビア北部の町,サン・アンテロではロバとの性交が容認されていると知るまでは,獣姦は世界共通のタブーだと思っていた。この町では,思春期の少年たちにこの習慣を推奨している。それどころか,獣姦を祝う祭りまであって,とりわけ魅力的なロバはカツラをつけられ,メークまでされて,町を練り歩くのだ(私としては,最後に挙げたこの例については,手の込んだデマであってくれればといまだに思っている)。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.67-68
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

システムの問題

 仮にセ・リーグの先発投手が全試合6回2失点を続けたとしましょう。そうすれば防御率は3.00。6回3失点なら4.50です。
 一方で,セ・リーグなら代えられてしまう6回2,3失点でも,DHのない(引用者注:「ある」の誤植?)パ・リーグは打順の巡り合わせに悩むことなく投手を可能な限り投げさせることができます。そうすると残り2回をきちんと抑え,8回2失点を続けた場合防御率は2.25,3失点を続けた場合3.38となると,約1点の防御率の開きが出てきてしまうのです。
 北海道日本ハムファイターズのダルビッシュ有や埼玉西武ライオンズの涌井秀章などは4点取られても完投してしまうゲームがざらにあります。こうしたシステムによってパ・リーグの先発投手には「完投して当然」とまではいかなくても,6回でKOという感覚で投げている投手は少ないでしょう。ですから,その数字上のデータだけを見てパ・リーグの投手の方が優れている,という指摘は,ちょっと違うのではないかと思います。ただ,こういった環境にいるため,パ・リーグの方が体もメンタルも強い選手が生まれているということはあるかもしれません。

今中慎二 (2010). 中日ドラゴンズ論:“不気味”さに隠された勝利の方程式 KKベストセラーズ pp.144-145

審判の体調まで

 2010年4月27日の巨人戦でのこと。2回裏のドラゴンズの攻撃が始まる直前,落合監督は球審の森健次郎さんのところへ歩み寄り何かを告げると,森さんはグラウンドを後にしました。実は極度の体調不良だったのです。これにいち早く気づいた落合監督は,「ヘタしたらゲーム中に倒れていた。そうなればゲームが中止になっていたかもしれない。それを見てあげるのも俺らの仕事じゃないのか」と試合後に話していましたが,これにはさすがに驚きました。審判の動きまでチェックしている監督など聞いたことがありません。きっと,試合前からその異変に気づいていたのだと思いますが……。とにかく普通の人ならば気がつかないようなところをチェックし,常に広い視野で目を光らせているというのは間違いありません。落合博満という監督を表すひとつの好例といえるでしょう。

今中慎二 (2010). 中日ドラゴンズ論:“不気味”さに隠された勝利の方程式 KKベストセラーズ pp.101-102

スロースターター

 このように私の現役時代はもとより,ドラゴンズの選手たち,特にベテランになればなるほどコンディションづくりに関して,開幕=ピークとは考えていないのです。選手個人によって調子がピークになる時期はそれぞれですが,ドラゴンズの場合,チーム内で見ても総じてスロースターターの選手が多いですよね。特に野手に関しては,春先はパッとしない成績だったが,気がつけば最低限の数字を残している選手が少なくありません

今中慎二 (2010). 中日ドラゴンズ論:“不気味”さに隠された勝利の方程式 KKベストセラーズ pp.25

殺人犯のでっち上げ

 インターネットの中で殺人犯を作り上げるのは簡単だ。
 匿名の書き込みだけで,証拠もなければ証人も姿を見せなくていい。
 中傷コメントを書き込む人間が必要とするのは,デマを流す者と,一緒に中傷する仲間。そして,中傷の対象が男性なら強姦の共犯者,女性なら殺人犯の恋人に仕立てあげる。殺人事件に取り憑かれ,百人衆の情報を狂信した連中は,対象が女性であっても容赦しない。
 ネットの中で犯人の一味に仕立てあげて欲を満たす。そこに一部の下衆なマスコミがくいついて私服を肥やす。どっちもどっちだ。

スマイリーキクチ (2011). 突然,僕は殺人犯にされた:ネット中傷被害を受けた10年間 竹書房 pp.138

笑わせるのは難しい

 しかし,実はそうではないのです。泣かせる人情話よりも,笑わせる滑稽噺のほうが遥かに難しい。よくできた人情話は物語としての泣かせどころがしっかり作られていますから,それなりに仕上がるのです。それに対して笑わせるのは簡単ではありません。笑わせることができないと落語家としての全体的な評価も下がると思います。

柳家花緑 (2008). 落語家はなぜ噺を忘れないのか 角川SSコミュニケーションズ pp.104

完成への段階

 とはいえ,ギャグをふんだんに入れてウケればいいわけではない。これが落語の難しくもあり,奥深いところです。いくらギャグで笑いをとっても,本来の噺のテーマがお客さんに伝わらなければ意味がありません。そこでもう一度,噺を再構築することになります。つまり,落語とはこうした段階を踏んでいく芸なのです。

柳家花緑 (2008). 落語家はなぜ噺を忘れないのか 角川SSコミュニケーションズ pp.79

了見と腕次第

 こうしてみると,落語の面白さとは何かも見えてきます。
 落語はただ物語を話せばいいわけではない。意味もなく客席を笑わせさえすればいいのでもない。話の本筋をちゃんと見つめ,どうすれば登場人物の魅力を引き出せるか,お客さんに伝えることができるかを考えて演じきる。それがあってこそ,見ている人は噺に入り込み,共感し,感情を揺さぶられる。そして,面白いと感じてくれる。
 噺を生かすも殺すも,落語家の了見と腕次第なのです。

柳家花緑 (2008). 落語家はなぜ噺を忘れないのか 角川SSコミュニケーションズ pp.73

「リアル」よりも「らしさ」

 リアリティを追求すると何が起きるか?一例として,こんな話があります。
 ある落語家が,『船徳』を高座にかけたんです。噺の最後のほうに船に乗ってた男が川の中をジャブジャブと歩く場面があるのですが,彼は「川底にあったガラスで足を切っちゃった」って演出を入れたんですよ。実際に昔はそうしたことがよくあったからってことで。確かにそれはリアルかもしれないけれど,聞いているお客さんは不快でしょう。足を切って,血を流しながら「アイタタタタッ」なんてシーンは誰だって想像したくない。
 だから私は,「リアリティ」よりも「らしさ」のほうが大事じゃないかと思うのです。いかにも川に入ったらしい様子や,麩を開けたらしい仕草,子どもらしい動き……。すべてが現実に即していなくても,「なんとなく,それらしい」というニュアンスのほうが,聞く側にも共通認識が生まれるのではないかと。また,想像の余地も与えるはずです。同じ酒を飲む行為だって,人により違いはあるでしょう。それを「酒を飲むってのは,こういうこと。これがリアル」と言われたところで,万人に通じるとは限りません。

柳家花緑 (2008). 落語家はなぜ噺を忘れないのか 角川SSコミュニケーションズ pp.65-66

ゴールはない

 とはいえ,この24本を「得意ネタ」や「十八番」と言うつもりはありません。それは落語家自身ではなく,お客さんが判断することだからです。お客さんに「この噺は花緑の十八番だね」と言われれば,素直にありがとうございますと答えはします。しかし,自ら得意ネタなどと考えてしまえば,そこで成長は止まってしまう。落語にはゴールなどないのです。より芸を深めるためには,まだまだこのネタは発展途上だと思うくらいでいいのです。

柳家花緑 (2008). 落語家はなぜ噺を忘れないのか 角川SSコミュニケーションズ pp.15

知らなかった事実

 とはいえ,スティーブ・ジョブズは,日本の電子書籍市場がエロ系コンテンツだらけなどとは,夢にも思わなかっただろう。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.116

積み木遊び

 勝は,ふと思いついた芝居を自らの手で脚本に書き起こすこともあった。それは達筆で書かれ,プロの人間も驚くほどに,しっかりとした脚本の形になっていた。だが,それを自分で読みながら,すぐに飽きてしまうのだった。そうしてボツになった直筆の脚本も数多いという。兄との積み木遊びよろしく,勝は目の前に積まれたものを壊さないと落ち着かない。それは自分自身が積み上げたものも例外ではなかった。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.177

効果音

 さらに重要な役割を果たしたのが録音だ。「わずかな音で座頭市に何かを気づかせる。その音作りには苦労しました」と振り返るのは,録音技師の林土太郎。盲目の座頭市は聴覚を頼りに相手との距離感を測り,その上で動く。そのため,そうした音の世界を,「座頭市に聞こえるまま」に自然に観客に伝えなければ,座頭市というキャラクターからリアリティは失われてしまう。大きな音を聞かせては座頭市の感覚の鋭さが観客には伝わらないし,小さくすると観客からは聞きにくい。
 「何に凝ったか分からんほど,何から何まで凝りましたよ。脚本を読んだ時に,自分が座頭市になった気持ちになって,この音なら大丈夫,この音はアカンと思いながらやりました」
 そして林は足音だけで登場人物が分かるような音作りを心がける。足音を聞いて「こいつらは誰だ」「こいつは怪しい」ということを座頭市,ひいては観客に直感させるためだった。そこで林は,「一度使った音は二度と使わない」という原則で臨んだ。一度使った音しかない場合でも,再生の回転スピードを変えたり逆回転にするなどの工夫をして,できるだけ新しい音を作っていく。車のブレーキ音を逆回転にして座頭市が驚くシーンの効果音にしたこともあった。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.77-78

目を閉じた芝居

 座頭市の芝居をする時,勝は当然のことながら目を閉じている。そのため,自分の立ち位置やカメラポジションを確認するのが困難だった。時に,「歩いてきて立ち止まり芝居をする」のが難しい。どこで立ち止まればいいのか。その位置を間違えると画面が台無しになる。そこで中岡は,市が芝居をする場所にライトを集中させることで,勝がその光の温度を感じてキチッと止まることができるようにした。また,カメラを移動させながら撮影する場合には勝がどこでも芝居できるように,カメラがどこを向いてもよいようなライティングを心がけてきたという。そして,勝も,光の温度の違いを肌で感じとって舞台空間やカメラ位置を完璧に把握,寸分の狂いのない芝居をやってのけた。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.77

一生懸命考えた結果

 こんな感想を持たれる方もいるだろう。
 「昔から,配属が本人の意向に沿わないというケースはままあった。今の新入社員がワガママになったのではないか」
 確かにワガママに見える。しかし,彼らはそうなりたくてなったのではない。彼らは,「やりたいことは何ですか?」という質問に対する明確な答を,一生懸命に考えただけなのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.105

同じ部分

 とはいえ,ワールド・オブ・ウォークラフトやセカンドライフのように膨大なプレーヤーが参加するオンラインゲームであれ,フェイスブックやマイスペースのようなソーシャル・ネットワーキング・サイト(SNS)であれ,ユーチューブ,ウィキペディア,eベイのような情報集積サイトであれ,マッチ・ドットコム,eハーモニーのような出会い系サイトであれ,新しいテクノロジーは,他人とつながりたいという人類の古くからの傾向を実現しているにすぎない。ただし,空気を通じて伝わる会話ではなく,サイバースペースを流れる電子によってなのだが。オンライン上に形成される社会的ネットワークは,抽象的で,巨大で,複雑で,超近代的かもしれないが,普遍的かつ根源的な人間の傾向を反映してもいる。こうした傾向が生じたのは,先史時代,人類がアフリカのサバンナでたき火を囲んで語り合ったときのことだった。印刷機,電話,インターネットといったコミュニケーション技術の目覚ましい進歩さえ,私たちをそうした過去から引き離すものではない。そうではなく,むしろ近づけているのである。
 
ニコラス・A・クリスタキス,ジェイムズ・H・ファウラー 鬼澤忍(訳) (2010). つながり:社会的ネットワークの驚くべき力 講談社 pp.318-319
(Christakis, N. A. & Fowler, J. H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. New York: Little, Brown and Company.)

ナッツアレルギー恐怖

 アメリカで現在見られるナッツアレルギーへの強迫観念は,格好の例かもしれない。完全な「ナッツフリー」を宣言している学校の数は,誰に聞いても増えているという。ナッツそのものやピーナッツバターなどの食品はもちろん,自家製の焼き菓子や原料の詳細が明示されていない食品も,孔内への持ち込みが禁じられているのだ。校門には掲示が出され,汚染物質の危険から生徒を守るため,門を入る前に手を洗うよう来訪者に呼びかけている。
 ナッツアレルギーのアメリカ人は推定で330万人。シーフードアレルギーとなるとさらに多く,690万人もいる。ところが,深刻な食物アレルギー反応で入院するのは,総計で年間2000人にすぎない(全国の入院患者数は3000万人以上にのぼるというのに)。さらに,食物アレルギーによる毎年の死亡者は,大人と子供を合わせてせいぜい150人といったところだ。ハチに刺されて死ぬ人が年間50人,雷に打たれて死ぬ人が100人,自動車事故で死ぬ人が4万5000人もいるのとくらべてほしい。あるいは,スポーツ中に負った外傷性脳損傷で入院する子供が毎年1万人,溺れ死ぬ子供が2000人,銃による事故で死ぬ子供が1300人もいるのとくらべてほしい。それでも,スポーツをやめようという声は起きていない。食器棚のピーナッツバターは処分するのに,銃は処分しない親が数千人はいそうである。毎年,徒歩や自動車で学校に向かう途中に死ぬ子供のほうが,ナッツアレルギーで死ぬ子供よりも多いのは間違いない。

ニコラス・A・クリスタキス,ジェイムズ・H・ファウラー 鬼澤忍(訳) (2010). つながり:社会的ネットワークの驚くべき力 講談社 pp.66-67
(Christakis, N. A. & Fowler, J. H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. New York: Little, Brown and Company.)

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]