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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

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「パラドックス」という言葉を使う時

 英語で書かれた日本に関する文献を概観したネイサン・グレイザーも,アメリカの社会科学者はおしなべて,一様な議論を繰り返してきたという。その内容は,日本が逆説的な矛盾に満ちており,何が起こるか予測のつかない,奇妙な社会である,という点にある。
 もっとも,よく考えてみると,日本社会の逆説性とか非予測性とかの言葉は,しゃれた概念のように見えるが,実はよくわからないということの言い換えだともいえる。お互いに矛盾しているかに見える2つ以上の現象の説明がつかなくなると,これをパラドックスと呼んだり,仮説から導かれる当然の結論と反対の現象が発生すると,「日本社会は意外性に富んでいる」などというのは,日本社会を説明する理論の不在を告白しているだけのことかもしれない。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.53
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戦前アメリカ人類学の特徴

 戦前のアメリカ人類学には2つの傾向が強かった。ひとつは,全体社会のレベルで「文化の型」を抽出することである。当時の人類学は,人口が数千,数万の未分化,単純社会を対象としていたから,こういう作業が可能であるように思われた。もうひとつは,人間の可能性を発見するという関心が強かったことである。その結果,「西洋」が産業化の過程で失ったとされる過去の美しい伝統が,未開社会の中にいまも生きている,というロマンチックな憧れが研究の中に持ちこまれた。そのため,研究対象の社会の理想像と現実像が混乱するという事態が発生する。これらの傾向は,戦後のアメリカの日本研究を考える背景として重要である。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.48

日本人論の共通点

 日本人・日本社会・日本文化が特殊独特だという信念は一体どこから来たのだろうか。私たちにとって,この疑問は軽いものではない。いろいろな試行錯誤のあと,私たちがたどりついたひとつの結論は,いわゆる「日本人論」と呼ばれる文献群である。よくよく検討してみると,つぎつぎに世に出される「日本人論」のほとんどは,日本人がどんなに特殊独特であるかを強調する,という点で,驚くほど似かよっている。この視点から見ると,「日本人」は断然「日本人」であり,そんな前提に疑問をさしはさむこと自体,おかしいにちがいない。事実,『タテ社会の人間関係』『「甘え」の構造』『ジャパン・アズ・ナンバーワン』『ザ・ジャパニーズ』など,ここ十数年の日本人論のベストセラーは,すべて「日本人特殊独特説」そのものである。力点の置き方に違いはあっても,これらの日本人論はいくつかの点で根本的には同じ内容の主張を繰り返してきた。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.25

保守かリベラルか

 アメリカでは政治関連の書籍にある暗黙のルールがある。それは「学術書でないかぎり,政治を扱う本は,すべて保守かリベラルどちらかの党派性にまみれている」という前提だ。「党派本」といっても,政党がプロパガンダのために発行している本というわけではない。保守がリベラルを,リベラルが保守を「仮想敵」とした二項対立のアウトラインで,“党派政治のミニチュア”を,読書を通じて体験できる本という意味である。アメリカ人でも,政治批評家にかなり詳しくないと,その本が「保守本」なのか「リベラル本」なのか著者名を見ただけではわからない。1冊だけ読んで真に受けると,アメリカが急に保守化,あるいは左傾化したという印象につながりかねない。


渡辺将人 (2008). 見えないアメリカ---保守とリベラルのあいだ 講談社 p.184.

アメリカは党員だらけ?

 「アメリカは党員だらけで驚かされる」という感想をもらすひともいる。ある程度親しくなるとパーティなどで「わたし,民主党員なんです」といわれることがあるからだろう。こうした感想は,政治的にとても熱心でないかぎり政党の党員になることがない,日本の党員のイメージをあてはめたものだろう。「デモクラットです」「リパブリカンです」は状況によっては訳出が難しい。厳密には,民主党登録者,共和党登録者ということだが,個別の選挙で民主党や共和党に入れることがあっても,あえて「インディペンデント(無党派)」と答える人もいる。選挙登録やここ最近の投票行動のことだけでなく,全体としての支持表明のニュアンスもふくまれているから,文脈によっては「民主党支持」「共和党支持」程度にしておいたほうが,日本人にはわかりやすいことがある。


渡辺将人 (2008). 見えないアメリカ---保守とリベラルのあいだ 講談社 p.175-176.

銃規制とハンティング文化

銃をめぐる賛否は,共和党,民主党をこえた,アメリカ固有の文化に根ざした問題で,「アカデミック・リベラル」と「土着リベラル」でも見解が割れる。原因は狩りを行う「ハンティング」文化の根強さだ。
 アメリカでは州法で認められた範囲で,シカや野鳥を狩りに行くことは,かなり広く浸透しているレジャーやスポーツだ。ごく一部以外では猟銃に触れることのない,現代の日本社会の観念からすると想像を絶する浸透度である。リベラルな民主党支持者であるはずのウィスコンシン公共放送のマイク・サイモンソン記者は「ハンティングはアメリカの伝統。自然との対話だ。父親が道で自動車の運転を教えるように,森で息子に教えるもので,暴力的な銃マニアのものではなく家族的スポーツだ」と擁護する。
 このハンティング文化が銃規制推進の足を引っ張っている。穏健な北部諸州の民主党員のなかに,銃規制が勢いを増すといずれハンティングにも規制がかかるのではないかという疑念がぬぐえないからだ。NRAはハンティング文化をハンドガンなどの銃砲全体への規制反対のなかで巧妙に利用してきた。あくまで全米「ライフル」協会であり,全米「マシンガン」協会ではなくハンティング愛好のスポーツマンのための団体だというレトリックである。


渡辺将人 (2008). 見えないアメリカ---保守とリベラルのあいだ 講談社 p.164-165.

アメリカのビールのステレオタイプ

 ビールはアメリカでは,仕事帰りのブルーカラー労働者と,キャンパスで週末にはしゃぐ学生の飲み物である。ある程度富裕な層やホワイトカラーのプロフェッショナル層の飲み物ではないという建前がある。だから,ビールの広告ではかならず,ハーレーダビッドソンに乗っているようなオートバイ野郎で腕にタトゥーを入れている革ジャン姿の「荒くれ者」か,力仕事をしているひげ面で吊りズボンの男たちが出演する。あるいは,水着姿の女性たちというセクシャルなイメージにうったえる。完全に男性社会,それも白人男性向けの商品イメージである。



渡辺将人 (2008). 見えないアメリカ---保守とリベラルのあいだ 講談社 p.20.


文化の錯覚

 文化ステレオタイプを良く調べてみると,「文化」について,いくつかの錯覚を生み出していることがわかる。もっとも重大な錯覚は,決定性,斉一性,両極性,不変性の4つだろう。いずれも,たいがいは自分がそう考えていることすら意識しないままに陥ってしまっている錯覚である。
 もう少し詳しく説明しよう。
 まず,「決定性」というのは,「文化が人間の行動を決定する」という考えかたである。(ちなみに,ここでいう「行動」は,なにかをしたり言ったりすることだけではなく,価値判断や意思決定など,表にあらわれない精神活動までをも含んだ,広い意味での「行動」である。)「日本文化は集団主義的なので,日本人は集団主義的に行動するのだ」というイメージを思い描いてしまう。これが「決定性」の錯覚である。
 「斉一性」というのは,「ある文化に属するひとびとは,みな同じように行動する」という考え方である。「日本人は集団主義的,アメリカ人は個人主義的」だといわれると,「日本人はみな集団主義的に行動し,アメリカ人はみな個人主義的に行動する」かのような気がしてくる。これが「斉一性」の錯覚である。
 「両極性」というのは,「文化差」を「白と黒」のような極端な違いとしてとらえてしまうことである。日本人論の議論からは,「日本人は非常に集団主義的に行動し,アメリカ人は非常に個人主義的に行動する」かのような印象を受ける。これが「両極性」の錯覚である。
 さいごの「不変性」は,「文化の本質は不変であり,したがって,文化差も本質的には不変だ」という考えかたである。「国民性」とか「民族性」とかいわれるような内面化された文化については,暗黙のうちに,この「不変性」が想定されることが多い。日本人論も例外ではない。
 しかし,これらは,いずれも「錯覚」であり,現実の「文化差」とは大きく食いちがっている。

高野陽太郎 (2008). 「集団主義」という錯覚 日本人論の思い違いとその由来 新曜社 pp.281-282.

大音響のハウリング

 「日本人=集団主義」説の立場にたつ日本人の心理学者から,つぎのような研究の動機を聞かされたことが何度かある。……「これまでの心理学は,欧米での研究結果をそのままにほんにあてはめてきた。だが,異なる文化をもつ日本人は,その心理も欧米人とは異なっているはずであり,日本人特有の心理を明らかにすることが日本の心理学者の責務なのだ。」
 この主張に共感する日本の心理学者は少なくないようである。しかし,その「日本人特有の心理」を,アメリカの自己賛美イデオロギーの裏返しである「集団主義」にもとめたのでは,結局,お釈迦様の掌の上を飛びまわった孫悟空の二の舞に終わってしまうのではないだろうか。
 「日本人=集団主義」説の立場から書かれた中根千枝や土井健郎などの著書は英訳され,おなじ立場にたつ欧米の研究者によって頻繁に引用されてきた。「日本人自身が自分たちは集団主義だと言っている」という事実は,「日本人=集団主義」説の信憑性を高めるための恰好の証拠として利用されてきたのである。その結果,「集団主義」は,日本人の代名詞にまでなった。そして,「だれもが信じている」ということ自体が,さらにまた,この説の信憑性を高める役割をはたすようになった。
 「ハウリング」という現象がある。マイクとスピーカーが向かい合っているときに生じる現象である。はじめ,マイクに小さな音がはいると,それがアンプで増幅されてスピーカーから出てくる。その音がマイクにはいって,さらに増幅されてスピーカーから出てくる。さいごには,耳をつんざくような大音響になってしまう。これが「ハウリング」である。
 「日本人は集団主義的だ」という欧米人の言葉を耳にした日本人は,「欧米人の言うことだから間違いはないだろう」と思い,自分でも「日本人は集団主義的だ」と語るようになる。これを聞いた欧米人は,「日本人自身がそう言っているのだから間違いはないだろう」と考えて,「日本人=集団主義」説にますます確信をいだくようになる。このサイクルが繰り返されていくうちに,だれもが確信をもって「集団主義的な日本人」を口にするようになる。
 しかし,だれもが信じているということは,かならずしも,この説が正しいということを証明しているわけではない。だれもが信じていることは,たんなる大音響のハウリングにすぎないのかもしれないのである。

高野陽太郎 (2008). 「集団主義」という錯覚 日本人論の思い違いとその由来 新曜社 pp.246-248.

親子心中

 親子心中(特に母子心中)の場合,母親は20〜30代と比較的若く,なんらかのこころの病が自殺の引き金になっている例が圧倒的に多い。
 多くの場合,背景に精神疾患が存在しているという事実を一般の人が知っているかどうかは別にして,わが国で母子心中が起きると,苦境から脱出する方法として自殺しか思いつかなかった母親に対して社会の同情が寄せられることはあっても,その母親が非難されることはまずない。
 このような苦境に追い込まれた母親の心の中では,自分と子どもが一体になっていて,もはや自分の死後に子どもが生き残ることなどおよそ信じられなくなってしまっている。子どもの生命を絶つことは,けっして完全な他者を殺害することとは考えられていない。自己の一部を抹殺することと同義になっていて,他者を殺害するといった意識はなかったと考えられる。自分が亡くなった後に,子どもだけが生き残ることなど,およそ想像できなかった母親の気持ちをわが国の社会はある程度受容する。むしろ,kどもを残して自分だけが自殺するといった場合の方が,個人は非難されかねない。
 社会一般の風潮と一致して,法曹界も精神医学会もこの種の拡大自殺の概念をある程度認めているといってもよいだろう。母子心中を図ったものの,母親だけが生き残ったような場合,ほとんどの例で,精神科治療の対象となることはあっても,厳罰に処せられるようなことは稀である(当然のことながら,最近のように,保険金を得ることを目的に母子心中を偽装するなどというのは,厳しい処罰を受けるべきである)。
 たとえ同じ現象が起きたとしても,このように文化によって解釈が異なってくるのだ。とくにアメリカ社会はこの種の「他殺・自殺」を引き起こした親に対しては非常に厳しい態度で臨む。個別の意志と尊厳を有する存在として認めることがアメリカ社会の大前提であることを反映しているのだろう。


高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために 筑摩書房 p.82-84


日本と欧米の違い

 しかし,日本が欧米と決定的に異なる点が2点ある。1つは,やはり宗教の有無だ。宗教に力のある社会では,最終的にそれに頼ることが可能だ。少なくともそういう選択肢はまだ存在している。
 葬儀ビジネスと化した日本の寺院に対して,欧米におけるキリスト教の潜在的な影響力は(いい意味でも,悪い意味でも)非常に強力である。それは貧しく病んだ人々を救うための中心的存在にもなりうるし,ブッシュ政権を見れば分かるように国家の政策を動かす圧力団体としてのパワーも持っている。
 そしてもう一点は,日本という国は,どうしようもないほど硬直した統制的な社会であることだ。日本においては,個人の影響力によって社会的システムに変化をもたらすことは,僥倖に頼る以外はほとんどまったく不可能であり,この点でもネットパクターは絶望的になるのである。


岩波 明 (2006). 狂気の偽装 精神科医の臨床報告 新潮社 p.138

アメリカのいじめ:フラタニティ

アメリカでは多くの国民が,さまざまな危険な通過儀礼を受けている。フラタニティの新入りいじめ(hazing),つまり新たにフラタニティに入る者への厳格な通過儀礼によって,重傷を負ったり命を落としたりしたケースもある。新入りいじめは,事実上すべての大学で,また国内のすべてのフラタニティで禁じられているが,儀礼にかかわる事故やその他の不祥事のニュースがときおり報道されていることからすると,いじめが依然として水面下で行われていることは明らかである。


J.A.シェパード & K.D.クワニック (2001). 不適応的な印象維持 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 279-314.


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