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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

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日本で議論が進展しない理由

 また日本語では対話や議論が対立的になりにくいもう一つの理由は,自称詞と対称詞が多くの場合話し手と相手の間の上下関係を構造的に取り込んでいるからだと思います。父親と議論するような場合,相手を「お父さん」と呼ぶことは,そのことで自分を息子つまり相手の目下と自己規定してしまうわけですから,初めから立場が弱いわけです。あるアメリカの論文で,父親をどう呼ぶかの調査の対象となったある青年が,自分は父親と議論するときは,絶対に Father と呼びかけることはせず,一貫して you を使うことにしていると答えていますが,日本語では言語上これが出来ないのです。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 p.182
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日本語は劣っている?

 しかしどういうものか日本語にたいする日本人の態度には,未だに日本語は西洋の言語に比べて近代的な社会の運営には適さない,不便で遅れた言語だという考えが強く見られます。扱いの面倒な漢字や仮名をやめて表記を国際性のある簡単なローマ字に変えるべきだとか,英語を第二公用語として採用すべきだといった提案などが跡を絶たないのも,意識無意識のうちに日本語を西洋の言語と比べて違うところを気にしているからなのです。
 しかしこの「劣っているとされる日本語」を日本人が使いながら,あっという間に西洋の学問技術そして経済に追いつき,ところによっては追い抜いてしまったという事実,また日本は今でも世界で最も識字率の高い教育の普及した国であるといった明白な事実があるにも拘らず,それでもなお日本語は能率が悪い,漢字は教育の妨げになると言い立てる人々は,何のことはない,日本が全ての点で西洋と同じでないことに引け目を感じ,そのことが気になって夜も眠れなかった明治大正時代の西洋中毒,西洋心酔病からまだ抜け出られない人々なのです。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 pp.173-174

多くの文化が流入している

 私は外国で日本文化について講演をする際に,息抜きに,なぜ日本の家庭の台所が,アメリカやフランスの家庭のように綺麗に片付いていることが少ないのかの話題によく触れました。その理由の大きなものとしてまず伝統的な日本の飲食関係の道具類の複雑多様なことが挙げられます。お茶一つとっても番茶,煎茶,玉露で茶碗を初めとする道具類がそれぞれ違います。お皿や器も食べ物の種類,大きさ,形や色の違いに応じて色々と取り揃えてありますし,これらは季節によっても変化します。これだけでも欧米のすっきりと画一で規格化された食器のセットと比べると大変に複雑ですが,そこに西洋式の食器がティーセットをはじめとして色々と加わっている家が普通です。日本人は少し前までは全てを箸だけで食べていたのに,今ではナイフ,フォーク,スプーンのような,ものを食べるためのいろいろな道具類も引き出しをぎっしりと埋めています。しかもしのうえ家によっては,更に中華料理の道具一式まで揃えてあるといった具合ですから,日本の台所は様々な異なった食文化が併存し,それらの複合状態に置かれているのです。これではなかなかすっきりとは片付かないのも道理です。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 pp.155-156

言葉が認識を制限する

 さて蝶と蛾は学問上はどちらも鱗翅類という近似同類の昆虫として纏められています。そして蝶と蛾の間には学問的な区別をたてる明確な根拠がないので,両者を大まかに一つのものと見なす文化(言語)があっても,また反対に出現するのが夜か昼かの違いなどを主な理由として,この2つを別の種類の虫だとして区別する言語があってもおかしくないわけです。
 ただ重要なことは日本人のようにこの2つを区別するタイプの言語を母語に持った人々は,両者を同じものと見る言語があるなど夢にも考えたことがないということで,この事実を知らされたときはまさか,そんな馬鹿なことがあるかといった驚きと不審の感情を隠せないのが普通です。人並みの昆虫少年で大人になった後も虫に興味を失うことのなかった私も,長い間蝶と蛾は別のものと思って疑うことはありませんでした。人間は何時何処でも自分の母語が区別し名を与えている世界だけが,正しいものと思うように出来ているので,この母語の絶大な制約から解放されることはなかなか簡単にはできないのです。ですから外国語を学ぶことによって,その気になれば様々な異文化衝突を経験する機会に出会えるはずですが,実際はなかなかそうはならないのです。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 pp.95-96

この道一筋の悪い面

 日本人は「この道一筋何十年で,一芸を極めて」という生き方がすごく好きで,何かというと「何とか道」にしてしまう。
 東京大学にも「システムなんとか」という学科はたくさんあるのですが,そういう名前をつけておきながら,ある1つの分野の追究をはじめてしまう。日本には職人気質というか,1つのことにのめり込むのを良しとする文化があって,「この道何十年,ついに奥義を極めた」という人が尊敬される。
 反対に冷静な多元的な分析は「専門性がない」とあまり好感を持たれない。
 「私はこれ一筋」という熱い言い方をする人に対して,システム的なものの見方で分析すると,「評論家」と言われて嫌われます。
 「全体の中で君のやっていることはこのぐらいの重さだよ」と相対化されるのは,日本人はすごく嫌なのです。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 pp.202-203

そんなに肉ばかり食べない

 アメリカや西ヨーロッパの人たちは「自分たちが世界で一番進んでいる」と思い込んでいて,何となく「世界中のみんなが俺らと同じライフスタイルに変わってゆくはずだ」と考えている節があります。肉なら1人当たり1年に120キログラム食べていることが,「肉を食べられる」先進国の証拠であり,それに達していない国は遅れているように目に映るわけです。
 けれども世界はそれほど単純ではありません。文化には多様性があって,それが食の嗜好にも影響してくる。「文明の衝突」ではありませんが,食文化はもっとも保守的な価値観に根ざすところです。一朝一夕でも変わるものではないのです。食料受給を予測するのにはそうした観点も重要です。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 pp.35-36

もう捨てられない

 そもそも,農業というものが既に自然の営みではない。極めて人工的な行為だ。田畑で穫れる作物とは,ようするに「養殖」された植物である。自然とはほど遠い人工的な環境によって大量生産され,また品種改良された製品なのだ。
 これを成し遂げたのは科学である。農業はテクノロジィの上に成り立っている代表的な行為だ。林業もそうだし,水産業だって,海岸で銛を使って魚を捕っていた原始的な漁に比べれば,現在のやり方は工業に限りなく近いものになっている。
 「人工」や「科学技術」を捨てて,過去へ戻ることはできないし,まして現在の人口を支えることはまったく不可能なのだ。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 p.45.

儀礼は社会的効果を生み出すという錯覚を作りだす

 儀礼は社会的効果を生み出すのではなく,生み出すという錯覚を作り出すにすぎない。人は,儀礼を行なう時,なんらかの儀礼的小道具(感染予防システムを作動させるので容易に獲得される)と特定の社会的効果(人はそれについて直感はもつが,有効な概念をもたない)とを結びつけ,一組にする。社会的効果についての思考と儀礼についての思考とは,それらが同一の出来事についてのものなので結びつく。こうして人は自然に,儀礼が社会的効果を生み出すと錯覚する。
 この錯覚は,次のような事実によって強められる。それは,ほかの人たちが特定の儀式を行うのに,自分は行わないのは,多くの場合社会的協力からの離脱になる,ということである。たとえば,いったんある儀礼(加入儀礼)を男性同士の完全な協力に結びつけ,別の儀礼(結婚式)を配偶者選択に結びつけると,その儀礼を行なわないことは,ほかの人々と同一の社会的協定に加わることを拒否したことになる。みなが自分が隠し隔てのない信頼できる人間であることを家の窓を開け放すことで示しているところでは,カーテンを閉めているのは非協力の明白な信号になる。それゆえ,儀礼はその効果にとって不可欠であるという錯覚は,人間社会一般を考えれば真実ではないにしても,当事者にとってはきわめて現実味を帯びている。というのは,彼らは,規定された行為を行なう(それを行うこと自体がその儀礼が必要だということを確証するように見える)か,ほかのメンバーとの協力から離脱する(これはほとんどの人間集団では現実には選択肢にならない)かのどちらかを選択しなければならないからである。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.332-333
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

女性がエッセイを書くと清少納言に

 女性はエッセイを書こうとすると,清少納言になってしまう。そして男は,ついに私にも発言の順番がまわってきたのかと喜び,兼好になってしまい世の中を叱るのである。とどのつまりは,女性にとっても男性にとっても,私こそセンスがいい,私こそ知的であるという自慢をうまく芸で処理して書くのがエッセイなのだ。そう考えてみると古典の影響力の大きさにただ驚くばかりである。

清水義範 (2009). 身もフタもない日本文学史 PHP研究所 p.69

エッセイを書くと吉田兼好になる

 というわけで,兼好は「徒然草」によって日本の知的エッセイの基本を作ったのだ。だから今日においても,人はエッセイを書かなければいけないとなると,兼好のように書こうと思ってしまうのである。
 エッセイ=世の中へのお叱り,という公式がくっきりとできあがっていて,人はエッセイで愚かな世の中を叱るのである。
 エッセイの執筆依頼が来たということは,どうか世の中の間違いを叱ってやってくださいと言われたに等しいのである。みんな,嬉々としてボヤき始めるのだ。そういう意味で,「徒然草」こそが日本のエッセイの原形なのである。

清水義範 (2009). 身もフタもない日本文学史 PHP研究所 p.67

チャンピオンなんて珍しくない

 ボクシングの本場,アメリカ合衆国において「世界チャンピオン誕生」とは,それほど大きなニュースではない。日本のように「我が国,○○人目のチャンピオン誕生!」などと報じられることも無い。
 だからこそ1本のベルトだけでは満足せず,多くの王者はタイトル統一を目指す。最近は,同じ階級の主要タイトル3本(WBA,WBC,IBF)を手にして初めてファンに認知される傾向にある。
 世界チャンピオンが珍しくないという事実は,即ち,それほど潤わないことを示す。悠々自適の身となり綺麗に引退できる男は稀で,地位やプライドを抜きに,糊口を凌ぐ道としてリングにしがみ付ファイターが何人も蠢いている。

林 壮一 (2006). マイノリティーの拳:世界チャンピオンの光と闇 新潮社 p.62.

制約の中で“芸”をみがくという行き方

 日本刀対日本刀なら,もちろん武芸だけで優劣がきまる。同じことは小銃についてもいえ,双方三八式歩兵銃なら,“銃芸”のまさっている方が勝つ。また両者同一芸なら数の多い方が勝つ。芸が同じでまた数が同数なら,数の“運用”が巧みな方が勝つ。これはきまりきった原則であり,要は,この要素の組み合わせ方とこれを習熟する訓練だけで勝敗がきまることになる。
 従ってもしこの“芸”がTさんのチャンドラにおける“印刷芸”のように極致にまで達すれば,三八式歩兵銃一丁は優に軽機に対抗できるであろう。そしてそういった“芸の極致”の数の運用もまた“芸の極致”に達していれば,家康の小牧・長久手の勝利と同じような形となり,三八式歩兵銃しかもたぬ一個大隊が重・軽機をもつ一個連隊を敗走させうることもあるであろう。そして,歩兵も砲兵もみなその極致に達すれば,その軍隊は無敵であろう。これがいわば陸軍の公式的発想の基本である。
 そしてそこにあるものはやはり,徳川鎖国時代から一貫して流れている伝統であった。そして,これを伝統と考えて客体化して再把握するに至っていないことが,この行き方への盲従となり,絶対化となった。
 今でも,日本軍は強かったと主張する人の基本的な考え方は,この伝統的発想に基づいており,しかもそれが伝統的な発想のパターンに属する一発想にすぎないと思わずに絶対化している。そして,後述するように,日本の敗戦を批判する者も,実は,同じ発想に基づいて批判しているのである。
 この伝統的行き方は,一面,陸軍の宿命だったともいえる。というのは,上記の伝統を最も継承しやすいのが,徳川的伝統的思考とその戦闘技術を不知不識のうちに摂取せざるを得なかった陸軍であったこと,そして同時に,日本の国力と石油資源の皆無はその大規模な機械化を不可能にしたため,否応なく外的制約が固定せざるを得なかったことにある。
 陸軍の散兵線は,昭和12年ごろまで,日露戦争当時と全く同じの,人間距離六歩の一線の散兵線方式をとっていた。簡単にいえば,チャンドラを変え得ないから,それを活用する方式を変え得ず,その制約の中で“芸”をみがくという行き方しかできなかったわけである。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.184-185

普遍性とは何か

 一体「普遍性」とは何であろうか。文化とは元来個別的なものであり,従ってもし日本文化が普遍性をもちうるなら,それは日本人の1人1人が意識的に自らの文化を再把握して,日本の文化とはこういうものだと,違った文化圏に住む人びとに提示できる状態であらねばならない。それができてはじめて,日本文化は普遍性をもちうるであろう。
 そしてそれができてはじめて,相手の文化を,そしてその文化に基づく相手の生き方・考え方が理解でき,そうなってはじめて,相互に理解できるはずである。そしてそれができない限り,自分の理解できないものは,存在しないことになってしまう。従って,日本軍には,「フィリピン人」は存在しなかった。そしてそこにいるのは,「日本人へと矯正しなければならぬ,不満足なる日本人」一言でいえば「劣れる亜日本人」だったのである。
 ではどう矯正しようというのか。本気で矯正するなら,自己の文化を客体化し,それに支配されるのを正常な状態と規定した上で,相手にこれを説明し納得させねばならない。一言でいえば,まず相手を理解した上での「言葉による日本文化の伝道」しかない。しかしそれは,スペイン語・英語・タガログ語のどれ一つ出来ず,第一,そういう問題意識すらない者には,はじめから不可能である。
 それならば相手は別の文化圏に住む者と割り切って,何とかそれと対等の立場で「話し合う」という方向に向くべきだが,自己の文化を再把握していないから,それもできない。
 そこで自分と同じ生き方・考え方をしないといって,ただ怒り,軽蔑し,裏切られたといった感情だけをもつ。フィリピンにおける多くの悲劇の基本にあったものは,これである。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.124-125

日本が戦争に負けた理由

 故小松真一氏が掲げた敗因二十一ヵ条は,次の通りである。

 日本の敗因,それは初めから無理な戦いをしたからだといえばそれにつきるが,それでもその内に含まれる諸要素を分析してみようと思う。
1.精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は,総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ,未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
2.物量,物資,資源,総て米国に比べ問題にならなかった。
3.日本の不合理性,米国の合理性
4.将兵の素質低下(精兵は満州,支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
5.精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)
6.日本の学問は実用化せず,米国の学問は実用化する
7.基礎科学の研究をしなかった事
8.電波兵器の劣等(物理学貧弱)
9.克己心の欠如
10.反省力なき事
11.個人としての修養をしていない事
12.陸海軍の不協力
13.一人よがりで同情心が無い事
14.兵器の劣悪を自覚し,負け癖がついた事
15.バアーシー海峡の損害と,戦意喪失
16.思想的に徹底したものがなかった事
17.国民が戦いに厭きていた
18.日本文化の確立なき為
19.日本は命を粗末にし,米国は大切にした
20.日本文化に普遍性なき為
21.指導者に生物学的常識がなかった事

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.35-36

実力を極限まで重視すると

 弱肉強食の世界に生きる動物たちが,体を大きく見せたり,鳴き声,吠え声で相手を威嚇するのとどこか通うものがあるが,実際,実力以上に自己を表現する虚勢も,武士の世界には往々にしてみられた。しかし,一方で表現から相手の実力を正確に見てとる技術,つまりだまされない技術も磨かれていった。今日でいう,情報戦のはしりであり,敵にだまされない力も,武士に要求される大切な実力の1つであった。
 いわゆる武士道の,形や威儀へのこだわりも,根本はおそらくこうしたところにある。表に出た形は,そのまま実力のほどを表示し,相手もまた表に出たものからその武士の正確な実力を測り知る。ここから,自覚ある武士にあっては,あらゆる表現がそのまま,溢れ出る威力のあらわれとして統制されていなければならないという観念が生み出されてくる。沈黙も,発言も,身だしなみ,礼儀正しさも,すべてが威の表現であると見る武士道独特の観念は,実力をいかに発動するかという,実力世界の基本中の基本命題にその根源を持つのである。

菅野覚明 (2004). 武士道の逆襲 講談社 Pp.64-65

人間は類推によって新たな考えを体系化する

 努力のあとは休息でバランスを取るべきだという考えは,もちろん,勉学や仕事に対するアジア人の考え方とは正反対だ。だがそうは言っても,アジア人の世界観を形づくったのは水田である。珠江デルタでは,農業従事者は二期作,ときに三期作を行う。水田はわずかな期間しか休ませない。それどころか,ここが稲作の特異な点だが,灌漑用水がふんだんに栄養分を運ぶため,稲作を行えば行うほど水田は肥沃になる。
 だが,欧米ではその反対だ。小麦やとうもろこし畑は数年に一度休ませなければ,土地が痩せてしまう。冬はいつでも土地がか空っぽだ。春の種播きと秋の収穫期に重労働をしたあとは,いつも必ず,夏と冬にのんびりした日々が続く。そして,それこそが,アメリカの教育改革者が若者の知力の育成に当てはめた論理だった。人間は類推によって新たな考えを体系化する。知っていることから知らないことを考え出す。教育改革者が知っていたのは,農業従事者の季節のリズムだった。知力も耕されなければならない。だがやりすぎは禁物であり,疲れさせてはならない。それなら消耗を防ぐ方法は?長い夏休み,それは独特でいかにもアメリカ的な遺産である。そしてその遺産こそが,今日の生徒の学習パターンに重大な影響を与えてきた。

マルコム・グラッドウェル 勝間和代(訳) (2009). 天才!成功する人々の法則 講談社 pp.288-289

勤勉さと生活スタイル

 歴史的に見て,欧米の農業は“機械”本位で発達してきた。欧米では能率をあげたいか収穫量を増やしたいなら,さらに性能のいい機具を導入し,機械に仕事をさせる。脱穀機,結束機(干し草を俵にする),コンバイン(刈り取り脱穀機),トラクター。そして,さらに土地を開墾して面積を増やす。機械を使えば,これまでと同じ労力でより多くの畑が耕せるからだ。
 だが,日本や中国の農業従事者は機械を買うお金がなかった。いずれにせよ,簡単に水田に変えられる余分な土地もなかった。だから稲作農家はより頭を働かせ,より時間をうまく使い,より良い選択を行うことで米の収量を増やした。人類学者のフランチェスカ・ブレイが言うように,稲作は“技術本位”である。もっとせっせと雑草を抜き,もっと肥料のやり方に習熟し,もっと頻繁に水量を見て回り,もっと粘土盤を均平にならし,もっと畝を隅々まで活用すれば,より多くの収穫が望める。驚くこともないが,歴史上,米を育ててきた者は常に,他のどんな穀物を育てた者よりも勤勉に働いてきた。
 そう聞くと,少々奇異に思われるかもしれない。なぜなら,「近代以前の人々は誰もが休む暇もなく働いてきた」と,たいていの人は考えるからだ。だが,そうではない。例えば,人間はみんな狩猟採集民の子孫だが,多くの狩猟採集民は,どう見てもかなりのんびりした生活を送っていた。カラハリ砂漠に暮らすボツワナのサン族(いわゆる,ブッシュマン)は,いまでも狩猟採集の生活様式を守る最後の種族のひとつだ。彼らは,豊富なフルーツやベリー類,根菜,木の実を食べて生きている。特にモンゴンゴは驚くほど多く採れ,栄養価が高く,地面に敷き詰められるほど落ちている。彼らは何も栽培しない。栽培(準備,種播き,除草,収穫,貯蔵)には時間がかかる。家畜も飼わない。
 男はたまに狩猟に行くが,それは主に気晴らしのためだ。男も女も週に12〜19時間しか働かず,残りは踊ったり,娯楽を楽しんだり,親戚や友人を訪ねたりして過ごす。彼らは年に最大1000時間しか働かない(「農業はやらないのか」と訊かれたとき,サン族の男は怪訝な顔つきで答えた。「モンゴンゴがたくさんあるのに,なぜ栽培する必要がある?」)。

マルコム・グラッドウェル 勝間和代(訳) (2009). 天才!成功する人々の法則 講談社 pp.264-266

デイトレードはライフスタイル

 デイトレードは,たんにトレーディングの手法のことではない。技術的にいえば,彼らのやっていることはむかしながらの株式トレーダーとなにも変わらない。
 私が出会った若者は,物価の安いバリ島に長期滞在しながら(月3000ドルは現地では大金だ),時差を利用してトレーディングの時間を夕方にずらし,昼間はビーチでサーフィンに興じ,夜はナイトクラブに踊りにいくという気楽な生活をつづけていた。これがヨーロッパの旅行者のひとつの理想で,いつしかアジアの安宿街にはトレーダーなのかバックパッカーなのかわからない若者たちが屯するようになった。
 彼らにとってデイトレードはライフスタイルであり,もうひとつの自由の可能性なのだ。

橘 玲 (2006). 臆病者のための株入門 文藝春秋 p.66

Don't worry, be happy!

 また,少なくとも幸福感についての信条は,一部文化的起源があることはいなめないであろう。たとえば,アメリカでは「元気?」という挨拶に「疲れているの」とか,「忙しすぎて死にそう」だとか弱音を吐いたり,同情を求めるような態度を一部のケース(家族と真の友人)以外では見せてはいけない。弱音を吐いていると,友達になったら「お荷物」になりそうな,面倒な人間と見られる可能性が高く,アメリカ人からは避けられる可能性が高い。アメリカでは,弱音を吐かず,いつも元気で幸せでいる人がうまく生きている人であり,友達になり甲斐のある人物なのである。そうであるから,できるだけ明るく,幸せに振る舞わなければ,というプレッシャーも自然と生まれる。また,このため,自分の人生を振り返る際も,良かった出来事に焦点を当て,自分の人生は全般的に肯定的であるという信条を持ち,その信条と一貫性のある自己報告をすることになることが多いのであろう。まさに,“Don’t Worry, Be Happy!”なのである。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 p.43.

「楽しんでね」と「頑張ってね」

 また,幸せが運によって決まるという意識があれば,それがアクティブに追求できる類のものではないという認識に繋がるであろう。実際,実験的に設定した課題で,アメリカ人の学生は「幸せ」や「楽しみ」を増すような選択をするという結果が出ている。たとえば大石とディーナーは,被験者に実験室に来てもらい,バスケットボールのフリースロー課題を与えて,10回のフリースローをどれくらい楽しむかを測定した。1週間後に実験室に戻ってきてもらった際には,もう1度フリースローにするか,あるいはダーツゲームをするかという選択肢を与えた。すると,欧州系アメリカ人では,最初のフリースローを楽しんだ人は再度フリースローを選び,あまり楽しまなかった人はダーツゲームに変更した。その結果,全体として2回目のほうが1回目より課題を楽しんだという結果が見られた。ところがアジア系アメリカ人では,そのような傾向は見られなかった。つまり,楽しみを最大限にするという選び方をしているのではなく,1つの課題をマスターするという選び方をしている人がかなりいたということが推測される。アメリカ人の間では,挨拶代わりに「ハブ・ファン(楽しんでね)」という常套句が使われるが,これも楽しみ,幸せ感を最大限にすることが日常生活でのモチベーションとして作用している証であるように思われる。日本だと,同様の状況で「がんばってね」といったところであろうか。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 pp.39-40

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