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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

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人が集まればどこでも

 「私自身,主婦でネトゲをやっていて言うのもなんですが,あの世界には主婦がすごく多いんですね。特に平日の昼間は主婦だらけです。そして一方には,リアルでうまく人間関係を作れない若い男性も多い。主婦って基本的に世話好きでしょ?オタク系男の相談に乗ってあげたり,親切にしてあげて,慕われる主婦がいるわけです」
 若い男性ゲーマーから慕われると,それを妙に勘違いして,「わたしは誰よりいい女,なんて吹いちゃう主婦がいる」と千鶴は苦笑いする。
 主婦同士が自分の「モテ度」を競ったり,プライドの高さから互いを汚い言葉で罵ったりすることもある。あきらかに勘違いをしていると感じる主婦が,自分のことを棚に上げて別の主婦を「勘違い女」呼ばわりする様子は見苦しいの一言だというのだ。

石川結貴 (2010). ネトゲ廃女 リーダーズノート pp.58-59
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18世紀のネットショップ

 ヨーロッパのさまざまな港には大量の通信文書が残されているが,なかでもイタリアのリヴォルノの港で発見された,成功したダイヤモンド商人のユダヤ人の手紙が興味深い。このユダヤ人の名はエルガス=シルヴェラ貿易商会のアイザック・エルガスといい,彼は得意先から,インドの有名なゴルゴンダ鉱山のダイヤの注文を受けた。18世紀のリヴォルノのユダヤ人貿易商について研究したイタリアの学者フランチェスカ・トリヴェラートによると,こうした顧客の注文は,「かくかくしかじかのダイヤを」というように,きわめて具体的だった。
 私がiPodをアップル社に注文したように,ダイヤを手に入れたいイタリアの顧客は,エルガス=シルヴェラ商会に現金で前金を支払った。インドのダイヤ商人たちはイタリアの通過リラには関心がなかったため,エルガス=シルヴェラ商会は,現金の代わりに地中海産の珊瑚のネックレスを船でインドへ送りつけた。イタリアの顧客の中でも幸運な者は,モンスーンが終わる前に注文を出すことができた。代金替わりの珊瑚のネックレスは,まずイギリスやオランダの船でリスボンに送られ,そこから厚い鋼板で覆われた大型の帆船に積み替えられて,まる1年かけてゴアに辿り着いた。ゴアにあるインド人の貿易商社は,珊瑚の市場価格を見定めてそれに見合うさまざまなサイズと品質のダイヤを送り返した。すべてが順調に運べば,つまり船が嵐で沈没するようなことがなければ,イタリアの注文主は1年か2年後に確実にダイヤを受け取ることができたのである。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.115-116

ネトゲは出会い系

 ネット上で知り合い恋愛感情が芽生える。これは自然なことなのだろう。ただ,山本奈菜の話を聞いて,こんなイメージがわいた。リアルで直接会って,お互いが気に入る。すると,ゲーム画面を「ビューッ!」と移動するキャラクターのように,相手の家に入ってしまう。個人の領域や境界線のようなものがない,そんな感じがしたのだ。お互いに段階をふんで接近してゆくコミュニケーションが希薄なような,そんな感触が残った。
 そして欠けていると思ったのは,動物のような警戒心だ。動物は本能のまま研ぎ澄まされた感覚で注意深く相手を見極めようとする。そうした他者への緊迫感を感じさせない。
 ある千葉のハードゲーマーが語ったこんな言葉が印象的だ。
 「ゲーマーは,恋愛に関して奥手なんですよ。ゲームサークルの知り合いで28歳まで女性と付き合ったことのない男性がいます。恋愛経験がないから,一度火がついちゃうと,もうどうしていいかわかんなくなっちゃう。ネットゲームは主婦が多いじゃないですか。それで,まずい恋愛をしている人も多いですね。ある種の出会い系サイトのようなものですよ」
 視点を変えると,ネットゲームは出会い系なのだ。

芦崎 治 (2009). ネトゲ廃人 リーダーズノート pp.61

ゲーム内と現実の価値の不均衡

 ネットゲームはドラマチックに出来ている。ところどころで,感動的なシーンに遭遇する。複数の参加者が連帯感をバーチャルに共有できる。
 「あなたがいないとだめだった!」「君に救ってもらえた!」「ありがとう!」
 現実には友だちのいない引きこもりの男の子でも,人助けができる。女性ゲーマーを救えば,王子さまのような扱いを受ける。実生活ではありえない憧れの対象になれるのだ。だからオフ会で人の目を見られない内気な人でも,ゲームに入れば水を得た魚になる。
 「ゲーム上だと,強くなればみんなモテる。強くなるにはどうすればいいのか。実は,より引きこもりになると,強くなれるんですね。1日中,敵を打っているとゲームに強くなる。でも寝ないで戦っていると,会社の仕事に支障が出る。私がいたIT企業でも社員の遅刻がひどかった。仕事をしているかと思えば,ゲームで遊んでいる。それでクビになった社員もいます。実生活では信用を失いモテなくなる。なんだよ,こっちの側(リアル)の女はみんな冷たくしやがって。でも,俺はそっちの側(ゲーム)ではモテモテなんだぜ!みたいな引きこもりサイクルが働く。モテるには引きこもるしかない。そうなるとゲームに居場所を求める悪循環に入っていくわけです」
 ゲーム内の自己(キャラクター)に依存すると,現実の価値はどんどん意味を失っていくのだ。

芦崎 治 (2009). ネトゲ廃人 リーダーズノート pp.25-26

徹底しては

 最近はコーポレイト・アイデンティティ(C.I.)を行う企業も多いが,その会社名を姓名判断で付けるところがあるという。こんなものに,全社員の生活と運命を委ねざるを得ない無能な経営者がいるのだ。ならば社内の各部署も,「人事部」「宣伝部」「営業部」では画数が悪いので,「ニュー人事部」「宣伝省」「営業の衆」に換えよう。所在地も,画数のいい住所に引っ越せ。そして社長本人も名前の画数が悪いので更迭だ。是非,徹底していただきたい。
 デジタル化が進んで,液晶画面に並ぶ,ただの小さな光の集積が文字に見えているだけの時代になっても,画数が問題にされつづける。これからは,画数よりも画素数で占うようになるのかもしれない。これは文化である。もちろん,阿呆文化だけれども。

松尾貴史 (2009). なぜ宇宙人は地球に来ない?—笑う超常現象入門— PHP研究所 pp.192

消えた小人たち

 プロレスのリングだけでなく一時はテレビのバラエティーでも彼らの姿を見ることが出来た。
 ドリフの『8時だヨ!全員集合』のコントの中に突如として現れる小さな男。
 子供心に最高にインパクトがあった!ときにはドリフの笑いよりも,会場のちびっ子達の笑いをとっていた。

 しかし,いつの日からか,ドリフのコントからあの人達が消えていった。
 先日,加藤茶さんとテレビの収録の合間にお話をしたとき,当時の全員集合の笑いのコードについて加藤さんは言った。
 「あのころはさ,面白かったんだよ。うちの番組でも小人レスラー使ってたの,海坊主。もう,出てきただけでみんな爆笑でさ,それが出られなくなっちゃったんだよ。もったいないよなぁ。本人達も客席が沸くから喜んで出てたんだよ。だけど事情があって出れなくなった。もう見れなくなっちゃったんだよな」
 どういう事情かはここで書く必要もないが,とにかくきえちゃったんだよな,あの人達。

玉袋筋太郎 (2010). 絶滅危惧種見聞録 廣済堂出版 pp.157-158

物語好きなスポーツニュース

 スポーツニュースは「物語」が大好きだ。主人公はその日に活躍した選手,つまり文字どおり「ヒーロー」である。
 しかしスポーツニュースは物語を語りはじめると,事実関係の記述がおろそかになったり,論理に飛躍がみられたりする。まさに,起こったことよりも「起こったことがどう理解されるべきか」を伝えている証拠である。裏を返せば,記事の事実関係があやしくなってきたら,それはナラティブに入ったしるしであり,社会的価値観が投影されようとしているサインとみることができる。

森田浩之 (2007). スポーツニュースは恐い:刷り込まれる<日本人> 日本放送出版協会 pp.56-57

「日本人らしく」してほしい

 日本人選手が海外でプレーすることはすっかり当たり前になったけれど,スポーツニュースは彼らに「日本人らしく」いてほしいと思っているようだ。日本人は海外に出ると苦労するぞ,やっぱり暮らすのは日本がいちばんだ,という目線はぶれることがない。
 気持ちはわからなくもない。しかし時代のキーワードは,とりあえず「グルーバル化」である。人もモノもカルチャーも軽々と国境を越え,ときにはどこかで入り交じり,無国籍,多国籍なものが生まれつづけているご時勢に「やっぱり日本がいちばん」というメンタリティーでいいのかとも思える。

森田浩之 (2007). スポーツニュースは恐い:刷り込まれる<日本人> 日本放送出版協会 pp.89-90

「ママさん選手」

 女子選手の私生活に目を光らせるスポーツニュースは,彼女たちが結婚しているかどうかに特別な関心を寄せる。女子選手が結婚すると「ミセス」「奥さま」とうれしそうに呼び,出産でもしようものなら,すぐに「ママさん選手」と呼びはじめる。
 これも女子選手だけに向けられる偏ったまなざしだ。「パパさん選手」と呼ばれる男子選手はひとりもいない。

森田浩之 (2007). スポーツニュースは恐い:刷り込まれる<日本人> 日本放送出版協会 pp.28

社葬は日本独自

 注目すべきは,この慣習が日本特有のものだという点である。
 「社葬」にあたる英語を和英辞典で調べてみると,「a company-sponsored funeral」といった訳語が示されている。しかし,実際にこうした英語が使われているのかどうかを調べてみると,その実例は見つからない。これはあくまで「社葬」の内容を説明した英語の解釈であって,海外には,社葬にあたるものは存在しないのだ。
 日本の企業社会では,経営者は会社の顔としての役割を果たす。創業者ともなれば,一代で企業を大きくした功績が認められ,社会的に高い評価を得る。その点で,カリスマ的なトップの死は1つの事件であり,ときには社会全体の大きな話題となる。
 その人物が亡くなると誰が後継者となるかが大問題となる。それは企業の信頼性に関係する。十分な能力をもつ後継者があらわれなければ,企業そのものへの評価が低下し,ひいては業績にも影響が出る。
 したがって,その会社の社葬は,取引先に対して,さらには社会全体に向かって,後継者の披露の機会ともなる。後継者が喪主をつとめることも多い。立派な葬儀をあげられるかどうかによって後継者の評価も変わる。
 そうである以上,たんに葬式をあげるだけでは不十分で,亡くなった前経営者の業績を讃えつつ,死後も会社が安泰であることを示すにふさわしい葬式を営まなければならない。そこに社葬の意義がある。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 pp.28-29

ニューギニアの特徴

 ニューギニアの社会が,言語学的にも,文化的にも,政治的にもばらばらであることは,その地形の複雑さや,小規模血縁集団や集落のあいだで戦闘がひんぱんに繰り返される状態がずっとつづいていたことで説明できる。ニューギニアは,世界でも飛び抜けて言語の数が多い地域である。面積はテキサス州よりわずかに大きいだけなのに,世界に6000ある言語のうち,なんと1000がニューギニアに集中し,数十を超える言語グループに分かれて存在しているのである。そして,それぞれの言語は,英語と中国語のちがいに匹敵するほど異なっている。ニューギニアの言語の半数は,言語人口が500人にも満たない。最大の言語人口を誇った言語グループでも10万人そこそこである。しかも,何百もの小集落に分裂しているニューギニア人は,同じ言語グループの集落や,他の言語グループの集落を相手に激しく争っていた。そして,これらの集団は,族長や職人を支えたり,治金技術や文字システムを発達させるにはあまりにも小さすぎた。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.145-146

ミードの誤りは有名だが,これは誰のこと?

人口25人の小規模血縁集団を3年間観察して,殺人は1度も見かけなかったという調査結果にもとづき,人類学者が小規模血縁集団や部族社会を非暴力的で穏やかな社会と理想化していたこともあった。しかし,そのような集団では,殺人など起こるはずがないのである——大人十数人と子供十数人が,避けようのない死とともに日々暮らしている社会で,3年ごとに大人が1人殺されたら集団が存続しえないことは想像にかたくない。とはいえ,小規模血縁集団や部族社会をもっと長期にわたって,詳しく観察した調査では,殺人が主な死因の1つであることが明らかになっている。私自身も,ニューギニアのイヤウ族の女性たちが,自分の身のまわりで起こった殺人について話すのを耳にしたことがある。それは,ある女性人類学者がイヤウ族の女性たちにそれまでの人生について取材しているところに,たまたま出くわしたときのことだった。彼女たちは,夫の名前を尋ねられると,暴力によって殺された複数の夫の名前を,誰もがつぎつぎと口にした。彼女たちの典型的な受け答えは,つぎのようなものであった。「私の最初の夫は,奇襲をかけてきたエロピ族の男たちによって殺されてしまった。2番目の夫は,私を欲しがった男によって殺された。そして,3番目の夫になったその男も,仇をとりにきた2番目の夫の弟によって殺された」。こうした事件は,穏やかと思われていた部族社会で頻繁に起こっていた。規模が大きくなるにしたがい,部族社会が集権化されるようになった一因も,そこにあったと思われる。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.102-103

首長社会

 首長社会は,集権的に統治されている社会であり,そうした非平等な社会につきもののジレンマに陥っていたことは明らかである。首長社会は,個人で得るには費用がかかりすぎて実現不可能なサービスを提供できる。その反面,富を平民から吸い上げ,首長たちによる搾取をいとも簡単に可能にする。もちろん,どちらか一方を優先的におこなう社会もあるが,この2つは不可分に結びついており,搾取がおこなわれるか賢政がおこなわれるかは程度問題にすぎない——つまり,エリート階級が泥棒とみなされるか大衆の味方とみなされるかは,再分配された富の使い道に対する平民の好感度がどれだけかによって決まる。数十億ドルという税金を私物化したザイールのモブツ大統領は,人民にほとんど再分配しなかったので泥棒政治家である(ザイールには,ちゃんと機能する電話網すらない)。そしてモブツとは正反対に,私腹を肥やさず,税金を広く賞賛される政策に費やしたので,立派な政治家と思われているジョージ・ワシントンは,ニューギニアの村々より富が不公平に偏っているアメリカ合衆国の裕福な家系の出である。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.100-101

実体の模倣とアイデアの模倣

 文字システムは,「実態の模倣」か「アイデアの模倣」のいずれかによって1つの社会から別の社会へと広がっていった。誰かが何かを発明したとき,それがうまくはたらいていることを知っている人が,わざわざ自分で似たようなものを独自に作りだそうとするだろうか。技術や概念といったものは,「実態の模倣」か「アイデアの模倣」で伝播するのがふつうである。
 何かの発明が「実態の模倣」によって伝播されるときは,入手可能な情報が詳細にわたって模倣借用され,一部が修正されたりして使用される。「アイデアの模倣」では,基本的なアイデアが借用されるだけなので,最終成果物がオリジナルと類似していることもあれば,まったく類似していないこともある。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.26-27

読み書きが差をつけた

 あるふれた言い方になるが,アタワルパやチャルクチマ,そしてモンテスマをはじめとする数多くのアメリカ先住民の指導者たちがヨーロッパ人にだまされてしまったのは,スペイン人に関する詳細な情報を得ることができなかったからである。スペイン人が新大陸にやってくるまで,新世界から旧世界を訪れたものが1人もおらず,そのためヨーロッパ人に関する詳細な情報を得ることができなかったのである。そうした事情を十分考慮に入れても,われわれの結論は,もしアタワルパの属していた社会がもっとさまざまな人間の行動パターンというものを経験していたなら,アタワルパはピサロ側をもう少し疑ってかかっていた「はずだ」ということにならざるをえない。ピサロ側もまた,カハマルカに来たときには,1527年と1531年にインカの民を尋問して得た情報しか持ち合わせていなかったからである。ところが,ピサロ自身は文字が読めなかったとはいえ,読み書きの伝統を持つスペイン側は,書物などから情報を入手して,ヨーロッパから遠く離れた場所の同時代の異文化や,何千年間のヨーロッパの歴史について知っていた。ピサロは明らかに,コルテスの成功した戦略を学んでアタワルパを襲撃しているのだ。
 要するに,読み書きのできたスペイン側は,人間の行動や歴史について膨大な知識を継承していた。それとは対照的に,読み書きのできなかったアタワルパ側は,スペイン人自体に関する知識を持ち合わせていなかったし,海外からの侵略者についての経験も持ち合わせていなかった。それまでの人類の歴史で,どこかの民族がどこかの土地で同じような脅威にさらされたことについて聞いたこともなければ読んだこともなかった。この経験の差が,ピサロに罠を仕掛けさせ,アタワルパをそこへはまり込ませたのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.118-119

歴史による実験

 生物学的差異による説明と,一見,同じくらいの説得力がありそうなのが,つぎのような説明である。オーストラリアに移り住んだ人びとは,先住民たちが四万年以上にもわたって鉄器を持たない狩猟採集民の生活をしていた大陸で,100年もたたないうちに,文字文化を持ち,産業化され,集権的政治構造を持つ民主国家を築きあげた。これは,先住民とヨーロッパ人を実験材料に,人間社会のちがいを再現したようなものではないか。オーストラリア先住民社会とヨーロッパ系オーストラリア人社会は,構成員こそ異なっているが,舞台はまったく同じである。この2つの社会のちがいが構成員のちがいによって生まれたことを証明するのに,この実験以上の証拠が必要だろうか。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.25-26

人種差別の受容

 今日,人種差別は,西洋社会で公には否定されている。しかし,多くの(おそらく,ほとんどの!)西洋人は,個人として,あるいは無意識のうちに,依然として人種差別的な説明を受け容れている。日本やその他多くの国々では,人種差別的な説明がいまだ何の言い訳もされないまま,まかりとおっていたりする。アメリカやヨーロッパやオーストラリアの社会では,高等教育を受けた白人でさえも,話がオーストラリア大陸のアボリジニのことになると,アボリジニ自身に原始的なところがあると考えている。たしかに外見的にはアボリジニは白人とはちがう。ヨーロッパ人の植民地時代を生き延びたアボリジニの子孫の多くは,いま,白人が支配する現代のオーストラリア社会で経済的な成功をおさめることのむずかしさを感じはじめている。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 p.25

男女双方において姿勢を修正することが必要

 男女の混じった集まりで,男ばかりが発言するような状況に接すると,たくさんの女性——そしてコミュニケーションの研究家までも——が,男が会を「牛耳って」いる,男は女性が会話に参加することを妨げて自分たちの優位性を誇示している,と解釈してしまいがちだ。しかし,たとえ結果的に男性がその場の会話を独占する形になったにせよ,彼らは意図的に女性から発言のチャンスを奪いとっているわけではない。よく発言する人は,ほかの人たちにも平等に発言のチャンスが与えられていると考えているのだ。
 その意味では,男性は女性を自分と対等に見なしているといえる。つまり,「男も女も関係なく,誰でも主役になれるんだ」ということだ。そもそも女性自身の目から見ても,男性を責めるだけではなく,自分たちももっと積極的にアンバランスを解消するような姿勢をとらなくてはならないと感じることもあるはずだ。
 要するに,男女双方において姿勢を修正することが必要である。女性は,自分から会話の中に飛び込むくらいでなければダメだ。また男性も,パブリック・スピーキングに慣れていない女性たちは,公の場で男のようには気軽に発言ができないのだという事実を認識すべきだ。誰かがしゃべり終えてから,適度な間を置いて話すのが礼儀と心得る一部の女性にとって,他人の話が終わるか終わらないかのうちに,口をさしはさむといったマネはできない。

デボラ・タネン 田丸美寿々(訳) (2003). わかりあえる理由・わかりあえない理由:男と女が傷つけあわないための口のきき方8章 講談社 pp.119-120

サミュエルソンがハーバードを去った理由

 なぜサミュエルソンは,多くの俊才と影響力を誇った絶頂期のハーバード大学経済学部を去って,経済学の地位がまだ低かったMITに移ったのだろうか?彼が言うには,移籍したのには2つの理由があったからだという。
 1つには,「もっと高い給料をやると言われたから」である。
 しかし,もっと深い理由があった。たしかにハーバードで経済学理論の講座を持つには彼の能力が及ばないなどと思っている者はいなかったし,彼自身も決してそう思わなかったが,かといって彼が去ることになっても「[同大学にとって]修復できないほどの痛手にはならないだろう」と彼自身は感じていた。なぜだろうか?反ユダヤ主義であろうか?この問いに対するサミュエルソンの1983年の返答は,「たぶんそれが最も単純な説明であろうが,……もし単純な仮説がすべての事実を説明し切れない場合には,その仮説を信じる必要はないと思う」というものだった。第二次世界大戦前のアメリカの大学では,今日では考えられないほど反ユダヤ人の雰囲気があったが,ユダヤ人でなくても例えば「カンザス州出身である」というだけで田舎者扱いされて,当時のハーバードで終身教授の座を得られなかった優秀な学者仲間がいた,と彼は指摘している。「現実の複雑さは1つの要因では説明し切れないものだ」とサミュエルソンは移籍の理由を要約している。

ピーター・L・バーンスタイン 青山護・山口勝業 (2006).証券投資の思想革命(普及版) p.169

日本語を読める人を世界に

 私が主張する日本語の国際普及とは,その主たる目標として先進諸国に日本語の読める人,読書人口を増やそうということに過ぎません。話し言葉までは要求しないのです。これがどのような意味を持つものなのかは日本における外国語学習の歴史を考えてみれば直ぐ分かります。
 前にも述べたように日本人の外国語学習のあり方を歴史的に俯瞰して見ると,それは常に殆ど指導者階級に属する人々だけが外国語の書物を読んで理解し,それを日本語に翻訳することだったといえます。何しろ日本は国としても色々な事情で外国人との直接接触もまた相互交流も殆どなかったからです。ですから外国人と会話することなど外国語学習の主目的には含まれていませんでした。日本人は殆ど書物を読むことを通して外国の進んだ技術,新しい考えをどんどんと国内に取り入れたのです。勿論同時に優れた製品の輸入も行われたことは言うまでもありません。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 p.235

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