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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

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母親だけ責められる

 大きな問題は,論理的に考えてみると,母親のみを責めることがこれほど広がっていることの説明がうまくつかないということだ。母親の育児の主な担い手であるような家族でさえ,子どもたちは他の人々や事物——父親,親戚,家族ぐるみの友人,教師,仲間,メディア,書籍,子ども自身の生得的な特徴(乳児は生まれた時から気質がそれぞれ異なることが知られている)——の影響にさらされている。専門雑誌に掲載されたメンタルヘルスの専門家の125本の論文を対象にした研究によると,母親は,おねしょから統合失調症までの72種類の子どもの問題について責められていた。その研究は,この125本の論文を,母親と父親のそれぞれを記述するために使われている単語の数,子どもの問題の原因を母親のみに直接に帰属するもの,過去の文献の母親非難を疑うことなく受け入れているもの,その過去の研究を子どもの問題に関する説明の中に組み入れているもの,といった基準をもとに63種類の母親非難に分類している。63種類の非難のいずれにおいても,父親やその他の人は母親ほど責められておらず,母親非難の頻度や激しさは圧倒的なものだった。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.242-243
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価値と未熟さ

 もう1つ重要なこととして,どのような文化でも,敬意がほとんど払われていない行動や価値の低い行動は,いわゆる専門家によって,未熟さの兆候だとか不適切なもの,あるいは望ましくないものというようなラベルを貼られる恐れがあるということだ。白人で中流階級の男性が,他の人々よりも敬意をもって扱われる傾向のある社会では,白人中流男性と結びつけられるような行動は,成熟の証拠や確固たる情緒的適応の証拠として扱われやすい。このように,依存性,対人関係能力,行動のラベルづけについての研究は,何が健康的で何が健康的でないのか,何が人生を豊かにしてくれなにがそうでないのかを整理する際に,特に重要になってくるのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.220

自然に学んで大きくなった

 しかしながら,科学者は単に心理を発見し記しているだけではない。性別とジェンダーを研究している科学者も,他の人々と同じように,女性や男性がどのようなものである「はず」だということを学びながら大きくなったのだ。科学者も,たとえば,男の子は(銃を持った人形でない限り)人形で遊びたがらない,女の子はホッケーができないというようなことを耳にしてきたはずだ。人はどのようなものだ,あるいはどのようなものであるはずだという信念は,科学者がいかに研究をするか,世界をいかに見たり記述したりするか,ということに影響を及ぼしている。女の子と男の子は,まったく同じことをしているのかもしれないが,1人が女の子で,もう1人が男の子であるために,その行為は違うものとして記されるかもしれないのだ。たとえば,火で遊ぶ女の子は料理や子育てをしたいという生まれながらの願望を示している,火で遊ぶ男の子は生まれついての消防士だとか生まれつき勇敢だとか言われるかもしれない。科学者は,こうしたバイアスをもたず,「客観的」で,自分たちの考えや感情に影響されることなく世界を見ることができると誤解されていることが多い。さらに,多くの心理学者は,他人の発言をさえぎるような男性の行動を,好意的な意味で,主張性と名づけたりする。他の人からは無作法と呼ばれるかもしれないのに。このような場合に,どちらのラベルを選ぶかは,その人の経験や視点が反映される。だれもバイアスから逃れることはできない。それが真実だ。しかし,科学者は時に,自分の研究の解釈が,絶対に客観的な真実であるかのように発表する。人々は研究者が行った性差についての主張を聞き,それが真実であると思い込み,それに従って子どもたちを育てる。その子どもたちの中から性差を研究する科学者が生まれる。こうしてバイアスの循環が続くのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.2-3

ラピュタの元ネタ

 しかし,CBA(引用者注:Cosmic Brotherhood Association。UFO団体)が展開した宇宙考古学を,娯楽物語の設定に見事に取り込んでしまったのは,なによりも『天空の城ラピュタ』(宮崎駿監督,1986年)が一頭地を抜いている。伝説のラピュタを撮影した写真と,特務機関がその証拠であるロボットをこっそり回収していたということ自体,UFOの目撃とロズウェル事件をそのまま反復している。超古代に栄えた文明,金星人よろしく地上におりたラピュタの王族,そしてその叡智を伝える楔形文字風の古代文字と呪文,どれも前述した神智学周辺ではおなじみの主題である。ラピュタの内奥にある「玉座の間」の場面では,マヤ文明か縄文を思わせる紋様の巨像が鎮座しているが,その姿や途中の回廊で朽ち果てたロボットも,どこかしらタッシリ・ナジェールの「火星人」や遮光器土偶を連想させもする。きわめつきは「ラピュタの書」だろう。核兵器を連想させる威力をみせつけてムスカは,これこそが「旧約聖書にあるソドムとゴモラを滅ぼした天の火だよ,ラーマヤーナではインドラの矢とも伝えているがね」と,宇宙考古学そのままのセリフを吐くのである。宮崎駿自身が語るところによれば,以前,インドとの合作で叙事詩の『ラーマヤーナ』を映像化する話があり,その際に,プロデューサーが「地球は1回核戦争にあっている」という内容の本を置いていったという。結局,『ラーマヤーナ』の話はなくなったものの,その本で「古代に空を飛んだり,核兵器を操ったりしたというようなことが,インドでは信じられている」ということを知り,それが古代の機械文明というラピュタの主題につながったように思うと述べている。時期と内容からいって,その本は橋川卓也ほか『人類は核戦争で一度滅んだ——古代から現代へ発せられた恐るべき警告!!』(Mu super mystery books,学習研究社,1982年)あたりかと思うが,こうした着想探しは,あまり意味のあることではないだろう。デニケン以降,こうした主張の類書はそれこそ無数にあるからである。

橋本順光 (2009). デニケン・ブームと遮光器土偶=宇宙人説 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.85-110

トイレ習慣の2分類

 トイレの習慣に関しては,世界はおおまかに言って2つに分類される。湿式(水で流す)と乾式(水を使わない)である。肛門をきれいにする方法でいえば,水を使うか紙を使うか。右側通行と左側通行の習慣同様,このような文化が突然変わることはめったにない。インドやパキスタンには水を使う文化があって,排泄後に局部を洗い流すための,ロタ(小さな水差し,あるいはコップ)入りの水がなければ,トイレを我慢することさえある。トイレ空間の世界的権威,アレクサンダー・キラによると,19世紀のインド人は,ヨーロッパの人々が紙で局部を拭くという話を信じようとせず,その話を「不道徳な中傷」だと考えたという。
 そして日本は,トイレ習慣に関しては紙の文化である。拭く文化であって,洗う文化ではない。けれども,毎日の入浴の習慣や,衛生や礼儀に対する厳格な考え方からすると,日本には洗う文化も存在する。清潔,清浄を保つことは神道の4つの教えの1つである。ヨーロッパの人々のように,身体を洗わずに湯船に入ることは,日本人には考えられないことだ。日本には古くから檜でできた共同浴場の伝統があり,そこでは,湯船につかる前に身体をきれいにするのが当然だからである。
 ところが,こうした衛生に関するルールは,トイレには持ち込まれなかった。日本人は,紙で拭く習慣をもつ世界中の人々同様,お尻が汚れたまま外を出歩くことになんの抵抗も感じていなかった。紙で肛門を拭くことは,衛生学的には,乾いたティッシュで身体を拭いて,汚れが取り除けたと考えるのと同じくらい意味がない。
 紙で拭く文化は,実際のところ,人間の身体のもっとも不潔な部分を,もっとも効果のない方法できれいにしようとしている文化だ。そして,このことを衝撃的な形で実証したのが,J.A.キャメロン博士のすぐれた調査である。博士は1964年に,イングランド中南部のオックスフォードシャーに住む940名の男性のパンツを調べ,そのほぼ全員のパンツが便で汚れていることを突き止めた。その程度は「ミツバチ色のシミ」から「かなりの大きさの,まぎれもなく便とわかるもの」まで多岐にわかっていた。キャメロン博士は,この結果に愕然として,「大部分の人は,レストランのテーブルクロスについたトマトソースのシミ程度で,すぐに大声を張り上げるが,一方では便で汚れたパンツのまま上質のソファに座り,贅沢な暮らしを楽しんでいる」と述べた。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.39-40

ハイテクトイレ

 日本は,世界でもっとも進歩した,驚くようなトイレを製造している。血圧を測定し,音楽を流し,便器の中に装備されたノズルから出るお湯と暖かい空気によって,肛門と「フロント部分」を洗浄および乾燥し,臭いの元を吸収し,夜中によろめきながらトイレに入ろうとする人のために電気をつけ,使用者に代わって便座を上げ下げしてくれ(これは,「結婚生活を破綻から救う機能」として知られている),タンクなどという古めかしいものなどなくても,排泄物を流してくれる。これらは,高機能トイレに付随する機能だが,最低でも,内臓ビデと暖房便座,そしてしゃれたコントロールパネルは装備されている。
 その結果,ここ数年,はじめて日本を訪れた旅行者は,帰国後,みな同じようなみやげ話を披露することになった。使用済みの下着を売る自動販売機と,得体のしれない「スシ」なるものにとまどいを感じる合間に,次のような出来事に遭遇するためだ。トイレに入ると,便器のわきにハイテクのコントロールパネルがあるのに気づく。パネルにはたくさんのボタンがあって,それぞれに何かのシンボルが描かれている。そして,便器の奥には奇妙なノズルが見える。日本語はわからないし,ボタンの上のシンボルの意味も,たまに添えられている英語に翻訳された説明書きも理解できない。このボタンを押すと,水が流れるのかしら?それともタンポン引き抜き器が出てくるの?いったい全体この「フロント・クレンジング」ってなに?用を足した外国人は,ごくふつうの水洗レバーをむなしく探す。そしてまた——今度もむなしく——コントロールパネルのどのボタンを押せば水が流れるのだろうと考える。とりあえず,1つ押してみる。するとノズルから水が飛び出し,下半身がずぶ濡れに。

ローズ・ジョージ 大沢章子(訳) (2009). トイレの話をしよう:世界65億人が抱える大問題 日本放送出版協会 pp.33-34

プロの隠遁者

 当時は,若者たちが教育の締めくくりとして欧州文化に触れる旅行に出た,大旅行時代だった。彼らは古典的な概念にかぶれて帰ってくると,自分の屋敷や庭園をプーサンの絵のようにしたがった。そしてローマの神殿を彷彿させる新古典主義の屋敷を建て,“可能性のブラウン”などの造園家を雇っては,ただの田園風景を技巧的かつ古典的な田園風景に変えていった。
 そんな造園ブームの頂点にいたのが,“可能性のブラウン”だとすれば,その山の下草に潜んでいたのが,プロの隠遁者として雇われた者たちだった。というのも,自分なりのアルカディアを作るには,人生のはかなさや富のむなしさを瞑想する風雅で賢い苦行者が庭園の隅にうろついていなければ,その景色は完成しないからだ。
 しかし18世紀のその時代,本物の隠遁者など,そうそういるものではなかったし,本物の苦行者は決して安くは手に入らなかった。だが,この究極の新古典主義的装飾品がどうしても欲しかった地主たちは,奇人や知的障害者,詩人,あるいは経済的に追いつめられた者たちを雇い,この役を演じさせたのである。結局,この流行は1740年ごろからおよそ100年ものあいだ続いた。シュールズベリにほど近いホークストーン・パークにも,そのような苦行者がひとりいたが,1830年,世間の圧力に屈したサー・リチャード・ヒルは,彼との契約を解除し,代わりに苦行者の人形を置いたのだった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.233-234

弦という革命

 17世紀には,弦づくりの技術革命があった。それ以前のヴァイオリンの弦は3本だけだった。弾力のある輪ゴムをはじいてみたことがあればわかることだが,短くて太い,ピンと張った弦は高音を出し,太くて長い弦なら低音になる。ヴァイオリンのつくり手たちは,ヴァイオリンに合うように短くてなおピンと張った,いちばん低い音を奏でる太い弦をつくりだすのは無理だとあきらめていた。
 その問題がついに,羊の腸の繊維を撚り合わせるという新手法によって解決した。現代の4弦ヴァイオリンを誕生させたのは,この技術だった。そのおかげで,クレモナのストラディヴァリウスとその仲間の熟練工たちがかの有名な弓奏弦楽器(フィドル)をつくりだせたのだし,作曲家たちはバロック音楽をつくることができたのだ。
 そういうわけで,弦づくりというのは革命的な職人たちだった。腸繊維を撚ること自体はさほど難しい仕事ではなかったが,なによりもまず原料を手に入れなくてはならない。今でこそ弦づくりはすっかり整えられた腸を買い入れるが,スチュアート朝時代は,職人たち自らが羊の腹の腸を取り出さなくてはならなかった。
 そう,羊(シープ)である——猫(キャット)ではなく。ヴァイオリンの弦が“猫の腸(キャット・ガット)”と呼ばれることもあるが,弦づくりたちが猫殺しの階級出身などということはない。『ブリタニカ大百科事典』には,イタリア語でヴァイオリンは“キット”であり,その弦は“キット・ガット”,そこから“キャット・ガット”に変化したという説が示されている。初心者が弦楽器に弓を走らせたときにたてるキーキーいう音を考えてみると,その言葉があてはまったのも無理はないと思う。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.204-205

天井に描く

 ドームに絵を描く仕事は,臆病者には向かない。仕事場は,いちばん低い地点でも協会の床上35メートルの高さがある。ソーンヒルと助手たちは来る日も来る日も,1時間近くかけて描きたいと思う場所へたどり着く。それから,つらい仕事の始まりだ。
 ドーム内部は,天井から吊った足場に取り巻かれている。絵描きたちの落下を防止する手すりなどない。低いほうの段ではほぼ直立した姿勢で作業ができるが,上に行くに従って,丸天井の湾曲のためにうしろへ反った無理な姿勢をとることになる。背面にあるのは,はるか下の大理石の床まで目がくらむような落差だ。この仕事には,急性不安と慢性めまいをカクテルにしたような症状がつきまとう。死亡事故こそ起きなかったものの,危機一髪の話はある。ソーンヒルがあとずさっていて,危うく足場の縁ぎりぎりまで近づいた。さて,びくっとさせて地面にまっさかさまという結果にならないよう,助手はいかにして彼の注意を引いただろうか?その苦肉の策で,当然受けてしかるべき感謝は得られなかったかもしれない。助手はただたんに絵の具の缶を壁に投げつけただけだった。

トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.200-201

手間をかける

 ふつうの人はあまり知らないが,マジシャンや“超能力者”は,実際に技を披露するまでに,準備にたっぷり時間と労力をかける。イギリスのマジシャン,デイヴィッド・バーグラスの例をご紹介しよう。
 彼はロンドンの裕福な銀行家が住む3階の部屋に招かれて,技を披露することになった。バーグラスは銀行家から空の牛乳瓶を借り,それに長い紐をくくりつけ,部屋の窓からゆっくり下へ降ろした。
 つぎに彼は果物のボウルから梨を1個とり,どこかへ消してしまった。そして銀行家に,紐を引っ張って牛乳瓶を引き上げるように頼んだ。引き上げてみると,なんと瓶の中にその梨が入っているではないか。瓶の口からは,絶対に入らない大きさの梨である。
 いかにもその場での即興に思えるこの手品の裏には,長期にわたる計画がひそんでいた。何ヵ月も前にバーグラスは梨の木に若い小さな実を見つけ,その枝の1本を空の牛乳瓶に入れた。時間とともになしは瓶の中で大きくなり,それが一見常識ではありえない手品の小道具になった。
 実行するにあたって,バーグラスは助手にあらかじめ表に出ていてもらい,3階から降ろした牛乳瓶を,梨が入った牛乳瓶と交換させた。そのようにして,彼は手品がはじまったのはほんの数分前と信じ込んでいる客たちをだましおおせたのだった。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2012). 超常現象の科学:なぜ人は幽霊が見えるのか 文藝春秋 pp.116

ローベルの童話

 アーノルド・ローベルの童話に出てくる大真面目で愛らしい「がまくんとかえるくん」も,自制心がどれほどあてにならないかを身にしみて悟った。『クッキー』というお話のなかで,がまくんとかえるくんは焼きたてのクッキーを食べ始めてとまらなくなってしまう。そこでかえるくんがクッキーを箱に入れて紐で縛り,ハシゴを使って高いところにあげようとする。ところがそのたびに,そんなことをしたって無駄だとがまくんが言う。マリリン・モンローに頼まれたトム・イーウェルのように,簡単に箱を下ろすことができるからだ。とうとう,かえるくんはクッキーを持ちだして小鳥たちにやってしまう。小鳥たちは喜んでクッキーを食べつくす。
 この物語は,プリコミットメントには拘束力がなくてはならないことを教えている。プリコミットメントがほんとうに効果的であるためには,ほんものの強制力が必要だ。だが,その強制力は自分で自分に科すものだ。ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインはこのことをよく理解していた。彼は第1次世界対戦にオーストリア軍兵士として従軍し,恐ろしい戦争体験をしたあと,2度と以前のような安楽で快適な暮らしに戻るまいと決意する。哲学者ウィトゲンシュタインの父親は事業家で,戦争前に有り金をすべてアメリカ国債に注ぎ込んでいた。これは驚くべき慧眼で,おかげで息子はヨーロッパ一の金持ちの1人になり,フロイトなどほかの裕福だったウィーン人のように貧乏を経験せずにすんだ。だがウィトゲンシュタインはその金を全部捨てると決意し,反対を押し切って兄弟姉妹たちにすべてを譲る法的手続きを取ると主張した。姉のヘルミーネは書いている。「彼はもはやどんなかたちの財産も自分にはないということを,何百回も確認したがりました」。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.60-61

ウォーホルの収集癖

 コレクターの中には,奇抜さと病的というべき状態とを兼ね備えた人もいる。アンディ・ウォーホルはアーティスト,映画監督,写真家,そしてセレブリティであり,当時の大衆文化を反映したポップアートの旗手とされる。彼が描いたキャンベル・スープ缶やコカ・コーラのビンといった商品の絵画はアメリカ文化の再現であり,特別なものではなく日常的なモノを取っておく方法であった。ウォーホルはまた熱心なコレクターでもあり,毎日のように蚤の市や骨董店,オークションハウス,画廊などで——何か興味を引かれるモノが見つかれば,どこででも——買い物をした。彼はあらゆる種類や時代の芸術品だけでなく,ガラクタとみなされそうなモノも集めた。そして他の有名なコレクターと同様に,収集品の一部を展示しただけで,ほとんどのモノは倉庫に保管していた。それでも,ニューヨーク市にあった彼の5階建ての家はモノで埋まり,使えたのはたったの2部屋だけだった。彼の買い物にしょっちゅう同行したスチュアート・ピヴァによれば,ウォーホルはコレクションの少なくとも一部を売却する計画を立てていたが,58歳で亡くなったときにはまだ収集段階にいた。彼が果たしてこの段階を超えられたかは疑問である。一度彼は,メキシコの儀式用仮面をある骨董店に販売委託したことがあったが,実際に売られてしまうことが怖くなって取り戻している。

ランディ・O・フロスト ゲイル・スティケティー 春日井晶子(訳) (2012). ホーダー:捨てられない・片付けられない病 日経ナショナルジオグラフィック社 pp.76
(Frost, R. O. & Steketee, G. (2010). Stuff Boston: Houghton Mifflin Harcourt)

二度と戻れない

 海外で何年も活動したのちに帰国した日本人の多くは,自分の思考や行動が「突出」しないように,自己検閲,自己監視するようになるという。そうした人々が,古い企業の硬直したシステムにふたたび順応するのにとても苦労するという話をよく聞く。そういう企業では,仕事仲間のあいだで異質な存在にならないように,そして無用な摩擦を起こさないように,海外で活動していたことは「きれいさっぱり忘れろ」といわれるのである。しかし,けっきょくなじめずに,国内の外資系企業に転職するものも少なくない。また,彼らの子供は,外国語を話すだけでなく,しぐさや表情も日本人のそれとは違ってしまっているので,学校で陰湿ないじめや虐待を受けることが多い。
 もう二度と日本には戻れないという海外在住者もいる。隔たりが大きすぎるのである。現在,アメリカの法律事務所や監査会社は,欧米で学び,日本に帰れなくなった才能ある日本人であふれかえっている。彼らが見捨てた日本の組織は,たいていの場合,そういう才能ある元社員が海外で身につけた技能や知識から利益を得ようとは考えもしないようである。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.390-391

セマイ

 日本人は自分の国について尋ねられると,たいてい「セマイ」という言葉を使う。「窮屈」「狭い」「混みあっている」というような意味である。この表現を用いるのは,カリフォルニア州ほどの面積の起伏の激しい列島に,1億2600万人が暮らしているので,ひじょうに過密な状態だ,ということをいうためである。なにしろ険しい山岳部が多いので,住宅地や農耕地の面積は限られているのだ。しかし,「セマイ」という言葉は,物理的な狭さ以上の意味を含んでいる。たとえば韓国やオランダも面積は小さく,日本よりも人口過密な国だが,外国に対しては日本よりもはるかに開かれていて,外国人との接触を日本人のようには恐れない。韓国やオランダは,日本と違って,他の国と物理的に分離されていないからであろう(オランダ人はなぜ,オープンな国際感覚を備えたコスモポリタンなのか,その理由を,アムステルダムの友人ハンに訊いてみたところ,こんな答えが返ってきた。「オランダでは電車で居眠りをしたら,外国で目覚めることになるからさ」)
 じっさい,「セマイ」という言葉は,たんに地理的なことを意味するだけではなく,辺境で旧弊な思考と閉鎖的・排他的な人間関係から生じる心理的な圧迫感も意味しているのである。密接な人間関係と窮屈な社会的ネットワークが,私的な空間と個人の自由を制限しているのだが,そのような狭苦しさは,日本人の精神の産物だと考えると,よりよく理解できる。「日本の硬直したシステムは,個人を束縛し,海外の新しい考え方という新鮮な空気を締めだしている。それがいまの日本人の精神に深刻な影響をおよぼしている」と作家のアレックス・カーは述べている。また,現代の核家族家庭もいろいろな意味で狭い。ことに,かつて数世代が同居していた時代と比べれば,どうしようもなく狭い。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.372-373

フーリガン対策?

 ワールドカップ開催は両国にとって,新サッカー場の建設その他,さまざまな公共事業に何百万ドルも費やす口実となった。しかし,韓国人は,インフラ整備のみならず,ワールドカップの人間的な側面にも力を注いだようである。ソウルを訪れた外国人にとって嬉しいことに,韓国国民はさまざまな機会を設け,世界各地からやってきた大勢のサッカーファンと交流し,ともにワールドカップの開催を祝福した。さらに,大がかりな応援団を派遣できなかった国のために,わざわざ韓国人で応援団を結成した。
 いっぽう日本国民は,たえず外国人がおよぼすかもしれない危険について警告されていた。外国から来るサッカーファンはみんな,酒に酔って大喧嘩をする「フーリガン」であるかのように伝えられていた。新聞は繰りかえし,ヨーロッパのサッカーファンは凶暴だから気をつけるようにと露骨な警告を発していた。警備の警察官たちは,路上に10人以上の集団ができていたら解散させるよう指示を受けていた。韓国では,世界中からやってきた観光客を両手を広げて大歓迎したのに対して,日本では,ワールドカップの試合が予定されていた地方の宿屋,ホテル,レストランは外国人観光客を受け容れるどころか,一時的に店じまいをしていた。犯罪や暴力に巻きこまれるのを恐れてのことだったが,じっさいにはそんな事件は起きなかった。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.321

日本と韓国

 日本に住みながら,頻繁に韓国を訪問していた私は,日本と韓国では,社会的環境が著しく異なることに気がついた。何か月も日本に幽閉されたあとで,ソウルの街を歩いてみると,まるで新鮮な酸素をおもいっきり吸いこんだような気分になる。韓国人は日本人よりはるかに話し好きで,感情表現が豊かなのだ。韓国人は起業家精神にあふれていて,危険を恐れないが,日本人は危険から身を守ろうとする。韓国人は失敗について個人の責任を認めるようだが,日本人は責任を回避しようとする。韓国市民はよく抗議デモを行って,企業統治の強化や,責任の明確化を求める。対照的に,日本の市民社会——政府と商業界の中間に位置する政治的空間——は,休止状態にあり,補助金で囲いこまれ,政府に服従している。韓国では愛国精神や国家への義務という考え方から,大きな市民運動が起きることがある。日本では,愛国精神をあらわすふつうの行動や表現——白地に赤の日の丸を掲げたり,国歌である「君が代」を歌うこと——が,けしからぬこと,あるいは物議をかもすこととみなされている。ルイ・ヴィトンのハンドバッグを買うためなら何時間も辛抱強く行列に並ぶ同じ日本人が,国を救うために金やその他の貴金属を供出しようと,凍てつく冬の日に銀行の前に行列を作るところを,私は想像できない。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.317-318

日本人の性

 推定では,日本人がこのような性的サービスに支払う金額は,日本の国防費に匹敵するという。毎年何万人もの若い女性がタイヤフィリピンから連れてこられ,「興行ビザ」で入国する。そして,味気ないサラリーマン生活のストレス発散の手伝いをさせられている。日本の男たちは,しばしば中国やタイヤその他,アジア諸国に,趣向を凝らしたセックスツアーに出かけては,地元の猛烈な反発を招いていている。
 だが,じつのところ,ネオン輝く風俗店が日本各地に立ち並んでいるのは,日本では金銭抜きでうちとけた社会的関係を確立するのがひじょうに困難だからである。男性と女性はまったく別の生活を送っていて,セックスの回数も,他の国々と比較するとかなり少ないというデータもある。異性とのくつろいだつきあいというのがほとんどないのである。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.259-260

女性の給与と結婚

 欧米との決定的な差異は,日本では給料が高い女性ほど,結婚しないという点である。スウェーデンとアメリカでは,給料が高い女性ほど,同棲から結婚に至る可能性が高くなるという。このデータを集めた人口統計学者の小野博美によれば,日本では高学歴の女性ほど結婚しない傾向があるという。なぜなら,日本は性別によってのみ社会的役割が規定される社会であるため,子供を持ちながら仕事の第一線で活躍することは社会が許さないからだ。別の調査では,小野の所見を裏付けるとともに,日本の結婚市場の大きなミスマッチを浮き彫りにしている。つまり,日本では,高度な教育を受けた女性ほど,ふさわしい男性を見つけるのが難しいのである。現在,東京都内に住む50歳以上の大卒女性の12パーセントは,一度も結婚した経験がないという。いっぽう,一度も結婚したことがない男性のなかで一番多いのは,中卒以下の層である。また,これらの男性は「昔ながらの」専業主婦を求める傾向が強い。高学歴女性にとって問題なのは,子育てを分担し,共働きに理解を示す「リベラルな」夫を求めているのに,高学歴な男性の大部分も「昔ながらの」専業主婦を求めている,ということだ。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.252-253

家の狭さ

 日本人は,自宅でじっとしているときも日本のライフスタイルの貧弱さに直面している。日本は,15年にもわたる不景気にもかかわらず,名目上はたいへん豊かな国なのに,日本人の大多数が隙間風が通るような安っぽい造りの窮屈で野暮ったい家に暮らしている。この事実には誰もが衝撃を受けるにちがいない。間に合わせの材料で適当に建てたようなアパートメントや家が多く,いろいろとうるさい規制があるため細部のデザインにはろくに注意が払われておらず,住人のプライバシーもまともに確保されていない。
 かつてフランスの外交官から「ウサギ小屋」と評されて世界に悪名をとどろかせた日本の家は,いまもその頃とほとんど変わっておらず,豊かな国民が暮らすぬくもりあるすてきな家とはいいがたい。毎日仕事が終わったあとも,遅くまでレストランや酒場で過ごし,なかなか家に帰ろうとしない日本人が多い理由がわかるだろう。狭苦しくて居心地の悪い家には,あまり早く帰りたいとは思わない。韓国の首都ソウルに林立する公営の巨大な高層住宅でさえ,日本の平均的な住宅よりもずっと広いスペースがある。だが最近では海外に出かける日本人も増えているので,たいていの者はわかっているはずだ。政財界の閉鎖的ネットワークの策略で日本の消費市場は開放されておらず,真の競争が行なわれていないので,物価が高くつりあげられ,商品選択の幅が狭められているということを。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.213-214

哲学の軽視

 日本はひたすら科学技術を習得し,近代化を推し進め,列強に追いつこうとしたが,そうやって西洋から拝借した技術や思想の基礎となっている哲学的,あるいは宗教的な部分すなわち個人の確立,探求,冒険といった部分には目を向けなかった。日本は100年のあいだに,外国からテクノロジーを輸入し,模倣する名人となったが,他の文化がそのような進歩を育むために頼みとしてきた哲学的な手法はいっさい無視した。日本人は,師匠の作ったものをそっくり模倣することが,新しい技術を習得する最も効率的な方法であることを知っていた。そうしてルノーやオースティンの自動車を模倣して,トヨタやニッサンの車をつくり,「リバース・エンジニアリング(他社の製品を分解して調べ,自社製品に応用する方法)」によって海外のエレクトロニクス部品を模倣して,最初はトランジスタ・ラジオを作り,のちにはテレビ市場に進出した。同様に,外国の宗教や経済システムなども部分的に取りいれたが,そのとき,個人に力をあたえる恐れのあるイデオロギーは切り捨てた。だからカントやヘーゲルの思想は日本にはほとんど入ってこなかった。
 ゆえに,封建制から工業化,戦争,そして復興までを,新幹線に乗って,恐ろしいほどのスピードでいっきに突っ走ってしまった日本は,じつのところ,その間一度も西洋の「啓蒙思想」を経験していない。つまり,国家から独立した個人の力,社会から独立した自己,集団の感情から独立した個人の良心の重要性,といった考え方は,一度も入ってこなかったのである。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.190

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