I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

本の存在感

物体としての本の存在感は読者に読む醍醐味を与える。本を手に持ち,ページをめくりながら,目を通していくからこそ読書という体験は豊かになる。だが,その物体性故に,床が抜けそうになったり,居住空間が圧迫されたりもする。さらに,部屋に閉じ込められたり,果ては凶器となり怪我をしたりとあらゆる厄介事を抱え込んでしまうのだ。

西牟田靖 (2015). 本で床は抜けるのか 本の雑誌社 pp.80

ユーモアとウィット

もっともしばしば攻撃の的になったスティーヴンソンの資質は,知性ではなくウィットだった。この国においては,ウィットで人気を博した政治指導者はだれもいなかった。大衆は,ユーモアならそれを楽しみ受容する——リンカン,セオドア・ローズヴェルト,フランクリン・D・ローズヴェルトはうまくそれをつかった。ユーモアは土俗性があり,たいていごく単純で親しみやすい。ところが,ウィットは知的に磨かれたユーモアである。ユーモアよりも鋭く,品位や洗練と結びついているため貴族趣味が強く感じられるものである。何度となくスティーヴンソンは「喜劇役者」「道化」と呼ばれ,漫画には道化の帽子と鈴をつけた道化師として描かれた。朝鮮戦争のために人びとの心は暗鬱で,怒りに包まれ,欲求不満に陥っていた。スティーヴンソンのウィットは,彼の中傷者には時をわきまえないもののように思えたのだ。それに比べ,鈍重だが生真面目なアイゼンハワーの発言のほうが時代に即しているように思えた。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.197-198

孤独感の複雑化

文化的規範と各自の願望との葛藤があるために,私たちの孤独感はいっそう複雑化し,ときにはカムフラージュされる。たとえばウェブ文化では,個人のホームページ上に「友人」を1000人載せられるように望むべきだとされるかもしれない。別の文化では,新製品発表会で会う人が全員顔馴染みで,接待用のスイートに通されてオープンバーや巨大なシュリンプカクテルで最高のもてなしを受けることが一番の目標かもしれない。また今日のメディア文化では,ユーチューブや素人が出演するリアリティー・テレビ番組で有名人になれば,たとえ恥をかこうと,幸せな気分になれると何百万もの人が思い込まされているようだ。それでいて,ややもすると,自分が受け入れている文化が命ずるままに何もかもきちんと行った人が,「どうして私はこれほど惨めなんだ?」と,相変わらず自問し続ける羽目になる。文化のお墨付きを得たことをやり遂げたにもかかわらず,自分の孤立感を癒やしてくれる有意義なつながりを得られずにいるのだという考えを,彼らははっきり表現できないのだろう。あるいは心に抱くことさえできないのかもしれない。

ジョン・T・カシオッポ&ウィリアム・パトリック 柴田裕之(訳) (2010). 孤独の科学:人はなぜ寂しくなるのか 河出書房新社 pp.104-105

友人概念

友情の捉え方も国民性の影響を受ける。ドイツ人とオーストリア人は,友人に数える人の数が最も少ない。イギリス人とイタリア人がそれに続き,友人の数が最も多いのはアメリカ人だという。もっとも,アメリカ人は他文化の人に比べて,友人という概念を大まかに捉えているだけかもしれない。

ジョン・T・カシオッポ&ウィリアム・パトリック 柴田裕之(訳) (2010). 孤独の科学:人はなぜ寂しくなるのか 河出書房新社 pp.104

銀ぶら

ちなみに“銀ブラ”という言葉の語源は,銀座をブラブラ歩くではなく,銀座(カフェー・パウリスタ)でブラジルコーヒーを飲むことという説もある。だが,ブラブラ歩きのほうが戦前から浸透しており,各地の大都市でも使われていた。大阪では心斎橋を歩く“心ブラ”,名古屋は広小路を歩く“広ブラ”,横浜は伊勢佐木町を歩く“伊勢ブラ”,神戸には元町を歩く“元ブラ”という言葉があった。ブラブラ歩きの後でも前でも,カフェーに寄ることが,最先端のおしゃれだったのだ。

高井尚之 (2014). カフェと日本人 講談社 pp.35

MTVの登場

世界最大の影響力を持つ国家,アメリカで成功するという夢。MTVの登場は,インパクトの有るビデオさえ作れれば「1曲」でアメリカを制覇できる,誰もが知るスーパースターになれる,という「アメリカン・ドリーム」そのものを意味していた。
 しかし,ひとつだけ条件があった。
 どんな国の人間でもMTVは受け入れてくれた。
 それが,白人でさえあれば……。

西寺郷太 (2015). ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い NHK出版 pp.87

二重のレッテル

確かに80年2月のグラミー賞に,快進撃を続ける《オフ・ザ・ウォール》の成功は反映されていなかった。しかしむしろ,このアルバムのグラミー賞での不遇は,その発売とヒット,授賞式とのタイミングのズレと,10年という輝かしいキャリアを持ちながらも,まだ21歳のマイケルが「アイドル」だと選考委員たちに見なされていたのではないか,というのが僕の考察だ。マイケルは「黒人」という差別とともに,「チャイルド・スターあがり」という二重のレッテルをその腕で引き裂かなければならなかった。

西寺郷太 (2015). ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い NHK出版 pp.82

解説が必要

いきなり現代の日本人が古文や漢文で書かれた名作を読めないように,いくらわかりやすく親しみやすい存在であることが第一義とされるポップスにも,多少の解説とおすすめする教師のような存在が必要なのです。
 メディアの責任は重大です。これほどまでに世界中の情報が増えたにもかかわらず,かえって選択肢が閉じてしまうのは,我々大人世代が次世代に対して「簡単なもの」「すぐに理解できるもの」だけを提供し続けた結果かもしれないと……。食べ物で言えば「やわらかいもの」「甘いもの」だけを与え続けたら,少しでも硬いもの,辛いもの,苦みのあるものなどは「まずい」としか感じられない味覚に育ってしまいますから。

西寺郷太 (2015). ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い NHK出版 pp.22

没頭

「深夜,部屋の隅で悩んでいる過去の自分に言ってやりたい」と現在の若林は言う。「そのネガティブの穴の底に答えがあると思ってんだろうけど,20年間調査した結果,それはただの穴だよ」
 それを救うのは“没頭”しかない。何かに没頭すればネガティブ・モンスターが襲ってくる隙はなくなる。「ネガティブを潰すのはポジティブではない,没頭だ」。何かに没頭すればとりあえず大丈夫だ。本当に大丈夫かなんて根拠なんて誰も持っているわけじゃない。
 「大丈夫と言うことから大丈夫は始まるのだ」

てれびのスキマ (2015). 有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか:絶望を笑いに変える芸人たちの生き方 コアマガジン pp.60

お笑いの必修科目

笑いに絶対的な基準はない。何が面白いと思うかは人それぞれ。芸人として何を目指すべきかも人それぞれ。それがこれまでの考え方だったのだが,松本の登場で一気に変わってしまった。
 芸人の中に「大喜利」「すべらない話」などの必修科目ができてしまったのだ。そして,あたかも,その必修科目をクリアできなければ一人前の芸人と認められないような空気が生まれた。
 芸人たちに課題が与えられ,そして芸人たち自身もそれを自明のものとして必死になってクリアしようとする,というのが,松本以降のお笑い界で起こったことだった。

ラリー遠田 (2015). なぜ,とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか? コアマガジン pp.111-112

誰一人なれなかった

これまでは,弟子入りこそが芸人になるためのほぼ唯一の道だったところが,ダウンタウン以降,お笑い養成所に入って芸人になることが一般的になった。下積み修行をしなくても,とにかく面白ければ芸人になれる。そういう時代が訪れたのだ。
 楽屋で師匠の顔色をうかがったり,芸人たちの人間関係に気を配ったりする必要がなくなった。
 そういう時代になったからこそ,基本的なコミュニケーション能力が足りない人間でも,芸人になれる可能性が出てきたのだ。
 松本は,そのたたずまいからすでに常人離れしていた。今でもそうだが,彼は面白いことを言うときに決して笑顔を見せない。
 憮然とした表情で,ボソッとつぶやくように鋭いことを言う。それが命中してドカンとウケる。
 このスタイルに憧れて,数多くの芸人がダウンタウンの真似をした。
 そして,誰一人としてダウンタウンにはなれなかった。

ラリー遠田 (2015). なぜ,とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか? コアマガジン pp.106-107

フェア

“フェア”というのは人間的な考え方だが,勝負の結果に一貫性をもたらすため,結果を予測しやすくなるという側面もある。フェアな戦いでは,もっとも力の優れた者が勝つ(この結果が覆されると不正が疑われることになる)。そしてフェアな戦いでは,常に1対1である。有史以来,古代ギリシャ人,ヨーロッパ中世の騎士,日本の武士,アメリカ西部のガンマンなど,いずれの戦いにおいても,名誉や地位や栄光を獲得できる唯一の戦闘形式,それは1対1の決闘だった。
 生物の世界においても,1対1の決闘では,通常はもっとも能力の優れたオスが勝つ。しかし複数が入り乱れての戦いになると,そうとは限らない。1対1の対決は,単純で意外性もなく,比較的結果を予想しやすい。こうした戦いで,能力の劣ったオスが能力の優れた大きなオスを倒すのは難しい。かつての兵士同様,力,スタミナ,武器のサイズがものを言うのだ。

ダグラス・J・エムレン 山田美明(訳) (2015). 動物たちの武器:闘いは進化する エクスナレッジ pp.117

期待度

デンマーク人はなぜそんなに幸福なのだろう。彼らは最高レベルの気候やお金に恵まれているわけではない。むしろ,それらのレベルは低いのだ。答えは,デンマークでは社会的つながりが強く,またさまざまなものへの期待度が低いというところにある。同様に,2009年にアメリカで,州単位で行われた幸福度調査では,ルイジアナ(ハリケーン襲来前)がトップで,期待過剰なニューヨーカーたちは最下位だった。どうやら求めるものが少ないほど(そして,幸せを得ようと奮闘しないほど)幸せになりやすいようだ。つまり,過剰な楽観主義は,常に幸せに結びつくとは限らないのである。

ティム・スペクター 野中香方子(訳) (2014). 双子の遺伝子:「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける ダイヤモンド社 pp.57

滑稽・機知・ユーモア

こういう人びとは,この時代のアメリカに特徴的である。マーク・トゥエインによると,イギリス人は「滑稽」(comic)を好み,フランス人は「機知」(wit)を好むが,アメリカ人が求めるのは「ユーモア」(humor)である。滑稽や機知は,内容そのものが笑いを誘うため,誰が語っても面白いが,ユーモアは話の筋というよりいわば話芸を楽しむもので,話し方の上手下手で大きく違う。それを誰が話すかで,面白さが決まるのである。つまり,ユーモアを求める心は,ヒーローを求める心と同じである。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.170-171

学校は成功への障害

米国の小説や物語に出てくる独力で成功した男も,わずかな教育しか受けず,学校は成功への明らかな障害になると思っているケースが多かった。ホレイショ・アルジャー作の人気小説も,貧乏だが野心を持った少年という同じテーマだった。熱血漢の若い主人公と独力で成功した実力者の熟年男性が偶然出会い,よくある形で話が展開する。セオドア・ドライサーの『資本家』では,将来資本家になるフランク・カウパーウッドが,「子供でいたくない。働きたい」という理由で,13歳のとき学校に行かなくなった。若きジェイ・ギャツビーは,フランクリンが自伝で勧めたような自分磨きのチェックリストを持ち歩いていたが,著者のフィッツジェラルドは,ギャツビーがそれとわかる教育を受けたかどうかは語っていない。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.64-65

消えた名誉

ナショナリズムや征服と並んで,第二次大戦後の数十年間に消えていったもう1つの理想,それは名誉だ。ルアードは控え目な調子でこう書いている。「おそらく今日では一般に,人間の命にはかつてより高い価値が置かれ,国の威信(あるいは『名誉』)に置かれる価値は低くなっている」。冷戦が最も深刻な時期にソ連の指導者だったニキータ・フルシチョフは,この新しい意識を次のように表現した。「私は仮面舞踏会で屁をこいたら自害しなきゃならんような帝政時代の役人ではない。戦争をするより引き下がったほうがましだ」。少なからぬ国の指導者がこれに同意し,かつての時代なら戦争に走ったであろうような挑発を受けても,引き下がって武器を収めるようになっている。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.462

文明化

オランダの社会学者カス・ヴァウタースは晩年のノルベルト・エリアスとの対話からヒントを得て,現代は文明化のプロセスの新段階にあると示唆している。これは,前述した長期にわたる脱形式化のプロセスのことであり,最終的にはエリアスの言う「感情のコントロールをコントロールされたかたちで解除すること」,ボウタースの言う第3の天性へといたるものだ。人間の第一の天性が自然状態で生きる上での進化した動機から成り,第2の天性は文明化社会に根づいた習慣から成るとすれば,第3の天性はそうした習慣に対する意識的な内省——つまり,文化規範のどの側面が守る価値があり,どの側面がもはや無用であるかを見きわめる作業だといえよう。何世紀も前,私たちの祖先は自分たちを「文明化」するために,自然さや個性を示すものをすべて押さえ込もうとしたのかもしれない。だが非暴力の規範が定着した現在,もはや時代遅れとなった抑制もある。この考えでいけば,女性が肌を露出したり,男性が公の場で口汚い言葉を発することは文化的退廃の兆候ではない。それは,いまの社会が十分文明化されていて,そんなことで嫌がらせを受けたり,相手に攻撃される心配がないことのあらわれなのだ。作家のロバート・ハワードはこう書いた。「文明化された男性は野蛮人より無礼である。なぜなら彼らは,不作法な態度をとっても頭を割られる心配はないとわかっているからだ」。ひょっとすると,ナイフでグリーンピースをフォークに載せてもいい時代が到来したのかもしれない。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.243-244

男性の文明化

若い男性が,女性や結婚によって文明化されるなどというのは陳腐きわまりないと思われるかもしれないが,近代犯罪学ではごくあたりまえのことになっている。ボストンの低所得層出身の非行少年1000人を45年にわたって追跡調査した有名な研究によれば,その後の人生で犯罪を犯すかどうかを左右する要因が2つ見つかった。1つは安定した職に就くこと,もう1つは愛する女性と結婚して家族を養うことだった。結婚による影響はかなりのものだ。独身者の4分の3は成人後,さらに犯罪を犯すようになるが,結婚した者では3分の1にすぎなかった。この違いだけでは,結婚によって犯罪から遠ざかったのか,犯罪の常習者は結婚することが少ないのか,どちらかはわからない。だがこの研究で,社会学者のロバート・サンプソン,ジョン・ローブ,クリストファー・ワイマーの3人は,結婚が実際に男性たちを平和化する要因になったと見られることを示している。男性を結婚に向かわせる典型的な要因をすべて一定に保ったとき,結婚した男性はその直後から犯罪を犯す可能性が低くなることが明らかになったのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.204-205

殺人の濃淡

濃淡の色分けを見ると,合衆国の一部はヨーロッパとさほど大きな差はないことがわかる。その一部とは,ニューイングランド(適切な名称だ)諸州,中央から太平洋岸にいたる北部の州(ミネソタ,アイオワ,ノースダコタ,サウスダコタ,モンタナ,ワシントン,オレゴン)そしてユタ州である。ベルト状に並んだこれらの州は,同じ気候帯には属しておらず(オレゴン州とバーモント州の気候はまったく違う),多くは東から西へと向かう,歴史的な移民のルートに相当する。人口10万人あたりの年間殺人件数が3件未満のこの平和なベルト地帯の南方では,南に下りていくにしたがって殺人件数は増加する。最も南に位置するアリゾナ州(7.4)やアラバマ州(8.9)では,ウルグアイ(5.3)やヨルダン(6.9),グレナダ(4.9)と比べても殺人件数が高く,ルイジアナ州(14.2)にいたっては,パプアニューギニア(15.2)にも匹敵するほどの高さである。
 2つ目の対比は,地図上ではそれほど明確ではない。ルイジアナ州の殺人件数は他の南部諸州より高いが,ワシントンD.C.の殺人件数は30.8件と,桁外れに高く,中南米の最も危険な国々と同じレベルにある。これらの地帯が効率であるおもな理由はアフリカ系アメリカ人の住人の比率が高いことだ。現在のアメリカ合衆国内では黒人と白人の殺人件数に顕著な違いがある。1976年から2005年までの平均殺人件数は,白人のアメリカ人では10万人あたり年間4.8件であるのに対し,黒人のアメリカ人では実に36.9件にのぼる。これはただ単に,黒人のほうが逮捕され有罪になる確率が高いからではない——もしそうなら,人種間の差はレイシャルプロファイリング[人種偏見にもとづく捜査]の結果かもしれないということになる。ところが被害者に加害者の人種を尋ねる匿名による調査や,黒人・白人両方を対象にした過去の暴力犯罪歴についての調査でも,これと同じ差が見て取れる。なお,南部の州では北部の州より住民に占めるアフリカ系アメリカ人の割合が高いとはいえ,1つ目の南北の違いは人種の比率では説明できない。白人だけ見ても南部のほうが北部より暴力的であり,黒人の間でも南部のほうが北部より暴力的である。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.184-186

ナイフが用意されない

アジアにも殺人件数が低い国がいくつかあり,とくに日本,シンガポール,香港といった西洋のモデルを採用した国ではその傾向が顕著に見られる。中国でも殺人件数は人口10万人あたり2.2件とかなり低い。この秘密主義の国のデータを額面通り受け取るとしても,時系列的なデータが存在しないため,それが何千年も続いた中央集権的な統治のせいなのか,現政権の独裁主義的な性格によるものなのかを見極めることはできない。イスラム国家の多くを含む独裁主義国家では,国民に対する監視が行われ,法に違反する者は確実にかつ厳しく処罰される。これらの「警察国家」では,暴力的犯罪の発生率が低い傾向にあるのは驚くに当たらない。しかしここで,中国もまた長期間にわたる文明化のプロセスを経てきたことを示す,きわめて興味深いエピソードがあるので紹介しておこう。エリアスによれば,ヨーロッパにおける暴力の減少と密接に関連するナイフのタブーは,中国ではさらに一歩進んだ形で見られたという。中国では何世紀にもわたって,包丁はもっぱら料理人が使うものとされてきた。食べ物は調理場で一口大にカットしてから供されるため,食卓にナイフが用意されることはいっさいない。「ヨーロッパ人は野蛮人だ。彼らは剣を使って食事をする」という中国人の言葉を,エリアスは引用している。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.176

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS /  /