I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

誤解

東京には,京都のことなどなんとも思っていない人だって,おおぜいいる。よほどのできごとでないかぎり,東京以外の現象には興味をしめさない人も,少なくない。見聞きにあたいするものは,みな東京にあるという考え方さえ,被地では流布している。
 だが,そういう人たちは,洛中人士の前にあらわれない。教徒にあこがれる物好きだけが,近づいてくる。あるいは,メディア人もふくめ,京都をたてまつることで利益のみこめる人々が。
 そして,彼らとの出会いがかさなるおかげで,京都人は誤解をしてしまう。首都東京も,京都には一目おいているのだ,と。どんな雑誌だって,企画にこまったらよく京都特集を,くむじゃあないか。そういって鼻をうごめかす洛中の旦那に,私は何度も出会ったことがある。
 ああ,こういう人たちが洛外をばかにするのだなと,私はそのつど考えこむ。嵯峨などを低くみるのは,首都のメディアにもてはやされ,うれしがっている連中だ,と。言葉をかえれば,けっこう底が浅いんだと,私は思いたがっているようである。まあ,それが私の精神衛生につながっているということかも,しれないが。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.38

試練にのぞむ

現代の英雄,つまり自分が呼び寄せられたことを気にかけ,人類が運命をともにする存在の住まう場所を探し求める個人は,自分が属する共同体が,うぬぼれた恐怖,合理化された欲望,聖化された勘違いといった古い衣服を脱ぐことを期待できない。ニーチェは次のように語っている。「生きよ,あたかもその日が来たかのように」創造する英雄を社会が導き救うのではなく,反対に,創造する英雄が社会を導き救うのである。こうして,私たち一人ひとりが究極の試練にのぞむ(救世主の十字架を担ぐ)。しかも,社会全体が大勝利をおさめる輝かしい瞬間にではなく,個人的絶望のうちに黙々と試練にのぞむのである。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.291

英雄の行為の根底

英雄の時代が始まるのは,人間の村や町があちこちにつくられた後のことである。原始の時代から生き延びた怪物の多くが,いまだ辺境に棲息し,悪意や自暴自棄の念をもって人間社会と敵対している。そうした怪物は退治しなければならない。それに加えて人間の専制君主が人々から略奪を繰り返してその地位につき,悲惨な状態をつくり出している。専制君主も討伐する必要がある。したがって,英雄の行為の根底には邪魔者を取り除く使命がある。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.215

神話の構造

そのため,私たちが受け継いできた神話の形状の価値をきちんと把握するためには,神話が無意識(実際は,人間のあらゆる思考や行為)の表れであるだけでなく,制御され,意図された,ある種の精神的な原理——人間の肉体そのものの形や神経組織と同じように,人類の歴史が始まってこのかた,ずっと不変の原理——を表現していることを,知っておく必要がある。まとめると,万物の教えは,この世界の目に見える構造物すべて——あらゆる事象や存在——は,それを生み出す偏在する力の作用した結果であり,事象や存在が現れている間は,それを支え,満たしているが,最終的に,元の滅却状態に回帰するということである。その力は,科学でエネルギーと呼ばれ,メラネシア人にマナ,アメリカ先住民のスー族にワカンダ,ヒンドゥー教徒にシャクティ,キリスト教徒に神の力として,知られる。また,精神(プシケ)に現れるものは,精神分析学用語でリビドーと呼ばれる。さらに,宇宙に現れるものは,宇宙そのものの構造や流転である。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.102

深層の力

こうした見方にならえば,驚くような物語——伝説の英雄の生涯や,自然に宿る神々の力,死者の霊魂,トーテムの祖先の話として語られる物語——を通して,人間の意識的な行動パターンに隠された無意識の欲求や恐れ,緊張に象徴的な表現が与えられる。言い換えれば,神話は,伝記や歴史,宇宙論として誤読されている心理学なのである。現代の心理学者は,神話本来の意味を解釈し直し,それによって,人間性の最深部に眠る説得力のある記録を今の世に救い出すことができる。そこに表れるのは,X線透視装置で見るように,謎多きホモ・サピエンス——西洋人や東洋人,未開人や文明人,現代人や古代人——の,隠された変遷である。私たちの目の前にすべての場面が展開する。私たちはそれを読み解き,一定のパターンを調べ,バリエーションを分析するだけでよい。そうすれば,人類の運命を決め,公私両面の人生を左右しているに違いない深層の力を理解できるようになる。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.100

時間のずれ

楽園での1年が地上での100年にあたるというのは,神話ではよく知られたモチーフだ。100年での完全な一巡は,全体性を表している。同じように,360度の円も全体性を意味する。ヒンドゥー教のプラーナ聖典では,神界の1年は人間界の360年に相当する。オリュンポスの神々の目から見ると,時代から時代へと移ろいゆく地上の歴史は,完全な円という調和の取れた形をしている。そのため,人間には変化と死にしか見えず,神々には不変の形,終わりなき世界にしか見えない。だが今,問題なのは,差し迫った地上の苦痛や喜びを前にして,この宇宙的な視点をどう維持するかである。知恵の実を食べると,気持ちはその時代の中心から,その瞬間の周縁的な危機へとそれてしまう。完全性のバランスが崩れ,気持ちがぐらつき,英雄は転落する。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.55

十字架としめ縄

鏡と剣,そして樹木については,次のように考えられる。女神の姿を写し,身を隠すという休息から女神をむりやり引き出した鏡は,この世,つまり反射像の世界の象徴である。そこで,女神は自分の輝きを見ることに喜びを覚え,その喜びが,顕現,すなわち「創造」という行為を引き起こす。剣は雷と対をなす。樹木は地と天空をつなぐ「世界軸」であり,願いを叶え,豊穣を表す。キリスト教徒の家庭で冬至に飾る木(クリスマスツリー)も,これと同じである。冬至は太陽の復活と再来の時期であり,クリスマスツリーはゲルマンの異教徒からの楽しい慣習として受け継がれ,それによってゲルマンの異教徒は,現代ドイツ語に女性名詞の「太陽(ゾンネ)」をもたらした。またアメノウズメの踊りと八百万の神のどんちゃん騒ぎは謝肉祭(カーニバル)の一種である。最高位の神の隠遁により世界は混乱に陥るが,その再来により,また喜びに湧く。そして,しめ縄,アマテラスが再び姿を現したとき,その背後に渡された稲藁の縄は,太陽の光が戻るという軌跡を起こした神の慈悲深さを象徴している。このしめ縄は,日本土着の神道における伝統的な象徴の中でも,きわめて目立つ,重要な,そしてものは言わないまでも雄弁な象徴の1つである。しめ縄は,神社の入り口に吊るされたり,正月に門口に飾られたりし,再来の境界線から世界が変わることを表している。キリスト教の十字架が死の淵への神話的な道筋を表す最も雄弁な象徴であるなら,しめ縄は最も単純な復活の象徴である。この2つの象徴——十字架としめ縄——は,この世とあの世,実存と非実存の境界線の神秘を表している。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.39-40

イニシエーション

伝統的なイニシエーションの考え方は,若者に仕事の技術や職務,特権を与えることと,親のイメージに対する感情的な関係を合理的に見直すことを結び付けている。秘義を伝授する者(父親または父親の代理)は,不適当で幼稚な充当(カセクシス)をすっかり取り払った息子にだけ,仕事の象徴を託すことになる。そういう息子なら,自己強化や個人の好み,または憤りという無意識な(意識的で合理的な場合もあるが)動機のせいで,正しく客観的に力を行使することが不可能になる,ということはない。理念的には,託された者は単なる人間性を取り払われ,人格のない宇宙的な力を表すことになる。つまり,「二度生まれた」。自分で父親になったのである。その結果,今度はイニシエーションを授ける人間や,案内人や太陽の扉といった役目を負う資格を持つようになる。そしてそれを通じて人は,幼稚な「良きもの」「悪しきもの」という幻想から脱して宇宙的な法則の権威を経験し,希望や恐れを取り去って,本質の現れを理解した心穏やかな状態になれるのである。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.204-205

私達の問題の一部

疑問をさしはさむ余地はないだろう。過去の世代の人々が神話や宗教の形で受け継いだ象徴や精神的修練に導かれて通った心理学的に危険な事態を,現代の私たちは(信仰心がないならば,または信仰心を持っていたとしても,継承された信仰では現代社会の現実的な問題が説明できないならば)1人で立ち向かわなければならず,助けがあったとしても,せいぜいあやふやで間に合わせで,たいていはあまり役に立たない手引きがあるだけだ。これは,現代的で「啓蒙された」人間としての私たちの問題で,そういう私たちのせいで,神や悪魔は合理的に説明されて存在しなくなってしまった。それでも,残されていたり,地球上の隅々から集めたりしたたくさんの神話や伝説の中に,人間的な振る舞いの何かがまだ残っていて,それが描かれているのを見つけられるかもしれない。しかしそれを聞いて役立てるためには,ともかく魂を浄化し身をゆだねなければならないだろう。そしてそれが私たちの問題の一部なのだ。どうしたらいいのだろうか。「亡くなった人々が経験したような試練を受けずに『至福の園』に入ろうと思うのか」

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.156

英雄の旅

英雄が滑稽であろうが立派であろうが,ギリシア人だろうが未開人だろうが,キリスト教徒だろうがユダヤ教徒だろうが,英雄の旅は本質的な計画においてほとんど変わらない。よく知られている話では,英雄の活躍を肉体的に表現している。高尚な宗教では倫理にかなう行為で表す。それでも冒険やそこに関わる登場人物の役割,手にする勝利の形態には,驚くほど差異がない。元型的なパターンの基本的な要素が1つ2つ,目の前のおとぎ話や伝説,儀礼,神話などから取り除かれても,なんとか意味はわかる。このあと説明するが,取り除くこと自体が,歴史や異常を明確に示すのである。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.66

悲劇と喜劇

おとぎ話や神話,魂を表す神々の喜劇のハッピーエンドは,人類の普遍的な悲劇と矛盾するものとしてではなく,それを超越するものとして読むべきである。客観的な世界は過去の姿のままだが,主体の中で重要視するものが変わると,形を変えたように見えてくる。以前は生と死が争っていたのに,今では永続するものが見えてくる。鍋で煮立つ水が泡の運命に無関心だったり,宇宙が銀河の星々の出現や消滅に無関心だったりするのと同じように,時の偶然性とは無関係なのである。悲劇とは形あるものを壊し,形あるものに対する私たちの固執を壊すことである。喜劇は荒々しく無頓着で無尽蔵の,自分ではどうにもならない人生の喜びである。したがって悲劇と喜劇は,両者を内包し両者によって区別される。ひとつの神話的主題と経験を表す言葉となる。つまり下降と上昇(カトドスとアノドス)であり,ともに命という啓示の全体性を形作る。そして罪(神の意志に従わないこと)と死(死すべき形態と同一化すること)の毒から清められる(カタルシス=浄化[プルガトリオ])には,人はその両方を理解して受け入れなければならない。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.50-51

暴君と英雄

この暴君という怪物は,世界中の神話や民間伝承,伝説,悪夢の中に現れる。その性格は基本的にどこも同じである。皆の利益を独り占めにし,なんでも「自分のもの」と貪欲に権利を求める怪物である。暴君がもたらす暴力や破壊は,神話やおとぎ話の中で,暴君のいるところでは必ず起こるものとして描かれている。それは,怪物一家の話や,暴君自身の苦悩する精神(プシケ)の話,または,ほんの少し暴君が友情を示したり手を差し伸べたりするだけで枯れてしまう命の話にすぎない場合もある。または文明そのものの話にまでなることもあるだろう。暴君の大きく膨らんだエゴは,周囲の事柄がうまくいっているように見えても,当人やその住む世界にとっては災いである。そして自ら独立を獲得した大物の暴君は,自ら怯え,恐怖に取り憑かれ,周囲からの予想される攻撃——主に自分が抱えるものに対する抑えられない衝動が投影されただけなのだが——に立ち向かうためにあらゆる手段を講じようと構えるので,心の中では人間らしい意図を持ってひとり満足していても,世界に大惨事をもたらす使者になる。暴君が手をつくところでは,必ず泣き声が起こる(世間に広がる声でなくても,一人ひとりの心の中でもっと悲惨に)。それはここから救ってくれる英雄,光る剣を持つ英雄を求める声である。英雄が起こす風だけで,英雄が地に触れるだけで,英雄がいるだけで,そこに住む人々は解放されるだろう。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.32-33

どちらが使い捨て

「若者向けヒット曲は使い捨てだが,演歌は1曲の寿命が長い」といった物言いは,現在の「演歌」を積極的に評価する際の決まり文句となっています。つまり,「演歌」は,「手作り」の地道なプロモーションを通じて聞き手の「生の」生活心情に訴えかけることで長く愛される「真の流行り歌」になるのであって,華々しい宣伝やタイアップによって人為的に仕掛けられ,すぐに忘れ去られる「流行らせ歌」ではない,というわけです。それに付随して,苦節何年を経ての成功という美談が,「演歌歌手」の真正性の重要な根拠となります。
 歌の寿命についていえば,確かに「昔は1曲のヒットの寿命が長かった」というのは間違いではないでしょう。昭和20年代には「1曲ヒットがあれば10年実演で食える」と言われていました。しかし,それはヒットが出た後の話であって,1曲だけの持ち歌を何年もかけてヒットさせようとすることではありません。
 美空ひばり,三橋美智也,島倉千代子,フランク永井,橋幸夫といった大スターはもとより,《愛ちゃんはお嫁に》の鈴木三重子や《バナナ・ボート》の浜村美智子,《東京ドドンパ娘》の渡辺マリなど,現在では1曲しかヒット曲がないかのように思われている歌手であっても,当時の芸能雑誌付録の歌本を見ると毎月のように新曲を発表しています。つまり,1曲を長く売るのではなく,大量にレコードを吹き込む中で,半ば偶然にヒットした1曲が長く流行り続けたということだったのです。
 その意味で,出す曲ごとに膨大な経費をかけて綿密な宣伝戦略を立てタイアップを仕掛け,数十万枚売れないと赤字になるような「J-POP」のアーティストに比べ,かつての歌手のほうがよほど「使い捨て」的にレコードを量産していたともいえます。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.99-100

違和感と拒否

よく知られているように,藤山,淡谷,東海林らは,昭和40年代以降「ナツメロ歌手」として復活後,現役の若い歌手たちの技術の欠如に対して厳しい非難を繰り返しますが,それはむしろ昭和30年代から40年代を通じて流行歌手に必要な素養が,旧来の西洋芸術音楽に基盤をおいたものから決定的に変質してきたことを意味しています。
 藤山の「古賀メロディー」,淡谷の「和製ブルース」,東海林の「股旅調」のように,彼らは現在の「演歌」の原型といえる諸曲調を確立した歌手であるにもかかわらず,淡谷の「演歌嫌い」や「歌屋」発言にはっきりと示されているように,「クラシックに準ずる楽曲」を歌っていると自認していた彼らにとって,西洋芸術音楽の歌唱法に依拠しない「戦後派」の歌手の歌唱(それは現在の「演歌」を最も強く特徴づけているものですが)は,強い違和と拒否をもたらすものであったのです。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.74-75

誤り

具体的な検討に入る前に,ありがちな誤解を解いておきましょう。
 誤解とは「日本のレコード歌謡は,元々の日本的なものから,徐々に西洋風(アメリカ風)になっていった」というものです。
 そのような歴史観は「日本的な演歌が洋楽的なポップスに変化していった」とパラフレーズできるものですが,それを肯定的に「ダサいものがカッコよくなっていった」ととらえるか,逆に「民族的な伝統が外来文化によって侵略された」ととらえるかはさておき,日本のレコード歌謡に関する一般向けの書き物などで,かなり広範に認められています。しかしこれは端的に申し上げて,誤りです。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.67-68

演歌の時期

歴史的に見れば,「演歌」と明示的に呼ばれた新作歌謡が商業的に一定の成功を収めた時期はきわめて短く,長く見積もって1960年代後半から1980年代後半までの20年です。「演歌」という呼称に注目するならば,それは「ニューミュージック」や「アイドル」と同様に,一時的な現象であったとみなすべきでしょう。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.48

いつから

結論だけを言えば「演歌」とは,「専属制度時代の諸特徴を引き継ぐレコード歌謡スタイル」や「専属制度時代に登場した歌手の楽曲」を指す,専属制度解体後の用語です。
 音楽評論家の北中正和は,戦後のレコード歌謡の優れた通史『にほんのうた』において,「フォークや和製ポップスやGSやフリーのソングライター」の台頭によって「それまでの専属制の中で主流を占めてきた歌謡曲とのちがいが目立」つようになり,「都会調,日本調,浪曲調などと形容されてきたやや大人向けの音楽は,次第にジャンルのようにみなされ,60年代末には演歌とよばれはじめ」たとしています。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.46

演歌は日本の心か

小林が正当に指摘するように,現在「演歌」と呼ばれているものは,1960年代のある時点まで,それまでは広い意味での「流行歌」ないし「歌謡曲」に含まれ,必要に応じて「民謡調」「小唄調」「浪曲調」,あるいはそれらをひっくるめて「日本調」の流行歌として「洋楽調」(「ジャズ調」,あるいは「ポピュラー調」)と区分されていました。
 現在「演歌」の下位ジャンルとみなされる「ムード歌謡」を構成する「和製ブルース」や「ラテン風」の曲調は,「都会調」としてどちらかといえば「洋楽調」側に分類されていました。
 それがいつの間にか,「演歌」が独自のジャンルとして認識されるようになり,「日本の心」といった物言いと結びつけられるようになり,この言葉が存在していなかった過去の流行歌に対しても当てはめられるようになってゆくのです。その過程で,「演歌」誕生以前から活動してきた美空ひばりや春日八郎などは,新たに誕生した「演歌」イメージに添うような形で自らの活動を「演歌歌手」として鋳直してゆきます。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.14-15

生まれながらの才能

「才能」や「素質」と呼ばれてきたものの正体が,遺伝学や分子生物学の進歩で具体的に見えてきたことは間違いない。それらは親から受け継がれたものであり,後からお金や努力では決して獲得できない。わたしが子どものころ,スポーツを題材にしたマンガの世界では「背が低い」といったスポーツ選手としては不利な生まれつきの性質を抱えた主人公が,人並み外れた意志と努力で一流選手になるという一種の成功モデルがあったように」思う。最近のスポーツマンガは,もともと才能をもった主人公が何かのきっかけで自らの潜在性に目覚め,適切な指導のもとに成長していく,よりリアリティーのあるストーリーが多い印象を受ける。

行方史郎 (2015). IQは金で買えるのか:世界遺伝子研究最前線 朝日新聞出版 pp.111

グラムロック

このグラム・ロックの美学というものを改めて考察するに,それはブリティッシュ・ロック,というかロック・ミュージックそのもののエッセンスを体現したものではないだろうか。ロック自体がそもそも官能性を刺激する音楽である。ロックビートであるエイトビートは,身体の芯そうに働きかけ,官能の世界へと聴くものを向かわせる。またロックサウンドがもたらす陶酔感や崇高感は,いわばナルシシズムを刺激し,さらに日常意識からの超出を企図して異相へと導いてゆく。つまり派手な化粧を施すことをためらわせないのである。ロック界きっての知性のひとりであるブライアン・イーノが,ロキシー・ミュージック時代には強烈な化粧をしていたのが象徴的である。70年代になってグラム・ロックが登場したのは,ロックの展開過程の必然だったと言えるのではないだろうか。

林 浩平 (2013). ブリティッシュ・ロック:思想・魂・哲学 講談社 pp.196-197

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