I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

昭和40年代生まれの洗礼

 思えば,筆者のような昭和40年代生まれは,子供時代からテレビや雑誌によって届けられる世界の不思議な事件や怪奇現象に散々まみれてきた。それでも,多くは誰かの証言や不鮮明な画像,伝聞や脚色を交えたもので,信じるか,信じないかという二者択一を迫られるばかり。それ以上なかなか確かめようがないものが多かった。しかし,古代文明に関するものは,その根拠となる遺跡や物証は実在するもので,その確からしさが特別な説得力を持って僕らを魅了した。



前田亮一 (2016). 今を生き抜くための 70年代オカルト 光文社 pp.33


都市における時間の感覚

都市における時間感覚とは,常に「次」が迫ってくるような類いのものだろう。いつも選択しにあふれ,チャンスはいつでも待ってくれている。都市での暮らしの中では,そのような感覚から逃れることは難しい。選択肢もチャンスも少ない非都市とは,時間の感覚が違うのだ。それが,都市の生活が,日々の余裕を奪うものになりがちな理由である。
 誰かが,都市に住むということは,海水を飲むことであると言った。目の前にのどを潤すための水はいくらでもあるが,それを飲めば飲むほどのどは乾いていく。何でもあるが,のどだけは満たされない。むしろ,渇望だけが続くのが都市である。

速水健朗 (2016). 東京どこに住む?住所格差と人生格差 朝日新聞出版 pp.185

原罪の起源

隠喩としての原罪(=人類の始祖であるアダムとイブが禁断の果実を食べる罪を犯し,今日の人間もその罪を生まれながらにして引き継いでいるというキリスト教の思想)の起源は,人間が持つ相反するふたつの性質にあるのではないだろうか?ひとつは,動物に感情移入してしまう傾向であり,もうひとつは動物の肉を食べたがる欲望だ。サーペルは(他の生物種に比べて)大きな脳を手に入れたわたしたちの祖先が直面した道徳上の問題について,次のような説得力のある説明を行っている。「動物に対する高度に擬人化された認識のおかげで,狩猟生活を送っていた人類は,彼らの獲物となるその動物の行動を理解し,共感し,さらには予測するための枠組みを得ることができた。しかし,それらは同時に道徳的葛藤も生み出した。というのも,動物と人類は基本的に変わらないと考えられるのであれば,動物を殺すことは殺人になってしまうし,動物を食べるのはとも食いと変わらないことになってしまうからだ」

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.89-90

中立主義

この中立主義は新上流階級文化の最も不可解な特徴の1つである。新上流階級のメンバーは病的なまでに勤勉だが,勤勉ではない人に対して軽蔑的なレッテルを貼ることはない。新上流階級の若い女性たちは婚外子出産とは無縁だが,婚外子出産に対して軽蔑的な表現を使うのはご法度だと思っている。犯罪者に対してさえそうであって,何らかの軽蔑的な表現を使えば,周囲の何人かは軽く眉をひそめるだろう。要するに,新上流階級の世界では他者に対して軽蔑的な言葉を使ってはならないのであり,例外は次の三種類の人々に対してだけである。——政治的見解を異にする人,キリスト教根本主義者,そして田舎の白人労働者階級。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.419

勤勉・正直・結婚・信仰

これについてはさまざまな見解があり,またどの見解もさまざまに解釈できる。つまり,アメリカ国民の徳とはこれらであるという決定的なリストが存在するわけではない。しかしながら,少なくとも次の4項目——あるいはアメリカ社会の4つの側面——は誰もが認めるところであり,18世紀の建国の父や19世紀の評論家たちの記述を調べあげても,この4つを否定するような内容はまず見つからないだろう。その4つとは,勤勉,正直,結婚,信仰で,前の2つはそれ自体が徳であり,後の2つはそれを通して徳が育まれる制度である。便宜上,わたしはこの4つを合わせて「建国の美徳」(founding virtues)と呼ぶことにする。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.194

似た者が近づく

学歴も認知能力も高い者同士のカップルは,文化的にも似た者同士になる可能性が高い。たとえば,片方は大学卒で認知能力もきわめて高いが,もう片方は高校卒で認知能力は平均を少し超える程度というカップルの場合,本屋映画の好み,余暇の過ごし方,友人,その他生活上の多くの面で二人のあいだに違いがあるだろう。そのような違いがあれば,結婚が文化分散の機能を果たすことになる。1960年には,管理職・専門職の世帯の三分の二がそうした学歴上の異種混交性を有していた。しかし2010年には,経済的に大いに成功している夫婦の四分の三が大卒同士になっていた。つまり,彼らは高学歴・高知能の人々に特有の感性や嗜好を夫婦間で共有していて,そうした嗜好を満足させる財・サービスへの出費を惜しまないのである。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.104

似た人々が集まる

新上流階級が一般のアメリカ人から離脱していった背景には,きわめて単純な人間の衝動が働いている。人は誰でも自分を理解してくれる人,話の合う人と一緒にいたい。そのために,飛び抜けて頭のいい人間が,同じく飛び抜けて頭のいい人間と出会う機会が生じるや否や,認知能力による分離メカニズムが動き出すのである。
 人より飛び抜けて頭のいい人間は,子供のころからそうした出会いの機会を夢見ている。なぜなら,認知能力はほかの能力とは違い,子供を孤独にするからである。たとえば,運動能力に秀でたティーンエイジャーなら花形のクォーターバックになれるし,たとえ性格が内気で,友達づきあいが下手でも,周囲のほうから友達になりたいと寄ってくる。あるいは対人能力に秀でたティーンエイジャーなら,まさにそれだけで人気者になれる。そもそも対人能力とはそういう能力のことなのだから。しかし,数学の成績は抜群だが対人能力は普通という男子生徒の場合には,変わり者とみなされるだけである。得意な数学の話をしたくても,相手になってくれるクラスメートはせいぜい1人か2人,運が悪ければ1人もいないだろう。言語能力は抜群だが対人能力は普通という女子生徒も同じである。T.S.エリオットの詩に心を奪われて,どんなにすばらしいかを説明しようとしても,理解してくれるクラスメートはまずいないだろう。ウィットに富む表現も理解してもらえないし,それどころかわけのわからない言葉を使うからと嫌われてしまうだろう。『灰の水曜日』[エリオットの詩作品]について話をしようと思っても,まずぽかんとした顔で見られ,それから冷たくされるのが落ちで,そのことを彼女自身もよくわかっている。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.86-87

酒と煙草

アルコールはどうかというと,新上流階級が飲むのはたいていワインかクラフトビールである。どちらを飲むにしても,彼らの多くはその飲み物について微に入り細にわたって語りたがる。だがの無料は控えめである。また,タバコは吸わない。上流階級の家庭を訪問するときは,軽率にタバコに火をつけないほうがいい。それだけで軽蔑されてしまうかもしれない。疾病対策センター(CDC)によれば,アメリカの成人のおよそ3分の1がまだタバコを吸っているそうだが,新上流階級に囲まれて暮らしているかぎり,そんなことは想像もできない。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.63

何事もやりすぎ

しかしながら,新上流階級の親たちのやり方もいいことづくめではない。そこにはマイナス面もあり,それは何事もやりすぎてしまうことである。たとえばエリート家庭の子供たちには,バレエ教室,水泳教室,家庭教師,セラピーなどでスケジュールがいっぱいで,自由に遊ぶ時間もないといった状況がよく見られる。また,子供を有名幼稚園に入れようとして,そのための準備学校に通わせる親もいる。これは都市伝説ではなく,裏づけのある事実である。幼稚園でもそうなのだから,大学となれば推して知るべしで,子供を名門大学に入れるためならどんな努力も惜しまないという親が少なくない。そうした親たちは子供が大学に入っても干渉をやめられず,それがとうとう社会現象化して「ヘリコプター・ペアレント」[子供が大学生になっても子離れできない親。ヘリコプターのように子供の頭上を旋回し,何かあればすぐに降りてきて助けようとする]と呼ばれるほどになった。この言葉はアメリカの大学管理者のあいだでは日常的に使われている。さらに,エリート層の親たちは絶えず子供を褒めるが,これには逆効果もありうるとする研究結果が数多くだされている。なぜなら,たいていの場合,親たちは子供の行ないを具体的に褒めるのではなく,子供が賢いことを褒めるからである。その結果,多くの子供たちが「自分は賢い」というイメージを守ろうとし,そのイメージを危うくするチャレンジを避けるようになる。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.68

最上層

この集団の最上層を占めるのは,アメリカの文化,経済,政治に直接影響力をもつ地位に上りつめた人々である。その一部は政治権力を握り,別の一部は財界を動かし,さらに別の一部はマスコミを動かしている。この小集団を「狭義のエリート」と呼ぶことにしよう。狭義のエリートには,たとえば,憲法上の法解釈にかかわる弁護士や裁判官,,全国放送におけるニュース報道のあり方を決めるマスコミ上層部,主要な活字メディアやウェブサイトに署名入りで寄稿しているジャーナリストやコラムニストなどが含まれる。また,国内最大規模の企業や金融機関,財団,NPOなどの最高幹部も含まれる。さらに,映画やテレビドラマの制作にかかわるプロデューサーやディレクター,ライター,一流の大学や研究所の著名な学者・研究者,そして高級官僚と政治家も含まれる。
 この狭義のエリートは10万人に満たない。いや,実のところ1万人程度にとどまるのではないだろうか。少なすぎると思うなら,特定の分野について具体的に考えてみていただきたい。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.36

誤解

東京には,京都のことなどなんとも思っていない人だって,おおぜいいる。よほどのできごとでないかぎり,東京以外の現象には興味をしめさない人も,少なくない。見聞きにあたいするものは,みな東京にあるという考え方さえ,被地では流布している。
 だが,そういう人たちは,洛中人士の前にあらわれない。教徒にあこがれる物好きだけが,近づいてくる。あるいは,メディア人もふくめ,京都をたてまつることで利益のみこめる人々が。
 そして,彼らとの出会いがかさなるおかげで,京都人は誤解をしてしまう。首都東京も,京都には一目おいているのだ,と。どんな雑誌だって,企画にこまったらよく京都特集を,くむじゃあないか。そういって鼻をうごめかす洛中の旦那に,私は何度も出会ったことがある。
 ああ,こういう人たちが洛外をばかにするのだなと,私はそのつど考えこむ。嵯峨などを低くみるのは,首都のメディアにもてはやされ,うれしがっている連中だ,と。言葉をかえれば,けっこう底が浅いんだと,私は思いたがっているようである。まあ,それが私の精神衛生につながっているということかも,しれないが。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.38

試練にのぞむ

現代の英雄,つまり自分が呼び寄せられたことを気にかけ,人類が運命をともにする存在の住まう場所を探し求める個人は,自分が属する共同体が,うぬぼれた恐怖,合理化された欲望,聖化された勘違いといった古い衣服を脱ぐことを期待できない。ニーチェは次のように語っている。「生きよ,あたかもその日が来たかのように」創造する英雄を社会が導き救うのではなく,反対に,創造する英雄が社会を導き救うのである。こうして,私たち一人ひとりが究極の試練にのぞむ(救世主の十字架を担ぐ)。しかも,社会全体が大勝利をおさめる輝かしい瞬間にではなく,個人的絶望のうちに黙々と試練にのぞむのである。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.291

英雄の行為の根底

英雄の時代が始まるのは,人間の村や町があちこちにつくられた後のことである。原始の時代から生き延びた怪物の多くが,いまだ辺境に棲息し,悪意や自暴自棄の念をもって人間社会と敵対している。そうした怪物は退治しなければならない。それに加えて人間の専制君主が人々から略奪を繰り返してその地位につき,悲惨な状態をつくり出している。専制君主も討伐する必要がある。したがって,英雄の行為の根底には邪魔者を取り除く使命がある。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.215

神話の構造

そのため,私たちが受け継いできた神話の形状の価値をきちんと把握するためには,神話が無意識(実際は,人間のあらゆる思考や行為)の表れであるだけでなく,制御され,意図された,ある種の精神的な原理——人間の肉体そのものの形や神経組織と同じように,人類の歴史が始まってこのかた,ずっと不変の原理——を表現していることを,知っておく必要がある。まとめると,万物の教えは,この世界の目に見える構造物すべて——あらゆる事象や存在——は,それを生み出す偏在する力の作用した結果であり,事象や存在が現れている間は,それを支え,満たしているが,最終的に,元の滅却状態に回帰するということである。その力は,科学でエネルギーと呼ばれ,メラネシア人にマナ,アメリカ先住民のスー族にワカンダ,ヒンドゥー教徒にシャクティ,キリスト教徒に神の力として,知られる。また,精神(プシケ)に現れるものは,精神分析学用語でリビドーと呼ばれる。さらに,宇宙に現れるものは,宇宙そのものの構造や流転である。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.102

深層の力

こうした見方にならえば,驚くような物語——伝説の英雄の生涯や,自然に宿る神々の力,死者の霊魂,トーテムの祖先の話として語られる物語——を通して,人間の意識的な行動パターンに隠された無意識の欲求や恐れ,緊張に象徴的な表現が与えられる。言い換えれば,神話は,伝記や歴史,宇宙論として誤読されている心理学なのである。現代の心理学者は,神話本来の意味を解釈し直し,それによって,人間性の最深部に眠る説得力のある記録を今の世に救い出すことができる。そこに表れるのは,X線透視装置で見るように,謎多きホモ・サピエンス——西洋人や東洋人,未開人や文明人,現代人や古代人——の,隠された変遷である。私たちの目の前にすべての場面が展開する。私たちはそれを読み解き,一定のパターンを調べ,バリエーションを分析するだけでよい。そうすれば,人類の運命を決め,公私両面の人生を左右しているに違いない深層の力を理解できるようになる。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.100

時間のずれ

楽園での1年が地上での100年にあたるというのは,神話ではよく知られたモチーフだ。100年での完全な一巡は,全体性を表している。同じように,360度の円も全体性を意味する。ヒンドゥー教のプラーナ聖典では,神界の1年は人間界の360年に相当する。オリュンポスの神々の目から見ると,時代から時代へと移ろいゆく地上の歴史は,完全な円という調和の取れた形をしている。そのため,人間には変化と死にしか見えず,神々には不変の形,終わりなき世界にしか見えない。だが今,問題なのは,差し迫った地上の苦痛や喜びを前にして,この宇宙的な視点をどう維持するかである。知恵の実を食べると,気持ちはその時代の中心から,その瞬間の周縁的な危機へとそれてしまう。完全性のバランスが崩れ,気持ちがぐらつき,英雄は転落する。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.55

十字架としめ縄

鏡と剣,そして樹木については,次のように考えられる。女神の姿を写し,身を隠すという休息から女神をむりやり引き出した鏡は,この世,つまり反射像の世界の象徴である。そこで,女神は自分の輝きを見ることに喜びを覚え,その喜びが,顕現,すなわち「創造」という行為を引き起こす。剣は雷と対をなす。樹木は地と天空をつなぐ「世界軸」であり,願いを叶え,豊穣を表す。キリスト教徒の家庭で冬至に飾る木(クリスマスツリー)も,これと同じである。冬至は太陽の復活と再来の時期であり,クリスマスツリーはゲルマンの異教徒からの楽しい慣習として受け継がれ,それによってゲルマンの異教徒は,現代ドイツ語に女性名詞の「太陽(ゾンネ)」をもたらした。またアメノウズメの踊りと八百万の神のどんちゃん騒ぎは謝肉祭(カーニバル)の一種である。最高位の神の隠遁により世界は混乱に陥るが,その再来により,また喜びに湧く。そして,しめ縄,アマテラスが再び姿を現したとき,その背後に渡された稲藁の縄は,太陽の光が戻るという軌跡を起こした神の慈悲深さを象徴している。このしめ縄は,日本土着の神道における伝統的な象徴の中でも,きわめて目立つ,重要な,そしてものは言わないまでも雄弁な象徴の1つである。しめ縄は,神社の入り口に吊るされたり,正月に門口に飾られたりし,再来の境界線から世界が変わることを表している。キリスト教の十字架が死の淵への神話的な道筋を表す最も雄弁な象徴であるなら,しめ縄は最も単純な復活の象徴である。この2つの象徴——十字架としめ縄——は,この世とあの世,実存と非実存の境界線の神秘を表している。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.39-40

イニシエーション

伝統的なイニシエーションの考え方は,若者に仕事の技術や職務,特権を与えることと,親のイメージに対する感情的な関係を合理的に見直すことを結び付けている。秘義を伝授する者(父親または父親の代理)は,不適当で幼稚な充当(カセクシス)をすっかり取り払った息子にだけ,仕事の象徴を託すことになる。そういう息子なら,自己強化や個人の好み,または憤りという無意識な(意識的で合理的な場合もあるが)動機のせいで,正しく客観的に力を行使することが不可能になる,ということはない。理念的には,託された者は単なる人間性を取り払われ,人格のない宇宙的な力を表すことになる。つまり,「二度生まれた」。自分で父親になったのである。その結果,今度はイニシエーションを授ける人間や,案内人や太陽の扉といった役目を負う資格を持つようになる。そしてそれを通じて人は,幼稚な「良きもの」「悪しきもの」という幻想から脱して宇宙的な法則の権威を経験し,希望や恐れを取り去って,本質の現れを理解した心穏やかな状態になれるのである。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.204-205

私達の問題の一部

疑問をさしはさむ余地はないだろう。過去の世代の人々が神話や宗教の形で受け継いだ象徴や精神的修練に導かれて通った心理学的に危険な事態を,現代の私たちは(信仰心がないならば,または信仰心を持っていたとしても,継承された信仰では現代社会の現実的な問題が説明できないならば)1人で立ち向かわなければならず,助けがあったとしても,せいぜいあやふやで間に合わせで,たいていはあまり役に立たない手引きがあるだけだ。これは,現代的で「啓蒙された」人間としての私たちの問題で,そういう私たちのせいで,神や悪魔は合理的に説明されて存在しなくなってしまった。それでも,残されていたり,地球上の隅々から集めたりしたたくさんの神話や伝説の中に,人間的な振る舞いの何かがまだ残っていて,それが描かれているのを見つけられるかもしれない。しかしそれを聞いて役立てるためには,ともかく魂を浄化し身をゆだねなければならないだろう。そしてそれが私たちの問題の一部なのだ。どうしたらいいのだろうか。「亡くなった人々が経験したような試練を受けずに『至福の園』に入ろうと思うのか」

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.156

英雄の旅

英雄が滑稽であろうが立派であろうが,ギリシア人だろうが未開人だろうが,キリスト教徒だろうがユダヤ教徒だろうが,英雄の旅は本質的な計画においてほとんど変わらない。よく知られている話では,英雄の活躍を肉体的に表現している。高尚な宗教では倫理にかなう行為で表す。それでも冒険やそこに関わる登場人物の役割,手にする勝利の形態には,驚くほど差異がない。元型的なパターンの基本的な要素が1つ2つ,目の前のおとぎ話や伝説,儀礼,神話などから取り除かれても,なんとか意味はわかる。このあと説明するが,取り除くこと自体が,歴史や異常を明確に示すのである。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.66

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