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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

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サイコパスが少ない文化

 サイコパスは古くから世界じゅうにいたようだが,ほかよりもサイコパスの数が少ない文化圏があることもたしかだ。興味深いことに,東アジアの国々,とくに日本と中国では,かなりサイコパシーの割合が低い。台湾の地方と都市の両方でおこなわれた調査では,反社会性人格障害の割合が0.03から0.14パーセント。西欧世界における平均約4パーセントとくらべて,きわめて低い数字である。

マーサ・スタウト 木村博江(訳) (2012). 良心をもたない人たち 草思社 pp.181
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価値転換

 かなり最近まで,喫煙はおしゃれで好ましい行動だった。しかしいまや,喫煙は汚く危険で,本人だけでなく他人も汚染し,喫煙者は下賎で,がさつ,哀れだということになってしまった。はっきりと謳われていなくても,喫煙は嫌悪すべき習慣で喫煙者は汚染された社会の負け犬であり,道徳観に欠けるというメッセージを広告は発信している。この方法は,成人の喫煙マーケットが衰退を見せるまでの数十年にわたってよく宣伝されていた「喫煙は健康に害があります」という禁煙キャンペーンよりも,ずっと効果的だった。最近の喫煙に対する「道徳観の欠如した」観点からの非難の最たるものは,受動煙または副流煙(非喫煙者が吸い込む煙)には命に関わる影響があり,子供など罪もない犠牲者に特に有害だという「新しいデータ」が伝えられていることだ。わかりやすくいうと,喫煙者は,その無責任で自己中心的な行動で赤ん坊を殺してしまう道徳観のない落伍者なのである。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.271

日本よ

 文化が違えば,吐き気を催させるほど最低のシーンが,エロティックなシーンに変わることもある。55億ドル規模といわれる日本のアダルト産業は,排泄物や道ならぬ行為を混然と見せるのを楽しんでいることにかけては,他国の追随を許さない。日本の社会というのは表向きは慎ましやかで秩序があり,礼儀正しく謙虚だが,ひと皮剥くと奔放であられもない性であふれかえっている。タコにクンニリングスされてよがっている裸の女性を描いた官能的芸術から,観た者の多くが吐き気を催して洗面所に駆け込み,また別の者は泣きながら逃げ去ったと伝えられる動画まで——この4分間のビデオについては,あるブログに「ありとあらゆる排泄物に混じりあい,誰かがランチにタコベル(タコス専門店)に行った(後で吐いた)みたいだった」と書かれていた——日本のポルノは,エロ・グロを妄想することにかけては果てしなく自由であるらしい。

レイチェル・ハーツ 綾部早穂(監修) 安納令奈(訳) (2012). あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか 原書房 pp.226-227

性的魅力の後景化

 要するにももクロにあっては,女性アイドルの定石とは逆に,性的魅力を前面に出す演出がなされないのである。たまさか前面に出ても,ジョークか,ハイブリッド化の一断片となってしまう。ももクロと共演している氣志團の綾小路翔氏は,ももクロについて「人生で初めて,性の対象ではない女子を好きになった」とすらいう。
 このような性的魅力の後景化は,逆説的なことに,ももクロの魅力を増しているようにおもわれる。イヤラシさや男性目線への媚びないことが,先の「近さ」「かわいさ」ともあいまって,女性ファンの獲得に貢献しているのは明らかだろう。あるいは<性的でないのに傑出していること>が,女性には憧れや同化への欲求を生むのかもしれない。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.146

無題

 こうした<日常生の美学>,<近さの美学>とも呼ぶべきものこそが,青春ガールズムービーのみならず,ももクロの大きな特徴と魅力をなしている。ももクロは,アイドルであり,その意味では非日常的で「遠い」存在かもしれない。しかし彼女らは,手の届かない「スター」ではない。あくまで「今会えるアイドル」である。ももクロは,どれほど有名になってもそれを強調し続けてきた。ももクロのもうひとつのキャッチフレーズ「週末ヒロイン」も,彼女たちが学校に通う,普通の中高生にすぎないことを強調する効果をもつ。
 このことは,ももクロを含む最近の「ライブアイドル」,あるいは「ご当地アイドル」全般に,多かれ少なかれあてはまる。彼女たちは,近接ライブ,握手会,撮影会などを盛んに行ない,その近さをアピールする。現在は高嶺の花になった AKB48でさえ,秋葉原の専用劇場にゆけばいつでも会える「会いに行けるアイドル」であることを売りにしてきた。宇野氏が村上春樹から借りたいい方をすれば,「リトル・ピープルの時代」のヒロインである。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.134

パクリ指摘に意味なし

 現代では,あまりにも多くの音楽があふれ,音楽情報が大量に氾濫している結果,どんな曲のどんな断片でも,類似した先例を,どこかでかならずみつけることができる状況にいたっている。しかもその先例にはかならず先例があり,さらにその先例にも先例がある……といった具合である。たとえ意図しなくとも,すべての音楽が二次創作,ないしN次創作にならざるを得ない状況といってもよい。それゆえ,よほどたちの悪い全面的な無断借用でない限り,盗作やパクリを云々することはほとんど意味がなくなってしまう。
 こうした状況は,少なくとも近年のアイドル界については,たびたび指摘されてきた。そのことは楽曲のみならず,外見や演出にもあてはまり,強い既視感をももたらす。かくして,新しいものは何も生まれないような閉塞状況が生じた。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.91

カオス感

 前山田氏自身は,最近の若者が飽きっぽいので,曲の中で次々に目先を変えているのだという。もっとも最近では,世代間の差がフラット化し,中高年も若者と似たような嗜好をもつ場合が少なくないし,中高年も音楽にかんしては経験豊富な人が多いから,このことは若者だけにあてはまるわけではなかろう。
 いずれにせよ,ギャップある異質な断片の,ときに高速のハイブリッド化が,ももクロの楽曲の大きな特徴と魅力をなすことは疑いない。大槻ケンヂ氏も,ももクロの音楽とは,最近のアニメやテレビなどの急激な画面展開を音楽化した新ジャンルだと評している。同様に怒髪天の増子直純氏も,1曲の中で色々なものがメチャメチャに展開してゆくカオス感が,ももクロの楽曲の特徴だと評価する。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.80-82

断片とハイブリッド

 このようにももクロの楽曲にあっては,たった1曲の内部でさえ,ギャップある異質な断片のハイブリッドがさまざまに生成される。
 同じことが,複数の楽曲のあいだにもみられる。ももクロの持ち歌は2013年1月現在,カバー曲を含め70曲強ほどあるが,それらは歌詞を度外視しても,提供者が固定していないことも手伝って,スタイルやジャンルの点で見事なまでにバラバラである。そのスタイルやジャンル自体は,各々歴史的な文脈に属する古いものといってよい。しかしライブやアルバム全体の中では,各曲が異質な断片となり,次々とハイブリッド化され,斬新な効果をもたらす。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.80

多様で雑多

 そもそも5人は,メジャーなアイドルとしては例のないほど,声も,歌も,背丈も,性格(キャラ)も,踊り方さえも,バラバラで,むしろそれを強調してきた。この個性差に応じてまた,各メンバーを応援する(推す)ファンたちの好みも分かれる。さらにそれら多様なメンバーたちが,多様な楽曲,ダンス,演出を繰り広げる。その組み合わせの可能性たるや,万華鏡のごとく無限大といってよい。
 かくしてファンは,きわめて多様で雑多なももクロの中から,自分の好みに合った側面のみに注目し,それを楽しむことができる。しかもファンは,ももクロにたいして強い感情的な一体感をもつことが多い。その結果,互いに相容れない通約不可能な<私だけのももクロ>像が,ファンの数だけ存在する事態になりやすい。
 重要なのは,それら<私だけのももクロ>像は,いずれも正しいことである。各々,ももクロの汲みつくせない多様性の全体を,少しずつ部分的に写し出したものなのだから。
 一般に現代日本では,音楽等にかんする人びとの好みが,多様化し細分化し,オタク的・排他的な「島宇宙」(宮台真司氏)と化す傾向が強い。もはやかつてのように,国民の誰もが同じ大スターを好むことはない。各人は自分の好きなものだけを追求し,ほかのジャンルやアーティストにはまったく無関心というわけだ。そのような状況にあってなお,ももクロが多様なファン層を獲得し,国民的現象にまでなり得たのは,ももクロ自体の中に,多様な島宇宙を包摂できる,<わけのわからない>雑多な多様性が併存するからに違いない。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.16-17

大学に例えると

 「俗に浅草フランス座がストリップ界の東京大学といわれていた。そして新宿フランス座が早稲田大学,池袋フランス座が立教大学,浅草ロック座がなぜかストリップ界の日本大学ということになっていました。
 仮にも大学というからには,高校があるはずですが,これに当たるのは,浅草の百万ドル劇場,美人座,浅草座といったところ。あるいは横浜セントラルなどの東京周辺の小屋でしょうか。この伝で云えば,喜劇役者の中学は地方巡回劇団ということになります。
 また『大学』卒業後にもそれなりの進路があって,丸の内の日劇ミュージックホールが東大大学院でしょうか。ここを経て,日劇の『春の踊り』や『夏の踊り』に出演すると,いわば大蔵省へ入省したようなもの。さらにここから映画に出るとか,そのころ仕事を始めたテレビに行くとか,社会の中に喜劇役者のための登攀装置が埋め込まれていたのです。逆に云えば,一人前の喜劇役者になるには,生の舞台で,それも厳しい観客の前で,長い間,修行しなければならなかった」(『浅草フランス座の時間』)

松倉久幸 (2011). 浅草で,渥美清,由利徹,三波伸介,伊東四朗,東八郎,萩本欽一,ビートたけし…が歌った,踊った,喋った,泣いた,笑われた。 ゴマブックス No.456-465(Kindle)

フランス座野球チーム

 また余談になりますが,野球といえば親父の宇七も無類の野球好きで,ついに軟式のクラブチームまでつくって,これが「フランス座」チーム。東京では有数の強豪でして,俳優の鶴田浩二のチームと,よく国体の代表を争っていたんです。昭和29年には東京都大会で優勝,私も内野手として出場しましたが,投手が豪速球の持ち主でバッタバッタと三振を取る。これが土橋正幸という選手で浅草の魚屋の息子。優勝がきっかけになってプロ野球の東映に入り,最多投手になり監督にまでなりました。またまた余談ついでにいえば,のちにフランス座の文芸部員としてはいってきた,現在の作家井上ひさしもよく練習試合に駆り出され,球拾いなんかやらされてましたよ。

松倉久幸 (2011). 浅草で,渥美清,由利徹,三波伸介,伊東四朗,東八郎,萩本欽一,ビートたけし…が歌った,踊った,喋った,泣いた,笑われた。 ゴマブックス No.358(Kindle)

なぜそれが必要なのか

 人生をもっと豊かで謎めいたものにするために,なぜパラノーマルの世界や神が必要なのか,そもそも私には理解できない。もっとも,そういった信念体系が単純な答えやわかりやすい意味をもたらしてくれるという点で魅力があるのはわかるし,そういった単純な答えやわかりやすい意味に魅力を感じる人が,子どもの頃に洗脳された人のなかにはとりわけたくさんいることも理解している。それでも,繰り返すが,そういったものに惹かれる気持ちやその理由のほうが,信者の心の中に根を下ろす作り物の概念よりもはるかに興味深いはずだ。
 私は今でも幽霊や天使といった概念が大好きだし,超常現象のとてつもない話に心惹かれる。そういったものが惹起するイマジネーションにわくわくするからだ。「未知のもの」は私たちをぞくぞくさせてくれる。それでも,そうしたものは単なるストーリーにすぎないし,私たちにはわからないことがまだたくさんあるからといって,これからも永遠に解明できないとは限らない。「超常」や「超感覚」の話をする前に,「通常」や「感覚」の限界を理解し,定義する必要がある。それをせずに何かを超常現象と決めつけることは,好奇心と学ぶ意欲を殺いでしまう。わかりやすいレッテルを貼り,単純な意味を付与して,考えることを好まない人たちを満足させ,考えることを好む人たちを貶め,物事を超常現象で片付けてしまうことは,私たちの思考や世界や宇宙から,目も眩むような複雑さや豊かさを奪ってしまう。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.458-459

「ずれ」の積み重なり

 私たち日本人は,靴を脱いで上がり框に足をかけるとき,脱いだ靴をくるりと反転させる。しかし,聞くところによると,韓国の人たちはこれを嫌がるらしい。「そんなに早く帰りたいのか」と思うのだそうだ。
 この現象は,靴を脱いで家に上がるという文化を共有しているからこそ起こる摩擦だろう。西洋人との間なら,「ここは靴を脱いでください」という言語コミュニケーションが介在するから,摩擦は顕在化し,その都度解消される。しかし,靴の向きを変えるか変えないかといった些細な事柄は,私達の日常の中では見過ごされがちだ。
 両国にいまだに根強い嫌韓,反日の感情も,こういった近親憎悪的な事例,あるいはそこに由来・派生する事柄が多くある。日韓だけではない。世界中を見渡しても,隣国同士はたいてい仲が悪い。その原因の1つは,文化が近すぎたり,共有できる部分が多すぎて,摩擦が顕在化せず,その顕在化しない「ずれ」がつもりつもって,抜き差しならない状態になったときに噴出し,衝突を起こすという面があるのではないか。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 1520-1530/2130(Kindle)

人を気にする

 珍奇ネームをつける親の特徴として,周囲の人の目を執拗に気にし,かつ周囲の人にさからうことが苦手という点があげられます。たとえば,私に相談に来られた人の中にこのようなやりとりが多々あります。
 「個性のある名前にしたいんです。教えてください」
 「めずらしい名前のリストはお見せできますが,でも,他人に『個性的だ』と教えてもらうことが個性といえるでしょうか?」
 珍奇ネームにこだわる人は,このようにまわりの意見がとても気になり,何でも周囲の人のすることを基準にしたり,ちょっとでも意見がくいちがいそうになったりすると,話そのものをしたがらなくなる方が非常に多いのです。
 しかし,そうした方々には全く反対の特徴として,自分の意見に固執するといった傾向も見てとれます。
 こんな人がいました。読みようのない珍奇ネームをひとつだけ見せて,「字の意味はいいですか?」と聞いてこられました。字のことだけをいえば,意味のよい漢字が使われていたので,私は「はい……」と言いながら,話をはじめようとしたところ,「ありがとうございます」と叫んで,走り去ってしまったのです。
 逃げ足の速さにびっくりした私は,「きっと,専門家がいいと言ったとまわりに主張したいのだろう。よほど自信がなかったのだな」と思いました。
 このように先回り社会を生きる私たちのなかには,「人の眼を気にしながら生きる」といった価値観と「自分の意見をとおし,主体的に生きていたい」という相反する価値観が同居しているのです。

牧野恭仁雄 (2012). 子供の名前が危ない KKベストセラーズ pp.164-165

誰が?

 2004(平成16)年に法務省は,漢字の範囲を広げるに当たって,あらたに認めてほしい漢字を募集し,そこにはたくさんの希望が寄せられました。ところが希望の多かったとされる字は,私が命名相談を何十年もお受けしたなかでは,ほとんど見たことのないような字ばかりでした。
 もっとも希望が多かったとされるのが「掬」の字です。「キク・すくう」と読みますが,名前が作りにくく,名づけ相談でも一度も出されたことがありません。それがなぜか1位で,人名用の漢字に加えられました。その後も,名づけ相談には一度も出てきていません。いったい誰が,あんな字を法務省にリクエストし,実際に我が子の名前に使ったというのか,皆目見当がつきません。

牧野恭仁雄 (2012). 子供の名前が危ない KKベストセラーズ pp.141

個性

 珍奇ネームをつけることは,親の個性の強さを象徴しているといったように思われることもありますが,本当の人間の個性とは,そんなものではありません。
 個性のある人というのは,名づけの際に「自分はこうしたい」と本音をズバッと主張し,世の中に少ない名前をつけることもあれば,非常に多い名前をつけることもあります。世間に多いか少ないかなど関係がなく,自分のしたいようにするのです。
 ところが「人のつけない名前を」とこだわる人は,43頁の『まれに見るバカ』でも指摘されていたように,裏を返せばつねに「人」の目が気になる人です。
 そして,常識とちがうことを成し遂げた,自分だけ思いついた,ということがあらわれた名前でないと,自らの力を感じられないのです。
 名づけこそ,自分が主導権をもって行った証であり,なおかつめずらしく見た目もよければ,自分の心が満たされることにもつながります。だからそういう名前をキラキラネームと呼びたくなるのでしょう。言いかえれば「主導権がない」という欠乏感,「力がない」という無力感が,珍奇ネームを生んでいるのです。
 しかし,そうした名前が結果として人に不快感を与えてしまうため文字通りの暴走族や不良のイメージと重なり,ドキュンネームと呼ばれる皮肉な結果となっていきます。

牧野恭仁雄 (2012). 子供の名前が危ない KKベストセラーズ pp.112-113

「子」

 そもそも子の字というのは,もとは男性を意味する字でした。いまでも「王子と王女」「息子と娘」という言葉にそれが表されています。
 そして古代の中国では,孔子,孟子というふうに,男性を尊敬して使う字でした。古代日本でも,小野妹子,蘇我馬子という男性がいたのは有名です。
 子の字は,奈良時代の皇族のあいだで,はじめて女性に使われはじめたようですが,その後も皇族や,身分の高い女性にしか使われませんでした。有名なのは日野富子,北条政子などです。
 名字になって一人一氏名の制度となったとき,まず皇族の女性たちに子のつく名前がつけられました。それからだんだんと,一般庶民に広まっていったのです。
 男の子の名でも,典,亮,介,輔,佑,夫,将,士,司,史,蔵,守,平(兵衛)などの字が増えましたが,それらももともとは官職をあらわす字でした。
 明治のころは「高い地位」「上流社会」にたいする庶民のあこがれがあったようです。
 昭和50年代のなかばごろから,○子という名前のパターンがくずれ,名前の種類が急激に増えてきて,子のつく名前は減っていきました。

牧野恭仁雄 (2012). 子供の名前が危ない KKベストセラーズ pp.80-81

珍名

 珍奇でわかりにくい,といっても,名前というのは人によって好みや印象がちがいます。同じ名前でも人によっては「素敵」ととられたり,ある人によっては「異様」と思われたりします。
 たとえば,明治安田生命の調査による「2011 名前ランキング」によると男性の1位は大翔(「ひろと」などと読む),蓮,女性の1位は陽菜,結愛です。とりわけ,大翔という漢字ではヒロトとは読みませんから,年配の方々には奇妙でけしからん名前に見えるかもしれません。しかし若い親にとっては人気のある流行の名前であり,まちがった読み方だとも気づかずにつけてしまう人も多いはずです。
 これほどに名前というのは,人によって好み,印象がちがうのです。
 また珍奇かどうか決めにくいグレーゾーンの名前もたくさん存在します。世の中の流れによって人々の価値観は変わり,それが珍奇か否かといった印象も変わっていきます。

牧野恭仁雄 (2012). 子供の名前が危ない KKベストセラーズ pp.22-23

笑いモノこそ

 「左様。物が生き物になった時から居る——あれが所謂,霊(モノ)だ。恐ろしいモノだ。恐怖そのものだ。人間は——いや,動物は,あれから逃れるために様々な発達を遂げ,知識を蓄えて来たのだ。その成果のひとつが,我ら妖怪だ」
 「そうなんですか?」
 「そうだ。ただ怖い,ただ恐ろしい,おっかない——これはな,獣でも思うことだ。その,何だか解らないモノと戦うことが生き物の歴史なのである。しかし戦うばかりが戦術ではなかろう。封じ込め,祀り上げ,共存するという手もあるわい。訳の解らぬ怖いモノを,畏怖心,嫌悪感,不快感と細分化し,更に様々な解釈を加え,それぞれに規定して,爪を抜き牙を抜いて飼い馴らし,最後には笑い物にしてしまう——その笑いモノこそが我ら妖怪なのだ」

京極夏彦 (2010). 文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし 角川書店 pp.687

チャリティ

 実際,イギリスの街中を歩くと,チャリティ・ショップの数の多さに驚かされる。ガン,心臓病患者や難病患者への支援,発展途上国への援助など,各分野のチャリティ団体が店を出し,中古衣料や雑貨を販売して,活動費に充てている。チャリティ・ショップは日常風景の一部であり,買い手も,一般の店舗と特に変わらない認識で利用している人が多い。ここで買い物をすることが社会貢献である,という気負いや衒いもまったく見られない。
 日本で「チャリティ」というと,困窮している人間に対する「恵み」「施し」というイメージで語られるが,イギリスにおいてはその意味がかなり拡大解釈される。危機に瀕している動物,あるいは機械も救済の対象に成り得る。消滅しかかっている機関車や線路を自らの財布と労働力で救うという行為は,イギリス伝統のフィランソロピーやチャリティの延長線上にある。

秋山岳志 (2010). 機関車トーマスと世界鉄道遺産 集英社 pp.40

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