I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

自分と周囲

人は全体像のなかに自分を置くことがなかなかできない。「同じ舟」に乗っている人間どうしで比較しあうだけだ。だから自分が恵まれないとか,不幸だといった感覚も,あくまで相対的なものに過ぎない。これはなかなか深い意味を持つ事実であり,不可解に思える現象もすべてそれで説明がつく。たとえば国別の幸福度調査で,スイス,デンマーク,アイスランド,オランダ,カナダといった国は,自分が幸せだと答えた国民が多かった。対してギリシア,イタリア,ポルトガル,スペインは,幸せではないという回答が目立った。ではこの2つのグループのうち,自殺率が高いのはどちらだろう?答えは幸福な前者だ。これも「憲兵と陸軍航空隊」と同じ図式だ。誰もが不幸せな国では,自分に不幸が降りかかってもさほど落ちこまない。でも周囲がみんな幸せな笑顔を浮かべていたら,不幸がいっそう身にしみるだろう。

マルコム・グラッドウェル 藤井留美(訳) (2014). 逆転!強敵や逆境に勝てる秘密 講談社 pp.79

尊厳・名誉・面子

アメリカやカナダなどの尊厳の文化に属する人々は,どの人間にも,他者によって奪うことのできない尊厳があると信じています。
 尊厳の文化では,平等な立場での他者との関わり合いが尊重され,個人を自発性と自律性を持つ存在だとみなします。
 対照的に,名誉の文化では他者からの評価に敏感です。特に,他者の行動によって名誉が傷つけられることに対しては過敏に反応します。また,自らの名誉を保つことと,それが貶められた場合に,回復させる責任があるとも信じています。
 面子の文化は,日本や韓国に見られるもので,他者からの評価が主な関心事になります。この文化では,日々の暮らしのなかで,自分が他者の目にどう映るかが重要であり,その評価を自らの行動の指針とします。
 面子の文化では,階層的な組織が形成されやすく,その「序列」が人間関係に影響を与えます。これら3つの文化を1つの連続体で表すとすれば,その両端は,個人への重視(尊厳の文化)と社会的状況における個人のポジションへの重視(面子の文化)になります。

ロバート・ビスワス=ディーナー 児島 修(訳) 2014). 「勇気」の科学:一歩踏み出すための集中講義 大和書房 pp.78-79

ウィンドウズ95

1995年11月に発売されたウィンドウズ95を手に入れようと,深夜の日付が変わる瞬間に行列ができたことは,よく知られている。ウィンドウズ95の発売は,歴史的な出来事として扱われる。だが,当時の状況を改めて眺めてみると,これがつくられた話題,いまどきの言葉でいうと「ステマ」でしかなかったという事実が浮かび上がる。
 ウィンドウズ95の騒ぎとは,つまるところ50億円が投じられた手の込んだ広告キャンペーンだった。その一環として行われた秋葉原での深夜の一斉発売が,予想以上に反響を集めたのだ。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.96-97

ポジティブ思考カルト

ジャーナリストのバーバラ・エーレンライクは著書『Smile or Die』の中で,現代社会にはびこるこの手の(彼女いわく)ポジティブ思考カルトを痛烈に批判している。エーレンライクは乳がんの診断を受けたとき,この種のカルトの冷酷さを思い知ったという。病名を告げられるや彼女のもとには,この経験は「きっとあなたを変えてくれる」「人生の意味を見いだすチャンスだ」「神に目覚める助けになる」などの「ポジティブな」メッセージが山のように寄せられた。
 恐ろしい病気に直面しているのに,それに感謝せよとアドバイスされ,彼女は強い反感を覚えた。「ポジティブに考えてさえいれば,事態は良くなる」わけが,あるものだろうか?ポジティブ思考は万能だなど,幻想にすぎないとエーレンライクは冷徹に観察し,批判する。彼女はこの点,まったく正しい。楽観主義とは往々にして,人が表層レベルで何を考えるかよりも何を行うかに,そして脳がどう反応するかに深くかかわっている。それは科学的な調査結果からも裏づけらている。

エレーヌ・フォックス 森内薫(訳) (2014). 脳科学は人格を変えられるか? 文藝春秋 pp.83-84

内的要因よりも

江戸時代中・後期の日本の成功を解釈する際にありがちな答え——日本人らしい自然への愛,仏教徒としての生命の尊重,あるいは儒教的な価値観——は早々に退けていいだろう。これらの単純な言葉は,日本人の意識に内在する複雑な現実を正確に表していないうえに,江戸時代初期の日本が国の資源を枯渇させるのを防いではくれなかったし,現代の日本が海洋及び他国の資源を枯渇させつつあるのを防いでもくれないのだ。むしろ,答えのひとつは,日本の環境的な強みにある。同じ環境要因のいくつかについては,すでに第2章で考察し,なぜイースター島とその他数カ所のポリネシア及びメラネシアの島々が森林破壊に至った一方で,ティコピア島やトンガなどの島々はそうならなかったのかを説明した。後者の島々の住民は,伐採後の土壌で樹木がすばやく再生するという,生態系的にたくましい土地に住む幸運に恵まれた。ポリネシアやメラネシアのたくましい島々と同様,日本では,降雨量の多さ,黄砂による地力の回復,土壌の若さなどのおかげで,樹木の再生が速い。もうひとつの答えは,日本の社会的な強みに関係がある。そういう日本社会の特徴は,森林の破壊危機の前からすでに存在したので,対応策として生み出される必要がなかった。具体的には,他の社会では多くの土地の森林を荒廃させる原因となった,草や若芽を食べてしまうヤギやヒツジがいなかったこと,戦国時代が終わって騎兵が必要なくなり,江戸時代の初期にウマの数が減ったこと,魚介類が豊富にあったので,蛋白質や肥料の供給源としての森林への圧力が緩和されたことなどが含まれる。日本社会は,ウシやウマを役畜として利用していたが,森林伐採と森林由来の飼料の不足を受けて家畜の数は減ってしまい,人間の手で鋤や鍬などの道具を使わざるを得なくなった。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.51-52

侮蔑意識

あなたがもし,イヌイットの女性に自分の体型に合わせたカヤックを作ってもらいたかったら,あるいはその女性の娘と結婚したかったら,その前にまず友好的な関係を築かなくてはならない。ところが,ここまで見てきたように,ノルウェー人たちは最初から“悪しき態度”を取り,ヴィンランドのアメリカ先住民とグリーンランドのイヌイットを“愚劣な民”などと呼んで,その両方の場所で最初に会った先住民を殺害した。教会を信奉する彼らは,中世ヨーロッパに広く浸透した異教徒への侮蔑意識を胸に抱いていた。
 悪しき態度の裏にあるもうひとつの要素は,ノルウェー人が自分たちこそ北の狩場(ノルズルセタ)の先住民であり,イヌイットを“もぐり”だと考えていたことだ。ノルウェー人はイヌイットより何世紀も前にそこを見つけ,狩りをしていた。北グリーンランドのイヌイットが狩場に現れたとき,セイウチを自分たちの獲物だと思っていたノルウェー人が,イヌイットの捕獲したセイウチの牙に対価を支払う気になれなかったのも無理はない。それに,そのころには,イヌイットの喜ぶ交易品である鉄が,ノルウェー人たちにとっても希少な必需物資になっていたのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.418-419

ウィキッド・プロブレム

ウンコは社会学者と科学者がやっかいな問題(ウィキッド・プロブレム)と呼ぶものである。
 やっかいな問題という概念を1970年代に導入したソーシャルプランナーは,従来の科学で対処できる「飼い慣らされた」問題とされるものとそれを区別した。やっかいな問題と呼ばれるものは,範囲がはっきりせず,首尾一貫していない。その解決が難しいのは,情報が不完全であるか,問題の解決を求める者たちの要求が常に変わり続けているからだ。やっかいな問題は,一見したところ並立しないさまざまな視点から定義することができ,だから問題の信頼できる公式化も最適な解決法も存在しないのだ。中でもいちばん始末に負えないのは,問題のある面を解決しようとすると,別の問題が生まれたり,表面化したりするかもしれないことである。

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.20

平泳ぎ

まずはカエルから始めよう。この名人級スイマーの小さな両生類の名は,ディグビーがそのパイオニア的マニュアルに「一級の泳法」とした平泳ぎの脚の動きに「カエル足」として冠されている。平泳ぎ(ブレストストローク)は,腹を下にし,顔を自然に前方に向けた姿勢で泳ぐため,ヒューマン(ストローク)またはチェストストロークとも呼ばれている。300年以上もの間,それはヨーロッパ人とアメリカ人にとって,どこで泳ぐにしろ,事実上,唯一の泳法であった。平泳ぎでベンジャミン・フランクリンはテムズ川を下り,バイロンはヘレスポントスを横断し,ウェブはドーバー海峡を渡った(もっとも,ウェブは,当時は一般的だった顔を水面上に出したままの姿勢で21時間泳いだため,首の後ろに痛みを伴う水膨れができた。また,彼は腕と脚を同時に動かしていた)。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.84-85

自己中心的欲求

アメリカ人家庭には,日本のように「養子縁組は家を継ぐための手段」という考え方は存在しない。「恵まれない子に家庭の愛情を分かち合いたい」「アメリカ人が置き去りにしていった混血児を引き取る義務がある」と主張する夫婦がいることも確かだった。
 しかし,一方で,大城は自己中心的な欲求を満たそうとするアメリカ人たちの本音もたくさん見てきた。
 大城のもとを訪れる夫婦の中には,「自分の強い信仰心や社会的奉仕心を証明するため,子どもを養子縁組したい」と言う者もいた。「アメリカ本国では資格審査が厳しい。裁判所の審査が緩く,比較的簡単に養子がもらえるアジアで縁組したい」とあっけらかんと言い放つ者もあった。
 もっとひどい夫婦は「人形のようにかわいい東洋の少女を帰国前にもらいたい」と公言してはばからなかった。
 あの手この手を使って実母やその家族と直接交渉し,専門のケースワーカーの介入を避けようとするのが,こうした養親たちの常套手段だった。

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.198-199

「では,そういうことで」

会議があまりゴタゴタせずに「では,そういうことで」で終わるのは,効率性の観点からは望ましい。「侃々諤々の議論の結果,決まったことは一糸乱れずみんなで頑張って実現する」となると党首選後の新党首挨拶のようだが,議論下手な日本人のメンタリティとして「激しい議論」は確かに功罪半ばし,なかなか「ノーサイド」と気持ちを整理するのはむずかしい。結果的に効率性を実現できるこのような会議の進め方は,1つの「生活の知恵」だろう。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.77

プラスチック・ワード

意味の曖昧さ自体は,それほど珍しいことではない。たしかに日常言語においても,利用可能な語彙の単位としての単語の意味が,曖昧だったり抽象的だったり広い射程をもったりすることがある。ある対象領域のさまざまな側面を意味することもできるし,境界線がさまざまに移り変わることもある。けれども,わたしがそれを特定のコンテクストのなかで用いて,適用範囲の輪郭を描くやいなや,ことばは意味が明確で具体的で正確になる。それに対して,プラスチック・ワードは,特定のやり方で正確で適切に用いられることがほとんどない。それらはたがいに交換可能な規格部品として使用されるのである。まさにこのために,プラスチック・ワードは,正確さ,具体性,厳密性へと向かういかなる潜在的可能性をも失っているのである。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.42

多様性の縮小

どうやら言語の領域でも,植物や動物の世界で起きているのと同じことが起きているらしい。すなわち,多様性の縮小である。モノカルチャーが広まり,地球上をおおいつくしつつあるのだ。トウモロコシもコメも小麦も,羊や牛やブタも,変種がますます見られなくなり,少数の種が世を席巻している。ちょうど言語の世界における,中国語,ロシア語,英語のようなものである。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.29

制度と価値観

価値観はさまざまな源泉から生まれる。だがどの社会でも,制度はそれを作った人の価値観を反映しており,制度につかえる人は制度の正当性を支える価値観を主張して,制度の存続をはかろうとする。既存の制度がいまのままの形では生き残れないのであれば,そうした制度が体現し主張する価値観や規範も生き残れない。価値観のある部分が衰え,新しい価値観が登場してくると予想しておくべきである。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.77

因果関係の説明

もちろん,だから予兆とか占いはまやかしだと言おうとしているのではない。出来事は,むしろ,あとでしか説明できないと言いたいのである。因果関係というのは,因がまずあってのちに果があることであり,出来事の連鎖で言えば,ある出来事が原因となって結果としてある出来事が起きるということのはずだが,われわれは,むしろ逆に,結果がまずあって,そのあとで,その原因としての出来事を想起する。そして,想起された過去の出来事が,のちに起きた出来事の原因として説明に使われるのである。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.201-202

文化による

占いは,何かの事物の意味を解釈するとき,その事物に対するイメージ,意味づけを利用する。そのイメージや意味づけが,その事物そのものの本質によって決められているのではなく,文化によって決められていることが問題なのだ。好きな色によって性格を占ったり,診断するものがあるが,色に対するイメージや意味づけは,明らかに文化によって異なる。たとえば,わいせつ映画を日本ではピンク映画と言うが,同じものを英語ならブルー・フィルムと言う。中国語なら黄色であらわす。色の意味づけは文化によって違うのだ。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.83-84

個と相

結局,「何から」「何を」占うのかを考えると,個から個を占う場合,個から相を占う場合,相から個を占う場合,相から相を占う場合の4種類があると考えてよいだろう。「茶柱が立つと客が来る」という言い方がされる地方があり,これは個から個を占っている。「茶柱が立つと縁起がよい」は個から相を占っている。「朝,茶柱が立つと客が来る」なら相から個を占っている。「朝,茶柱が立つと縁起がよい」は相から相を占っている。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.49-50

事物と相

結局,占いには,何「について」,何「を」占うのかで言えば,犯人を探したり,彗星の出現から戦争を占うように個々の事物を占う場合と,あなたは何々型人間ですとか,今日のあなたは大凶ですなどと相を占う場合とがあることになる。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.48

ここで重要なのは,吉とか凶というのは,個々の出来事ではないということである。いくつもの出来事から共通した何かとして取り出されたものなのだ。縁起とか幸運,ツキなども同じである。それらは,実体としてあるものではない。それらは,具体的には個々の出来事として姿形をあらわすのだが,そのあらわれたもの自体が吉とか幸運とかツキなのではない。個のレベルと集合のレベルを混同してはならない。
 この,いままで類型と呼んできたものを,占いでは「相」と呼ぶのだと考えられる。吉や,縁起やツキ,血液型や星座,それらは諸要素の集まり全体の表情,相貌,英語で言えばアスペクトのことであり,相の名前なのである。そして,相としてとらえるということは,その要素集合は無秩序ではなく,ランダムでもなく,規則や法則があるととらえることである。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.47-48

類型

これは,あらかじめいくつかに分類された類型,部類のどれに入るかを占うものである。動物占いとか寿司占いとかの最近の占いの多くがこれである。とくに性格占いに多く,血液型占いや,生まれ干支や星座による占いも同じである。あなたは何々型人間であるから,こういう性格でありこういう運命だ,と決めつけられる。1つの類型には,その類型に入る者の特徴が列挙されており,パッケージになっている。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.45-46

予兆

いままで見てきた例からとりあえずわかることは,どんなものやことでも,その同じもの,ことが,あるとき,ある条件下で,ある脈絡に置かれているとき,占いの対象になるらしい,ということである。とくに異常性,偶然性が見てとられるとき,なんでもないことが急に意味ありげに思われ,占いの対象になるようだ。毎日くる郵便物も,「切手に消印のない手紙や葉書を受取ると夢のような儲け事がある」(愛知・市橋鐸『俗信と言い伝え』名古屋泰文堂,昭和45年)のだ。
 それは,同じものやことが,ある見方,とらえ方をされたときに占いの対象になる,ということである。燕が家の中に巣を作るとき,燕は野生動物で,家畜のように飼っているわけではない,その燕が人間のすみかである家のなかに巣を作った。めずらしいことだ,異常なことだ,ととらえると,その出来事は特別の意味をもつものとなる。それを,燕は烏などの天敵から巣を守るために安全な人家を利用するだけだと見るなら,何の予兆にもならない。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.39-40

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