I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「文化」の記事一覧

誰一人なれなかった

これまでは,弟子入りこそが芸人になるためのほぼ唯一の道だったところが,ダウンタウン以降,お笑い養成所に入って芸人になることが一般的になった。下積み修行をしなくても,とにかく面白ければ芸人になれる。そういう時代が訪れたのだ。
 楽屋で師匠の顔色をうかがったり,芸人たちの人間関係に気を配ったりする必要がなくなった。
 そういう時代になったからこそ,基本的なコミュニケーション能力が足りない人間でも,芸人になれる可能性が出てきたのだ。
 松本は,そのたたずまいからすでに常人離れしていた。今でもそうだが,彼は面白いことを言うときに決して笑顔を見せない。
 憮然とした表情で,ボソッとつぶやくように鋭いことを言う。それが命中してドカンとウケる。
 このスタイルに憧れて,数多くの芸人がダウンタウンの真似をした。
 そして,誰一人としてダウンタウンにはなれなかった。

ラリー遠田 (2015). なぜ,とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか? コアマガジン pp.106-107

フェア

“フェア”というのは人間的な考え方だが,勝負の結果に一貫性をもたらすため,結果を予測しやすくなるという側面もある。フェアな戦いでは,もっとも力の優れた者が勝つ(この結果が覆されると不正が疑われることになる)。そしてフェアな戦いでは,常に1対1である。有史以来,古代ギリシャ人,ヨーロッパ中世の騎士,日本の武士,アメリカ西部のガンマンなど,いずれの戦いにおいても,名誉や地位や栄光を獲得できる唯一の戦闘形式,それは1対1の決闘だった。
 生物の世界においても,1対1の決闘では,通常はもっとも能力の優れたオスが勝つ。しかし複数が入り乱れての戦いになると,そうとは限らない。1対1の対決は,単純で意外性もなく,比較的結果を予想しやすい。こうした戦いで,能力の劣ったオスが能力の優れた大きなオスを倒すのは難しい。かつての兵士同様,力,スタミナ,武器のサイズがものを言うのだ。

ダグラス・J・エムレン 山田美明(訳) (2015). 動物たちの武器:闘いは進化する エクスナレッジ pp.117

期待度

デンマーク人はなぜそんなに幸福なのだろう。彼らは最高レベルの気候やお金に恵まれているわけではない。むしろ,それらのレベルは低いのだ。答えは,デンマークでは社会的つながりが強く,またさまざまなものへの期待度が低いというところにある。同様に,2009年にアメリカで,州単位で行われた幸福度調査では,ルイジアナ(ハリケーン襲来前)がトップで,期待過剰なニューヨーカーたちは最下位だった。どうやら求めるものが少ないほど(そして,幸せを得ようと奮闘しないほど)幸せになりやすいようだ。つまり,過剰な楽観主義は,常に幸せに結びつくとは限らないのである。

ティム・スペクター 野中香方子(訳) (2014). 双子の遺伝子:「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける ダイヤモンド社 pp.57

滑稽・機知・ユーモア

こういう人びとは,この時代のアメリカに特徴的である。マーク・トゥエインによると,イギリス人は「滑稽」(comic)を好み,フランス人は「機知」(wit)を好むが,アメリカ人が求めるのは「ユーモア」(humor)である。滑稽や機知は,内容そのものが笑いを誘うため,誰が語っても面白いが,ユーモアは話の筋というよりいわば話芸を楽しむもので,話し方の上手下手で大きく違う。それを誰が話すかで,面白さが決まるのである。つまり,ユーモアを求める心は,ヒーローを求める心と同じである。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.170-171

学校は成功への障害

米国の小説や物語に出てくる独力で成功した男も,わずかな教育しか受けず,学校は成功への明らかな障害になると思っているケースが多かった。ホレイショ・アルジャー作の人気小説も,貧乏だが野心を持った少年という同じテーマだった。熱血漢の若い主人公と独力で成功した実力者の熟年男性が偶然出会い,よくある形で話が展開する。セオドア・ドライサーの『資本家』では,将来資本家になるフランク・カウパーウッドが,「子供でいたくない。働きたい」という理由で,13歳のとき学校に行かなくなった。若きジェイ・ギャツビーは,フランクリンが自伝で勧めたような自分磨きのチェックリストを持ち歩いていたが,著者のフィッツジェラルドは,ギャツビーがそれとわかる教育を受けたかどうかは語っていない。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.64-65

消えた名誉

ナショナリズムや征服と並んで,第二次大戦後の数十年間に消えていったもう1つの理想,それは名誉だ。ルアードは控え目な調子でこう書いている。「おそらく今日では一般に,人間の命にはかつてより高い価値が置かれ,国の威信(あるいは『名誉』)に置かれる価値は低くなっている」。冷戦が最も深刻な時期にソ連の指導者だったニキータ・フルシチョフは,この新しい意識を次のように表現した。「私は仮面舞踏会で屁をこいたら自害しなきゃならんような帝政時代の役人ではない。戦争をするより引き下がったほうがましだ」。少なからぬ国の指導者がこれに同意し,かつての時代なら戦争に走ったであろうような挑発を受けても,引き下がって武器を収めるようになっている。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.462

文明化

オランダの社会学者カス・ヴァウタースは晩年のノルベルト・エリアスとの対話からヒントを得て,現代は文明化のプロセスの新段階にあると示唆している。これは,前述した長期にわたる脱形式化のプロセスのことであり,最終的にはエリアスの言う「感情のコントロールをコントロールされたかたちで解除すること」,ボウタースの言う第3の天性へといたるものだ。人間の第一の天性が自然状態で生きる上での進化した動機から成り,第2の天性は文明化社会に根づいた習慣から成るとすれば,第3の天性はそうした習慣に対する意識的な内省——つまり,文化規範のどの側面が守る価値があり,どの側面がもはや無用であるかを見きわめる作業だといえよう。何世紀も前,私たちの祖先は自分たちを「文明化」するために,自然さや個性を示すものをすべて押さえ込もうとしたのかもしれない。だが非暴力の規範が定着した現在,もはや時代遅れとなった抑制もある。この考えでいけば,女性が肌を露出したり,男性が公の場で口汚い言葉を発することは文化的退廃の兆候ではない。それは,いまの社会が十分文明化されていて,そんなことで嫌がらせを受けたり,相手に攻撃される心配がないことのあらわれなのだ。作家のロバート・ハワードはこう書いた。「文明化された男性は野蛮人より無礼である。なぜなら彼らは,不作法な態度をとっても頭を割られる心配はないとわかっているからだ」。ひょっとすると,ナイフでグリーンピースをフォークに載せてもいい時代が到来したのかもしれない。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.243-244

男性の文明化

若い男性が,女性や結婚によって文明化されるなどというのは陳腐きわまりないと思われるかもしれないが,近代犯罪学ではごくあたりまえのことになっている。ボストンの低所得層出身の非行少年1000人を45年にわたって追跡調査した有名な研究によれば,その後の人生で犯罪を犯すかどうかを左右する要因が2つ見つかった。1つは安定した職に就くこと,もう1つは愛する女性と結婚して家族を養うことだった。結婚による影響はかなりのものだ。独身者の4分の3は成人後,さらに犯罪を犯すようになるが,結婚した者では3分の1にすぎなかった。この違いだけでは,結婚によって犯罪から遠ざかったのか,犯罪の常習者は結婚することが少ないのか,どちらかはわからない。だがこの研究で,社会学者のロバート・サンプソン,ジョン・ローブ,クリストファー・ワイマーの3人は,結婚が実際に男性たちを平和化する要因になったと見られることを示している。男性を結婚に向かわせる典型的な要因をすべて一定に保ったとき,結婚した男性はその直後から犯罪を犯す可能性が低くなることが明らかになったのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.204-205

殺人の濃淡

濃淡の色分けを見ると,合衆国の一部はヨーロッパとさほど大きな差はないことがわかる。その一部とは,ニューイングランド(適切な名称だ)諸州,中央から太平洋岸にいたる北部の州(ミネソタ,アイオワ,ノースダコタ,サウスダコタ,モンタナ,ワシントン,オレゴン)そしてユタ州である。ベルト状に並んだこれらの州は,同じ気候帯には属しておらず(オレゴン州とバーモント州の気候はまったく違う),多くは東から西へと向かう,歴史的な移民のルートに相当する。人口10万人あたりの年間殺人件数が3件未満のこの平和なベルト地帯の南方では,南に下りていくにしたがって殺人件数は増加する。最も南に位置するアリゾナ州(7.4)やアラバマ州(8.9)では,ウルグアイ(5.3)やヨルダン(6.9),グレナダ(4.9)と比べても殺人件数が高く,ルイジアナ州(14.2)にいたっては,パプアニューギニア(15.2)にも匹敵するほどの高さである。
 2つ目の対比は,地図上ではそれほど明確ではない。ルイジアナ州の殺人件数は他の南部諸州より高いが,ワシントンD.C.の殺人件数は30.8件と,桁外れに高く,中南米の最も危険な国々と同じレベルにある。これらの地帯が効率であるおもな理由はアフリカ系アメリカ人の住人の比率が高いことだ。現在のアメリカ合衆国内では黒人と白人の殺人件数に顕著な違いがある。1976年から2005年までの平均殺人件数は,白人のアメリカ人では10万人あたり年間4.8件であるのに対し,黒人のアメリカ人では実に36.9件にのぼる。これはただ単に,黒人のほうが逮捕され有罪になる確率が高いからではない——もしそうなら,人種間の差はレイシャルプロファイリング[人種偏見にもとづく捜査]の結果かもしれないということになる。ところが被害者に加害者の人種を尋ねる匿名による調査や,黒人・白人両方を対象にした過去の暴力犯罪歴についての調査でも,これと同じ差が見て取れる。なお,南部の州では北部の州より住民に占めるアフリカ系アメリカ人の割合が高いとはいえ,1つ目の南北の違いは人種の比率では説明できない。白人だけ見ても南部のほうが北部より暴力的であり,黒人の間でも南部のほうが北部より暴力的である。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.184-186

ナイフが用意されない

アジアにも殺人件数が低い国がいくつかあり,とくに日本,シンガポール,香港といった西洋のモデルを採用した国ではその傾向が顕著に見られる。中国でも殺人件数は人口10万人あたり2.2件とかなり低い。この秘密主義の国のデータを額面通り受け取るとしても,時系列的なデータが存在しないため,それが何千年も続いた中央集権的な統治のせいなのか,現政権の独裁主義的な性格によるものなのかを見極めることはできない。イスラム国家の多くを含む独裁主義国家では,国民に対する監視が行われ,法に違反する者は確実にかつ厳しく処罰される。これらの「警察国家」では,暴力的犯罪の発生率が低い傾向にあるのは驚くに当たらない。しかしここで,中国もまた長期間にわたる文明化のプロセスを経てきたことを示す,きわめて興味深いエピソードがあるので紹介しておこう。エリアスによれば,ヨーロッパにおける暴力の減少と密接に関連するナイフのタブーは,中国ではさらに一歩進んだ形で見られたという。中国では何世紀にもわたって,包丁はもっぱら料理人が使うものとされてきた。食べ物は調理場で一口大にカットしてから供されるため,食卓にナイフが用意されることはいっさいない。「ヨーロッパ人は野蛮人だ。彼らは剣を使って食事をする」という中国人の言葉を,エリアスは引用している。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.176

自分と周囲

人は全体像のなかに自分を置くことがなかなかできない。「同じ舟」に乗っている人間どうしで比較しあうだけだ。だから自分が恵まれないとか,不幸だといった感覚も,あくまで相対的なものに過ぎない。これはなかなか深い意味を持つ事実であり,不可解に思える現象もすべてそれで説明がつく。たとえば国別の幸福度調査で,スイス,デンマーク,アイスランド,オランダ,カナダといった国は,自分が幸せだと答えた国民が多かった。対してギリシア,イタリア,ポルトガル,スペインは,幸せではないという回答が目立った。ではこの2つのグループのうち,自殺率が高いのはどちらだろう?答えは幸福な前者だ。これも「憲兵と陸軍航空隊」と同じ図式だ。誰もが不幸せな国では,自分に不幸が降りかかってもさほど落ちこまない。でも周囲がみんな幸せな笑顔を浮かべていたら,不幸がいっそう身にしみるだろう。

マルコム・グラッドウェル 藤井留美(訳) (2014). 逆転!強敵や逆境に勝てる秘密 講談社 pp.79

尊厳・名誉・面子

アメリカやカナダなどの尊厳の文化に属する人々は,どの人間にも,他者によって奪うことのできない尊厳があると信じています。
 尊厳の文化では,平等な立場での他者との関わり合いが尊重され,個人を自発性と自律性を持つ存在だとみなします。
 対照的に,名誉の文化では他者からの評価に敏感です。特に,他者の行動によって名誉が傷つけられることに対しては過敏に反応します。また,自らの名誉を保つことと,それが貶められた場合に,回復させる責任があるとも信じています。
 面子の文化は,日本や韓国に見られるもので,他者からの評価が主な関心事になります。この文化では,日々の暮らしのなかで,自分が他者の目にどう映るかが重要であり,その評価を自らの行動の指針とします。
 面子の文化では,階層的な組織が形成されやすく,その「序列」が人間関係に影響を与えます。これら3つの文化を1つの連続体で表すとすれば,その両端は,個人への重視(尊厳の文化)と社会的状況における個人のポジションへの重視(面子の文化)になります。

ロバート・ビスワス=ディーナー 児島 修(訳) 2014). 「勇気」の科学:一歩踏み出すための集中講義 大和書房 pp.78-79

ウィンドウズ95

1995年11月に発売されたウィンドウズ95を手に入れようと,深夜の日付が変わる瞬間に行列ができたことは,よく知られている。ウィンドウズ95の発売は,歴史的な出来事として扱われる。だが,当時の状況を改めて眺めてみると,これがつくられた話題,いまどきの言葉でいうと「ステマ」でしかなかったという事実が浮かび上がる。
 ウィンドウズ95の騒ぎとは,つまるところ50億円が投じられた手の込んだ広告キャンペーンだった。その一環として行われた秋葉原での深夜の一斉発売が,予想以上に反響を集めたのだ。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.96-97

ポジティブ思考カルト

ジャーナリストのバーバラ・エーレンライクは著書『Smile or Die』の中で,現代社会にはびこるこの手の(彼女いわく)ポジティブ思考カルトを痛烈に批判している。エーレンライクは乳がんの診断を受けたとき,この種のカルトの冷酷さを思い知ったという。病名を告げられるや彼女のもとには,この経験は「きっとあなたを変えてくれる」「人生の意味を見いだすチャンスだ」「神に目覚める助けになる」などの「ポジティブな」メッセージが山のように寄せられた。
 恐ろしい病気に直面しているのに,それに感謝せよとアドバイスされ,彼女は強い反感を覚えた。「ポジティブに考えてさえいれば,事態は良くなる」わけが,あるものだろうか?ポジティブ思考は万能だなど,幻想にすぎないとエーレンライクは冷徹に観察し,批判する。彼女はこの点,まったく正しい。楽観主義とは往々にして,人が表層レベルで何を考えるかよりも何を行うかに,そして脳がどう反応するかに深くかかわっている。それは科学的な調査結果からも裏づけらている。

エレーヌ・フォックス 森内薫(訳) (2014). 脳科学は人格を変えられるか? 文藝春秋 pp.83-84

内的要因よりも

江戸時代中・後期の日本の成功を解釈する際にありがちな答え——日本人らしい自然への愛,仏教徒としての生命の尊重,あるいは儒教的な価値観——は早々に退けていいだろう。これらの単純な言葉は,日本人の意識に内在する複雑な現実を正確に表していないうえに,江戸時代初期の日本が国の資源を枯渇させるのを防いではくれなかったし,現代の日本が海洋及び他国の資源を枯渇させつつあるのを防いでもくれないのだ。むしろ,答えのひとつは,日本の環境的な強みにある。同じ環境要因のいくつかについては,すでに第2章で考察し,なぜイースター島とその他数カ所のポリネシア及びメラネシアの島々が森林破壊に至った一方で,ティコピア島やトンガなどの島々はそうならなかったのかを説明した。後者の島々の住民は,伐採後の土壌で樹木がすばやく再生するという,生態系的にたくましい土地に住む幸運に恵まれた。ポリネシアやメラネシアのたくましい島々と同様,日本では,降雨量の多さ,黄砂による地力の回復,土壌の若さなどのおかげで,樹木の再生が速い。もうひとつの答えは,日本の社会的な強みに関係がある。そういう日本社会の特徴は,森林の破壊危機の前からすでに存在したので,対応策として生み出される必要がなかった。具体的には,他の社会では多くの土地の森林を荒廃させる原因となった,草や若芽を食べてしまうヤギやヒツジがいなかったこと,戦国時代が終わって騎兵が必要なくなり,江戸時代の初期にウマの数が減ったこと,魚介類が豊富にあったので,蛋白質や肥料の供給源としての森林への圧力が緩和されたことなどが含まれる。日本社会は,ウシやウマを役畜として利用していたが,森林伐採と森林由来の飼料の不足を受けて家畜の数は減ってしまい,人間の手で鋤や鍬などの道具を使わざるを得なくなった。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.51-52

侮蔑意識

あなたがもし,イヌイットの女性に自分の体型に合わせたカヤックを作ってもらいたかったら,あるいはその女性の娘と結婚したかったら,その前にまず友好的な関係を築かなくてはならない。ところが,ここまで見てきたように,ノルウェー人たちは最初から“悪しき態度”を取り,ヴィンランドのアメリカ先住民とグリーンランドのイヌイットを“愚劣な民”などと呼んで,その両方の場所で最初に会った先住民を殺害した。教会を信奉する彼らは,中世ヨーロッパに広く浸透した異教徒への侮蔑意識を胸に抱いていた。
 悪しき態度の裏にあるもうひとつの要素は,ノルウェー人が自分たちこそ北の狩場(ノルズルセタ)の先住民であり,イヌイットを“もぐり”だと考えていたことだ。ノルウェー人はイヌイットより何世紀も前にそこを見つけ,狩りをしていた。北グリーンランドのイヌイットが狩場に現れたとき,セイウチを自分たちの獲物だと思っていたノルウェー人が,イヌイットの捕獲したセイウチの牙に対価を支払う気になれなかったのも無理はない。それに,そのころには,イヌイットの喜ぶ交易品である鉄が,ノルウェー人たちにとっても希少な必需物資になっていたのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.418-419

ウィキッド・プロブレム

ウンコは社会学者と科学者がやっかいな問題(ウィキッド・プロブレム)と呼ぶものである。
 やっかいな問題という概念を1970年代に導入したソーシャルプランナーは,従来の科学で対処できる「飼い慣らされた」問題とされるものとそれを区別した。やっかいな問題と呼ばれるものは,範囲がはっきりせず,首尾一貫していない。その解決が難しいのは,情報が不完全であるか,問題の解決を求める者たちの要求が常に変わり続けているからだ。やっかいな問題は,一見したところ並立しないさまざまな視点から定義することができ,だから問題の信頼できる公式化も最適な解決法も存在しないのだ。中でもいちばん始末に負えないのは,問題のある面を解決しようとすると,別の問題が生まれたり,表面化したりするかもしれないことである。

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.20

平泳ぎ

まずはカエルから始めよう。この名人級スイマーの小さな両生類の名は,ディグビーがそのパイオニア的マニュアルに「一級の泳法」とした平泳ぎの脚の動きに「カエル足」として冠されている。平泳ぎ(ブレストストローク)は,腹を下にし,顔を自然に前方に向けた姿勢で泳ぐため,ヒューマン(ストローク)またはチェストストロークとも呼ばれている。300年以上もの間,それはヨーロッパ人とアメリカ人にとって,どこで泳ぐにしろ,事実上,唯一の泳法であった。平泳ぎでベンジャミン・フランクリンはテムズ川を下り,バイロンはヘレスポントスを横断し,ウェブはドーバー海峡を渡った(もっとも,ウェブは,当時は一般的だった顔を水面上に出したままの姿勢で21時間泳いだため,首の後ろに痛みを伴う水膨れができた。また,彼は腕と脚を同時に動かしていた)。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.84-85

自己中心的欲求

アメリカ人家庭には,日本のように「養子縁組は家を継ぐための手段」という考え方は存在しない。「恵まれない子に家庭の愛情を分かち合いたい」「アメリカ人が置き去りにしていった混血児を引き取る義務がある」と主張する夫婦がいることも確かだった。
 しかし,一方で,大城は自己中心的な欲求を満たそうとするアメリカ人たちの本音もたくさん見てきた。
 大城のもとを訪れる夫婦の中には,「自分の強い信仰心や社会的奉仕心を証明するため,子どもを養子縁組したい」と言う者もいた。「アメリカ本国では資格審査が厳しい。裁判所の審査が緩く,比較的簡単に養子がもらえるアジアで縁組したい」とあっけらかんと言い放つ者もあった。
 もっとひどい夫婦は「人形のようにかわいい東洋の少女を帰国前にもらいたい」と公言してはばからなかった。
 あの手この手を使って実母やその家族と直接交渉し,専門のケースワーカーの介入を避けようとするのが,こうした養親たちの常套手段だった。

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.198-199

「では,そういうことで」

会議があまりゴタゴタせずに「では,そういうことで」で終わるのは,効率性の観点からは望ましい。「侃々諤々の議論の結果,決まったことは一糸乱れずみんなで頑張って実現する」となると党首選後の新党首挨拶のようだが,議論下手な日本人のメンタリティとして「激しい議論」は確かに功罪半ばし,なかなか「ノーサイド」と気持ちを整理するのはむずかしい。結果的に効率性を実現できるこのような会議の進め方は,1つの「生活の知恵」だろう。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.77

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