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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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賛成・反対

3年後,高名な法学教授であるチャールズ・マコーミックは,「しかるべき」科学の専門家ということばに最もふさわしいと思える正統派の心理学研究者らを対象に,意見調査を実際におこなった。質問に回答を寄せた38名の科学者のうち,18名が嘘発見器の検査結果を裁判官と陪審員に示すことに一定の賛意を示し,13名が反対した。残りの7名は「どちらとも言えない」考えを持っていた。熱心な賛成派にはウィリアム・マーストン,ロバート・マーンズ・ヤーキーズ,そしてノースウェスタン大学学長の産業心理学者ウォルター・ディル・スコットらが名を連ねた。反対派には,嘘発見の技術は「あと25年は研究室の中にとどまるべきものだ」と述べた行動主義心理学者ジョン・B・ワトソンらの権威がおり,その中にはマーストンとラーソンの成功は個人的能力によるものであって,心理学そのものの成果ではないと主張する者もいた。また,嘘発見器のいかにも科学を感じさせる大がかりな装置が,陪審団に過大な信頼をいだかせてしまうのではないかと懸念する心理学者もいた。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.96
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嘘発見器の発明

ほんの数週間前にラーソンは,法律家にして心理学者のウィリアム・モールトン・マーストンが著した『生理学に基づく嘘の判定可能性について』という題の論文を読んだばかりだった。マーストンはハーヴァード大学にあるフーゴー・ミュンスターバークの有名な情動研究室で実験をおこない,どの学生が作り話を語り,どの学生が正直に話しているか見分ける方法を発見した。話が山場になったとき,被験者の血圧がどれくらい上昇するかをはかるだけでいい。これを読んだラーソンはこう考えた。この方法は,警察の尋問という汚れ仕事にも使えるのではないか?
 しかし,熟練の生理学者であるラーソンは,マーストンの方法に改善の余地があるのに気づき,まず検査手順に大幅な変更を加えた。マーストンは被験者が作り話を語っているときに血圧を断続的に測定したが,ラーソンは被験者がひとつひとつの質問に答えているあいだじゅう,血圧を連続的に測定することにした。研究室の技師の手を借りて作った装置は,被験者の最高血圧と呼吸の深度を測定し,そのデータをカーボン紙のロールに絶えず記録できる仕組みになっていた。この装置はマーストンの加圧帯を使った方法と異なり,水銀血圧計の変化のみを記録するものであって,血圧の数値そのものを記録する機能はなかった。だが,装置が自動化されているために,測定結果が実験者の主観によって左右される可能性を最小限に抑えられるという大きな利点があった。これなら,「可能なかぎり個人的要因を排除する」という科学的方法の原則を満たすことができる。思い込みから実験者が誤った判断をくだしかねない場合,この利点は非常に大きな意味を持つ。
 とはいえ,ラーソンの方法はけっして新しいものではなかった。半世紀以上も前から,生理学者たちはこの手の自動記録装置を使い,人間の肌の下で起きている身体変化を測定してきた。体内の反応と被験者の感情との関係を探った学者もいた。すでに1858年には,フランスの生理学者エティエンヌ—ジュール・マレーが,血圧と呼吸と心拍の変化を同時に測定できる装置を開発し,被験者が不快感を覚えたり耳障りな音を聞いたり「ストレス」を感じたりしたときの反応を調べている。19世紀後半には,アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズが,情動とは刺激の認知によって引き起こされる身体の変化であると定義している。ラーソンは,体に表れる感情から,嘘をついたときの徴候も,読みとれるのではないかと考えたにすぎない。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.39-40

ハリーの死後

ハリーの研究に対する憤怒の狂躁は,彼の死後に始まった。ときには,彼がそうなるように完璧に計算していたのではないかと思えることもある。「まるでハリーが腰を下ろして,『あと10年もすれば,私はもうこの世にいないだろう。その後にものすごく面倒なことが起こるから,あとはよろしく』と言ったみたいだよ」とビル・メイソンは言う。また,動物権利運動家は,彼の死後に抗議する方がうまくいくとわかっていて,攻撃のスケジュールを変えたんじゃないかと思える時もある。ハリーは戦うのが大好きだったのに残念だな,とスティーヴ・スオミは言う。「彼は物議を醸して論争するのに慣れていたから,徹底的にやり込めただろうに」とアーウィン・バーンスタインも同じ指摘をする。「ハリーは死んでからターゲットにされた。それは卑怯な話だ,とずっと思ってたんだ。彼が生きていたら,十分すぎるくらいうまく自分の弁護ができただろうに」
 バーンスタインは続ける。「動物権利運動家は,わざとハリーの罪を誇張している。スパイク・マザーには先の丸い突起しかつけていなかったのに,釘の先端が鋭く尖っていたと言ったりするんだ。それに,ハリーが研究所のすべてのサルを隔離したかのような言い方をする。選ばれた少数のサルだけなんだがね。ハリーが自分のサルの幸福についてどれほど真剣に考えていたか,動物権利団体はまったく評価しようとしない」。デュエイン・ランボーは,ハリーがNIHの規定するケージのサイズは大人のサルには小さすぎると考えて,連邦政府の規格よりも大きなケージを建てたのを覚えている。
 スティーヴ・スオミはこう指摘する。「ハリーが母性愛の研究をしていた当時,研究室や動物園で飼われている霊長類の飼育の標準は,個別飼育だった。つまり,部分的な社会的隔離だよ。ハリーがどれほど破滅的かを証明するまでは,それが標準だったんだ。そして,施設によっては——実際のところ,私が移籍する前のほとんどのNIHの施設では——その標準が変わるまでに長い時間がかかった。たいてい,サルや類人猿の飼育に責任を持つ獣医たちが強硬に反対したのさ」
 ハリーの実験が(それに加えて,それを説明するハリーの強烈な言いまわしが),彼のしたことに対する批判を招いたのかもしれない。それでも,その抗議のいくつかは,間違いなく歴史の再解釈によって出てきたものだ。私たちは,20世紀半ばの研究者にも現在の社会意識を共有してほしいと望むかもしれない。しかし,ハリー・ハーロウの研究方法について現在槍玉に挙がっている倫理上の問題は,後になってから提起された問題だ。科学者による実験動物の扱いという点では,最後の隔離と抑うつの研究を例外として,ハリーがその長いキャリアの中で主流から外れたことはほとんどなかった。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.393-394

絆の重視へ

ボウルビーが母親についての研究を始めた1947年,幼い子ども(6歳以下)のいる母親のうち,外で働いていたのはたった12%だった。1997年,その数字は64%にまで上昇した。親子を隔てよというジョン・ワトソンの指示を今でも信じるなら,この統計には何の問題もない。おそらく,健全な傾向を示していると評されることだろう。しかし,そのような見方を変えた科学者たち——スピッツ,ロバートソン,ボウルビー,エインズワース,ハーロウをはじめ,数えきれないくらい大勢——のおかげで,私たちは親子を隔てる距離によって,心にぽっかりと穴が空くのではないかと気にするようになった。拡大した育児は社会実験だと気に病み,どんな実験にもつきまとうリスクを心配する。私たちが育てている世代の子どもは,両親との結びつきが非常に緩いために,社会的連帯感を欠くようになるのではないか,という恐怖心が心にのしかかる。もっとも,ジョン・ワトソン以外に,絆の断絶を画策する者などいまいと論じることもできるが。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.356

社会的知性

母親に求められる条件を並べたリストは,ここでまた長くなる——温かさ,動き,愛情の他に,「子どもを強く抱きしめるべき時期と,外へ押し出すべき時期をよく心得ていること」が加わった。ジョージア大学の心理学者アーウィン・バーンスタインは,そのような行動——他者との関係を築くタイミングを知ること,強く抱きしめる時期と自立させる時期に気づくこと——を「社会的知性」と呼んだ。バーンスタインが指摘するように,ハリーがこのことを語りはじめた1960年代当時,それは心理学者のアンテナに引っかかるような話題では全くなかった。「こうした赤ちゃんザルが感情的に異常であり,彼らに欠けているのが『社会的知性』だと気づいたという点で,ハリーは天才だった」とバーンスタインは言う。「20世紀半ばには,この分野はたいして研究されていなかったからね」

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.262-263

ハーロウとボウルビー

ハリーの研究(あるいはそのタイミング)ほど,ジョン・ボウルビーの主張にぴったりの研究があったろうか?ボウルビーは精神医学や人間行動について主唱するお偉方とは距離を置いて,動物行動学者たちとの会話に多くの時間を費やすようになっていた。その最たる人がコンラート・ローレンツで,後に「刷り込み」——鳥のヒナによる母親への熱烈で本能的な愛着——の研究でノーベル賞を得ることになる。ローレンツは,小さなヒナが最初に見た「母親」に忠誠を捧げることを示した。だから,研究対象だったハイイロガンのヒナが卵を破って出てくるそのときに,ローレンツはヒナをじっと見つめていたので,「母親」になることができたのだった。言うまでもなく,人間の行動と完全に符合するわけではない。当然ながら,ボウルビーの批判者が感心するはずもなかった。「ガンの分析をして何の役に立つ?」と英国精神医学会のボウルビーの同僚のひとりは言った。
 しかし,もしローレンツの研究をもっと真剣に検討したなら,そこには無力な赤ちゃんをうまく保護者に結びつけようとする自然の意図が十全に現れていることに気づくはずだ。ガンの場合,愛着は生まれつき備わっているらしい。人間の関係はもっと柔軟で,だからこそもっと難しいのだが,基本的な点は同じだとボウルビーは主張した。母親が重要なのだ。赤ちゃんは母親を必要とする。生まれつき母親が必要なのだ。そんなとき,もっと人間に近い動物を使って実験をおこなったハリー・ハーロウが現れた。ハリーの研究は,まさに同じことを伝えていた。母親は食物を与えるだけの役割だとか,どんな母親でも子どもを癒せるという考え方は,ウィスコンシン大学の実験によって一掃された。ハリーの出した結論は,好むと好まざるとに関わらず,無視できないものだった。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.222-223

エインズワース

ハリーの実験で,針金の母と一緒のときに探索するのも触るのも周囲を見ることさえ怖がっていた子ザルは,不安定(または不安定な愛着)の完璧なケーススタディと言えるだろう。数年後の1960年代初頭,エインズワースは実際に子どもを使ってそのような反応をテストし始めた。彼女(と夫)はアフリカを離れ,ジョンズ・ホプキンス大学で研究しはじめていた。メリーランドでエインズワースは,ある観察計画を立案した。親に対する子どもの愛着の仕方を観察し,それが安定した関係によるものか,あるいは脆弱な関係によるものかを調べようとしたのである。彼女の「ストレンジ・シチュエーション」テスト(オープン・フィールドテストと概念的にはそれほど変わらない)は,綿密に設計され,詳細に測定された。ハリー・ハーロウやジョン・ボウルビーと同様にメアリー・エインズワースも,心理学界で注目されるためには,研究が徹底的でなければならないことを実感していた。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.219-220

不幸なロジャース

有名な心理学者のカール・ロジャースは,かつてウィスコンシン大学の心理学部でもっとも不幸だった者として,数十年経った今でもその名が挙げられている。ロジャースは,来談者中心療法を考案した。彼の意図は単純明快だった。心理学者がいつも患者より物事をわかっているとは限らないのだから,セラピストは患者の言うことによく耳を傾けなければならない。現在では広く受け入れられている考え方だが,当初は奇妙で受け入れがたいアイディアだった。数多くの心理学者が,新しい柔軟なカウンセリングをすべきだというロジャースの意見に抵抗を示した。なにしろ,人間の行動の専門家として訓練を受けてきたのだから無理はない。熱心な専門家の集まったウィスコンシン大学では,ロジャースが人間性心理学運動に賛同したことは,さらに罰当たりだった。1960年代,ロジャースと大学院時代にハリーの研究室にいたエイブラハム・マズローは,どちらもその運動のリーダーとなり,心理学はネガティブな感情や神経症よりも,人間の可能性の方に重きをおくべきだと訴えた。
 今にして思えば,ロジャースが20世紀半ばのウィスコンシン大学にあまり溶け込めなかったのは当然のように思える。心理学部がまだハルのような数学的な行動モデルに追従していた時代に,彼は思いやりや良識について語っていたのだ。数学志向でない学者は,しばしば標準レベル以下として扱われた。学部のせいで,自分のような人間(と大半の学生)はずっと脅されているような気持ちにさせられている,とロジャースは不平を漏らした。ロジャースは教授会に出席する代わりに,コメントを吹き込んだテープレコーダーを置いておくようになった。7年間の勤務に終止符を打つ直前の1964年に学部に提出した報告種の中で,ロジャースは同僚の教員に対して,もはやこの場所には我慢ならないと断言している。ウィスコンシン大学の心理学教授たちは方法論にとらわれ,他人の揚げ足取りばかりしているため,「意義深い独創的な考えが生み出される可能性は皆無である」とロジャースは非難した。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.166-167

反論の困難さ

反論することがどれほど難しいか,ハリーにはわかっていた。ジョージ・ロマネスやケーラーをはじめとする一流の科学者たちが説得に失敗し,ワトソン派の行動主義やパヴロフ派の条件づけ理論が席巻していたというだけではない。科学者は何世紀もの間,動物はそもそも能なしであると主張し続けてきたのだ。ヒト以外の種を条件づけたり反応させたりすることはできるだろう。しかし,彼らが考えたり,感じたり,分析したり,悲嘆することはけっしてありあえない。1700年代,フランスの哲学者ルネ・デカルトは動物を機械になぞらえた。彼によれば,動物はけっして人間のように思考することはできない。動物は魂のない生き物であり,けだものという機械である。チャールズ・ダーウィンが進化論を唱えたときですら,そのような考え方が残っていた。ダーウィンは,人類と他の種の脳の仕組みは共通のはずだから,両者は共通の能力を持っているに違いないと明快に示唆した。ゴールドシュタインはそれを行き過ぎと感じ,進化論を完全に無視することにしたのである。だが,ダーウィンの信奉者にとっても,長きにわたって人間だけが保持してきた複雑な脳というものが動物にもあるという考えを完全に受け入れるのは難しかった。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.129

25年越しの発表

棒を振り回すオマキザル,レッドの物語のもっとも興味深い点のひとつは,ハリーがそれを公表するまでに非常に長い期間を要したということである。観察されたのは1936年のことだったが,その報告が発表されたのは1961年だった。彼は,「論文の著者たちが,自分の評判が確立する前にこの奇妙な観察を報告するのをためらったせいで,発表が遅くなってしまった」と説明している。ハリー・ハーロウが霊長類研究所を建てた当時,動物の知性という言葉は矛盾した表現だった。なんといっても,当時は条件反応や単純で反射的な脳という概念が主流の時代だったのである。動物が「棒は有用な武器である」と判断したとなれば,思考や推定ができるということになる。1930年代に,そのような認知能力がサルにあるなどと報告すれば,「観察がずさん」か「考えが甘い」のどちらかの烙印(あるいは両方)を押されるのがオチだったろう。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.124-125

ハーロウの弟子マズロー

彼は初めて受け持った大学院生にも恵まれていた。ブルックリン生まれで,既成概念にとらわれないエイブラハム(エイブ)・マズローという学生の担当になったのだ。師弟には,行動主義心理学の近年の動向に懐疑的であるという点で連帯感が生まれていた。マズローは日記にこう記している。「行動主義の成し遂げたことは大きい。私を心理学へと導いたのは,ワトソンのすばらしい研究だ。しかし,そこには致命的な欠点がある。研究室では具合が良くて役に立つが,研究室から出るときには,白衣と同じように,脱いで置いていくしかない。つまり,家で子どもや妻,友人と一緒にいるときには,役に立たないのだ。……もし研究室で動物を扱うように,家で子どもを扱ったなら,きっと妻に目玉をくり抜かれるほど激しく責め立てられるだろう」。確かに自分の妻ならそうしかねない,とマズローは思っていた。
 マズローがもっとも関心を持っていたのは,人間の行動だった。心理学の使命とは,人が自らの可能性を最大限に引き出せるように手助けをすることだと信じていた。人間は最良のものを秘めている(愛情,優しさ,思いやりに満ちている)ことを信じて疑わなかった。ウィスコンシン大学で博士号を取得して間もなく,「人間は皆,根は善良なのだ」と日記に記している。もし悪いおこないをするとしたら,そこには原因があるはずだし,それを突き止めれば助けることができるはずだ。「それを証明するためには,不愉快や意地悪や卑劣といった表面的な行為の奥底にある動機を突き止める必要がある。動機がわかれば,その結果として生じる行動には腹が立たなくなる」。人間の良識に対して迷いのない信頼を抱いていたマズローは,後に人間性心理学運動の創始者となり,1960年代の反体制文化(カウンターカルチャー)の有名なヒーローになった。死後何年も経った今日でも,影響力のある心理学者である。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.112

条件反射の科学

やがてパヴロフは,「条件反射」の科学を確立した。イヌは,食事と足音を関連づけることを学習していたのだ。パヴロフは残りの人生を費やして,そうした条件づけ行動に関する実験をおこなった。ワトソンが心から感銘を受けたのは,パヴロフがイヌの脳の中で何が起こっているかを推測しようとしなかったことである。それは内的過程なので,測定できないと考えたのだ。イヌが足音を「認識している」ということすら認めなかった。認識という脳の活動は検証できないので,「不必要に推論を巡らすことになる」とパヴロフは主張した。彼はイヌを条件づけて,音に反応してよだれを垂らすようにさせられることを証明した。それは,脳は訓練できるということを意味しており,それ以上でもそれ以下でもない。この秩序だった観察に基づいた科学こそ,まさにジョン・ワトソンがアメリカの心理学に求めているものだった。ワトソンは,パヴロフのことを思い浮かべては,「どんなに偉大なものでも平等に扱おう」と心に誓うのだと述べている。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.101-102

ラットの天下

1939年に,ハーヴァード大学の心理学者ゴードン・オールポート(白髪で威厳のある,正真正銘の過激派)がアメリカ心理学会の会長に就任したときは,まさにラットの天下だった。オールポートは,ジョン・B・ワトソンを支持する情熱的な行動主義心理学者がやってきて,挑戦的に質問してきたときのことを回想している。その男は,実験対象としてラットを使った明らかにできない心理学的な問題をひとつ挙げてみろ,と迫ってきたのだった。そのとき,オールポートはあまりにも面食らったので,例を考えつくのにしばらく時間がかかってしまった。ようやく,それもためらいがちに,「読書障害?」と言うにとどまったという。
 オールポートは,客観的な科学を実践するのに,ラットを用いた研究が「すばらしく適している」ことを十分認めていた。けれども客観的であることが真実であるとは限らない,とも付け加えた。人間の行動が物理学や化学のような「無機的な」方法で扱えるとは,彼にはどうも納得できなかった。人間は非常に複雑なのに,ラットを用いた研究に依存すると,人間を単純化しかねない。「人はなぜクラヴィコード[中世の鍵盤楽器]や大聖堂を作り,なぜ本を書き,なぜミッキーマウスを見てゲラゲラ笑うのか」と,オールポートは会長演説で述べた。「ラット研究はそれを説明できるだろうか?」

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.98-99

スタンフォードのスター心理学者

ターマンは,心理学というまだ新しい分野の有名人だった。自分でそれがわかっていたし,仲間もわかっており,大学もわかっていた。病気にでもかかろうものなら,スタンフォード大学事務局は非常に心配した。1926年,ターマンがインフルエンザのために東海岸への旅行をキャンセルしたとき,学長のレイ・ライマン・ウィルブールは,「具合が良くないと伺って心配しておりますが,ご自愛なさっていることを嬉しく存じます」という気遣いの手紙を書き送った。1920年代のスタンフォードにおいて,ターマンはただ有名で革新的な研究者であっただけでなく,権力者でもあった。心理学部は「彼」のものであり,末端の学生に至るまで,全員がそのことを知っていた。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.41

1インチずつ

ストーンは,良い研究者とは「科学の領域を1インチずつ前進させる者のことである」と学生によく言っていたが,ハリーはその考え方が大嫌いだった。彼は飛躍を望んでいたのだ。1インチずつなんてクソくらえ,ストーン先生は科学の探求を一石(ストーン)ずつ進めていくのさ,といつも駄洒落で揶揄した。ストーンが望んでいるのは秩序ある科学だけだった。後に,博士研究員(ポスドク)としてハリーと共同研究を行うことになるウィリアム・メイソンにはこんな記憶がある。ストーンのもとで研究をしていたあるとき,とてもあわてていた彼は,何でもいいから手近な紙に自分の発見をメモしようとした。ストーンは不快感もあらわに彼を呼びつけて,こう言った。「メイソン,紙くずにデータを記録するなんてことはしないものだ」

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.36-37

殺人と戦争の減少

殺人を例に考えてみよう。ヨーロッパ各国の裁判記録を調べたところ,殺人の発生率は急激に減少していることがわかっている。たとえば14世紀のオックスフォードでは,今と比べればだれもが人殺しに手を染めていたかのようだ。20世紀半ばのロンドンでは年間10万人あたり1件なのに対し,14世紀のオックスフォードでは年間10万人当り110件の割合で発生している。同様のパターンはイタリア,ドイツ,スイス,オランダ,北欧でも見られる。
 戦争についても同じことが言える。ピンカーによれば,20世紀は紛争で荒廃し,世界の総人口およそ60億人のうち約4千万人が戦死したが,それでも比率にすればわずか0.7パーセント。これを病気や飢えや大量虐殺など戦争と関係があるとみられる死者数と合わせれば,1億8千万人になる。大変な数に思えるが,それでもまだ3パーセント前後で統計上はたいした数ではない。
 一方,先史時代の社会では15パーセントにも達している。つまり,クリストフ・ツォリコファーが南フランスで発掘した殴られた痕のあるネアンデルタール人の頭蓋骨は,氷山の一角にすぎないということだ。

ケヴィン・ダットン 小林由香利(訳) (2013). サイコパス 秘められた能力 NHK出版 pp.185-186

スパルタの場合

4世紀のギリシャ人著述家クセノフォンによると,スパルタ教育を受けていた生徒たちは若者の食欲を十分に満たすには足らない,ごく質素な食事しか与えられなかったという。しかし,将来の兵士となる訓練の一環として,もっと食欲をそそる食べ物を探して定期的にコミュニティー内で盗みを働くことが許されていた。むしろ奨励もされていたという。少年は食べ物を盗んで捕まると,厳しい鞭打ちの刑に処せられた。これは盗んだことに対する刑ではなく,捕まったことに対してのものだった。一方,盗みに成功すると,感心な少年だということになったのである。アルテミスの神殿は無血の食物の捧げ物が常に豊富にあり,食料を求めて行われる強盗の主要なターゲットとなった。神殿から盗んだチーズの記録を塗り替えることが,少年たちの間で有名な競争にまでなっていたという。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.100-101

高温加工の発見

ところが,南西アジアで酪農が始められた直後からチーズとバターの製法が発明され,それによって,人類はミルクから栄養を取ることが可能となったのである。
 チーズ製造発展の転機は紀元前7000年から6500年ごろの高温加工(高温を物質に与える技術)の発見の時で,それによって,新石器時代の陶器製造への道が開かれた。陶器の発展は食品の保存,加工,輸送,調理技術一般の観点から見て,大きな前進だった。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.25

ラクターゼ

新石器時代の人類が動物の乳を集めるようになったのは,人間の乳幼児に与えることを目的としていたのだろう。ミルクは成人よりも乳幼児にとって重要な食品だったからに他ならない。それはなぜか。ミルクは成分としてラクトース(乳糖)を高い濃度で含んでいる。しかしその消化には胃や腸の中で酵素のラクターゼを作る必要がある。人間を含む全ての哺乳類は生まれたばかりの時には自然にラクターゼを作っており,それによって新生児は母乳を消化することができるのだ。しかし,ラクターゼの生成は通常離乳後の哺乳類では減少し,成人になるまで続くことはない。したがって,人間の大人がミルクを飲んだ時,ラクトースは消化されないままで残り,腸内の微生物環境を破壊し,激しい下痢,腸内ガスの発生やそれによる膨満などのような顕著な症状を引き起こす。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.24

価値観を捨てよ

もうひとつ,過去が照らし出す重大な選択は,価値観を捨て去る勇気を伴うものだ。これまで社会を支えてきた価値観のうち,変化した新しい状況のもとでも維持していけるのはどれなのか?見切って,新しいやり方に切り替えたほうがいいのは,どれなのか?ノルウェー領グリーンランドの住民は,自分たちがヨーロッパ人であり,キリスト教徒であり,牧畜を生業とするという意識を捨てきれず,その結果,死に絶えた。対照的に,ティコピア島民は,唯一の家畜であり,メラネシア社会の主要なステータスシンボルでもあるブタを,生態系を破壊するという理由で排除する勇気を持っていた。オーストラリアは今,イギリス型の農耕社会という固有性を見直す段階にある。過去のアイスランド,インドの各地に存在したカースト社会,近年では灌漑に頼っていたモンタナ州の牧場主たちが,個人の権利より集団の権利を優先させるという合意に達した。その後,彼らは共同の資源をうまく管理し,ほかの多くの集団が陥った“共有地の悲劇”を回避することができた。中国政府は人口問題が制御不能の段階へ達するのを恐れて,伝統的な生殖の自由に制限を加えた。フィンランド国民は,1939年,はるかに強大な隣国ソヴィエトに最後通牒を突きつけられたとき,命より自由を重んじる道を選んで,世界を驚かせるほどの勇敢さで戦い,戦争には負けながらその賭けには勝った。わたしがイギリスに住んでいた1958年から62年のあいだに,イギリスの人々は,かつて世界の政治,経済,軍事の王座にあったことから来る長年の自負心が,時代遅れになってきたことを静かに受け入れた。フランス,ドイツをはじめとするヨーロッパ各国は,それぞれが大事に守ってきた主権を欧州連合に従属させる道へ勇気ある一歩を踏み出した。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.365-366

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