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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

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全体主義

共産主義やマッカーシズムに与する者たちが体制順応主義を憂慮していたと聞くと,違和感を覚えるかもしれないが,全体主義への反対を公言する者たちが権威主義的な手段を是認することには,さらに強い違和感があるかもしれない。ところが,これは珍しくもなく,その歴史も全体主義の誕生にまでさかのぼる。歴史家レオ・リブフォは,「ファシスト(ブラウン)狩り」という言葉を生み出して,1930年代から40年代における国家転覆を阻止する運動の高まりを評した。この頃,ナチに対する当然の恐怖から,極右の言論と集会の自由に対する制限を求める声が上がったが,こちらは当然とは言いがたかった。そうしたなか,当局は多種多様な人びとをひと括りにし,ドイツに同調する人たちだけでなく,高名な保守派の人びとまでも監視下に置いた。ファシスト狩りは左翼ではなく右翼に向けられたものではあるが,より知名度の高い赤狩りと同じく,手近な脅威を誇張し,ほんとうに凶暴な陰謀者たちと,急進派だが平和的な活動家や主流派の人たちとの区別を曖昧にしている。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.102-103
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ドイツからの恐怖

ひとたび外からの敵という筋書きが確立されると,教皇や大族長だけでなく,敵と想定されるあらゆる相手方に適用できた。1917年4月に,アメリカがドイツとオーストリア=ハンガリー帝国に対抗する連合国軍に加わり,第一次世界大戦に参戦したとき,戦場ははるか遠いヨーロッパだったが,敵の長い触手がアメリカの中心にまで届いているのではないかという恐怖に国民の多くがとらわれた。
 触手を伸ばす敵国に対する国内での対抗策は,ときには恐ろしく,ときには滑稽で,その両方の場合もあった。ドイツ音楽の演奏が禁じられた町もあった。ピッツバーグではベートーヴェンが禁止となった。また,ドイツ人が所有する醸造所への厳しい取締りが行なわれた。コミック・ストリップの『カッツェンジャマー・キッズ』は,ドイツ系と思われる主人公の腕白少年の出身国を設定し直し,二人がほんとうはオランダ人であるとした。
 ドイツ語で書かれた本が焼かれる焚書が,国中のいたるところで頻発した。自警団員はドイツ移民を捕らえては拷問にかけ,その財産を破壊した。イリノイ州コリンズヴィルでは,暴徒化した人びとが,ドイツ系アメリカ人の未成年に事実無根のスパイ容疑をかけて集団暴行し,殺害した。被告人側の弁護士は裁判でこの犯罪を「愛国的殺人」と主張し,陪審員はほどなく,殺害に加わった人たちを無罪放免にした。コリンズヴィルの市長は,連邦議会が背信行為防止にもっと力を尽くしてさえいれば,このような出来事は避けられただろうと述べた。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.57-58

食生活の大変更

人間のご先祖はたぶん,食生活を何度か大幅に変えたのだろう。はじめは繊維質の多い植物ベースの食事,それから動物の肉をもっと含む食事へ。やがて農業が発達して,ふたたび植物中心の食事に戻る。狩猟採集民の食事を見ると,人間がすさまじく多様な食物に適応できることがわかるけれど,そこには必ず肉が含まれていた。北極圏にスノーモービルや衛星テレビがやってくるまでは,アラスカ北部のヌナムイット族が摂取するカロリーの99%は,動物性だった——たとえば,生のムクトゥク(=クジラの皮膚と脂肪),魚,セイウチ,アシカのヒレを発酵させたものなど。一方,カラハリ砂漠のクン族は,85%植物性の食事でも楽々と暮らしている。何百もの狩猟採集民の食事を調べた,コロラド州立大学の栄養研究家ローレン・コーディンは,こうした集団は平均するとカロリーの3分の2を動物の肉から摂取していると結論した。動物性の食品が(クン族を下まわる)15%以下の狩猟採集社会はひとつもなかったのだ。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.225

動物以下

ナチスはフレーミングを利用して,アーリア人を頂点とし,ユダヤ人を「人間以下」——ほとんどの動物以下——に分類する,倒錯した道徳体系を築き上げようとした。ジャーマン・シェパードやオオカミたちが道徳ヒエラルキーのなかで高いところに位置づけられたのに対し,ユダヤ人はネズミや寄生虫,シラミなどの害獣や害虫にたとえられた。1942年,ユダヤ人はペットを飼うのを禁じられた。ナチスは,家畜を人道的なやり方で屠殺処分するよう定めた法手続きに従い,ユダヤ人たちが飼っていた何千匹というペットを(麻酔を使って)安楽死させた。これは歴史における大きな皮肉のひとつだ。彼らのイヌやネコとは違って,ユダヤ人たちはその人道的屠殺法によって保護されることはなかった。それどころか,強制収容所に送られたユダヤ人たちがそこで受けた扱いは,第三帝国の動物福祉法下でも通用しないようなひどいものだった。ナチスにとって,ユダヤ人は人間と動物の境界線上にいるあいまいな存在だった。彼らは汚れた人種,変種であり,完全な人間でも完全な動物でもない存在だった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.84-85

真珠湾攻撃に対して

プッツィ・ハンフシュテングルがかつてヒトラーに言った,次に起こる世界規模の戦争において,アメリカの敵につくことは致命的だという警告を,彼が覚えていたかどうかはわからない。どちらにせよヒトラーは,日本がアメリカを攻撃したと聞いた瞬間,これ以上のことはないと喜んだ。いまやアメリカは太平洋での戦争に主軸を置かざるを得ず,イギリスやソ連にはエネルギーや物資をあまり割くことができなくなるだろうと考えたのだ。真珠湾攻撃の翌日,ヒトラーはこう断言した。「われわれがこの戦争に負けるはずがない。いまやわれらには,3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」
 真珠湾攻撃による情勢の変化を,もっとも歓迎した国家指導者はチャーチルであった。運命のその日,大西洋を挟んでつながれた電話でルーズヴェルトは,イギリス首相が待ち望んでいた言葉を口にした。「われわれはいまや,同じ船に乗っている」。12月26日,チャーチルはアメリカ議会で演説をした。「わたしにとってなによりの吉報は,アメリカ合衆国が,かつてないほど一致団結して,自由の剣を抜き,その鞘を投げ捨てたことである」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.465

男性の強さ

ナチ党は活動の初期から,男性の精力の強さを誇示することに力を入れていた。「ナチ党が人々の性への本能を掻き立てようと,さまざまな手段を駆使してきたことをわたしは知っている」とシュルツは書いている。「大規模な集会のスピーチでは,ナチ党の男たちによる性の武勇伝が延々と語られ,それを聞いた突撃隊員たちはさっそく実践してやろうと勇んで会場を出て行くのだった。パートナーならすぐに見つかる。女性たちは集会場の外で待っているのだから」。ヒトラーは出生率を上昇させることに熱心で,新聞の売店には「ヌードの男性や女性で埋め尽くされた本や雑誌」が並んでいたと,CBSの新人キャスター,フラナリーは書いている。「ナチスドイツがこうした計画を進めている理由は,ひとつしか考えられなかった」
 多くの男たちが家を離れて敵地へ向かい,とくに1941年6月にドイツ軍がソ連に侵攻し,兵士たちが現地でバタバタと死んでいくようになってからは,当局は出生率向上政策をさらに進化させ,女性の配偶者の有無を問わないことにした。「『非摘出子』という言葉は,ドイツ語から抹消されるべきである」。ドイツ労働戦線の指導者ローベルト・ライはそう宣言した。フラナリーによると,世間体が気になる場合は,女性は戦死した兵士の名前を合法的に貰い受けることができたという。ナチスは,未婚の母親たちは「若きドイツの英雄」の子どもたちを生んでいるのだと喧伝していたが,実際のところ,子どもたちの父親はたいていは「年若い秘書や事務員,販売員たちの既婚の上司」だったと,シュルツは指摘している。こうして「ナチ党が自分たちの非嫡出子を守ってくれるという理由で,ナチズムにしがみつく」女性層ができあがっていった。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.433-434

個人の経験

彼らがなぜこれほど鈍感だったのかと言えば,それはひとつには,個人的な付き合いの場では,アメリカの若者たちにとってドイツ人はやさしく親切だと感じられたからだ。1936年にはじめてドイツでひと夏を過ごしたハワード・K・スミスは帰国したのち,<ニューオーリンズ・アイテム紙>の記者としての仕事に復帰したものの,翌年の夏,またドイツに戻ってきた。ドイツの政治制度についてもっとよく知りたいと考えたスミスは,倹約のためにヒッチハイクをすることにしたが,あまりに簡単にどこにでも行けることにひどく驚いたという。「バッグの上から小さなアメリカの旗をかけておくだけで,あの素朴で親切な人たちはすぐに車を停めてくれた。ドイツ人の外国人——とくにアメリカ人——に対するやさしさや,こちらが圧倒されるほどの歓待ぶりには,目を見張るものがあった」。1年前のオリンピックでのアメリカ人アスリートの活躍が,「アメリカ人がドイツ人のいちばんお気に入りの外国人」になった理由だろうと,スミスは考えていた。こうしてドイツ人の親切を受けた旅行者たちは,最後まで無邪気な外国人として機嫌よく過ごし,自分たちのまわりで起こっていた事の本質を見抜けずにいたのだった。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.339

ヒトラーとオリンピック

皮肉にもヒトラーとナチ党は,ずっと以前から,オリンピックなどの国際スポーツ大会をドイツで開催するというアイディアを,辛辣な言葉で批判し続けていた。彼らは1923年には,ミュンヘンで開かれたドイツ体操祭に反対している。この大会が「ユダヤ人,フランス人,アメリカ人」の参加を受け入れているのがその理由だと,ヒトラーの署名がある請願書には記されている。政権を取る直前の1932年,ヒトラーはオリンピックを「フリーメイソンとユダヤ人の陰謀」と糾弾した。しかしオリンピックをベルリンで開催することは,すでにその1年前に決定された事項であった。ナチ党が政権の座に就いてからも,彼らはまだ,”ユダヤ人や黒人を含めた国際的な競技会”という概念に納得がいかないようだった。<フェルキッシャー・ベオバハター紙>は怒りもあらわに,黒人が白人と競うことができるなどという考えは「オリンピックの概念にとっての不名誉であり,その価値を貶めるものだ」と書き立てた。「黒人は除外すべきだ。われわれは断固要求する」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.285-286

神秘的で宗教的

翌日には,ヒトラーがなぜあれほど熱狂的な賞賛を受けているのかが,シャイラーにも少しわかりかけてきた。ルイトポルト・ホールで開かれた党会議の開会式を見学したシャイラーは,ナチスがここでやろうとしているのはたんなる「派手なショー」ではなかったと書いている。「そこには神秘的で宗教的な情熱が感じられ,まるでゴシック様式の壮大な教会で行われるイースターやクリスマスのミサのようだった」。色鮮やかな旗がひらめき,音楽を奏でていたバンドは,ヒトラーが威風堂々と入場してくるときにはピタリと静かになったかと思うと,ふいに耳馴染みのいい行進曲を演奏しはじめる。やがて「殉教者」の名前が順に読み上げられた。殉教者とは,あの失敗に終わったビアホール一揆で命を落としたナチ党員たちのことだ。「こうした雰囲気のなかでは,ヒトラーが発する一言一句が,天上から聞こえてくる御言葉のように感じられても不思議ではない」とシャイラーは書いている。「人間の——少なくともドイツ人の批判能力は,こうした瞬間には,どこかへ吹き飛んでしまうのだ」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.262

マスコミ対策

ナチ党はこのころになると,特派員を無理に追い出した場合,プロパガンダ合戦に負けることに気付きはじめていた。追い出された記者たちは,母国で一躍注目の的となるからだ。ナチ党はその代わり,新たな手段として,気に入らない相手に不名誉な罪を着せるというやり方を思い付いた。記者たちのところには,自分はナチスドイツに反対していると称するドイツ人が近付いてきて,極秘の軍事情報を提供すると言ってくるようになった。シグリッド・シュルツは,その手の男たちを一度ならず<シカゴ・トリビューン紙>のオフィスから追い出し,同僚たちにも,あいつらとはいっさい関わらないようにと言い含めていた。1935年4月のある日,シュルツが自宅に戻ると,留守のあいだに一通の封書が届いており,表には「重要情報」と書かれていたため,持ってきたのはどうやら例の男たちの仲間だと思われた。封筒を開けると,中身は飛行機のエンジンの設計図で,シュルツはすぐさまこれを暖炉で燃やした。もしこんなものが自宅で見つかれば,スパイ容疑の裁判で格好の証拠として使われてしまう。
 シュルツがオフィスに戻ろうと歩いていると,以前,秘密警察と会ったときに顔を見たことのある3人の男が,彼女の自宅のほうへ歩いているのを見かけた。シュルツは男たちの前に立ちふさがり,もうあの封筒は燃やしたから,わざわざ家に行かなくてもいいと告げた。3人は言葉を失って立ちすくみ,シュルツはタクシーを止めて,運転手に大声でアメリカ大使館へ行ってくれと告げた。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.259-260

反ユダヤ小冊子

ヒトラーの台頭を間近に見たアメリカ人記者たちが当時興味を持っていたのは,なぜ多くのドイツ人がヒトラーの運動に惹き付けられたかという議論ではなく,全面支配に向けて突き進むヒトラーの動向であった。働き者のニッカーボッカーは,1933年の春から夏にかけて,おびただしい数の記事を書き続け,ヒトラーがどこまで政権を掌握したのかについて詳細に伝えていった。「アドルフ・ヒトラーはアーリア人の救世主となった」とニッカーボッカーは書き,ヒトラーが「人種の純粋性」を保つための運動に全力を傾けていると説明した。そのころ発表された反ユダヤ主義者のための小冊子には,6種類のユダヤ人が列挙されていた。「血なまぐさいユダヤ人,嘘つきのユダヤ人,搾取するユダヤ人,堕落したユダヤ人,芸術界のユダヤ人,金融界のユダヤ人」。これについてニッカーボッカーはこう書いている。「こうした出版物が許されているという事実は,国外に出た難民たちの判断が正しかったことのなによりの証拠である」。また別の記事で彼は,ヒトラーは「至上のボス」にのしあがり,その権威は「民主主義政権にかつて君臨したあらゆる権力者のそれを[……]凌駕している」と述べている。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.227

最悪の事態

ベルリンを訪れる二ヵ月前,マクドナルドは,巨大銀行ゴールドマン・サックスのヘンリー・ゴールドマンに会っていた。ゴールドマンもやはり,近いうちにベルリンに行く予定だということだった。マクドナルドは彼に,ドイツ新政府の苛烈な反ユダヤ主義は,ドイツの人々がどこかおかしくなっている兆候ではないかと言った。ゴールドマン・サックスを創設したドイツ系ユダヤ人移民の息子であるゴールドマンは,マクドナルドの質問を鼻であしらい,「そんなことはありません。ドイツの反ユダヤ主義など,アメリカの反ユダヤ主義と似たり寄ったりですよ」と言い切った。マクドナルドは以前からゴールドマンのことを「ドイツの擁護者」だと考えていた。しかし4月8日,ベルリンのアドロン・ホテルでふたたび顔を合わせたとき,マクドナルドはゴールドマンの変わりはてた様子に目を見張った。「彼はまるで,憔悴しきった老人のようだった」
 この国でさまざまなことを見聞きした結果,ゴールドマンは,ドイツに対する自分の見解を大きく変えていた。「ミスター・マクドナルド,15世紀や16世紀に起こった最悪の事態が,この20世紀に,しかもドイツ全土で復活しようとは,思ってもみませんでした」。マクドナルドがベルリンにはどのくらい滞在するのかと聞くと,彼は答えた。「耐えられなくなるまでです」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.171

ヒトラーの努力

マウラーによれば,ヒトラーとナチ党は,こうした場でつねに最大限の効果を得るために,あらゆる努力を惜しまなかったという。「ほかの人間が寝ているとき,彼らは働いていた。敵が1回話をするなら,彼らは10回話をした。ヒトラーはとくに個人的な接触,話し言葉,人となりを重視している」。そしてマウラーは,こんな不吉な一文を記している。「大衆をペテンにかける大掛かりなゲームにおいて,ヒトラーは並ぶ者のない達人だ」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.157

バーナム

ナチ党の運動に亀裂が入っているといううわさや,11月6日に行なわれた国会選挙でナチ党の得票が落ち込んだという事実もあり,これと似たような幻想を抱く者はシュライヒャーのほかにもいた。アメリカ大使サケットの場合はむしろ,第三党の共産党が議席を伸ばしたことのほうを気にかけていた。サケットは,左翼は極右よりも危険だとみなしていたのだ。共産主義の脅威に対抗するためには「当時はきわめて中央集権的な,多少軍事寄りの政権を持つことが重要なのはあきらかだった」とサケットは述べている。彼はワシントンに対し,ヒトラーはどうやら「自分ひとりによる支配」を狙っており,彼とゲッペルスは「さまざまなできごとを,自分たちの妄想や目的に都合のいいようにねじ曲げる名人で,また疲れを知らない雄弁家」であると報告するいっぽうで,その言葉の端々にはこのナチ党リーダーを馬鹿にしているような響きも感じられ,ヒトラーのことを「P.T.バーナム[1810〜91年。人気サーカス団を設立したことで有名]以来の大物芸人」と評していた。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.142-143

議席数

ニッカーボッカーがドイツのムッソリーニにはなり得ないと手紙に書いた男は,1932年春,2期目の大統領に挑戦する高齢のパウル・フォン・ヒンデンブルクの対立候補として出馬した。ヒトラーは健闘したが僅差の2位にとどまり,翌月には決選投票が行なわれることになった。2回目の投票では,ヒンデンブルクは1900万超,いっぽうのヒトラーは1300万超の票を獲得した。ヒンデンブルクはナチ党の暴行を抑制するため,突撃隊(SA)と親衛隊(SS)に対する解散命令の発動に同意したが,それでも社会全体に広がる不安を抑えることはできなかった。悪化を続ける経済状況が引き金となり,ストライキなどの抗議運動はその数を増していった。間もなく大統領はハインリッヒ・ブリューニング内閣を解散させ,後継の首相にフランツ・フォン・パーペン男爵を任命して,新たな総選挙の実施をうながした。もとはカトリック系の中央党の党員で,自分はナチ党をうまくコントロールできると考えていたパーペンは,ヒンデンブルクを説得してSAとSSへの禁止令の解除に同意させたが,この判断はたんにナチ党と共産主義との小競り合いを激化させただけに終わった。新首相——マウラーら特派員の彼に対する評価は,尊大で保守的というものであった——はこのほか,左派勢力を弱めるために社会民主党員を要職から追放し,また国防相クルト・フォン・シュライヒャーをヒトラーのもとに派遣して内閣への協力を要請したものの,ヒトラーはこれを一蹴した。
 1932年7月31日の総選挙で,ナチ党は230議席を獲得して大勝する。この数は2年前の選挙で獲得した議席の倍以上であった。これによりナチ党は国会の第一党となり,社会民主党は133議席で第二党に転落した。そのうしろには89議席の共産党,75議席の中央党が続いた。パーペンはヒトラーに副首相としての入閣を求めたが,選挙に大勝して勢い付くヒトラーには,パーペンの代わりに首相になる以外の条件を受け入れる気などさらさらなかった。交渉は失敗に終わり,1932年11月6日,ふたたび総選挙が行なわれた。このときナチ党は再度第一党となったが,34議席と200万票を失った。ナチ党の議席は196,社会民主党は121で第二党を維持し,共産党は100議席と支持を拡大した。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.120-121

悲しい一面

しかし,アメリカ人がふだん目にするごく普通のドイツ人の生活は,とうてい愉快などと言えるものではなかった。バークレーからの交換留学生イーニッド・キーズは,1931年11月17日の故郷への手紙に,ベルリンでの生活の「悲しい一面」について書いている。「通りを1ブロックでも歩けば,かならず目の見えない人,オーバーシューズに新聞紙を詰めて靴の代わりに履いている老女,手足がない人,物乞いをしたり,マッチや靴紐を売ったりしている白髪の元軍人を見かけます。背を丸めた,節くれだった手の老人たちが,寒さで青白い顔をしながら仕事を求めてうろつきまわり,寒々しい公園で小枝を拾い集めたり,側溝をさらって紙を探したりしています」。その翌日,キーズは,街の人々はさらに意欲を失っているように見えると書いている。「通りの物乞いは,恐ろしいほどに数が増えています」。女性たちが通行人に近づいては,お腹が空いているんです,子どもたちが「食べものが欲しくて泣いています」と懇願するのだという。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.117

フォードとヒトラー

未来のドイツのリーダーが口にしたこの言葉は,多くの示唆に富んでいる。ヒトラーはフォードの価値観に触れるずっと以前から,反ユダヤ思想を全身で呼吸するようにして生きてきた。だからヒトラーがフォードに賞賛の気持ちを抱くようになったきっかけとしては,フォードのユダヤ人に対する偏見があったのはもちろんだが,それと同じくらい,彼が自動車メーカーとして先駆的な仕事をしてきたことも大きかった。政権掌握後,ヒトラーはただちに,かねてより構想していたフォルクスワーゲン(大衆車の意)の製造に乗り出す。車は別の階級に属する人々を隔てるのではなく,結びつける道具となることを実践で証明してみせた「フォードの天賦の才」を,ヒトラーは信じていたのだ。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.97

反ユダヤ思想

当時は過激な反ユダヤ思想がはびこっていた時代であり,ヴァイマール共和国ばかりが特殊なケースだと見られていたわけではない。たとえばベルリンに1918年から20年まで滞在し,本人の弁によると,現地のアメリカ人記者団のなかで唯一のユダヤ人だったというベン・ヘクトは,ちょっと意外なこんな体験を語っている。「奇妙に思われるだろうが,ドイツにいた2年間,ユダヤ人であるわたしは,反ユダヤ主義運動など見たことも聞いたこともなかった。ドイツで過ごすあいだ,一度たりとも,Jew[ユダヤ人の意]という言葉が侮蔑的に使われたのを耳にしたこともなかった。[……]第一次大戦後のドイツで反ユダヤ主義運動について聞いたり,見たり,感じたり,気配を察したりする機会は,どの時代のアメリカよりも少なかった」
 あるいはヘクトは,以下に述べるふたつの理由から,あきらかな反ユダヤ的言論を意図的に見なかったことにしたとも考えられる。まずひとつ目の理由は,この問題に関して,アメリカ人は上から涼しい顔をして語るような立場にはないと彼が主張したかったため。もうひとつの理由は,第二次大戦とホロコースト直後の混乱期にこの文を書いたヘクトが,今回の惨事を招いた元凶は,平均的なドイツ人の国民性であるという理論を組み立てようとしていたためだ。ドイツ人はいくらか教養が高く学のある人物に見えたとしても,「個人の道徳観念よりも,指導者に従うという道徳観念のほうを優先していた」とヘクトは言う。別の言い方をすれば,ドイツ人は指導者の政策に魅力を感じて従ったのではなく,たんに指導者が忠誠を要求したため,それに従順に従っただけというわけだ。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.95-96

性文化

居住者であれ旅行者であれ,ドイツにいたアメリカ人にとって,この国の活気あふれる性文化はたまらなく魅力的だった。エドガー・マウラーはこう書いている。「大戦直後の時期には,世界中がセックスの喜びにあふれていたが,ドイツはまさに乱痴気騒ぎといった様相を呈していた。[……]なにしろ積極的なのは女性のほうなのだ。道徳観念,純潔,一夫一婦婚,さらには良識さえ,偏見と一蹴されてしまう始末だ」。マウラーはまた「性的倒錯」についても言及し,古い常識はまるで通用しないと驚きをあらわにしている。「当時のドイツ以上に寛容な社会など,想像することもできない」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.84-85

女性の活躍

リリアンの目から見たヴァイマール共和国での生活におけるもうひとつの印象的な側面は,女性の役割だった。リリアンが渡独した当時,国会には36名の女性議員がおり,この数は他のどの国よりも多かった。女性は大学で多岐にわたる学科——法律,経済,歴史,工学——を学んでおり,かつては男性に独占されていた職にも就いていた。さらにリリアンはベルリンで「一人前の屠殺人」にも会っている。マルガリーテ・コーンというこの女性は,木槌をひと振りしただけで雄牛を殺すことができたという。「ヴァイマール時代のドイツでは,女性は自分のやりたいことができた」とリリアンは書いている。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.79

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