I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「歴史」の記事一覧

神秘的で宗教的

翌日には,ヒトラーがなぜあれほど熱狂的な賞賛を受けているのかが,シャイラーにも少しわかりかけてきた。ルイトポルト・ホールで開かれた党会議の開会式を見学したシャイラーは,ナチスがここでやろうとしているのはたんなる「派手なショー」ではなかったと書いている。「そこには神秘的で宗教的な情熱が感じられ,まるでゴシック様式の壮大な教会で行われるイースターやクリスマスのミサのようだった」。色鮮やかな旗がひらめき,音楽を奏でていたバンドは,ヒトラーが威風堂々と入場してくるときにはピタリと静かになったかと思うと,ふいに耳馴染みのいい行進曲を演奏しはじめる。やがて「殉教者」の名前が順に読み上げられた。殉教者とは,あの失敗に終わったビアホール一揆で命を落としたナチ党員たちのことだ。「こうした雰囲気のなかでは,ヒトラーが発する一言一句が,天上から聞こえてくる御言葉のように感じられても不思議ではない」とシャイラーは書いている。「人間の——少なくともドイツ人の批判能力は,こうした瞬間には,どこかへ吹き飛んでしまうのだ」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.262

マスコミ対策

ナチ党はこのころになると,特派員を無理に追い出した場合,プロパガンダ合戦に負けることに気付きはじめていた。追い出された記者たちは,母国で一躍注目の的となるからだ。ナチ党はその代わり,新たな手段として,気に入らない相手に不名誉な罪を着せるというやり方を思い付いた。記者たちのところには,自分はナチスドイツに反対していると称するドイツ人が近付いてきて,極秘の軍事情報を提供すると言ってくるようになった。シグリッド・シュルツは,その手の男たちを一度ならず<シカゴ・トリビューン紙>のオフィスから追い出し,同僚たちにも,あいつらとはいっさい関わらないようにと言い含めていた。1935年4月のある日,シュルツが自宅に戻ると,留守のあいだに一通の封書が届いており,表には「重要情報」と書かれていたため,持ってきたのはどうやら例の男たちの仲間だと思われた。封筒を開けると,中身は飛行機のエンジンの設計図で,シュルツはすぐさまこれを暖炉で燃やした。もしこんなものが自宅で見つかれば,スパイ容疑の裁判で格好の証拠として使われてしまう。
 シュルツがオフィスに戻ろうと歩いていると,以前,秘密警察と会ったときに顔を見たことのある3人の男が,彼女の自宅のほうへ歩いているのを見かけた。シュルツは男たちの前に立ちふさがり,もうあの封筒は燃やしたから,わざわざ家に行かなくてもいいと告げた。3人は言葉を失って立ちすくみ,シュルツはタクシーを止めて,運転手に大声でアメリカ大使館へ行ってくれと告げた。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.259-260

反ユダヤ小冊子

ヒトラーの台頭を間近に見たアメリカ人記者たちが当時興味を持っていたのは,なぜ多くのドイツ人がヒトラーの運動に惹き付けられたかという議論ではなく,全面支配に向けて突き進むヒトラーの動向であった。働き者のニッカーボッカーは,1933年の春から夏にかけて,おびただしい数の記事を書き続け,ヒトラーがどこまで政権を掌握したのかについて詳細に伝えていった。「アドルフ・ヒトラーはアーリア人の救世主となった」とニッカーボッカーは書き,ヒトラーが「人種の純粋性」を保つための運動に全力を傾けていると説明した。そのころ発表された反ユダヤ主義者のための小冊子には,6種類のユダヤ人が列挙されていた。「血なまぐさいユダヤ人,嘘つきのユダヤ人,搾取するユダヤ人,堕落したユダヤ人,芸術界のユダヤ人,金融界のユダヤ人」。これについてニッカーボッカーはこう書いている。「こうした出版物が許されているという事実は,国外に出た難民たちの判断が正しかったことのなによりの証拠である」。また別の記事で彼は,ヒトラーは「至上のボス」にのしあがり,その権威は「民主主義政権にかつて君臨したあらゆる権力者のそれを[……]凌駕している」と述べている。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.227

最悪の事態

ベルリンを訪れる二ヵ月前,マクドナルドは,巨大銀行ゴールドマン・サックスのヘンリー・ゴールドマンに会っていた。ゴールドマンもやはり,近いうちにベルリンに行く予定だということだった。マクドナルドは彼に,ドイツ新政府の苛烈な反ユダヤ主義は,ドイツの人々がどこかおかしくなっている兆候ではないかと言った。ゴールドマン・サックスを創設したドイツ系ユダヤ人移民の息子であるゴールドマンは,マクドナルドの質問を鼻であしらい,「そんなことはありません。ドイツの反ユダヤ主義など,アメリカの反ユダヤ主義と似たり寄ったりですよ」と言い切った。マクドナルドは以前からゴールドマンのことを「ドイツの擁護者」だと考えていた。しかし4月8日,ベルリンのアドロン・ホテルでふたたび顔を合わせたとき,マクドナルドはゴールドマンの変わりはてた様子に目を見張った。「彼はまるで,憔悴しきった老人のようだった」
 この国でさまざまなことを見聞きした結果,ゴールドマンは,ドイツに対する自分の見解を大きく変えていた。「ミスター・マクドナルド,15世紀や16世紀に起こった最悪の事態が,この20世紀に,しかもドイツ全土で復活しようとは,思ってもみませんでした」。マクドナルドがベルリンにはどのくらい滞在するのかと聞くと,彼は答えた。「耐えられなくなるまでです」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.171

ヒトラーの努力

マウラーによれば,ヒトラーとナチ党は,こうした場でつねに最大限の効果を得るために,あらゆる努力を惜しまなかったという。「ほかの人間が寝ているとき,彼らは働いていた。敵が1回話をするなら,彼らは10回話をした。ヒトラーはとくに個人的な接触,話し言葉,人となりを重視している」。そしてマウラーは,こんな不吉な一文を記している。「大衆をペテンにかける大掛かりなゲームにおいて,ヒトラーは並ぶ者のない達人だ」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.157

バーナム

ナチ党の運動に亀裂が入っているといううわさや,11月6日に行なわれた国会選挙でナチ党の得票が落ち込んだという事実もあり,これと似たような幻想を抱く者はシュライヒャーのほかにもいた。アメリカ大使サケットの場合はむしろ,第三党の共産党が議席を伸ばしたことのほうを気にかけていた。サケットは,左翼は極右よりも危険だとみなしていたのだ。共産主義の脅威に対抗するためには「当時はきわめて中央集権的な,多少軍事寄りの政権を持つことが重要なのはあきらかだった」とサケットは述べている。彼はワシントンに対し,ヒトラーはどうやら「自分ひとりによる支配」を狙っており,彼とゲッペルスは「さまざまなできごとを,自分たちの妄想や目的に都合のいいようにねじ曲げる名人で,また疲れを知らない雄弁家」であると報告するいっぽうで,その言葉の端々にはこのナチ党リーダーを馬鹿にしているような響きも感じられ,ヒトラーのことを「P.T.バーナム[1810〜91年。人気サーカス団を設立したことで有名]以来の大物芸人」と評していた。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.142-143

議席数

ニッカーボッカーがドイツのムッソリーニにはなり得ないと手紙に書いた男は,1932年春,2期目の大統領に挑戦する高齢のパウル・フォン・ヒンデンブルクの対立候補として出馬した。ヒトラーは健闘したが僅差の2位にとどまり,翌月には決選投票が行なわれることになった。2回目の投票では,ヒンデンブルクは1900万超,いっぽうのヒトラーは1300万超の票を獲得した。ヒンデンブルクはナチ党の暴行を抑制するため,突撃隊(SA)と親衛隊(SS)に対する解散命令の発動に同意したが,それでも社会全体に広がる不安を抑えることはできなかった。悪化を続ける経済状況が引き金となり,ストライキなどの抗議運動はその数を増していった。間もなく大統領はハインリッヒ・ブリューニング内閣を解散させ,後継の首相にフランツ・フォン・パーペン男爵を任命して,新たな総選挙の実施をうながした。もとはカトリック系の中央党の党員で,自分はナチ党をうまくコントロールできると考えていたパーペンは,ヒンデンブルクを説得してSAとSSへの禁止令の解除に同意させたが,この判断はたんにナチ党と共産主義との小競り合いを激化させただけに終わった。新首相——マウラーら特派員の彼に対する評価は,尊大で保守的というものであった——はこのほか,左派勢力を弱めるために社会民主党員を要職から追放し,また国防相クルト・フォン・シュライヒャーをヒトラーのもとに派遣して内閣への協力を要請したものの,ヒトラーはこれを一蹴した。
 1932年7月31日の総選挙で,ナチ党は230議席を獲得して大勝する。この数は2年前の選挙で獲得した議席の倍以上であった。これによりナチ党は国会の第一党となり,社会民主党は133議席で第二党に転落した。そのうしろには89議席の共産党,75議席の中央党が続いた。パーペンはヒトラーに副首相としての入閣を求めたが,選挙に大勝して勢い付くヒトラーには,パーペンの代わりに首相になる以外の条件を受け入れる気などさらさらなかった。交渉は失敗に終わり,1932年11月6日,ふたたび総選挙が行なわれた。このときナチ党は再度第一党となったが,34議席と200万票を失った。ナチ党の議席は196,社会民主党は121で第二党を維持し,共産党は100議席と支持を拡大した。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.120-121

悲しい一面

しかし,アメリカ人がふだん目にするごく普通のドイツ人の生活は,とうてい愉快などと言えるものではなかった。バークレーからの交換留学生イーニッド・キーズは,1931年11月17日の故郷への手紙に,ベルリンでの生活の「悲しい一面」について書いている。「通りを1ブロックでも歩けば,かならず目の見えない人,オーバーシューズに新聞紙を詰めて靴の代わりに履いている老女,手足がない人,物乞いをしたり,マッチや靴紐を売ったりしている白髪の元軍人を見かけます。背を丸めた,節くれだった手の老人たちが,寒さで青白い顔をしながら仕事を求めてうろつきまわり,寒々しい公園で小枝を拾い集めたり,側溝をさらって紙を探したりしています」。その翌日,キーズは,街の人々はさらに意欲を失っているように見えると書いている。「通りの物乞いは,恐ろしいほどに数が増えています」。女性たちが通行人に近づいては,お腹が空いているんです,子どもたちが「食べものが欲しくて泣いています」と懇願するのだという。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.117

フォードとヒトラー

未来のドイツのリーダーが口にしたこの言葉は,多くの示唆に富んでいる。ヒトラーはフォードの価値観に触れるずっと以前から,反ユダヤ思想を全身で呼吸するようにして生きてきた。だからヒトラーがフォードに賞賛の気持ちを抱くようになったきっかけとしては,フォードのユダヤ人に対する偏見があったのはもちろんだが,それと同じくらい,彼が自動車メーカーとして先駆的な仕事をしてきたことも大きかった。政権掌握後,ヒトラーはただちに,かねてより構想していたフォルクスワーゲン(大衆車の意)の製造に乗り出す。車は別の階級に属する人々を隔てるのではなく,結びつける道具となることを実践で証明してみせた「フォードの天賦の才」を,ヒトラーは信じていたのだ。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.97

反ユダヤ思想

当時は過激な反ユダヤ思想がはびこっていた時代であり,ヴァイマール共和国ばかりが特殊なケースだと見られていたわけではない。たとえばベルリンに1918年から20年まで滞在し,本人の弁によると,現地のアメリカ人記者団のなかで唯一のユダヤ人だったというベン・ヘクトは,ちょっと意外なこんな体験を語っている。「奇妙に思われるだろうが,ドイツにいた2年間,ユダヤ人であるわたしは,反ユダヤ主義運動など見たことも聞いたこともなかった。ドイツで過ごすあいだ,一度たりとも,Jew[ユダヤ人の意]という言葉が侮蔑的に使われたのを耳にしたこともなかった。[……]第一次大戦後のドイツで反ユダヤ主義運動について聞いたり,見たり,感じたり,気配を察したりする機会は,どの時代のアメリカよりも少なかった」
 あるいはヘクトは,以下に述べるふたつの理由から,あきらかな反ユダヤ的言論を意図的に見なかったことにしたとも考えられる。まずひとつ目の理由は,この問題に関して,アメリカ人は上から涼しい顔をして語るような立場にはないと彼が主張したかったため。もうひとつの理由は,第二次大戦とホロコースト直後の混乱期にこの文を書いたヘクトが,今回の惨事を招いた元凶は,平均的なドイツ人の国民性であるという理論を組み立てようとしていたためだ。ドイツ人はいくらか教養が高く学のある人物に見えたとしても,「個人の道徳観念よりも,指導者に従うという道徳観念のほうを優先していた」とヘクトは言う。別の言い方をすれば,ドイツ人は指導者の政策に魅力を感じて従ったのではなく,たんに指導者が忠誠を要求したため,それに従順に従っただけというわけだ。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.95-96

性文化

居住者であれ旅行者であれ,ドイツにいたアメリカ人にとって,この国の活気あふれる性文化はたまらなく魅力的だった。エドガー・マウラーはこう書いている。「大戦直後の時期には,世界中がセックスの喜びにあふれていたが,ドイツはまさに乱痴気騒ぎといった様相を呈していた。[……]なにしろ積極的なのは女性のほうなのだ。道徳観念,純潔,一夫一婦婚,さらには良識さえ,偏見と一蹴されてしまう始末だ」。マウラーはまた「性的倒錯」についても言及し,古い常識はまるで通用しないと驚きをあらわにしている。「当時のドイツ以上に寛容な社会など,想像することもできない」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.84-85

女性の活躍

リリアンの目から見たヴァイマール共和国での生活におけるもうひとつの印象的な側面は,女性の役割だった。リリアンが渡独した当時,国会には36名の女性議員がおり,この数は他のどの国よりも多かった。女性は大学で多岐にわたる学科——法律,経済,歴史,工学——を学んでおり,かつては男性に独占されていた職にも就いていた。さらにリリアンはベルリンで「一人前の屠殺人」にも会っている。マルガリーテ・コーンというこの女性は,木槌をひと振りしただけで雄牛を殺すことができたという。「ヴァイマール時代のドイツでは,女性は自分のやりたいことができた」とリリアンは書いている。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.79

当然のように

歴史のなりゆきというのは,あとから振り返ったときにだけ,当然の帰結のように感じられるものだ。しかしそのなりゆきを目の前で見ていたアメリカ人たちが下した判断は,さまざまな要因の上に成り立っていた。個々の性格や,彼らが目撃したそれぞれに異なる現実の断片もあるし,またときには自分が見たいものだけを見ていたこともあっただろう。それが実際には,正反対の意味を持っていたとしてもだ。シュルツはアメリカとドイツがふたたび交戦状態にはいったあとで,レーダーが1919年に語った言葉を引き合いに出しつつ,ヒトラーの運動は,先の大戦の敗北によって誘発された憎悪がもたらした当然の帰結だという持論を展開してみせた。しかしその他多くのアメリカ人は,第一次世界大戦後の混乱期に自分たちが受けた温かいもてなしが忘れられず,あの戦いの犠牲が大きかった分だけ,ドイツ人にとってはそれが教訓になっているはずだという思いを捨て切れずにいた。<シカゴ・トリビューン>のライバル紙,<シカゴ・デイリー・ニューズ>のベルリン特派員であったエドガー・アンセル・マウラーによれば,1920年代には「ドイツにいたアメリカ人の多くが,大戦での敗北,屈辱,インフレ,内政の混乱によって,ヨーロッパの覇権を狙うのは愚かな行為だとドイツ国中が悟ったはずだと,心から信じていた」という。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.13-14

カップルの心中

が,時代はまだまだ多くの同性愛者を死に追いやっていました。それは西洋だけのことでも,男性同性愛だけのことでもありません。たとえば日本においても,1873年(明治六年)〜1926年(大正十五年)の記録に残る限り,女性同士のカップルが28組も心中しています。互いが恋愛関係にあったとはっきりしているのは28組のみですが,はっきりしないケースも含めれば,実に121組・242名もの女性たちが,女性ふたりで手に手をとって心中しているのです。

牧村朝子 (2016). 同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル 星海社 pp.83

スウェーデンの不妊手術合法化

スウェーデンでは1915年に婚姻法が改正され,知的障害者,精神病患者,そしててんかん患者の婚姻が禁止された。しかし,20年代に入って,議論はさらに断種法の制定へと拡大する。国会での約10年にわたる議論を経た後,スウェーデンの断種法(正式名「特定の精神病患者,精神薄弱者,その他の精神的無能力者の不妊化に関する法律」)は,「国家の家」(folkhem)を標語に,福祉国家の確立を訴えたハンソン社民党政権下で,1934年5月に制定された。
 この法律によって,精神病患者,知的障害者に対する不妊手術が合法化された。その第一条は「精神疾患,精神薄弱,その他の精神機能の障害によって,子どもを養育する能力がない場合,もしくはその遺伝的資質によって精神疾患ないし精神薄弱が次世代に伝達されると判断される場合,その者に対し不妊手術を実施できる」と定めている。その際,重要なのは,手術は,保健局の審査ないし医師の鑑定にもとづいてなされ,本人の同意は不要とされたことである。その理由は,この法律がそもそも不妊手術の対象としている人びとは,その障害ゆえに自己決定能力を期待できないとされたことにある。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 118-119

ナチスの優生政策

1933年の断種法は始まりにすぎず,ナチス政府は優生政策の射程を次々と広げていった。
 同年11月には「常習犯罪者取締法」が可決される。ここでターゲットにされたのは,いわゆる「精神病質者」(Psychopath)だった。この「疾患」を遺伝病として断種法に組み込むことは,当時としてもさすがにはばかられ,不妊手術の対象にはならなかった。一方,当時のドイツ刑法第51条は,犯罪者とされた者が心神喪失にある場合,例えば「精神病質者」と認定された場合には,その免責を規定していた。当時の少なからぬ精神科医や司法関係者は「精神病質者」を野放しにするなと政府に迫った。常習犯罪者取締法は,刑法第51条で免責される者を各施設で拘禁し,性犯罪者については去勢手術も認めるというものだったが,この法律によって拘禁された人びとに対しては,出所と引き換えに不妊手術を実施するケースもあった。
 1935年6月には「遺伝病子孫予防法」が改正される。ワイマール期に社民党の一部,急進派フェミニスト,そしてドイツ共産党(1918年に[独立]社民党より分岐)は,経済的理由を含めた妊娠中絶の合法化を強く求めたが,この時期には,妊婦の健康と生命が危ぶまれる場合の中絶が「緊急避難権」として認められるようになっただけだった。35年の「遺伝病子孫予防法」改正を通じて,ナチス政府は,こうした母体保護の中絶と同時に,さらに優生学的理由による中絶を合法化し,33年の断種法で列挙された疾患のいずれかに該当する女性が妊娠している場合,その中絶を認めるようにした。その際の条件は,本人の同意を得ること,妊娠6ヵ月以内であること,妊娠女性の生命および健康を危険にさらす場合には禁止,の3つである。しかし,その実施に関する政令は,断種法と同様,本人に同意能力がない場合,「法定代理人もしくは保護者」の代理同意でよいとしていたため,必ずしも本人の同意が必要とされたわけではなかった。実施件数は約3万件と推定されている。
 1935年10月には「婚姻健康法」(正式名「ドイツ民族の遺伝的健康を守るための法律」)が制定される。この法律によって,結核や疾病,断種法に規定された「遺伝病」,あるいは精神障害などをもつ人々の婚姻が禁止され,また,婚姻に際しては,これらの病気や障害のないことを証明する「婚姻適性証明書」を前述の保健局からもらうことが,すべての者に義務化された。しかし,保健局はすでに手一杯の業務を抱え込んでいたため,すべてのカップルに検診のうえ証明証を発行することなど不可能だった。検診は当初「疑わしい」場合にのみ限定されたが,それも第二次大戦勃発後は実施されなくなった。
 その一方で,健康なドイツ人については,婚姻や出産に際する特別の貸付金制度や,多産の女性を讃える「母親十字勲章」制度を創設しながら,「産めよ,殖やせよ」の政策が推し進められ,避妊や中絶は以前よりもいっそう厳しく取り締まられるようになった。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 95-96

優生学と戦争反対

今日,少なからぬ人が,優生学は,戦争に向けた富国強兵政策の1つであると考え,またその視座から優生学を批判する。そういう事実がまったくなかったわけではないが,しかし,この見方は今世紀の優生学のかなりの部分を逆に見えなくさせる。前述のシャルマイヤーをはじめ,多くの優生学者たちは,戦争を「逆淘汰」(生物学的に「優秀」な者が減り,「劣等」な者が逆に増えること)の1つとして真っ向から批判したのである。
 プレッツは,優生政策を実現するうえで,ヒトラーに大きな期待をよせ,ナチスに接近していったが,同時に,戦争回避と平和の維持をもヒトラーに懇願していたのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 75-76

絶対移民制限法

1921年には,1910年国勢調査の人口構成比の3パーセント以下に移民を抑える移民法が成立していたが,ローリン報告はその成立後であった。そこで彼は,その基準年を,イタリアやポーランド移民が急増する以前の,まだノルディック系やチュートン系白人が優勢であった1890年国勢調査に戻すよう,議員を説得してまわった。このロビー活動は両院で成功し,クーリッジ大統領もこれにサインした。こうしてローリンは,断種法と移民制限法の双方の優生政策に,多大な影響を残したのである。
 このような事情で成立した1924年の絶対移民制限法によって,以後のアメリカへの移民は1890年国勢調査の出身国の人口構成比の2パーセント以内に制限されることになった。この国勢調査は定義上のフロンティア消滅が確認された(1平方マイルあたり人口1人以下の土地はなくなった)ことで有名だが,絶対移民制限法によって東欧・南欧からの移民は,事実上不可能になった。これよりはるか以前に中国移民は禁止されており,日本からの移民も,日本側が送りださないということで政治的決着がついていた。この移民制限法は,アメリカは建国以来,WASP(白人,アングロサクソン,清教徒)が築き上げてきた国であり,これ以外の移民は拒否すると言っているのと同じであった。1965年の移民国籍法に変わるまで,アメリカの移民政策には,人種差別的な性格がつきまとい続けたのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 43-44

1879年

心理学史という領域において,年号を暗記して何かを考えなければいけないことはほとんどないが,1879年という年は重要な年であるから覚えておいて損はない。この年はドイツの心理学者ウィルヘルム・ヴントがライプツィヒ大学に心理学実験室を設立した年,ということになる。実際には少し異なるのだが,意味合いとしては,心理学を学ぶ学生を組織的に訓練して卒業させることができるような制度が整った年,である。この——近代心理学の祖ともいえる——ヴントは極めて多作の人であった。しかし,その後,彼の心理学に関する著書はあまり顧みられていない。一方,思想としての心理学に関して現代でも読み継がれているのが,ジェームズの著作である。こうしたことから,今日の心理学史では,ヴントと並んでジェームズを心理学の父と呼ぶことになっている。

サトウタツヤ (2015). 心理学の名著30 筑摩書房 pp.21

木戸を突かれる

寄席演芸会の最後のピークとも言える東京オリンピックが開かれた昭和三十九年から大阪万博の催された昭和四十五年にかけて,おびただしい数の入門志願者があった。
 テレビは白黒からカラーに代わり,『笑点』『お笑いタッグマッチ』『お笑い七福神』『大正テレビ寄席』等々,いくつもの寄席番組が人気を博した。関西に,松鶴,米朝,小文枝,春団治の四天王はいたものの,まだ可朝,仁鶴,三枝のブームはこなかった。マスコミにおける演芸会のスターは,東京の落語家だった。団塊の世代と呼ばれる若者はそんな姿に憧れ,こぞってその門を叩いたのである。
 昭和四十五年一月,人形町末広がその幕を閉じた。談四楼は,客としてそれを見た。マスコミ人気と観客動員との間に,微妙なズレが生じていた。
 談四楼が落語家になった昭和四十五年三月,すでに高座のない二ツ目があふれていた。人形町末広の後を追うように,目黒名人会の灯が消えたのは昭和四十六年のことだった。六軒の定席が四軒に減り,二ツ目には高座がない。その傾向は,昭和五十年代に入って更に拍車がかかったようだ。
 「あ,もしもしお客様,入場料を……」と客に間違われる,いわゆる木戸を突かれるという現象があちこちで見られた。寄席の従業員が,滅多に会うことのない二ツ目の顔を,あるいは多過ぎる二ツ目の顔を,覚えないのである。

立川談四楼 (2008). シャレのち曇り(文庫版) ランダムハウス講談社 pp.184-185

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